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『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)―全国集会ゼミナールの記録―(1/3)[全文] 


≪特集≫

『君たちはどう生きるか』
(吉野源三郎):作品と作者をめぐって
作品を読む/作者の生涯と仕事/さまざまな評価/検討課題メモ
付・関連作品
[目次]


 
  『飛ぶ教室』(ケストナー) と 『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)    《検討課題メモ》
 ――吉野さん、ケストナーを特に研究したわけではないでしょうが、ドイツ哲学、ドイツ文学に造詣の深い人だから、あの時期、目配りすればケストナーに注目するはずですよね。それに編集主任として日本少国民文庫『世界名作選(一)』(1937年)に高橋健二訳の「点子ちゃんとアントン」を入れているわけだから、知らないわけはない。『飛ぶ教室』と『君たちはどう生きるか』。一つのテーマになりますね。(下記著書所収「<座談会>『飛ぶ教室』を語る」より)    
 [<座談会>抜粋]
 
 ★児童文学から成人文学まで ケストナー文学の全体像を浮彫りにする
   『ケストナー文学への探検地図――「飛ぶ教室」/「動物会議」の世界へ
    文学教育研究者集団 編 (こうち書房刊)                      [Book Review]

 
機関誌『文学と教育』第225号
[目次]
12/31  J-STAGE 公開  
  大学セミナーハウス「利用者ご紹介」

(文教研は1970年以降、長期にわたり大学セミナーハウスを利用させていただいています。)
[参照] 

 『文学と教育』(創刊号~225号)の J-STAGE登載完了(12/31)[『文学と教育』巻号一覧]
……『文学と教育』全既刊号の記事にフリーアクセスできる……
【J-STAGE 利用法↓】
巻号について(1992年発行の160号<特集号:熊谷孝 人と学問>を例に)
   ・
[『文学と教育』巻号一覧]画面の左列(表紙画像下)に<巻号一覧>表示される。
   ・J-STAGEでは号の発行年として設定されることになっている。
   ・本誌は本来を持たないが、160号の巻は自動的に1992巻となる。
   ・さらに、にはその発行年を( )内に示す決まりなので、1992巻(1992)と表示される。
   ・の右方にある「+」印をクリックすると、その巻に属する158号~160号が下部に示される。
標題と本文の表示

  
[『文学と教育』巻号一覧]で目的のをクリックすると、右の列に標題が示される。
   標題の下部にある<PDF形式でダウンロード>をクリックすると、各記事の本文画面が開く。

                         
[詳細]

2017文教研秋季集会参加者の声(11/28)[秋季集会参加者の声]

-----------終了-----------

2017年 文教研秋季集会
王様は裸だ! でも 「今さら、やめるわけにはいかない」
――
アンデルセン「皇帝の新しい着物」――


2017年11月26日/渋谷区勤労福祉会館

[詳細]
 


【次回例会予定】

4月28日

川崎市総合自治会館
(武蔵小杉)


1 全国集会プログラム

2 『漫画 君たちは~ 』


[詳細]



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《 特集 》
 

いま、なぜ、
『君たちはどう生きるか』
(吉野源三郎)


[もくじ]



…新刊…

『戸坂潤セレクション』
林淑美 編

平凡社ライブラリー
2018.1.10発行


[抄録]



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  『芸術の論理』 《抄録》 《再読》巻頭言 熊谷孝講演記録  吉野源三郎 よむ年表 花森安治 よむ年表
     
         《再読》巻頭             『 文学と教育 』 №154   1990.11
    
  全国集会を終えて   常任委員 金井 公江   

 八月の全国集会は、「政治と文学・文学教育――虚構精神の確立のために――」を統一テーマとして開かれた。集会が終わった今、私たちは新しい足場、出発点に立つことができているだろうか。また、先のテーマに向って「あいさつ」、「基調報告」、「講演」、「シンポジュウム」、「ゼミナール」が、それぞれ統一的になされていたか。プログラムのダイナミックな構成が生かされる形で集会は進んだのだろうか。
 年間研究プログラム作成は全国集会が終わると直ぐに取り組まれる。短期間でこれを作り上げるのは身を削る緊張をしいられるであろう。文教研集団研究体制と言ってもプラン作りを全員ですることは不可能である。牽引的役割を担って下さる方々に頼らざるを得ない。大きな枠組で示されるそのプランを会員一人一人が主体的に受け止め、検討を重ね、年間研究プランはできあがる。全国集会プランも同様である。
 それを一体の彫像を彫り上げていく行程に喩えるなら、まず彫り上げたい像のイメージを固めることから始まる。それは彫り上げることを求められている像と言っていいかもしれない。分担課題ということを頭に置いた上での我々の時代の問題をさぐる作業と言い換えられようか。あるイメージが摑まれてきた時点で、全員で検討し合う。そして彫りにかかる。腕の良い人も、悪い人も居る。さまざまな力量の会員が力を合わせ、補い合いながら、検討したイメージの像に近づける努力をしつつ彫り進む。初期の段階でかなり鮮明なイメージを摑んで仕事に取り掛かっている人、彫っていくことでイメージがはっきりしてくる人、かなり像が出来上ってからやっと全体像が摑める人、いろいろだ。出来上った像が初めのイメージに近づいたものになる場合や、それを越えたものになっている場合は成功である。不幸にしてイメージを下まわる像が彫り上ってしまう場合だってある。今次集会はどうだったのだろう。
 この過程で重要なことは、仲間の先達に学ぶということだ。仲間のすぐれたものを自己の内に組み入れ、自分を絶えず変革しつづけながら作業に加わることだ。「芸は盗むもの」という言葉がある。上手に盗みたい。作業の中で自分が変わり、集団全体ですることの難しさを感ずる。が同時にそのことによるすばらしさと楽しさがあるはずである。
 今年の全国集会プログラムの前文は「今日は思想の混迷の時代である
……」と書き出されている。「思想の混迷の時代」ということは、当然のことながら時代そのものが混迷しているということではない。前文の言葉を借りれば、「各人の行動選択の基準となるプシコ・イデオロギーの動揺という意味での思想の混迷の時代である。」ということである。昨年末の東欧の変化、今また揺れ動いている中東、それに対する日本政府の姿勢、これらが我々の日常の言動に揺さぶりを掛けてきている。特定の分析、特定の視点に立ったマス・コミ報道は多量に流しつづけられている。その中に首までつかっていたのでは事態は見えてこない。それらを一度突き放し、虚構の眼で、可能な現実を探らないかぎり未来は見えてこないのだと思う。日常の中で、虚構を武器として未来を拓いていくための眼を培うのは、すぐれて、虚構精神の横溢した文学による。虚構精神――可能性、可変性を探る精神のあり様――、それの客観化されたものが文体である。文体なくして虚構は客観化され得ない。すぐれた文体を獲得したい。そのことに向けて、仲間に学びながら研究姿勢を正していきたいと思っている。(20180416)

 
 
      [《再読》巻頭言]

  
 
≪抄録≫
    道徳に関する文学的観念 戸坂 潤
     〔 『道徳論』 1936 . 5 / 『戸坂潤セレクション』 2018 . 1 〕  


■(…)さて私はどうやら道徳・モラルの問題に帰ることが出来るようだ。以上述べた科学的概念と文学的影像との関係、科学と文学との関係、の内に、正にモラル(文学的観念による道徳)なるものが横(よこた)わるだろうからだ。
 モラルは自分一身上の問題であった。尤(もっと)も之は何も個人道徳(、、、、)を意味するものでもないし、又道徳が個人的なのもだというのでもない。個人が自分(、、)と別だということは既に述べた処だ。寧(むし)ろモラルは常に社会的モラルだ。社会機構の内に生活する一人の個人が、単に個人であるだけでなく正に「自分」だということによって、この社会の問題は所謂(いわゆる)社会問題や個人問題としてではなく、彼の一身上の(、、、、)問題となる。一身上の問題と云っても決して所謂私事(、、)などではない。私事とは社会との関係を無視してよい処のもののことだ。処が一身上の問題は却(かえ)って正に社会関係の個人への集堆の強調であり拡大であった。社会の科学的理論の体系も(また)、この一身上の問題を単に私事として顧みずにおくことは出来ない。モラルはこうしたものだと云うのである。――科学的概念が文学的表象にまで拡大飛躍することは、他でもないので、この科学的概念がモーラライズされ道徳化されヒューマナイズされることだ。この概念が一身化され(、、、、、)自分というものの身につき(、、、、)、官能化されることだ。今や、自分(、、)モラル(、、、)文学(、、)は一続きの観念なのである。社会の問題が身についた形で提出され、自分一身上の独特な形態として解決されねばならぬということが、文学的モラルを社会科学的理論から区別する処のものだ。(…) p.249-250    (20180415)

 [《抄録》戸坂潤]


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