「あとがき」 にみる 『文学と教育』 63年の歩み ―― 抄録・「あとがき」/「編集後記」 ――
 
  J-STAGE『文学と教育』(電子版)
 1958.10.--   創刊号 ▼編集後記 かなりやっつけ仕事だったが、ともかくも「文学と教育」創刊号の編集を終った。次号からは、もうすこし時間の余裕をもって、じっくりと編集にとりくみたいと思っている。(A・O・S)
文学と教育の会
創刊号
B5判 ガリ版刷り14頁
1958.11.30 第2号 ▼十一月二十二日(土)、木村さんの参加をえて拡大編集会議を開く。前回きめた仕事のほかに、私たちのサークルに対する、各方面の反響を一つにまとめることにし、ただちに木村さんに依頼。また、「改訂学習指導要領」に関する文献リストを作成し、できたら一行解説を附すことを相談。(A・O・S)   
1959.03.05 第5号 ▼おくれましたが、熊谷先生の玉稿をいただけたのが大収穫でした。(と、断言してもよろしいでしょうか?)「国語教育としての文学教育」は、近刊予定の『国語教育と文学教育』のトップ原稿です。▼大方の勢いは、新指導要領は無批判に受け入れられつつある。我々はくり返してこれに批判を加えて来た。この批判を力とするためにも、と考えております。▼教育研究所主催の新指導要領研究会に参加された方は、感想をお寄せ下さるよう願います。(O)   
1959.04.05 第6号 ▼No.6には、熊谷先生の〝原則と現実的と〟をいただいた。改訂指導要領返上闘争は、勤評闘争の重要な一環だ、というご指摘には双手をあげて賛成する。/私たちは、研究意識に基盤をおいたサークル活動を行なっていこう。そのためにも、機関誌をもっともっと充実させていきたい。皆さんのご協力を希望します。(I・O)  
1959.07.21  第9号 ▼9号は、今までの研究報告一本の編集に、さらに幅をもたせるように努力してみました。/その意味で、小川勇さんの実線記録〝倍も倍もぼくはしあわせです〟は、力作ぞろいの9号の中で、多くの問題点をなげかけているように思われます。〔…〕 ▼ところで、わたしたち教師が、めいめいの持ち場で実戦している成果を、その場かぎりのものにしてしまわないためにも、相互の体験を交換し、批判しあっていくことが、当然必要になってきます。私たちのサークル自体が、不十分にせよ、当初から、そういう交流を続けてきたわけです。〔…〕(Y・A)  
1959.09.11  第12号 ▼12号は、熊谷先生にたいへんご迷惑をおかけ致しまして、〈古典教育の視点〉をいただきました。〔…〕(□)  
1960.01.-- 第14号 【サークルの皆さんへ】 ▽サークルの改名 私たちは、過去一年半、真文学教育を目ざして、地道な学習活動を続けてまいりました。/そのかん、〝文学教育の会〟との合流・提携もはかりました。が、いろいろな事情で、二月二十六日、小川事務局長をはじめ六名は、〝文学教育の会〟を退会することを決め、その旨を、委員会代表、久米井氏に伝えました。/これを機会に、サークルの名称を[文学教育研究者集団]と改称し、従前の学習活動と共に、より積極的な、文学教育運動へものり出そうと、決意いたしました。その一つとして、別記四月研究集会の計画もすすめています。/サークル全員に相談する機会を得ず、いささか独断的な処置であったことを、おわびいたします。と共に御諒解の程を、お願いいたします。▽会員確認の件 これを機会に、会員の確認をいたしたいと存じますので、御面倒でも同封の葉書に記入のうえ、返信ください。/なお、会誌・会費・常時活動につきましては、会員確認のうえ、相談いたしたいと存じます。
▼No.14は、上記のような事情で、たいへん遅くなりました。お許しください。〔…〕▼たぶん、No.14が最後になる、と思うと、編集部としては、いちまつの淋しさは禁じ得ません。しかし、新しい会にふさわしい企画のもとに、更に充実したものへ発展することを期待して――。/おわりに、短かい期間ではありましたが、私たち編集部によせられた厚意に厚く御礼申しあげます。と共に、皆さんの意にそえなかったことを、深くお詫びいたします。
文学教育研究者集団と改称
1960.06.-- 第16号 ▼お待たせいたしました。編集部といたしましては、一刻も早くと思ってはいましたものの、四月集会の整理や、安保問題やらでつい――、おわびいたします。▼四月集会で、おおぜいの方が誌友になってくださいました。これを契機に更に充実した企画を、と編集部も、新会員、熊谷映子さんを迎えて張り切っています。(福田隆義)  ・15号より
B5判 タイプ版 
1960.12.20  第18号 ▼18号は大阪グループで編集しました.抱負はものすごく大きかったのですが、ごらんのとおり、意図どおりまいりませんでした。発行がたいへんおくれたこととあわせておわびします。▼高校の教育課程の改訂は、たんに高校だけの問題ではありません。小・中・大学へと直接ひびいていく問題です。巻頭の論稿[注 荒川有史「ことばと認識:文学教育の視点から」]の批判をとおしてご検討を。   
1961.05.20 第20号 ▼私たちが、問題にしてからもう何年になるでしょうか、どうやら、国語教育界にも、第二信号系の理論が話題になってきたようです。そういう意味で、荒川論文[注 荒川有史「コトバと認識:第二信号系理論にふれて」]にスペースを割きました。/誌上討論を展開したいですね。ご意見をおよせください。   
1961.07.20 第21号 ▼最近は、出版社や、大学関係からは、この誌に対するご意見をいただきますが、一般誌友の方からの反応がないので淋しく思っています。どうか、ご批判なり、ご意見をおよせください。  
1963.05.25 第28号 〔…〕▼4月以降、特に四月二十八日からはトッカン作業と称して研究活動を集中的におこないました。/文学教育の問題点を明らかにすると同時に、指導過程の諸問題を究明し、文学教育の体系化へ、というのがわたしたちのねらいであり、また、願いでもあります。/『文学と教育』二十八号は、発表の要点を明らかにしようとして編集されたものです。集会当日の発表、また、討議とあわせながら、読んでいただきたいと思います。   
1963.10.10 第30号 ▼次号からは、体系化をめざして、具体的作品の、典型的な展開例を載せたいと思っています。会員・誌友の方々の投稿をおまちします。  
1965.10.01 第35号 ▼『文学の教授過程』を世に問い、さらに中学校編にとりかかっている文教研にとって、第十二回集会は、過去十一回の集会とは、ちがった意味があります。いわば〝転機〟の集会であったわけです。そうしたちがいがわかっていただけるような編集にしたつもりですが……。残念なのは、執筆者に充分なスペースがさけなかったことです。/それでも、文教研のサムライたちの個性が、みじかい文章の中に、にじみでていると、編集部では思っています。まだ、おめにかかっていない誌友の方々も、執筆者のイメージがうかびあがってくるのではなでしょうか。/いま一つ、十二回集会が、文教研の〝転機〟なら、「文学と教育」の編集にも、かつてなかったことが一つ。それは、原稿がしめ切り前に揃ったことです。編集部としては、ただ感謝。そして、No.35が〝転機〟であってほしいと……。(編集部)   
1965.12.15  第36号 ▼隔月刊の約束を守るために、がんばりました。/これから、『文学の教授過程』中学校編のおいこみにかかります。/小学校編の反省に立って、もっといいものをとねがっています。/みなさん、いいお年をおむかえください。   
1966.05.20      第38号   【おくれて すみません】38号が、たいへんおくれてしまい、申しわけなく思います。/新しい本のこと。/夏の集会のこと。/ホット・ニュースをたくさんのせたかったことが、おくれた一つの原因。/もう一つは、だれかさんの原稿(とくに名を秘す)がおくれてどうにもならなかったこと。編集部は連日矢のような催促をしたのですが。/おくれを次号ではとりもどしたいと思います。〔…〕        
1966.11.20   第41号 ▼待望の熊谷孝著『言語観・文学観の変革と国語教育』が出版されました。文教研にとってはもちろん、日本の国語教育・文学教育にとって、大慶事です。/この機関誌が、お手もとに届くころには、店頭にも出ているはずです。おおいに検討し、うんと吸収し、熊谷理論をのりこえていきたいものです。〔…〕   
1967.01.20  第42号 ▼今、この冊子を編集している最中に、全国教研会場(三重県)の、夏目氏から長距離電話がはいりました。/「参加者の多くが、わたしたちの主張を支持してくれた。……」/という意味の、うれしい電話です。〔…〕▼ところで、一九六七年、文教研最大の課題は「第三の出版」の脱稿にあります。が、それだけにとどめず、わたしたちの論理をみがくため、第二期戸坂ゼミ(科学論)をはじめました。テキストは、新刊『戸坂潤全集・第一巻』(勁草書房)です。▼なお、熊谷孝著『言語観・文学観と国語教育』は、残部がすくなくなりました。事務局をとおせば、前号でお知らせした割引をいたします。まだの方は、事務局をご利用ください。   
1967.03.20  第43号 ▼今年度初の試みであるグループによる機関誌編集の第一陣を承った横浜グループの面々は、大いに張り切って、その編集会議を三月五日に鈴木氏宅、三月二十一日に夏目氏宅で二回にわたって深更に及ぶまで大変熱心に行ないました。〔…〕今回のグループによる編集会議の収穫は、グループの活動を高めるためにお互いにダベリ合う機会を多く持たなければならない事を自覚し、その実行を考えたことです。/横浜グループの今後の活動を乞御期待。(村上)/ねむくないのが不思議でした。あしたの朝には責任をもちませんが。(芝崎)/みんなで仕事をすることって、とても楽しいことですね。京都の遠藤兄の報告をまとめながら、とても勉強させてもらいました。文教研がウーンと身近かになった感じ。横浜グループはハッスルしますぞ。(鈴木)〔…〕   
1967.05.25 第44号  〔…〕▼五月も終わりになれば、夏の民間団体合宿集会日程も出そろいます。/わたしたち文教研も、本誌(P14)でご案内のように、「安房文学教育の会」と共催で、合宿集会を計画しました。再会を期待しています。〔…〕   
1967.07.15 第45号 ▼No.45は、館山集会特集として、提案・報告の要旨も加え、増頁を予定していました。が、千葉・宮城など地方の提案・報告者との連絡がうまくいきませんでした。そこで、熊谷孝を中心とした「基調提案」と、荒川有史の実践を掲載することにしました。「基調提案」に関係する資料をお読みになって、集会に参加くださるよう、お願いします。〔…〕    
1967.09.20 第46号  ▼いつもながら、夏の休みにはいって、林間だの臨海だのと、現場教師が忙殺されているさなかに「小学校教育課程改訂中間報告」の発表。何から何まで計算づくめのやり口が、そのうしろめたさを物語っているといえないでしょうか。/横浜合宿研究会での熊谷指導[ママ]「文体喪失時代の文学教育」は、そのうしろめたさを原理の面から批判した論文でもあります。東京グループでは、ひとりひとりの実践にまで根づかせるための研究計画をたてています。〔…〕   
1967.10.20  第47号  【事務局だより】 ▽『文学の教授過程』『中学校の文学教材研究と授業過程』に続く、第三の出版が具体的な日程にのぼってきました。原稿完成予定を、今年末において、作業をすすめています。/前二作の反省のうえにたって、しかも、執筆メンバーも、幅と厚みが加わりましたし、「決定版」をと、張り切っています。執筆分担、その他具体的内容については、次号でお知らせする予定です。/ご期待ください。
▽文教研当面の課題は、前記、第三の出版にあります。それに全力投球をします。が、他面、会員の拡大、組織の充実にも力を注いでいきたいと思っています。本誌掲載の「横浜グループ研究会」(芝崎文仁)などは、その一つのあらわれです。/各地方グループでも、そうした研究会を組織してくだされば、事情の許すかぎり、東京グループでも参加させていただきます。また、機関誌『文学と教育』をとおして、交流をはかりたいと願っています。
▽機関誌『文学と教育』(隔月刊)は、会員の拡大で、順調に発行を続けてきましたし、今後のみとおしも明るくなってきました。ここで、さらに購読者を拡大し、組織を充実していきたいと願います。そこで、会員のみなさんにもご協力をお願いいたします。〔…〕
 
 
1968.01.20 第48号  ▼一九六八年度の最初の号を生みだすために、何度か拡大編集会議をもちました。/12月7日、福田・夏目・熊谷・佐伯・荒川。吉祥寺の珈琲苑、豊後を会場として。/12月9日、福田・熊谷・佐伯・夏目・鈴木・芝崎・黒川・山下・大内・荒川。豊後と珈琲苑を会場に(酒からコーヒーへ)。/12月16日、福田・佐伯・鈴木・熊谷・大内・高沢・荒川。エルム荘にて。/「文教研・基本用語解説」も、こうしたつみあげの中で生まれました。「有用なものは真理である」とあるプラグマティズムの哲学者は語っていますが……。   
1968.01.30
臨時増刊 
第49号  ▼49号は、横浜グループで編集することになっていた。特集は、冬期合宿集会の総括である。/ところが、29日の朝刊を見て、みんなコンチクショウ!と思った。くれの集会で、何をなすべきか、という構えが明確になっていただけによけい腹が立った。この怒りを、この感情を生かすためには、当初のプログラムを大幅に変更せざるをえない。もっとも、総括の姿勢そのものは変わっていない。向さんが自分の弱さをごまかすために、より凶暴さを見せたこの瞬間を、教育労働者として恥ずかしくなく生きようと思ったわけ。/マス・コミの発達した独占下にあって、ジャーナリスティックに行動することは、人間らしく生きることと表裏一体である。▼好評を博した文教研・基本用語解説は、第二回ができている。が、ご存知のとおりの緊急事態なので次号にまわす。/項目は「生哲学・解釈学・実用主義」。まず、生哲学の系譜を、ついで解釈学登場の必然性を明らかにし、最後に生哲学のアメリカ的形態としての実用主義に言及。/国語教育の分野にしぼっていえば、言語道具観、言語技術主義とツーツーであることを実証したわけ。したがって、過去・現在・未来にわたって、体制側の国語教育理論に一点の矛盾もない。まえの指導要領はよかったが、今回の指導要領は改悪だ式の批判がナンセンスであることの理論的根拠を提供することにもなろう。▼今回の編集は、福田委員長を中心に、熊谷、佐伯、夏目、鈴木、荒川と事務局の全員が参加した。(Q)                  
1968.03.20   第50号 ▼新しくスタートした編集部、第一回の仕事です。読者を飛躍的に拡大したNo.49にみあう編集にしようと、編集会議は、カンカンガクガク。冬の合宿集会の総括として「解釈学批判」を特集すべきだ、という意見。教研を、解釈学批判という視点で切りとっては、という考え方もありました。/然し、根っこは、一つだということで、No.50、No.51、No.52と、三号にわたって特集することとしました。ご期待ください。▼文相発言への抗議署名活動の中間報告を、本誌上にいたしました。総括報告ではありません。「中間報告」です。/当初の目標を達成するために、今後もねばり強く、この運動にとりくみましょう。/署名用紙、その他必要でしたら事務局へご連絡ください。事務局も、最も効果的な方法で、署名を突きつけたいと、ほうぼうへ手をまわしています。〔…〕(編集部)  ・50号

・編集部設置

編集長:夏目武子 
1968.05.20  第51号 ▼〔…〕福田委員長がNo.50に寄せて「文教研は、すでに、研究団体であると同時に、運動団体として、他の民間団体に先がけて、政治的実践もおこなってきた。が、今、新たな決意で、さらに、積極的にとりくまなければならない責任を痛感する」と言われていることを、No.51でも実行しようと思いました。〔…〕▼灘尾文相「国防発言」に抗議する署名は継続ちゅうです。教育三法反対の問題と関連して、新しい署名のあり方も検討しています。文部次官との会見記をお読みになり、よいお知恵がうかびましたら、事務局までご一報を。〔…〕(編集部)  ・日本民間教育団体連絡会(民教研)加盟
1968.06.30   第52号 ▼民教連加盟が実現した。六月二十日の民教連の会で、文教研の紹介がなされる。委員長の福田さんが出席。〔…〕▼夏の研究集会の準備が着々と進められている。といっても、各自、自分の報告テーマと目下にらめっこ。毎日の授業での子どもたちの反応がビンビンとこたえる。「印象の追跡としての総合読み」という方向が明確になったため、授業の質が前と変わってきたという人やら、ますます自分のやり方のまずさに気づいてきたという人やら。▼小学校学習指導要領案が出される。明図「国語教育」八月号に熊谷孝氏他数氏が意見を述べられている。ぜひご一読を! 改定指導要領に基づいてますます悪くなって行くであろう教科書。どこがどんなふうに悪いのか、具体的に検討する必要がある。夏の研究会までに、参加する人は全員、創意をはたらかして教科書検討にとり組もう。全国から集ってくる仲間が、各自使用している教科書批判を持ち寄れば、文教研「教科書黒書」ができあがる。〔…〕(N)   
1968.08.01  第53号 ▼手紙で、電話で、あるいは直接面と向かって参加申込みを受ける。ひどくうれしい。いい研究会にしたいなという気持がますます強くなる。――こう書いていて、「いい研究会って何だろう」と自問自答する。/私が初めて文・教・研の研究会に参加したときの、驚きととまどいが想起される。サークルには歴史がある。歴史の重みを背負っている。ある面からいえば、深みと体系があり、ある面からいえば、それゆえにとっつきにくさと、何か特殊だという印象がつきまとう。/長い長い間かかってつみあげてきた何かがあるから、サークルはサークルとしての存在意義があるのだ。かといって、ことばの通じない特殊地帯では、はじめからないはずだ。参加者もわたしたちも、体ごとせいいっぱい考え合う研究会であるとき、サークルのもつよさがうんと発揮される。参加者のご協力で、いい研究会をつくりあげていくのだ――私は今ここ迄たどりついた。(N)  
1968.10.20   第54号 ▼No.54は、ひとつの難関にぶつかった。夏期全国集会の成果をおさらいすることは意味がなかったし、一歩でも前に進みたかった。それで、八月中に拡大研究部会をひらき、九月以降の研究スケジュールをつくってもらった。▼熊谷、夏目、大内三氏による報告は、右の期待にこたえておこなわれた。その総括を従来のように、報告者個人にゆだねるのではなく、やはり拡大研究部会として検討した。座談会形式だが、新しいテーゼがいくつか打ち出されているはず。徹底的な検討をお願いしたい。(Q)   
1968.12.15   第55号 ▼横浜集会記録集の編集・冬の合宿集会の準備、とにかく忙しかった。が、文教研独特の〝ネバリ〟でどうやら切りぬけた、というのが実感。▼No.55は冬の合宿集会特集号にしたかったが、〝私の大学〟での熊谷提案と基本提案<2>しか掲載できなかった。まだ、文教研の歴史・基本提案<1>、それに、12月10日の大内さんのリサイタルについてももっとスペースをさきたかったが……。増頁したい。活字にしたい。資金がほしい。(福田)   
1969.02.25   第56号 ▼冬の合宿研究会総括を特集する予定だったが、全国教研特集に切り替えた。全国教研に会員が多数参加し、問題提起をするとともに私たちも教研から〝問題〟を受けとった。その一つは〝状況認識の文学教育〟であり、春の合宿研究会で検討することが予定されている。/総学習・総抵抗運動は全国に拡がっている。私たち自身、自己の課題意識を明確にする必要とともに、一日でも早く全国の仲間に私たちの考えを検討してもらいたいという気持ちから、教研特集を急いだわけだ。三月中に繰り上げ発行で冬の合宿総括号を出す予定。ご了承願いたい。(N)   
1969.04.01  第57号 ▼〔…〕文教研のメンバーは、みんな編集部の要求に快く応じてくれる。感謝。それとともにみんなが、「これだけの内容を表現するのだから、三十頁かかせろ」なんて、どなる人がふえないかなと内心思う。この〝生産力〟の増大が、機関誌の質?の転化を余儀なくさせるであろう。などと考える。私はダダッコ。▼大学生問題ももちろんであるが、高校生の行動は私に解答をせまる。三月十五日の朝日新聞の記事の一こま。/――処分や逮捕の危険に身をさらす活動家たちは、一般生徒に「エゴイスト」という言葉を投げつけ、さらに孤立感を深めていく。/――「学校はあたたかくなぜ回そうとするが、われわれの孤独は救われない」 校舎を占拠したノンセクトの学生たちのことば。/連帯感の欠如。求めようにも求める手だてを知らない(教えられなかった?)かれらたち。/孤独――〝暗い谷間〟のことをふと思う。「口にすることなどできないほど孤独だった」と語った人がいた。麻の着物を一反もらって、夏まで生きようと思った人もいた。すべての組織が解体され、民衆が互いに連帯を感じ得るような基盤がこわされた中でも「孤独なのは、自分一人ではない」ことをヒソヒソと唖のことばで伝え合い、明日を待てと励まし合った人がいた。/今日の疎外状況は、人間の内側から目に見えない形で、一人一人をバラバラにしてしまう。若い、あきらめることを知らない鋭敏な感覚は、抗議の声をあげる。だけど忘れてほしくないことがある。荒廃と孤独を克服するということは、互いに相手に対して仲間を意識しうるような連帯感の回復ではなかっただろうか。機関誌No.46で熊谷さんが〝文体づくりの国語教育〟を提起、以来私たちは〝連帯感の回復〟を模索し続けている。「オレたちは孤独だ」という若者たちと、荒廃の意味を、孤独の意味を考え合いたい。大人である私たちも、〝孤独〟をかみしめながら。(N)  
1969.06.01   第58号 ▼〝ヴォルガの川岸〟や〝小舟の上〟で〝道ゆく人々〟から学ぶのが、ゴーリキイにとって〝私の大学〟であった。そういう人々から学ぶことのできる眼を彼が持っていたからであろう。ただぼんやり眺めていても、通り過ぎる人影の他に何も映ってはこない。彼が苦しみながらたどった道を、私たちは文教研という集団の中でなしとげようとしている。/委員長の宣言をお読みいただければ、私たちが今日〝私の大学〟を再開した意味が明確になると思う。再開第四回のレールを敷いた熊谷氏の報告レジュメと、第三回学習のまとめという意味の黒川氏のレポートで、〝私の大学〟を記録することにした。▼T・K氏の〝民族の自画像〟を連載の予定。今回は幸徳事件をめぐる文学作品を読む地づらを示してくださる。当時の市民の感情の平均値をということで、朝日新聞に連載された『冷笑』を材料にして。〝自画像〟の出発点としての文三(・・)丑松(・・)要吉(・・)信輔(・・)。等々、多くの人物がすでに用意されているとのこと、特にこの人に早くあいたいという人があったら編集部まで声を。▼夏の研究会が近づく。一年ぶりに顔を合わせることのできる人がきっと多いと思う。七十年を前にしての教育問題。私たちが直面している日常の問題の原理にたちかえって徹底的に検討し合いたいもの。そのあとにがいビールの味を賞味するのも楽しみにしながら。(N)   
1970.02.--   第62号 ▼日教組教育研究全国集会は二月七日から十日まで、岐阜市で開かれた。文教研会員からは、国語分科会に正会員として大阪の新開惟展さん、傍聴として芝崎さん、蓬田静子さん、民教連代表として椎名伸子さん。音楽分科会に大内寿恵麿さんが参加した。〔…〕▼新開さんは、ごく常識的なことを常識にするために、大きな声を出さざるを得なかったと言っている。国語分科会にも問題がたくさん残されている。もし自分が教研に参加していたら、何と発言するかと、自己の論理をたしかめつつ、問題提起を読まなければならない。距離的にいって遠い新開さんが、依頼通りの期日、枚数できちんと原稿を送ってくれた。思わず握手したいほどの感激。▼みんな書きたいことは山ほどあるのに、わずかなスペースしかさけなかったことをお詫びする。合宿総括も、郷さんの全文をのせたかったし、討議内容もくわしくのせたかった。はやく活字化にせねばと思う。/充実した機関誌にするため、No.61におとらないほどの、読後感をお寄せいただきたい。また、愛読者をまわりにたくさんふやしていただきたい。  ・文教研入会規定決定(1969.8)
 
1970.04.--   第63号 ▼思いきって『六の宮の姫君』に絞ってみました。テーマとは何か、どうつかむことが自己の文学体験を培う上に意味があるのか、ごいっしょに考え合いましょう。▼八月の全国集会の大綱がきまりました。待たれていた熊谷先生の本が、もうすぐ出版されます。姉妹編の妹の方、つまり文教研の本も、着々進んでおります。本誌の活字化は次々号から。文教研は、たいへんはりきっています。   
1970.06.--   第64号 ▼本号では、「文学と教育」読者諸氏の強い要望に応えて、討議過程を掲載した。「夏の大会テーマはこんな過程で生まれた」と、「『六の宮の姫君』論・討議過程」である。読者諸氏の感想を寄せていただきたい。/春の合宿を含めて、『六の宮の姫君』の報告を二回、レポートを二編書いた夏目武子さんに敬服。他にも報告を担当し、活字化創刊号の仕事もしている。これこそ、まさに『文教研魂」(?) 夏の大会をめざして、ひとりひとりが夏目武子さんに学ぶ必要がある。/次号の「文学と教育」は、活字印刷となる。内容にふさわしい体裁を、体裁にふさわしい内容をということであろう。(K)
▼64号と65号の、執筆・編集が、同じ時期にぶつかってしまった。そのため、常任委員は、二手に分かれて大わらわ。今までの機関誌の水準を維持できなかったのではないかと心配。あらためて、編集の仕事の苦労がわかる。/65号は、夏の大会特集。夏の大会で、パッチリとりあげる『最後の一句』と『牛づれ兵隊』を中心に編集された。待望の活字の「文学と教育」を手にする日も近い。/教師にとっては、忙しい学期末。そして、夏期の行事と、やらねばならぬことが多すぎる。夏休みに、わたしたちの実践のための栄養をたっぷりとるよう、夏の大会参加の準備をかためよう。(S)
 
 
1970.08.-- 第65号 ▼グラビヤ、豪華な表紙、百頁をこえてたったの七十円。週刊誌のことである。値段の上で、マス・コミには勝てないと思った。印刷所へ交渉に行き、値段の相談をする。一人でも多くの人に読んでもらおうと思って、ヤスクヤスク(、、、、、、)とアタマをひねる。資本主義的利潤なんか考えないで――利潤どころか、編集費持ち出しで、なおかつ百五十円になってしまう。物価値上げの政治に、しんそこ腹が立つ。腹を立ててばかりいてもはじまらないので、この怒りをエネルギーに、マス・コミではできない、そして、出せないものを、この雑誌で出そうと決意する。/「現代は文体喪失の時代である。画一化されステレオタイブ化したマス・コミ的文体の氾濫である。……思考の発想そのものが、マス・コミに飼いならされているのである。そのことと結びついて、文体的発想がマス・コミばりに画一的なのである。」――本誌No.46の熊谷論文の一節をあえて引用した。問題はここにあるのではないだろうか。/値段の上でマス・コミに勝てなくとも、文教研という個性ある文体、文体的発想でこの雑誌をうめることだ。このことでまた、文教研というきり口からではあるが、日本の国語教育の歴史の証言ともなり、未来を先どりする問題提起の役目を果たしたいと思うのだ。緒についたばかりだが……。/活字化第一号は、一九七〇年春季合宿の総括をふまえ、夏の全国集会の準備に焦点をすえてみた。会員の一年余にわたる積み立てがあって、活字化にふみきれた。編集技術のことで、三省堂の武井美子さんにたいへんお世話になった。〔…〕多くの方の援助でこの雑誌が生まれた。ご愛読を。(夏目武子)  活字化第一号
中教印刷製本(活字)
A5判、25頁、150円 
年六回発行
1970.11.--  第66号 ▼前号でおことわりするのを忘れていた。活字化されるのは、年六回発行のうちの三回分である。/佐伯副委員長は巻頭言で教科書裁判の意義にふれ、教育というものが、教師自らの教育活動を通じて直接に国民全体に責任を負い、その信託にこたえるべきものであるという、東京地裁判決の重みを強調している。/民間教育サークルは、どういう意味で国民全体に責任を負おうとしているのか、その存在意義をはっきりさせなければならない。私たち文教研の答えの一端を、第19回集会の総括という形でまとめてみた。集会の冒頭をかざった あまの氏の講演内容の一部を本号に掲載させていただいた。/新役員が総会で決まり、各部の活動は活発になる。研究部中心の記録活動が充実し、編集部は大いに活用させてもらった。〔…〕全国集会での報告・討議をテープにとり、それをききながら記録を整理するという、膨大な作業量の仕事を短時間にまとめてくれた。テープの言葉がききとれなくて、家族中でききなおし確かめたという苦心談もきいた。編集が終わると、この貴重な記録は研究部保管となる。カメラマンは芝崎文仁氏。一二二枚の集会スナップから、四枚を選んだ。三省堂「国語教育」編集部の武井美子氏に前号に引き続きたいへんお世話になった。タイプ印刷のときにくらべ、活字になると仕事は大変になる。が、多くの方の協力が得られるようになり、編集部のチーム・ワークよろしく、〔…〕はりきっている。(夏目)  ・中教印刷製本(活字) 
1971.01.-- 第67号  ▼毎月の例会で検討されたことを、もっと機関誌に位置づけるべきだという声が多くの方から出されていた。それにどう答えたらよいか、編集部の懸案だったが、今回、九月以降の膨大な例会記録を、「近代主義批判」という視点で再整理してみた。/マイホーム主義、サラリーマン・エリート主義――ヨボッた近代主義のひとつのあらわれだと熊谷孝氏は言う。近代が志向し、しかも未だ実現されていない人間自我の解放に、大きな障害となっている自己内部の近代主義との対決を、私たちは今日避けて通るわけにはいかない。例会の中で、そのことが話題になり、波紋はひろがりつつある。近刊『日本人の自画像』で近代主義問題を大きくとりあげた熊谷孝氏に、本誌に再度問題提起をお願いした。一方、例会報告者を中心に、討議をふまえての報告内容の再検討、執筆を依頼。両者はいわば別々の口からトンネルを掘りだした訳だが、うまくトンネルがつながったか、ご批判を乞う。/各地の教研活動は全国教研を前にして、まとめの段階にはいっていると思う。第20次日教組教研は一月十三日から東京で開かれる。日常のサークルでの研究のつみあげは、この教研とどうかかわるのか、荒川有史氏は東京代表として全国教研に参加する時点で、それに答えている。この小さな雑誌も各地の運動に役立ててもらえたらと思う。〔…〕(夏目)   石江印刷(写植)
・A5判、21頁、90円
 
 1971.03.-- 第68号  ▼七一年は、日教組『教育研究全国集会」であけた。――福田委員長の言である。この集会に参加した感動と責任感が覚めやらぬうちに、最近刊の機関誌に総括第一号をのせることにした。第一号――今までも、教研で出された課題を、専門サークルが当然分担すべき分野について、一年がかりでとりくんできた。主題論争しかり、解釈学批判しかり、等々である。〔…〕/教研登場で、冬季合宿総括は二号に分載となる。「やっと、ゼミらしいゼミになってきた。」とある会員は語っている。私を含めてのことだが、学生時代にゼミらしいゼミを受けた人は意外に少ない。報告者と同じくらいに参加者が準備しないとゼミは成功しない。山崎宏さんの言う、ドロドロのゼミ、自分との格闘のゼミが、誌面にどれだけ再現できるか不安だが、執筆者、編集部ともにがんばっている。次号と併せてご検討いただきたい。(夏目)  ・石江印刷(写植) 
 1971.05.-- 第69号  ▼前号に引き続き冬季合宿総括を特集したが、今回は井伏文学に焦点をあてた。もう四月だというのに冬季合宿総括とは多少スローな感じもする。が、利点もある。言い訳けでは舞いが、この期間、執筆者にはじっくりと取り組んでもらえた。「近代主義との対決」は、現在の、わたしたち自身の問題でもある。この問題に自己をぶっつけるかたちで総括し、執筆してもらったわけである。編集部としては、執筆者の個性を生かすとともに全体としての統一を付けるため、執筆者とともに数回の打ち合わせをしたのだが……。/ところでいよいよ新学期。巻頭言にはこの時期にふさわしい問題を副委員長、夏目武子さんに執筆してもらった。新しい賭(、、、、)は過去の授業をつかみなおすところから始まる。そういう意味で、編集部が熊谷孝さんに日常の授業を語ってもらったことはタイムリーだったと自負している。自己の授業実践をどうつかみなおすか、その視点が明確に抉り出されている。今後、わたしたちが授業記録を書くときのモデルになるだろう。また、井伏文学に即した授業の構造化という点では、合宿での討議の補足でもある。/本号から「例会ノート」が誕生した。例会の課題や問題点、確認事項など文教研の日常の研究活動を喜六詞、例会と例会とをつなぐ役目を果してもらう。〔…〕(黒川) 光陽印刷?(活字) 
・A5判、25頁、150円

 1971.08.-- 第70号  ▼昨年の全国集会を機に、機関誌活字化第一号誕生。会員・読者の方々の知恵と協力、三省堂の武井美子さんの技術面での応援をえて、それから六回目の発行。文教研の理論活動を跡づけ、その整理が次の活動の刺激になればと思い、編集部一同がんばった。不馴れでたいへんだったが、そこには創り出す喜びがあった。一号一号に愛着を感じる。/編集プランが出来上ると、仕事の半分は終わったことになる。この号にしても、第20回集会直前の発行であるから、そこに焦点をあてつつ、参加されない方にも愛読していただけるものをということできりこみの角度をきめるのに苦心した。/巻頭の委員長発言にある通り、20回という区切り。この際、文教研の体質を再確認する意味で、創立以来のつわものにご登場願っての座談会と、論理的整理の意味での用語解説。熊谷孝氏による新しいテーゼを含めての生産的要約である。集会でのたたき台の意味をこめて『電報』についての異なった角度からのきりこみ。「私の研究・私の教室」は毎号新しい個性登場欄だが、本号執筆の井筒満さんは文教研の最年少。高校二年生である。特別増ページの本号がそれに価する内容であれかしと祈りつつ。(夏目)  ・光陽印刷?(活字) 
 1971.11.-- 第71号  ▼夏の全国集会は一年の総括を行ない来るべき一年の出発を方向づける役割を持っている。この号は、文教研71年度の最初の号として、夏の集会を総括する号とした。集会の中で追求されたことを、その後の発展を踏まえて総括してもらったのが、熊谷、荒川、夏目三氏の論文である。/毎年、夏の集会の後、関東民間教育サークル連絡協議会の集会がある。今年は箱根であったのだが、その国語分科会を準備し、実践する中で『電報』の作品把握はより深まり、文学と国語教育の理論も前進させることができた。その成果も総括してもらえたことを読者のみなさんとともによろこびたい。/71年度の研究計画は、「文学史を教師の手に」という現実的要請に答えようとする教師のきびしい学習の方向を示している。とかく繁忙な毎日に押し流されて、自主編成を口にしながらも、「教師は同時に研究者でなければならない」筈の自己を甘やかしてしまう私たちを激励してくれるものと思う。「研究姿勢の確立を」と巻頭に提唱した理由でもある。/秋である。今年の秋はかけ足でやって来た。北海道では冷害で自殺者もでたという。アメリカのドル防衛のあおりで倒産者も多くでている。しかも物価の上昇は敗戦直後のインフレなみという。臨時総会でも会費を値上げせざるを得なかった。夏目前編集長が、マス・コミでは出せないものをこの「文学と教育」で出そうと一年間努力してきた。その成果を承け継ぎ発展させたい。副委員長の黒川をはじめ、高沢、山崎、大島の昨年同様の面面、新たな気持で頑張っている。(鈴木)  編集長:鈴木益弘
・光陽印刷(活字) 
 1972.01.--  第72号 ▼沖縄協定反対闘争の大きな高まりの中で、政府・自民党はまたもや強行採決を行った。多くの疑点を残したまま、数をたのんでの暴挙である。民主主義が踏みにじられ、平和が危機にひんしていると思う。/日教組の教研大会が、教育の場における平和と民主主義を守る戦いの重要な総括の場であることはいうまでもないし、日常の研究と実践によって確かめられた、真に科学的な理論をその高さにおいて共通の財産にしていく場でもあることもまたしかりである。それなればこそ、いままでも私たちは、分会教研から全国教研まで、一貫して積極的に取組んで来た。また仲間としての誠意をこめて、研究者の良心にかけていくつかの提言をして来た。この号も、第21回日教組教研への提言を特集した。内と外との反動的な非民主主義的な暴挙への抗議を含めてである。荒川、夏目、福田、山崎各氏の論文から、実践的な重さを持つ提言をよみとってもらえると思う。/文学の原点に立ちかえって、自己の発想を点検する。そうした絶えざる原理の追跡こそが、実践を真っ当なものにする。その意味で、重要な提言の一つとして、ランガー論文を掲載した。翻訳とは、単にある語に置き換えることではない。まさに、ことばを現実的要請によって生かし、働かせることである。この号が、われわれの教育研究や実践に果す役割は大きいと、掲載にあたって、何度も訳文の検討に労をわずらわした熊谷氏に感謝しながら、編集部一同、大いに自負している。〔…〕(鈴木)  ・光陽印刷(活字)  
 1972.03.--  第73号 ▼昨年八月の文教研全国集会で〝文学史を教師の手に〟とアピールして以来、文教研でも〝文学史一九三六年〟というテーマを設定し研究を積み重ねてきた。その研究組織・プログラムについては、本誌71号「私たちのことしの研究計画」(研究部)で明らかにされている。一方ではS.K.ランガーの論文に学ぶことで文学の原点を探り、私たちの内部にある文学史意識を点検した。また他方、問題別研究会を組織し〝文学史一九三六年〟へのアプローチを多角的にした。冬季合宿はこれまでの研究の第一次総括だといえよう。/本号では冬季合宿統括を特集し編集部では次の二点にしぼって総括を試みた。一つは「文学史の方法意識」というテーマで講義した熊谷孝さんに編集部が質問する形で、当日の講義を整理し、補足・強調してもらうこと、もう一つは、『コシャマイン記』を総合読みしたゼミでチューターの一人だった山下明さんに、ゼミでの報告・討議をふまえて自身の印象の追跡を文章化してもらうこと、である。なお、「文教研リポート」では、いつもよりスペースを余分にとり「文学史一九三六年」にアプローチしている〝太宰ゼミ〟〝戸坂ゼミ〟に報告してもらった。〝戸坂ゼミ〟のスペースが少ないのは、三月例会で戸坂潤をとりあげるため、後日、改めて執筆してもらおうという意図からである。〔…〕(黒川)  大乗写真印刷(写植)
・30字×24行詰
・A5判、21頁、90円
 1972.04.--  第74号 ▼新学期の始まる前に74号を、と思っていたが、諸々の都合で遅れてしまった。新しい年度の授業計画をたてる前に、ぜひ本誌をお届けしたかった。が、今でも遅くはないと思っている。本号で特集した第21次全国教研総括の理論的な整理が、新年度の授業計画を考えるとき必らずハッキリした方向を与えてくれるだろう。教研の成果と問題点を真に理論的に整理し、課題として私たちひとりひとりが自覚的なものにしてこそ全国教研は意味をもつ。私たちがこれから一年間の実践の中で、それらの課題にどう取り組み、克服するか。そうした意識的な実践の成果をまた順々に積み上げて全国教研に持ちよることによって、教研の発展が望めるのである。そうした意味で、荒川有史、夏目武子、佐伯昭定、芝崎文仁各氏の論文は、日教組教研国語分科会の発展のために、重要な示唆を与えてくれるだろう。/文教研春季合宿は成功裡に終わった。芥川文学を中心にした合宿で、私たちは様々な感動とともに数多くの発見をした。その成果については、次号に予定している春季合宿総括に期待していただきたいが、本号では報告者の一人、熊谷孝さんの報告レジュメを掲載する事ができた。その報告は私たちの芥川文学のイメージを大きく変えるものだった。今年の文教研全国集会では芥川文学をとりあげる予定だが、その基本的資料ともなる。〔…〕(黒川)  ・大乗写真印刷(写植) 
 197206.--  第75号 ▼春の合宿のまとめを、本号は特集した。〝芥川文学をどう教材化するか〟という夏の全国集会に向けて、今回の合宿は、日頃のわたしたちの文学と文学教育の理論の把握のありようを実践的に点検することになった。/理論の学習をする。よく理解できたと思う。が、実際の作品にぶつかると、否定されるべき己れが大手を振って登場してしまう。自己を変革していくことは何と重く苦しいことなのかと実感する。荒川論文は、その苦しみの姿を『奉教人の死』の総合読みの過程を通して赤裸々に報告している。「文教研理論とよぶものが教条的にどこかにあるのではない。文教研の会員各人が自分の行動、実践の原理として主体的に持っているものなのだ。」(P12)と熊谷さんはいう。確かにそうなんだ。そうでなければ自分も他人も変革できやしない。創造的でありやしない。それだけに厳しいのだ。/生きてあることの証をかけて、過酷な現実の中で研究や実践を行う。それが闘いというものだ。福田委員長、夏目副委員長ら、多くの仲間が病気でたおれた。怒りが胸をつく。巻頭に佐伯副委員長が主張した理由である。かつて大阪から毎回の研究例会に夜行列車で上京して参加したという荒川有史さんの例もある。文教研はこの学風の中で、第21回全国集会を準備している。/太宰治が生活と題して『葉』の最後にかいた。/よい仕事をしたあとで 一杯のお茶をすする お茶のあぶくに きれいな私の顔が いくつもいくつも うつっているのさ どうにか なる/八月六日には、全国からきれいな私たちの顔が、いくつもいくつも八王子に集まって、よい仕事をしあげたいと思っている。(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植) 
 1972.08.--  第76号 ▼昨年の秋、夏の集会の総括を特集して、71号を出してから、もう一年近くたってしまった。今年度としては最後である六冊目のこの号を、全国集会の特集号として編集しながら、読者諸子の御協力の中で、どうやら仕事を続けてこられたことを、心からありがたいことと思っている。/この号は増ページして、36ページにした。これは、第21回集会をより実り多いものとするためにしたことであるのは言うまでもない。が、今後の研究のための基本的な資料文献集としての役割も果そうという大変欲ばった考えからでもある。巻頭を飾る熊谷氏の講義レジュメをはじめ、荒川、山下両氏の報告レジュメ、さらに、資料1・2として掲載した「児童観の推移と日本児童文学」という論文や、芥川文学の年表は、どれもがその意味で貴重なものばかりである。〔…〕/文教研リポートは、今回〝私と文教研〟というテーマで、会員一人一人に文教研のイメージを語ってもらい、それをリポートした。会員各位の文体から文教研の個性を捉えてほしい。/相変らず職場の締めつけは厳しい。だが、政治の方向を変えようとする国民の声も強くなってきている。そうした状況の中で、私たちの姿勢を正し、実践に迫力を持たせるための力を養う鍛錬の場としての第21回集会がすばらしい会として運営されることを、皆さんと一緒に努力したいものである(鈴木)  ・光陽印刷(活字)
・ A5判、36頁、190円
 
 1972.11.--  第77号 ▼八月に行われた第21回全国集会を、わたしたちの今後の歩みの中に位置づけ、総括したのがこの号である。/わたしたちはこの集会で〝文学史を教師の手に〟と主張しての一年間の研究成果を〝芥川文学をどう教材化するか〟というテーマの中で具体的に提示した。そして、その討議の中で、今日のわれわれの任務を明確にし実践に役立つ理論を創造したのである。こうした集会の成果をまとめたのが夏目さんたちの報告である。明確になった原理と今後の課題を捉えてほしい。/「説明文体と描写文体」についての鼎談の中で、熊谷さんはわれわれの側にある無意識な現状への妥協を戒めている。原理にかえり、原則をとしていく中で、自己を鍛え、仲間とも連帯を組めることを、安田さんの文章や、文教研リポートを含めて、汲みとっていただけたらと思っている。/研究者の集団という名乗りを挙げ、教師の研究者としての自覚の重要さ訴えて十五年たつ。今日、全国各地で〝自主編成〟が教育における民権の確立を目指すものとして闘われ、その中で、教師も研究者でなければならないと主張されて来ている。わたしたちは二つの総会を持って、新しい研究計画を持った。研究者として、創造的な研究活動を日常的に保障していくうえで、高沢さんの整理は大いに参考になると思うし、巻頭言でも楽しく、しかもきびしくと主張したわけである。/この一年、昨年のメンバーに、新たに佐藤嗣男さんを迎えて、編集部一同、読者諸子のご声援の中で、よい仕事をしたいと願っている。(鈴木) ・光陽印刷(活字)
・ A5判、25頁、150円
  
 1973.01.--  第78号 ▼日教組第22次全国教育研究集会に向けて全国各地の準備は進んでいる。/この号は、一つには、この運動の根っこのところから参加して、たくさんの輪をつなげる重要な輪になっている文学教育研究者集団の姿を明らかにすること。もう一つは、この集会が真に民族の未来に責任を負う教育の理論創造の場となるために、母国語教育としての文学教育の理論を現実的な問題提起のかたちで示すことに、その目標をおいている。/熊谷孝氏に〝言語と認識と文体〟との問題について語っていただいたが、そこで氏は、今日の国語教育が解決しなければならない文種と文体との問題に鋭く切りこみながら、文学と科学――客観的真実と主体的真実との関連を追求している。〝どういう立場に立つ主体であるかによって客観的真実を認識できるかどうかが決まる。〟その意味で〝主体的真実の追求が客観的真実へ向けての不可欠な一つの追求の仕方である。〟という整理は、理論と実践の問題にも大きな示唆を与える整理ではなかろうか。/〝芥川文学の地下水〟を学んで、近代主義――資本の論理・中教審路線の論理でもある――と対決する主体を育み(藤本論文)、新らたな粉飾で復活しようとする〝日本的なもの〟のどす黒い正体を客観的真実として見抜かねばなるまい(佐藤論文)。歴史の一場面としての現代を、〝文学の眼〟で見るための学習は〝過去をもって現在を裁く〟歴史小説の方法の学習でもあろうし(合宿案内)、巻頭尾言に主張したように、未来を先取りした眼で現在を捉え、未来へむけて実践することへの研鑽でもあるだろう。/この小さな冊子が大きな役割を果すことを願っている。(鈴木) ・光陽印刷(活字)
 1973.03.--  第79号 ▼恒例の冬の合宿を総括する号として、この号を編集した。/今回の合宿の目標は、芥川文学の主題的発想の展開を追うと同時に、文学方法を認識の問題として主体的真実と客観的真実との関連で追求するという、文学理論の新しい発展を目ざしたものであった。/そうした理論創造の研究会であっただけに、学習したものを消化するには、それ相当の日時と幾度もの確認やら整理やらを必要とするだろう。編集部がこの号で意図したのも、その一つの整理と確認である。/読者は、『芋粥』を中心とした山崎論文から、あるいは『偸盗』をめぐっての座談会から、合宿参加者が課題に向けて苦闘している姿を生生しく読みとることと思う。さらに、芥川の評論を読むなかで、われわれの文学と言語の理論を鍛えなおす要を説いてくれた荒川論文を含めて、これらの中で、私たちが、研究者の仲間に対して、ともに学ぼうと呼びかけている声をうけとめてもらいたいと思う。研究者としての真摯な姿勢で、それぞれが達し得た理論の高さに於いて交流しあうことは、日本の民間教育研究運動発展のために不可欠なことである。その意味で、巻頭言に示された文教研の基本姿勢は、内外の仲間の賛同を得ることと思う。/第22回日教組全国教研集会でも私たちの代表は、集会の成功に貢献した。/その様子を速報する予定でいたが、紙幅の都合で掲載できなかった。次号でその責を果したい。/熊谷孝氏の新しい著作が『芸術の論理』と題されて、四月に三省堂から出版されるという。氏の健闘に拍手を贈りながら、一日も早く労作を手にし啓発されたく思うのは、われのみにあらんやと思っている。(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、25頁、150円
 
 1973.05.--  第80号 ▼私たちの「文学と教育」が、80号になった。創刊号は一九五八年十月に発行された。文教研の前身であるサークル文学と教育の会の機関誌として、ガリ版刷14ページのものであった。第一ページに「わたしたちのしごと」という声明がある。「国語教育のなかに文学教育を明確に位置づけることから始め」そして「明日の民俗文学創造の基盤を確かなものにしようと考える」と主張している。小さいながらも、大きな呱呱の声である。編集後記に「二十四日(金)ガリ切りを手わけして開始する。」とあり、学習指導要領改悪の本質を明確にした座談会速記が巻頭を飾っている/14号まで毎月発行。「鑑賞について」「文学と科学」「典型の認識と喜劇精神」「文学教育と道徳教育」などの諸論文がページを埋めている。/一九六〇年二月二十六日、文学教育研究者集団結成。「文学と教育」15号は第一回研究集会特集号として、タイプ印刷28ページで発行。「文学教育は子どもの認識をどう育てるか」という熊谷論文をはじめ十二論文を掲載している。以後隔月刊。『文学の教授過程』など、集団の仕事の基盤となる論文や、今日の文教研理論を構築する研究活動を反映した文章で、各号ともずしりと重い。福田隆義氏、荒川有史氏、夏目武子氏が編集に当る。/65号は一九七〇年全国集会号として活版第一号。現在の型になる。「文学と教育」も青年期を迎えた。多くの仲間の支えの中でである。ことに、『文学教育』『芸術とことば』『言語観・文学観と国語教育』『文体づくりの国語教育』『日本人の自画像』と、熊谷孝氏の著作が、その時々の歩みの中で、どれほど重要な支えであったか。そして、この度の『芸術の論理』である。十五歳の「文学と教育」が逞しくも美しく育つよう、読者諸氏の一層の御支援を願っている。(鈴木) ・大乗写真印刷(写植)
 
 1973.06.--  第81号 ▼荒川有史さんの巻頭言でのよびかけ――「書クコトノススメ」は、私たち一人ひとりに反省と変革をよびかけている。「情勢がきびしくなればなるほど、自己の文体的発想の変革を」――ほんとうにそうだと思う。夏の集会参加の意味もそこにあろう。政治的、経済的な圧迫と、それに関連した職場や家庭での問題が、夏に開催される研究集会への参加に、より困難な条件を加えてきた。しかし、「情勢がきびしくなればなるほど」なのである。こういう時期だからこそ、逆に、集会参加が一人ひとりの教師にとって、その意義が大きいのではないだろうか。巻頭言に触発され、私たちは今、夏の全国集会のことを思いつつ編集の仕事を進めた。/本号は「春の合宿集会総括号」としたが、全国集会準備号としての意義も兼ねている。春の合宿自体、集会に向けての準備を兼ねていた。二年間続けた芥川文学研究の一応のまとめという意味で『大導寺信輔の半生』を、また戦後児童文学に新しい教材を求めて、その原点として『空気がなくなる日』を、総合読みした。その総括を、合宿で報告・司会を分担した、鈴木益弘さん、佐伯昭定さん、福田隆義さんにお願いした。/熊谷孝さんの「大学・文学教育批判の前提条件」は、集会での報告準備として書かれたものだが、提起された問題はむろんのこと、自己の実践を見つめるきびしい姿勢にも学ぶべきものは多い。/『芸術の論理』について、音楽研究者の関根礼子さんに執筆してもらった。音楽関係の会員による『芸術の論理』への切り込みを、今後も期待している。仙台の地方会員、荒川由美子さんからの便りが編集部に届いている。紹介できず残念だが、地区研究会は順調に継続されているとのこと。全国集会では一人でも多くの仲間と会えることを願っている。(黒川)  ・大乗写真印刷(写植)
 
 1973.08.--  第82号 ▼はやいもので、もう、夏の全国集会の特集号を編集する時が来てしまった。芥川文学の主題的発想の展開を追いながら、文学・文学史の原点を求めたこの一年間を、77号以下81号までにあとづけてきた一つの締めくくりとして、この号を〝文学教育の原点をさぐる〟という今次集会テーマにもとづいて編集してみた。混迷の現実を見定める自己の立脚点を、歴史の遠近法の中で確かなものにする作業は、芥川らのすぐれた文学者たちがその文学の方法として、歴史小説という形で、私たちに示している。夏の集会では、これら先人の現実把握の方法探究の姿を、文学教育の実践という日常的要請の中で、自己の自我確認の深化とともに追求してみようというわけである。そこで編集部では、その作業の基盤的部分で、報告を担当してくれる荒川、夏目、佐伯、黒川の四氏の報告レジュメを特集の第一の柱とした。四氏とも快く編集部の求めに応じてくれたことを感謝したい。/大会特集の第二の柱は、20年前に出版されて、当時の多くの人に感銘を与えた、熊谷先生の名著『文学序章』の「作品の享受者」の部分を、資料として掲載させて頂いたことだ。今日では、この本を手にいれることができないので、以前から復刻が望まれていたものである。あれもこれもと思うのだが、今回は上記部分にした。今日でも少しも古くない、原則をきちんと押えた論文は、集会当日はもちろん、今後も役立つところが多かろうと思っている。/この号で、この一年の仕事も終ろうとしている。非力な編集部に応援下さった読者諸氏に深く感謝しながら、夏の八王子で、多くの方にお会いできるのを楽しみにしている。(鈴木)  ・光陽印刷(活字)
・ A5判、33頁、190円
   
 1973.11.--  第83号 ▼今年の秋の訪れは早かった。その秋も、いま猛烈な物価の値上りの中で、慌しく過ぎ去ろうとしている。/この夏は二つの全国集会を経験した。その総括号がこの号である。/わたしたちの第22回全国集会では〝文学教育の原点をさぐる〟というテーマで文学と教育の原理への追求がひたすらに取り組まれた。自己の〝文学とは何か〟を問いつめていくことが文学教育を真っ当に行わせるからだ。/ついで、神教協ほかの合同集会でも、この基本姿勢を貫き、そこでも多くのことを学んだ。巻頭言で福田委員長が書いているようにである。/こうした集会の成果を今後の研究活動の中に位置づけながら、夏目、佐藤両氏にまとめてもらい、杉浦、芝崎両氏には集会の印象を書いてもらった。発展的に総括することで、新しい出発をするためにである。/熊谷先生が、九月例会に、チューターとして提案して下さった時のレジュメを掲載させていただいたのも、この提案が、二つの集会総括の基本的方向を示すと同時に、今後の研究活動の基盤になるものであるからである。/74年度第一期の研究計画は二ヶ年余の芥川文学の研究を踏まえて、いよいよ一九三〇年代の文学へアプローチする。それは現代史としての文学史の確立であり、明日に生きる子どもたちへの文学教育の実践でもある。/文教研リポートにもあるような会員各位の活躍を、昨年度にも増して反映させるために、新しく〝私の読書〟欄を設けた。〝私の研究・私の教室〟同様、御支援をお願いしたい。/今年度は編集部に、若手の井筒満君を迎え、昨年来の面面ともども、よい機関誌づくりに精出したいと思っている。(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植)
 
 1974.01.--  第84号 ▼「おもしろみのある子どもがすくなくなった。どの子もみんなおなじようで、こぢんまりしている。」「学習意欲がない。六無主義だと当然のように言って自分たちを嘲笑している。」などなど。こんな児童生徒と毎日取り組んでいる教師たちは、真底から〝これでいいのだろうか〟と教育の危機を実感する。そしてこの危機をのり越えて、真に教育を国民のものにするための研究と実践を行う。教育制度検討委員会の第三次報告は、こうした現場の闘いにどんな武器を与えてくれたのだろうか。母国語教育の確立を目指して、それに不可欠な文学教育の研究を進めているわたしたちは、貴重な研究会の一日を使って第三次報告を検討した。期待が大きく、真剣に考えればこそ、緊張した討論が行なわれた。そしてことの重大さを多くの仲間に訴えずにはおれなかった。この号を貫くものは、ただ一つ、この危機的状況を自己に確認させながらの真摯な、しかも静かな論争である。/わたしたちは教師である。文学を愛し、母国語文化を愛する国語の教師である。なればこそ、いかなる愛しかたが国語教育をまっとうなものにするか考えずにはおれない。熊谷孝氏のことばは、考える者に大事な示唆を与えるだろう。/わたしたちの二年余の芥川文学の研究結果をまとめた『芥川文学手帖』がこの号と同じ頃できあがる。この仕事も母国語教育の確立を目指してのものであることは言うまでもない。/今年も文教研から、多くの会員が全国教研に参加する。雪深い山形の地に全国から集まる既知未知の仲間たちに太宰のことばを贈ろう。/「春ちかきや?」 「どうには、なる。」 (『葉』より)(鈴木)   ・大乗写真印刷(写植)
 1974.03.--  第85号 ▼忙しく三月をお過しのことでしょう。一年間の実践を点検して、来年度の計画をたてる例年の忙しさではあるのでしょうけど。わたしたちも、そうした三月の日々を送りながら、この号を編集しました。恒例の冬の合宿総括を中心にしたものですが、先き取りされた未来からの過去の位置づけということでこそ、総括も意味を持つという研究者としての総括の原則に立って行なったつもりです。/冬の合宿は〝芥川から太宰へ〟という今年度の研究課題を真にわたしたちのものにするために〝文学とは何か〟を自己に問うという、わたしたちの研究と実践を、原点に立ちもどって点検する意味を持ったものでした。その意味で、荒川有史さんと荒川由美子さんの総括論文は、わたしたちの中にある主観主義・客観主義を鋭く剔抉してくれると思います。/熊谷先生に〝太宰文学の全体像をとらえるため〟の重要な手がかりをつけていただきました。太宰の作品を系統的に総合読みしていくことで、自分の〝太宰文学の全体像〟をより鮮明にしていく方法、それは主題的発想の展開を明らかにしていくわたしたちの文学史の方法でもあると思いますし、示唆の多い大切な論文だと思います。じゅうぶん学んで、研究者としての自己にきびしい研究法を身につけていきたいと思います。/わたしたちの実践の一つである日教組全国教研集会での取組みについて佐藤嗣男さんに語ってもらい、〝芥川文学手帖〟に執筆した経験を尾上文子さんに書いてもらいました。学ぶことが多いと思います。/春の雨が、しずかに木々の芽に降っています。四月からの、新しい一年を、またみんなでがんばりたいと思います。(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植)
 
 1974.06.--  第86号 ▼本号の刊行がたいへん遅れたことを、まず皆さんにお詫びします。原因はともあれ、編集にあたった私たちの責任です。定期購読者の方々から、また会員の皆さんから、催促や心配のことばをたびたびいただき、編集部一同、責任を痛感しております。また、今回の遅れにともない、今年度の六冊めを全国集会特集号として、九月初旬に発行することになりました。したがって次号87号は、全国集会特集号となり、誌友の皆さんには88号の夏の全国集会総括号をお送りして一年分とすることにいたしました。皆様のご理解を賜りたいと存じます。/さて、本号ですが、春季合宿の総括を特集しました。合宿は熊谷先生の講義ではじまりましたが、豊富な資料を準備され、それらを切り口を定めて整理され太宰の転向問題等、重要な問題を提起され、非常に感動的でした。そして、そこで提起された問題は、合宿全体を通じて検討され、あるものは確認され、残された問題も、私たちの重要な課題として、例会で取り組むことが確認されました。『正義と微笑』は全員で報告しあい、楽しく、しかもきびしい討論の連続でしたが、最後のまとめで、太宰とキリスト教の問題に関して重要な整理をされた山下さんに執筆をお願いしました。/熊谷先生による「太宰治語録」は、太宰の作家としてもちえた文芸認識論を知る上に重要なものであり、また、作家研究の方法としても学ぶべき点が多いように思います。/全国集会案内を、原案作成者である研究企画部長、夏目さんにお願いしました。今年は話し合いの時間を十分とった、三泊四日の計画です。皆さんとお会いできる日を楽しみにしております。(黒川)  ・大乗写真印刷(写植)
 
 1974.08.--  第87号 ▼教師自身が、文学のすぐれた読者でなければ、こどもたちをすぐれた読者にすることはできない。この自明のことが、実際にはなかなか定着しない。授業の方法論はやかましく問題になり、そうした研究会は数多く開かれるのだが、〝文学とは何か〟を自己に問い、追求する地味だが充実した研究は、なおざりにされてしまうのである。今年のわたしたちの全国集会が、こうした風潮に対して〝教師自身のための文学研究〟をはっきり標榜したことに意味を深く心に刻みたい。それは、実践に確固とした方向を持つために、また、科学的な検証を行えるために、はやる心を抑えての研究であり、教師の主体性獲得の最も現実的なたたかいだからである。/一年間の太宰文学との格闘は厳しいものだった。自分の中の私小説的文学観や、政治主義・素材主義とのたたかいだった。十五年戦争下の状況で苦しくなればなるほど強くなった太宰の文体との対決は、わたしたちに甘ちょろい感傷主義からの訣別を迫るものだった。/この号で特集した論文は、それぞれこうした実感によって執筆されたものである。まさに会員各自の自己変革の軌跡なのである。/芥川文学に「大正デモクラシー」期の民族のプロフィールを見た昨年につづけて、十五年戦争下の民族の自画像を太宰文学に発見するわたしたちの文学史づくりの仕事も、この集会の課題である。そのすぐれた先達である熊谷先生に、集会の際の講義の資料とレジュメの稿をいただいた。真の文学研究の方法を具体的に示していただいたわけである。/夏の三泊四日の日日が、緊張した、しかも楽しい、研究者としての仲間との交流の日日であることを心から期待している。(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、29頁、150円
 
1974.09.-- 第88号  ▼この号は、夏の全国集会の総括号として編集した。/86号が予定より遅れてしまったこともあって、74年度の六冊目を9月号として、このような形で発行することにしたのだが、内容の豊富な集会の成果をまとめるのは、大変難しいことであった。限られた紙幅のため、それぞれの執筆者に、わずかなページでまとめてもらわねばならず、意を尽すことが、さぞかし困難なことであったろうと恐縮している。だが、それにもかかわらず寄せられた論文は、当日の討議を踏まえてさらに一歩も二歩も論理を発展させたものばかりで、改めて執筆者各位の御努力に驚嘆すると同時に深く感謝している。/それにつけても、集会二日目に特別報告として〝太宰文学の原点〟について話して下さった熊谷先生のお話の部分が、この号に掲載できなかった。誠に残念であり先生にも読者諸氏にも申訳なく思う。87号に掲載した報告レジュメ・資料に触れながらのお話は、聴衆に深い感銘を与えたものだっただけに、集会総括号の主要な部分が欠けてしまうことになってしまった。計画としては、先生に当日時間などの関係で話されなかったことをふくめて書いていただくことにしたのだったが、先生の御健康がすぐれず、この号に執筆していただけなかった。すぐ然るべき方策を考えるべきだったがそれもかなわなかった。また『正義と微笑』『禁酒の心』他を語るシンポジウムの総括も、執筆者の都合で、この号に掲載できず次号にまわってしまった。重ね重ねの不手際をはずかしく思うし、深く反省している。/新しい一年の研究の出発を画する総括号として、残したことも多いのだが、以後の計画の中で、その責を果していきたい。御寛恕を。(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、25頁、150円
  
1974.12.-- 第89号 ▼秋も深まり、北国からは雪の便りを聞きます。太宰文学にとりくんでこの秋は『惜別』『右大臣実朝』『津軽』へと研究を進めています。/この号では、こうした太平洋戦争下の太宰文学の大作に入る基礎固めとして、『列車』の総合読みをした九月第二例会の模様を、夏目さんと安田さんに書いてもらいました。太宰治というペンネームを初めて用いたこの作品は、ある意味で、彼の文学の起点でもあるでしょう。芥川文学から学んだ「中流下層階級者」の視点を、みんなで確認できたように思います。/また、わたしたちが、二十年戦争下の文学を考える際、井伏鱒二の文学を忘れるわけにはいきません。熊谷先生が町田市でなさった講演「井伏文学にどうアプローチするか」を、その最初の部分だけですが掲載しました。今日、ほとんど未開拓である井伏文学に鋭く、たくましい鍬が入れられたように思います。それに作家論と文学史との関連を考えるうえでも重要な示唆に富んでいるように思えます。じゅう分役立てて下さい。/先号でお知らせしたように「言語観・文学観と国語教育」が再版されました。明治図書から国語科教育全書の一つとして出されたようですが、比較的若い会員の高田さん、篠崎さんにその読後感を書いてもらいました。巻頭言で福田さんも書いているように、〝国語科は何を教える教科か〟を原点にたちもどって考える必要を痛感している時、若い教師たちだけでなく、みんなでこの本を熟読したいものです。/二学期は学校行事も多く毎日を流されがちです。組合の教研も運動論で終始してしまいがちです。苦しくなれば苦しくなるほど強くなった太宰に学びながら、精いっぱいに、今をたっぷりいきたいと思います。(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、29頁、150円
  
1975.01.--  第90号  ▼今年も日教組の全国教研集会の日が近づいて来ました。私たちも、日本の国語教育の発展を願い、毎年、教育集会にも参加し、この小冊子でも全国教研特集を行なって来ました。この号も第4回全国教研に向けて一つのてい談と二つの報告などをのせました。これらは、直接には全国教研国語部会が、その混乱を克服するようにとの願いをこめての提言であるわけですが、もっと根本的には、わたしたち自身の「言語観と母国語意識の変革」を強く訴えているわけです。/「ことばと発想は二人三脚の関係にある」という科学的な言語間に立つことで、国語科固有の任務がハッキリしてくるし、「文体づくり」という概念を国語教育方法論の中心概念に位置づけることで、文法教育と文学教育との関係も明確になり、統一的に国語科の教科構造を構想しうるという指摘は、重要な今日的意味を持つと思います。言語観のイデオロギー性の問題との関連で、じゅうぶんにご検討願いたいと思います。/わたしたちは、昨年来〝芥川から太宰へ〟を掲げて研究を進めて来ました。その第二ラウンドの一こまとして、10月と11月に『惜別』を学習しました。わたしたち自身の文学観を鍛え、母国語意識――母国語文化への課題意識を確かなものにするためでした。太平洋戦争下の民族的文学体験の文学史的位置づけを行なうことが今日の国語教育を考え、実践することと決して無縁なものでないことも、ぜひ、考えながら荒川有史氏のまとめを読まれるよう願っています。なお、今度、本誌70号に掲載した『基本用語解説」を再録しました。70号の手持ちがなくなってからも、多くの方から御希望があり、研究や討議をより効果的にするためにも、概念内容の明確化が必要と考えられたからです。活用していたゞき御健闘下さい。(鈴木) ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、25頁、150円
 
1975.05.--  第91号  ▼〔…〕 昨秋以来、『右大臣実朝』に取り組んで、研究の方もずいぶんと進んでいますので、その中間総括をこの号でと企画したのでしたが、なに分にもこの作品は太宰文学の中でも、とりわけすぐれた作品でもありますので、私たちにいくつもの重大な課題を与えてくれました。ともかく、この度は研究会のチューターの方々に座談会をしてもらう形でまとめてみました。紙面の都合やら、編集部の非力やらで、せっかくの話し合いの良さを読者の方々にお伝えしきれないことを残念に思います。協力していただいた出席者の方におわびをするとともに読者諸氏の御賢察を願っています。▼夏の集会の計画ができました。今年も教師のための文学研究の集いとして、しばし教育づかずに、しかも真にすぐれた文学教育を行うために学びあえることを喜びたいと思います。日教組の全国教研でも、なかなか言語観・文学観のゆがみを正して母国語教育の正しいありかたを考えあうことができず、対症療法に追いまわされてしまったようです。研究と実践の統一が緊急な私たちの課題になっている時、母国語文化を守って時流に抵抗した実朝や、太宰治の文学について、その基本的発想に立ちかえって学習することは、私たちに大きな勇気と信念を与えてくれることでしょう。〔…〕(鈴木)  ・大乗写真印刷(写植)
1975.08.--  第92号
第93号
合併号
 
▼今さらですが、月日のたつのは速いものだと思います。この一年、ほとんど『右大臣実朝』との格闘でした。みんなで読めば読むほど、新しい魅力がでて来ました。新しい課題にめぐりあいました。わかっていると思っていたことの底の浅さに気づかせられたこともしばしばでした。『吾妻鏡』やら『金槐和歌集』やら、古典への取りくみも、とても新鮮な気持でやれたように思いました。そんな毎日でしたから、昨年の全国集会がついきのうのように思えているうちに『右大臣実朝』を読みあう今年の集会が目の前に来てしまったのでしょう。/この号は思いきって92号・93号を合併して集会の特集号を作ってみました。編集計画は早くから何度も常任委員会で討議してもらったのでしたが、執筆段階に入ると、なによりも、研究の発展が執筆者を苦しめてしまったようです。執筆者の苦労を思いながら、編集部もできるだけよいものをと思っているうちに、とうとう時間との競争になってしまいました。執筆者のみなさんに無理な注文をして鬼の編集部であったことをお赦し下さい。熊谷孝氏をはじめみなさんのお蔭で、53ページ、折込み年表つきの立派な特集号を出せました。いつもより質量ともにずしりと重い「文学と教育」を読者の方々にお届けできることをうれしく思っています。〔…〕(鈴木)   ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、53頁、300円
 
1975.11.--  第94号  ▼文教研の一年の研究が集約的に問われるものとして、文教研全国集会が位置づけられる反面、それはまた、新たなる一年への出発点として、課題が明確になる場でもある。/第24回全国集会は、芥川文学から太宰文学へ、その教養的中流下層階級者の文学の系譜が明らかにされると同時に、井伏文学から太宰文学へという道筋が鮮明に浮彫りにされた集会でもあった。声なき声に耳傾けた井伏の姿勢を正当に受け継ぐ中で、十五年戦争下の太宰文学が花開いたのである。芥川、太宰と研究をすすめてきた文教研の前に、井伏鱒二の姿が大きく浮かび上がってきている。/今号はそうした24回集会の成果を総括し、今後の研究方向への指針を明らかにする特集号として編んでみた。巻頭言で鈴木益弘氏も指摘しているような教育現状の中で、真の国語教育を守り育てていくには、既成の文学研究によりかかった教材研究では如何ともしがたいだけに、教師自身の手に有効な文学史を、と思いながらの編集である。/そうした意味で、熊谷孝、夏目武子両氏による対談「井伏鱒二の文体」は、是非熟読玩味して欲しい。『幽閉』から『山椒魚』への過程を、文体論的に思想の転換過程として押さえ、それを前提として井伏文学へアプローチしようとする方法は、単に井伏論における問題としてだけではなく、文学研究の方法として画期的なものを具体的に示しているものだからである。井伏論の文壇的方向を示したものと考えられる。群像十一月号所掲の「井伏鱒二論」がそうした前提を抜きにして展開されているだけに、この対談は注目されてしかるべきであろう。/集会ゼミの総括、夏目武子氏の『右大臣実朝』論も忘れられない。(S)  編集長:佐藤嗣男
・大乗写真印刷(写植)
・A5判、37頁、200円
年四発行(季刊)
1976.02.--  第95号 ▼えてして、というよりはどういう訳か、井伏文学についての研究や論究を眼にする機会は少い。一九三〇年代の文学の解明を、という課題意識にもえて、私たち文教研が取り組んでから、二〇年代の文学体験、言い換えれば大正デモクラシー下の文学体験を準体験して行く道のりの中で、どうしても抜き得ない井伏文学の存在を思い知らされるのである。緒についたに過ぎぬのかも知れぬ。が、文教研の井伏文学へのアプローチは、そうした井伏研究の不毛の現状の中で画期的な一歩を印すものだ、というのはたんなる自負にすぎぬのだろうか。否、である。/井伏文学を論じるのには、機関誌の紙幅が足りぬ。頁数が少くて執筆者に意を尽くしてもらえない――従来の悩みが新たに相乗されてくる。/24頁立、年6回発行の変更は可能か。32頁、4回の線ではどうだろう。。その間年2回別枠でニュースを発行することで例会の成果を跡づけていったら。編集部の願望、そして決断。読者諸子よ、許されたし。/年4回発行へ踏み切って、今号がその二冊目。/目玉は前号に続いての、熊谷孝、夏目武子両氏の対談「井伏鱒二の文体――その成立過程(二)」である。『幽閉』から『山椒魚』への過程を思想の転換とそれに見合う文体の変遷の過程として押さえた、ユニークな画期的な対談となっている。/今号から新しい企画が登場した。「文教研理論形成史(一)」がそれである。文教研の文学研究における、国語教育における、ひいては日本の文化における位置づけの試みが出来るのではないかと期待される。〔…〕(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、33頁、200円
  
1976.05.-- 第96号  ▼ロッキード事件に象徴される、すべての原因を人的構造或いは政治的構造にのみ見ようとするような現在の広範な論調の底流には、母国語への、母国語文化への愛情がいささかも感じられない。いきどおり、悲憤、といったポーズの陰でのことば遊び・ロジック遊びといった高等遊戯の域を出てはいない――極端に言えばそうした感慨しか残らないのである。/私たち<文教研>はそうした現実に自己の存在証明をかけて立向っていかねばならぬ以上、私たちは私たちの民族の言語観そのものへの問い直しを、声を大にして、叫び続けなければならないのだ。母国語への愛情の喪失が常態であるような現実を導びかぬために、「牢獄の鍵」だけは手渡したくない、と心から思うが故にである。/母国語を真実愛し続けた太宰治の文学を文教研が取りあげ世に問うてから、はやくも一年になろうとしている。(文教研第24回全国集会<文学史の太宰治>)商業専門誌等を中心として静かなる太宰ブームがまたまたおこってきている。実存主義的心理学主義的解釈が太宰文学を矮小化する。怒りを覚えるのだ。太宰文学を私たちの手に取り戻したい。真剣に生き続けた太宰の文学を。熊谷孝氏の『右大臣実朝』論を上梓されることを願ってやまない。/「文教研理論形成史」も二回目を迎えた。母国語を問い続けて来た歴史である。ひいては日本の敗戦後の国語教育史への一つの切り口からの総括の試みでもある。読者諸子の批判・検討をあおぎたい。〔…〕(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、29頁、200円
 
1976.08.-- 第97号  ▼階級社会の存続するかぎり、<倦怠>の問題から私たちは逃れることはできないだろう。現代史としての文学史を構想するとき、その倦怠の問題を回避せず、真正面から対峙した文学が、教養的中流下層階級者視点に支えられた文学であったことを見落すことはできない。芥川文学が、太宰文学が、改めて<倦怠>の角度から問題にされなければならないのだ。/と、そうした視点から、その芥川文学と太宰文学との間に屹立する井伏文学を眺めたとき、まさに井伏文学が、冷徹な自己凝視の上に、同時代のほとんどの作家が回避、あるいは無関心をきめこんだ<倦怠>の問題を真向から自己の文学の主題的発想とした稀有の文学であったこと――が鮮明に見えてこようというものである。/井伏文学を<倦怠の文学>と位置づけた熊谷孝氏の巻頭論文は、そうした意味で、単に文教研・第25回全国集会の方向を指し示すのみならず、井伏論(作品論・作家論)自体への、ひいては文学史研究への決定的な提言となっている。本号があまねくひろく読まれんことを、編集子は、心ひそかに思うものである。〔…〕/「文教研理論形成史」も三回目を迎えた。文教研がただ研究のための研究に没頭しているのではなく、真の教師として、母国語教育を真剣に考え実践しようとしている姿勢を汲んでいただけるものと思う。〔…〕(S) ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、53頁、300円
 
1976.11.-- 第98号 ▼〔…〕国語教育の原点――言語観・文学観の異質性を抜きにして新しい検定教科書への賛意・賞讃が「私たち」の陣営から発言されるような今日、より私たち文教研の姿勢とその理論の研磨は、私たちの教育現場から、教育現場をとおして高められ強化され、顕現化されていかなければならないであろう。そうした意味では、これからの一年、従来にもまして文教研はより積極的に〝教育づく〟必要があるのかもしれない。<教師のための文学史を>は、具体的な作品の教材化とその指導過程例とをあげていくことで、教室現場との不可分な関連性をもつことになろう。本誌もまたその一助としてささやかなイメージ・チェンジをすることになる。従来の「私の研究・私の教室」をさらに充実させ、スペースもとって、私たちの教室実践例等、出来うる限り紹介していく考えである。/今号はその第一歩である。教師としての自己の姿を思わず顧みてしまった――熊谷孝氏の文章[「暗い谷間の教師像」]は、そうした第一歩にふさわしいものであろう。併せて私たちの自主変性運動の何たるかをも、その根源から問い直すものとなっている。〔…〕(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、29頁、190円
 
1977.01.-- 第99号  ▼新たなる年を迎える。混迷のなかで<歴史>の重みがひしひしと感じられる。――一月はまた日教組全国教研の月でもある。教師として、未来を担う子どもたちを前にして、いかなる国語教育を行なおうというのか。事態が混乱のきわみにあればあるほど、原点・原理への立ち返りが必要なのかもしれない。/教育審議会の答申が昨十二月に出された。何らかの形で全国教研の討論の場にそれに対する批判が反映されることであろう。ぜひ、そうあってほしいものである。そしてその際、言語機能主義的な方向での検討ではなしに、国語教育の、ひいては国語科教育の教科構造論を踏まえ上での検討であってほしい。切に日教組全国教研国語分科会へ望むところである。/私たち文教研は、<母国語教育としての国語教育><文体づくりの国語教育>という押さえの上で、国語科教育の中軸をなすものは<文学教育>であらねばならないと長年主張し続けてきた。/ところで、文学教育とは何か。いろいろ誤解も曲解も受けてきた。私たち文教研個々人の「私の文学教育」も改めて検証されなければならぬところにきているのかもしれない。理論と実践の相即不離の上昇循環的な関連性への眼の新鮮な輝きを改めて自己のものとしなおすときでもあろう。〔…〕(S)   ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、40頁、290円
 
1977.06.--  第100号 ▼「文学と教育」もいよいよ100号を数えるにいたった。/100号と一口に言うことは簡単なことかもしれない。が、その間にも何人かの編集長を迎え送り、そしてまた、ガリ版刷りから活字刷りへと、雑誌自体の大きさもかわった。言わずもがなだが、編集部員の顔ぶれもかわった。創刊当時の<文学と教育運動>への熱意あふるる手作りの雑誌の姿はそのままの姿ではもはやここにはない。頁数が少くないなりにも、ある体裁と形を備えたものとなってきている。/今、ここに、100号を出すに当って、それも遅延を重ねた現編集部員にとって、それがはたしてよかったのか、悪かったのか。文教研全体の運動意識の中に位置づけて見るとき、改めて100号の意味を、つまりは機関誌としての「文学と教育」の意味を、その重さを感じるのである。/とにかく、100号は、文教研生みの親ともいうべき熊谷孝先生ヘの変速インタビューを中心として、文学教育運動の理論と実践を改めて問い直す号として編集されている。「インタビュー」の「注」および「資料」はすべて編集部・佐藤に文責がある。鑑賞主義論争に関係する文献の収集はまだまだであるが、同論争が昨今ネグレクトされつつある中で、いくらかでも記録に留めておきたかったというのが本音。そうした意味では、文学教育運動に関する資料も同様とまではいかなくとも埋没しつつあるのではなかろうか。『あだ名はモール』の再録を第一回として、次号以降もそうした貴重な資料を可能なかぎり再録していきたいと思う。〔…〕 (S) 100号
・大乗写真印刷(写植)
・A5判、53頁、330円
 
1977.08.--  第101号 〔…〕▼〈文学史を教師の手に〉というスローガンを掲げての全国集会も今回で六度目となる。真に<文体づくりの国語教育>を目指すには、いかに、文学教育がなされねばならぬか。その文学教育を実り豊かにするためには、いかに教師の研究活動が実践的に推し進められていかねばならないのか。作品の基本的把握とその教材化。そして、それを可能にして行く、教師自身の文学史を。現代をより実践的に生きるための主体的な現代史としての文学史の確立を。そうした意図のもとに、一〇一号はある。(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、41頁、330円
  
1977.11.--  第102号 ▼第26回文教研全国集会も、数々の成果と幾多の問題を残して終了した。文教研の総力を挙げた、一年一回の<お祭り>である。そして、はや、十月も過ぎようとしているわけだが、無為の日々を送っているわけではない。来年の<お祭り>目指して動き出したところだ。(「研究計画」参照。)▼文教研の会員の大多数は教師である.今までは、文学教育の教材化の基本過程としての作品把握の方法、教授過程の中核をなす総合読みの方法の基本原理を明らかにしてきた。然しながら、個々の教室現場に立ちかえって見たとき、はたして、教材化された作品の、言わば、文学的ジャンルにおけるその特有の〈虚構〉のあり方に応じて授業計画が被成、授業実践がなされて来たと、自信を持って言い得るのであろうか。巻頭論文として掲げた熊谷孝氏の論考は、私たちのそうした弱点を、より実践的に、より原理的に暴き出したものと言えようか。作品把握の基本過程にジャンル論の視点を導入すべきことを、ダイナミックな過程的構造において虚構論を再検討、再構築せんとする<ジャンル論>の新しい提唱の中で、私たち教師に訴えかけてきているのである。〔…〕 (S) ・大乗写真印刷(写植)
1978.02.--  第103号 ▼「解釈と鑑賞」(至文堂)の昨年12月号紙上に山内祥史氏(神戸女学院大学教授)が詳細な「太宰治主要研究文献案内(昭49.10~52.8)」を載せている。なかでも、本誌の89~96号に掲載された文教研会員の太宰関係論文と熊谷孝氏の「太宰治『右大臣実朝』再説」(文教研編『文学史の中の井伏鱒二と太宰治』所収)とが主要文献として掲げられているのが目をひいた。また、会員の荒川有史氏の「文学史の方法について」(『国立音楽大学研究紀要』昭51.1)が「太宰治が志賀直哉と対決した秘密に迫」ったものとして紹介されてもいる。文教研の成果が広く問題にされてきている証しであろう。▼と同時に、この「文学と教育」という小さな雑誌の担わされた責任の重みを感じざるをえない。〔…〕 ▼新指導要領下の教育体制への移行、大学入試共通一次テストの実施、等々と、今年から来年へかけてますます教育情勢は厳しいものとなってきている。文学と教育と! 心して研究に実践にいそしんで行きたいものである。〔…〕 (S) ・大乗写真印刷(写植)
 
 1978.05.--  第104号 〔…〕▼ナカマ(仲間)の絆を奪い取られ、エゴイズムと孤独感の彼方に追い込まれつつある<日本の子どもたち>に、<対話>の素晴しさと、本源的な人間性の中核をなす<対話の精神>の不可欠性を発見させたいと思う。ダルマと対話する子どもにその根源を見た太宰治(『玩具』)の文学的生きざまを忘れることができないのである。▼文学とは、文学の精神とは対話の精神である。文学のよってたつ人間性の追究の核心を、それは、凝縮したかたちできわめてすっきりと言いあてている。今号掲載の「対談・小説とは何か」は、そうした根本的な指摘も含めて、様々の示唆に富むものであろう。〔…〕 (S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、33頁、330円
   
  1978.08.--  第105号 〔…〕▼文教研も数えて創立26年――貴重な足跡だったと思う。そして、全国集会も27回を数える。今号は27回集会のレジメを中心に特集を組んだ.長篇小説をどう読むのか。教育現場からは、その<いかに>が問題とされてくるであろう。どんな作品にも、一様に適用しうる読み方の方法というものはない。私たちがなが年提唱してきた<総合読みの方法>も、そうしたものではなかったはずだ。作品に応じたダイナミックな読みの方法が総合読みの方法だからである。今回は、長篇小説における、具体的には『津軽』(太宰治)と『かるさん屋敷』・『安土セミナリオ』(以上、井伏鱒二)に応じた読みの方法を検討するわけである。おおいなる討論を期待するところである。▼文教研のこの一年の研究例会は、「例会テーマ一覧」を見ていただければわかるように、文学教育のための文芸認識論の追究と教材化のための基本的作品把握の検証に時間の多くを割いている。そして、基本的作品把握の対象は、その多くを成人文学に求めてきた。が、けっして児童文学をないがしろにしているわけではない。会の中の、小学校の教師を中心にした児童文学グループによる地道な研究活動が進められているのである。福田、佐伯両氏の論考からその辺を汲んでもらえたらと思う。(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、36頁、330円
  
1978.11.--  第106号 ▼第27回全国集会も無事済んだ。本号は文教研新年度を飾る第一号である。今年度は、36頁24行立を基本として、読みやすい機関誌を作ることに専念してみたい。▼『かるさん屋敷』に即しながら、同時にその整理を長篇小説論、文学論一般にかえして行くという、そしてまた井伏文学に帰って作品論を組み立てるという、いわば、<一般化への志向>と<一般化による個別化>といった方法意識の欠落をどこか持っていたのが今次集会ではなかったか。今号の集会特集はその後の〝苦闘〟の記録でもある。▼そうした方法意識の問題も含めて、文学教育と文学研究の統一を説かれた熊谷孝氏の集会講演記録であったように思う。(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、48頁、330円
  
1979.02.--  第107号 ▼新年第一号である。世はグラマン問題などで湧いている。昨年末には、国語審議会の制限漢字案に対する復活漢字のことが報じられていた。それに第一回目の共通一次試験。政治に、教育に、いわば〝無解決の解決〟。新たな<倦怠>の拡大再生産。世は依然として闇である……。▼改めて問うてみた。<文学教育とは何か>児童・生徒の人間性を育むために、世が世であるだけに、個々のメンタリティーにかかわる文学教育の重要性を再認識するところから、執念く新しい年を歩むために、である。▼日本近代文学の異端の系譜を追う。熊谷講演のレポートと「森鷗外と〝あそび〟の精神」はよき先達である。(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、36頁、330円
 
1979.05.--  第108号 ▼発行は遅れたが、本号も充実した論文で編集できたと思っている。どれもこれも持続的な研究と実践に裏づけられた論文である。▼佐藤嗣男氏の「『大川の水』小論」は芥川文学研究史上、また日本近代文学研究史上画期的な論文である。他誌に発表されたものであるが、より多くの方々に読んでいただきたい思いで、氏の了承を得、一部改稿のうえ転載することにした。/ぜひ、ご検討いただき、御意見を氏に寄せられんことを。(K)  ・大乗写真印刷(写植)
 
1979.08.--  第109号 〔…〕▼早いもので、昨夏、二十七回目の全国集会をもってから、もう一年である。八王子大学セミナー・ハウスの時計塔の前で〝原爆許すまじ〟を念じてから一年である。原子力にかかわる問題はあとをたたない。そして、エネルギー問題。合理主義がはばをきかす世相の蔓延は必定――。子どもたちの心はますます蝕まれていく。▼子どもたちのメンタリティーを〝包装紙のつぎはぎ〟にしないために。〝冷ややかなガラスの小箱〟にしないために。真剣に、子どもたちのメンタリティーを育む、教師のメンタリティーを揺さぶる<文学教育>の実現を! 新たな思いで迎える二十八回目の全国集会である。▼昨年は『井伏鱒二』、今年は、『太宰治「右大臣実朝」試論』(前著とも鳩の森書房刊)と熊谷孝先生の仕事は続けられている。文芸認識論の立場から文学史論の構築を目指される先生の道は、いよいよ文学系譜論の問題へと進められてきた。今次集会の講演はその辺が焦点となりそうである(本号レジュメ参照)。乞御期待! 〔…〕 (S) ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、46頁、380円
   
1979.11.-- 第110号 ▼文教研の年度のたてかたは、いささか世の慣習とは異なっている.九月から翌年の八月までの一年間である。秋風とともに頭が明晰になるから、ということではない。八月五・六・七・八日の四日間――文教研の<お祭り>、全国集会に、一年の総てをぶっつけていくからだ。▼第28回全国集会も終った。その概略は、本号で特集を組んだ「集会の記録」を読んでいただければいい。文学の名に何値する文学は、真にメンタリティーに徹した文学だ。鷗外の歴史文学を印象の追跡するとき、それは確信となって胸に響いてくる。この集会で打立てられた『阿部一族』論と、『山椒大夫』論は、多くの学者や評論家によって論じられてきた従来の論とは趣を異にするものであろう。まだまだわからぬ点を含んでいるかもしれない。が、メンタリティーとしての文学をそのままに読むとき、こうした結論の方向しかないのではなかろうか。広く、御批判・御教示をえたいものである。▼文芸認識論と文学史論との相互補完的関係の上に文芸学理論を打ち立ててきた熊谷孝先生の指導のもとに前記作品論も可能となってきた(荒川論文参照)わけだが、今、私たちはさらに文学系譜論の導入によって(「研究計画」参照)新しい道を歩み始めている。来夏のお祭りを目指して、である。〔…〕 (S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、48頁、330円
    
1980.02.-- 第111号 〔…〕▼第一期の研究例会の内容は実にハイ・レベルのものであった。文学教育の担い手としての個々の文芸認識論が問われると同時に、そこからまた、よりまっとうなそれの構築を目指してつきることのない自己葛藤が始まっている。▼集団の成果を、その足取りの一つ一つの節目で整理し記録しておくこと。その限りでは、本誌の編集プランは一歩遅れをとっているようだ。文学史の中の文芸認識論・その展開――北村透谷の場合、など十分に対応しきれていない。編集部、自戒。▼ところで本誌には、熊谷孝先生の「訳稿『小説総論』」を掲載させていただくことができた。従来、難解なものとされてきた四迷の「小説総論」が、ここに、初めて、その本来の姿を現わすことができ得たように思う。文芸認識論史研究の中に貴重なテキストを提供された先生ノご努力に心から謝したいと思う。〔…〕 (S) ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、32頁、330円
   
1980.05.-- 第112号 ▼文教研の会員の大半は教師である。新学期が始まって一ヶ月。今が一番シンドイ時であろうか。▼というわけではないが、今号は難産であった。文学史の中の文芸認識論の展開、その中に北村透谷を位置づける。透谷の(文学的)評論を中心に可能な限り、透谷の文芸認識論の全体像を浮彫りにしてみよう。欲ばらずに、である。それが今号の中心企画(特集)であった。が、どうしてどうして、透谷の文章自身にも責があるのであろう、執筆担当者、キリキリ舞いであった。▼が、苦闘の末の力作ぞろい。文教研版透谷研究の第一歩として見事に輝いている。とりわけ、「<対談>透谷文学の成立」で示された熊谷孝氏の指摘の数々は、今後の透谷研究への新しい視点を示唆している。たとえば、ジャンル論からの切り込みである。現代の文芸認識論の問題につながるものとして、「小説=叙事詩論」というジャンル意識が透谷にあった、という点である。詩(『楚囚之詩』)からいわば劇詩(『蓬莱曲』)へ、そして小説へ、という道筋を押さえられながらの指摘であったように思われる。その上に立ってはっきりと、透谷文学の成立が『厭世詩家と女性』前後にあるとする、その指摘は、従来の透谷研究には見られなかったものである。 〔…〕 (S) ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、36頁、180円
   
1980.08.--  第113号 ▼いよいよ夏の全国集会である。昨秋からの文教研の集団研究の成果が真に問われる時である。今号は、全国集会へ向けて、その報告レジュメ集とした。本誌創刊以来、初めての八〇頁、大冊である。▼熊谷孝氏の「文学の授業」は、今集会の、私たちの前提となる基本姿勢への新たなる問いかけである。広島の仲間だけでなく、広く読んでもらおうと企画した。(S)    ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、81頁、360円
  
1980.11.--  第114号 ▼新しい文教研の年度(一九八〇・八・九~一九八一・八・八)を迎えての第一号である。▼昨八〇年度は、本誌にも、いろいろなことがあった。まず、その第一は、誌代の値下げである。112号(36頁、一九八〇・五)をおもい切って一八〇円にした。値上り値上りの天井知らずの世の中、金が問題ではない。より広く、私たちのこの雑誌を読んでもらいたいからだ。そう言い切れるだけの仕事はします。▼ということで、その第二は、113号(同・八)を80頁平とじにしたこと。背文字を入れて……。身の引きしまる思いがした。厚さの関係で誌代はさすがに一八〇円にはできなかったが。 何故か、いくらか様になってきたのではないか。……どうして、こんなに真摯で、研究内容も素晴らしいものが、かくもつつましやかでいなければ、ならないのか。▼昨今の状況を見よ、である。傾斜しっぱなしの世の中を見よ、である。怒れ、そして、語れ、である。▼今年も、36頁立年四回発行一部一八〇円を堅持しながら、すぐれた研究成果を反映させるべく増頁目指してガンバルつもりである。 〔…〕 (S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、58頁、260円
  
1981.02.-- 第115号 ▼一九八一年の幕明け、どうも、がんばしくない。わが精神に自由のための闘い――苛烈なものになるやもしれぬ。▼が、透谷の短き生涯の、大導寺信輔の青春の闘いの軌跡を思い起こせば、である。▼「座談会・西鶴の発見」の中での熊谷孝氏の発言は、従来の既成の西鶴論を根底から揺るがすものである。と同時に、文学教育にたずさわる者にとって、基本的な種々の問題を豊かに示唆してくれている。▼熊谷氏の、西鶴=ブルジョア文学説の否定と、画期的な西鶴浮世草子三期説は、西鶴をわれわれ民衆の側に〝奪還〟する大きな理論的根拠と勇気を与えてくれるものである。思えば、文教研の闘いは、芥川の、太宰の、井伏の奪還を、であった。(S)  ・大乗写真印刷(写植)
  
 1981.08.-- 第117号 ▼本誌の115号(二月刊)では、福田隆義文教研委員長のアピール(「今こそ文学教育を!――校内暴力・非行化問題は生活指導だけでは対応できない」)があった。116号(五月刊)の巻頭言で(「教室に土足で踏み込むものは何者だ!」)は山下明氏の怒りに満ちあふれていた。内外から、今、教育現場は危機にさらされている。そうした状況への、文学教育の現場にたずさわる者からの心からの叫びであった。▼今、なすべきことは何なのか。J何を、いかに、なすべきなのか。今こそ真の文学教育が必要なのだ! 文教研の過去の提言の歴史を再び思い出そう。一九五四年の、一九七〇年の、熊谷孝氏の論文を、114号(「通俗文学と純文学と」)と116号(「〝国語教育としての文学教育〟から〝文体づくりの国語教育〟へ」)とにそれぞれ再録したのも、そうした意味においてであった。そして、改めて文学教育文学教育を考える小特集を116号に組んだ。▼そうした中で、今号には<常任委員会声明>を掲載する。反動的教科書批判に対する反批判である。そして、ともに闘う仲間に対する<自主編成による教材化>の呼びかけである。決して〝遅きに失した〟わけではないのだ。――そうした決意は、第30回を迎えた今次全国集会の各報告レジュメの底流となっている。<精神の自由>である。異端の文学の系譜の復権と奪還を抜きにして、具体的には、そして日常的にも、特に国語科の、文学教育科の教科書攻撃に対する闘いは不可能事になってしまうのだ。▼そのためには、まさに、文学史を教師の手に! である。そうした意味においても熊谷孝氏の学問業績は画期的である。115号の「西鶴の発見」、今号の「芭蕉文学への視角」と、近代の異端の文学系譜と近世文学の真の接点を求めて、偉大な二人の先達が発見し直され奪還されている。(S) ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、78頁、360円
   
1981.11.15  第118号 ▼新入会員三名を迎えての、文教研新年度の幕明けである。〝精神の自由〟の前に、現実の壁はいやが上にも厚い。ガンバッテ行コウ、である。▼文教研理論の形成過程をあとづける、きわめて現代的な意味を持つと信じる。本誌には、熊谷孝氏の旧稿「不可知論と芸術学」を再録させていただいた。記して感謝を。▼現在の文学状況・文化状況、黙して通れぬ。今後とも、随時、本誌上にそうした状況へのタイムリーな発言を掲載していく。今号では、佐藤嗣男氏にその戦陣をきっていただいた。(S)  ・大乗写真印刷(写植)
・A5判、62頁、270円
    
1982.02.15 第119号 ▼文教研の研究例会は、毎月、第二、第四土曜の二回開かれている。更に、冬(12月26~28日)と春(3月27~29日)には、東京・八王子の大学セミナー・ハウスで研究合宿がある。その間の成果は可能な限り本誌には反映させているのだが、こぼれは多い。そこで、今号から、「例会拾遺」欄を設け、本誌の穴を補ってあまりある「文教研ニュース」(ガリ版刷り常時発行)から、適宜、抜粋させていただくことにした。〔…〕▼〝文学教師〟、文学教育の教師は、なにも、学校教師の専売特許ではない。島崎藤村が童話の中で心をこめて語ったように、教師はお友だちの中にもいる。父母が、兄弟姉妹が、……みんな、教師なのだ。では、あなた(・・・)は、どうなのですか? 「巻頭言」の佐伯昭定氏の語り口を真似るわけではないが、あなた(・・・)は、本当に、真の文学教師たりえるのか。わが身をかえりみながら、駄目な自分をみつめつつ、それでも、あなた(・・・)に問い返してみたい。――本号がそうした課題を提起し得るならば幸甚である。(S) ・大乗写真印刷(写植)
・30字×24行詰
・A5判、65頁、270円
 
1982.05.15 第120号 ▼バック・ナンバーが120号になった。熊谷孝氏が巻頭論文で訴えている。危機的状況の中での<平和教育としての文学教育>こそを。本誌も装新たに(行組と活字の号数をかえた)再出発だ!(S)  たかもり印刷(写植)
・28字×22行詰
・A5判、61頁、270円
  
1982.07.25  第121号 ▼〝核〟の全面撤廃を! そうした反核の願いを運動化していくこと、その一環としての文学教育の位置づけと再認識が必要なのではないか。人間の心――人間が人間らしくあるための人間性の回復を実践的に追求する、そうしたメンタリティーのありようが運動の基盤とならねばならぬ。▼人間のメンタリティーを追求した文学――〝メンタリティーの文学〟の名に値する文学を、次代を担う世代を育むために教育の場に! そうした《平和教育としての文学教育》であることを再認識したいと思う。〔…〕 (S)  ・たかもり印刷(写植)
・A5判、73頁、290円
 
1982.11.25  第122号 ▼『裏声で歌へ君が代』(丸谷才一)が十二万部以上も売れている。最後の数ページが、読者の自由なイメージにゆだねる――この作品を完結させるのは読書一人ひとりの〝あなた〟です、ということで白紙になっている。リアリズム否定の作者の所業である。▼ 丸谷氏のリアリズム批判が、私小説的リアリズム否定を軸に展開されているものだとしても、そこに、規制のリアリズム文学論の脆弱さが責任の一半を負わなければならないのは当然であろう。――改めて、<リアリズムとは何か>が問われねばならぬ。本号<座談会>は、その第一歩となるものである。▼また、丸谷氏の読者観。読者を甘く見ないでほしい、である。<創造の完結者としての読者>は、氏の考えるようなものではない。そうした角度からも、是非、本誌の核論考を検討してみてほしい。内なる読者との真の対話を求める、そうした対話精神こそが真の文学を保障する。特に、井伏文学の道すじ(一九二九年)を対比させたい。(S) ・たかもり印刷(写植)
・A5判、81頁、300円
 
1983.02.20  第123号 ▼長年の念願が叶って「文学と教育」も出版社(みずち書房)から発売されることとなった。いわば、新装発行である。これを機会に多くの読者と交わり対話したいものだと願っている。▼世はまさに右旋回、とどまるところを知らぬかである。今こそ《対話の精神》が必要だ。《精神の自由》を守るために 闘い続けるためにである。▼そうした闘いを続けるためには、一人ひとりの持続的な心の支えとなる真の文学が、文学教育が、今こそ必要ではないのか。そうした思いを実践に結びつけていこうというのが、この「文学と教育」の役割である。▼教室現場の教師だけが教師ではない。父母が、兄姉が、そして先輩が、というように、教師はいたるところにいる。そうした教師たちによって日々行なわれている文学教育のための、文学研究のための基礎理論を実践的に追究する雑誌こそ「文学と教育」なのだ。▼今号は新装号、小特集として芥川文学論を組んでみた。また、《文学史の中の児童文学》という把握のしかた、是非検討してみてほしい。乞う批判!(S)  新装発行(季刊)
みずち書房(活字)
 26×22行詰
・A5判、88頁、350円
国際逐次刊行物登録
(1月)

・扉写真 
 林芙美子寓居跡
   
1983.05.20  第124号 ▼マスコミ・ジャーナリズムはこぞって〝教育の荒廃〟キャンペーンを展開している。どうも、何かが狂っている。▼数年前、「朝日ジャーナル」が<荒れる中学生>を指摘していた。では、どうするのか? 総体的に昨今のマスコミは解決の糸口すらさぐろうとはしていないようだ。極論すれば、ただあおるだけだ。▼「忠生中の六十一人の教師全員の首を切れ」(「宝石」五月号)なる化物まで登場して来た。▼蒸発亭主にアル中主婦、――家庭の崩壊のみならず、コンクリート・ジャングルの中で〝隣りは何をする人ぞ〟。▼本誌にもとりあげた国木田独歩は『源叔父』の中で、乞食の子「紀州」の非人間化していく様をリアリストの眼で捉えてみせている。口実はいろいろあれど、紀州を人情の世界の外に追いやったのは周囲の人間であり、近代の妄想だ、と。▼今改めて文学教育の重要性が再確認されねばならぬ時なのだ。巻頭言が触れ、国語教育講座の第一回目がそこから始められたのも当然のことであろう。子どもの心を培う教育の復権のためだ。(S)  ・みずち書房
・A5判、72頁、350円
・学術会議登録団体に
(5月)

・扉写真 独歩文学碑
   
1983.07.30 第125号 〔…〕▼今号は嬉しい号である。文教研が学術団体として公認された後の第一号だからだ。公的な学術雑誌としての、本誌の記念すべき第一号でもある。▼記念碑にふさわしい新しい提言がなされている。『文学的イデオロギーとしてのリアリズムとロマンティシズム』(熊谷孝)である。従来のリアリズム概念とロマンティシズム概念の再検討を迫っている。そしてさらに、写生文運動の見直しから、そこに近代散文と近代小説の成立を説く。文学認識論・文学史論の新たな展開を導くものである。▼また、教育荒廃の現状打開に対する根本的な提案がなされている。文学教育の視点の不可欠と同時に、戦後教育史の視点の導入の必要性が《座談会》で強調されている。既成の、外側からの戦後教育史に依存する限り根本的な解決はない。<戦後史を教師の手に>である。(S) ・みずち書房
・A5判、80頁、350円
学術会議登録団体
 公認後第一号


・扉写真 
 広島 三重吉記念碑
 
 1983.11.20 第126号 ▼文学が本質的には《ことばの芸》の上に立っていることを、私たちは、あまりにも、等閑に付しすぎてきたようだ。学会や教育界は言わずもがなの感がする。▼昨年の九月からのこの一年は、《ことばの芸》という視点からの文学史の再検討の期間であった。その、言わば、中間報告が夏の第32回全国集会であり、中間総括がこの集会総括号である。▼基調報告における熊谷孝氏の、言文一致と近代散文の成立を同一基盤の上に見ようという提言は、既存の文学論、特に言文一致史論の書きかえをせまるものである。《ことばの芸》という視点をおさえ直すことで、写生文論の深まりとその実践過程に、近代散文の成立を見、それと一体化した不可分の言葉の問題として、そこに真の言文一致の成立を見出すのである。▼以下、そうした提言を受けて、本誌所掲の諸論文を読んでいただけたら、と、秘かに願っているところである。▼また、文学史上、画期的な意味をもたらした<大逆事件>についても、二つの講演は様々な問題を提起している。▼国語教育講座の連載再開。謝。(S)  ・みずち書房
・A5判、88頁、350円
 




・扉写真 
 セミナーハウス本館
 
 1984.02.20 第127号 〔…〕▼今号からバトン・タッチした井筒満氏の例会レポートを見てほしい。『芥川文学手帖』の原稿を執筆してから時もそう経ってはいないが。が、『芥川文学手帖』で、善悪一如から善悪不二へと煮詰めていった芥川の文学的イデオロギーの展開過程を指摘した熊谷孝氏が、さらに、九月例会では、『鼻』のとらえ直しの視点を提起されている。肉体のハンディーに由来する疎外の社会的・階級的疎外へ展開していく様を『鼻』の禅智内供の姿に読みとるわけである。▼人間の可能性と可変性を追求した『羅生門』コースと、近代人の心理解剖を試みた『鼻』コースと、機械的に全く別個の二人の芥川を想定して、ことたれりとしていたのでは駄目だという、熊谷氏の私たちへの叱責であろう。ヤヌスの首は確かに二つである。が、身体は一つなのだ。その底流の〝大逆事件〟に誘発された倦怠の思いを見よ、である。(S)  ・みずち書房
・A5判、76頁、350円
学術刊行物認可
(第四種郵便)
  

・扉写真 隅田川 晩秋 
 1984.05.25 第128号 ▼〝教育臨調〟よきことなし。〝いつかきた道〟どころではない。トマホーク等々も含めて、……ぶっつぶさねばならぬ。▼人間らしくあることを希って、未来を担う子どもたちのために、文学教育と文学研究の果たす役割はより重要なものとなっている。▼『芥川文学手帖』にひき続いて『井伏文学手帖』の刊行を目指して、文教研、奮闘中。そこで今号は、井伏鱒二の文学をめぐっての論考を中心に組んでみた。従来の一般的な井伏文学研究の牙城を揺るがせることが出来れば、編集部としても本望である。〔…〕▼なお、情報入手おくれてしまったため、本誌の中に組み込むことが出来なかったが、『芥川文学手帖』への反響二つ。一つは、全国学校図書館協議会の選定図書に指定されたこと。もう一つは、図書新聞の四月二十一日号のブック・ガイドで好意的に紹介されたこと。以上。(S)  ・扉写真 井伏家門標 
 1984.08.01 第129号 ▼また、アツイ夏がめぐってきた。文教研、夏のお祭りの時である。全国集会も、三十三回を数えるに至った。▼人間ならば、さだめし三十三歳、働き盛りである。この一年、文教研は、『芥川文学手帖』『井伏文学手帖』と長年の研究成果を二冊の本に託して、世に問うて来た。▼全国集会の統一テーマは、「日本近代文学における異端の系譜――井伏文学を中心に」である。文学史を教師の手に、との願いから構想されている。そしてまた、それは、文学教師の条件を問い探るものでもある。▼本誌今号は、集会テキストともなった『井伏文学手帖』の、いわば補遺として組んでみた。熊谷孝氏の講演レジュメ、高田正夫氏の文責になる「『黒い雨』の再評価」など、また新たな提言を含んでいる。▼夏目武子氏の国語教育講座が再開された。中学校や高校における近代文章史の扱いに、文学教育の視点から新しい批判が投げかけられている。▼グリコ事件ではないが、教育に毒薬を注入させまいぞと心新たにして……。(S)  ・扉写真 井伏鱒二家門
 1984.11.25 第130号 ▼“ September “ ということばには、人生への再出発という意味があるという。九月――文教研の新しい年度の出発点である。▼九月総会は、全国集会の総括を踏まえて、新年度の研究計画を検討する。会員それぞれの研究姿勢が根本から問い直される場でもある。▼今回は、特に、文学教師としての自己が問われた会ではなかったかと思う。私は本当に<文学教育意識>の上に立って文学教育研究を行なってきたのか? はたまた、文学教育活動をしてきたのか? 実は、みせかけだけの〝文学教育〟ではなかったのか? 文学教育意識に立った文学研究とは似ても似つかぬ、研究のための研究に、どこか、足を掬われていたのではなかったか?▼その意味では、常任委員会提案の「文学教育意識の喚起を」は、文学教育運動の根本的なあり方を示唆するものでもあろう。本誌に、特に掲載させてもらったところでもある。〔…〕(S)  ・みずち書房
・A5判、76頁、450円
・「誌代値上げについて」


・扉写真
 セミナーハウス講堂
 
 1985.02.25 第131号 ▼昨今の話題の一つに、「国民の八割以上が中流意識」という経済企画庁の調査結果がある。自分の生活水準が「中」と判断している人が八割以上もいるということだ。▼ところで、「上」と答えた人がどのくらいいるかというと、今回は、五・四%である。一九七二年が二・五%、七五年が三・八%だ。約十年の間に倍増したことになる。▼ともあれ、こうした生活水準意識が、階級論とは無縁の、きわめてムード的な幻想意識にすぎないことは、熊谷孝氏が「銃後意識から不沈空母意識へ」の中で述べられているとおりだ。▼自分を取り巻く現実について、幻想にとらわれない認識を持つこと。きせずして、今号の諸論考は、そうした自由な精神に根ざすものとなったようだ。▼今、若者たちの間では、「マルキン」「マルビ」という言葉が流行しているという。金毘羅様の御神符に人気も出ている。「〇(マル)キン」と「マル(〇)ビ」に二極分解させて割り切っていく姿勢も、中流意識幻想が、ひいては上流志向幻想があおりたてるものであろう。そして、弱者や貧者が切り捨てられる。心の病いは深刻なものだ。(S)  ・みずち書房
・A5判、80頁、450円





・扉写真 井伏鱒二家 
1985.05.25  第132号   ▼報告者が壇上でリポートする。おわると、二、三、質問がある。報告者が手際よく答える。質問の全く出ない場合もある。報告者はそそくさと壇を下りる。参会者は一生懸命書きとったノートを急いで鞄にしまう。今日もまた学ばせていただいた、その充足感を胸に抱いて会場を出る。▼ある研究会の風景である。オレのところはそうではないよ、熱心な討論が展開されるよ。そういう声が聞こえてくる。だが、自分を裸にして、虚飾なしに、本音をさらけ出してるのかな。教養のための教養に堕してはいないのだろうか。どこかで、自己を見失ってる、ということはないのかしら。自分にそのシッポがあるから、そう思うのだよ。▼文教研の研究会は、そうしたシッポを切り捨てようとしている。どんなに立派なシッポだって、所詮、シッポはシッポさ。人に見せびらかしたとて、何の名誉にもならぬではないか。▼『芥川文学手帖』から『井伏文学手帖』へと質的に転換した文教研は、今『太宰文学手帖』にとりかかっている。熊谷氏の「太宰治語録」、その貴重な礎である。(S)             ・みずち書房
・A5判、76頁、450円



・扉写真 禅林寺茶室
             
1985.07.20  第133号 ▼「やあ、どうも。こんにちわァ。」「おや、なにくってるんだァ。」話しかけられたリスはキョトンとしてふりむく。そしてまた、一心不乱に、何か地上の木の実を拾って食べている。▼話しかけたのは今年七十一歳になるというドロガメさん(高橋延清=元東大北海道演習林林長)だ。四十年余り〝富良野の森〟を見守っている。▼ものに執着する心を捨てたとき、はじめて森の声が聞こえてきたという。木の一本一本と、動物たちと、声をかわすのだ。▼六月九日のNHK・TV特集「倉本聡の森と老人・北海道・富良野」を見ながら、あっ、ここに朽助がいると、思わずなつかしさがこみあげてきた。井伏鱒二の文学の起点となった『朽助のゐる谷間』(昭和4)の、あの朽助である。森の木の音を聞きわけることのできる老人の姿が浮かんでくる。▼ものにとらわれずに、心をひらいて耳を澄ますという、そうした姿勢を私たちも是非もちたいものだ。そこに精神の自由を持続させたいとも思う。▼自由な精神で、とらわれずに太宰文学を読む。本号の小特集はそうした祈りをも含んでいる。(S) ・みずち書房
・A5判、68頁、450円
 



・扉写真 太宰治の墓
1985.11.20  第134号  ▼『井伏鱒二自選全集』の第一回配本が新潮社から十月九日に出た。従来の全集とは異なって、大きな字で組んであって、読みやすい。巻頭を飾った作品は、ご存知『山椒魚』である。▼読み進めていって、驚いた。またまた改稿されている。特に、作品の末尾が、「けれど彼等は、今年の夏はお互に黙り込んで、そしてお互に自分の歎息が相手に聞えないやうに注意してゐたのである。」で終っている。蛙が不注意にも山椒魚より先にもらしてしまった歎息がきっかけとなって両者が和解していく、従来の流布本の、あの最後の場面がみごとに削除されている。▼いわば、新しい版を出すたびに加筆削除してきた井伏さんである。その時点、その時点での、自作を最善のものとしようとする作家魂のあらわれであろうか。その限り、一九八五年段階の『山椒魚』としてわれわれ読者は楽しめばよいのだろう。▼けれども、一九二九年の『山椒魚』を、忘れてしまうことはできないだろう。「今でもべつにお前のことをおこってはゐないんだ。」あの優しい蛙のことばをいつまでも胸にしまっておく自由を、読者は持っているのだから……。(S)  ・みずち書房
・A5判、72頁、450円





・扉写真 禅林寺山門
  
1986.02.28  第135号  ▼編集長、ダウン。やはり厄年、タタリじゃ。はたまた過労か。いやいや、あれは酒の呑みすぎです。巷の声、いろいろありましたがともあれ、今号、遅延発行とあいなりました。復帰した編集長をはじめ、編集部一同、深く陳謝するところです。▼国語教育講座の連載をはじめてから、早いもので、もう十回、あしかけ三年ということになりました。一応、十回ということで今号が最終回。しかしながら、執筆を担当して下さった夏目武子さんのお仕事が終わったわけではありません。夏目さんの情熱あふれる文学教育へのあくなき探求、機会あらば、また誌面に展開させてほしいと願っています。▼今年もまた、一月二十五日、二十六日と〝共通一次〟が行なわれました。文学教育の視点から見れば、○×式のテスト、若者たちからますます思考力を奪いとっていきます。<私の教室>で熊谷孝氏が叫んでいます。「イヌに食われろ、共通一次」。全くその通りなのです。太宰治は言いました。若者よ、思索の散歩者たれ! でも、思索の散歩者をネグラ[ママ ネクラ?]として排斥する若者たち。思索への情熱を彼らに。まさに文学教育の季節なのです。(S)  ・扉写真 禅林寺の墓
 右 太宰・左 鷗外
 
1986.05.25  第136号  ▼やはり編集長は厄年だったようですよ。前号で編集長ダウンをお知らせしましたが、胃病が回復したのも束の間、今度はなんと右手を痛めたのだそうです。よせばいいのに、本の整理を始めて、本の一杯つまったダンボールを棚にあげようとして、さっと手を引けばよいのに、もろに棚と重いダンボールの間にはさまれてしまったそうな。ペンが持てない、後厄だ、と、十日ほど指をサロンパスでぐるぐる巻きにしながら大騒ぎをしておりました。▼ペンを持てないのもつらいのでしょうが、集団研究の成果を摂取し、消化し、考えながら、一つの論考を完成させていくのもむずかしいものです。さらにその出来上ったものが目の前で徹底的に批判されるのも厳しいものです。<『太宰文学手帖』の検討を終えて>の三執筆者の文章にはそうした想いが滲み出ているようです。▼が、同時に、仲間の徹底批判を受ける喜びをもまた、三氏は語っています。▼今号から新しく<続国語教育講座>が始まりました。担当の福田さんは自分の教育遍歴を振り返るところから始めています。温い御批判、期待しています。(S)  ・扉写真 小倉の鷗外①
 小倉の鷗外旧居
1986.07.30  第137号  ▼また、一年に一度のお祭りの日がやってくる。一年かけての、集団の研究成果を東京・八王子の大学セミナー・ハウスで、多くの人に問うわけだ。厳しくもあるが、また、やりがいのある〝お祭り〟だ。▼この一年、太宰、太宰で明け暮れた。『太宰文学手帖』を刊行したのが昨年の秋。それは、改めて太宰文学にアプローチする第一歩であった。『手帖』の徹底的検討。そして、太宰文学の達成点である『右大臣実朝』への再挑戦。▼けれども、文教研はミーチャンハーチャン的太宰ファンのたまり場ではない。何よりも、自身に文学を必要とする、文学的イデオロギーの主体的獲得を願う文学教師の、真摯な集団討議の場なのだ。▼本誌「授業とテストの問題」は、その文学教師の姿勢を問い返す、実に12時間に及ぶ討論のダイジェストである。記録テープの文字おこしに一ヶ月を費やした、山口章浩・山口りか・田中久美子三氏には記して感謝を。▼自己の主体を問わない文学の読みは読みではない。「てい談」は訴える。リアリズム志向のロマンチシズムを! 太宰の検証を通して自己の中に、その情熱を持ち得るか。祭りはここから始まる。(S)  ・みずち書房
・A5判、80頁、450円
・「日本学術会議だより」
(171号まで連載))
 


・扉写真 小倉の鷗外②
 小倉の鷗外旧居
1986.11.25  第138号  ▼読みかえせばかえすほど、その世界が奥深いものであることを思い知らされる。第35回文教研全国集会のほとんどの時間を当てて行なわれた<ゼミナール『右大臣実朝』>を終えた時の感想である。▼けれども、そこで『右大臣実朝』の世界が全てわかったというものではない。今号は全国集会総括小特集と銘打って、そのゼミの総括に多くのページをさいた。その中にも、集会以後の新しい発見・発掘がいくつか語られている。▼『右大臣実朝』を最高の達成点とする太宰治の文学のスケールの大きさをさらに実感する。荒川由美子氏が障害児とのかかわりの中で、実践をとおしてふれている。障害児が成人していく過程でぜひ『右大臣実朝』と出会ってほしいと。▼それはひとり障害児のみへの願いではあるまい。チェルノブイリ原発事故、バミューダ沖の原潜沈没、SDI交渉決裂と、まさに「神も道徳も無視してしまった人間」の所業を前にして、いかに生きていけばいいのか。絶望を隣りにしていかなければならない私たちの前に、太宰は温い励ましと心づくしのメッセージを送ってくる。<アカルサハ……>と自問自問する実朝の声を。(S)  ・みずち書房
・A5判、72頁、450円



・扉写真 小倉の鷗外③
 鷗外旧居の胸像
1987.02.25  第139号 ▼「過去の文学に対する知識そのものが関心事なのではなくて、現代の実人生を私たちがポジティヴに生きつらぬいて行く上の、日常的で実践的な生活的必要からの既往現在の文学作品との対決ということである。」これは『現代文学にみる日本人の自画像』の〝あとがき〟にある言葉だ。文学教師たろうとする私たちにとって、文学史とはどういうものであるべきか。この言葉はそれをはっきりと語っている。▼だが私たち一人一人にとって、文学史はそのようなものとして、本当に主体的に、把握されているのだろうか。単なる知識への関心、イデオロギー主義的な姿勢。そんなものが私たちの内部に依然として巣くっているのではないか。▼そういう自己を変革し、すぐれた母国語文化の担い手に私たちがなっていくために、いま、私たちは『自画像』と取り組んでいるのである。▼「国家機密法」――それは私たちの言論の自由・精神の自由を奪うことによって、私たちの母国語文化を破壊するものである。母国語文化の破壊者たちとの闘い。それは、まさに「日常的で実践的な生活的必要」である。文学教師の担うべき課題は大きい。(I) ・扉写真 小倉の鷗外④
 小倉京町旧居跡
1987.05.30  第140号  ▼幼児から頭脳の中に同化した言語、つまり一定の文化を有し、心に滲み込んでいる一定の民族性を帯びた母国語以外の言語を以てしては思考することが出来ない、――さて真の言語とはこれを口にするよりも前に、まずこれを以て思考することの出来る言語でなければならぬ。――とは、確かフランスのギュイヨーか誰かの言葉ではなかったかと思うのだが。ところで、昨今のあるがままの日本語はどうか。▼「中国残留孤児」なる奇妙な日本語を前にしてさすがカッコ書きに転じた天声人語(朝日新聞)子と感じ入ったのもつかの間、またまたカッコ無し(4.27朝刊)になってしまった。本誌に「母国語ノート」を連載中の荒川有史氏の怒る顔が見えてくるようだ。▼思考する前に口に出るのが現今の日本語なのかもしれぬ。言・文とものそうした言語が巷にあふれている。現代日本語への関心を――夏目武子氏の呼びかけを大切にしたいと思う。精神の自由を賭けて思考し続けるために(S)   ・扉写真 小倉の鷗外⑤
 第12師団司令部跡
  
 1987.07.25 第141号 ▼「やっぱり自分が普段ものを考えている時、あるいは生きてる時に使ってる言葉でね、自分の音楽というものを表現したい……くやしいんだ! やっぱり、英語の方がかっこいいっていうのはくやしいのね、僕はね。……すごく植民地化されてる気がしてイヤなのね。」▼ロック・ミュージシャン近田春夫の言である。ロックが英語のものだということは大前提だが、ロック云々という前に、まず自分の音楽なんだと言う。日本語で表現したいと言う。▼「自分の日本語」。素晴らしい言葉だと思う。討論「国語の学力とは何か」のなかでは、ゲーテのドイツ語に匹敵する日本語の問題がとり上げられている。真に私たちの日本語と誇り得る母国語の創造・獲得・教育の問題でもあろう。近田春夫への激励も込めて、改めて国語教師の重要な役割を思うのだ。▼連載特集「現代史としての文学史」も本号が最終回。が、これで私たちの文学史研究が一段落したわけではない。一つの一里塚にすぎぬ(S) ・みずち書房
・A5判、84頁、450円



・扉写真 小倉の鷗外⑥
 鷗外橋より小倉城を
 
 1987.11.01 第142号 ▼現代にはいそうろうがいなくなった、テレビがいそうろうになったとは、タモリの言葉だが、どうにもせちがらい世の中になってしまったようだ。▼落語の世界ではないが、ひまつぶしのいそうろうとの掛け合い、言うに言われぬ味わいがあった。ところが現代のいそうろうには味わいがない。相手の顔を見ながら言葉を選ぶ。いまやそんなことはまどろっこしい。目にもとまらぬスピードで言葉が次々と発射されてくる。▼それだけではない。今度はたどたどしい口調の女の子が出てくる。おや、外人かなと思えばこれがれっきとした日本人なのだ。日本語はどうなるのだろう。そして日本人の思索は? 今号は全国集会総括号。発行日を繰り上げてもう一度現代日本語について考えてみた。(S)  ・扉写真 小倉の鷗外⑦
 勝山公園文学碑
 
 1988.02.25 第143号 ▼背中で演技の出来る数少い俳優の一人が喪くなった。文教研例会の後の〝歓談会〟を終えて、わが家のレテビでその訃報に接した。一月九日、宇野重吉、逝く。▼「ウノジュウ」が舞台に出てくるだけでピーンと舞台が締まった。画面にその後姿が現われるだけで画面が引締まった。リハーサルを見つめる演出席の姿にはまた何とも言えぬものがあった。▼「チェーホフを凍らせてはならない」という論には賛成だが、かといっていきなり電子レンジにかけたりするのには私は反対である。手間はかかるが、やはりじっくりと腰を落ちつけて、失敗を重ねながらも少しずつ温めていくしか方法がなさそうだ――とは、『かもめ』と『三人姉妹』と『桜の園』と、チェーホフの戯曲を三つも演出したウノジュウの言葉である。芝居づくりに関する言葉ではあるが、私達にも通ずるものがありそうだ。▼熊谷孝氏の「太宰文学の問いかけるもの」――太宰用電子レンジとは違うのだ。(S)  ・みずち書房(活字)
・A5判、72頁、450円



・扉写真 小倉の鷗外⑧
 鷗外旧居・厨房
 
 1988.05.31 第144号 ▼ミハイロフ演出によるモスクワ芸術座の『かもめ』と『叔父ワーニャ』を観た。ご存知チェホフの戯曲である。▼二十年ぶりの日本公演だという。そういえば、『三人姉妹』や『どん底』の、あの重厚な舞台が思い出されてくる。重厚さといえば、今回の舞台もなかなかのものだ。半月前に俳優座で観た岩﨑加根子=ラネフスカヤ『桜の園』には出せなかった味わいである。▼が、ミハイロフの舞台には、どこか違和感を覚えてしまう。二本ともかなり原戯曲に手を入れた上演台本を用いているようだ。それはそれでもよいのだろうが、チェホフ的ペーソスは損われてしまったのではないか。▼見える物の向うに見えないものや聴こえないものを見たり聴いたりさせてくれるのが、チエホフの世界ではなかったのだろうか。とにかく、舞台装置にせよ効果にせよ、出せるだけ出し尽したという感じなのである。▼ところで、そういう私の鑑賞のありようは、はたして、まっとうなものなのか。鑑賞ぬきに批評も何もありはせぬ。熊谷孝氏の「文学の科学と鑑賞体験と」は、そうした鑑賞のありようを、根本から問い直すものともなっている。(S)  ・みずち書房
・A5判、76頁、450円




・扉写真 小倉の鷗外⑨
 鷗外旧居と胸像
  
 1988.07.30 第145号 ▼6月23日オヤッと思って朝刊朝刊を取り上げた。朝日新聞の「折々のうた」(大岡信)。小さなコラムの中に、懐かしい名前を見出した。▼「灯取虫浩瀚(ひとりむしこうかん)にして(きょう)薄し 原田浜人(はらだひんじん)」――原田浜人先生。本誌一一三号で熊谷孝氏が、昭和一ケタの沼津中学校時代の英語教師だった原田先生の姿を伝えている(「文学の授業」)。〝アメル先生は民衆の国フランスの復活を心から願ってフランスばんざいといって授業を終わるでしょう。〟ミリタリズムの支配する学校での、手刷りのテキストによる英訳の『最後の授業』(ドーデー)の授業。同じ沼津中の後輩、大岡信氏の胸にも残る原田先生。▼句は、『ホトトギス雑詠選集 夏之部』(昭和15)所収のものという。一人の、人間としての教養を身につけた、否、教養を心から大切にした人の息づかいが感じられてくる。そして、その人のサイド・リーダーの授業をとおして<文学教育>が見えてくる。▼私たちの、文学教師の集会も間近である。(S)   ・みずち書房
・A5判、64頁、450円


・扉写真 秋成の墓碑銘拓本と伝自画像
 
 1988.11.25 第146号 ▼情報史観の立ち場をとる梅棹忠夫氏によれば、現在(現代)はすでに成熟した工業の時代の末期に入っており、次の情報産業の時代という新しい時代のまえぶれになっているという(『情報の文明学』)。▼プロ野球球団の身売り騒ぎ。南海、阪急といった交通産業の撤退にかわってのダイエー、オリックスといった新たな情報産業の担い手の登場。▼スポーツ界のドーピング騒動も、ソウル・オリンピックのジョンソンできわめつけに。速ければよい、勝てばよいといった、人間性喪失の、薬によって造られたサイボーグ人間の登場。スポーツ界に象徴的に顕われた近代主義の集中的現象。▼この雑誌が店頭に出るころには、天皇崩御のXデーが現実のものとなっているかもしれないが、歴史に逆行するアナクロ・フィーバーのこのていたらく。なにはともあれ、ひでぇ時代のまっただ中にいるのは確実だ。▼時代に流されてしまったら、おしまいだと思う。蘆花の『謀叛論」ではないが、人格を研け、である。人格を研くには文学が必要だ。心して『文学の科学の対象領域』における熊谷孝氏の提言に耳傾け、共に思索したいと思う。(S)  ・みずち書房(活字)
・A5判、64頁、450円


・扉写真 秋成の墓
 
 1989.03.10 第147号  ▼死者を完璧化するな。死ぬ直前の微細なミステークまで糊塗して、死者を聖化するな。――安西均の詩『中間者』の中に出てくる「事実を過剰解釈してほくそ笑む者の現れる」ことへの激情を押さえた静かなそれでいて強烈な拒否の言葉だ。▼虚飾に彩られた天皇制セレモニーのまがまがしさ――昭和天皇の大喪をにして改めて思うのである。死者を聖化するな!と。▼日の丸掲揚、君が代合唱の義務化と、またまた新指導要領の改悪強化。誰が決めたことやら、民族の意志とは別個の強制。いつか来た道。――ヤメテクレ、である。▼リアリスティックにものを見つめていきたいと思う。民族の歴史を思う。民族の息吹きを、民族の声を、民族の芽を絶やすことなく強くいきたい。(S)  ・みずち書房
・A5判、68頁、450円

・扉写真 京都詩仙堂の
〝ししおどし〟
 
 1989.07.30 第148号
第149号
合併号
▼映画の『黒い雨』を観た。監督の今村昌平はパンフに次のように書きつけている。「この映画の観客へのメッセージは、声高であってはならない。低声でなければと思い続けて演出した。いつも後頭部に井伏さんの布袋さんみたいな顔が貼りついているような気がした。何度か井伏さんと飲んだが、何時も声高でなく、低声であった。」▼今村昌平の『黒い雨』は、歴史を風化させてしまうことへの低声の怒りで満ちている。井伏鱒二の『黒い雨』は一介の名もなき庶民たちがある日突然原爆に襲われそれを背負って生きて行く姿をテンダネスをこめて描いている。そこに聴こえてくる民衆の声を今村もまた聴いている。▼歴史を風化させてはならない、と思う。現代史として、自己の主体の問題として絶えず対象化して生きたい、と思う。そして、歴史を風化させるものへの、歴史を歪曲するものへの怒りを、文学教育の場で、文学教師の立場から、臨床的に低声で語り続けてきたのが、文教研だったのだ、とも思う。▼諸般の事情から今号が合併号のやむなきに至ったことをお詫びしながらも、今号が第33回全国集会の一助たらんことを、と願っている。(S)  ・みずち書房
・A5判、98頁、500円



・扉写真 京都西福寺門
(秋成墓所のある寺)
  
 1989.11.25 第150号  ▼あと一カ月ちょっとで二十世紀最後の十年を迎える。いま、まさに、世紀末。党名の変更にとどまらず、ハンガリーは国名までをも変更するという。果して、ジャーナリスティックな「一般的危機」にとどまるのかどうか、私は(、、)知らぬ。▼ただ、私は(、、)思う。算数的次元で「世紀末」云々をはじめても意味がない。私は(、、)、好きこのんで世紀末に生まれてきたわけではないのだから。▼まず、今日が明日であり、昨日が今日である、この一日をどれだけマジメに生きていけるか、私は(、、)、それだけを考えてみたいと思う。ウソに彩られた今日をどれだけ切り捨て切り捨てやってこられたのか、ぬる燗のあわいが有機的な自然の哲理を語っているように、自分一人では存在し得なかったこの半生を、いま、じっくりと考えてみたい。▼「文学と教育」――この小さな雑誌が今号で一五〇号を数えることになった。おのが心の小さな声を、いな、おのが心にこだまする仲間の声を、物理的にはささやかな声であったとしても、それがウソでない限り、どこまでもこだまさせてみたいと思う。ホウ、髪毛風吹けばヤッパリ光る「文学と教育」だったじゃい!(S)  150号
・みずち書房
・A5判、108頁、
 本体価格 500円
(+税3% 以下同)

・扉写真 広島平和記念公園
 
  1990.03.15 第151号  ▼本島長崎市長が撃たれた。問答無用! 右翼のヤリクチはいつも同じだ。――文教研の例会では、かつて熊谷孝さんも右翼の脅迫を受けたことが話題となった。▼問答無用――右翼の常套句である。本島市長襲撃後、犯人は車で逃走したという。愚行だ、近頃の右翼もスケールが小さくなったと笑ってはいられない。その同じ日最高裁では伝習館判決が下されていた。歴史的偶然ではない。必然である。問答無用!教師は黙って教科書通り指導要領に従って教えていればいい、指導要領は法的拘束力を持つ、という。問答無用問答無用の大安売りだ。▼「人間の話し相手は人間だろうと思っていた/ところが/話し相手を探してみて/そうではないのが判ってきた」「人間同士ではないかいくらおたがいに人間らしくやろうと泣きついても通じ合わないところか珍紛漢で話しにもならないのだ」(高木護「対話」)▼権力・体制の走狗であればあるほど「問答無用」を口にする。教育現場でも同じではないか。家庭でも然り。階級社会における人間疎外の極み。言葉が通じない。対話不在。「人間語」の復権を! 人間が全くダメになる前に。(S)  ・みずち書房
・A5判、68頁、450円
 



・扉写真 「富士には月見草が…」(御坂峠)
  1990.06.15 第152号  ▼フェリス女学院大学学長銃撃の報への憤りがまだ消えぬ今、西独社民党のラフォンテーヌ副首相の血に染められた姿をテレビの画面に見ながら筆を執っている。「山椒魚ッてのは、どうしようもないんだもの」という、井伏鱒二さんの言葉が耳によみがえってくる。▼小説『山椒魚』の末尾の、山椒魚と蛙の連帯感を共有し合う場面を、井伏さん自らがもののみごとに切って捨てたのは、五年前のことであった(『井伏鱒二自選全集』第一巻、新潮社、一九八五・一〇刊)。友人の、原子力発電所に勤める息子さんの放射線被曝死を聞いて、「『放射能』と書いて『無常の風』とルビを振りたいものだ。」と書いた井伏さんである(「<序文>無常の風」、松本直治『原爆死』<潮出版社、一九七九刊>所収)。一九六〇年代以降の相次ぐ原潜事故や原発事故に無関心であった筈はない。『山椒魚』末尾の削除も、とりわけ、一九七九年に起きた米スリーマイル島原子力発電所の事故と、その事故処理に苦慮していた時代状況との関連を無視して語ることは出来ないであろう。▼翌八六年の四月には、ソ連のチェルノブイリ原発事故が起こっている。原潜事故もまた続発中である。<核>という巨大な現実を前にして、「山椒魚ッてのはどうしようもないんだもの」という井伏さんの呟きが、単なる杞憂としてではなく、人間が人間らしくありたいと願う、その願いすらも放棄した愚かしい姿として映ってくる絶望的な響きをもって伝わってくる。▼そして、昨今である。核状況下に展開されている東欧問題等、国際的・国内的政治情勢は、わたしたちのよってたつプシコ・イデオロギーの根底から揺さぶりをかけてきている。〝山椒魚〟としてとどまるのかどうか。わたしたち一人ひとりの<内なる政治>の問題として自己の存在証明が問われている。内側を鍛えること。知的裏付けなしにプシコ・イデオロギーを鍛えることにはならない。▼が、残念なことに世の中ままならぬことが多すぎる。本誌広告でおなじみの『平和教育』が採算がとれずに季刊を廃止するという。年二回、一歩後退である。わが『文学と教育』も部数がのびぬ。火種を絶やすな、である(S)  ・みずち書房
・A5判、68頁、450円
 









・扉写真 三坂峠の天下 茶屋 
  1990.07.25 第153号  ▼疲れた! と言ってばかりはおられまい。本誌前号、一五二号は、発行が遅れたばかりか、誤植の山。おわび(・・・)おわび(・・・)を重ねたところでおわび(・・・)したりぬ。許されたし、読者諸子よ。▼おわび、おわびとわび茶でもあるまい。わび茶の苦味、思いつつ、いつの日か、このかり(・・)きっと返さずにおるものか。われら、精進、文学教師の名に値する仕事ひと筋に、ともあれ努力惜しまず、邁進したいものと、心ひそかに思っています。ところで、編集部の体たらく、ひとまずおいておくとして、文教研の全国集会も第39回を数えるに至った。文学教師個々人の分担課題は、この混迷の時代にあってこそ、さらに重要な意味あいをもってくる。個々人の内心・内側が問題になる。政治にしても、我々の外側にあるものではない。個々人の内なる政治として検証されなければならない。現実や現象が、それらの反映としての個々の内なるものが見立て直されなければならぬ。文学教師の第一歩はそこから始まる。(S)  ・みずち書房
・A5判、80頁、450円
 


・扉写真 井伏文学ゆかりの姫谷焼竈跡(広島) 
  1990.11.30 第154号  ▼嘘をつかなければ生きてゆかれない現実ですよね……とは、第39回文教研全国集会の席上での熊谷孝氏の言葉だが、つくづくとこの現実での生きづらさをコレデモカ、コレデモカと思い知らされている毎日です。▼ところで、虐げられた庶民のつく嘘と、力を持った者の奸計をめぐらした詐欺とは、全く、根本から違うものですよ。国会を中心にして繰り広げられる体制側のアノ手コノ手は詐欺の秘術を尽して、いよいよ本領むき出しということになってきました。自衛隊海外派遣、何をばかなことを言うのか、いつか来た道でしかありません。▼詐欺に惑わされないプシコ・イデオロギーを自己の内側に堅持しながら、明日を見通して今日(きょう)を精一杯いきたいと思うのです。リアリスティックにと考えています。▼この「全国集会記録号」を編集しながら、自分の貫いていくべき<原則>を改めて噛みしめています。人間は戦う為に生まれたるを。北村透谷の言葉が甦ってきます。(S)  ・みずち書房
・A5判、100頁、500円
 


・扉写真 『朽助…』ゆかりの大谷池(福山) 
  1991.05.25 第155号  ▼政治家に腹が立つのは言わずもがなだが、マスコミ・ジャーナリストの多くの、最近の発言には、がまんがならぬ。バブル経済、ゲーム戦争、ゴルビー祭りに北方領土、……。昨日煽れば、今日はくさす。なんとかならぬか。節操がなさすぎる。視点が定まらぬ。▼視点的立場の動揺、崩壊。なにもマスコミ・ジャーナリズムに限ったことではないだろう。目先きの現象にまどわされてはならぬ。現象を現象としてのみ写していたのでは客観主義の名にも値せぬ。ましてや、リアリズムの冒涜だ。己れの視点的立場を確立すること、――自戒の言葉がブツブツと口をついて飛び出してくる。▼混迷の時代の中にあって、自己の分担課題は何か。今、私たちは、夏の第40回全国集会――<統一テーマ>現代史としての文学史――に向けて、文学教師の分担課題を明らかにすべく努めている。▼今号は、自由投稿号として編集してみた。乞う、ご批判を、というところである。ところで、先号から今号の発行まで、思わぬ時間をとってしまった。読者のみなさんへのご迷惑、心からおわび申しあげます(S)  ・みずち書房
・A5判、72頁、500円
 



・扉写真 御坂峠・太宰文学碑
  1991.07.30 第156号  ▼文教研全国集会も、今夏で40回を数えるとことなった。〝40〟といえば、昔は初老の域である。〝不惑〟である。が、今時、何ごとにも動ぜずといったところでオツにすましてはいられない。▼惑いっぱなしなのである。思想の混迷の時代。おのがプシコ・イデオロギーの動揺に恐れおののいている。▼自分のよって立つべき視点的立場を、もう一度、おのが階級意識の、世代意識のありようという原点に立ちかえって検討してみたいと思う。今次集会のテーマは<現代史としての文学史>である。〝不惑〟の節目として、そうした意味でも、格好のテーマであろう。▼最近、国語教育に携わる何人かの人たちと話をする機会にめぐまれた。が、腹の立つことだらけである。『大導寺信輔の半生』はあまり知られていないから高校生に紹介する必要がないとか、『へんろう宿』は起伏にとんでいないから教材として不適当だとか、材料が古いから面白くないとか、授業の際に山場を作りにくいからダメだとか。▼魂の技師たろうとする人々が、なかなか視野に入ってこない。なんとかしなければならぬ。(S)  ・みずち書房
・A5判、52頁、500円
 



・扉写真 井伏邸(福山市)
 1991.07.30 第157号  ▼時代は目まぐるしく動いている。八月政変後のソ連国内を見てきたフランスの哲学者、アンドレ・グリュックスマンは、〝共産主義の終焉〟後の西欧左翼が活路を開く道として、私的所有制に立って人間的権利を追求する〝人間の顔をした社会主義〟を掲げることを提唱している(10月26日付朝日新聞)。仏左翼の〝人間の顔をした社会主義〟から〝人間の顔をした資本主義〟へのマヌーバー的転向。原点・原理の放棄。思想の混迷の時代はますます泥沼化して行くようである。▼思想の混迷――プシコ・イデオロギーの動揺。今ほど個々のプシコ・イデオロギーの検証が迫られている時はない。今夏開かれた第40回文教研全国集会は、まさに参加者個々のプシコ・イデオロギーのありようが根本から問い直された集会で会ったと言えよう。▼本号は、スペースの関係もあって集会全体の記録は収録し切れなかったが、次号と併せて全国集会総括号とすることとした。<虚構の実験的機能>を鋭く指摘し提唱した熊谷孝氏を中心とするてい談(・・・)「虚構論へのひとつの視点」もやむをえず分載ということになってしまった。お許しのほどを…… (S)  ・みずち書房
・A5判、76頁、500円
 




・扉写真 福山市鞆の仙酔島
 1992.03.25 第158号  ▼「一九八九年の一月から、一九九一年の暮までの三年間は、いわば二十世紀全体の時空がぎゅっと凝縮して来て、爆裂したようなものであった」とは、堀田善衛の言葉(『時空の端ッコ』、一九九二・一刊)である。その「爆裂したようなもの」の先に21世紀があるということになるのだろうか。▼爆裂したが故に、社会主義が敗北し資本主義が勝利したのだと短絡的に結論づけてしまったのでは、体制側ジャーナリズムの思うつぼである。マルクス主義は過去の亡霊であり、階級社会は消滅したのだということも同様である。歴史を媒介しつつ、その「爆裂したようなもの」の本質を見きわめようと呼びかける堀田とは全く異質のものである。▼その本質を見極めるためには、階級的視点に立った、「マルクス主義者の学恩」の発展的継承こそが不可欠なのだ。旧ソ連や東欧の問題を横滑りさせ、社会主義は人間の欲望を充たせないなどとの俗説を煽る、体制側の弱肉強食の「ケモノ的児童観」に抗して闘う乾孝氏の言葉が印象的である。「連帯の悦びはマルクス主義の心理学でなければ理解できないのです」(「マルクス主義の燈を守ろう」/『思想の科学』一九九一・九)と。(S)  ・みずち書房
・A5判、64頁、500円
 



・扉写真 福山市加茂・ 井伏邸(庭)
 1992.07.20 第159号  ▼今、PKO法案をめぐる参院本会議の、社共両党を中心とした牛歩戦術を報ずるTVニュースの声を耳にしながらペンを執っている。火山の爆発、異常気象といった地球の痛苦の叫びにも耳を貸さず、巨大な核の現実を隠蔽しつつ、自衛隊の海外派兵に道を開くことに血眼になっている輩ども――支配階級とそれに組する者どもへの怒りに狂いながら、ペンを執っている。▼人間、みな、同じものではない。階級社会は消滅した? おふざけでないよ。国際平和への貢献? ブルジョア・ヒューマニズムの押売りはご免だ。働く民衆の立場に立ったヒューマニズムこそ志向されなければならぬ。▼階級意識の問題なのだよ、階級としての世代の意識がね。熊谷孝氏の声が、いま改めて聴こえてくる。が、熊谷孝氏はもういない。▼青天の霹靂。突然の入院であり、突然の逝去である。めまぐるしく変動する歴史の渦中にあって、現代の混沌を思想の混迷、プシコ・イデオロギーの混迷として捉え、そこに未来への展望を見出そうとした熊谷氏はもういない。大きな指標を喪った想いである。巨星、墜つ。何を頼りに、が、道は続いている。。(S)  こうち書房(活字)
・A5判、76頁、500円
 



・扉写真 熊谷孝著『太宰治』増補版(函) 
 1992.12.25 第160号  ▼熊谷孝先生が亡くなられてから、はや、七ヶ月が経ってしまった。その間、世の中は、佐川急便事件に明け暮れている。▼「私は現代思潮の中の不徹底なデモクラシーには根本から反対を称へるものです。それは人類同士が深く理解し合ひ、(なじ)み合ふことをしないで、単に他人に依頼した生活、他人の奴隷となる生活をしながら、唯だ苟且(かりそめ)な心でその主義だけを宣伝し、翹望(ぎょうぼう)してゐるからです。其処に何等の自己成長も自己完成もないではありませんか。」(「形殻を破るの誓ひ」/読売新聞、大正11.1.1)と徳冨健次郎(蘆花)が悲憤慷慨してから七十年、そのまま自民党政治の現状を痛烈に批判した言葉だと言っても、何ら変わりはないようだ。▼熊谷先生がご存命であったなら、どのような言葉でこの悪現実に対応されたことか。そんな想いを抱きながら、今号は、上げて、熊谷孝の人間と、その学問業績とを、可能な限り追ってみた。熊谷理論の継承と文教研の発展を願って。(S)  ・こうち書房
・A5判、172頁、1200円

・<熊谷孝 人と学問>

・扉写真 熊谷孝著『太宰治』増補版(函/講義中の熊谷孝 
 1993.04.20 第161号  ▼安部公房が亡くなった。<第二信号系の理論>に関心を示した数少い作家の一人であった。▼第二信号系理論を持つことで、私たちは反映論に立った言語理論、言語コミュニケーション論を真に構築することが可能となった。そうしたコミュニケーション論を基盤の一つとして打ち立てられたのが熊谷孝の文学理論であった。▼熊谷孝逝って、やは一年になんなんとしている。熊谷孝の<人と学問>については、本誌前号に、生前ゆかりの人たちがそれぞれに述べている。では、この一年、文教研の歩みはどうだったのだろうか。遅々とした歩みはいたしかたない。が、熊谷理論の受け継ぎと発展を期して、熊谷孝の残したものを再学習することから始めてきた。▼再学習の骨として、第二信号系理論の重さを改めて認識してみたいと思う。今夏に予定された全国集会に乾孝氏(法政大学名誉教授)をお招きして第二信号系理論について講演して戴くのもそのためである。熊谷孝とともに第二信号系理論を学び導入した、安部公房とも語りあった氏のお話を、である。▼最後に、第41回全国集会の総括遅れたこと、陳謝々々、ですね。(S)  ・こうち書房
・A5判、76頁、500円 
 1993.07.25 第162号  ▼吉祥寺の街中で井伏さんの姿を見かけなくなってから、もう、何年になるのだろうか。▼薄茶の和服のコートにハンチング。品のよい白髪の奥様をそばに、小太りの体を杖に託して交通信号を待っていた姿にお目にかかることも、今はない。▼一九九三年七月一〇日、井伏鱒二、永眠す。享年九五歳。――映画監督今村昌平の言葉を借りれば、確かに、天寿を全うされたのかもしれない。▼けれども、民衆の偉大なる知、大天才を喪った悲しみは拭いきれない。そそっかしくてオッチョコチョイの、それでいて冷酷な一面ももつ庶民大衆〝山椒魚〟の悲しみを凝視し続けた二十世紀の偉大な作家は、もういない。▼しかしながら、井伏さんの作品は、私たち民衆の心の中に生き続けるに違いない。人間は恐ろしいものを作ったもんだ――核状況という巨大な現実を前にして一言つぶやいた井伏さんの言葉が私たち民衆の耳に残る限り、民族の真の対話の相手としてあり続けるに相違ない。(S)  ・扉写真 芥川『松江印象記』の千鳥城天守閣 
 1993.11.10 第163号   ▼コトバが、ある事物の意味内容をしるし(・・・)に置き換えたもの、つまり、単なる<記号>にすぎないものだと捉えてしまったら、また一方交通的(・・・・・)に情報を伝える<コミュニケーション・メディア>なのだと考えてしまったら、そこには、本物の《対話関係》に支えられた人間相互の連帯(仲間関係)は生まれてもこないし、育まれるということもないであろう。▼コトバを単なる記号や単なるコミュニケーション・メディアととらえる言語観に立っての、<読みの行為>が、わがもの顔に横行するとなれば、もはや、何をかいわんや、である。▼ある会合の席上で、話をたのまれたわが会員の一人に対して、「あなたは蘆花の謀叛論を高く評価するが、読んで見る限り、感傷的なコトバに彩られた空疎な文章ではないか」という発言がなされたという。一九一一(明治44)年二月一日に会場を埋めるであろう〝思索の散歩者〟たる旧制一高生を<内なる本来の聴衆>として練られた『謀叛論』の一言一句がダイナミック・イメージとしてアピア(顕現)することのない不幸な人の発言であろう。場面既定を押さえたコトバ操作の重要さを思え、である。(S)  ・こうち書房
・A5判、92頁、630円
 



・扉写真 芭蕉像
(小倉・安国寺蔵)
  
 1994.03.31 第164号   ▼心理学者の乾孝(いぬい・たかし)先生が亡くなられた。東京を三日ほど留守にして帰宅したところへの、突然の訃報だった。▼享年82歳。二月二七日の午後十時三〇分、呼吸不全のため、東京都千代田区の病院でのことだったという。熊谷孝先生が亡くなられてから、一年と九ヶ月余。私たちは法政(大学)の二大タカシを失ったことになる。▼乾先生と文教研の関係ということで言えば、文教研の生みの親熊谷先生との親友としての、学問研究上の協力者・良きライバルとしての関係は言わずもがなのことであろう。が、この一年余りを見れば、私たち文教研の言語観の再検討ということで取り上げた、第二信号系の理論の再学習にとっては欠くことのできない先達でありアドバイザーであった。▼残念としか言いようがないのだが、二大タカシ亡き今となっては残された私たち一人々々が心しつつ、御冥福を祈るしかない。▼さて、ところで今号は、「再び『羅生門』について」の休載と、発行予定日の一ヶ月遅れという失態が重なってしまった。編集部一同、それこそ心していかねばと猛反省をしつつ、……誠に申し訳ありません。(S)  ・こうち書房
・A5判、72頁、500円
 



・扉写真 お夏清十郎比翼塚  
 1994.06.25 第165号   ▼「地にとどく西行桜したしけれ」(虚子)。西行桜を一目見んと、四月の五日、京都洛西の花の寺(勝持寺)を訪れた。この日、昨年は見頃だったという。▼けれども、「花見んとむれつつ人のくるのみぞあたらさくらのとがにはありける」(西行)で、そう都合よく桜もこちらに合わせてばかりくれるわけではない。〔…〕▼ところで、自然の音階は七音階だという。その七音階をちょっとはずしたところに、日本の雅楽系の五音階があるのだともいう。素人考えなのだが、七音律とか五音律とかいうものも、そうした音階と密接な関係があるのかもしれない。▼庶民の労働歌であった「臼挽歌」は七七調のリズムを基調とした俗語俗謡である。民謡の「安来節」なども、七七七五音で作られている。▼そうした「臼挽歌」を粉本として井伏鱒二が『厄除け詩集』中の唐詩十七篇の訳詩をものにしたことは間違いなさそうだ。既に、宮崎修次郎氏、大岡信氏によって指摘されていたことだが、今般それぞれに新資料をもとに井伏訳詩との校合を試みた、土屋泰男「井伏鱒二『厄除け詩集』の『訳詩』について」(「漢文教室」一九九二・二)寺横武夫「井伏鱒二と『臼挽歌』」(「解釈と鑑賞」同・六)が出されることで明らかとなっている。民衆歌を基にした漢詩訳。井伏の面目躍如たるところではある。(S)  ・こうち書房
・A5判、64頁、500円 




・扉写真 森鷗外像
(小倉・鷗外旧居) 
 
 1994.08.01 第166号   ▼現代文学の旗手<井伏鱒二>が亡くなってからはや一年が経ってしまった。いま、改めて、井伏鱒二の倦怠の想いが伝わってくる。▼<核>という巨大な現実を前にして、絶句した井伏の顔が鱒二は忘れられない。……「人間はなんと愚かな物を作り出してしまったものだ。」――井伏の言葉ではないが、その「愚かな物」に現代人は振り回されている。この世に、「核はないほうがいい」のだ。▼北朝鮮核査察の問題は言うに及ばず、核兵器の使用云々の問題である。日本政府は、「核兵器の使用は必ずしも違法とは言えない」なる文言は一応撤回するという。しかしながら、核の現実に対する根本的な発想の組み替えはない。核の現実が現代人を自己疎外の極みに追いやっていることを知ろうともしなければ、ましてや、現代人の倦怠とは無縁のところにある。▼井伏鱒二が解明し警鐘を鳴らした現代人の疎外の構図、<山椒魚と蛙の関係>が拡大再生産されつつあると言えるだろう。いかなる理由があろうとも容認するもの、容認する方向にすすめるものは否定されねばならない。それが井伏の志を受け継ぐ第一の道だと思われる。(S)  ・こうち書房
・A5判、70頁、500円 



・扉写真 井伏鱒二生家下の辻堂(福山市加茂)
 
 1994.11.10 第167号   ▼この夏、中国の現役作家、鄧友梅氏(邦訳『さよなら瀬戸内海』<五月書房>など)と歓談する機会を得た。氏は、一九三一年に天津に生まれ、四三年に山口県宇部に強制連行され強制労働に従事、日本の敗戦前に中国山東省へ引揚げ、新四軍に参加した、という経歴を持った作家である。▼十代前半の二年余の異国での強制生活――『さよなら瀬戸内海』の「さよなら」の原語は「訣別」である。「再見」ではない。日本語はもう忘れたという。それでも、話し合いの間に「代用食」などという言葉が飛び出したりした。▼船倉や宿舎で〝伍長〟たちにどつかれながら、湧き上ってくる想いを文字にしたくてしたくて荷袋などに消し炭や折れ釘で綴ったという。▼魯迅の言葉を受けて、「民族的特色を出すことが世界文学になる」と笑顔で氏は語る。そして氏は続ける。連想・意識の流れといっても、何も西洋に端を発するわけではなく、既に屈原の「理想」がある。――世界文学は東アジアをも含めてトータルに捉えられねばならない、と。▼鄧氏の話を聴きながら、私は、井伏文学の民族性と世界性とについて考えていた。(S)  ・こうち書房
・A5判、80頁、500円 



・扉写真 井伏鱒二生家の白壁(福山市)
 
 1995.03.25 第168号   ▼阪神大震災の罹災者の皆さんには心からの御見舞の言葉を贈りたいと思います。ささやかながら、文教研東京例会では義捐金も募りました。▼ところで震災自体は確かに天然の災害であります。が、震災が生じたその瞬間から、今回もまた人災と転じてしまったようです。▼支配体制による対応。そこには階級差別が厳然と存在し続けています。(S)  ・こうち書房
・A5判、72頁、500円 

・扉写真 福山城全景
 
 1995.06.20 第169号   ▼今号発行が遅れに遅れ、申しわけなく思っています。次号は気を締めてかかる所存でいます。  ・扉写真 『コシャマイン記』の世界(雪原に羊蹄山を望む)  
 1995.08.01 第170号  ▼言葉と発想とは二人三脚の関係にあるということ、これが、意外と自明の理にはなっていないようだ。▼昨今の言語現象を通して、〝離乳食の言語〟とか〝気化する言語〟とかの指摘が目立ってきている。▼オーム事件を取り巻く言語現象も含め、改めて《言語》をとらえ返す試みが必要となってきている。現代人の発想を問い返すことでである。(S)  ・こうち書房
・A5判、68頁、500円 

・扉写真 御坂峠の太宰治文学碑
 
 1995.11.10 第171号  ▼洟垂れ小僧たちが近寄っても、青光りのする銃口がサッと水平に向けられた。黒人兵の手にした、あれは、確かカービン銃だったと思う。子供心にもサッと背筋に冷気が走ったことを、いまでも覚えている。▼NHK支局の斜め向いにあった簡易保険局の屋上には星条旗が翻えって、GHQのT本部があり、駐車場が洟垂れ小僧たちのシマの大半を占領していた。▼街中をGIの乗ったジープが走り回っていた。ヘイ、カモン、ベイビイ。チョコレートが、キャラメルが、空を舞った。はあろう、さんきゅう、さんきゅう。われ先に手を出した、あの感触。今でも忘れない。▼もう四十五年も以上の古里での光景だ。占領下の飢えた子供たち、と言ってしまっては身も蓋もない。――敗戦後五十年。痛恨の思い出である。餓鬼とはいえ、人間としての誇りのかけらすら持ち得ていない。▼何も一人の経験に固執する心算りはない。何だ、他愛ない体験だ、もっと悲惨な目にあった人は幾らでもいる。▼けれども、敗戦後五十年。自他の体験(準体験をも含めて)を支えに、普遍につながる民族体験としての〝敗戦五十年〟を、今は再考してみたい。(S)  ・こうち書房
・A5判、76頁、500円 


・扉写真 西鶴『万の文反古』巻三ノ三「代筆は浮世の闇」挿絵
 
 1996.03.25 第172号  ▼まさに〝世紀末〟の様相をあますところなく曝け出した<一九九五年>も過ぎ去り、はや二ヶ月余となる。その<一九九五年>の後遺症は様々な形で今後とも私たちの生活に影ををおとしていくことであろう。▼この先どうなっていくのか? 未来が読めないだけに、どんな形にせよ〝未来の姿〟を知りたいと思う。コンピューターという先端技術を駆使した<ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実・人工現実)>がもてはやされるようになる。▼しかしながら、<虚構精神>を欠落させたままのヴァーチャル・リアリティーがひとり歩きを始めたとしたら、ますます非人間的な現実が拡大再生産されて行くに違いない。▼いまこそ、改めて、真の虚構とは、真の虚構精神とは、が問われなければならない。よりよい人間的な社会の建設を目指して、である。▼ささやかな営みにすぎないのかもしれない。が、ここにこを再生文教研の道がある。<虚構>のさらなる解明に向けてである。(S)  ・こうち書房
・A5判、68頁、500円 


・扉写真 井伏鱒二文学碑
 
 1996.06.30 第173号  ▼人間、疲れるとロクなことがない。人間がえげつなくなってくる。殊に精神的な疲労がよくない。世の中、精神的に疲れることのみ、多すぎる。▼そんなわけでもないが、今号の発行、遅れにおくれてしまった。一号、一号、積み重ねての一七三号、休刊するわけにはいかない。遅ればせながらの発行、お許しのほどを……。▼しかしながら、本号ではひさびさに児童文学の小特集を組むことができた。佐野洋子の世界の解明に向けて、その中間報告である。また、井筒氏の「読者論ノート」、やっと完結である。(S)  ・こうち書房
・A5判、72頁、500円 
 
 1996.11.15 第175号  ▼彼等の議論は、お互いの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。……彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。或いは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。▼とは、太宰治『道化の華』(昭和10.5)の中の言葉である。彼等――葉蔵や小菅や飛騨は、そのまま、昭和十年前後を生きる当時の青年群像の典型として造型されている。当時の知識人たちの合言葉は、カオス(渾沌)と混迷であった。▼カオスと混迷の時代にあって、現実の解明に向け、<単純素朴による解明>を試みたのが、鶴田知也の第三回芥川賞受賞作『コシャマイン記』である。▼詳細は本誌の「『コシャマイン記』の印象の追跡」に譲ることとして、ともあれ、まさに思想の混迷の時代にある今日、武器としての<単純素朴による解明>の方法を身につけることこそが肝要であろう。そのためには、『皇帝の新しい着物』のような児童文学における単純化の世界を、くぐるべき時に、真っ当にくぐっておく必要がある。文学教育の必要性がそこにある。(S)  ・こうち書房
・A5判、68頁、500円 



・扉写真 漱石『二百十日』の碑
   
 1997.03.25 第176号   ▼本号は、当初、《福田隆義・鈴木益弘両氏古稀記念号》と銘打って編集・発行されるはずであった。が、思わぬ〝反対〟にあってトンザしてしまった。▼恥ずかしいですよ、やめて下さいよ、とは両氏の弁である。古稀なんてがらじゃないですよ、ともおっしゃる。▼福田氏は文教研生みの親の一人であり、文教研育ての親の一人でもある。創生期より変わることなく文教研委員長として文学教育活動を推し進めて来られた。鈴木氏もまたはやくから文教研に参加、長い間常任委員として、また本誌編集長として、今日の「文学と教育」の礎を築いて来て下さった。▼最近では、両氏とも、<児童文学研究会>の両軸として、二〇代・三〇代の研究会員を叱咤・勉励、情熱的に児童文学の研究を推し進めている。本号に掲載させて頂いた、「佐野洋子の世界」に論及した両氏の論考も、そうした研究の一環である。▼両氏の論考の底を流れるものは瑞々しい若さであり情熱である。そうか、古来稀なりとは何事か、両氏が怒られるのももっともだ。▼でも矢張りお祝いだけは言わせて下さい。おめでとうございます。そして、ますます後輩どもを叱咤激励して下さい。(S)  ・こうち書房
・A5判、80頁、500円 


・扉写真 「ここに鶴田知也眠る」(北海道・八雲町)
  
 1997.06.05 第177号   ▼前号では、T氏の「井伏鱒二初期の短編『祖父』のことなど」に、知られざる井伏作品の発掘にかけた氏の執念にも似た情熱をまざまざと感じ、圧倒される想いであった。▼また、連載が始まったばかりではあるが、香川智之氏の「『多甚古村』日誌」も、教室現場をリアリスティックに伝えて、いわゆる〝教育実践報告〟もかくあらば面白いのになと思わせてくれる。▼草創期から発展期へと、そして新たな段階を迎えたわが文教研も、ガンバッテイルナ、というところである。それなりに力が貯えられてきている。まだまだ紆余曲折はあるだろうが、会員個々の研究成果をぶつけ合いながら、より集団研究を高めて行きたいものである。(S)  ・こうち書房
・A5判、72頁、500円
(+税5% 以下同)

・扉写真 京都・落柿舎の芭蕉句碑『五月雨や……」
 
 1997.08.03 第178号   ▼七月一日、香港が中国に返還された。二〇世紀の終焉を象徴するにふさわしい歴史的セレモニーの一瞬だったとも言えよう。▼中国は<一国二制度>を貫くという。二〇世紀終末の<思想の混迷>そのままの幕切れと言えようか。必ずしも、二十一世紀の幕明けに向けての明るい未来への予兆とはなっていないようにも思われるのだが……。▼ところで、わが日本の国内に眼を向けてみれば、明けても暮れても淳ちゃん事件でにぎわっている。〝たぬき顔の中年男〟追跡から今度は〝驚異の十四歳の犯罪〟解釈へと、あいも変わらぬ商業ジャーナリズムの単細胞的報道合戦が続けられている。▼あちらを見てもこちらを見てもカオスの炎が吹き出している。カオスをカオスのままに捉えることは難しい。〝単細胞〟とは異なった単純素朴による解明こそが必要なのだ。(S)  ・こうち書房
・72頁、500円

・扉写真 安寿塚
(佐渡・相川)
 
 1997.11.28 第179号   ▼文教研創立以来、舞台裏と言わず表と言わず文教研を支えてきた名コンビ《委員長=福田隆義・組織部長=荒川有史》の名が消える。両氏とも研究活動の第一線を退くわけではない。。雑務からの解放を、というわけである。▼福田さん、荒川さん、今までほんとうにご苦労様でした。が、まだまだ楽はできませんぞ、です。(S)  ・こうち書房
・A5判 76頁、500円
 1998.12.25 第183号   ▼国内研究を終えて一年振りに教壇に復帰して、驚いたね。四月の一回目の授業で、一年間、こういうことをやるとガイダンスしたら、後で学生がやって来てこう言うんだ。「小説を読んでもチンプンカンなんですが、単位は取れるんでしょうか。」▼大学で鷗外文学を講じている友人の話である。それも、一人だけではなく、数人の学生が来て言うのだという。今までになかったことでビックリしてしまったということだ。▼指導要領の見直しの中では、従来の「国語」教育は文学教育に偏し過ぎており、これを是正して、より国際化の視点にたたって言語技術教育が目指されなければならないとされている。が、そうだとすれば、わが友人の語るような学生が出てきているという事実はどう説明されるのだろう。▼逆に、真の意味での文学教育は、「国語」の指導要領下ではなされてこなかったということではないのだろうか。あの難しい大学入試をクリアしてきた学生が小説が読めないということは、コトバの形象的操作にかかわる学習を十全に踏んでこなかったという証しだと考えられよう。改めて今、文学教育を!と言わざるをえまい。(S)  ・こうち書房
・A5判、68頁、500円
 
 1999.03.25 第184号   ▼残念ながら、今号もまた遅れに遅れの発行となってしまった。ひとえにお許しを乞うのみである。▼ところで、二〇世紀も、残りわずか。人間のエゴイズムは逆にその勢いを増している。〝自己チュー〟をなんとかせねばならぬ。▼今、なぜ、ケストナーなのか。そうした問題克服のためにも、彼の言葉に耳傾けてみたいのだ。(S)  ・こうち書房
・A5判、72頁、500円
  
 1999.08.05 第185号
第186号
合併号
  
▼翻訳文学も、日本文学である。外国文学の原作とその翻訳者との共同創作なのだ。そして、それを読む私たち日本の読者がそうした創造の完結者である。▼私たち文教研は既に井伏鱒二訳、ロフティング原作の、『ドリトル先生』シリーズを、高く評価してきた。いま、私たちは、エーリヒ・ケストナーの諸作品に注目している。▼なんだか、世紀末の日本はおかしくなっている。ケストナーの眼をくぐることでじっくり見極める必要がある。(S)  ・こうち書房
・A5判、120頁、900円
・<ケストナー特集号>
 
1999.11.12  第187号    【お詫びとお知らせ】 本誌『文学と教育』は、長い間、読者の皆様のご声援とご支援を受けまして、季刊雑誌として年四回の発行をつづけて来ることができました。/今後とも年四回の発行をと考えて参りましたが、何分とも経済的に四回発行は無理な事態とあいなってしまいました。万端やむを得ぬこととは申せ、個々で一歩後退二歩前進を期することと致しまして、文教研一九九九年度(一九九九・九~二〇〇〇・八)より、一号八〇頁前後の、年三回発行(十一月、三月、八月)とすることに致しました。/そうした変更にともない、当面、一号の頒価を七三五円(本体七〇〇円)に、誌友代金を年間二、四七五円(含送料)に改訂させていただくことになりました。以上のような状態に至りましたこと、重々お詫び申しあげますとともに、従来通り、文学と文学教育のための理論追究の研究実践誌としてあることには何らの変更もありませんので、変わりませず、ご支援と御協力をお願いできますならば幸甚です。/一九九九年九月/文学教育研究者集団 ・こうち書房
・A5判、73頁、700円
年三回発行
 2000.08.01 第188号
第189号
合併号
  
▼今年度より年三回発行となった途端の合併号、ひとえにお許しを乞うところです。▼総選挙もスッキリしません。何とか雪崩れる前にと思うのですが、既に雪崩れているのかもしれません。私たち一人ひとりの眼が、いま、真に問われているのです。(S)  ・こうち書房
・A5判、92頁、900円
学術著作権協会(JAC)に管理委託、「複写される方へ」掲載

・扉写真 聖ゲオルグ教会
(ミュンヘン市)/ルイーゼロッテとともに眠るE.ケストナーの墓
2000.11.03 第190号   ▼今夏は猛暑につぐ猛暑、いい加減にしてくれェとグチもでる。が、文教研あげてのケストナー研究、ますます温度が上がる一方である。▼文教研会員の大方は高橋健二訳や小松太郎訳でケストナーに親しんで来た。古くは板倉鞆音訳のケストナー詩がある。今また、池田香代子さんによる新訳が出始めた。▼現在の子どもたちに、ぜひケストナーを紹介したい。新訳で一緒に読みたい。そうした会(本誌裏表紙参照)を今準備している。(S)  ・こうち書房
・A5判、72頁、700円
 
 2001.04.30 別 巻   …… ・私家版総目次
(創刊号~191号)
 -NII-ELS搭載用-
2001.08.03 第192号     ▼一九五八(昭和33)年一〇月一六日、「サークル・文学と教育の会」として産声をあげた文学教育研究者集団(一九六〇年二月二六日、改称)が、熊谷孝氏の先導のもと第一回研究集会をもってから、全国集会も今夏で実に50回を数えることとなった。▼あしかけ43年を閲するわけだが、その間、ある意味では文教研もまた日本型現代市民社会の中にあって、その確立過程とともに歩んできたのだと言えよう。主権者としての市民の、労働者階級と勤労市民が参入し連帯し共生する現代市民の、その政治的主体を支える社会的主体の創造と育成を、文学あるいは文学教育の側面から問い続けて来た道のりだったとも考えられるからだ。▼文学の基本は人間の行為の倫理的な意味を問うことだ。あり得べき人間関係を求めて、今、文教研は記念すべき50回集会をもとうとしている。(S)  ・こうち書房
・A5判、72頁、700円
 
2001.11.25 第193号  ▼テロと報復の悪循環。自衛隊の便乗海外派遣。▼シベリア出兵時の与謝野晶子「日本軍自衛の範囲を越える」発言(18.3.17)を思う。絶望の世紀なればこそ文学を!であろう。(S)  ・こうち書房
・A5判、80頁、700円

・文教研ウェブサイト開設
 
 2002.04.08 第194号  ▼開いた口が塞がらない。政官業の泥沼の如き癒着。カイカク、カイカク、カイカクと、カイカイ病でもあるまいに。▼花粉症と同じで即効薬などありはせぬ。われら民衆どこに身をよせてよいやら。▼人間として面白みのある市民の養成が肝心だ。(S)  ・こうち書房
・A5判、68頁、700円
 
 2002.07.25 第195号  ▼本号から、「文教研ウェブサイト・コーナー」を設けることにした。文教研ウェブサイトも昨年十一月三日に開設してから、はや十ヶ月になんなんとしている。掲載記事の内容も何度か書き直されている。そこでふと思ったのである。消えていく記事、もったいないなあ。ならば、本誌で活字に残そう。<コーナー>の設置ということになった。▼文教研のサイトの立ち上げ、編集、等々、これはもう一身に常任委員のT氏が担っている。氏の適切な記事の選択にも感謝と敬意を表しつつ、その第一回目として本号では<文体>に焦点を合わせながら「基本用語解説Ⅲ・Ⅶ」を中心に復元してみた。▼第51回全国集会のテーマでもあるが、文体喪失=奴隷の言葉で語られる情報三法・有事立法の反動の中で、改めてわれわれの文体を見直す必要が生じているからだ。(S)  ・こうち書房
・A5判、64頁、700円
  
2002.11.08 第196号  【『文学と教育』半年刊ニ!!】 大企業中心の新自由主義的経済下にあって、、倒産する企業があとをたちませんが、企業のみならず、様々な団体も経済的理由から、その存続が危ぶまれる状況に陥っているようです。文教研もまた、会費の改正、気管支の年4回発行から3回発行へ等改革を重ねてきましたが、財政的逼迫はいかんともしがたく、ここに、今年度より機関誌発行を原則として年2回(11月、5月)とせざるをえなくなりました。/『文学と教育』を御支援、御愛読くださいました読者の皆様には何とも言いようございませんが、従来と変わりませず御購読のほどよろしくお願い申し上げます。なお、一方的な撤退では何ともしゃくにさわりますので、年2回発行を原則としつつも、奇数年には特別号を発行、実質2年間で5回発行というようにしたいと考えています。定期購読代、誌友代等、変更にともないいろいろご迷惑をおかけすることとなりますが、これまたよろしくお願い申し上げます。(編)  ・こうち書房
・A5判、72頁、700円
年二回発行+特別号
(実質二年に五回)
 
 2002.12.-- NII電子版
123号~196号
 
 …… 電子化第一期(123号~196号)
NII-ELSで公開。

(NII委託の株式会社ムサシが担当) 
※NII-ELS:国立情報学研究所電子図書館サービス
 2003.07.15 第197号 ▼たった一言、言わせておくれ。有事立法、やめてくれ!(編)  ・こうち書房
・A5判、80頁、700円
 
 2003.11.07 第198号 ▼「記憶せよ、抗議せよ、そして生きのびよ」(NHK・総合TV「核の時代に生きる」03.8.15、井上ひさしの発言)。――この言葉を、肝に銘じていきたいと思う今日この頃である。  ・こうち書房
・A5判、64頁、700円
 
2004.--.--    …… ・文教研ウェブサイト、NIIの学協会情報サービス利用開始
 2004.05.30 第199号  ▼自衛隊のイラク派兵。越えてはならぬ一線を、とうとう日本は越えてしまった。▼市民のための国益は産・官・支配層のコクエキにとってかわられ、その御楯としての自己責任が叫ばれる。なにはともあれ、めげまいぞ!(S) ・こうち書房
・A5判、64頁、700円
 
 2004.08.03 第200号  ▼一号ずつ積み重ねて、二〇〇号、――四十六年の道のりであった。▼人間四十六歳といえば、もっとも脂ののった時期かも知れぬ。とは言え、教師は教師で教師臭くなり、専業主婦は主婦でいかにも主婦然となり、気づけばわれ何者ぞといったところか。▼ささやかなれど、<私の文学>を通して<私という人間>をいま改めて検証し直し続けるためにも、更なる二〇〇号を、である。   200号

・こうち書房
・A5判、72頁、700円
   
 2005.05.20 第201号 ▼世の中はネオ・リアリズムに煽られたマネー資本主義の横行、一方で偏向したナショナリズムの台頭。こんな状況は変わらねばならない!▼発行遅延、お許しを!(編)  ・こうち書房
・A5判、64頁、700円
  
 2005.08.03 第202号  ▼巷では、お笑いがもてはやされているらしい。ロンドンを襲った複数同時テロ、郵政国会の茶番劇、原油急騰のマネー資本主義、サラリーマン直撃の増税必至、干天猛暑の空梅雨と、まだまだ鬱のネタは尽きぬ。▼笑ってごまかせ。それもよし。が、それじゃ<笑い>に申し訳なし。武器としての笑いがあるぞ!  ・こうち書房
・A5判、64頁、700円
  
 2005.11.10 第203号 【お知らせ】 教養と書いてハニカミとルビをふりたいものだとは太宰治の言葉だが、世の中何かが狂っている。カネ、カネ、カネのマネー・ゲーム。村上ファンドと楽天のTBS株買い占め。自民一人勝ちの総選挙。九条改憲への足ならし。属国であるまいに辺野古崎への米軍基地移転。アメリカが主(あるじ)のエセ民主主義踊り。恥もみさかいもなく、オン馬(ま)の背中に狐が乗って……。ひかれ者の小唄ではないが、世の中、太宰の苦悩がちっともわかっておらぬ。/何とか、小さな集団ではあれ、文学の心を忘れず、文学の眼をもって、<人間らしくあること>への情熱を支えに、研究と教育を続けてきた文学教育研究者集団。なれど、世の中の壁は厚いのだ。/文化的抵抗としての意味ももたせて、機関誌『文学と教育』を発行し続けて来たのですが、発行回数を年三回から、二年で五回としたのもつかの間、経済的な諸般の事情で、年二回発行とせざるをえなくなってしまいました。残念なのですが、今二〇三号より、秋季集会号(11月刊)・全国集会号(5月刊)の二回となります。回数は減っても、内容はさらに充実させて行きたいと決意していますので、よろしくお願い申し上げます。(S)
・こうち書房
・A5判、64頁、700円
年二回発行
 
2006.03.-- NII電子版
65号~122号 
 …… 電子化第二期(65号~122号) (株式会社ムサシ担当)    
 2007.08.03 第206号 ▼戦中派のある人が、あなたたちは権力むき出しの大変な時代を生きてきたのですねと問われて、いえ、日常生活は実に平穏でしたよと答えていた。▼何気ない平穏な日日の中で目くらましを喰らわせながら<戦争の道>は着々と整えられていたのだよという。▼今また、その轍を踏んでいるのではないかしら。(S)  ・こうち書房
・A5判、68頁、700円
  
 2007.11.10 第207号 ▼本誌が年二回の発行になってから丸二年。経済的事情からとはいえ、発行回数が減った分、予定の発行時期が十分に守られてきたかというとさにあらず。青息吐息の不定期刊行とあいなってしまった。▼理由をあげればあれこれと言えるのだろうが、とにかく編集部員の健康状態が一番だろう。身体にガタがきて、編集に専念できぬのだ。▼娑婆苦は現世の外にあるわけではない。現世の内に、わが身の生活にも満ちてくる。現在の日本社会では、広い意味の「うつ」病が充満しているとは、山折哲夫さんの指摘(『早期座禅』)だが、「躁」と「うつ」の交代でやってくる生理的リズムを持った「躁うつ」の「うつ」とは違った「うつ」一辺倒の化け物を社会全体で抱え込んでしまったのではないかというのだ。よもやわが編集部員が化け物にとりつかれたわけでもあるまいが、文教研自体も経済的健康的に娑婆苦の中にあることに変わりはないだろう。▼娑婆苦に抗って生きていくためには、山折さんが「うつ」の一つの要因として軽佻浮薄な言葉の氾濫をあげていたが、人間が人間らしくあるための言葉の復権・創造こそがまず、なのだ。▼真の「人間の言葉」を! その限り、『文学と教育』は、と思っている編集部員なのだ。(S) ・こうち書房
・A5判、83頁、700円
 2009.11.10 第210号  ▼二〇〇九年。文教研にとっては、正に画期的な年となった。文教研創立50年の節目を経て再スタートをきった記念すべき年であり、文教研が研究対象としてきた異端の文学者太宰治の生誕一〇〇年に当たる年であり、そして、わが文教研初代委員長の福田さんの亡くなられた年ともなってしまった。/福田さんの半生は、文学教育の実現と研究とに捧げられたものであった。そうした福田さんの半生を偲びつつ、本号では特集を組むことで哀悼の意を表したいと思う。併せて、福田さんの愛した『かさじぞう』のゼミ記録(昨秋季集会)を弔花に代えて捧げたいと思う。(S)  ・こうち書房
・A5判、84頁、700円
 
 2010.04.20 第211号  ▼今号もまた遅れに遅れての発行となってしまった。諸般の事情があって年二回の発行となっただけに、全国集会号と秋季集会号の二号、これだけは確実に発行していきたいと思っている。▼何故遅れるのか? 小中高大と教育現場に「ゆとり」がなくなったことも一因であろう。「ゆとり」と言えば、「ゆとり教育」の弊害解消をと打出された新指導要領の下、この四月から使用される小学校の教科書が話題となっている。▼神話の復活に対して文学教育はいかに。国語教育が問われている。(S)  ・こうち書房
・A5判、62頁、700円
 
 2010.08.03 第212号  ▼<大逆事件>が起こってから、今年で、ちょうど百年となる。七月一一日は参議院選挙。百年後の〝時代閉塞の現状〟を何とか切り開いて行くための、衆知の結集をと願っているのだが……。▼百年と言えば、独学で絵を学び、民話の絵本、『かさじぞう』や『スーホーの白い馬』など、衆知の結晶ともいえる絵を描き続けた赤羽末吉の生誕百年でもある。末吉に続けである。  ・こうち書房
・A5判、62頁、700円
  
 2011.03.25 第213号  ▼中東が揺れている。長い間続いた独裁政権に対する反体制の〝噴火〟である。▼中東のみならず今世紀の地球はまさにカオスといった状況を呈している。新たなる市民社会を、新たなる民主主義をどう構築すればよいのか。▼「普通の人」に視点的立場を据え、あり得べき市民の姿を追い求めた<井上ひさし>の文学が改めて評価されてしかるべき時代となっている。(S)   ・こうち書房
・A5判、52頁、700円
 
2015.--.-- NII電子版
創刊号~64号 
 …… 電子化第三期(創刊号~64号) (株式会社ムサシ担当)  
2016.07.20 第224号  【機関誌『文学と教育』年一回発刊のお知らせ】 委員長 井筒満/平素より機関誌『文学と教育』をご愛読いただきありがとうございます。/この度、諸般の事情から機関誌の発行を年二回から年一回へと変更させていただきたく、誌面にてご連絡させていただきます。/学術雑誌をめぐる環境は。近年目まぐるしく変わっています。文学関係の学術雑誌の斜陽化に加え、電子化されたデータの管理、著作権の問題など多義にわたり、その一つ一つの変化に対応していく道筋はまだまだ予測しにくいものがあります。そうした中で、文教研としても現在の財政状況、運営体制の中で年二回の機関誌発行は困難という結論に至りました。/年に二回の集会や月二回の例会の研究成果を踏まえれば今まで通り充実した内容をお届けできるものと確信し、今年度からはそれを年一回の機関誌に込めてさらに読み応えのあるものにしていく決意です。一回の頁数を増やし、必要に応じて特別号の発行も考えております。/本物の民主主義を実現していくためには、事実を知ることはもちろん、自分の目で現実を見つめ、内側から突き動かされるように連隊を志向する人間に成長していくことが必要です。私たちが主張する〝文学教育の必要性〟は、今こそ求められています。定期購読代、誌友代などの変更に伴い、大変ご迷惑をおかけいたしますが、引き続きご購読いただきますよう、よろしくお願いいたします。  ・こうち書房
・A5判、68頁、700円
年一回発行
 

株式会社ムサシによる電子化、J-STAGEへの搭載(224号~227号)
※J-STAGE:国立研究開発法人 科学技術振興機構(JST)の運営する電子ジャーナルプラットフォーム
 2017.03.20 J-STAGE
電子版
創刊号~227号
 
 …… ・国立情報学研究所の電子図書館(NII-ELS)サービス停止決定

NII-ELSに蓄積された既刊号データをJ-STAGEへ移行完了  
 2020.10.10 第228号  ▼コロナ禍の二〇二〇年となった。文教研でも例会中止が続き、とうとう夏の全国集会も中止せざるを得なくなってしまった。武蔵小杉での、あるいはあざみ野での、また八王子での再会が待ち遠しい。ウイルスと共に暮らさざるを得ないという日々の中で、ひたすら例会再会を待ち望む。▼そのような状況の中で、今年も、この機関誌に文教研の活動の多くが記録されることとなった。また、新連載が始まる。文教研理論の学習・再学習の好機にも。▼七月初めには都知事選もあった。私たちが待っていたのは誰だったのか。次号の発刊の時には、さわやかな気持ちでこの機関誌が編集され、読者も穏やかな気持ちで読めるような環境が生まれることを願う。▼本号から、機関誌『文学と教育』の発行は、こうち書房から創文印刷工業株式会社へと変更となる。長年、発行・販売を担当し文教研を支えて戴いたこうち書房に記して感謝を申し上げたい。(A)  創文印刷工業株式会社による印刷、電子化、J-STAGE搭載(228号~)

・A5判、80頁、700円
  
 2021.09.10 第229号  ▼あの日のように暮らしたい、と思っても、あの日のような時間は取り戻せない。/日本列島にこうした思いを抱える人は多いだろう。二〇二〇年、二一年新型ウイルスの災禍は止まない。八王子での蝉の声も聴きそびれた。▼この間仲間のお一人を見送ることとなった。何時も明るい笑顔のSさん。平和と人権の願いとを語り続けた。合掌。▼例会はこの四月末からオンラインで再開。多くの会員のIT環境整備を願いつつ、画面上での再会を喜んだ。沖縄・広島・千葉・宮城そして首都圏、再会を待つ仲間たち。今号は「特集 私の教室」としてそうした会員の日常を語ってもらった。▼今年度は『芥川文学手帖』を読むこととなった。今、なぜ、芥川文学か? 四十年程前にも出されたこの問いに、「今」私たちはどう答えるのか。斎藤幸平『人新世の「資本論」』の学びから人間回復への道へ。そこに芥川文学がどう位置づけられるのか。何を学び取れるのか。新たな挑戦の第一歩が始まった。(A)   ・創文印刷工業株式会社 ・A5判、80頁、770円(税込み、以下同じ)
 2022.08.31 第230号  ▼オンラインでの例会もそれなりに定着してきた。気楽・手軽などの利点と、直接触れ合えないもどかしさとを体験した二年間だった。▼前号に続けて大切な仲間、大事な先達の逝去をお知らせする号となってしまった。まだまだ語り合いたかったという声が寄せられている。今は、ただただA氏H氏のご冥福を祈る。▼「自己にとっての理想を説得ぬきに他者に強制すると、その理想なるものも圧制に転換してしまいます。」(一九九〇、一一、荒川有史氏私信より)三十年前に書かれた氏の言葉が現在の世界情勢にもあてはまる。圧制どころか他国の人々の暮らしも平和も根こそぎ奪う現実が起きている。▼徳本穂菜さん(7)「平和の詩」(沖縄全戦没者追悼式で朗読)のように、「へいわをポケットからおとさず、わすれないように」して行きたい。▼芥川文学の印象の追跡も休むことなく続けられている。オンラインでの夏の集会も視野に入れられている。その成果を取り込んだ上で、本誌上において、芥川文学の新た魅力を語る日が来ることを願っている。(A)  株式会社ソウブン・ドットコム(旧 創文印刷工業株式会社)
・A5判、94頁、770円
 2023.09.10  第231号  ▼節目となる第七十回文教研全国集会は今回もオンライン開催となる。残念ながら八王子大学セミナーハウスでの真理の鐘を聞くことはできず、「原爆を許すまじ」を皆で歌うこともできない。このような世界状況だからこそ、どちらも大事にしたい。せめて心の中であの音を再現させよう。▼集会は今回も芥川文学を取り上げる。一体、文教研ではいつから芥川を取り上げているのだろうか? そんな疑問にたちどころに応えてくれるのが文教研HPだ。膨大な、貴重な資料がしまい込まれているHP▼「文学教育研究者集団」「研究活動」「機関誌」等々八つの分類があり、それぞれにいくつもの魅力ある小見出しが付けられている。その一つに〈どう取り組んできたか〉というコーナーがあり、芥川龍之介をはじめ、井上ひさし・井伏鱒二と個人または研究テーマごとに文教研の取り組みがリストアップされている。ちなみに芥川文学に取り組んだ最初は一九六三年。▼まるで図書館。これまで、誰もが図書館を利用・活用して来ただろう。文教研の図書館を活用しないという手はない。(A)
 
・A5判、70頁、770円
2024.08.03 第232号   ▼文教研会員の研究・学びの対象はひろがりをみせている。二〇二三年度は『資本論』の学習が加わった。高齢期に入って、マルクスの書を読むとは。私以外にも、そのように思った人はいたことだろう。兎も角、予想外の、しかし、なかなかに知的好奇心を刺激する学習が続いた。▼一八七四年にヨハン・モストというドイツ人が投獄されて得られた「余暇」を使って、労働者に安く、わかりやすい形で書いた『資本論』からの抜粋に、マルクス自身が改訂作業を加えて世に出された本がテキストだった。(ヨハン・モスト原著、カール・マルクス加筆・改訂 大谷禎之介訳『マルクス自身の手による 資本論入門』大月書店)▼井筒講師のもと学習会を続けるうちに、ついに『資本論』原著の一部を読むことも出来た。シェイクスピアやハイネなど文学作品も登場していることも知ることもできた。『資本論』の学習と文学との関連・関係。いつか、この機関誌にそのようなテーマの論稿が登場する日を楽しみに、今は地道な学習が続けられている。関心のある方のご参加を待ちながら。(A) ・A5判、102頁、770円
 
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