《再読》 巻 頭 言 
 
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 『文学と教育』№65 1970.8  機関誌活字化にあたって   委員長 福田隆義

 古風ないいかただが、文教研創立の精神は、研究に徹しようということであった。たとえ少人数でもいい、明日の民族文学創造の基礎を培う確かな理論と確かな実践を、これがわたしたちの合い言葉であった。それから十二年、国語教育・文学教育運動を内側から支える地道な研究を積み重ねてきた。そして、今は少人数から中クラスの集団に発展した。
 機関誌「文学と教育」も、ガリ版刷り十頁前後のものから、タイプ印刷二十頁前後へと充実し、そして、今、活字印刷第一号が誕生した。
 人はボリュームがない、というかもしれない。貧弱だと陰口をたたくかもしれない。 でも、わたしたちは自負している。この雑誌には、いっさいの混じり気がない。わたしたちが原稿を書き、わたしたちが検討し、わたしたちが編集した。もとで も、わたしたちが出しあった。
 この「文学と教育」は、わたしたちの雑誌である。文教研創立の精神になぞらえていうなら、たとえ小さくてもいい、明日の民族文学創造の基盤となるような論稿で、この雑誌をうめようと、決意を新たにしている。
 最後に。文教研は研究者の集団であり、論理的批判に対しては、きわめてすなおである。今までも大勢の方から、いろいろな意見や注文をいただいた。それらの中で建設的な批判は謙虚に受け入れ、わたしたちの糧にした。「文学と教育」活字化を機会に、さらに友好的な批判をたくさん寄せていただくようお願いする。(20151116)
  

 
 『文学と教育』№66 1970.11  教科書裁判の意義   副委員長 佐伯昭定

 一九七〇年七月一七日、東京地方裁判所民事二部法廷。そこで行なわれた一つの判決は日本の教育行政史のなかで、いや、日本の歴史の中で、特筆すべき頁にすることができた。それをつかの間の晴間でなくすためには、特に教育の仕事に直接たずさわるものが、「不当な支配に服すること」に対して耐えることができない屈辱感をもつ必要がある。
 家永訴訟勝利にむかって、文教研は組織ぐるみ行動に参加した。そして勝利した。それは、七〇年代の国民的闘争のなかできわめて重要な意義をもつ。しかし、勝利の祝酒に酔っていてはならない理由が二つある。一つは、闘いはまだ終わっていないということ。東京地裁判決一つで、ここまで執拗に進めてきた反動的文教政策を方向転換するような人は、はじめから「国家の教育権」などという新語は造らなかったはずである。
 もう一つは、教育というものが、「国民全体に対して直接に責任を負って行なわれるべきものである」という自覚。それにつながる理論的実践的な教育活動が現状ではどうなっているかということである。
 文教研は、三十三年指導要領批判をはじめ、教育の軍国主義化を意図する灘尾発言に対する直接抗議行動を行なうなど、集団結成以来一貫して反動文教政策と闘ってきた。
 わが集団の追求し続けてきたものは、民族の課題に応える教育を、国語教育の中でいかに明らかにするかということであった。
 東京地裁判決は、家永訴訟を受け入れない人たちにはショックであったろう。しかし、この判決を勝利と感じるわれわれにも、違った意味でのショックとして受けとめなければならない姿勢が必要ではないか。それは、国民全体に対してその責任を負うことの重大さへの自覚においてである。教科書裁判の意義を、われわれはそのように受けとめる。(20151126)
 
 『文学と教育』№67 1971.1  組合教研と民間教育研究サークル   事務局長 荒川有史

 第二十次全国教研が、71年1月、東京でひらかれる。十年ぶりのことである。安保をめぐる日本の動きがそうであったように、日教組教研の歩みもジグザグの十年であった。
 残念なことに、文部省主催の研究会とカンちがいしているみたいな報告もあった。またわからないことは講師の先生に、という自主性のない発言もあった。または、自己の理論と実践を盲信するあまり、異なった意見を正面から嘲笑したり圧殺したりするような動きさえ見られた。組合教研の場が、経験の交流による相互発展のためにではなくて、〝異端者〟(?)への折伏のために悪用された感じである。
 が、今はちがう。いや、すこしずつ違ってきている、と言ったらよいのだろうか。70年7月、東京地裁における家永裁判勝利の意味が地域教研に反映され、民間教育研究サークルの全国集会に反映され、さらに全国教研に反映されていく動きにあるからだ。
 右の動きと関連して、民間の教育研究サークルが、職場教研を中心とする教研活動の推進力になってきていることを見のがすわけにはいかない。それぞれのサークルが、独自の目標をかかげながら、大きく日本の教育に寄与しようとしている。
 文教研は、創立以来、研究者としての自覚をもとう、とよびかけてきた。その自覚が、教育労働者としての仕事を真に保障する、と考えたからである。もっとも、内外の教育反動の攻撃を前にして、研究者としての姿勢をつらぬくことは困難であった。が、初心をたいせつにすることは、日本の教育における文教研の存在意義を問いつづける上での基本である。〟文体づくりの国語教育〟とか、〝文学教育の構造化〟という発想自体、文教研の初心とわかちがたく結びついているのである。(20151206)

 
 『文学と教育』№68 1971.3   七一年の課題   委員長 福田隆義

 一九七〇年代の初年は、すでに過ぎた。
 この年、中央教育審議会は、教育制度・教師の管理体制・教員養成など、教育全般にわたる改悪構想を提示した。いっぽう、「教科書検定違憲訴訟」の勝利は、自主編成運動の推進に大きな励ましとなった。まさに、七〇年代を予見させる年であった。
 この年、文教研は、七〇年代初頭にふさわしい仕事をした。それは、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』の姉妹編『文学教育の構造化』をまとめたことである。両書は、いわば母国語教育の〝基本路線〟を、国語教育・文学教育界に提起したといえよう。進行中の自主編成運動も、この発想で構造化していくとき、はじめて本物になる、と思うのである。
 そして、一九七一年を迎えた。
 七一年は、日教組「教育研究全国集会」で明けた。一月一三日から東京で開かれたこの集会は、とうぜんのことながら、自主編成へむけて討議が集中した。文教研からも、レポート提出者二名をはじめ、おおぜいが参加して、この討議を注視した。そして、わたしたちが提起した〝文学教育の構造化〟が、この集会で果した役割に、自負と自信をいっそうふかめた。と同時に、これをどう訴え続け、発展させていくかの責任を痛感した。
 七一年はまた、文教研としても、ある〝節〟をつけなければならない年である。というのは、わたしたちの公開研究集会も、この夏で二〇回を迎える。いうなら、成人した全国集会を組織しなければならない年である。が、その成否は、前記「全国教研」で提起した問題を、さらに説得性のあるものにまで具体化できるかどうかにかかっている。
 七一年の、さしあたっての目標をそこにおき、第二〇回全国集会を成功させたい。それが、来年の教研、さらには、七〇年代の展望をより明確にする、と思うからである。(20151216)
 

 
 『文学と教育』№69 1971.5  新たなる賭を   副委員長 夏目武子

 「人間は考えるらっきょうである。」――新しい学年を迎えた最初の国語の時間に、私は私の先生から学んだこのことを、生徒たちへ向けて話すことにしている。
 人間は考えるらっきょうとして、複数的存在である。多くのすぐれた仲間の体験をくぐることで、人間としておもしろみのある人間になることができる。すぐれた仲間を作品の世界に発見しその眼で現実を見なおしたとき、現実に存在する周囲のだれかれを、仲間としてとらえなおすこともできるようになる。ひとたび仲間を発見することができたら、簡単に、ひとりぼっちだ、などつぶやかなくてもよくなる。心の中の仲間との対話に勇気づけられて、一歩足をふみだすこともできるようになる。お互いに、考えるらっきょうになるよう、言葉を通して勉強し合おう――とよびかける。
 一年たって、三月、教師をした経験のある者なら必ずといってよいほど陥る、あの自己嫌悪。どれだけわかってもらえたのか、という自分に対する問い。
 だが、あせらないことにした。一挙に何もかもすべてわからせるということは不可能である。教育は即効だけをねらうものではなかったはずだ。
 19回集会で話された「教育は賭である」ということが、強く心に刻まれている。今の子供たちが、どういう大人になるのか、なってほしいのか、そういう見通しをもった上での今日の教育なのである。ああ、このことだったのかと、いつか気づいてほしい。今はその素地づくりをしているのだ。考えるらっきょうとして発想する文体の素地をつくっているのだ。そのために教材体系を組み、指導過程を考える。気づいてくれる日に賭けて……。百円玉一箇で一千万円に賭けるのとはケタが違う。教師の人間を、そこに賭けるのだ。
 新学期、また、新しい賭はなされる。くずされる条件が多い中で、それでも、賭はなされなければならない。その日のために。(20151226)


 
 『文学と教育』№70 1971.8  第20回全国集会をむかえて   委員長 福田隆義

 第20回全国集会は、たしかに、文教研にとっては一つの「節」である。というのは、現時点の文教研には、成人式を迎えた若者に似た抱負がある。また、若者のように期待されている、と思うからである。
 たとえば、第20次日教組教研東京集会にみられたように、われわれが提唱しつづけてきた「文体づくりの国語教育」は、今や、だれもが関心を向けざるを得なくなってきた。なかには、反発という関心の示し方をしている者のあるようだが、大勢はゆるぎない。今後、この問題が、国語教育の中心課題として、理論的・実践的に全国的規模で論議されることは必至である。
 それに対して、われわれはすでに、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』の姉妹編『文学教育の構造化』を公にしている。が、今次集会の一つの課題は、そこで展開した理論と実践的課題とを、全国の仲間といっしょに、さらに説得性のあるものに磨きあげることにある。それは、問題を提起した文教研の責任である。
 また、今次集会が「節」である、という理由はそれだけではない。文教研が、研究者集団の名にふさわしい集会のスタイルを確立したことも、その一つである。それは、集会申し込み要項の「少人数で集中的に討議したいと考えていますので、先着順80名で打ち切ります。」という文面や「参加者は全員合宿とします。」という制約となってあらわれている。文教研の全国集会は、年に一度のお祭りではない。たんに旧交を暖める機会でもない。明確な問題意識をもった者の集会であり、研究の場だある。
 右のような課題とスタイルで組織された、第20回全国集会は、あすの国語教育・文学教育の展望を切り開く集会であると確信する。(20160106)

 
 『文学と教育』№71 1971.11  研究姿勢の確立を   委員長 福田隆義 
 
 中央教育審議会の答申を、政府・自民党は「第三の教育改革」などと礼讃し、その実行に着手しようとしている。そこでの教師対策は、勤評を境に多くなったといわれる「物いわぬ教師」どころではない。それは、教職員の養成からはじまる。そして、研修・再教育を通して、その反動教育の推進役に飼いならそうというのである。
 文教研は、そうした反動文教政策に一貫して反対してきたし、飼いならされることを拒否してきた。というより、飼いならされることを拒否する集団であった。したがって、そこでは、常に新しさがあり、自己変革が保障された。創立にあたって、みずから〝研究者集団〟と命名した理由もそこにある。会員めいめいが、研究者としての自覚を、という決意を託した命名であった。
 ところで、文教研も創立当初は、ごく小規模の団体であった。そして今は、中規模の集団になった。しかし、少なくとも、会員は、文教研の研究姿勢に賛同して入会したはず。どんなに大所帯になろうとも、その基本姿勢に変わりはないはずである。
 が、家永訴訟の杉本判決を支持し、中教審路線に反対する文教研の会員は、今この時点で、文教研創立の精神を再確認する必要がある。去る九月十一日の臨時総会は、まさにそのための総会であったといえよう。研究部提案の「定例研究会運営方針」と「定例研究会プログラム」の検討に、その大半をさいた。そして、会員めいめいが、研究者集団の成員であることを確認しあった。
 われわれ教育労働者は、同時に研究者であらねばならない。それは、子どもたちの将来に対して責任をもつためにである。中教審路線に対して対決できる力量を、めいめいのものにするためにである。(20160116)


 
 『文学と教育』№72 1972.1  真に民主的な全国教研を   副委員長 佐伯昭定 
 
 この一月に、また日本中の多数の教師が集まる。今年で21回めの日教組教研全国集会が開かれるからだ。参加する事自体が一つの闘いであるかのような厳しい状況が年々深まりつつある中で、日教組教研の意義をここで再度確認し合いたい。
 70年代のわれわれの前には重大な課題が提示されている。日本の教育を国民の手に奪い返すために、また軍国主義の手に染まった手に再び日本の子どもを渡さないために、その闘いの一つとして、全国の教育労働者は日教組教研を守り育ててきた。
 そのような観点に立ち、今後なおそれを意義あるものにしていくために、国語分科会に焦点をあてながら一つの問題を提起したい。
 過去何年間かの事実をみても明らかなように、国語分科会では各代表に媒介されながら、様々な民間教育団体の実践と主張が提出されてきた。日教組教研は決して民間教育諸団体の単なる発表の場ではない。しかし、それらの成果が日本中の教師の前に、何らかの形で提示され多くの人たちの中で批判され検討されることは意味のあることである。それは今後とも積極的に位置づける必要がある。だだその場合、それらの団体の主張は相互に対等な関係において評価され検討されるという民主的な原則は常に守られなければならない。また、制約された時間の中で多くの主張をまともな形で理解し合うことは極めて困難ではあろうが、しかしそのために一つの主張が曲解されたり、意味の違った形で位置づけられたりすることのないよう十分な配慮が必要である。相互の主張の中で一致点を拡大していく努力はもちろんなされるべきであるが、不一致点はそれなりに明確な形で残しておくべきである。
 過去数年間の分科会総括報告を見ても以上のような問題点を感じる。日教組教研を真に民主的なものに育てあげていくためにここにあえて提言したい。(20160126)
 

 
 『文学と教育』№73 1972.3   文学史を教師の手に   常任委員 鈴木益弘

 昨年八月開催された第20回文教研全国集会は、文学の授業の構造化の、もっとも今日的な課題につなげたかたちでの目標を、「近代主義的な文学・文学史観の克服」に設定し「文学史をわたしたちの手に」という姿勢でとりくむことを確認した。
 教育権は国民にある。教師は直接、国民から付託された教育権を、絶えざる研究と真摯な実践の中で行使する。教科書訴訟についての東京地裁判決の基本的立場である。それに応えて、科学的な理論にもとづいた教育課程・教材の自主編成が研究され、指導過程が検討されている。そうした中で、わたしたちが、母国語教育の構造の中に、正しく文学教育を位置づけ、文学の授業の構造化の原理として「わたしたちの文学・文学史観」の立場を貫くことは、きわめて当面的課題であるといわねばならない。
 ことに、今日この頃は、一九三〇年代にそうであったように、思想の混迷が言われ、文学や教育の理論にもその混迷の投影を見ることも多い。それだけに、わたしたちは、文学や教育の原点に立ちかえり、そこから新しい目で対象を見直さねばならないのである。
 わたしたちが、戸坂潤やS・K・ランガーら先人のすぐれた著作を学び、現実をきりひらく武器を得ようとするのも、また、すぐれた多くの文学作品から、その現実把握の発想を、それに見合ったすばらしい母国語操作とともに学ぼうとするのも、そのためである。
 現代をよりよく理解し真っ当な実践を行うために、過去を学ぶというのは、人間が歴史の中で常に行ってきた文化創造の営為である。偉大な先人への同化ではなく、新しい歴史に生きて行為するもの中心の歴史把握こそ真の歴史把握である。わたしたちが、作家中心の文学史でなく、読者中心の文学史をこそ、われわれの文学史と呼ぶのもこのゆえである。
 こどもたちの文体を鍛え、真っ当な母国語操作のできる子どもにしていくために、わたしたちは、〝文学史を教師の手に〟と主張するのである。(20160206)


 
 『文学と教育』№74 1972.4  人間破壊と母国語教育   常任委員 鈴木益弘

 新しい年が始まる。新しいこどもたち。新しい指導計画。新しい教室。新しい期待と決意。四月は、わたしたち教師にとって、胸のわくわくする月である。
 こどもたちの期待に満ちた顔に向って、最初の一言をどう投げかけようかと考える。
 こどもたちの生き生きとした反応を想像しようとする。
 だが、この頃のわたしたちの心は重く暗い。呼びかけに生き生きと応えないこどもの顔がいくつか浮ぶ。わたしたちと心をつなげようとしないこどもがふえているのだ。
 第二十一回日教組全国教研集会でも、こうした深刻なこどもたちの状態がいくつも報告され、人間が人間として生きることと教育とのかかわりが鋭く問題にされた。
 記念講演の中で島恭彦氏は、今日の環境破壊の根源を、第四次防に代表される軍国主義政策と、国益優先の高度経済成長政策にあると指摘された。また特別報告で遠山啓氏も、人間破壊が、差別と選別を行う能力主義の中教審路線に原因していると論じられた。
 こうした破壊に抗して、人間の尊厳を主張し、生活と平和を守るには、国民的な運動が必要だろうが、これを国語教育の場面においた時、われわれは中教審路線と真に対決する言語観・文学観にもとづいた国語教育を推し進めなければならないのだと思う。
 わたしたちの歴史の中で、働く民衆が、相互の連帯を強め、生活を築き、歴史を創造して来た運動の、支えになり、武器にもなったのが、民族語、日本語である。そして、このたたかいの中で、磨かれ、美しく、豊かに成長して来ているのが、わたしたちの共有の財産としての母国語、日本語である。この母国語を実践的、創造的に操作できるようにしていくのがわたしたちの国語教育でなければならない。わたしたちが主張している文体づくりの国語教育は、まさに、そうした課題に応えようとするものであり、民族を汚辱の牢獄から放つ鍵をこどもたちに与える母国語の教育の提唱でもあるのである。(20160216)


 
  『文学と教育』№75 1972.6  教育の反動化に抗して   副委員長 佐伯昭定

 文教研定例の春の合宿研究会は今年も八王子で行なわれた。ところが今回の研究会にもレギュラーの何人かが病気のために会に加わることができなかった。特に今回は文教研創立以来欠けたことのなかった福田委員長、そしていつも万難を排して全力投球する夏目副委員長が、共に入院加療のために欠席ということになった。過去においても同じような理由で、教育研究の貴重な機会を奪われた何人かの会員がいる。わたしは「奪われた」と敢えてこのような言い方をしたその意味をここで改めて問うてみたいと思う。
 日教組の調査によれば、現在、日本の教師の三分の一は「前病状態」にあるという。しかもその大多数は内科系の病気であり、殆んどが慢性化の状態におかれているということである。この傾向は私学においても同じく、近年、病欠のために退職を余儀なくされたり、高度の精神疲労のため休職、あるいは、教職を離れていく教師が多くなってきている。
 低賃金に加えて週三十時間に近い授業時数、本務以外の過重な雑務。このような苛酷な労働条件と職場体制の中から出されてくる「しめつけ」強化。精神的であれ肉体的であれ、健康を保ちながらなおすぐれた教育実践を続けていくことはまさに至難の技といえよう。
 日本の教師の異常な健康破壊は、教師個人の健康管理を越えたところからくるもの、根本的には第三次教育改革といわれる現在の文教政策から引きだされてくる職場破壊、教育破壊に直結しているという重大な事実を見逃せない。教師の良心を枯らし教師の命をも脅かそうとしているものに対して、われわれは速やかに原告の席を用意しなければならない。
 それと同時に、生命をさえ脅かす苛酷な労働条件を伴う反動文教政策下にあるからこそ、戸坂潤の闘いの姿勢をくぐり、太宰治の強じんな精神と人間への温かさをくぐりながら、われわれは文学教育研究の情熱を執念(しゅうね)く燃やし続けていかなければならないのである。
 それは、われわれの生き方にかかわって重要なことだからなのである。(20160226)
 

 
  『文学と教育』№76 1972.8  第21回全国集会に思う   委員長 福田隆義

 わたしたち文学教育研究者集団は、ここ数年来、「文体づくりの国語教育」という主張をかかげ、それを実現する「授業の構造化」を探りつづけて来た。
 一昨年の全国集会ではこの課題を〝イマジネーション理論による授業構造〟という視点から追求した。また、昨年は〝近代主義的な文学・文学史観の克服〟という観点から課題に迫った。そして、その必然的な帰結、というより継続的な課題として確認しあったのが本年度集会テーマ〝文学史を教師の手に〟なのである。そしてこの一年間、わたしたちはわたしたちの考える文学史とはどういうものか、それをわたしたちのものにするとはどういうことなのか、具体的な作家・作品に即して提示しようと準備を重ねて来た。
 「芥川文学をどう教材化するか」は、そうした観点からの、芥川文学へのアプローチなのである。数ある芥川論をはじめ、中学校や高校の教科書で、芥川文学が、その文体的発想において必ずしも正当に評価されているとは思えない。むしろ、その文学史的評価を近代主義者の手からわたしたちの手にとりもどす必要を痛感する。芥川も歴史の子である。芥川文学も歴史的な所産である。その文体的発想を、その歴史社会的のなかでつかみなおすことを通して、芥川文学を蘇らせ、わたしたち自身をも鍛えなおそうというのである。
 わたしたちは中教審路線に反対している。それは、教科の理論・文学教育の理論を真に科学的なものにしていく闘いであり、日常の教育実践のなかでその不当性を糾弾していくものでなければなるまい。わたしたちめいめいの理論が鍛えなおされ実践に筋金がはいった時、中教審路線に反対する運動も迫力がでる。この集会はそうした鍛錬の場でもある。
 文学史を教師の手に――それは、わたしたち自身の文学史意識や、文学史の方法を鍛えなおそうというのである。それなしには、まっとうな国語教育・文学教育を推進することはできないからである。(20160306) 
 

 
 『文学と教育』№77 1972.11  研究の楽しさときびしさと   副委員長 佐伯昭定

 〝面白い〟〝楽しい〟と言えば誤解されるかもしれない。が、研究する事の面白さ、わかる事の楽しさは文教研の研究活動の中で常に感じられていることである。
 例えば、である。「ファンタジー」、誰でも、また何の気なしによく使っている言葉である。しかし、この概念を明らかにしていくためには、少なくとも十九世紀のドイツの文芸思潮のあたりをさぐっていかなければならない。そして、それに何らかの影響を受けてきた日本の文学を。そして今ここでその概念をどう組み変えていくことが、文学の理論として有効なものになり得るか。じつはそういった手続きを経ていく中で、自分の中に文学をみる眼が用意されてくるわけだ。これは楽しい事ではないだろうか。
 七二年第一学期(九月~十二月)の研究プログラムは過日開かれた九月総会で全員一致で決定された。その内容を見た時、やっぱり胸のときめきを感ずる。
 「文学史を教師の手に」という発想で取りくまれたこの一年間の文教研の研究活動の成果を受け継ぎ、今期においても、芥川文学に視点に置いて更に研究を深めていくことが確認された。
 説明文体というレンズから「芥川」をキャッチした時、そこにどんな顔が浮かび出てくるだろうか。芥川文学の底を流れている地下水、それをさぐり当てた時、どんな水が溢れ出てくるだろうか。そして、芥川文学の主題的発想の展開をつきとめていく……
こういうことが自分にわかっていくのだと思った時、やっぱり「楽しい」という以外に言いようがないだろう。まして、それらの成果をそれぞれの媒介の仕方において日常実践に反映していくことができるとなればなおさらである。
 このような「楽しさ」「面白さ」をほんとうに保障していく文教研の集団づくりを今期も目指していこうではないか。ますます厳しくなっていく教育情勢の中にあるだけに
……。(20160316) 

 
  『文学と教育』№78 1973.1  未来の先どりを   副委員長 夏目武子 
 
 中学一年生にきいてみる。「二十一世紀になったとき、いくつになるの。」しばらくして答えがかえってくる。「四十一歳だよ。」
 二十一世紀はどんな時代であろうか。昨年の日教組全国教研でも話題になったのだが、もうすでに小学生から人間破壊にまきこまれ、いわゆる三無主義は高校生特有の現象でなく中学生にもひろがっている。こうした現象に対して、中教審路線は教育活動の統制を強めようとするだけで、根本的解決をはかろうとしていない。現在以上教育活動が規制され画一化されたら、大人も子どももますます無気力な平均的人間となってしまうであろう。
 平均的な人間が、現状にいかに適応しようかときゅうきゅうとしている――二十一世紀をそうイメージしたとき、それではたまらない、そんなはずはないと、思わず叫ぶ。
 個性と個性とのぶつかりあいのなかで、一人ひとりを越えた新しい個性が集団的個性として生まれてくる――たえず自分も変え、まわりを変えることで新しい文化を創造して行く――人間とはそういうものではなかったか。このことをたんなる空想ではなく、実現可能なものとしてイメージできないだろうか。実際に体験していないという意味では、未知なることであり、時間構造的には未来に属することになるが、この先どりされた未来から現実をみるとき、その実像がはっきりしてくる。現実が既成事実と混同され、現状はこうだからこうするよりほかないと適応のみを考えることは、現実を変革不可能なものと固定化することになる。何らかの事態・状況の変革をめざした意識的合目的的な行為こそ実践であり、未来像がはっきりしたとき、実践の方向がつかめ、実践の意欲が高まる。
 未来の先どり――それは、言葉とは何か、文学とは何かを学ぶなかでつかめる発想だ。未来を先どりする眼は文学の眼でもある。二十一世紀に生きる若者たちとともに、私たち自身が文学の眼をもって現実をみつめ、生きる(実践する)目的をはっきりさせたい。各地で進められている教研、新春の全国教研でこうしたことを語り合いたいと思っている。(20160326)


 
  『文学と教育』№79 1973.3  研究者として真摯な交流を   委員長 福田隆義
   
 「義務教育を充実し整備する」といえば体裁はいい。が、そういう口実で田中内閣は、あの悪名高い「中教審路線」を、予算をともなった具体的な施策として実施に移そうとしている。一九七三年は、教員の研修・身分・給与を一体とした管理体制が現場をしめつけることが明らかになった。
 他方、日教組教研をはじめ、民間教育研究団体の研究集会も、年々高揚してきていることも事実である。「民主教育を守る運動」の発展を物語る証拠といえよう。
 そうした民主教育を守る運動のなかではたした、文教研の役割は意外に大きい。文教研会員個々の予想をはるかに上まわる実績があると自負している。また、それだけの力量を文教研はもっていると信じる。一九七三年は、そうした力量を、対外的にも、そして、個々の現場でも、十分に発揮する年でありたいと願う。
 ところで、今年の夏は、文教研第22回全国集会に加え、文教研が国語分科会の運営を担当する、神奈川県教育サークル連絡協議会(神教協)と、教育科学研究会(教科研)共催の全国集会が予定されている。というのは、文教研グループが有力メンバーである神教協に、教科研から共催申し込みがあったのに対し、文教研拡大常任委員会として、それを支持する決定をしたからである。文教研はこれまで教科研一部の指導者から、いわれなき中傷をうけてきた歴史がある。が、そのことについて、教科研常任委員会が自己批判をし、これまで神教協ではたしてきた文教研グループの実績を尊重した運営にする、ということを条件にした共催支持の決定である。文教研常任委員会が、あえてそうした決定をおこなったのは、より多くの仲間と研究者としての心からの交流をすることが、日本の民主教育を守る運動を、さらに発展させることになると思ったからである。
 この会が、第22回全国集会と同様、真摯な学問の場になることを期待してやまない。(20160406)

 

 
  『文学と教育』№80 1973.5  切捨て主義との闘いを   副委員長 佐伯昭定
 
 人から聞いた話だが、ある県の高校入試の成績をみてみると、昭和45年には百点をとった生徒が65人、零点が96人であったそうな。ところが翌年は百点は七倍近くの四二三人に増えた。これだけみれば大変結構な話だが、しかし零点も増え、それが二年後には三二一人に達したという。何のことはない、上下が増えて中間がなくなっただけの話である。
 話変わって、ある大学の話。30年代では留年する学生はせいぜい8%以下であったが、40年代に入って12%に増え、この傾向は年々強まり、45年には20%、46年ではついに40%の学生が留年ということになったという。これはまさに異常な事態という他はない。嫌いな言葉だが「教育公害」などと言って済まされる問題ではない。
 ついでと言ってはなんだが、もっと深刻な話を一つ。十年前の昭和三七、八年頃中高生の自殺が激増したという事実があった。これは中高におけるベビーブーム期とぴったりと合致するのである。ところが昨年の秋以来再び、特に高校生の中での自殺の傾向が全国的に増大してきているという。週刊紙はこれを「理由なき自殺」と評している。果してそうなのだろうか。今や日本の教育は「差別と選別」――その所から招来してきているとはいえ、もっと深刻な局面に追いやられていると考えざるをえない。
 「能力開発」という〝笊〟からこぼれ落ちた子どもたち、もっと厳密な言い方をするならば「つき落された」子どもたちに残された道、それは「理由なき自殺」ではなく「自殺という名の他殺」しかなかった。そうとしか思えない。
 このような教育破壊が激化している時に、ぼくたちはそこで様々な闘いを展開しなければならないことは言うまでもない。その一つとして――というふうに位置付けたいのだが――ぼくたちの中に確固とした文教研理論を確立すること。そして民間教育運動を前進させること、それがぼくらに為しうる一つの闘いではないだろうか。(20160416)
 

 
  『文学と教育』№81 1973.6  母国語教育の原点をさぐる   事務局長 荒川有史
 
 見えすいたペテン、恥知らずの圧殺が横行している。小選挙区制がそうである。筑波大法案がそうである。四割の支持を八割の支持にすりかえる方策のどこに民意の反映があるというのか。どこに民主主義としての良心や英知があるというのか。そこにあるのは、多数決原理を悪用するファシズム特有の手口である。この黒い手の暗躍を許さぬこと――私たちにとっての緊急な課題と言えよう。
 こうした緊急課題との取り組みは、ところで、私たちの教育実践の質をきびしく問い返す作業と直結しているように思われる。自己の教育実践の質を高める中で、子どもや親との連帯を模索する道が、日常性における政治的対決との緊張関係の中で、新しく見直される状況にあると考えるからである。
 国語教育ないし文学教育の実践にたずさわる私たちの場合、情勢がきびしくなればなるほど、自己の文体的発想の変革をたえざる課題として追跡していきたい。具体的には、私たちがみずから<書クコトノススメ>を実践するのである。文章に対する鋭敏なるリズム感覚を喪失し、文章をつくることの苦しみを忘れて、子どもたちに作文を課すことはもはや許されない。
 私たちは、まず、書かねばならない。自己の内部に鬱積している民族的主題を、個性的な文体として定着しなければならない。生徒が書く文章よりも質量ともに上まわる文章を書きつづける必要があるのである。
 そうした作業が、実は、母国語教育の原点を見つめなおす実践へと直結するはずである。書くことは、自己に内在する矛盾を見つめなおすことであり、さらに他者のすぐれた発想を自己に媒介する主体的な作業である、と言えよう。
 言い換えれば、自己をとらえなおすということは、<自己>を階級的視点において考えることであり、自己の内外における対話を回復しつづけることである。そうした作業を中軸にすえた階級的視点の獲得過程を文体において保障することが、母国語教育の基本的課題と言えるだろう。(20160426)
 

 
  『文学と教育』№82 1973.8  原点にもどって考えあおう   委員長 福田隆義 
 
 日本民間教育研究団体連絡会(日本民教連)に加盟している団体が、三五団体ある。そして、それぞれの領域で、独自の主張を掲げて研究と運動をすすめている。
 それぞれ独自の主張を掲げることに、その団体の存在理由があるのだが、わが文学教育研究者集団(文教研)は、そうしたなかでも極めて個性的な団体だと自負している。その体質ともいうべき特徴は「問題をたえず原理・原則にもどして考え直す」という研究姿勢にある。変に現場主義に陥らず、教育づかないことを誇にしている。そこでは、母国語とは何か、あるいは、文学とは何かが、たえず問題にされる。国語教育・文学教育の原点への問い直しである。問い直すことで、自分自身の言語観・文学観を鍛え直していこうというのである。したがって、研究会でとりあげる作品も、子ども向けの文学に限定しない。むしろ、成人文学を対象にすることで、移調のきく確かな原理や方法をめいめいのものにしていこうという考え方である。
 ところで、そういう姿勢から選ばれた、昨年度の文教研全国集会テーマは「文学史を教師の手に――芥川文学をどう教材化するか――」であった。そして、この一年間、私たちは再び芥川文学を中心に精力的な学習をしてきた。徹することで、移調のきく原理や方法を、と思ったからである。そうした研究過程の必然的な帰結としてうまれたのが、本年度の集会テーマ「文学史を教師の手に――文学の原点をさぐる――」である。今次集会では、芥川文学について、あるいは、芸術の論理について、いくつかのユニークな問題提起を予定している。
 二泊三日の集会が、明日の民族文学創造の基礎を培う国語教育・文学教育の真摯な研究の場であることを期待してやまない。(20160506) 

 
 『文学と教育』№83 1973.11  二つの集会をおえて   委員長 福田隆義
   
 この夏は、文教研の前身である「サークル・文学と教育の会」創立十五周年にあたる。十五年前のこの会は、小さなサークルだった。「文学教育研究者集団」と改称した頃も、少人数の集団だった。が、少人数でありながら、年に二度の全国集会を何年もつづけた。また、他の団体と共催の研究会も経験した。それらの会は、必死の思いで取り組んだ。悲壮感さえあった。それだけに、文教研にとっては、貴重な経験ではあった。しかし、会員の理論水準の落差や実践の浅さが、ときにはピンチを招いた苦しい経験だった。
 その後数年は、年に一度の全国集会を定例化し、着実に成果をあげてきた。そして、この夏、ふたたび二つの全国集会を経験した。文教研第22回全国集会と、神教協他の合同集会・国語教育部会への提案サークルとしての参加である。この参加は、文教研にとってやはり貴重な経験であった。この合同集会は、文教研主催の集会とは、運営はもちろん、参加者に大きな違いがあった。文教研に対して白紙の立場の参加者はともかく、先入見、それも誤解や曲解による先入見をもった参加者もいた。そうした参加者と、どう討論し、会を成功させるかという課題がわれわれにはあった。
 しかし、十年前の文教研とは違っていた。合同集会であるという遠慮や配慮から、発言をさしひかえた場面も若干あった。が、会員が積極的に主張し討論した場面は、おおかたの参加者の納得と共感を得た。そういう意味でこの会は、文教研の主張と研究水準の高さに自信をふかめた集会であったといえる。
 今年もまた、教研の季節がきた。この集会で得た自信と教訓は貴重である。文教研の研究成果を会員めいめいのものにする努力と、日教組全国教研へ向けて、職場・地域の教研集会に、われわれの主張を反映させる取り組みを! (20160516)

 
 『文学と教育』№84 1974.1  日教組第23回全国教研に切望する   委員長 福田隆義 
 
 文教研は、組合主催の教研集会を大事にしてきた。また、これからも大事にしていこうと思っている。教組に結集する教師のひとりひとりが、確かな理論と、確かな実践で、反動文教政策と対決していくことなしには、二十一世紀に生きる子どもは育たない、と思うからである。
 ところで、文教研はここ数年来「文体づくりの国語教育」という主張を掲げ、支部・県段階の教研集会はもちろん、全国教研国語分科会にも、積極的に問題を提起しつづけてきた。生産的な討論の場になることを期待してである。しかし、事態は期待ほどには進展がない。たとえば、全国教研総括報告集『日本の教育』の総括のしかたである。ここには、文教研の主張がそれとして位置づいていない。残念に思う。もちろん一致点を拡大していくことが先決である。が、相違点の確認も討論を継続的にふかめていくうえで欠かせない。そういう整理を、教研運動の発展と前進のために期待する。また、同じように残念に思うのは、教育制度検討委員会第三次報告「日本の教育をどう改めるべきか(続編)」の国語教育観である。ここに示された言語観・文学観、ひいては人間観にも賛成しかねる。民間教育運動の大勢からみたとき、拙速であったという批判はまぬかれない。
 そうした、さまざまな問題をはらみながら、今年もまた全国の仲間が山形に集まる。文教研のメンバーも県代表として、この集会に参加する。前記、教育制度検討委員会第三次報告もふくめて、この集会が真摯な討論の場であることを期待する。と同時に、そこで論議された内容が、正確に組合員に還元され、よりよい国語教育の方向と課題を提示してくれることを切望する。
 言葉を重ねよう。文教研は教研を大事にする。静かな論争をまきおこそう。(20160526)
 

 
 『文学と教育』№85 1974.3   『芥川文学手帖』に憶う   副委員長 佐伯昭定 
 
 このたび、われわれ文教研の会員で小さな本を自費出版した。『芥川文学手帖』である。A5判七二ページのこの本を作るのに実際にかかった日数は二ヵ月余りであったが、その内容を創りあげるのには二年余の歳月がかかっている。一冊につき四二〇円で頒けている。そんな売り方があるのか? いちおう誰でもそう思うだろう。資本主義の世の中の常識では確かにそうだ。だが、われわれはそれで十二分に儲けている勘定なのだ。しかし、それはお金の事ではない。
 日教組教研・山形集会に行ってきた友人から話をきいた。まともな理解を踏まえてのことなら別だが、一つの〝かくれみの〟のような形で「理論」が横行したと。また理論よりも実践(=実感)こそ大切! そんな発言が拍手喝采を受けたという。しかし一方、まともな言語観、文学観に立っての教科構造論など、国語教育の基本的な問題から検討すべきだという声が漸やく全体のものになりつつあるという。十年来の文教研の主張が全国教研の場の中に根付いて来たようだ。そのことを執念く追求してきた文教研もさることながら、十年とは少し長過ぎはしないか。
 去年の夏、日教組から「教育制度審議会第三次報告」が出された。その中の国語教育の部分については、前号の本機関誌で取りあげたが、余りにも問題が多すぎる。まだまだ、〝春は名のみ〟の感。忙しいがほっておくわけにもいかない。
 ほんとに責任の持てる教育を! 子どもの顔をまともに見られる教師に! そんな願いがあったからこそ、金勘定を度外視して小冊子を出す気持になったのである。「母国語文化を支えとしない真の母国文化はありえない。」(熊谷孝) ’73年度が終わろうとしている今、一年間をふり返りながら、この言葉の意味をじっくり考えてみようではないか。(20160606)
  

 
 『文学と教育』№86 1974.6   太宰文学と取り組む意味   委員長 福田隆義
 
 ――芥川から太宰へ―― これが、文教研今年度の研究課題である。二年余にわたって取り組んだ芥川文学の研究をふまえて、いよいよ太宰文学にまで歩みを進めようというのである。それはまた、わたしたちの懸案であった、一九三〇年代からの四〇年代前半を、当面太宰文学に焦点を当てて、文学史的なつかみ直しをしようとということでもある。
 いまここで、わたしたちが、一九三〇年代を研究対象として設定した理由を、ふり返っておこう。それは、いうまでもなく「現代史としての文学史」という視点からである。
 三〇年代を媒体にして、七〇年代に照明をあてよう、現代をつかみ直そうということであった。
 太宰治が創作活動をつづけた、一九三〇年代は、満州事変で始まる。そして、二・ニ六事件を境に、日本ファシズムは、総ての抵抗組織を弾圧・破壊し、日中戦争から太平洋戦争へとなだれ込んでいく。いわゆる十五年戦争下の混迷の時期である。
 ところで、一九七〇年代はどうか。自民党政府の施策で、まず物議をかもしたのが「中教審答申」である。「防衛力整備」という名の軍備拡張が、着々と進められている。四割支持を八割支持にすりかえる「小選挙区制」が世論をわかせた。「筑波大学法案」の強行採決などなど。さらに、今国会では「靖国神社法案」「教頭法制化法案」の、あいつぐ委員会での単独強行採決。田中首相の「日の丸」「君が代」の法制化発言や「教育勅語」の賛美など、政治の反動化・軍国主義化と一体になった、教育統制を強引におし進めようとしている。
 わたしたちは、一九三〇年代の混迷の時期をくぐり直す必要を痛感する。わらしたちめいめいの生き方を問うためにである。太宰文学と取り組む意味もここにある。(20160616)
 

 
 『文学と教育』№87 1974.8    教師自身のための文学研究の集い   委員長 福田隆義
 
 「研究 と実践の統一を」――これがわたしたち文教研の一貫した考え方である。それは、真の意味で「明日の実践に役立つ研究を」と言いなおしてもよい。
 文教研には〝つまみ喰い根性〟ということばがある。それは、表面的な指導技術、あるいは、研究成果の一部分をまねて、当座のやりくりを、というような研究会参加姿勢への命名である。その根性は、主観的な善意はともかく結果において、あるいは、その心性において指導書べったりの実践と選ぶところがない。文教研の研究会は、そうした姿勢での参加者には応えるものがすくなかったし、今回も十分な保障はない。
 本当の意味での、「明日の実践に役立つ研究会」とは、あすからの実践活動を、主体的・創造的に繰りひろげていけるように、教師その人を鍛えなおしていくことにあるとわたしたちは考える。〝いそがばまわれ〟である。
 ところで、教育課程の自主編成という問題提起があってから、すでに十数年にもなる。しかし、その具体的な作業は遅々として進まないのが現状である。進まない理由はいろいろあげられよう。が、その大きな一つに、自主編成をしていかなければならない教師の力量不足がある、ということは否定できない。いま、わたしたちに要請されるのは、主体的・創造的な実践活動を展開していける確かな力量である。
 わたしたちが、今次集会に――教師自身のための文学研究の集い――というサブタイトルを掲げた理由もここにある。また、そうしたプログラムで終始していることは、すでに御存知のはず。
 ことばを重ねよう。〝いそがばまわれ〟である。三泊四日の集会が、おたがいに鍛えあう集会であるよう、期待してやまない。(20160626)

 
 『文学と教育』№88 1974.9  第23回全国集会を終わって   委員長 福田隆義
 
 今次、第23回全国集会は、少人数で徹底した討議をという、文教研方式をさらに発展させた企画であった。三泊四日、しかも、全員合宿という全国集会は、他の民間教育研究団体にも例をみない。また、そこでの問題提起や報告は、研究者集団の名にふさわしい、高水準のものばかりだったと自負している。
 文教研第1 回全国集会は、一九六〇年四月、都下小金井市・浴恩館で開催した。一泊二日で、テーマは「文学教育理論の確立とよりよい実践をめざして」であった。当時、会員は、実動八名。集会が組織できるかどうか、心もとなかった。おおぜいの外部講師を招いた。八名の会員にとって、参加者は、まさに「お客さま」だった。参加してくれたことだけでうれしかった。参加人数を制限し徹底した討議をという、現段階からふり返ってみるとき、今昔の感がある。あの日から一四年、わたしたちは、熊谷孝氏らの「準体験理論」(――文芸学への一つの反省―― 一九三六「文学」)を軸に、第二信号系理論を媒介した。デュウイやサルトル、ランガーなどの所論を批判的に摂取した。そして、鷗外・芥川・太宰などの文学と精力的に取り組んだ。さらにまた、国語教育・文学教育の具体的・実践的な構想「文体づくりの国語教育」を、あるいは、読みの方法「印象の追跡としての総合読み」を提唱し、注目をあつめた。世間には「たかが三〇名の文教研」と評する者もあるらしい。たしかに文教研は大集団ではない。がしかし、大集団ではできない、文教研ならではの仕事をしようと思っているし、してきたつもりである。
 ところで、文教研年度は九月に始まる。新しい常任委員が選出された。そして今、研究企画部を中心に、今年度の計画を練っている。「文学教育理論の確立とよりよい実践をめざして」さらに上昇循環の「環」をつくりだしていく企画である。(八・二〇) (20160706)
  

 
 『文学と教育』№89 1974.12  教科指導の原点の再確認を   委員長 福田隆義 
 
 国語教育にかぎったことではないが、今教育現場に必要なことは「教科指導の原点の再確認を」ということではないのか。
 たとえば、ここ数年、教研の話題をさらった「教育評価」と「通知表」の問題がある。到達目標を明らかにしようと、現場でもかなりの精力を傾注した。そして、その成果を方々の学校や団体で公表している。むろん、そのこと自体を否定するつもりはない。が、そこでの論議や設定された到達目標が、どうもスッキリしない。国語科のばあい、それが漢字の記憶量や、たんなる文法知識の量として考えられているむきもなくはない。また、教科構造が不明確なまま、それぞれの領域で、それぞれに論議された到達目標の寄せ集めといったきらいはないか。それらの間にどういう統一の論理があるのか明らかでない。スッキリしない理由は、そのへんにあるように思う。
 「教科指導の原点の再認識を」という問題提起は、今一度〝なんのための文学指導か〟また、〝なんのための文法指導なのか〟などなどを問い直そうといい変えてもいい。つまり、国語教育の中心課題は何かを明らかにする必要がある。中心軸をおさえたうえで、それぞれを位置づけ、構造化を、といいたいのである。そうした問い直しなしの、あるいは、自覚を欠いた授業では、結局、バラバラの知識のつめ込みに終わり、真の「母国語」の担い手は育たない。
 ところで、すでに絶版になって久しい、熊谷孝氏の名著『言語観・文学観の変革と国語教育』
[当初予定されていた書名。実際には出版元の意向により『言語観・文学観と国語教育』の名で刊行された](明治図書・一九六六年一一月二五日刊)が、八年ぶりで再販された。かつて文教研共通テキストとして、われわれは多くを学んだ。そして今「国語教育の原点」を再認識する意味で、ひとりでも多くの国語教育関係者に、一読再読をすすめたい。(20160716) 

 
 『文学と教育』№90 1975.1  全国教研国語分科会への提言   委員長 福田隆義
 
 積み重ねが大事だ、ということはわかる。したがって、討論の柱だてや内容も容易に変えることはできないだろう、ということもわからなくはない。しかし、全国教研は、その期間に比較して、なんといっても内容が多すぎる。五十を越えるレポートについて、十分な討議をふかめることは不可能である。「意を尽せなかった」あるいは「尻切れトンボに終わった」という感じは、レポート提出者・傍聴者を問わず残して帰る。
 「文学教育・文学作品の読みかた指導」と「つづり方(作文)教育」とを分散会にしてから、もう何年になるだろうか。そして、昨年は「高校国語科の内容と方法」の分散会をつくって討論を組織した。こうした方法も、一つの対応のしかたには違いない。が、必ずしもいい方法とは思えない。というのは、そうした不満や未練を残す、討論のすれ違いや、かみ合わないことの多くは、領域の違いとか、発達段階の違いというより、根底にある、言語観の違い――母国語意識の有無に原因がある、と思うからである。
 そこで提言したい。毎年、網羅的ではあるが、不十分な討議に終わるより、焦点を決めて、その面については十分な論議を保障するような柱だてと、時間配分をしてはどうか。さしあたっては、国語教育の原点「言語観」特に母国語意識のありようを中心にすえ討議を尽し共通理解をふかめ、次年度は「教科構造」に時間をさく、といったぐあいである。
 とくに全国教研では「理論より実践を!」という、現場主義的な発想が強い。そうした風潮とは逆行する、という批判もあろう。が、教研はこれからも続くであろうし、続けなければならない。国語教育の土台から、一つ一つ確かめあってすすめることのほうが、一見、遠まわりのように思えても、ながいめでみたとき、かえって近道になると思う。全国教研の企画・立案にあたって、一考を要望する。(20160726)
 

 
 『文学と教育』№91 1975.5   研究と実践の統一   委員長 福田隆義
 
 かつて〝誰にもできる文学教育を〟という提唱があった。そして、その主張は、今なお現場教師、特に小学校には根強く残っている、というより、歓迎されているように思う。「むずかしい理屈はいらない。知りたいのはこの教材をどう指導すれば、子どもが生き生きするかだ」という要求と対応するからである。それに、てっとり早く応えられるのが、指導過程の定式化・形式化であろう。しかし、文学教育を口にするからには、そういう側面だけから現場の要求に対応してはならない。それは迎合である。
 いま一つ、迎合ということでいうなら、子どもへのそれがある。「子供の感動を大事にしよう」という主張である。その限り異論はない。が、子どもが興味を示さなかった、あるいは、感動しなかった作品は、いい作品ではない、教材化するねうちのない作品だというに近い考え方には賛成しかねる。というのは、どういう解き口での作品を読ませたのかという反省がないからである。
 両者に共通していえることは、教師その人の主体をくぐらない、あるいは、くぐらずにすむ、ブンガクの授業だということにある。思うに、教師の主体をぬきにした授業というものがあり得るだろうか。教師その人が、どういう解き口で、その作品と対決し、どう感動したのか、それが前提にあってこそ、はじめて授業は成立する。子どもとの対決が可能になる。
 教師の主体性の確立、あるいは自信の回復は、研究活動をおいては考えられない。いうなら、教師その人の文学観・文学教育観の確立なしに、まともな授業の保障はありえない。われわれは、今ここで〝研究と実践の統一を〟という、一貫した文教研の主張を再認識する必要を痛感する。(20160806)
 

 
 『文学と教育』№92-93 1975.8   第24回全国集会をむかえて   委員長 福田隆義 
 
 今次全国集会もまた、サブタイトルは〝教師自身のための文学研究の集い〟である。集会プログラムには「教育」という言葉も「実践」という言葉もない。いうなら、教育離れをした研究集会である。官制の研究会はいうまでもない、民間教育研究団体としても型破りのプログラムである。しかし「教育」や「実践」という言葉がないからといって、教育実践を軽視しているわけではない。ちなみに、わたしたちの集団の名称は「文学教育研究者集団」である。
 わたしたちは、自分の感動を子どもたちに分ちたい、そういう行動にかりたてられるような作品、いうなら<私の文学>を教材化の前提条件にしている。そのような作品を体系化して与えることが理想像である。そうした自主編成に裏づけられて、はじめて文学の授業は成立する。教師の主体ぬきの教育はありえない。なかでも、子どもの感情にゆさぶりをかける、文学の授業にあってはなおさらである。
 ところで、自分の感動を子どもたちに分ちたいという、その感動に狂いがあってはならない。まともな理論と方向感覚にささえられた感動でなければならない。わたしたちは、教育以前の問題として、教師その人が、文学のすぐれた鑑賞者・創造の完結者でなければならないと考える。そして、そのことは文学の授業と直結する。わたしたちが〝教師自身のための文学研究の集い〟というタイトルを掲げる理由はここにある。
 今次集会も、そうした観点からテーマを設定し、プログラムを組んだ。太宰文学の文学史的なつかみなおしを通して、わたしたちめいめいを、よりすぐれた文学の鑑賞者・創造の完結者につくり変えていこうというのである。三泊四日の集会が、そういう意味での自己変革の場であることを期待している。(20160816) 
 

 
 『文学と教育』№94 1975.11   国語教育の役割    常任委員 鈴木益弘 
 
 「国語屋さん、しっかり字を覚えさせておいてくれよ。教科書もろくに読めないんだから授業にならないよ。」「読み書きはすべての基礎だから、国語の授業は大切だ。基礎をきっちり作ってもらって、おれ達の出番もあるのだ。がんばってくれよな。」
 この種の不満や激励のことばは、私たちの周囲に渦巻いている。なかには「文学教育などすることはない。そんな暇があったら、日本語のきまりを守ってきちんと、書いたり、読んだり、話したりできるようにせよ。」なんていう慷慨の弁まで飛び出している。こんな渦の中で不安や絶望を感じてしまうのでは、国語科教師たるものなんと悲しく無力ではないか。まして、そんな声に便乗してしまうようでは自分の首を絞めることになりかねない。
 いったい、国語科はどうして基礎教科なのだろうか。自明なこととして国語科を基礎教科とすることに重大な落とし穴がないだろうか。「基礎だから」と持ち上げられているうちに文字やら文法やらの教育機械にさせられて、「せめてこの字くらいは覚えさせろ。このくらいの文章は読めるようにしろ」と到達目標が決められ、パズルでも解くような各種文章の読み方指導がお前達の仕事だと言うんでは、国語教師の誇りも泣こう。こんなやり方での文学教育では、どうして読者主体とのきり結びが保証できよう。「国語」は中学までという考え方には、こうした母国語教育への軽視がありはしまいか。
 母国語とは何か。母国語教育とはどういう構造を持っているのか。その中での国語科の任務は何なのか。こうした基本的な問題への確とした把握もなしに時流に流されてはならないであろう。ことばの獲得を認識との深い関係の中でおさえ、現実把握のありようをことば操作の訓練を通して確かなものにしていく文体づくりの国語教育にわたし達が誠実に取組んでいかないと、とんでもないことになってしまいそうな気がしてならない。(20160826)
 

 
 『文学と教育』№95 1976.2  このごろ思うこと    副委員長 夏目武子 
 
 「六三制、野球ばかりがうまくなり」――戦後「民主々義」っ子も、その一期生はもう四十代。六三制育ちが教員の半数以上を占めるようになった。が、生活年齢は同じでも、その生活意識たるやさまざまである。かりに〝戦後世代〟と名付けてみても、何らその特色を説明することにもならないし、世代とはそのような形でくくれるものではなかったはずだ。少年期から青年期の世代形成過程に「民主々義」のきびしさにどう気付かされたか、自分でどう気付いたか、あるいは、何も気付かなっかたか、そのことがその後の世界のあり方に大きく関わっているように思われる。
 かく言う私は、昨今、あらためて太宰治の戦後の作品、たとえば『苦悩の年鑑』『男女同権』『春の枯葉』『トカトントン』『如是我聞』などから、戦後民主々義をとらえる目の鋭さを感じ、襟を正す思いに駆られた一人である。太宰は言う。「『人間は人間に服従しない』あるいは『人間は人間を征服できない
』それが民主々義の発祥の思想だと考えている」「時代は少しも変らないと思う。一種のあほらしい感じである。こんなものを馬の背中に狐が乗ってるみたいと言うのではなかろうか」と。太宰は時を得顔のものを嘲笑し、便乗主義を憎んだ。戦前・戦中、文学的抵抗を続けた太宰にして言えたことであり、三十年近くたっても、不幸にして、六三制開始の頃の、この太宰の言葉が必要な時代であることを、このごろ痛感している。
 主任制度が導入されようとしている。その任につくと変節しやすい。そこをねらって教師集団を分断しようとする権力のドス黒さ。人間の尊厳を教えるには、みずから人間の尊厳を守らなければならない。すぐれた太宰文学の発想をくぐることで、自分が生きてきた時代をとらえ直し、主体的に今日、明日を生きる〝眼〟をたしかなものにしたい。(20160906)
 

 
『文学と教育』№96 1976.5   ロッキード事件と母国語教育    委員長 福田隆義  
 
 空前の疑獄、ロッキード事件の発覚。政局の混迷と国会の形骸化。まさに民主主義の破局である。
 黒い霧に覆われている日本に、今、どんなことがおころうと不思議ではない。この黒い霧は、金権・売国と、腐敗しきった歴代の自民党政府高官をはじめとする、政・財界と右翼、それに、米国資本とCIAの黒い手によってつくりだされた疑獄だからである。先般、国民注視のなかでおこなわれた、ロ疑獄事件証人国会喚問での陳述「知らぬ。」「存ぜぬ。」「記憶にございません。」の、なんとそらぞらしいことか。特攻を気どって、疑獄の中心人物、児玉邸に自爆突入した、前野某は以前CIA関係があったと聞く。気違いの発作と笑ってすますわけにはいかない。
 こうした事態に対して、政府自民党は、国会の決議を無視して真相究明の手をゆるめたばかりか、米国政府と結託し、疑獄のもみ消しにかかっている。これ以上、金権と売国の政治を許すことは、民主主義の破局であるばかりか、民族主権の放棄であり、母国を喪失することにさえなる。
 ところで、わたしたち文学教育研究者集団は、母国語教育に責任をもとうと、自ら任じた集団である。こうした事態にどう対処するか、いま一度、真剣な問いなおしがめいめいに迫られている。デモに参加して、ロ疑獄真相の究明と関係者糾弾の意志表示をすることも必要であろう。しかし、この疑獄事件は、われわれ教師にとっては教育そのものの問題である。母国語教育と直結する課題である。
 この民主主義の破局、民族主権の放棄につながる政治課題を、自分の問題として真剣に問いなおすことで、真の母国語教育も実現する。  (20160916)

 
『文学と教育』№97 1976.7   第25回全国集会に思う     常任委員 鈴木益弘 
 
 井伏鱒二の作品の中に、日本の小説の中でもっとも長い題名のものと言えそうな『「槌ツア」と「九郎治ツアン」は喧嘩して私は用語について煩悶すること』(昭13)というのがある。その中に、両親の呼称のことが出てくる。「オットサン」「オッカサン」と呼ぶのは地主の子で、村会議員や顔役の子は「オトッツアン」「オッカツアン」、自作農の子は「オトウヤン」「オカアヤン」、小作人の子は「オトッツア」「オカカ」と呼ぶとある。彼の随筆「在所言葉」(昭29)に同じことが郷里の話として出ているから事実なのであろう。
 そして、「今では、どの家でも子供たちは一様に『オトウサン』『オカアサン』と言っている。これは学校の先生たちが試みた農山漁村文化運動の一つの現れである」とも書いている。両親の呼称だけでなく、人の名前を呼ぶにも「サン」「ツアン」「ヤン」「ツァ」「サ」の順での階級的差別があった状況で、私たちの先輩たちは生活綴方教育などをひっさげて、封建的差別とたたかい、〝用語で煩悶する私〟だったのだろう。ところが、「在所言葉」では「いまでは」云々のところを「この変遷はラジオやトーキーの影響のほかに、敗戦の結果が大いに手伝つてゐるだらう。田舎の地主なんか没落してしまつた。」と書いている。昭和13年と昭和20年との現実への相違をはっきり見せている指摘だと思う。
 今日、こどもや若者たちの言葉の混乱が言われているし、たしかに憂うべき状況もある。単にことばづかいの問題ではなく、日常生活での発想ぐるみの母国語操作においてである。
 だが、もう昭和も13年頃の現実ではない。今日の現実の中で、新たな差別や孤立や倦怠などの人間疎外とたたかうわれわれの武器は何なのか。〝文学教育の季節〟という提唱とともに昭和35年に第一回文教研全国集会を開き、今年で二十五回目を迎えた。私は〝剣大刀いよよ研ぐべし〟の感をますます深くしている。
(20160916)

 
『文学と教育』№98 1976.11    楽しい例会のなかで主体性を     委員長 福田隆義 
 
 広島の仲間から、次のような手紙をいただいた。
 ――日々の忙しさに、ともすれば自分を見失いがちです。その中で、広島の「文教研」の仲間と、第25回全国集会のテープを、時間をかけて聞き、話し合うことが、いちばんの楽しい時です。先日の土曜日の例会で四回目。やっと『さざなみ軍記』の冒頭の場面が終わったところです。勉強すればするほど、ひきつけられ、おもしろくて、やめられなくなるのですね――
 「日々の忙しさに、ともすれば自分を見失いがち」になる。これは、おおかたの教師の日々の実感ではないかと思う。とにかく忙しい。それでいて充実感はない。疲労感と虚脱感だけが残る。なんとも不思議な忙しさである。
 その原因の多くは、教育政策の反動化と貧困にあることは確かだ。しかし、私たちは、日々の忙しさの中に埋没し、自分を見失ってはならない。それは、主体性の放棄であり、体制側に同化すること以外ではない。
 ところで、その主体性は「教育の反動化を許すな!」と絶叫し「教育予算をよこせ!」と訴えることでは確立しない。それも必要だが、より私たちにとって大事なことは、力まない日常の研究活動である。「勉強すればするほど、ひきつけられ、おもしろくて、やめられなくなる」ような「楽しい時」が、主体性の確立を促す。虚脱感を克服し、充実した実践活動を保障する。
 文教研は、そうした研究活動の場であり、例会は「楽しい時」にしていくことを、九月、文教研年度の初め*に確認し合いたい。
(20161006)  [* 2006年度までは、九月が年度初めであった。]

 
『文学と教育』№99 1977.1    国語教育課程の新改訂に思う     副委員長 夏目武子 
 
 「表現」「理解」――十月七日の朝日新聞は、こんな小見出しで、国語教育に関して教育課程審議会のまとめを要約して紹介していた。その後まもなく、店頭に並べられた教育雑誌十一月号に全文が掲載された。文学教育が国語教育の重要な一側面だという発想がない点では、従来と何ら変わるところがない。
 その後、しばらくして「教育課程基準の改善と新国語教育の課題」(国語教育臨時増刊 '76.12 明治図書)を手にした。何らかの意味で、国語教育に関して一家言をもっておられる41氏が意見を寄せられている。「今度の改善で、理解・表現という国語科の伝統的な考え方に立ち戻った」という全面評価もあれば、二領域・一事項という教科構造を認めた上での部分的批判はあったが、「文学教育」と表題に明示することで、文学教育を問題にされたのは、41氏中、熊谷孝氏だけであった。氏は、国語教育は「母国語に関しての言語操作の仕方の教育」であり、「典型という意味での言語形象以外のものではない文学にかかわる教育活動――文学教育」は、当然、国語教育の体系的一環であると、テーゼを出すことで審議会まとめを批判されている。
 教師も生徒も自分のことば=文体をとりもどすために、私たちは自主編成という形で文学教育に取り組んできた。神奈川県教研で、今年やっと、小学校でも教師が文学教育意識をもつ必要性が確認された。第26次全国教研では、大前提である教科構造論について討論する場がほしい。参加者全員で、文学教育が国語教育にどう位置づくのか、考え合いたいのだ。指導要領改訂期には、便乗主義が横行する。自分の人間を失わないためにも、あらためて自己の言語観・文学観を問いなおす、そんな機会にしたいと思う。
(20161016)  

 
『文学と教育』№100 1977.6   「文学と教育」百号に寄せて 初心忘るべからず    委員長 福田隆義 
 
  百号記念誌の巻頭に「文学と教育」創刊号(一九五八年一〇月刊)の巻頭言――私たちのしごと――を再録しておく。私たちの機関誌は「文学教育」ではない。「文学と教育」である。「文学教育」とせずに、「文学と教育」と命名したのには、それ相当の理由があった。――私たちのしごと――を読み返すことで、その理由がわかっていただけると思うからである。

 文学教育の必要を口にする人は多い。が、その必要が、一般に過不足なく受けとられているとは考えられない。なかには、それを、あらぬ方向にゆがめようとしている人さえ、ないわけではない。
 とくに、学校教育の面において文学教育がおしゆがめられようとしている。こんにち、私たちは、まず《国語教育のなかに文学教育を明確に位置づける》ことから、仕事をはじめていきたい。当面の課題をそこに求めて学習活動をつづけると同時に、一方では、たえず、学校教育のワクを越えたところで活動をおし進めることで《明日の民族文学創造の基礎》を確かなものにしよう、と考えるのである。
  サークル・文学と教育の会は、よりよい文学教育の実践をめざした《文学と教育の学習》のための集いである。他のサークルとの交流や、文書その他による積極的な活動も、先に予想している。

  一九五八年段階でうち出した、この路線に即して、私たちの研究と運動の足どりを振りかえってみよう。一口にいって、着実に、そして、確実に成果をあげてきたといえよう。
 まず、文学教育という側面に目を向けてみよう。熊谷孝氏の「国語教育としての文学教育」(「文学と教育」No.5・59年)という提唱。それを裏付ける、国語科の教科構造。さらには『言語観・文学観と国語教育』(明図刊・67年)や『文体づくりの国語教育』(三省堂刊・70年)などの労作に学びながら、文教研著『文学の教授過程』(明図刊・65年)『中学校の文学教材研究と授業過程』(明図刊・66年)あるいは『文学教育の構造化』(三省堂刊・70年)などを公にしてきた。これはいうなら《国語教育のなかに文学教育を明確に位置づける》という課題に対する、私たちの回答である。
 他方、学校教育のワクを越えたところで〝私の文学〟の追求を軸に、芸術論や文芸認識論などの学習をすすめてきた。ここでも、私たちに指針を与えてくれたのは、熊谷孝氏の『芸術とことば』(牧書店刊・63年)であり、『日本人の自画像』(三省堂刊・71年)や『芸術の論理』(三省堂刊・73年)であった。こうした現場主義を克服したところでの研究が、私たちの理論的飛躍を保障した。
 むろん両者は無関係ではない。バラバラに追求してきたのではない。理論水準にみあった実践を、そして、実践をくみあげて理論化を、これが私たちの合言葉であった。研究と実践とが相互に上昇循環の軸を作りだしたとき《明日の民族文学創造の基盤》も確かなものになる。
 私たちは、そうした研究姿勢を貫いてきた。そして、その時点での研究成果は、百号におよぶ機関誌に反映させてきたし、前記の著作に集約し世に問うた。一方、二五回の全国集会を組織した。また、日教組全国教研をはじめ、県・市段階の教研にも積極的に参加した。そうしたなかで、私たちの主張は徐々にではあるが確実に支持者を獲得してきたことは事実である。けれども、今なお、文学・文学教育を過不足なく受けとめているとは考えられない民間教育研究団体もある。また、文学教育を「おしゆがめようとする」側の動向は、さらに巧妙さを加えてきた。
 初心忘るべからず。創刊号の巻頭言を再録した理由である。(20161026)


 
『文学と教育』№101 1977.8   再度 ―文学史を教師の手に―    委員長 福田隆義 
 
 文教研〝私の大学〟で ―文学史を教師の手に― を合言葉にしたのは、第21回全国集会からである。近代主義的な文学・文学史観の克服をめざしての合言葉である。
 それを具体的には、21回「芥川文学をどう教材化するか」、22回「文学教育の原点をさぐる」、23回「芥川龍之介から太宰治へ」、24回「文学史の中の太宰治」、25回「井伏文学の成立」という視点から追求してきた。そして、今次集会のテーマは「井伏鱒二と太宰治――戦中から戦後へ――」である。こう列挙しただけでも、ここ数年間の研究の足どりがわかってもらえると思う。私たちの文学史意識による、芥川・井伏・太宰文学との対決の過程であったといえる。こうした文学史的なつかみ直しが、まともな文学教育を実現するための前提条件だと考えたからである。
 この間、私たちは大きな研究成果をあげたと自負している。〝教養的中流下層階級者の視点〟あるいは〝倦怠〟概念を導入することで、芥川・井伏・太宰文学論を書き変えたといっても過言ではない。その成果は、前記全国集会をはじめ、機関誌「文学と教育」や『文学史の中の井伏鱒二と太宰治』(文教研編集・発行)に反映させてきた。といっても、私たちの研究が完結したわけではないし、完結するはずもない。今後も ― 文学史を教師の手に ― を合言葉に、私たちの文学史を追求しつづけるつもりである。
 ところで、去る六月「新学習指導要領案」が提示された。すでにご存じのように、予想をはるかに上回るひどい内容である。国語科についていうなら、母国語教育という発想もなければ、文学教育の位置づけもない。私たちは、子どもの将来と民族の未来に責任を持つために、今この時点で、再度、声を大にして ―文学史を教師の手に― と訴えずにはおれない。まともな母国語教育・文学教育を実現するためにである。
(20161106)  

 
『文学と教育』№102 1977.11   このごろ思うこと     常任委員 鈴木益弘  
 
 「文学と教育」の100号で、夏目武子さんは、いわゆる〝鑑賞上の盲人〟や自分の感想を語れない失語症になりかかっている生徒との苦闘について書いている。『馬盗人』(『今昔物語集』巻二十五源ノ頼信ノ朝臣ノ男頼義、射殺馬盗人語第十二)や『杜子春』(芥川竜之介)の鑑賞学習をした際、頼信や頼義、あるいは杜子春の行動に対して「どうせ、お話の世界のことでしょ?」という発言が、盛りあがった討論に冷水をかける結果になってしまった苦い体験を語りながらである。こうした体験は氏だけのものではない。むしろ、私たちが現実で多く体験することである。失語症にでもかかったような生徒の〝シラケ〟た態度からも、仲間の〝タテマエとホンネ〟のつかいわけの姿勢からも、冷たくおぞましい陰湿な毒液が浴びせられ、正常な神経がみるみるうちに壊死し無感動な自己になっていく心の冷えにおののくことも、しばしばである。その度にたださえ強くもない私の消化器は潰瘍を起こしてしまうのだが、ここで崩折れたら元も子もないと顔をゆがめてあがく。
 この陰湿な毒液は、差別と選別の能力主義の産物にちがいない。だが、吸血鬼が新たな吸血鬼を造り出すように、汎言語主義の呪いもまた失語症や〝鑑賞上の盲人〟症を蔓延させ、毒液をまきちらしている。いわく、読解。いわく解釈。いわく、文学作品の読み方指導などなど。
 夏目さんは、前記論文の中で、説話文学と小説とのそれぞれの虚構の連続面と非連続面を明確にすることでこの盲人症治療の有力な武器を持とうと考えた。それは、わたしたちに今年度第一期の研究としてジャンル論に取組むことを促してくれた。大きな課題だが、教室の失語症や盲目症にかかっているこどもや若者を、澄んだ目で現実をとらえ、活力ある母国語操作のできる若者にするために、私の目の鱗も剥ぎとる努力をしなければと思う。(20161116)
 

 
『文学と教育』№103 1978.2   改訂「学習指導要領」批判の質を問う    委員長 福田隆義 
 
 「ゆとりのある充実した学校」をキャッチフレーズに、改訂「学習指導要領」が告示されたのは、昨年七月二三日であった。以降、文部省側はマスコミを動員し、権力によって講習会を組織して、宣伝・伝達に狂奔した。そして、今はすでに、移行措置をどうするかという具体性をもった問題で現場教師を拘束しはじめた。
 今回の改訂が、国家主義的傾向をさらに強化したことは、「君が代」を「国歌」と規定したことに象徴される。この危険な方向は、世論の厳しい批判をあびた。けれども、国語科という教科に、その危険な方向がどう具体化しているかにまで言及した批判は少ない。組合教研の場でさえ、配当漢字は逆に増えている、「ゆとり」どころではない、あるいは、「言語教育の立場を一層明確にした」といいながら、科学的・体系的知識を確実に与えようとする意欲がみられないなど、いわば指導要領の枠内での修正意見にとどまっている。われわれの批判は、たんに危険な方向を指摘するにとどめてはならない。指導要領の枠内の修正意見であってはならない。
 文教研の前身である〈サークル・文学と教育の会〉設立第一回研究例会は、33年度版指導要領の批判検討であった。そこで確認し合ったことは、字句の入れ替えや修正ではまにあわない、その根底にある言語観・文学観を問い直すべきだということだった。以降、43年、52年と改訂するたびに、指導要領の言語観は危険な方向に変質してきた。言葉を一方通行、つまり上意下達の道具とする危険な方向にである。
 そうした指導要領を批判しきるということは、めいめいの言語観・文学観を確立すること以外ではない。伝達講習でもたじろがない主体の確立なしに、真の母国語教育は実現しない。この機会に、文教研の初心を確認しあいたい。(20161126)
 

 
『文学と教育』№104 1978.5   文学教育と教師の鑑賞体験     副委員長 夏目武子  
 
 本誌100号に、編集部の整理による文教研略年史が掲載されており、全国集会のテーマが一覧できる。それによると、第1回集会は一九六〇年、「文学教育理論の確立とよりよい実践をめざして」というテーマ。第20回集会までは同様に、文学教育、国語教育に関するいわば 教育づいた 名前がつけられている。文学とは何かを問い続けることが文学教育の原理・原則を実践的に考える原点であり、集会の内容もその精神に貫かれたものであったが、テーマの設定は教育面が前面に出されていた。が、一九七二年第21回集会から「文学史を教師の手に」という新たな発想で、基本過程としての作品把握が前面に出されるようになった。指導過程を含んだり、多少のジグザグはあったが、「芥川竜之介から太宰治へ」「文学史の中の井伏鱒二と太宰治」というように、教師その人の<私の文学>を求める場に、一人一人の自己の鑑賞体験を実践的に確立する場に、集会は変ってきた。八月五日から四日間の暑い最中での、芥川文体、太宰文体、井伏文体との格闘・対話に、べつな汗を流したことが想起される。今回は長編小説との取り組みでまた汗を流すことになろう。
 もう、文教研は教育のことを問題にしないのか? とんでもない。文学教育を否定する「表現と理解」という指導要領の二元論の立場からの声が大きい昨今である。私たちは文学教育研究者集団であり、今こそ文学教育の旗印を鮮明にする必要がある。が、問題は、その鮮明の仕方にある。集会で他の鑑賞体験にぶつかり、自己の文体反応がいかにそっぽであったかに気付かされ、うちのめされることもあれば、眼前が明るくなることもある。その作品の新たなおもしろさの発見。他者との対話をとおしての自己の発見でもあり、こうした自己変革なしに、相手の発想を変えることはできない。教師の場合、特にそれが必要ではないかと、あらためて痛感している。(20161206) 
 

 
『文学と教育』№105 1978.8    文教研二〇周年に思う     委員長 福田隆義   
 
 文学教育研究者集団(文教研)の創立は、一九六〇年二月二六日である。が、文教研の前身<サークル・文学と教育の会>の発足は、一九五八年一〇月だった。一九五八年一〇月を起点にするなら、文教研はこの秋、二〇周年を迎える。
 この二〇年間を一口でいうなら、着実に研究をすすめ、確実に成果をあげてきたといえる。私たちの究極の目的は、私たち自身が文学のわかる人間になることである。私たちめいめいが、母国語教育・文学教育と、子どもたちの未来に責任のもてる教師になるためにである。しかし、それは容易なことではない。この二〇年間も、そこへ向けての自己変革の過程であった。ふり返ってみると、楽しい二〇年間であり、苦しい二〇年間でもあった。
 私たちは、そういう研究の場を、ゴーリキーの言葉を借りて、文教研〝私の大学〟と呼んできた。修業年限もなければ、卒業もない大学である。〝私の大学〟では、あるときは文学教育という実践課題に即して研究をすすめた。またあるときは、一見現場を離れたかたちの研究をすすめることで、めいめいの文学と、その基礎理論を問い直してきた。教師としての主体性の確立をめざしてである。
 ところで、教育界の反動化は、そのテンポを一層はやめた。主任の「制度化」の強行とともに、やたら「講習会」ばやりである。昨年は改訂された「学習指導要領」の伝達講習会。今年度になってからは、〇〇教育助言者講習会というのが、半強制的に行なわれている。教師の主体を剥奪し、上意下達の道具にしようというのである。
 文教研は、研究団体であると同時に、運動団体である。私たちには、こうした動向との対決が迫られている。二〇年の成果を総括し、広く訴えていくことが急務である。文教研二〇周年の課題にしたい。
(20161216) 

 
『文学と教育』№106 1978.11    メッセージ  ―全国の教師へ―     夏目武子  
 
 第27回文教研全国集会は、例年通り八月五日から八日まで、八王子市・大学セミナー・ハウスで開かれた。定員八十名のところ、どうしてもおことわりできない方もあって、九十余名の参加。集会の成否を参加者数の多少で評価する、ということをよく耳にする。三百人集まった、五百人の集会だった、いや、こちらは千人集まった、という声の中での九十数名。量より質? 四日会員として参加した一人ひとりが〝私の大学〟との出会いが可能となるような、そんな集会にしたいという願いからだ。集会の性質を変えないで、千人の集会が持てたら、その方がよいに決まっているが、マス・プロ大学教育の実情を考え、私たちの文学教育観を考えるとき、それは不可能と言えよう。マス・プロではできないものを求めての文教研の<私の大学>。自分が文学をわかろうとする、自己の文学的イデオロギーをすぐれたものに鍛えて行く、その過程を意識することで、自分の文学教育活動の実践の姿勢ができる。自己をたえず過程的存在としてとらえることが、文学教育活動の実践の原点である。この原点をはっきりさせるための集会――教師自身のための文学研究の集い――が文教研<私の大学>なのである。
 そういう目的意識から言って、今次集会の成果はどうであったか? 集会の〝おわりの集い〟での感想発表は感動の連続であった。誰言うとなく使われ出した〝八王子セミナリオ〟。井伏の作品にあやかっての呼び名であるが、ここ八王子セミナリオは、自分のプシコ・イデオロギーとのたたかい、という意味での、自分が人間として生きて行く上で、文学を必要とする人々の集まりだったと言える。芸術至上主義者の集まりでもなく、自己の主体ぬきの研究のための研究の集いでもなかった。真に文学を大事にする人々の集まりであった。参加者全員で総合読みした井伏鱒二の長編歴史小説『かるさん屋敷』『安土セミナリオ』
[『かるさん屋敷』シリーズ]。八王子セミナリオでの大きな成果を思うにつけ、「どぶ鼠」にむざむざと潰されてしまった安土セミナリオでの生活が、あらためて想起される。集会中、信長存命中の安土セミナリオでの生活を〝瞬時の平和〟として語り合った。作中人物はそのことには気づいていないが、私たち読者にはそう映ってくるのだ。が、作中人物と同じように、私たち自身気づいていないだけであって、現在も〝瞬時の平和〟であるのかもしれない。八王子セミナリオを「一歩出れば死出ヶ原」。〝死出ヶ原〟と感ずるかどうかは、一人ひとりの現実認識、課題意識のありように関ってくる。自己に課題意識があれば、現実の壁は大きく見えるはずだ。私たちにとっての壁とは? 課題意識とは? 私たちはそれを芥川文学、太宰文学、井伏文学を通して、より明確にしてきた。『かるさん屋敷』を通して、〝人間としておもしろみのある人間〟の今日的意味をずしりと知らされた。
 〝人間としておもしろみのある人間〟――この言葉は、熊谷孝氏が作中の織田信長、菅屋治郎作(若き信長に馬廻の侍として仕え、後、安土セミナリオの番所頭になる)に、敬愛の念をこめてつけた呼び名である。石川達三氏のことばを文学の世界に翻訳しての活用であるのだが
。『現代文学にみる日本人の自画像』に石川達三『人間の壁』(『かるさん屋敷』が発表されてから四年後の一九五七年、朝日新聞に掲載)がとりあげられている。執筆後、数年たってから、石川達三がこの小説の舞台になった佐賀県を訪れ、「勤評を含めて一連の教育政策は、教師から人間としての面白味を奪っている。それで教育ができるのか?」と怒りをこめて語っている。『かるさん屋敷』シリーズを読むなかで読者は〝人間としておもしろみのある人間〟を作中人物に見出し、そのことで戦後独占資本による人間疎外のいかなるものかを、あらためて気づかされる。〝人間としておもしろみのある人間〟――今日の文学の課題であると同時に、教育の課題でもある。幼い人、若い人たちが、将来、こうした人間として自立してほしいという願いをこめて、文学教育にとりくみたい。そのために、まず、自分自身、そうなろうとすることであり、その気持を持続しつづけることが、今日必要なことだと思う。(20161226) 

 
『文学と教育』№107 1979.2    署名のある教育を     委員長 福田隆義   
 
 「教師の〝人間〟をとおさない教育は教育ではない」、これは、熊谷孝氏の一貫した主張であり、文教研の合言葉でもある。この主張を実現するために、私たちは、もっともっと勉強しなければならない。勉強のできる条件を勝ちとらなければならない。
 自分を省みての発言だが、自分に納得のいく教材体系が組め、充分な教材化研究ができたとき、指導過程にも独自性がでる。子どもの反応を位置づける余裕と、自分の発想を組み変えるゆとりがうまれる。そうした基礎過程に自信がない教科や教材のときは、つい指導書に手がでる。技術主義・方法主義にすべってしまう。その結果、知識の切り売りに救いを求め、自分を慰めたり、ときには自己満足に陥ったりもする。そしてそれが、体制側のねらいにスッポリはまり込んでいることに気づいたとき、せめてイデオロギーだけでもとあがく。これはしかし、私に限ったことではないように思う。
 たしかに、四五名もの子どもを対象に、全教科(小学校の場合)を担当することは厳しい。というより、不可能にちかい。「英才教育」を口にしたり、「教育勅語」を礼賛したり、「有事」を説く面々は「たかが小学生ではないか」というかも知れない。馬鹿にするなである。それは「無責任教師のすすめ」の他ではない。教師が、その〝人間〟をとおさない、上位下達の具になってしまったとき、子どもたちに明るい未来はない。
 私たちは、もっともっと勉強しなければならない。勉強のできる条件を勝ちとらなければならない。私の教育計画、私の指導過程に責任をもつ、署名入りの教育をすすめるためにである。(20170106)


 

 
『文学と教育』№108 1979.5    〝教材は教師の武器〟     佐伯昭定   
   
 ――どうもいけない。三学期を終わった今、どうも気持が晴れない。一年前の四月、「中学生」という新しい世界に多くの人たちに見守られて入ってきた時の、あの少年らしい気負いと頬の赤らみ。わずか一年たっただけだというのに、それを今見ることができない。しだいに「勉強」から遠ざかっていく子どもたちよ。――
 久し振りに中学一年を担任したひとりの国語教師のタメイキである。その小さな歎息を側の同僚が聞きのがす道理はなかった。「毎年そうなんだよ。」その言葉の中に深いいたわりが感じられたが、それで気の休まるはずもない。自分の無力さに情なくなり、つい語気も強くなってしまう。「それがどうした。〝山椒魚〟じゃあるまいし、別に気を抜いたわけじゃないんだ。俺はオレなりに精一杯やってきたつもりだぜ。」この辺までくると、タメイキも多少酒臭くなってくる。

  と言ってはみたものの、新しい年度に際し、この〝オレ〟を少し点検してみる必要があるのではないか、と思い直してみた。この一年間、教室に持ち込んだ教材はあれでよかったのか。「ぜひとも読ませたい、読ませなくてはならない、という判断が、眼の前の子どもたちの感情の素地のありように即し、それを越える視点から」(『文学教育の構造化』)『人間の歴史』、『十五少年漂流記』はどうだったのか。「教材の自主編成、これは教師の義務です。教材は教師の武器だからです。
……教材化の論理というか視点は、読むべき時期に読むべき作品や書物を、ということです」(『言語観・文学観と国語教育』)。教室の生徒の様子をみながら、確かに慎重に選んだことは選んだ。しかし、眼の前の子どもたちのための教材化はできていたのか、ということになると、ちょっと隙間風が吹く。
 文教研の財産に依拠しながら作品を選択し、教材化を考えたとしても、生徒たちには、〝あてがわれている〟という感じでしかなかったのではないだろうか。「生徒たちの内側から生れてくるような、子どもたちの主体づくりの仕事が国語教育の大事な作業(『言語観―』)であれば、この一年間に持ち込んだ長編三、短編四、詩多数、これらによって、文教研が主張し、みんなが目指している実践にどれだけこの〝オレ〟は迫ることができたか、ということになると、もう隙間風どころではない。気持の中は〝蜂の巣ジョウ〟。
 一生ケチケチ人生を通し、枕の下に何千万の金を残して死んだ老人の詩
[ママ]が時折新聞の話題になることがある。巨大な文教研の財産が昼寝の枕になっていやしないだろうか。わかっていながら、それを日常的に追求できない凡人の悲しさ。せめて新しい年度を迎える時ぐらい、財産目録に眼を通すぐらいの律義さがあっていいのじゃないか、と思ってみた。

 やっている時もそうだが、後で考えてみて、いつでも頭の痛くなるものの一つに「文法教育」がある。「文法学習を軸とした、その側面からの統一的な国語の学習指導。」(『言語観―』)同僚と討論していると、スイスイと口から出るんだが、果してその通りにできているかとなると、だから頭が痛くなる。その事は同じく、やっているつもりの「文学教育」が統一的な国語教育になっているか、ということと同じ問題でもある。
 言語学主義的な発想から生まれてくる「文学科独立論」。そこで言われている「文学教育」と〝オレ〟のやってきた「文学教育」との質の違いを、やはりここで、じっくり点検してみる必要がある。「文学教育が本来的に国語教育とは目的を異にした教育活動だから、<分離した方がすじが通る>というような考え方には
……反対です。文学教育は本来的に国語教育以外のものではありません。」熊谷孝氏はもう十年も前に、時の国語教育界に向けて、はっきりと主張されている。
 「財産」というものは自分のものでなければ使えない。だから、何かしようと思ったら、どうやって「私有財産」をふやすか、ということなんだな、そう思ったら気持が落着いた。(20170116)
 

 
『文学と教育』№109 1979.8    第28回全国集会を迎えるにあたって     委員長 福田隆義    
 
 八月五日、六日、七日、八日、いうまでもなく文学教育研究者集団(文教研)全国集会の期間である。ここ十数年来、私たちはこの日に全国集会を開催してきた。暑いさなかであるが、あの呪わしい日、広島に原爆が投下された日を意識しての月日の設定である。毎年六日は「原爆を許すまじ」の歌で会が始まる。広島からの参加者によって、大学セミナーハウス教師館屋上の鐘が鳴らされる。そして、文教研集会参加者を中心に「過ちは繰り返しません」の決意を秘めて黙祷をする。あのいまわしい民族の体験は忘れてはならない。風化させてはならない。
 ところが、風化どころか、ひそかにA級戦犯を靖国神社とやらに合祀するという事件をはじめ、軍事、教育などの面でも、歴史の歯車を逆に回転させようとする操作が巧みに進められている。一〇二〇~四〇年代とは違った、より巧妙な手段を通してである。

 私たちのここ数年来の合言葉 ―文学史を教師の手に― も、そうした現在と民族の未来へ目を向けた課題設定である。それは、現代史としての文学史、つまり「現在を過去につなげて未来を展望する」という姿勢である。「過去の文学に対する知識そのものが関心事なのではなくて、現代の実人生を私たちがポジティヴに生きつらぬいて行く上の、日常的で実践的な生活的必要からの既往現在の文学作品との対決ということである」(熊谷孝著『現代文学にみる日本人の自画像』 P274)という観点からのアプローチである。それを、<文学史的事象としての幸徳事件><文学史・一九二〇年代><文学史・一九三〇~四〇年代><戦後>という切り取り方で、森鷗外・芥川竜之介・太宰治・井伏鱒二という四人の作家を中心に、すでに八回におよぶ全国集会を重ねてきた。
 また、この間、熊谷孝先生は、実質的には文教研の常任チューターとして、われわれをリードしてくださるかたわら、『現代文学にみる日本人の自画像』(三省堂刊・一九七一年) 『芸術の論理』(同・一九七三年) さらに『井伏鱒二』(鳩の森書房刊・一九七八年) 『太宰治』(同・一九七九年)の四著を公にされた。この集会に参加された皆さんは、すでに再読・再々読のうえでの参加だと思う。

 ところで、文教研が参加者を八十名に限定し、全員合宿二泊三日の集会を企画したのは、第十九回全国集会だった。さらにそれを、他団体に例をみない三泊四日にしたのは、第二十三回集会からである。いうまでもなく、少人数による徹底した討論で、ほんとうにわかりあえる集会にしたかったからである。
 そして今は、参加者の多くが ―文学史を教師の手に― という課題意識と、集会運営の趣旨とを理解した方々によって占められるようになってきた。かつては、あすの教室に直接役にたつ即効果を期待した参加者がなかったわけではない。私たちは、そういう参加の姿勢を〝つまみ喰い根性〟として敬遠した。また、傍観者的な発言もあって、企画運営にあたる私たちをイライラさせたことも何度かあった。しかし、今は違う。集会の雰囲気が変わってきた。他団体の集会で耳にする、旅行ついでに寄ってみた、というような参加者はひとりもいない。参加者全員が四日間会員として集会を盛りあげる、文教研独自の集会スタイルができてきた。
 たしかに八王子も暑い。冷房はない。暑さに耐え、睡魔と闘いながらの集会である。しかも、文教研の集会には私語一つ許さない厳しさがある。それだけに、企画運営には気をつかう。暑さもふっ飛ぶような、そして、睡魔も寄せつけない報告や提案をすることが、参加者への何よりの〝心づくし〟と思って、準備に全力を注いできた。また、できる限り湯茶の用意も心がけた。今次集会も、参加者全員が四日間会員として、実りある集会に盛りあげてくださることを、心から期待する。(20170126)

 
『文学と教育』№110 1979.11    「理論的な克服」をこそ     委員長 福田隆義   
 
 今年も猛暑の八王子(大学セミナー・ハウス)で、文学教育研究者集団第28回全国集会を開催した。もちろん、参加者を80名に限定、全員合宿。「森鷗外の歴史小説――『阿部一族』『山椒大夫』を中心に――」を統一テーマに〝文学史を教師の手に〟をめざした集会である。
 私たちは、この集会の提案サークルとして責任をもつために、周到な準備をすすめてきた。論理の面では、ここ十数年間の蓄積の上に、さらに討議に討議を重ね、万全を期して集会に臨んだ。ところが、当日の討議は準備段階の水準を、大きく上まわった。まさに、〝研究者集団〟の名にふさわしい三泊四日だったといえる。また、運営面でも可能な限りの体制を整えて集会を迎えた。参加者も「四日会員」として、運営に協力してくれた。
 そうした集会の盛りあがりを保障した理由の一つに、連続参加者が多くなったことがあげられる。私たちの集会が〝教師自身のための文学研究の集い〟であることに、共感と支持がえられたからであろう。
 ところで〝教師自身のための文学研究の集い〟という発想は、他の国語教育・文学教育研究団体にはみられない、文教研独自の研究姿勢だと自負している。自負しているといっても特別のことではない。文学がわからずに文学を教えることはできない。まず、教える側の教師その人が文学研究をという、至極あたりまえの主張にすぎない。が、このあたりまえの主張が現場の教師には、あまり歓迎されない風潮がある。特に小学校現場からは、明日の授業に直接役にたつ、いわば即効薬・特効薬をという声が強い。理論よりとにかく授業をという、せっかちな要求である。こうした声に対応した主張もある。研究会のテーマの選び方もあろう。しかし、私たちはそういう方向を選ばない。といっても、現場の声を無視したり、授業を軽視しているのではない。実践といえるような教育活動を展開したいからこそ〝教師自身のための文学研究の集い〟が必要だと考えるのである。たとえ、その研究会で仕入れた教材がすぐれた作品であり、その作品には、そこで学んだ方法が適切で、いい授業ができたとしても、しょせんそれは借り物にすぎない。教師の主体を通さない教育は教育ではない。付焼刃ではまにあわないのが、教育という実践活動である。
 私たち教師は、まず子どもの将来と民族の未来に展望をもつ必要がある。さらに、文芸認識論や、それに裏づけられた文学史を身につけた、まともな鑑賞者にならなければならない。そのときはじめて、文学教育活動も本物になる。方向性をもった意図的・持続的な実践活動が実現する。私たちは、そういう実践の名に値いする文学教育活動を繰り広げていける教師主体の確立をめざして研究をつづけてきた。また、今後も文教研独自の研究姿勢を貫くつもりである。
 かつて私たちは、戸坂潤の労作『日本イデオロギー論』他に学んだ。今も鮮明に思い出せる整理を引用しよう。
 「理論的な克服だけで事物は決して現実的に克服されるものでないことは明らかだが、逆に理論的な克服なしに実際的な克服を全うすることは実際的に云って出来ないことだ。」(戸坂潤全集第二巻235頁。勁草書房刊)
 ともあれ、私たち現場教師に弱いのは「理論的な克服」ではないのか。実践活動の方向を指示するのは理論である。実践の反省の拠りどころも理論である。また、ある理論に支えられた実践の反省は、さらに理論の深化・発展を促す。実践の理論化である。私たちに必要なのは、そうした理論の上昇循環の輪をつくりだすような研究活動ではないのか。理論に裏づけられない教育活動は根なし草である。うまくいったという印象をもったとしても、しょせん僥倖であり、持続的な活動にはなりえない。
 言葉を重ねよう。現場教師に弱いのは「理論的な克服」である。せっかちに明日の授業に役だつ事例を求めるより、原理や原則をこそと訴えたい。
(20170206)
 

 
『文学と教育』№111 1980.2     内容と形式     副委員長 夏目武子   
 
 
「言葉の教育を忘れた内容偏重の指導や言語教育を手薄にする活動主義は、国語科の特質ということから望ましいことではない……」――官制国語教育の指導的立場にある某氏の言葉である。こうした論理では、文学教育は「内容偏重」で言葉の教育を忘れているものということになりそうだ。なりそうだ、ではなく、実際にそうした発言にしばしば出会う。日教組の教育研究集会においてすら、である。
 内容と形式の問題は、文芸認識論の上で避けて通れない問題であることを、芥川竜之介『文芸一般論』の共同研究の中で、あらためて痛感した。このような大問題が国語教育史と無関係なはずがない。芥川と同時代人であり、国語教育における解釈学の泰斗、垣内松三の『国語の力』(一九二二年刊)に目を通す。一章「解釈の力」の第十二項が「内容と形式」にあてられている。「エルチェ式の研究法よりいえば、内容の解釈に対して、語釈、文法的・修辞的解釈は形式の解釈である。それらの研究の方向が異なるのであるから、その分化が著しくなればなるほどこの対立は著しく目につく。……而して、所謂内容と形式と、内容主義と形式主義との対立が現われて来るのである。今日の国語の学習が、こうした無用の思弁のために煩され悩まされて居ることは決して少くない。」「文の研究に於て内容の無い形式ということが考えられるものでなく、形式を具えざる内容というものも見られるものでもないから、対立せしむるのみならず、その一に偏するのは過った考え方である。」云々。この言葉の限りでは見事な整理であり、『国語の力』が解釈学の原典となったことでもわかるが、そこには一つの体系がある。が、私たちは戸坂潤の次のような指摘に注目したい。解釈学は「事物の現実的な秩序に就いて解明する代りに、それに対応する意味の秩序についてだけ語る」「文献学主義は、現実の事物の代りに、文書ないし文献の語源的文義的解釈だけに立脚する」。
 内容と形式に関する解釈学というわく内での処理が、大正期以来ずっと国語教育界に根強くあるのではないだろうか。そこからはみ出したものに対しては、内容偏重というレッテルがはられる。――実際には、作品の言表の場面規定をおさえない、文体刺激に対する文体反応を無視したブンガク教育がなされていることも事実である。が、それへの批判が文学教育否定へと飛躍してしまう。それでよいのだろうか。
 本来、内容とは何だろう。言葉を通さない内容というものがあるのだろうか。『国語の力』発刊より三年後に発表された芥川竜之介『文芸一般論』を読み返す必要があろう。今日から見て克服すべき点を持つとは言え、国語教育界の誤謬を解く鍵が用意されている。芥川は言っている。「文芸は言語或は文字を表現の手段にする芸術であります。いま文芸というものを一人の人間にたとえれば、言語或は文字は肉体であります。文芸を文芸たらしめる魂は、只、肉体を通じてのみその正体を示すものであります。」「文芸上の作品は一方に内容を持っていると同時に、他方にはその内容に形を与える或構成上の原則=形式(生命を伝えられるか否かという言葉の並べ方)を持っている。」「形式を欠いた内容は机の形を成さない机とか、椅子の形を成さない椅子とかに同じものである。」内容と形式は不即不離の関係にあることを、みごとな比喩で語った後、「この問題は手軽そうに見えても、甚だ厄介な問題であります。」と付け加える。甚だ厄介な問題ととらえる芥川に対し、国語教育界では手軽に扱いすぎるのではないだろうか。だから「言葉の教育を忘れた内容偏重の指導」などという言葉が平気でまかり通ってしまう……。
 「机の形を成さない机」にどきりとしたり、ふきだしたりしながら、国語教育の世界では、あたりまえのことがあたりまえとして通らないことを痛感した。が、芥川以前に戻る必要はない。せめて、「机の形をした机」にしたいと思うこの頃である。(
20170216)
 

 
『文学と教育』№112 1980.5    文教研の初心     事務局長 荒川有史   
 
 
新学期になると、私はいつも小学校一年生の頃を思い出す。
   サイタ サイタ
   サクラガ サイタ
という国語読本をみんなで朗読したときのことが、つい昨日のように思えてならない。すべてが楽しさに充ちあふれていたようにさえ思える。しかし、私の小学一年の時期は、同時に日中戦争開始の年、一九三七年であり、子ども心にも戦争の暗いカゲが押し寄せてきたときでもある。一年生のうちからわけのわからぬ教育勅語を暗唱させられ、唱歌の時間と言えば、「敵ハ幾万アリトテモスベテ烏合ノ衆ナルゾ」というたぐいの軍歌ばかりである。私の希望、私の夢は、知らず知らずのうちに、軍国主義的発想に汚染され、人間の尊厳という発想とは遠い世界で生きることに何の疑問も持たないようになる。
 一九四五年八月十五日。それは、私にとって、第二の新学期と言えようか。アメリカ式民主主義に対する判断の試行錯誤はあったにせよ、太宰治の『男女同権』や戸坂潤の『科学論』が私の終生変わらぬ(と多分判断していいだろう)ところの<教科書>となった。
 一九五八年。文教研の創立。私にとっては第三の新学期である。そこで私たちは、母国語文化のにない手をはぐくむことを、文学教育の課題として大きくかかげた。他教科の下請け教科として母国語教育を考えない。一行一行の単語の意味をおさえ、文法を明らかにしていけば、誰にでも文章が読みとれるという考えかたに反対した。文章に託された発想と自己の発想との対話、対決こそ真の母国語教育の基本路線があると考えた。何よりもそうした基本路線を実現するために、文学教育は欠きえない、と強く主張したのである。
 それから二十二年。私たちは母国語文化のにない手をはぐくむために、すぐれた母国語文化との系統的な対話を追跡してきた。<読むべき時期に読むべき文体の文章>を未来をになう子どもたちに提供しつづけるために、である。翻訳文化としての母国語文化も含めて、母国語文化の鉱脈をさぐりつづけ、検定教科書にいっさい頼らず、自主編成できるところまで努力した。小・中・高・大にそれぞれ所属する現場教師が、それぞれの守備範囲をこえて、たとえば小学校の、たとえば中学校の文学教育教材の体系化に努力した。そこから、日本の民話『さるのいきぎも』や『かさじぞう』、ロシア民話の『おおきなカブ』、井伏鱒二訳のドリトル先生シリーズが私たちの持続的対象となった。
 また、近代は真に人間を解放しうるのか、という問いかけに取り組み、自己の文学的課題として近代主義克服の志向を示した作家として北村透谷、森鷗外、芥川竜之介、井伏鱒二、太宰治等々の世界に取り組んできたし、今後も継続的に取り組んでいくつもりである。
 こうした教材化の作業を通して見えてきたことは、母国語文化のにない手をはぐくむという作業は教育労働者自身がまず母国語文化のにない手になるべきだ、というテーゼを内在していることである。芥川竜之介に学んで言えば、「太陽がほしい!」という心的状況が生まれたときに、「太陽がほしい!」という抜きさしならぬ言葉で母国語操作のできる人間に自己をきたえていきたいのである。日常性の言葉操作を土台としつつ、まっとうな発想に支えられてやさしい日本語を操作できる人間に自己をはぐくんでいきたいのである。
 そこから、教育実践においても、教師の判断を目の前の子どもたちに押しつけることなく、母国語文化の媒介者として徹することもできるようになるだろう。さいきん太宰治の『富嶽百景』を読んだ高校生や大学生が、作中人物の、底辺に生きる遊女たちへの「命惜しまぬ共感」が理解できぬという。「己を愛するが如く他者を愛する」ことが可能かどうか問い続けた太宰の創造的行為を理解できなくさせているもの、それは体験的・準体験的現実をくぐって、人間の心づくしに触れ得なかった若い人たちの悲痛な告白であるかもしれない。文教研の課題は重くかつ大きい。20170226)   
 

 
『文学と教育』№113 1980.8    第29回全国集会に期待する    委員長 福田隆義 
 
 ひと昔、ちょうど十年前の第20回全国集会は「文体づくりの国語教育をめざして」がテーマだった。そこで『近代主義的な文学・文学史観の克服が、近代主義的国語教育論をわれわれの内と外とから追放していく具体的な当面の課題である」ということを確認しあった。近代主義的な文学、あるいは、文学史意識ゼロの作品把握や、既成の文学史(?)に寄りかかった作品理解では、文体づくりの国語教育・文学教育の授業は組めない。組みようがない。私たちの文学史意識による作品のつかみ直しや作品選択が必要だというのである。そういう実践的な課題から合言葉にしたのが〝文学史を教師の手に〟であった。そして、第21回全国集会(72年8月)からは、この合言葉を統一テーマに、継続的に集会を組織してきた。
 ところで、私たちは脱近代・反近代主義的視点を、芥川文学のいわゆる「「中流下層階級者」(『大導寺信輔の半生』)の視点に見つけた。そしてそれを「教養的中流下層階級者の視点」として、より明確に規定した。以来、芥川・太宰・井伏、さらに、森鷗外の文学を、教養的中流下層階級者の視点から、系譜論的に追求してきた。そうした文学史的なつかみ直しを通して、既往現在の芥川論や、太宰・井伏論を書き直したといっていい。ちなみに、その足どりを〝文学史を教師の手に〟を合言葉にした全国集会のテーマでふり返ってみよう。
  第21回 芥川文学をどう教材化するか――その基本過程と指導過程(小・中・高)
  第22回 文学教育の原点をさぐる
  第23回 芥川竜之介から太宰治へ
  第24回 文学史の中の太宰治
  第25回 井伏文学の成立 ―― 『幽閉』・『山椒魚』から『さざなみ軍記』へ
  第26回 井伏鱒二と太宰治 ―― 戦中から戦後へ
  第27回 文学史の中の井伏鱒二と太宰治 ―― 長編小説をどう読むか
  第28回 森鷗外の歴史小説 ―― 『阿部一族』 『山椒大夫』を中心に
 そして、今次29回全国集会も〝文学史を教師の手に〟を統一テーマに開催し、第一部を「文学史の中の文芸認識論」 第二部「ジャンル論と授業の視点」という二部構成でテーマに迫る。第一部では、逍遥・四迷・鷗外、そして、透谷・芥川の文芸認識論をくぐることで、現代文芸認識論に展望をもとうということ。さらには、文芸認識論をふまえることで、よりダイナミックな文学史的なつかみ直しをというのである。第二部では、そうした文芸認識論、特にジャンル論をふまえ、その特質を生かした教材化の視点を明確にすることをねらう。説話(小) 小説(中) 俳諧(中) 詩(中・高) 随想(高・大)と、文学教育教材を選んで提示し、ご批判をいただく。小・中・高・大の教師を会員にもち、一貫性を追求する文教研の特性を生かした構想である。
 以上は、〝文学史を教師の手に〟を合言葉にした、文教研十年間のあゆみである。芥川・太宰・井伏・鷗外・逍遥・四迷・透谷、こんなふうに列挙すると、初参加の方は、あるいは、文教研は高校・大学教師の集団ではないかと思う向きもあるかもしれない。が、文教研会員の多くは中学校教師である、小学校教師である。集会参加者も同様、小・中・高校教師が殆んどである。それでいて、前記、芥川や太宰の文学と取り組み、情熱を燃やしつづける理由は、すでにご存知の方も多いと思う。私たちは、この全国集会を「教師自身のための文学研究の集い」と呼んできた。文学教育にたずさわる教師の資質と条件づくりを目的としている。
 参加者は八十名に限定。民間教育研究団体のなかでは、おそらくいちばん小ぢんまりした集会だろう。暑い最中の三泊四日は、長いようで案外時間がない。集会の趣旨にそった盛りあがりをこころから期待している。
(20170306)

 
『文学と教育』№114 1980.11    近代文学史の書きかえを―― 七〇年代の回顧と展望    委員長 福田隆義  
 
 第29回全国集会のメイン・テーマは<文学史を教師の手に>であった。第20回集会以来の合言葉を、今次集会ではメイン・テーマとして打ち出した。この間、実に十年の歳月を要した。いうなら、このテーマは文教研一九七〇年代研究成果の総決算の反映といえる。と同時に、それは八〇年代幕開けにふさわしい〝節〟となったテーマでもあった。
 この十年間のあゆみをふり返ってみるとき、感慨ひとしおである。実に多くの作品を読み合った。ちなみに全国集会で参加者と一緒に読んだ作品を列挙してみよう。21回『奉教人の死』(芥川)の総合読みが昨日のことのように思い出せる。22回は『芋粥』(芥川)だった。23回『律子と貞子』(太宰)の変形ゼミは画期的な試みだった。24回は『右大臣実朝』(太宰)、25回は『さざなみ軍記』(井伏)と長編がつづいた。26回『遥拝隊長』(井伏)と『富嶽百景』(太宰)の二編。27回の長編『かるさん屋敷』と、『安土セミナリオ』(井伏)は、まだ記憶に新しい。28回は『阿部一族』(鷗外)だった。そして今回は『大導寺信輔の半生』(芥川)を取りあげた。以上は、参加者と読み合った作品である。報告・討論の対象にした作品を加えると、この五ないし六倍になる。さらに、文教研内部の例会と合宿で取りあげた作品も含めると、その数は何十倍にもなる。こうした一つ一つの作品との対決・格闘は、読者中心の文学史、私たちの文学史を構想するための、いわば基礎作業だった。
 しかし、私たちのこの基礎作業は、たんに個々の作品論・作家論にとどまるものではなかった。それは、文学史論の一環としての文学系譜論的な追求だった。芥川から太宰へ、あるいは、井伏から太宰へという、教養的中流下層階級者の文学系譜、さらには、この系譜の外祖としての鷗外の歴史小説の位置づけを実証する過程であったといえる。
 また、そうした文学系譜論的追求をするなかで、必然的に問題になってきたのが「文学史の中の文芸認識論の展開は」という問いかけだった。文学史論と文芸認識論の相補関係を探ることで、よりダイナミックな私たちの文学史をと考えたからである。そこでは、教養的中流下層階級者の視点による文芸認識論成立の時点、芥川の『文芸一般論』『文芸鑑賞』をまず検討した。そこから近代主義文芸認識論の始発点にさかのぼり、逍遥の『小説神髄』、四迷の『小説総論』、さらに逍鷗論争から透谷。自然主義期の評論、プロレタリア文学の文芸理論までを手がけた。
 今次集会のメイン・テーマ<文学史を教師の手に>は、こうした十年間の学習に裏づけられた自信のあらわれであったともいえる。が、私たちの目標は、近代主義者の手から、私たちの文学史を取り戻すことにある。それは近代文学史の全面的な書きかえを意味する。そういう目標からみたとき、私たちの仕事はまだその構想と展望が持てた段階であり、今後に残された課題は大きくて多い。
 ところで、私たちはそういう目標にむかって八〇年代の一歩を踏み出した。当面の研究対象を北村透谷に絞ってである。透谷については今までも絶えず話題にはなっていた。たとえば、熊谷孝著『現代文学にみる日本人の自画像』(71年・三省堂刊)には、いくつも重要な指摘がある。序章<近代主義の克服>では「私見に従えば、少なくとも理論的には近代主義の使命と役割は透谷をもって終わった、ということになるのである。」も、その一つである。脱近代・反近代主義を志向する文教研にとっては見逃せない。また<自由民権運動と日本の近代文学>の項での「透谷に関して評価されるべきであるのは、彼の到達した結論ではなくて、近代的エゴの問題に関して自己の存在証明をぎりぎりに突き詰めた形で行なおうとしたその基本的な発想であり、その模索・探求の過程であろう。」という指摘などを、具体的に私たちに媒介する必要がある。が、昨年度は『厭世詩家と女性』他数編を例会で取あげたにすぎない。透谷をくぐってたどり直すとき、私たちの目ざす近代文学史への全面的な書きかえが日程にのぼってくると思う。(20170316) 

 
『文学と教育』№115 1981.2    教室・職場・集団―沈黙からの解放   事務局長 荒川有史 
 
 文学教育の理想は何であろうか。
 人によって様々な答えがはねかえってくるであろう。教育現場において直面しているひとりひとりの課題の重さが、理想追求の思索に深くかわってくるからである。
 私の場合、対話精神にあふれた教室の現実をめざしたい。児童生徒の可能性を最大限にひきだせる道筋を発見したいのである。どの教室にも、普段発言しない子供がいるだろう。そういう子供に機械的な指名で口を開かせるのではなく、彼らの内部にゆさぶりをかけ、彼ら自身の内発性において対話する道を切り開きたいのである。
 80年10月。高校三年の国語教室での体験である。テキストは金田一春彦氏の「日本語の特異性」(『現代国語』3筑摩書房刊所収)。川端康成の『雪国』とサイデンステッカーの翻訳とを対比した評論である。『雪国』に、「向こう側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。」という一節がある。この部分に関して、金田一氏は次のように指摘する。――「<ガラス窓を落とした>の<落とした>は訳文では opened とある。<開けた>だ。たしかに<落とす>のは<開ける>ことにちがいないが、この落とすようなガラス窓は、今の列車には少なくなったもので、ただちに、昔の三等列車を思わせる。雪国――信号所に止まる汽車――娘――落として開けるガラス窓。こんなものを頭に描くことによって読者は、冬の夜の寒々とした地方の三等車を頭に描くことができる。
……こういうことは外国人にわかるだろうか。」
 金田一氏のこの問いかけは、異なった言語文化の翻訳を考えるさいに、見すごすことのできない基本的な問いかけでもあるだろう。異なった生活圏を生きる人々の間に、言葉を通しての交流がどこまで可能か、もし可能であるとするならば、どのようなスタイルの翻訳で可能なのか、そこで問われていることにもなる。
 ところで、打ちあけて言えば、私は金田一氏の提言をうのみにして教室に臨んでいたきらいがある。授業が終わった直後、普段はほとんど発言しない生徒から質問を受けた。アメリカの汽車の発達過程は知らないが、日本の場合イギリスから伝わってきたのではなかろうか、日本の一昔前の三等車は、イギリスの昔の汽車の構造と同一ではあるまいか、とするならば戦後の若い読者が『雪国』のある部分を理解できない条件と、英語圏の読者が理解できない条件と同一のものがありはしないか、というのである。この発言に接して、私は自己の怠慢さにいたく気づいた。外国古典と日本近代古典との共軛性、相違性を視野に入れて授業の準備をしていなかったことである。教師の側の論理的な怠慢さが、高校生の論理的可能性をひき出すブレーキになっていたのである。と同時に、さゝやかな疑問でも自由に発表しうる雰囲気の教室を作りえなかった教師集団――もちろん自己をふくめての――の弱さも指摘せざるをえない。
 生徒の沈黙。それにはさまざまの要因があろう。その基本的な要因の一つに、小・中・高における教師集団の管理主義的な姿勢の反映を見る。
 職場において、私たちは、言わずにおれない何かを、言うべき時期に持続的に主張し続けてきているであろうか。子どもたちの精神の糧ともいうべき教材体系の編成に関して、人間としての原則を主張しているであろうか。精神の毒を与えないという原則に固執しているか。多数決の状況に埋没せず、一致点を土台に不一致点はねばり強く検討するという学風を堅持しているであろうか。職場では沈黙している教師が、教室でのみ生徒の沈黙を解き放つことはできないのではなかろうか。文学教育にたずさわる教師には、教室の内外を問わず切実な問題を提起し続ける姿勢が必要なように思われる。
 生徒の沈黙に心を痛める教師は、研究サークルの一方通行にも心を痛めざるをえない。独自な学問的成果をただ拝聴して、教室で受け売りすることは許されない。自己の主体を賭けた対話を実現しなければならない。国家的規模での問答無用に抗するためにも!
 (20170326)  

 
『文学と教育』№116 1981.5    教室に土足で踏み込むものは何者だ!   常任委員 山下 明  
 
 昨年から今年にかけての、教科書「偏向」攻撃の特徴は、〝憲法と教育基本法の否定〟の底意をむき出しにしている点にあろう。「党派的」であるという攻撃をしておいて、教科書を彼らの「党派性」でもって塗りかえようとする。そこでは、戦前肯定/戦前復帰のイデオロギーを隠そうともしていない。教科書の国定化を突破口に、一挙に歴史の逆転を図ろうとする意図をはっきり表に示して、なんら憚るところがない。
 「自由新報」「サンケイ新聞」連載記事、「週刊新潮」、「疑問だらけの中学教科書」等々、入手できるかぎりのものを読んでみた。もちろん、記事そのもののひどさ 、その非論理性には驚き呆れたわけだが、もっと驚いたのは、それら一連のものの文体(文体的発想)が軌を一にしている点である。教祖は石井一朝なる人物である。彼の「新/憂うべき教科書の問題」(内外ニュース社「じゅん刊 世界と日本」1979.10.25)、さらには「社会科教科書の偏向を衝く」(同、1980.9.15)が源流になって、それを下絵にして、政府自民党の国会発言、御用学者の唱和、ジャーナリズムのキャンペーンが張られているのである。周知のとおり、石井氏は一九五〇年にも『憂うべき教科書の問題』をまとめた人物であり、その意味で彼がこのような本を書いたこと自体は驚くにあたらないが、その彼を再び担ぎあげ、彼の論法でもって一定の世論を強引につくり出そうとする 組織的な動き には十二分の警戒と反撃を要する。
 現在、具体的に集中砲火を浴びせられているのは、中学社会「公民的分野」と高校「一般社会」であるが、既に「国語」にも照準はあてられ、文学作品の入替とその修身化が企図されている、と見てよい。石井氏の前掲書によれば、例えば小学校低学年では、『おおきなかぶ』『かさじぞう』『かにむかし』などが、およそ非ブンガク的な「解釈」で切り捨てられ、『桃太郎』が推挙される。そして、本音が次のようなところに見え隠れする。
 ――(椋鳩十の)「大造じさんとがん」は、むしろ「戦時下の人間を精神的に鼓舞した(高森邦明)作品といったほうが正しく、だからこそ戦時中の『少年倶楽部』への登場も許されたのだろう。おかしないいわけや解説をつけ加えなければ、この作品だけがどうやら国語教科書に載せてよいものといえそうだ。

 児童と教師の教室に土足で踏み込むものは何者だ!―― わたしたちは激しい憤りを覚える。そして、子どもたちの未来に責任を持つ、教師という仕事の重さを痛感する。
 この理不尽な攻撃の前に「教科書」は守られなければならない。しかし、私たちの要求水準を低下させてはならない。私たちの目ざすものは、教材の自主編成ではなかったか? 反動勢力は、検定強化はおろか「国定化」へと突き進もうとしているのである。それらを反撃する強力で幅広い運動をくりひろげると同時に、私たちは教室に、教師自身の人間が息づく授業を創造していかねばならない。言いかえれば、現場が教科書ベッタリの非主体的な授業に甘んじているようでは、現行の教科書さえ守れないということだ。国語の授業/文学の授業で言えば、教師自身の不断の文学研究に支えられながら、目の前の子どもたちに向けて自分たち自身で作品を 教材化 し、子どもたちと作品とのまっとうな対話を成り立たせる、そのような日々の授業への変革を抜きに出来ないということである。安直な方法主義/素材主義、読者主体抜きの読解主義では戦えないことが、もはやはっきりしているのではないか。
 「戦前元年」―― このごろ文教研でささやかれる言葉である。太宰もまた、こういっていた。

 ――実に悪い時代であった。その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って自分の旗を守りとおすのは、実に至難の事業であった。この後だって楽じゃない。こんな具合じゃ仕様が無い。また何十年か前のフネノフネ時代にかえったんでは意味が無い。戦争時代がまだよかったなんてことになると、みじめなものだ。うっかりすると、そうなりますよ。(「十五年間」/昭21.4)
  (20170406) 

 
『文学と教育』№117 1981.8    第30回全国集会を迎えるにあたって―今こそ文学教育を―   委員長 福田隆義 
 
 戦後の国語教育は、その始発点に問題があった。47年(昭和22年)『学習指導要領・試案』には、国語科学習指導の目標を「児童・生徒に対して、聞くこと、話すこと、読むこと、つづることによって、あらゆる環境におけることばのつかいかたに習熟させるような経験を与えることである」と規定している。アメリカから直輸入した、いわゆる経験主義である。「あらゆる環境」に適応できる、言語技術の指導をというのである。こうした適応の論理のなかには、変革の論理にたつ文学教育は、位置づかないし、位置づけようがない。この指導要領の考え方は、当時、子どもを守る文化運動の一環として盛りあがりつつあった、文学教育運動とは相容れなかった。したがって、この民間の文学教育運動は、当然、指導要領批判でもあった。が、51年(昭和26年)指導要領の改訂には、残念ながらこの運動は反映されなかった。
 ところで、子どもたちをとりまく「環境」は、50年朝鮮事変を契機に大きく変わった。52年警察予備隊の創設。54年自衛隊の発足と、アメリカ軍事戦略のなかに日本は組みこまれていった。そうした既成事実の積み重ねによってつくられた「環境」に適応させるための文教政策が、あの悪名たかい教職員の勤務評定であり、58年(昭和33年)の指導要領の改悪であった。この改悪で、指導要領から「試案」の文字が削除され、法的拘束力をもって現場を縛りはじめた。ここでは文学教育どころか、小学校編からは「文学」という言葉さえ一切消し去った。体制側は順応し適応することを拒否する文学教育を恐れていたのである。文学のもつ人間解放・人間形成への機能を、感覚的にではあるがつかんでいたのであろう。それに代わって強調し強制されたのが「愛国心」の涵養であり、特設「道徳」であった。この改悪で、物語や伝記も「愛国心」や「道徳」教育のための手段とされてしまった。これらの施策は、いうまでもなく、60年安保改定へ向けての布石であり、締めつけであった。
 こうした時代の動向、子どもたちをとりまく反動化の波から、子どもたちと文学教育を守り抜こうと決意して結成したのが、わが文学教育研究者集団である。以来、二十三年、一貫して子どもたちの未来と、文学教育を守り抜くための研究と運動をつづけてきた。しかし、それは容易なことではなかった。まさに闘いであった。体制側が拒否しつづけたばかりではない。日教組教研集会でさえ、文学教育という発想を公認しなかった。指導要領まがいの「文学作品の読みかた指導」という柱だてのなかに、われわれの主張を解消してしまった。この論理からは、有効な指導要領批判はうまれない。
 さらに時代は反動化の一途をたどった。それに応じて、68年(昭和43年)と77年(昭和52年)に指導要領が改訂された。改訂されるたびに右寄り路線、反動化路線と呼応し、それに適応するよう組み変えられてきた。今や国語教育も、戦前・戦中とは違った、より巧妙なかたちで国防教育の一環に組みこまれてしまった感さえある。
 そして、今回の自民党と、その御用「学者」による教科書攻撃は、その総しあげのつもりではなかったのか。ここでも、彼らの攻撃の矛先の一つは文学作品に向けられている。教科書から文学を抹消し、教室から文学を閉め出してしまわない限り、彼らは不安なのであろう。ここではもはや理不尽というより、狂気としかいいようがない。第一彼等は文学を文学として読んでいない。読めていない。われわれが批判しつづけたイデオロギー主義、それもきわめてイデオロギー主義的な読みしかできないようだ。いうなら「鑑賞上の盲人」
(芥川)である。文学教育をうけて育たなかった証拠といえよう。
 こうみてくると、体制側は一貫して教育・国語教育から、文学教育を排除しつづけてきた。そして今や、文学教育をこうした反動化の攻撃から守り抜くことは、日本の平和と民主々義を守ることでもある。初心忘るべからず。第30回全国集会を迎えるにあたって〝今こそ文学教育を〟と訴えずにはおられない。 (20170416)
 
 

 
『文学と教育』№118 1981.11    今われわれに求められているもの   委員長 福田隆義   
 
 文学教育研究者集団第30回全国集会は、自民党ならびに文部省に「教育への不当な介入に抗議する」声明を、集会の名で採択した。いわゆる教科書「偏向」キャンペーンに対する、文教研としての態度表明である。それは、理不尽な教科書攻撃に対する参加者全員の怒りの集約でもあった。(本誌15頁、参照)
 しかし、子どもや若者たちの教育に直接たずさわる、われわれ教育労働者の抗議は、声明を出すことでは終わらない。抗議集会やデモに参加することだけでは完結しない。われわれの抗議は、教育という日常的な実践を通しての反撃でなければならない。それは、子どもたちを未来の主権者に育てることである。民族の担い手としての人間に育てることでなければならない。それはしかし、地味で根気のいるしんどいたたかいである。が、われわれは、すでに二十数年、そうした課題意識をもって、国語教育・文学教育の側面から研究をつづけてきた。今この時点で、その意味と意義を確認しあいたい。今次集会も、そういう研究活動の一環だった。
 文教研80年度は、研究対象を北村透谷に絞って出発した。そして、透谷をくぐることで近代文学史をたどり直した。例えば、鷗外の歴史小説、あるいは、藤村詩集や藤村童話のつかみ直しである。そのことで、教材化の視点もさらに明確になってきた。また、透谷の西鶴評価や鷗外の眼に映じた近世的現実をふまえ、われわれの文学史構築の基礎研究を近世にまですすめた。そうした研究の過程が、今次集会の統一テーマ「文学史の中の近世と近代 ―― その接点について考える ――」である。具体的には、透谷・鷗外・藤村、そして、西鶴・芭蕉と取り組んだ。そして、これら作家に共通して脈うつ文学的イデオロギーを<精神の自由>という言い方で、われわれの脳裏に刻印した。教養的中流下層階級者の視点に立つ文学につながる系譜、われわれが継承し、発展させなければならない民族の遺産としてである。
 <精神の自由>、これはしかし、戦わずして得ることはできない。守ることはできない。透谷の呼びかけ「吾人は記憶す、人間は戦ふ為に生れたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして、戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを。」(「人生に相渉るとは何の謂ぞ」)が聞こえてくる。かつて藤村が「―略― ふしぎにもそのお友達は亡くなった後になって、いろいろわたしに話しかけるようになりました。その人ののこしたことばが物を言うようになりました。――」(「若いお友達の死」 『藤村の童話・力餅』所収)と、透谷の声を聞いたように……
 ところで、学校教育の現場はどうか。勤評を境に「ものいわぬ教師」が増えたといわれる。が、その傾向は「主任」の制度化以降、一段ときわだってきたように思う。一方には教師の主体的、創造的な実践に枠をはめ、画一化、平均化しようとする管理体制がある。他方、出る釘は打たれる ――足並を揃えなければ不安――、そこで、一歩も二歩も後退したところで線を揃えるという自己規制が醸成されているように思えてならない。その精神構造が、教育課程の自主編成意識を後退させる。教科書の「国定化」を許す土壌になる。また、教育界の停滞、沈滞を招く。それが、教育の荒廃といわれる非行・校内暴力などの要因だといえないだろうか。反動勢力の教育に対する攻撃、教師に対する攻撃は、教科書の「国定化」をめざすにとどまらない。第十三期中央教育審議会に、戦後の文教政策の根本的な見直しを諮問すると伝え聞く。さらに、管理と統制の強化をもくろんでいることは確かだ。そうなればもはや教育の荒廃どころではない。権力による教育破壊である。今、われわれに求められているのは何か。われわれは何をなすべきか。
 <精神の自由>、これはしかし、戦わずして得ることはできない。守ることはできない。教師その人に、精神の自由がないとき、教育に自由はあり得ない。教育の自由が失われたとき、民族に明るい未来はない。 (20170426)
 

 
『文学と教育』№119 1982.2     〝文学の眼〟と〝教養〟を   常任委員 佐伯昭定 
 
 「真の愛国心は、単に平和を愛し、国を愛するということだけではない。国家の危急に際し、力を合わせて国を守るという熱意となって現われるものである。」(昭56「防衛白書」)私の空耳でしょうか、どこかで聴いたような気がするのです。かつて、沢山の人たちがこのリズムで踊らされました。そして、踊っている中に殺されました。
 「兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ……一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(明23「教育勅語」)これです。他人の空似と言ったものではありません。まさに瓜二つです。かれこれもう一世紀も経っているのです。
 とっくの昔に死んでしまったはずなのに……墓石が軽かったのでしょうか。ドラキュラは生きていたのです。「タカ派化する高校生・三割が核武装容認」、昨年の末、朝日新聞の福岡版にこんな見出しの記事が出ました。81年度版の「子ども白書」でも同じような資料が出ています。小中学生平均で「自衛隊増強賛成」が35%。自衛隊合憲論を打ち出している政党の、その支持者の場合、同じ項目に対しての支持者は34%。今の子どもたちはタカ派と言われている政党の支持者より、よりタカ的だというわけです。〝コンドル〟派とでも言った方がいいのかもしれません。コンドルは好んで死肉を食うといいます。
 目の前の子どもが「人間」を放棄しようとしているのです。そのような現実から眼をそらすことは犯罪に等しい。こんな時、仲間はどうしているのでしょうか。「神経障害の先生急増・休職年二百人を越す」(大阪・読売)「前門に校内暴力、後門に教育ママ・増える先生の精神障害」(北海道新聞)「先生二人に一人は病気・授業に支障同僚に迷惑・十分な治療出来ず」(栃木新聞)「生徒指導より〝教員室〟のんびり先生」(神奈川新聞)「保守化目立つ若い教師・政党無関心派が十三パーセント」(南日本新聞)……昨年の夏頃から秋にかけて出された新聞の見出しを拾ってみました。わかっています、新聞だっていろいろあることぐらいは。それはそれとしてもです。八十年代のこの現実に対して、立ち向かえるでしょうか。立ち向かわなかった、立ち向かえなかったとしたらどうなるのでしょう。はっきりしていることは35%が100%になるということです。そういう数値であなたと私の存在証明が書かれるのです。お願いです、一緒に考えてみてください。でも、私を無視して一人で立ち向かおうなんて思ってはいけません。それは〝ヤアヤア、ワレコソハア〟といった時代のハナシです。なにしろ相手は死んだふりをして一世紀近くも生き続けてきたドラキュラですから、そんな相手に即応した()を使わなければ勝ちめはありません。勝つためには、まず耳の掃除をよくしておくことです。「三十五パーセント」の声があなたにはどんなふうに聴こえていますか。「右翼暴力団がすきなわけではないが一つだけよいことがある。それは深い絆で結ばれている、その信頼や充実感は学校生活にはない。」(先出「子ども白書」)右翼に走った一人の若者の告白、いや告発です。こんな若者の声がはっきりと聴こえる耳を、あなたや私はほんとに持っているのでしょうか。
 こんな時、あなたはやはり〝上を向いて〟歩いた方が得だとお考えでしょうか。正面切ってそう問い糺せば多分否定なさるだろうと思います。では〝下を向いて〟歩くしかないのでしょうか。いずれにしてもそれは私たちの「教養」で決まることです。――「自己中心的な意味での自己肯定」の立場ではなく「自己確認における自己の存在証明」を可能にしていくような、そのような意味における「教養」
――熊谷孝氏のみごとな整理があります。
 「文学」を通してこそ可能なもの――日常向かいあっている子どもや若者たちのそのメンタリティを組み変え、それによって見えてくる状況を捉えていく「文学の眼」、その鋭さとやさしさ、そのような「眼」を創っていく仕事は私たちだからこそできるのです。しかし、そのためには、それを可能にする真の意味での「教養」が必要なのです。八十年代の状況の中で〝教師たりうる条件〟をここではっきりと確認していきたい。そう思います。 (20170506)
 

 
 『文学と教育』№120 1982.5      教育への権力の介入に抗して    副委員長 夏目武子
 
 「われわれは、教科書への権力の介入を絶対に許すことはできない。子どもや若者たちの未来と、日本の将来のために、断固、抗議する」―― 一九八一年八月五日、第30回全国集会の名において採択された抗議文(本誌№118掲載)の末尾である。中学社会「公民」、高校「一般社会」、国語教科書の『かさじぞう』『大きなかぶ』等に対する一連の“偏向キャンペーン”に対して、それが憲法と教育基本法をも否定し、一党一派のイデオロギーによって教科書の固定化を意図するものであるとして、私たちは抗議した。本誌№116巻頭言で山下明氏が教科書問題を論じ、№117には、“偏向キャンペーン”に抗議する常任委員会声明が掲載されている。教科書問題に関して、私たちは黙っているわけにはいかないのだ。四月八日、家永教科書裁判の判決を聞いて、この思いをさらに深くした。
 家永三郎氏が、「新日本史」の不合格処分、条件指示が違憲・違法であるとして提訴してから十七年、不合格処分の取り消しを求めた第二次訴訟をおこしてから十五年の歳月が流れている。今回、高裁に差し戻しの判決が出たことで、裁判はさらに長びく。
 一九七〇年七月、杉本裁判長は、「本件不合格処分は、いずれも執筆者の思想内容を事前に審査するもので、憲法二一条二項、教育基本法一〇条に違反する」と判断して処分取り消しの判決を言い渡した。が、文部省は、検定のあり方、検定制度の問い直しをするかわりに、上告をしている。文部省側の敗訴となった畔上判決の三ヶ月あまり後の七六年四月、文部省は高校の学習指導要領の全面改定を行ない、家永氏が処分取り消しを求める意味はなくなったとして、「訴えの利益」を争う裁判に方向を変えてしまう。教育権論争をさけ、ひたすら検定を強化しようとする文部省。これが、教育行政に責任をもつはずの文部省のすることであろうか。
 中学三年生の年齢は十五歳。現在の中学三年生が生まれた時すでに、家永氏があえて訴訟にふみきらざるを得なかったような、「表現の自由」「精神の自由」のない状況におかれていたと言える。十七年前、中教審の「期待される人間像」の中間草案が発表されている。“期待される人間像”に枠づけされ、管理の強化がされた結果の一面が、教育荒廃と言われる非行・校内暴力として表われている、と言える。本誌№118で福田隆義氏が、№119で佐伯定昭氏が、いずれも巻頭言で、怒りをこめて、そのことを論じている。教育荒廃の原因はさまざま考えられる。が、最大の原因は、“教育行政”そのものの中にある。
 判決の出た翌々日にあたる四月十日付朝日新聞は、三千万人反核署名運動を行なっている「国民運動推進連絡会議」事務局に、全国小・中・高生らから、署名用紙の申し込みが次々となされていることを報じていた。一中学生が署名名簿を持参し、仕事の手伝いをしたという記事がきっかけになってのことだ、という。中学生・高校生も危機意識は持っている。持たずにはおれないほど、緊迫した状況に私たちはおかれているのだ。
 戦争体験を伝えるのはむずかしい。戦争の悲惨さを、その体験者と同じ思いでつかめと言っても、それは無理かもしれない。が、今日必要なのは、戦争反対世代として、戦争体験者もそうでない者も、目の前に起きている共通の課題に対して、同一世代として連帯できるよう、対話を深めることである。「表現の自由」「精神の自由」が侵されることに敏感に反応する神経、メンタリティーをもった人間になることである。権力の教育への介入に抗議する運動の一環として、そういうメンタリティーを育てることにある。日常の教育活動として、持続的にとしくむことである。(20170526)
 

 
 『文学と教育』№121 1982.8    第31回全国集会を迎えるにあたって   委員長 福田隆義 
 
 日本民族にとって忘れることのできない、八月六日がまためぐってくる。三十七年めの広島、そして長崎がである。わが文学教育研究者集団は、この日に全国集会を設定した。「過ちを再び繰り返さない」ことを銘記しての月日の設定だった。そして、回を重ねること、三十一回。この間、残念ながら民族の進路は大きく旋回した。それにつれて、教育も右に曲った。
 思うに、戦後の教育はその出発点において、右に曲る論理的な弱さをもっていた。例を国語科教育にとろう。「国語科学習指導の目標は、児童・生徒に対して、聞くこと、話すこと、読むこと、つづることによって、あらゆる環境におけることばのつかいかたに熟達させるような経験を与えることである」(昭和22年版『学習指導要領・試案』)という“適応の論理”で出発した。この適応の論理では、民族のあすを創造する人間は育たない。われわれは、この考え方の危険性を指摘し、批判しつづけると同時に警告もした。が、受け入れられずに三十数年が過ぎた。「あらゆる環境におけることばのつかいかたに熟達」するように教育された子どもたちは、すでに成人し、現在、社会の中核的な構成員になっている。この考え方による教育から、今日の独占と結託した国家権力によって進められているファッショ化、軍事大国化路線に適応・順応する多くの人間が育ったといえないだろうか。われわれの警告は杞憂でなく、現実となってしまった。
 さらに事態は、加速度的に進行している。彼等反動権力は、憲法違反、教育基本法無視はおろか、憲法改正という名の“改悪”へ向けての「環境」づくりに狂奔している。事態がこのまま推移するなら、過ちを繰り返すことは必定。子どもたちに将来はない。民族に未来はない。一刻の猶予も許されぬ情勢である。
 この間、われわれが一貫して主張し、訴えをつづけてきたのは、教育は人である、教師の人間を通さない教育は、教育の名に価しないということだった。「あらゆる環境に」適応する言語技術の指導では、教師の人間がいきづかない。右にも通用し、左にも通用するような言語技術の指導は、教育の名に価しない。われわれの教育実践はたんに「経験を与える」ことだけではない。「あらゆる環境」に適応させることではない。あすの民族を担う人間に、子どもや若者たちを変革していくことにある。民族の課題に応える実践でなければならない。われわれはまず、そういう教育実践を保障する人間、教師その人の主体をまっとうなものに変革していくことをめざして、母国語教育としての文学教育という側面から、地道に追求してきた。ちなみに、文教研全国集会は「教師自身のための文学研究の集い」と規定して、一般の参加を呼びかけてきた。あるときは「文体づくりの国語教育」を、またある時期は「文学史を教師の手に」を合言葉にしてである。今次集会の統一テーマ  ―文学教師の条件―  は、そうした研究活動の総決算としてのテーマ設定である。
 日本民族にとって忘れることのできない、八月六日がまためぐってくる。状況はさらに厳しさを加えてきた。今次集会の成功を心から願わずにはおれない。「過ちを再び繰り返さない」ためにである。(20170606)
 

 
『文学と教育』№122 1982.11     原点にたち返っての自己凝視を   委員長 福田隆義  
 
 文学教育研究者集団第31回全国集会は、「文学教師の条件 ――異端の文学系譜をさぐる中で――」を統一テーマに、今年も、八王子大学セミナー・ハウスで開催された。文学教育の根本理念と、文学教育の〈何〉と〈いかに〉を、参加者めいめいの問題として問い直した三泊四日だった。文学教育運動の現状からみて、こうした原点にたち返っての思索と自己凝視が、われわれに求められているように思う。文教研の主張に確信と展望をもつためにもである。
 いうまでもなく、「学習指導要領」には、文学教育という発想はない。一貫して文学を排除しつづけてきた。今回の教科書攻撃もその一環である。人間性を疎外し抑圧する側にとっては、文学のもつ人間回復への機能がこわいのである。感覚的であるにせよ、その機能をつかんでいるからであろう。従って、文学教育運動は、民間側からおこったし、反体制の教育運動の一環としてすすめられている。がしかし、民間教育運動、反体制の運動でありながら、論理の面では「学習指導要領」の発想そのままだったり、その裏返しだったりする主張のあることを残念に思う。
 たとえば、今次集会でわれわれは、文学教育の視点的立場に「平和教育としての文学教育」という言葉を与えた。文学の名に価する文学 ――〝通俗への反逆〟〝精神の自由を守り抜く〟という、文学精神の横溢した作品を掘り起し、教材化していくことが「平和教育としての文学教育」だ、ということの確認である。われわれは、まっとうな文学教育は、平和教育そのものだという立場にたつ。いわゆる「平和教材」とか「戦争文学」で平和教育をという発想に疑問をもつ。そこに選び出された作品の評価や教材選択の基準に賛成できない。そういう作品を、読解方式で読ませる、あるいは、わからせるというのではなおさらだ。与えられた教材とパターン化した方法、そこでは教師の主体は生かせない。子どもや若者たちのメンタリティーにゆさぶりをかけることはできない。「戦争文学」による平和教育の積み重ねに、子どもたちは拒否反応を起こすようになったという、広島からの参加者の報告が、それを裏づける。
 文学教育は、何より文学の論理に即さなければならない。が、ここにいう「平和教材」とか「戦争文学」とは ――原爆に取材した作品、戦場や外地の生活を描いた作品、戦後の国民生活・戦後のきずあとを扱った作品、などの総称らしい。つまり、素材主義の文学観、イデオロギー主義の文学観によって選択された作品である。少なくとも、虚構・典型概念をふまえない作品評価であり、作品選択だといえよう。したがってまた、文学史的評価にたえうる作品ではない。われわれは、ここ十数年来「文学史を教師の手に」を合言葉に、文学の名に価する文学、教養的中流下層階級者の視点にたつ異端の文学系譜を探りつづけた。生半可な努力ではなかった。それは、文学教師としての資質づくりの学習であると同時に、教材化対象作品の掘り起しをめざした努力だった。
 よく耳にする「だれにもできる文学教育」というキャッチフレーズがある。文学教育は若い世代に母国語文化を媒介する責を負う者には、だれにもできなければならない。しかし、文学の論理を踏みはずした、そして、現代史としての文学史の視点を欠いた文学教育は、文学教育の名に価しない。原点にたち返っての自己凝視をと呼びかける理由である。(20170616)
  
 
 『文学と教育』№123 1983.2    「文学と教育」の新たな出発にあたって   委員長 福田隆義   
 
 一九八三年一月一一月、私たち〝文学教育研究者集団〟と〝みずち書房〟の間で「出版契約書」に調印した。
 私たちの機関誌「文学と教育」が、出版社の手をとおして店頭に出ることが決まった日である。この日はまた、執筆を担当する文教研会員めいめいの決意が問われた日でもあった。私たちの機関誌が、公器として果す役割をさらに強めることを思うとき、ある感懐と同時に、その責任の重さを痛感せずにはおれない。
 文教研は、一九五八年一〇月「サークル・文学と教育の会」として発足した。つぎのような宣言を掲げてである。「文学と教育」創刊号から引用しよう。
 文学教育の必要を口にする人は多い。が、その必要が、一般に過不足なく受けとられているとは考えられない。  なかには、それを、あらぬ方向にゆがめようとしている人さえ、ないわけではない。
 とくに、学校教育の面においては文学教育がおしゆがめられてようとしている、こんにち、私たちは
まず≪国語教育のなかに文学教育を明確に位置づける≫ことから、仕事をはじめていきたい。当面の課題をそこに求めて学習活動をつづけると同時に、一方では、たえず学校教育のワクを越えたところで活動をおし進めることで、≪明日の民族文学創造の基盤≫を確かなものにしよう、と考えるのである。
サークル・文学と教育の会は、よりよい文学教育の実践をめざした≪文学と教育の学習≫のための集いである。他のサークルとの交流や、文書その他による対外的な活動も、先に予想している。
 この五年間をふり返ってみるとき、私たちは、ここに掲げた路線にそって、着実に研究活動をつづけてきたといえる。しかし、その研究水準の高さにもかかわらず、ジャーナリズムからは閉め出された。というより、高水準なるが故に敬遠されたといったほうが正確なように思う。「右」からはいうまでもない。いわゆる進歩派を自認する人からも、誹謗・中傷された。いわば〝異端者〟扱いだった。が、異端こそ本物、本物が異端視される時代だ。そう思いつづけた時期さえあった。
 しかし、歴史は確実に動いている。この間、文教研会員は厳しい入会規定にもかかわらず、着実にふえつづけた。また、文教研の研究成果は、学界・研究者の注目をあつめるようになってきた。機関誌バックナンバーのまとまった注文に、事務局があわてる事態もしばしばである。私たちの機関誌「文学と教育」を出版ルートにのせる機は、まさに熟していたといえよう。
 他方、一九五八年段階の私たちの危惧は、杞憂ではなかった。文学教育を「あらぬ方向にゆがめよう」としていたグループは、今や反動政治権力と結んで、露骨にその鉾先を、文学・文学教育に向けてきた。いわゆる教科書「偏向」攻撃も、その一端である。
 文教研の出番がきた。つくづくそう思う。今回の出版契約は、その確かな足がかりである。足がかりにしなければならない。≪明日の民族文学創造の基盤≫を確かなものにするという初心を貫くためにもである。
 この機会に、読者の暖かいご批判を、改めてお願いする。(20170626)

 
  『文学と教育』№124 1983.5   荒れる生徒たちの人間回復をめざして   常任委員 鈴木益弘    
   
 去る二月、横浜で起きた中学生ら少年十人による浮浪者連続襲撃事件は、無抵抗な弱者を徹底的に痛めつける残忍な行為が〝遊び〟として行われたこと、そして、喧嘩に強くなるための訓練として繰り返されたことで私たちに大きな衝撃を与えた。
 彼らの家庭や学校での生活は恵まれてはいなかった。にもかかわらず今度の彼らの行動はこうした悪現実へその怒りをぶっつける反逆の意識によってなされたものではなかった。
 彼等は「浮浪者たちが汚いし、目ざわりだったからやった」と言う。そこには他者へ向けての憐憫も自己凝視の姿勢もない。ただの即物的生理的な反射行動でしかない。現実と我れとの間に一定の距離をおき、「ことば」を用いて外界とコミットする通路を探し、自らの行為の意味を考えようとする人間らしい行動のしかたではない。彼等は人間の証しとしての自らの「ことば」および「ことば」操作の方法を持っていないのである。
 「犠牲者が悲鳴を挙げて逃げ回るのがおもしろかった」と言う。かつて帝国軍隊が新兵に占領地の目ざわりな住民を銃剣で刺殺させた訓練の論理と少しも変らない。問答無用でただ体験を重ねさせて思考を麻痺させていき、単純な技能者を造り出す方法――人間不在の詰め込み教育など受験体制を支える教育の論理が彼らのそれであった。皮肉にも彼等は受験体制からはじきだされた存在であったのに。
 横浜地検は家裁に送付するに際して「集団による、心情的に幼児性を脱していない犯行である」と断じた。まさに十四歳~十六歳の少年にふさわしい人間としての発達を遂げていない。いったい、誰れが、何が、彼らの成長発達をスポイルしたのか。
 文教研が一九六六年に出版した『中学校の文学教材研究と授業過程』(明図)に次のような記述がある。熊谷孝氏の筆になるものである。
 中学校から高校の時期にあっては子どもたちは、もはや小学生のころのようにムジャキに現実にむかって体あたりして生きる、ということをしなくなります。(略)日常の実際行動は与えられた常識のわく組みにしたがってその軌道の上でおこないながら、しかし、自分たちめいめいの観念の中にもぐりこんで行って、そのかぎり抽象的なかたちで社会の中で自分自身の位置づけをさぐり、可能性をさぐり、そこに、未来へ向けての自己の現実の生き方をくふうするわけです。(略)
 観念の眼で現実を見る、見なおすということがこの青年期のめだった特徴のようだ、(略)また、そういう操作が、子どもや若者たちの精神の発達を約束する契機になるのではないかとも申しました。観念の眼で見るということは、ところで、現実に対するいわばひとつの実験的な操作にほかなりません。あえていえば、ことばによる実験です。あすの日の行動・実践のための、ことばによる実験です。中学や高校の段階は、だからして、すぐれた意味において<ことばによる人生設計の実験期>であるといえましょう。
 長く引用させてもらったが、今日の荒れた生徒たちを前にして、彼らの本来の発達を保障する私たちの目標になると思ったからである。私たちの任務は、「あすのかれらの実践をよりよいものにするために、現在の実験に手をかすことだ」という指摘を大事にしたい。(20170706)

 
  『文学と教育』№125 1983.8    「非行」の原因を問わない〝対策主義〟   委員長 福田隆義     
 
 青少年の「非行」をマスコミが、なかば特ダネ的な報道をしだしてから、もう久しい。この間、さまざまな立場から、さまざまな〝対策〟が提言されてきた。
 そのなかでも、最近の政府・文部省の動向には空恐ろしさを感じる。軍拡路線を強行しようとする中曽根首相の「行革のつぎは教育改革」という発言につづく、瀬戸山文相の、「日本の道徳、習慣、伝統、風俗などの破壊が占領政策の指令だった」とし、非行・暴力の原因がアメリカの占領政策にあるとする発言などがそれである。政略的な発言であるだけに、的はずれだと笑ってすまされない。というのは、占領政策にその原因を押しつけることで、戦前・戦中の教育はしっかりしており、「非行」は少なかった。仮りにあったとしても、軍隊でたたき直すことができた。それというのも徴兵制があったからだ。だから、徴兵制を認める憲法に改正すべきだという、自民党タカ派の改憲路線に結びつくからだ。
 そうした前提で打ち出される「非行」対策は、これまた自民党の執念である「道徳」教育の推進であり、校長がリーダーシップを発揮せよという号令であり、主任制が機能しているかどうかの点検である。それは教師を管理し、子どもや若者たちを取り締ることでしかない。さらには「学校警察連絡協議会」をフルに活用し、警察権力によって、未然に抑圧・防止せよという。こうした〝対策主義〟では、一時的に糊塗することはできたとしても「非行」の根源は、そのまま残る。というより「非行」の根っこは、さらに増幅されよう。こうした悪循環によって、右翼的潮流をつくりだすことをもくろんでいる。そしてその風潮は、すでに醸成されているといえよう。
 思うに、戦後の民主主義への攻撃は、まず教育に向けられた。教育の軍国主義化をアメリカに約束してきた「池田・ロバートソン会談」(一九五三年)を踏まえて更に教育委員の任命制、教職員の勤務評定、近くは主任の制度化と、教師を締めつけてきた。さらには財界の要請に応えた「人づくり政策」という名の、差別・選別を教育の場に持ちこんだ能力主義。他方「学習指導要領」に拘束性をもたせ、教育内容の右寄り統制を強引に推進した。「道徳」教育の強制、日の丸・君が代問題などがそれであり、自民党の教科書「偏向」キャンペーンは、まだ耳あたらしい。
 自由を阻害された教師、枠をはめられた指導内容によって、まっとうな教育活動が実現するはずがない。子どもたちとの真の対話は不可能である。また、管理・取り締りで、子どもの全面発達が保障されるはずがない。今日の教育状況は、そうした一連の民主教育破壊の結果である。青少年の「非行」は、その現象形態である。
 われわれ文学教育研究者集団は、創立以来、そうした教育の管理や統制は、教育の破壊であると警告し、教師の人間を通さない教育は教育ではないと、批判しつづけた。と同時に、母国語教育・文学教育の側面から、教師としての資質づくりの学習を積み重ねた。民族の明日を担う子どもや若者たちに対して、責任のもてる教育実践をめざしてである。その成果は、32回におよぶ全国集会をはじめ、機関誌「文学と教育」などを通して世に問うた。が、われわれの警告や主張は、残念ながら実効をあげるまでにはいたらなかった。
 今次集会は、まさに教育の危機、民族の危機の中でおこなわれる。われわれの主張が、実効をうみだす契機となることを心から願う。(20170716)
 

 
  『文学と教育』№126 1983.11    研究と実践の統一を   委員長 福田隆義   
 
 文教研当面の課題は〝文学史をわれわれの手で〟書き直そうということにある。われわれは、この課題とすでに十数年間、真剣の取り組んできた。
 既成の文学史、それは作家中心でありすぎたり、たんなる書誌的年代史的でしかなかったりである。そうした読者主体の外にある文学史では、われわれの実践活動の指針にはならないし、エネルギーにもなり得ない。創造の完結者としての読者を中軸にすえ、作品の内側からとらえ直した文学史の構築を、というのである。これはしかし、一朝一夕ではかたのつかない大事業である。けれども、そうした〝文学史を教師の手に〟することなしにはまっとうな文学教育も実現しない。いうなら、文学教師の条件として、欠くことのできない問題であり、課題である。
 この大きな課題に対して、われわれは、常に新しい仮説を提示し、検証してきた。ある時期は、文学系譜論を軸に、教養的中流下層階級者の視点にたつ異端の文学系譜を探りつづけた。また、ある年度は、文芸認識論史に焦点を当てたり、文学史上画期となった、文学事象や社会事象を集中的に学習するなど、ダイナミックな追求をつづけてきた。その流れを、ここ十年間の全国集会テーマでおってみよう。
 第23回=芥川龍之介から太宰治へ/第24回=文学史の中の太宰治/第25回=井伏文体の成立――『幽閉』『山椒魚』から『さざなみ軍記』へ/第26回=井伏鱒二と太宰治――戦中から戦後へ/第27回=文学史の中の井伏鱒二と太宰治――長編小説をどう読むか/第28回=森鷗外の歴史小説――『阿部一族』『山椒大夫』を中心に/第29回=文学史を教師の手に/第30回=文学史の中の近世と近代――その接点について考える/第31回=文学教師の条件――異端の文学系譜を探る中で、とつづく。
 そして、今次第32回全国集会統一テーマは「写生文と近代小説の文章表現――文学教師の条件(第二回)」だった。言葉の芸としての文学、その文章表現の面から、近代小説成立史を問い直した。文学史を考えるうえでは、至極あたりまえのことでありながら、既成の文学史にはなかった視点である。こうした視点を組みこむことで、われわれの文学史はより精緻になってきた。近代文学史再構築の基盤がたしかになってきた。
 具体的には、一九〇六年(明治39年)jj前後の「ホトヽギス」誌掲載の、坂本四方太の写生文論と、それにつながる一連の文学的実践を中心に、近代小説の可能性を探った。なかでも、言文一致の名に値する言文一致――加工された教養的中流下層階級者の日常語(熊谷孝)をメディアとした文体の成立・定着を、鈴木三重吉の『千鳥』の改稿過程に発見するなど多くの成果があった。この成果をふまえ、われわれの文学史構築の研究は、今後も継続される。児童文学もふくめた、スケールの大きい文学史としてである。
 こうした文教研の研究業績は、今や、学界の注目の的となってきた。過日、文教研は、日本学術会議協力団体(学・協会)として登録された。われわれの発言は、学界への発言である。機関誌「文学と教育」に掲載された論文は、学術論文である。
 某集会参加者は「小・中学校等の教員に研究などおこがましい。研修をすればいい。」とおかしないいがかりをつけられたという。小・中学校等の教師が、学界レベルの論文を書き、学界レベルの発言をするようになったとき、教育実践も本物になる。文教研の輪を大きく大きく拡げる必要を痛感する。(20170726)

 
  『文学と教育』№127 1984.2     現代を問い直す視点   常任委員 佐伯昭定   
 
 巧言令色スクナシ仁。よくもあんなに恥かし気もなく、しゃべれるものだと思ってしまう。聴いていると、またごまかしている!と思うのだが、その言葉の端々に本音が出ているものだから、聴きのがすわけにもいかない。

 ――この大きな仕事が失敗したならば、教育の改革もできなくなる。防衛の問題もダメになってしまうのであります。したがって、行政改革で大そうじをして、お座敷をきれいにして、そうして立派な憲法を安置する。これがわれわれのコースであると考えておるのであります。――

 近頃いろんな事で有名な日本の某政治家のある宗教団体の席上での発言である。それはいったい誰なのか、それは各自の想像に任せたい。どう想像しようが方向的には大差はないはず。行政改革できれいになるお座敷とは何の事を言っているのか、ほとけ様じゃあるまいし、いったい憲法は安置するものか、などと言いたいことはいろいろあるが、とにかくこの発言の中の「われわれ」の中に私は入らない。そして、そんな「私」がたくさん居ることも忘れないでもらいたい。もう三十年以上も前の事だが、と言えば敗戦後まもなくということななる。そのころの政府の中に「政令改正諮問委員会」というものが設置された。その委員の中に、当時発足したばかりの六・三制の学校体制に強く反対した産業界の代表がいた。この時にはさすがに少数意見であったそうだが、それから二十年を経た一九七一年の中教審は「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本施策について」の中で、かつての少数意見を主座に据えるばかりでなく、現在の「教育臨調」の骨子はすべて盛り込まれていた。
 戦後の歴史の中で、古くは「勤評」、近くは「任命主任制」、ごく最近では教科書についてのあのハナヤカな「偏向」攻撃。そのどれを見ても戦後直後から仕組まれた反動長編ドラマのひと幕であった、としか思えない。そしていよいよ最後の緞帳を降す時が来た、というのが今の中教審が言っている「第三の教育改革」ということになる。近頃、政府の出す諮問には勿論課題は出されるが、ちょっとひと味違うのはその下に結論が付け加えられているものもあるという。だから、委員は〝いいとも〟と言えばそれで済むことになっているらしい。そう言えばなるほどと思うのだが、「われわれのコース」はもう四十年も前から決まっているし、今更世間体を気にして手間暇かける必要もないのかもしれない。
 
 文教研では夏の全国集会とは別に、春・冬二回の合宿研究会をかなり前から定例化している。今回の冬合宿では井伏鱒二の戦後の作品のいくつかを検討した。そして、井伏文学の中でつかみとられた「戦後」が、戦前・戦中とはある点で異なる「戦後特有の倦怠の問題」としてあることが明らかにされた。
 〝あなたじゃないのよ/あなたじゃない/あなたを待っていたのじゃない〟――太宰治は「春の枯葉」の中で登場人物にそう言わせている。「戦後」は新しい戦前・戦中でしかなかった。とめどなく広がりつつある現在の核状況下の中で、そして「われわれ」グループが作り出す社会状況の中で、人間が人間らしく生きることのむずかしさ。子どもたちが今悲鳴を挙げている。自分が「人間」であることに誇りを持ち続けるために、今、本物の文学教育が求められている。(20170806)

 
 『文学と教育』№128 1984.5     教育臨調/文教懇の欺瞞性――文学教育の視点から批判する   さとう・みつる  
 
 教育の対象は人間である。この自明の事実を今もう一度思い起こす必要があるのではないだろうか。教育の対象とする人間とは、一人ひとりの人間の生きかたや行動を直接規定する、その意味での人間精神のことであろう。この人間精神を豊かに開花させるための営みとして教育はある。教育は、だからこそ、人間が真に人間らしくあるための教養を培うものでなくてはならない。
 三月二二日に出された「文化と教育に関する懇談会」(文教懇)の答申は、こうした視点からみて大きな問題を含んでいる。この答申は、一見、人間ぬきの画一教育を批判するような素振りを見せている。が、教育から人間を奪って来た元凶については故意に目をつぶっている。また、例えば、大学における専門課程の重視(実は産業界の要請)という美名のもとに一般教養課程の見直しを提唱している。見直しというと聞こえはよいが、一般教養課程を改善していこうという姿勢は全く見られない。戦後のマスプロ大学の中で一般教養課程は軽視されてきたわけだが、さらに廃止に向かって一歩を踏みだしたようだ。
 教育はまた、教師の人間性をぬきにしてはありえない。大学は、教員を養成する機関としての意味も持っている。そこでどういう教育を受けてきたかということが教師の人間形成に大きな意味をもってくる。前述したように、一人の人間の、人間としての豊かさを保障するのは、幅のある深い教養である。そのような教育があればこそ、自己の専門に関しても、真に深い理解をもつことが可能となる。文学だけしか知らなくて何が文学だ、である。文学しか知らない教師には本当の文学教育などできはしないのだ。ところでこうした専門に偏しない、そして自己の人生、行動の選択に関わっていく幅広い教養を身につける場が、実は、大学の一般教養課程ではなかったのか。教員養成のありかたを、答申が本気で言うのなら、こうした視点から、囚われない自由な精神をもった教師が育つことを可能にするような条件の整備をこそ考えるべきなのだ。
 しかし、「人並み意識」が画一化をもたらしたなどと言っているようでは、とても期待などできぬ。「人並み意識」をこえるなどと言っても、それは要するに、体制側の要求にどれだけ巧みに対応できる人間になるかということにすぎぬ。文学教育の、ひいては教育全体の目ざす、人間の精神など、どこ吹く風なのである。
 こうした体制側の動きに同調するかのように、最近、「知とのたわむれ」などというキャッチフレーズとともに浅田彰氏などの本がもてはやされている。また、「カルチャッぽい」などという訳のわからない言葉がテレビを通じて流れて行く。両者とも、次元の違いはあるにせよ、そこで取り上げられるのは、要するにアクセサリーとしての「教養」である。行動の系とは切り離された、真のインテリジェンスを欠いた教養主義の戯れにすぎないのだ。そしてまた、エンターテインメントに終始する「文化」が、感性のみを強調した「主体性」が、わがもの顔に道を行く。そこでは個々の人間の、大切なセンシビリティーが愚弄されている。
 こうしたマスコミの体制迎合の姿勢を巧みに誘発しながら、また一方では、先程の私的機関にすぎぬ文教懇をもなしくずしに巻き込んでの臨時教育審議会(教育臨調)設置という形で、さらに教育状況を悪化させようというのが、中曽根政権のやり方である。一見スマートな「まやかし言葉」に胡麻化されず、その奪人間化の教育政策を糾弾せねばならぬ。(20170816)
 


 『文学と教育』№129 1984.8     文学教育とブンガク教育   委員長 福田隆義 
 
 今国会に、政府・自民党が上程した、臨時教育審議会設置法(案)の目的は「社会の変化及び文化の発展に対応する教育の実現」(第一条・目的)にあるという。例によって、一見もっともらしい提案理由である。が、またしてもという思いにかりたてられる。常套手段である。
 思うに、戦後の教育は、真理と平和を希求する「人間の育成」を期して出発した。豊かな「文化の創造」をめざした。社会への対応・適応ではなく「社会の形成者」を育てることにあった。そうした教育の場に、教育本来の目的とは矛盾する〝適応の論理〟を持ち込んで、教育界を混乱させ、荒廃にみちびいたのが、財界であり、それと結託した反動勢力だった。それはいつも、今回同様、社会の進展にともなう教育改革とか、社会の変化に対応する教育の実現という、もっともらしい謳い文句だった。
 その間、社会は右へ右へとねじ曲げられつづけた。そして、今や日本はアメリカの核戦略に組み込まれた〝日米運命共同体〟下の〝不沈空母〟になってしまった。残念ながら、われわれはすでに空母に乗せられている。そう思わざるをえない状況が進行している。臨時教育審議会設置法(案)でいう「社会の変化」に「対応する教育」とは、その〝不沈空母〟の乗り組み員としてより有能な〝戦士〟に、民族の子を飼い馴らそうということ以外ではないだろう。
 教育の対象は人間である。人間主体を育てることを放棄し、飼い馴らそうとしたとき、子どもは無気力になる。無感動な若者が育つ。あるいは、鬱積した気もちのはけ口を暴力に求めるなどなど。今日の教育荒廃といわれる現象は、そうした一連の教育政策の混乱・荒廃、さらには、貧困の結果である。
 文学・文学教育は、対応・適応の論理とは相容れないどころか、真っ向から対立する。文学・文学教育は、人間主体のありようを問う。人間の生き方を問いつめる。だから、体制側は、常に文学教育をあらぬ方向にねじ曲げようとした。文学・文学教育を敵視し、抹殺しようとした戦前からの歴史がある。われわれは、押しゆがめられたブンガク教育に足をすくわれてはならない。文学・文学教育は、体制への対応・適応を拒否する。常に精神の自由を守る側に立つ。この視点からの自己点検と確認が迫られている。
 われわれは、われわれの文学教育を実現しなければならない。というより、われわれを含み込んだ、私の文学教育の実現を、である。それを可能にする教師としての主体的力量をたかめなければならない。そこでは、教師めいめいの「私にとっての文学」が問われる。まっとうな文学の、まっとうな鑑賞者・再創造者であるかどうかが、文学教育の質を決定するからである。いうなら、教師その人の文学的イデオロギーを問い直し、鍛え直すことでしか、真の文学教育は実現しない。
 文教研は、私たちの文学、精神の自由を守り抜いた文学を、教養的中流下層階級者の視点にたつ文学と規定し、それを文学系譜論的に追究すると同時に、まっとうな鑑賞者・再創造者になれるよう、自身の文学的イデオロギーの問い直しをしてきた。今次集会のテーマ「日本近代文学における異端の系譜――井伏文学を中心に」も、そうした研究活動の一環である。参加者全員による「私にとっての文学」「私の文学的イデオロギー」の問い直しをと期待している。まっとうな媒介者になるためにである。
(一九八四・六・二〇) (20170826)

 
『文学と教育』№130 1984.11    異端の文学との対話を   委員長 福田隆義  
 
 文学教育研究者集団・第33回全国集会は、例年のように、八月五日から三泊四日の日程で、東京都下八王子、大学セミナー・ハウスで開催された。統一テーマは「日本近代文学における異端の系譜――井伏文学を中心に」であった。
 異端の文学――時流に便乗・迎合せず、それぞれの歴史状況の中で倦怠に苦しみ、精神の自由を求めて闘った人たちの文学を、わたしたちが系譜論的に追求し始めてから、すでに十数年になる。<文学史を教師の手に>を合い言葉にしてである。具体的には、森鷗外・芥川龍之介・井伏鱒二・太宰治らの作品の中に、その受け継ぎと発展を探りつづけた。と同時に、横の広がりにも目を向け、他の作家の作品、作家の資質などもふくめて検討した。今次第33回全国集会の統一テーマも、そうした研究過程の一環として位置づく。井伏文学との対話・対決をとおして「核戦争三分まえ」ともいわれる極限状況下をどう生きるか、めいめいの問題として問い直した集会だった。
 また昨年度は、十数年にわたるわたしたちの研究成果の一端を『芥川文学手帖』(文学教育研究者集団著・熊谷孝編)と『井伏文学手帖』(同)として、みずち書房から出版した。両書は、文教研会員めいめいが芥川文学、井伏文学のまっとうな鑑賞者・創造の完結者に、自分を変革していく過程で生まれた論稿である。それは、芥川文学の奪還、井伏文学の再評価であり、近代文学史の書きかえにつながる、大きな業績だと自負している。研究者の間でも、少しずつ注目されている。が、わたしたちとしては、むしろ、小・中・高校教師をはじめ、母国語教育・文学教育と深くかかわる、人の子の親や兄姉に注目されることを願っている。自己変革という苦闘のなかから生まれた論稿は、必ず共感を得ると信じる。
 わたしたちが、それこそ執念く異端の文学系譜を追いつづける理由はほかでもない。それが〝わたしの文学〟であるからだ。作品との対話・対決が、自分と自分のまわりを見つめ直すことに結びつく。いうなら、人間回復・人間変革という文学のエスプリに満ちた作品だからである。
 それはまた、自分の問題であると同時に、文学教育の問題である。たんに〝わたしの文学〟にとどめてはならない。若い世代に媒介し〝わたしたちの文学〟にしなければならない責任がある。後続の世代を、異端の文学のまっとうな読者・再創造者にはぐくむことが、今日的課題に応えることになるし、明日の民族文化・文学創造への確かな基盤を培うことにつながる。わたしたちの執念を支え、そのエネルギー源となっているのは、そうした課題意識・文学教育意識である。
 時局はまさに、民族の危機である。韓国<大統領>全斗煥歓迎の異常な演出。そこには天皇を利用するという一面と、出番を作るという二面がある。「教育改革へ臨教審始動――社会の変化に対応を」と、マスコミを総動員しての世論操作。「かくれみの審議会」どころではない。財界・政府の意向を先どりした答申が予想される委員の構成。それらが、何をねらっての演出であり、世論操作であるかはいうまでもない。
 文教研新年度は、九月総会で始まる。わたしたちは、さらに「日本近代文学における異端の系譜」を追求していくことを確認し合った。こうした状勢の中で、わたしたちを支えるのは、倦怠に苦しみ、精神の自由を求めて闘った人たちの文学との対話であるからだ。(20170906)


 
『文学と教育』№131 1985.2    「中流意識」からの自己回復   さとう・みつる   
 
 国民の八割以上が自分の生活を中流と考えている。――そういう報道がここ数年くりかえされている。こうしたいわゆる「中流意識」に対して、それを日本の社会の成熟した結果だと肯定的にとらえる意見もあれば、平均的な日本人の生活実態はまだまだ中流などといえるものではないという意見もある。いろいろな意見を聞いていてまず気づくのは、この「中流」という言葉が大変あいまいな言葉だという点だ。収入の高さだとか、いろいろな意味での生活水準だとか、とにかくそんなものを全部いっしょくたにしてなんとなく自分は「中流」だと感じている。どうもそういうことらしい。
 が、ここで一番問題なのはこの「中流意識」が階級論をまったく欠いている点である。いわゆる「上流」と「中流」の差はここでは単に量の差である。収入の差とか、ライフスタイルがにているとか。そんな表面にのみ目がむいていて、生活の根本から規定している階級の問題に目がむかない。「中流意識」はそういう目つぶしの役割をはたしているのである。
 だから、「中流意識」にとっぷりつかっているかぎり、自分たちの生活から人間として生きる充実感を奪いとっているものの正体はつかめてこない。程度の差はあれみんな同じなのだ。だからせめてせっかく確保した、この「中流」(世間なみ)の生活を守るためにがんばろうというわけである。で、また、自分の息子たちには、この生活を下まわらないことはもちろん、できればそれ以上の生活を確保してもらいたい。そのために受験勉強ぐらいなんだということになる。
 まさに体制順応である。そしてこの体制は自分の家族を守ってくれるものなのだ。いろいろ不安材料はあるにせよ日本は「平和」なのだという現実認識がそこにあるのだ。核戦争の危機を感じていないわけではない。だが、自分たちを核戦争へおいやっていく元凶は何かという問題について持続的に思索する姿勢はそこにはない。社会の様々な退廃現象が実は核状況の一環なのだという認識は生まれてこない。核の問題は結局海のむこうの問題なのである。だから、核兵器には反対だが中曽根さんは実行力があってけっこうだ、などというバラバラ事件もそこでおこってくる。
 こう見てくると、「中流意識」とは偽りの「平和」を平和そのものと思いこみ、単なる幸福感を幸福そのものと思いこんでいる幻想であり、虚偽意識であることがわかってくる。この虚偽意識がはたしている危険な役割については今ふれた。そしてこうした問題をぬきに現代における文学教育の意義について論じることはできない。端的にいってこんな意識を助長させるようなものなら、それは文学教育とはいえない。
 私たちは、文学教育はその内発的な教育性格(、、、、、、、、) において民主教育=平和教育以外のものではないと考えている。直接に核の問題をとりあげた時だけが平和教育で、あとは国語の学力の教育だみたいな寄せ木細工的な考え方を私たちはとらない。とらわれない発想――精神の自由において現実について思索し、自分たちの実践の方向を模索していくのが文学本来の精神だし、そのような精神へ向けての人間教育が文学教育である。一人一人の人間が自分の主体性において実像としての現実を発見する手だすけをする。そこに文学教育の役割がある。「中流意識」からの自己回復という課題についてもそのはたすべき役割の大きさは明白だ。文学教師としての資質づくり、そのための努力を怠る事は絶対にできない。(20170916)
 

 
 『文学と教育』№132 1985.5    「私」は「旗手」になれるか   常任委員 佐伯昭定 
 
 「自由化」――牛肉かオレンジの話かと思った。「民間活力の導入」――国鉄か電電の話かと思った。「二十一世紀をめざして」――科学万博のことかと思った。どれも違っていた。これがみんな教育の話であった。輸入の事も国鉄や万博も、そして教育も同じことばで表現されているのがオモシロイ。多分、同じ人が言っているからだと思った。
 十五兆円、これは国民所得の七・四%。二兆四千億円、これは小中学生のための国庫負担金。こんなお金を教育などに国や地方が出すことはない、と考えている人が言い出した言葉らしい。それで余ったお金を何に使うつもりだろうか。
 「学校は様々な種類に多様化される。」塾も学校になるのだから、街には丁目ごとに学校ができることになる。と言っても、みんな近くの学校で間に合わせる、というわけではない。行きたい学校があれば、どんなに遠くでも選べるのだから。これを<バウチャー制>と言うんだそうだが、暇でもできたら、すこし研究でもしてみたいと思っている。
 「学校は教育方法や内容を自由に決定できる。」国は画一的な枠をはめるのは好ましくない、という考えである。結構な話じゃないですか。今までがんじがらめに枠をはめてきたのは誰だったかしら。それにしてもこの「自由に」というのが気にかかる。主語がどうもすっきりしない。その主語の中にまさか「私」が入っていると思っているお人好しはいないでしょうね。
 「唯一絶対の学校制度はあり得ない。」そりゃそうでしょう。誰も言ってはいないのにことさら言いだすところがどうもクサイ。明治以来の学校制度改革の歴史を思い出してみるがいい。誰のための改革であったか。
 「教育免許制度の緩和」、極論すれば誰でも先生になれるという話である。ところがそれにはちゃんと前提がついている。「意欲のある人」でなくてはならない。それなら「私」などは適格者だ、などと早トチリしてはいけない。意欲的であればある程、不適格者という烙印を押された時代が、実は今でも続いている。

 文教研ではこのひと冬かかって、太宰の「葉」を読んだ。『晩年』という処女短編集の冒頭に収録された作品である。春合宿の研究会では「貨幣」「苦悩の年鑑」「トカトントン」など、敗戦直後に発表されたいくつかの作品を読んだ。そして今、芥川、井伏に続いて、文教研のシリーズ第三作『太宰文学手帖』の出版をめざして、その準備に取り組んでいる。
 今、なぜ、太宰文学なのか。
 「実に悪い時代であった。」「ひどい時代であった。」「めちゃ苦茶だった。」太宰は『十五年間』の中で言っている。では今はどうなのか。今は平和だから、いじめっ子が増えているのか。明日は雨の確率予想のように、やはり明日も核の降る確率はゼロだと信じていていいのか。教育を産業構造の中に組み入れ、子どもなどは眼中にない時代である。
 「教育基本法の精神は大枠に於いて逸脱してはいけません。」トカトントン。「それも一つの法律である限り、常に見直す対象であると思います。」トカトントン。前号の巻頭言につなげて言えば、中流意識にどっぷりとつかっている者にはこの音は聞こえまい。
 <戦争の現実と太宰治>、現代史としての文学史の視点から、今、私たちは太宰に取り組んでいる。太宰は二十世紀の旗手になろうとした。「私」は旗手になれるだろうか。(20170926)
 

 
『文学と教育』№133 1985.7      第34回全国集会に期待する   委員長 福田隆義 
 
 平和は核の力で保たれている。国民の平均所得は欧州諸国を追い越したと、胸を張る首相がいる。それをブレーンたちがマスコミを利用して、日本は平和だ、国民生活は中流安定だと煽る。
 たとえば、某氏の文芸時評は「平和で、ほどほどに豊かな大衆社会を見ていると、誰でもそれを鋭く風刺したい気持ちになるのは、むりからぬところだろう。」(朝日新聞・五月二七日・夕刊)で始まる。日本は平和で豊かだという前提にたっての時評である。日本は、ほんとうに平和なのか。ほどほどに豊かな社会といえるのか。時評の前提である現実認識が狂っている。
 こうした現実把握による論調が世論を操作し、いわゆる「中流意識」と、その意識に前提された「平和の幻想」をつくりだす。そこには、階級意識もなければ連帯志向もない。そうした意識のありようが「内閣支持47%に上昇――自民支持も57%で最高」(朝日新聞・五月一八日)という不可思議な世論調査の結果にもなる。
 その平和が幻想でしかない一例を示そう。今国会に自民党が上程(六月六日)した「国家機密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」(国家機密法案)は、一九四一年(昭和16年)に公布された「国防保安法」に匹敵する、戦時体制下の立法ではないのか。「国防保安法」は、戦争遂行のための立法であり、それがどういう役割をはたしたかはいうまでもない。「国家機密法案」も、国民の耳目を塞いで日米運命共同体としての、核戦略を遂行しようとする、有事=戦時立法以外のものではない。それでも日本は「平和で、ほどほどに豊かな」国といえるのか。
 ところで、一九四一年は、対米英宣戦布告の年であり、二十年戦争もいよいよ破局へと盲進した年である。この時期、ほとんどの作家は、権力に屈し戦争賛美にまわるか、さもなくば沈黙を守っていた。そうしたなかで「自分の旗」を守り通そうと、数少ない仲間に必死の思いで訴えつづけたのが、太宰治であった。
 文学教育研究者集団・第34回全国集会は「戦争の現実と太宰治――日本近代文学における異端の系譜(第三回)」を統一テーマに開催する。今、この時期に太宰文学との対話をというのである。注記するなら「ここで<戦争の現実>というのは、まず、①太宰世代にとっての<文学的現実としての戦争の現実>という意味であり、むしろ、②そこに見られるような、囚われない文学的イデオロギーのレンズを通して思索された場合、核状況下の今日の現実はどのようなものとして映って来るか、というふうな意味である。」(全国集会案内より)という視点での、太宰文学の問い直しである。そのことで、核状況下を生きるわれわれ自身の実践課題を見きわめようというのである。
 教師の人間を通さない教育は教育の名に価しない。これは文教研の合言葉である。誰にでもできる文学教育などありえない。あるのは「私の文学教育」である。その私のプシコイデオロギーを幅のあるものに鍛え直し、幻想でない、より確かな現実認識をもつことなしに、まっとうな文学教育は実現しない。日本の子どもや若者たちの将来に責任を持つことはできない。
 私たちの研究集会は、そうした「教師自身のための文学研究の集い」であり、文学教師の資質づくりの場である。今次集会の成果に期待する。(20171006)

 

 
『文学と教育』№134 1985.11      太宰文学の奪還を――『太宰文学手帖』出版記念研究集会に寄せて  委員長 福田隆義   
 
 文学教育研究者集団著・熊谷孝編『芥川文学手帖』(一九八三年十一月刊) 『井伏文学手帖』(一九八四年七月刊)につづく『太宰文学手帖』が、この十一月、同じ「みずち書房」から刊行される。教養的中流下層階級者の視点にたった異端の文学系譜として、われわれが十数年にわたって、その作品と対話をつづけてきた三作家の「手帖」が、シリーズとして出揃ったことになる。
 前二著がそうであったように『太宰文学手帖』も、既往現在の評論の〝焼き直し〟などではない。ましてや、単なる〝太宰作品ダイジェスト集〟や〝太宰文学事典〟の類では、断じてない。それは<現代史としての文学史>という視点で切り取った、太宰文学展開の軌跡の追跡である。したがって、そこで取りあげた作品は、現代史としての文学史という視点から評価し、選択されている。別のいいかたをするなら、太宰文学の本流に位置づく作品選択がなされているといえよう。
 そういう発想で構想された『太宰文学手帖』である。それは目次からも推測できると思うので提示しよう。つぎの七章からなっている。
  第一章 太宰治の文学的イデオロギー
  第二章 太宰文学の展開――その時期区分論をめぐって
  第三章 太宰文学の原点
  第四章 日中戦争下の井伏と太宰
  第五章 太平洋戦争下の太宰文学
  第六章 『右大臣実朝』<てい談>
  第七章 戦後の太宰文学
 いうまでもなく、太宰文学は時間的には過去に生産された文学である。二十年戦争下と戦後の混乱の時期に創造された文学でありながら、現代に生きるわれわれをも引きつける魅力がある。「悪い時代」「ひどい時代」のなかで、明日に期待し、数少ない仲間に向けて訴えつづけた、太宰の必死の思いが伝わってくるからである。それは今日の核状況下を生きるわれわれが見失ってはならないものでありながら、見失っているものを喚起し、現代を見つめ直す視点を与えてくれる。そうした魅力を媒介に、会員めいめいが現代史の課題を探り求めた思索と、集団的討議で満たされている。ちなみに、第34回全国集会(一九八五年八月)の統一テーマは「戦争の現実と太宰治――日本近代文学における異端の系譜(第三回)」であった。
 現在生産されているから、現代の課題に応える文学=現代文学とはいえない。むしろ、中流意識に前提された、平和の幻想を肯定・助長する作家・作品の多いことを憂える。そうした文化状況であれば、なおさら太宰文学をである。われわれは太宰文学を問い直し、現代に照明を当てる必要を痛感する。
 文教研は『太宰文学手帖』出版を記念して、公開研究集会(十一月二十三日)を予定している。われわれの主張を、より多くの方にアピールしたいからである。また、今年度も太宰文学を正面にすえ、研究を推進することを先の総会で確認し合った。太宰文学を現代に奪還することをめざしてである。(20171016)
  

 
『文学と教育』№135 1986.2    人、みな、同じものではない   常任委員 佐伯昭定   
 
 少し古い話になるが、去年の五月、文部省は全国すべての公立小中高三万九千校に対して、その年に行なわれた卒業式・入学式に「日の丸」を掲げたか、「君が代」を歌ったか調査をした。その結果は九月初めの新聞に発表された。ご記憶の方もあろう。掲揚率・斉唱率とも小中高百パーセントは徳島・愛媛・鹿児島の三県であった。ところが、沖縄では「日の丸」六パーセント台、「君が代」はゼロ、つまり沖縄では一校たりとも歌っていない、というのである。言うまでもないが、文部省は調査結果を黙って眺めていたのではない。八月末、都道府県・政令都市の教育委員会に一つの「通知」を送りつけた。「その適切な取扱いについて徹底すること」、揚げろとも、歌えとも言っていない。「適切な取扱い」とは言い方が陰険である。こんな通知は戦後、一回だけ出されたことがあった。昭和三十三年、その時には「望ましい」であった。希望を述べただけに過ぎないはずなのに、その時にも教育委員会は実施を強引に強要した。今回も同様であった。文部省の先きの文面が各教育委員会の段階になると、「掲揚し、斉唱するよう強力な指導を」とホンヤクされてしまう。地方議会の決議を背景にして、である。沖縄は大変だった。当時の様子を新聞は次のように報じている。「日の丸・君が代決議が何と言っても混乱の〝主役〟。連日、県議会には反発する抗議団と賛成する右翼が押しかけ――」(「沖縄タイムス」)。いったい今どき、そこまでしてなぜ「日の丸・君が代」なのか。誰が何のために必要なのか。
 何の事はない、今、盛んに「戦後政治の総決算」と言っている人がいるが、その人がどうも必要らしい。「在位六十年」。今年の四月二十九日には、その決算のムード作りのために「日の丸」と「君が代」が無くてはならないものらしい。東京の東久留米のある中学でアンケートをとった。その中に「君が代をもっとリズミカルにしてほしい」というのがあったそうだ。オ安ゴ用、ソンナライッチョ自作編曲ノ「キミガヨ」デモ歌ッテヤロウカ。

 偏向教育!と言って戦前は言うまでもなく、戦後、多くの教師が恫喝されてきた。そして、「思想教育」と言っては脅迫した。それらにつながる者が今、「日の丸・君が代」が必要だと言っている。臆面もなく、偏向・思想教育をやっているのは彼ら自身ではないか。しかし、彼等はその矛盾に気がついていないのではない。それを矛盾と考えないだけである。「人間はみな同じものだなんて、なんという浅はかなひとりよがりの考え方」(『右大臣実朝』)なのだろうか
……。それならそれで、こちらも言わせてもらおうじゃないか。思想教育なぜ悪い。反論できるかしら。恫喝し、脅迫すれば誰でも「現実路線」に追い込めると信じているとすれば、それこそひとりよがりというものである。
 文教研では、この冬の合宿で、「思想」というものについていろいろ考えてみた。
  一つの対象に対して、人にはその人なりの向かい合い方がある。「君が代」でうれし涙を流す者もいれば、くやし涙を流す者もいる。「人はみな同じものではない」。いったいどこでその違いは生じて来るのか。そのことをはっきりさせるのに私は「プシコ・イデオロギー」という面から考えてみた。「持続的なメンタリティー」「主体化されたイデオロギー」、それは私たちが捉えた「思想」概念である。〝日の丸はこんな風に見るのです。私と違う考えを持っている人の言うことを信じてはいけません〟。どこかで見たようなセリフ。
 私には私なりのプシコ・イデオロギーがある。思想の無い文学教育など存在しない。(20171026)
 

 
『文学と教育』№136 1986.5     心、心、と言うけれど   常任委員 佐藤嗣男   
 
 砂煙りがもうもうと立っている。十五年振りに訪れた四月の小金井公園は、ひと、ひと、ひと、……であった。それでも一片の桜の花弁はいい。小さな楕円形の桃色に薄くしゃくれあがった一端がぽっと赤く染まっている。二十歳の頃は、満開の桜が嫌いだった。あれは自然のフケじゃ、などとうそぶいていた。けれども、今では、桜もよいものだと思う。

 桜の樹の下には死体が埋まっている、と書いたのは梶井基次郎であったかと思うが、その桜の季節だからでもあるまいに、若い人の自殺が相次いでいる。アイドル歌手、岡田由希子の自殺につなげて、〝死にいそぐ若者たち〟と、マス・コミは好餌をえて勢いづいている。少年少女の自殺の誘発現象として憂えているものが多い。安易な死への逃避行、生きることへの心の未成熟、等々特異な風俗現象として扱われていくようだ。
 いじめの問題にしても同じことではないのだろうか。概してマス・コミの論調は現象の表層をひとなでして通りすぎていく。被害者と加害者、親、教師、個々の人間たちの特殊な出来事として、あるいはまた学校教育の異常なゆがみ(・・・)として、〝明日はわが身〟の不安感をかきたてながら興味半分に取沙汰されていく。
 階級社会が存続するかぎり、そうした問題は昔も今もなくなりはしない。〝いじめ〟も〝自殺〟も、階級的人間疎外の一つのあらわれ(・・・・)だと思うのだ。
 「悲嘆にくれているものを、いつまでもその状態に置いとくのは、よしわるしである。」
 井伏鱒二の山椒魚はよくない性質を帯びてくる。悪党になるのである。そして、自分よりも弱い蛙をいじめ(・・・)始める。よしやいじめっ子(・・・・・)にならなかったとしても、「ただ不幸にその心をかきむしられる者のみが、自分自身はブリキの切屑だなどと考えてみる」。自分の存在証明が見出せなくなっていくのだ。
 「死のうと思っていた。」
 ふと、太宰治の『葉』の一節を思い出してしまう。自殺すら処世術の一つとして考えるほかない。自分自身を精一杯大切にして生きようと思えばこそ、なのである。

 幼囚となった子どもたち。学校は牢獄だ。そして、彼らの感性をとおしてとらえられる現実は、汚職、公害、戦争、核、……と、まったく、きりがない。子どもたちの出口のない叫び声が聴こえてくる。
 社会の現実を肯定したままで、そうした社会を生きてゆく強い心を持てと言ってもナンセンスだ。適応の論理に立った精神分析的な精神病理的な〝心〟への対応も同じことだ。ましてや、〝道徳の時間〟的な対処などはもってのほかだ。人間としての心のあり方を求めて、子どもたちのメンタリティーにわけいり、ゆさぶりをかけ、自己変革への道をともに歩んでゆく文学教師による文学教育こそが今もっとも望まれている。
 アニメ映画『風の谷のナウシカ』の古い言い伝えではないけれど、子どもたちを前にした私たち――兄や姉や親や学校教師やは、一人ひとりが文学教育の教師(文学教師)として「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし、失われし大地との絆を結びついに人々を青き清浄の地に導かん」とならなければならないのだろう。(20171106)

   

  
『文学と教育』№137 1986.7     想像的意識による確かな夢を   常任委員 高田正夫    
 
   「自信とは何ですか。」
   「将来の燭光を見た時の心の姿です。」
   「現在の?」
   「それは使いものになりません。ばかです。」

 今に限ったことではないが、どうもここで言う「ばか」が横行しすぎているようである。家永教科書裁判の判決を下した裁判官。結果にほくそ笑む政府・文部省のお役人。なんと皇国史観を全面におしだした高校の「日本史」教科書まで出現した。騒音で悩む人々の声を圧殺し、防衛庁までをも驚愕させた「厚木基地訴訟」の判決。民主教育を抑圧してきた戦後史を位置づけず、教師の「不自由化」をうたう臨教審の第二次答申。あいも変わらず居直る疑獄事件の議員たち。時を得顔でテレビに映る、一国の首相の顔に、胸が「ムカツク」のは私だけであろうか。
 徳利にお酒が少し入っている時、「もうほとんどない。」と見る者と、「まだ、ちょっとある。」と思う者と、人には二種類あると言われる。例が悪かった。むやみに悲観したり、楽観したりすることは意味がない。ただ、「生きることは絶望への道を邁進することだ。」と思う人と「何か希望を見いだせるはずだ。」と模索する人とは、やはり違いはあるだろう。夢、期待、願望、賭け、
……こうした情熱は、ふつうロマンチシズムと呼ばれている。しかし、それはともすると混同されがちなアイデアリズム(観念論)と真反対なものだ。甘くてひ弱で自分勝手なものではないはずである。北村透谷は言っている。「想像と空想とは姉妹の如き関係あるに似れども、其実は神女と悪婦とに似たるところなきにしもあらず」(『想像と空想』)。空想ではなく、想像的意識による、普遍性を持った、確かな「夢」を私たちは今、話題にしたいのである。
 文学教師――無論、学校教師に限ってはいない――それを自称する人、めざす人、そのお祭りが文教研の全国集会である。「文学のエスプリとは、しらずしらず見失っている自分の人間を自分自身にとりもどす、そういう精神の機能を持っている。」(本誌一二〇号・熊谷孝・「平和教育としての文学教育」)そのことを実感し、広めようとする人々の集いである。
 時として、日々の暮らしの中で疲労感を覚え、思いぞ屈することも有る。職場に向かう(人によっては家路に向かう)足どりが、まるでアウシュビィッツへのそれであるように感じられることもあるかも知れない。現状を肯定、追認して楽しく笑っている「人種」と違い、もがけばもがくほど深みにはまるアリ地獄、悪現実を前にしてくずおれがちなこともある。
 しかし、希望へ続く道への手がかりは、案外身近なところにあるものだ。さしあたり、自己の文学観にゆがみはないか、と点検する必要はあろう。例えば太宰文学は下降を指向するデカダン文学だ、と思い込んでいる人はいないか。精神の自由を守るために闘った、「怒涛の葉っぱ」の世代の旗手、太宰の文学的イデオロギーをレンズにして今日を見つめ直した時、「将来の燭光」を見つける可能性は残されている。今回の集会では『右大臣実朝』の魅力を存分に語り合う企画を立てた。そのことが、教育や文化へのとりくみに強力な示唆を与えることを信じている。ロマンチシズムあふれる集会にしたいものである。(20171116)

 

 
『文学と教育』№138 1986.11    閑 話 寸 言   常任委員 佐藤嗣男     
 
 『山椒魚』の山椒魚ではないけれど、ウッカリ生活(くら)していたために、どうしようもない岩屋の中に閉じ込められてしまっていた、というのでは、たった一回限りのわが人生、相済まぬではわが身に対しても申し訳がたたぬ。どうにもやり切れぬ日々である。
               ※       ※       ※

 言葉に対する関心・神経も鋭敏にしておきたいものだ。言葉をウッカリ使い、ウッカリ見過す。ウッカリごまかされる。これでは駄目だ。例えば、中曽根首相の発言(9・22)。「片言隻句だよ」ではすまされぬ。女性は「あっ、今度のネクタイはどんな色をしているか」と、そんなことを一番見る、何を言ったか覚えていないらしい。テレビの場合は画面のほうにとられてしまって頭はすっからかんになっちゃう。だから、ラジオもやりたい。と、彼なりの論理の中での「ネクタイ」発言だ。少数民族蔑視の発言にしても然り。彼の人間観に見合う言葉の選択であることに嘘いつわりはない。が、しかし、こういうものが言葉なんだ、その場限りで消えていく調子のよい飾り物、単なる符牒、真意は別にある、――これでは困るのだ。いや、困るどころではない、次代をになう世代の中に、こうした言語観を浸透させてはならない。当代流行の言語記号論(の亜流)が、一国の首相の記号遊びを助長させてもいるのだろうが、こうした時代のぶざまな姿を二度と見たくはないものだ。
               ※       ※       ※
 ウッカリ見過していたということではこんなことがある。わかっていたつもりが全然わかってはいなかった。
 文教研の第35回全国集会を終えたある日、初出単行本の『右大臣実朝』を読んでいた。終章に至って驚いた。作品は、『吾妻鏡』を五字下げで引用、次に続く本文とで章となし、全十六章で構成されている。終章も然り、ただ、『吾妻鏡』と『承久軍物語』とからが字下げ引用、本文が『増鏡』からの引用で、となっている。この三つの史書からの引用で終章は成っている。が、三書並記ではない。終章まで読みすすめてきた読者はそれまでと同じ構えで読んでいく。史実の記録(史書)によって示される実朝の悲惨な最期。そして、十五章までと同じように、実朝を慕う近習のナレートと(無意識のうちにも)思いつつ本文に入っていく。読み終えて、それが『増鏡』からの引用であったことを知る。けれどもそれは、今は最早、単なる史書からの引用ではすまされぬ、アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカと自問自答しつつ精一杯あかるく生き貫こうとした実朝の、その生き方の美しさへの共感と、その死への哀悼と怒りの想いを託した言葉となって蘇ってくる。<世のなか、ふつと日を消ちたるさまなり>としか言いようのないものなのだ。――視覚的な構成。作品のテーマ的一貫性。『増鏡』一節を終章本文に据えた作品構成のみごとさ。私はウッカリ見落としたまま全国集会に臨んでいたようだ。
               ※       ※       ※
 一つのウッカリはまたつぎのウッカリを呼ぶ。順序は前後するが、太宰治のみならず、私は井伏鱒二氏に対しても、どうにもならぬ無礼をはたらいてしまっている。本誌一三五号(拙稿「テキストを選んで読む権利」)で私は、『山椒魚』の末尾を削除した井伏さんをロマンティシズムを失ってしまった作家ときめつけた。厚顔無恥。一九七九年に<「放射能」と書いて「無常の風」とルビを振りたいものだ>と書いた井伏さんを知らなかった。核の現実を小説化しようとしながらし切れない作家のロマンティシズムと悲しみと怒りの声を見失っていた。と、こう書き進めてきたところでちんぷんかんぷん、この問題は後日改めてぜひ活字にしてみたい。ともあれ、ウッカリしていたではすまされぬのである。(20171126)
 

 
『文学と教育』№139 1987.2    教 養   さとう・みつる    
 
 土曜の夜を家ですごすということはほとんどない。たまにすごすとろくなことがないらしい。先日もこんなことがあった。夕刊を前にして腹がたってきた。
 先月の十七日のことである。朝日新聞の「土用の手帳」欄に「教養主義の神話を、打ち砕く天才たち」と題して次のような記事が載っていた。
 「昨年の音楽界の話題に『天才たちの』登場がある。ブーニン・ブームが静まりかけて、十月にキーシン、十一月には五島みどりが来日し、その卓越した技量を披露した」と始まって、良き演奏は良き教養の上に築かれるという類の「教養主義の神話」が世にあるけれども、彼らの音楽はそうした教養主義とは無縁のものであろうという。のみならず、「教養主義の神話は根強く存在し、とくに大学において顕著である。わが国の大学は、一般大学だけでなく音楽(芸術)大学においても、専門教育の前提(・・)として一般教養科目の取得を義務づけている。しかし『教養』は『専門』の習得のうちに培われるものであろう。それは音楽(芸術)の分野に限らず、学問一般についてもいえることである」として、そうした「教養主義の崩壊」を彼ら天才たちの演奏が示唆しているのだと結論づけている。
 ブーニンやキーシン、そして五島みどりが天才であるかどうかが問題なのではない。「(夢)」と記名した、その夢子の、ひいてはこうした論調に反映される、時代の最先端を行くと称するジャーナリストの無責任な「教養」論に、腹がたつのである。
 教養とは、それこそ朝日新聞社などが率先して開いているカルチャー講座等々の一部に見られるような、知識のファッション、()教養などではないはずだ。人間が人間としてあるための、言いかえれば、自分が自分であるための礎であり糧なのだ。教養は人間一人ひとりに体得され現われた文化である。発展・展開する動的な構造をもつものである。夢子もまた、形骸化した「教養」に批判の目をむけているかのようである。ならば、「良き演奏は良き教養の上に築かれる」、良き「専門」は良き「教養」の上に築かれる、――いったい、それの、どこが悪い。カルチャー・ファッションのなかで手あかにまみれた「教養」が気にくわないからといって、それを()教養の次元でとらえ、教養主義(・・)の名の下に、「一般教養(・・)科目」までをも十把ひとからげに切り捨てるのは、いかがなものか。巷間に流布している(しつつある)教養という言葉の概念の見直し・組みかえこそが先決なのだ。《教養》の復権・回復という視点に立って現代を論ずるという姿勢こそが、いま、まさに不可欠なのではないだろうか。
 ことに、語学の授業の出席率が七四・一%もあるのに比してその他の一般教養科目などは一三~一八%でしかないという大学の現状(竹内清「現代大学生の受講態度とその関連要因の研究」一九八五/潮木守一『キャンパスの生態誌』より)を、さらに増長させてしまうような論調は許すことができない。たしかに「教養」は「専門」の習得のうちにも培われるものである。けれども、だからといって、大学における(・・・・・・)専門教育の前提としての一般教養科目の取得義務を否定する根拠にはならないだろう。まして「学問一般」にまで敷衍するとはもってのほかである。現に大学で行なわれている多くの「一般教養科目」の中味に問題があるにせよ、実学優先・人間性喪失の教育が跋扈(ばっこ)する現在、人間としてあるための基礎学力の問題として《一般教養科目》を再検討すべき時期であるからこそなのだ。
 日本人(五島みどり)の一時帰国をも「来日」と記すような、母国語意識を喪失した文章を目のあたりにして、しみじみと《教養とは?》と思ってしまうのである。あげ足取りかな? 疑心暗鬼でなければよいが、などとも思ってしまう土曜日なのだ。(20171206)


 
『文学と教育』№140 1987.5    現代日本語への関心を   副委員長 夏目武子     
 
 '86年冬季合宿研究会で、児童・学生の言葉操作のありようが話題になった。印象に強く残っているのは、「ワカンナイ」「ベツニ……」と、思索拒否、対話拒否をもたらしているとしか考えられないような言葉づかい。また、「パンチをきかせる」という効果が優先し、鼻濁音のもつ日本語の美しさが葬り去られようとしていること等々。
 思索拒否、対話拒否、鼻濁音の喪失――すでに、ある評価の上に立って、現在の言葉をめぐる現象をとらえていることになる。鼻濁音の響きは美しいのか? 鼻濁音にしなければならない理論的根拠は何か? がなりたてるような強烈なリズムに快感をおぼえる若者に、鼻濁音を使う意味を納得させる用意があるのか?
 大変気になる若者たちの言葉づかいが話題になったのだが、文教研の場合、それが愚痴に終らずに、私達自身の取り組むべき課題として、とらえ直される。教師自身の学力を問い直す方向に発展する。冬季合宿研究会もまた、そうした研究会であった。
 さまざまな課題を背負って、八王子の大学セミナー・ハウスから帰った翌日の朝日新聞(12月29日付)に、「'86世相語年鑑」がほぼ一ページにわたって掲載されていた。おのずから目が向いてしまった。
 『現代用語の基礎知識』選の'86年新語・流行語大賞が紹介されていた。<新語>の部では、金賞=究極、銀賞=激辛、銅賞=ファミコン、<流行語>の部では、金賞=新人類、銀賞=知的水準、銅賞=亭主元気で留守がいい。この他大賞等々。
 流行語定着のメドは、そのことばが芸能欄、文化欄から社会面に移ったときといわれる。「情報化が進んで、大人と子どもとの境が不分明になりつつあるのではないか。」「小学校五、六年生ぐらいにうけているものは中学生、高校生、果ては大学生や社会人にまで広がる」云々と、編集委員は分析している。
 こうした分析を読みながら、「ワカンナイ」という言葉は、もともと幼児語ではなかったかな、とも思ってみる。それが「いいとし」をした人までが使うのは、なぜだろう?
 「わからない」。未知の世界に魅力を感ずる私はこの言葉にこだわりつづける。
 独占資本による人間の疎外状況は、たしかに、つかみにくい。まさに「ワカンナイ」と言いたいほどだ。が、わからないことがあるからこそ、わかろうとして抽象的な思想への情熱を燃やすのではなかろうか。「わからない」ということは、必ずしもマイナスを意味しない。決定的なマイナスは、独特な甘ったるい、鼻にかけたエロキュ―ションで発声する「ワカンナイ」という言葉に酔い、そこにあぐらをかいてしまうことであろう。そこには、抽象的な思想への情熱に己を賭けるロマンチシズムがない。流行語に見られる一般的傾向とも言えよう。
 「主題が何かといういことが初めから分かっているのなら『なにもわざわざ詩を書く必要がない』」(熊谷孝『芸術とことば』)。若い詩人の言葉を引用しての、文学とは何かを鋭くえぐったこの指摘が想起される。
 昨秋以来、私たちが取り組んでいる「現代史としての文学史」の共同研究の中間報告が、本誌の前号から掲載され始めた。テキストは『現代文学にみる日本人の自画像』。ここで指摘されているように、内海文三(『浮雲』の主人公)の「どうしたものだろう?」という問いは、後続の世代に受け継がれ、問い直され続けている。わからないからこそ作家は作品を書いているのだ。それぞれの作家が、自己の文体を模索、創造する営みを通してである。
 第36回全国集会は、言文一致というきり口から、この文体の歴史を探ろうとする試みである。現代の言文一致をあるべき姿において実現するためにである。現代日本語の創造の完結者としての意識を明確にするためにである。(20171216)

 

 
『文学と教育』№141 1987.7     『教育基本法』四十周年における緊張   常任委員 山下 明    
 
 今年は『教育基本法』制定四十周年にあたる。

 第一条   教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわれなければならない。

 この精神が私たちの周囲に実現されているか、私たち教師の日々の営みにこの姿勢が貫かれているか、意識して(、、、、)考えてみなくてはならない時に来ていると思う。「戦後教育の見直し」と称して、『教育基本法』を否定するプログラムが中曽根自民党政府のもとで着々と準備され、いまや一気に噴き出そうとしているからである。その施策は、主権者として明日を担う教養ある人間の育成をめざすものではなく、徹底して資本の論理に貫かれた教育体制再編成の施策である。そしてそれらは、首相や文相が私的に諮問をしておいて、その答申を「尊重する」として新聞発表し、行政指導の形でなしくずしに実施を図っていく、というパターンで展開されている。それがわかっていても、残念ながら、教育の現場はほとんど有効な反撃ができていない、というのが現状であろう。相手は本気である。いま、その「戦後教育の見直し」の動きをしっかりと見据え、戦後教育再編の全体像をつかむことは、とても大事なことだと思う。ここ数年の動きは目まぐるしいほどだ。
 一九八四(昭和59)年三月、中曽根首相は、首相の私的諮問機関「文化と教育に関する懇談会」(座長=井深大ソニー名誉会長)から、教育の現状分析と改革の方向・課題をまとめた「報告」を受けとった。そこには、戦後教育批判(ただし、政府自民党の文教政策は批判の対象とはならない)がなされ、教育制度を、大企業・財界本位の発想で、徹底して能率的なものに再編成しようとする内容が示されていた。首相は、折から設置の準備を進めていた「臨時教育審議会」の重要参考資料になる、と言って喜んだ。同年十月、臨教審(首相任命の諮問機関/会長=岡本道雄)が発足、文教懇の示した基本路線を受けついで各分野にわたる具体的方策の検討に入った。一九八五年六月、第一次答申。「個性」・「徳育」の重視、教員管理の強化のほか、国立大学受験機会の複数化、私立大学を含む「共通テスト」の新設が、この時の答申に盛り込まれている。政府は「答申を最大限に尊重する」と言って、すぐに文部省に「教育改革推進本部」を置いた。続いて一九八六年一月、第二次答申。その重点項目には「教員の資質向上」がうたわれていた。文相はこれを受け、「教育職員養成審議会」なる諮問機関を設けて具体案を練らせ、一九八九(昭和64)年には「新任研修制度」を実施して教員統制を強めることにした。が、戦後教育の見直しは、何と言っても教育課程の改訂であろう。「教育課程審議会」(文相の諮問機関/会長=中川秀恭)は、一九八六年十月、「中間まとめ」を発表し、臨教審第二次答申をそのままに具体化した方針を示した。小学校低学年の社会・理科を廃止し生活科を新設する、高校の「現代社会」を必修から外す等々、戦後に設けられた科学的認識にかかわる教科がおろされている。そして今年四月の臨教審第三次答申では、「大学への資金の多元的導入」「開かれた大学」ということが強調され、産学共同路線、ひいては大学の自治や教科内容まで財界がコントロールする体制が指向されている。「大学審議会」設置法案がそこにつながる。
 さて、このような既成事実の積み重ねによる教育再編性の動きを集約して、この八月にも、「臨教審最終答申」が出されることになっている。そして教育課程審議会も、今年の十二月には最終答申を出す。それを受けて文部省は、一九八八年に小・中、八九年には高校の「学習指導要領」を告知する予定だ。相手は本腰を入れて強引にでも教育の方向を変えようとしている。このままでは、〝教育基本法危うし〟である。
 私たちは、テスト体制を基盤にして進行するこれら潮流に抗し教育の場に〝人間教育〟を回復するために、日々の<国語教育・文学教育>を問い直していかねばならない。
(20171226)
 

 
 (『文学と教育』№142 1987.11 に「巻頭言」の掲載はない。)

 
『文学と教育』№143 1988.2     〝教師が教師でなくなった日〟   常任委員 佐伯昭定   
 
 私はどうも筆無精で、などとは言っておれなかったはずだ。私は今恥じている。
 昨年十月、東京都高等学校教職員組合(都高協)は一枚の写真といっしょに、意見広告を新聞に出した。それを見た多くの方々がすぐさま都高協に手紙を寄せられた。その大多数は意見広告を「少年達のための砦の灯」と受けとめ、「憲法を守り抜く日本人を育て」ていくために、「断固とした姿勢をつらぬかれる方々に敬意と感謝を込めて」といった励ましと連帯の手紙が殺到した。なかには見当外れのものもあったようだが、それらも含めて寄せられた手紙を都高協は小冊子にまとめた。私も手紙を出そうと思っていながら、ついに時期を逸してしまった。
 広告文の題名も、またその小冊子も「教師が教師でなくなった日」となっている。写真は四十五年前の十月二十一日、神宮競技場に集められた何万という学生の「出陣学徒壮行会」の様子を写したものであった。広告文では、現在の日本の危機的な教育情況に触れ、このまま許しておけば「取り返しのつかない事態になる」、四十数年前の「こんな日が来ることのないように、私たちはいつも気持を引き締めていたい。」と結んである。
 一九四三年(昭和十八年)関東七十七の大学の学生が集められた日の、わずか三週間前に、学生の徴兵猶予を廃止するという「在学徴集臨時特例」が閣議で決定されている。当時の戦局は敗色の色濃く、太平洋の島々の守備隊は「転進」から「玉砕」という言い方に変わっていた。学業半ばの学生が戦場に送り込まれていったのは、こんな時期であった。歴史上のこの不幸な出来事が悪夢ではあっても、既に過去の事として済まされるのなら、都高協の先生たちはこんな意見広告は出さなかっただろう。
 戦後、指導要領の改訂は三回行なわれた。その中で、掲揚、斉唱させることが「望ましい」「尊重する態度を養う」となっていた。言うまでもなく「日の丸・君が代」の話である。ところが、昨年十二月に発表された「教育課程審議会のまとめ」では「国旗を掲揚し国歌を斉唱することを明確にする」と初めて言い方が変わってきた。以前の、奥歯にもののはさまったような言い方から、よほど歯切れがよくなってきた。しかしこういう言い方が出来るようになる迄に四十年待たされた、ということになる。こちらから言えば四十年待たせた、しかし、ついに言わせてしまったか、という思いである。都高協の先生たちが懸念している事は単なる杞憂では無い証拠である。
 「教師が教師でなくなる日」を文教研では例会で取りあげた。その席上で熊谷孝氏は、これは文学であると発言された。この一文がなぜ文学なのか、私は考えてみた。合点がいったのは、私なりに花森安治の詩『戦場』から考えてみた時である。「<戦場>は/いつでも/海の向こうにあった」。このような言葉から展開されていく。そして、「ここが、みんなの町が/<戦場>だった/そして、しかし、ここの/この<戦場>で/死んでいった人たち/その死については/どこに向かって/泣けばよいのか」。この詩を読んでいると、いつの間にか言葉が消えて、号泣する民衆の姿が見えてくる。そして民衆をそこに追いやった者への激しい怒りを覚える。
 同じではないか。雨の競技場、全身泥だらけになりながら戦場に送られていった数知れない多くの若者、この光景をいったい教師はどんな思いでみつめたのか。教師が教師でなくなった日、この日が教師にとってどんなに屈辱の日であったか。民衆の連帯を破り、民族の未来を暗黒の中に引きずり込もうとしている者に向かって、怒りを感じない所には、どんな文学も、どんな文学教育も成り立たない。(20180106)
 

 
『文学と教育』№144 1988.5    二人の作家の死を悼む   常任委員 佐藤嗣男  
 
 親しんだ人の死に遭遇することはつらい。
 友人を荒涼とした都会の野辺に送ったのもつかのま、四月に入ると、たてつづけに、読み親しんで来た二人の作家の訃報に接することとなった。
 四月一日、鶴田知也、逝く。
 ≪こうして西蝦夷の漁場は、日本人(シャモ)の跳梁を(ほしいまま)にする所となったけれど、幾何(いくばく)もなくしてタナケシの妹の子たる若い酋長ヘナウケが、神聖な幣柵(ぬささん)を冒した二人の日本人を殴ち殺し、その(チャシ)に拠った。併し彼には十分な準備もなかったので、六つの部落が彼に援助を申出た時、彼はその凡てを断って云うには、「私は同族の胸に火を出来るだけ掻き立てて死ねばよい。今はまだ戦争(ウライケ)(とき)ではないのだから。君達は怒りを慎しみ多くの部落と相謀って期の到るを待たなければならない。」≫
  『コシャマイン記』(一九三六)の一節である。日中戦争下の悪現実を形象的思索の眼をとおして冷徹に顕在化して行った抵抗の文学である。娘の名の一字に「(とき)」をいただいた、そのおおもとでもあっただけに、寂しさとだけは言い切れぬ何かがのこる。
 四月九日、田宮虎彦が逝く。
 ≪……大学を出たところでむなしい人生しか残されていはしないことが、既にのぞき見ていた世の中から私にははっきりわかっているように思えていた。私はあてどもなく東京の町をあるき、生きて行く仕事をさがしもとめようとした。しかし、そんな努力がどんな実を結んだことか。……私は死にたかった。死ぬ以外に自分を支えるものがなかった。≫
 一九三一、二年。『足摺岬』(一九四九)の<私>は、その時、二十三歳である。一九三一年、満州事変勃発。三年後の、一九三四年、太宰治は『葉』の冒頭を「死のうと思っていた。」ではじめている。はたちになるやならずのころに階級闘争の嵐にまきこまれ、そして満州事変だの何だの、ひでえめにばかり遭って来た<怒涛の葉っぱ>世代=太宰世代の心底からの叫びである。『足摺岬』の<私>は、ちょうど、太宰の兄きかぶになるわけだが、彼の想いもまた、そうした怒涛の葉っぱの世代とふれあうものであったのだろう。≪理由ははっきりとは言えはしなかっただろう≫けれど、≪理由もなく死にたかった≫のである。病弱が、困窮が、母の死が、ましてや父との憎みあいが、その理由なのではない。<私>の自覚にはいたっていないが、そこには生きるに値しない悪時代への、悪現実への倦怠感が渦巻いている。――自殺行。
 ≪のう、おぬし、生きることは辛いものじゃが、生きておる方がなんぼよいことか。≫
 足摺岬の宿に居ついた八十を越えた遍路が言う。戊申の戦いで官軍に滅ぼされた黒菅藩の生き残りの言葉である。彼は妻子をわが手にかけている。老遍路は言う、≪夢だ≫と。
 妻にした宿の娘、八重が死んでから、長い戦争がすんだ翌年、八重の墓参に宿のある町を訪れる。そして、<私>は思う。≪夢であった、――すべてが夢であった。どこに夢でない真実があるのか。≫
 そうした<私>の想いは、また、敗戦後の田宮虎彦、その人の想いでもあったろう。そこには、たとえ、過去が夢(悪夢)であったとしても、それが自分の人生であったという現実に正面から対峙して行こうという姿勢が見えてくる。おざなりの悔恨とは違う、戦後の現実に真摯に生きていくための、自己凝視の姿が浮かび上がってくる。病床から澄んだ眼でじっとみつめる『絵本』(一九五〇)の少年の、それと同質の眼が注がれている。
 心に残る二人の作家はもういない。二人は文教研にとってもなじみの深い作家だった。
 (20180116)


 
『文学と教育』№145 1988.7    〝私の大学〟としての全国集会   常任委員 山下 明   
 
 全国集会リーフレットの表紙の最初に記されつづけてきたのは、<文教研 私の大学>ということばである。その、<私の大学>ということばは、ゴーリキィの自伝風の小説、『私の大学』(新日本文庫他)に由来するわけであるが、私たちはこのことばに、文教研の研究活動の根本的な姿勢を見出して大切にしている。現在、リーフレットの表紙には、「限界状況の一歩手前まで追い込まれた、日本の社会と教育の現状」という厳しい現実認識に前提されて、「自身に文学を必要とし、また、文学の人間回復の機能に賭けて、若い世代の〝魂の技師〟たろうとする〝文学教師〟」の、いわば緊急課題が掲げられているのであるが、その一つ以前のメッセージは次のようなものであった。

  ――大学に行けなかったゴーリキィにとって、それは「ヴォルガの川岸」や「小舟の上」で「道ゆく人々」から学ぶことであった。自分の言葉で考え、自分の頭で学びとっていく私の大学、それが今こそ、私たちに必要なのではないだろうか。教師として子どもの未来に責任を持つために。

 この、主体的で実践的な姿勢こそが、文教研の文学研究・文学教育活動を貫いてきた精神に他ならない。それは、形象的思索を通して〝実人生の脈拍〟に触れようとする〝臨床的な〟姿勢としても提起されたし、〝アマチュアリズム〟の問題としても論議されてきたのであった。
 ところが、いま、文教研の研究例会のなかで、私たちそれぞれの研究活動の実情が、ほんとうに実践的なものになっているのかどうか、厳しく問い直していこうという気運が高まっている。自分たちの〝議論〟が、いつの間にか、理論は理論、鑑賞は鑑賞という二元論になってしまって、私たちが批判してきたはずの汎言語主義やイデオロギー主義に知らず知らずに陥ってしまう危険性を持っていないかという自己反省である。そこで、<文学の科学と鑑賞体験>という問題が、あらためて正面からとりあげられるということになったのである。
 今次集会においても、具体的な作品鑑賞の動的過程を通して、鑑賞体験なしに文学の創造(文学現象)はあり得ず、また鑑賞ということなしに文学の科学は成り立たないということが、文学の科学の問題として明らかにされていくだろう。そして、そのような文学の科学が、鑑賞体験をより深いものに変革していくのに欠き得ないということが確かめられていくだろう。その間の事情について、以前に熊谷孝氏は、『太宰文学手帖』の序において、デューイの論文の一節を引きながら、次のように書いておられる。

   ――「花が咲くのは、土壌や空気、湿度、種子などが作用しあった結果であるが、この相互作用のことは知らなくとも、花を愛玩することはできよう。しかしそういう相互作用について考えてみなくては、花を理解(、、)することはできない。理論(、、)とは、この理解のことなのである。花をどんなに愛玩しようとも、その原因となる条件を理解できなくては、植物の成長と開花を左右することは偶然的にしかできはしないだろう」云々(『経験としての芸術』)。――つまり、偶然という名の気まぐれものの訪問に期待をかけるのではなくて、彼が言うような意味の理論的認識において太宰文学への理解(、、)を深めよう、というのが今度の私たちの仕事でした。

 これはそのまま<文学の科学と鑑賞体験>の関係を説明することばになっている。そして氏は最近の例会で、「科学といっても、それがめいめいのカンにまで主体化されていなくては、鑑賞体験の変革をみちびく実践的機能は持ち得ない」と、あらためて大きな問題提起をされたのである。
 第37回全国集会では、「自分の言葉で考え、自分の頭で学びとっていく」真に実践的なカンを養う<私の大学>を実現したい。 (20180126)
 

 
『文学と教育』№146 1988.11     初心忘るべからず   委員長 福田隆義  
 
 文教研の前身「サークル・文学と教育の会」を結成したのは、一九五八年一〇月一六日である。創立をこの時点に求めるなら、文教研はこの一〇月で、ちょうど三十年の歴史を刻んだことになる。
 感慨にふけるわけではないが、創立当時、まだ小学生にもなっていなかった会員が、今や文教研の中堅層を形成しつつある。会員の年齢層の厚さにも、三十年の歴史の重みを感じる。ということは、熊谷孝氏を中心に積み重ねている文教研理論を、後の世代に受け継ぎ、発展させていく会員構成になってきたといえよう。少人数で出発した創立当時を思うとき、今昔の感がある。「明日の民族文学創造の基盤を確かのものにしよう」という、いわば創立宣言を、着実に、確実に実践してきた三十年だった。
 ところで、第37回全国集会(一九八八年八月五~八日・東京八王子)は、三十年という節目にふさわしい集会だったように思う。テーマは「鑑賞体験の変革と文学の科学――文学教育方法論の直接的な最重要課題」だった。文学作品の鑑賞は、一回限りで完結するものではない。読み返すたびに新しさを感じ、自己凝視を迫る。鑑賞は、鑑賞体験として変化・変容し、変革されていく。自分の鑑賞体験に変革をもたらしたものは何か、それを出し合い、考え合うことで、鑑賞の科学・文学の科学を明らかにしようというテーマ設定である。
 その文学の科学を、熊谷氏は講演「鑑賞体験の変革と文学の科学」のなかで、つぎの三側面を一つものとして追求することにあると提起された。①文芸理論 ②文学史 ③文学教育の三側面である。そういう文学の科学を、めいめいが追跡しつづけるとき、鑑賞体験を変革しつづけていく、まっとうな読者になりうる。また、文学教育も、右のような研究活動と一体の関係にある。研究なしに鑑賞体験は深まらないし、実践の名に値する文学教育も実現しない。いうなら、第37回全国集会は、そういう文学の科学への挑戦だったといえよう。それはまた、三十年このかた積み重ねてきた研究成果を、文学の科学という視点で収斂しようということでもある。が、それは単なる過去の研究成果の寄せ集めではない。文学の科学という新たな視点からの挑戦である。そういう意味では、三十一年め以降へ向けての出発点となる集会でもあった。
 文教研の新年度は、九月総会で始まる。今年は九月一〇日、首都圏会員全員といっていい出席率で開催された。盛会だった総会に今年度が占えたような気がした。
 いうまでもなく、総会の主要議題は、研究企画の検討にある。第37回全国集会の総括をふまえた企画案が提示され、承認された。文学の科学の三側面、①鑑賞と創造の基礎理論 ②文学史の方法原理 ③日本の教育と文学教育を、一つものとして追求することである。が、そのまえに、三十一年めを踏み出すにあたって「文教研の出発の時点にあって獲得された、理論的萌芽がどう培われ、或いは萌芽のままどのようなかたちで枯渇してしまったか」(常任委員会案)を、ふり返ってみることになった。具体的には、熊谷孝著『芸術とことば――文学研究と文学教育のための基礎理論』(一九六三年・牧書店刊)をテキストにした学習である。
 文教研の歴史は、創立宣言を、着実に、確実に実践してきた三十年だったと書いた。しかし、日本の社会と教育の状況は、われわれの努力を凌ぐ厳しいものになっている。新しい課題「文学の科学」に挑戦するわれわれに、一層の決意が求められている。民族文学の確かな受け継ぎと創造という初心を貫くためにである。 (20180206)
 

 
『文学と教育』№147 1989.3      歴史に「こだわり」続ける   常任委員 高田正夫   
 
 酒井寛氏著『花森安治の仕事』(朝日新聞社刊)という本を読んだ。著者は朝日の記者であり、花森から「ジャーナリストとしての突っぱり精神」と「なんでもおもしろがる精神」と「人へのサービス精神」を学んだという。この本全体にもそうした精神が花森への敬意と共に横溢しており、読後の印象さわやかだった。
 『暮しの手帖』が「戦争中の暮しの記録」を企画したきっかけのひとつは、花森が若い編集委員と話していて、「疎開」という言葉が通じなかったことにあるという。そんな所に行かなければいいじゃないか、という疑問が若者からでた。花森は戦争体験が伝わっていないもどかしさを痛感し、この特集号に「持っている力のすべて」を注ぎこんだ。七〇年安保の二年前のことである。その時、花森みずから書いた巻頭の詩が『戦場』であった。文教研が何度も積極的にとりあげてきた詩である。
 「だまされた」体験にこだわり続け、自分を含めて、今後は絶対にだまされない人々をふやしていく、と花森は語った。戦中、軍曹に、おまえら兵隊は「一戔五厘」のはがき代でいくらでも集められる、軍馬はそうはいかない、と言われたことが忘れられなかった。七〇年安保の年、花森は暮しの手帖研究室の屋根に、「一戔五厘」の乞食旗を立てる。
 単行本となった『一戔五厘の旗』が読売文学賞を受けた時、大好きな作家、井伏鱒二といっしょだったことが、花森を喜ばせたという。
 昨年の暮れ、戦後文学の反骨の士、大岡昇平が亡くなった。深い哀悼の意を表したい。『俘虜記』、『野火』、『ミンドロ島ふたたび』、『レイテ戦記』、どれもみな、歴史への「こだわり」が、その明晰な文章に脈打っていた。もはや戦後ではない、あるいは戦後文学は幻影であった、という論にいつもまっこうから反対していた。氏自身は少しも変わらないのに、いつのまにか周りが「右」になって、人から「左」に見られるようになったと、晩年は自嘲ぎみに語っていた。
 大岡文学の魅力のひとつは、徹底して「死者との対話」を行なったことにある。

 ≪死者はその怨念に凝り固まったまま死に、祖国から幾千里離れた異郷に骨を曝しているのである。……日本列島は米軍基地で蔽われ、かつての聯合艦隊基地はアメリカの原子力空母、原子力潜水艦に使われている。……祖国をその状態から解放するのはわれわれ生き残った者の役目でなければならない。しかし私は一体なにをしているか。≫
 (『ミンドロ島ふたたび』)
 ≪死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞える声で、語り続けているのである。≫
 (『レイテ戦記』)

  死者の声に耳を傾け、生者である私たちがいかに彼らと共生しうるのか、たえず真摯に探っていた。氏の文学は現代への警鐘であり、未来への道標でもあった。
 「理論というのは歴史の要約・概括」である。(本誌前号・熊谷孝講演記録)「歴史に前提されない理論」はありえず、「理論に指向されない歴史」は、その名に値しない。
 全くタイプの違う花森、大岡に共軛しているのは常に自己を凝視して、みずからの理論を構築していた点にあろう。歴史にこだわり続けた二人から学ぶものは大きい。すぐれた遺産を活かすも殺すも、私たち次第である。  (20180216)
 

 
『文学と教育』№148-149 1989.7    岐路に立つ日本の教育   委員長  福田隆義   
 
 記憶の薄らいだ方もあるだろう。まったく知らなかった方も多いと思うので、少々長文になるが引用しよう。一九四七年(昭和二十二年)に、文部省が出した『学習指導要領一般編(試案)』の「序論」からである。

  「いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる。 <略> これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きのあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなの力で、いろいろと、作りあげて行くようになって来たということである。」
 「これまでの教育では、その内容を中央できめると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしてもいわゆる画一的になって、教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。 <略> 教育の現場で指導にあたる教師の立場を、機械的なものにしてしまって、自分の創意や工夫の力を失わせ、ために教育に生き生きした動きを少なくするようなことになり、時には教師の考えを、あてがわれたことを型どおりにおしえておけばよい、といった気持におとしいれ、ほんとうに生きた指導をしようとする心持を失わせるようなこともあった。」
 
 同じ年に施行された「憲法」や「教育基本法」に比べて、必ずしも格調の高い文章とはいえないように思う。が、「序論」にはその精神が息づいている。教育関係者の多くが、こうした考え方をどこまで自覚して学習指導にあたったかはともかく、方向ははっきり示されている。「憲法」の理念や「教育基本法」を「学習指導要領」にまで具体化しようという謙虚な姿勢が感じられる。
 それから四十二年。『学習指導要領』は五回の改訂があった。独占資本主導の「教育改革」という名の改悪を重ね、今回の改訂でどういうものになったかは、すでにご承知のとおりである。居丈高に「上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおり実行する」ことを強制し、「教師の立場を機械的なもの」にしてしまおうとしている。まさに、教師が教師でなくなることの強要であり、教育の破壊である。そうした改悪と教育の荒廃といわれる現象とは関数関係にある。教師の自由を奪い、子どもや若者の人間性を剥奪しつくした結果が、たとえば、東京足立区で起きた〝女子高生監禁殺人事件〟ではないのか。これはたんに特定イデオロギーの注入や「道徳」教育で始末のつく問題ではない。そういうすり替えが彼らの常套手段である。「君が代」の「公定解釈――象徴天皇もつ日本の繁栄願う歌」(朝日新聞・六月十日)の強制にいたっては寒気を催す。「憲法」や「教育基本法」を無視した改悪である、というより改憲を予定した体制側の布石といえよう。まさに日本の教育は岐路に立っている。教師は巌頭に立たされている。
 文教研は、研究と実践の統一をめざした集団である。文学教育の実践とともに、まっとうな教育実践を疎外する、こうした権力の反民主主義的な策動とも闘ってきた。あるときは文教研独自で抗議の署名運動を起こした。またあるときは論理的な批判を加え警鐘を鳴らした。しかし、権力の壁は厚い。今この時点で、その厚い壁に挑む会員めいめいの意識のありようを問い直し、今後に備えたい。地域や職場での実践活動は、めいめいが孤軍奮闘しなければならない場面もあるだろう。場合によっては共闘・連帯の輪を拡げたほうが有効なこともあるだろう。文教研という集団は、そうした闘う主体の形成、エネルギー再生産の場である。古今のすぐれた文学――教養的中流下層階級者の視点にたつ文学作品との対話も、そのための営みであるはずだ。  (20180226)


 
『文学と教育』№150 1989.11     一五〇号に寄せて――広範な仲間との交流を   委員長  福田隆義   
 
 機関誌「文学と教育」の創刊は、一九五八年一〇月。この一〇月で満三一年、通算一五〇号になる。三〇と一年間「文学と教育」は、会員の情熱と執念に支えられて、一五〇号におよんだ。
 その一例を紹介しよう。まだタイプ印刷だった六〇号に<機関誌の活字印刷をめざして>というアピールがある。月額三百円の活字化基金を拠出しようと呼びかけている。六一号には<二五、七〇〇円集まる>を見出しに「機関誌〝文学と教育〟活字化基金は、その後、順調に集まっています。東京・神奈川・埼玉在住の会員は、自分のおさいふとにらみあわせて、基金を寄せています。ある会員は、すでに来年六月分まで、三千円をポンと出して係を感激させました。」云々。三千円がどれだけの貨幣価値だったか、ちなみに一九六九年当時の文教研会員の会費は、月額一二〇円だった。創刊号からそうだが「文学と教育」は自前の機関誌であり、手づくりの機関誌である。「文学と教育」の活字化は、こうした会員の情熱に支えられ、一九七〇年、六五号で実現した。
 だが、私たちの念願は、活字化にとどまらなかった。それは出版ルートにのせることだった。というのは、体制側の反動攻勢につれて、私たちの主張はジャーナリズムから締め出されてしまったからである。それにはそれなりの理由があったようだ。たとえば、三三年版(一九五八年)「学習指導要領」の批判である。私たちの批判は、たんにイデオロギー主義的な批判ではなかった。部分修正を迫る批評でもなかった。その根底にある、言語観・文学観、ひいては認識論にまでさかのぼった論理的な批判を展開した。そうした批判をふまえて提起したのが、熊谷孝氏の「国語教育としての文学教育」(「文学と教育」No.5)である。当時から体制側は、文学教育という発想を敬遠し、排除しようとしていた。熊谷氏の、コトバの機能的本質からみたとき、文学教育を欠いて、教育・国語教育は成り立たないという主張は衝撃だったに違いない。こうした根底からの批判や主張に対して、体制追従者はジャーナリズムから締め出し封殺する以外に対応できなかったのだろう。民間教育研究団体からさえ、曲解・誤解される期間がつづいた。その後の文教研理論の展開は、すでにご存知のとおりである。「国語教育としての文学教育」から「文体づくりの文学教育」へ。さらに「文学の科学――文学の科学としての文学教育論」へと深化している。こうした研究成果をめぐって、より広範な仲間と交流し合いたいと願う、その執念が一五〇号を支えてきたといえよう。
 その念願が実現したのは、現発行元<みずち書房>と契約が成立した、一九八三年、一二三号からだった。しかし、手づくりの機関誌、自前の機関誌であることに今も変わりはない。この間、文教研は<日本学術会議>の登録団体になり、「文学と教育」は<国際標準逐次刊行物>として指定されるなど学術的な地歩も確かなものになってきた。が、しかし、より広範な仲間と交流したいという所期の目的は、いまだ充分とはいえない。今後に残された緊急な課題である。
 最後に「文学と教育」は、前述のように手づくりの機関誌であり、専任の編集者がいるわけではない。編集長をはじめ編集部の方々の多大な努力によって継続してきた。ここで歴代の編集長を紹介して、お礼にかえたい。編集部として組織的に確立したのは一九六八年、機関誌でいうなら五〇号からである。その初代編集長は夏目武子氏。二代目は鈴木益弘氏。そして元編集長、佐藤嗣男氏は、三代目である。 (20180306)


 
『文学と教育』№151 1990.3     混沌――仲間づくり――   常任委員 金井公江   
 
 暮れに私たちは小さなジャズ・コンサートを成功させた。私たちと言うのは高一を中心に中三数名を加えた十四名のプレヤーと指導兼指揮者一名、それにプレヤーの父母など合わせて三十名足らずの仲間たちである。誰れが主役で誰れが応援団というのではなく、それぞれの立場でこのバンドを大切にしていきたいと思っている仲間たちである。指揮者 I 氏は仲間をつくることが苦手と言われる「現代の若者」に呼びかけ――しかも別々の学校で受験を跨ぎながらの活動になるというむずかしさを承知で――ジャズが好きな子供たちの仲間づくりに夢をかけている。父母たちも子供たちと一緒に何かを作っていくことに楽しさを見出した。バンド結成からコンサートまでの三ヶ月、練習時間や練習場所の確保、コンサート会場探し、さまざまな雑事を分担する中で、子供たちの何人かは顕著に変った。大人に一線を引いていた子が心を開き表情が明るくなった。中学校からのつながりで親はこの仲間づくりに積極的なのに、子供はバイトとロックでジャズ・バンドの方には熱が入らず、勉強もしない。このために二週間お互い口をきかなかった親子が、コンサートへ向けての練習・準備の中で変っていった。その子は今ではプレヤーの中心的メンバーの一人になっている。変っていったのは子供ばかりではない。非協力的だった親の何人かも少しずつ変ってきた。
 コンサートは百五十席満席で立ち聴きが出た。実は親戚、知人、友人など、どちらかと言うと親の方が声をかけた成果である。が、ミニコミ紙で見たり、知人の知人のジャズ好き、ふらり立寄った方なども居た。演奏は未熟なものであったが、多くの方が楽しかった、さらに大きく成長してほしいなどと励まして下さった。私たちは満足と喜びを感じた。一瞬の心のとけ合いの喜びに支えられて、それを持続的なものにしたいと人は行動するもののようだ。それは恋に似ている。仲間、連帯は仲間づくり、連帯づくりのたゆまぬ行動に支えられなければすぐに崩壊するものである。今は、いろいろな形での小さな仲間づくりが大切なのではないか。
 私にとって文教研の仲間は自分を見つけるためになくてはならない方たちである。例会や合宿での仲間との対話を通し、私は少しずつ変ってきたのだと思う。文教研は河和
[こうわ]町での全青教集会閉会のあいさつにあるような熊谷孝氏の思いの中から生まれた。「どうぞ、心の中のナカマづくりを忘れないでください。そのことで、また外側のナカマづくり、現実のナカマづくりをやってください。そして、この教育の危機を、めいめいの条件に応じて、めいめいに可能なしかたで突き破っていきましょう。」と先生は呼び掛けておられる。それから三十年、文教研の仲間づくりは続いてきた。「心の中のナカマづくり」、自分の中にどのような仲間を温め、対話するのか。言い換えれば自己の発想をどう組み換えながら鍛えていくのかということになろう。
 当面、私にとっての仲間づくりの対象は二つある。一つは教室の生徒たちと、どのようによい仲間関係を作っていくかということである。そのためには「文体づくりの国語教育」という視点に立ち返って、どう自主編成をしなければいけないのか。文教研で検討された作品を時々持ち込み、あとは教科書の作品を、自分の視点で取捨選択して扱うのだから、まあいいか、とお茶を濁していたナマケ者は頭をかかえてしまう。
 もう一つは、「新連合」とどうかかわっていくかということを含んでの同僚との連帯の問題である。誰れと、どう、どのような連帯づくりをしていけばよいのか。なかなか先が見えてこない。これ又頭を抱えてしまう。
 兎に角、それぞれが、それぞれの条件に応じて、さまざまな仲間づくりを模索することで現状を切り開くしかないのだろう。「リアリズム志向のロマンティシズム」という言葉が特大大書、目の前に浮ぶ。 (20180316)
 

 
『文学と教育』№152 1990.6    文体喪失の時代にあって   副委員長 夏目武子    
 
 『多甚古村』の〝寒帯〟さんは、〝温帯〟さんの部屋で時局の話をする。「イタリヤとドイツは、欧州の平和を維持させますか」云々と。「その日その日の新聞にある通りのことをお互いに言うだけである。私たちには定見があるわけでなし、新聞に書いていない話になると双方とも意見はない。そのうちに煎餅がなくなって帰ってくる」。一九三〇年代終わりの、遠い昔のある村の一こまとしてではなく、今日の私の姿と重なって、この場面が想起される。
 本日のニュースも東西ドイツの統一問題をとりあげていた。東欧問題は毎日、なんらかの形で話題になる。それに呼応するかのように、国内情勢の分析の仕方が変化してきている。『多甚古村』の時代に比べ、情報量ははるかに多くなっている。が、「木をみて森をみない」自分を感じている。森がつかみにくいのだ。
 『文体づくりの国語教育』(熊谷孝)のなかで、次のような警告がなされている。もう二十年も前のことである。「いわば文体の喪失というほかないような、低次元における文体の画一化――つまりは第二信号系としての生産的機能を喪失したことばの姿――は、まさに、独占資本による疎外を言いあらわす以外のものではない人間の画一化、規格品化、そしてそのことによる人間性の剥奪、喪失と見合う現象である」と。二十年後の今日、この傾向はますます顕著になっている。
 森がつかみにくいのは、自己の文体といえるような文体、文体的発想で情報の選択とその操作をしていないからであろう。どの時代にあっても、森はつかみにくかったはずだ。相互主観性の相手、内なる仲間との対話を重ねることで、この森を摑んだ作家がいる。教養的中流下層階級者の視点に立つことが出来た作家である。虚構精神によって、情報に流されないで、未来を先取りする形で現在という森をつかみ直している。
 自己の文体すら奪われる時代である。相互主観性の相手として誰を選んでいるのか、内なる仲間として誰をあたためているのか、点検したい。仲間を失いがちな今日、わが世代の世代感覚を持っている仲間を虚構精神によって探し求めたい。そうした内なる仲間とじっくり対話を重ねることで、自己の文体を確かなものにしたい。外界をまっとうに反映できるようなリズム感覚をわがものとしたい。麻痺させられようとしているリズム感覚を民衆本来のリズム感覚に鍛え直したい。
 激動の時代という言葉で今日が語られる。自己の内部とかかわりなく、したがって、なんらの痛みも感じないで、激動の流れに乗っていく。太宰の言葉で言えば「時流便乗」。そうはなりたくないな、と思う。そういう思いで太宰治『葉』を読むからであろうか。かつて青くさく感じた側面が、却って新鮮に映ってくる。怒涛の葉っぱの世代。怒涛の中で個の自覚において人間として生きることを模索し続ける「龍」。それを可能にした『葉』の文体の持つリズム感覚。自分が失いかけていたものに、ふと気付かされた、という気がする。
 この夏、全国の仲間とともに「太宰治『葉』の虚構と文体」というテーマのもとに、「龍」と対話することになっている。もちろん、「政治と文学・文学教育――虚構精神の確立のために」という大きいテーマの実現に向けてであるが。(20180326)

『文学と教育』№153 1990.7     虚構精神の確立のために   委員長 福田 隆義   
 
 いま、日本の学校という空間は、酸欠状態にある。自由という空気の欠乏で、教師も子どももあえいでいる。心ある教師の怒りや悩みが伝わってくる。疎外された子どもたちの悲鳴が聞こえてくる。
 最も自由であるべき教育の場を息苦しくしてしまった元凶は、いうまでもなく独占資本と癒着した自民党政府の文教政策にある。教師は管理体制の下におき、教科書は二重のチェックで統制する。二重、三重の枠で教師の研究の自由、教育実践の自由を制約する。そうした制約の中で、子どもたちや若者たちがまた管理・統制され、さらには選別される。そこで不自由を不自由と感じないように飼いならされていく。人間疎外を疎外と感じない人間になって社会に出る。そんな恐ろしいことが「教育」という名で進行しているといっても過言ではない。自由のないところに、教育は成立しない。
 新「学習指導要領」の白紙撤回運動が提起され、方々の自治体で撤回決議がつづいている。当然だと思う。だが、こうした状況は、今回の改訂で始まったわけではない。私たちはすでに三二年前、いわゆる三三年版「学習指導要領」改訂の方向を「ファシズム教育のニュー・ルック政策」と規定し、警鐘を鳴らした。<君が代>を音楽科で必修にする一方、「国民的自覚」という名の「道徳」教育の強調。国語教育・文学教育の側面からいうなら、戦前・戦中の形象理論復活のきざしなどなど、その反動性を見抜いてのことだった。しかも、それまでは「学習指導要領<試案>」だったものを、かってに<試案>の文字を削除し、拘束性をもつと当局者はいい張った。実施にあたっては、あの悪名たかい勤務評定を強行。教職員を分断し「学習指導要領」の定着・徹底をはかった。この時点から教育界に重苦しい空気がただよい始めた。
 その後も、自民党の一党支配がつづく。彼らは、私たちが「ファシズム教育のニュー・ルック」と規定し警鐘を鳴らした文教政策を巧妙に推進してきた。ある時期はマスコミを動員した世論操作で徐々に浸透をはかった。またある時点では、弾圧という手段で反対意見や運動を封殺し、教育を国家権力の支配下に組み込んでしまった。
 この間、私たちは事の成り行きを座視していたわけではない。抗議声明も出した。出来るかぎりの抗議行動もおこなった。私たちの分担課題、国語教育・文学教育の面からいえば、「学習指導要領」の言語観・文学観を徹底的に批判する一方、原理・原則的な研究を重ね、それを教科の論理にまで深めた。その成果を「国語教育としての文学教育」さらには「文体づくりの国語教育」として提唱。日教組教研にも積極的に参加し共闘・連帯の呼びかけもした。が、最も敏感であるはずの民間教育研究団体の間にさえ、統一して闘えない不幸な状況があり、今日の事態を許してしまった。だが、いかに権力をもってしても精神の自由は奪えない。心ある教師の怒りがあるかぎり、現教育体制に疑問をもつ人たちがいるかぎり、現状打破の可能性はある。その可能性に賭けるほかはない。
 ところで、私たちの当面の課題は、「文学の科学――文学の科学としての文学教育論」の確立にある。今次集会の統一テーマ「政治と文学・文学教育――虚構精神の確立のために」もその一環として位置づく。たとえば前記、現教育体制下で苦しむ教師たちについてである。そのうめきの中で明日への展望を模索する虚構精神なしには、問題解決の糸口をさえつかめない。これはしかし教育問題に限ったことではない。何より昨今の国際的・国内的政治情勢の激動・混迷は、私たちめいめいに明日へ向けての行動選択を問いかけている。そうした広い視野と展望の中で、日本の教育についても考え直したい。(20180406)
 

 
『文学と教育』№154 1990.11    全国集会を終えて    常任委員  金井 公江    
 
 八月の全国集会は、「政治と文学・文学教育――虚構精神の確立のために――」を統一テーマとして開かれた。集会が終わった今、私たちは新しい足場、出発点に立つことができているだろうか。また、先のテーマに向って「あいさつ」、「基調報告」、「講演」、「シンポジュウム」、「ゼミナール」が、それぞれ統一的になされていたか。プログラムのダイナミックな構成が生かされる形で集会は進んだのだろうか。
 年間研究プログラム作成は全国集会が終わると直ぐに取り組まれる。短期間でこれを作り上げるのは身を削る緊張をしいられるであろう。文教研集団研究体制と言ってもプラン作りを全員ですることは不可能である。牽引的役割を担って下さる方々に頼らざるを得ない。大きな枠組で示されるそのプランを会員一人一人が主体的に受け止め、検討を重ね、年間研究プランはできあがる。全国集会プランも同様である。
 それを一体の彫像を彫り上げていく行程に喩えるなら、まず彫り上げたい像のイメージを固めることから始まる。それは彫り上げることを求められている像と言っていいかもしれない。分担課題ということを頭に置いた上での我々の時代の問題をさぐる作業と言い換えられようか。あるイメージが摑まれてきた時点で、全員で検討し合う。そして彫りにかかる。腕の良い人も、悪い人も居る。さまざまな力量の会員が力を合わせ、補い合いながら、検討したイメージの像に近づける努力をしつつ彫り進む。初期の段階でかなり鮮明なイメージを摑んで仕事に取り掛かっている人、彫っていくことでイメージがはっきりしてくる人、かなり像が出来上ってからやっと全体像が摑める人、いろいろだ。出来上った像が初めのイメージに近づいたものになる場合や、それを越えたものになっている場合は成功である。不幸にしてイメージを下まわる像が彫り上ってしまう場合だってある。今次集会はどうだったのだろう。
 この過程で重要なことは、仲間の先達に学ぶということだ。仲間のすぐれたものを自己の内に組み入れ、自分を絶えず変革しつづけながら作業に加わることだ。「芸は盗むもの」という言葉がある。上手に盗みたい。作業の中で自分が変わり、集団全体ですることの難しさを感ずる。が同時にそのことによるすばらしさと楽しさがあるはずである。
 今年の全国集会プログラムの前文は「今日は思想の混迷の時代である
……」と書き出されている。「思想の混迷の時代」ということは、当然のことながら時代そのものが混迷しているということではない。前文の言葉を借りれば、「各人の行動選択の基準となるプシコ・イデオロギーの動揺という意味での思想の混迷の時代である。」ということである。昨年末の東欧の変化、今また揺れ動いている中東、それに対する日本政府の姿勢、これらが我々の日常の言動に揺さぶりを掛けてきている。特定の分析、特定の視点に立ったマス・コミ報道は多量に流しつづけられている。その中に首までつかっていたのでは事態は見えてこない。それらを一度突き放し、虚構の眼で、可能な現実を探らないかぎり未来は見えてこないのだと思う。日常の中で、虚構を武器として未来を拓いていくための眼を培うのは、すぐれて、虚構精神の横溢した文学による。虚構精神――可能性、可変性を探る精神のあり様――、それの客観化されたものが文体である。文体なくして虚構は客観化され得ない。すぐれた文体を獲得したい。そのことに向けて、仲間に学びながら研究姿勢を正していきたいと思っている。(20180416)
 

 
『文学と教育』№155 1991.5    戦争の現実と文学教育    香川 智之  
 
 二月二十八日の段階で、湾岸戦争は事実上終わった。イラクがクウェートから撤退したことで一応の終結を見た。
 昨年の秋、国連安保理が、イラクを追いつめるために次々と決議を採択し、やがて「あらゆる手段」を容認するに至ったわけだが、その頃から、マスメディアを通して、また私たちの周囲でも、さまざまな議論があった。
 事態の進行の中で武力の行使はやむをえない、とする意見をずいぶんと聞かされたように思う。彼等は言う。「もっと現実的に考えろ」と。これは、「このままでは世界から孤立する」と言って、「世界の憲兵」としてのアメリカに調子を合わせた、妙な「国際主義」を唱える日本政府にとって好都合な発想である。彼らの言う「現実的」とは、現状肯定以外のものではないだろう。そして、戦争の現実を遠くから観戦する傍観者の発言である。しかし、戦争へ向かって事態が動き続けていた中で、ひとりの人間の無力さを思ってしまう。彼らのメンタリティーの中には、そんな思いもあったかもしれない。
 また一方では、「戦争反対」をくり返し叫ぶ仲間もいた。それは、否応なく戦争に協力させられている現実に対して、怒りを込めた強い声であった。あの声高な叫びは、どれだけの人々の心を揺さぶったろうか。反戦の意思を表明することは大切なことである。しかし、その決まりきった文句をくり返して叫んだ人々の中にも、ただ叫ぶだけで日常の行動と必ずしも結びつかない場合があったことも否めない。本当の思索とは、観念の問題ではなく、プシコ・イデオロギーの問題であることを忘れてはなるまい。
 教室で接する生徒たちもさまざまである。そんなことは関係ないという態度の者もいる。ゲーム感覚がどこかにありながらも戦況が気になってしかたがない者もいる。(不思議なことに、開戦後しばらくたつと飽きてしまったようだ。)戦争を認めるにせよ、反対するにせよ、身近な大人たちの意見をそのままもっともらしく語る者もいる。 太宰治の『心の王者』を想い起こす。やはり「学性は思索の散歩者」であってほしい。世渡り上手の〝大人〟になるのではなく、抽象的な思想への情熱を持ち続けてほしい。しかし、なかなかそれができない。「誰かに、そう仕向けられている」のである。私たちは、その「誰か」の役割を果たしたくはない。
 ある中学の学校新聞に「湾岸戦争の終結にあたって」という記事があった。「この戦争中ですら、話題にのぼるのはアイドルやゲームといったものが多かったのには疑問を感じた。なぜここまで無関心を装えるのだろうか」と問題を投げかけている。そして、花森安治の詩『戦場』を引用して、「我々の中に隠れていた心境はこれだったのではなかろうか」と結んでいる。
……<戦場>は/いつでも/海の向うにあった/海の向うの/ずっととおい/手のとどかないところに/あった/学校で習った地図を/ひろげてみても/心のなかの<戦場>は/いつでも/それよりもっととおくの/海の向うにあった……確かに『戦場』のこの第一連が、また違った響きをもって私たちにも迫ってくる。
 少なくとも、この湾岸戦争をショッキングな体験として受けとめている新しい世代が形成されようとしている。私たちはそこに目を向けたい。そして、彼らのすぐれたプシコ・イデオロギーの形成に少しでも役立ちたいと思う。それが私たち〝文学教師〟にとっての実践なのだ。文学の人間回復の機能に賭けて、である。
 核状況下の現代、戦争の現実は決して終わってはいない。(20180426)

 
『文学と教育』№156 1991.7     第40回全国集会を迎えて   委員長 福田 隆義 
 
 文教研〝私の大学〟に、三十数年も在籍し卒業しないのはなぜか。素朴な問いを自分に課してみる。いうまでもなく、単なる「趣味」や、いわゆる「教養」を身につけるなどという、お上品なものではない。また、直接教育実践に結びつく実利を求めての在籍でもなかった。全国集会参加者
(四日間会員)のどなたかが「この集会では、自分の生き方が問われる」と発言されたことがある。作品をみんなと一緒に読む、読み直すことで、生き方を問い直す。私が文教研を卒業しない理由もここにある。この発言は、連続参加の四日間会員もふくめ、おおかたの会員の思いを代弁しているのではなかろうか。いつの時代にあっても、のうのうと生きられる時代はなかった。現在のような混迷の時代にあっては、なおさらである。自分を見失わないために、私は文教研に通いつづける。
 ところで、今次集会の統一テーマは「現代史としての文学史」である。この概念を提起したのは、熊谷孝著『現代文学にみる日本人の自画像』
(一九七一年・三省堂刊)であった。そこには「過去の文学に対する知識そのものが関心事なのではなくて、現代の実人生を私たちがポジティヴに生きつらぬいて行く上の、日常的で実践的な生活的必要からの既往現在の文学作品との対決ということである」と、その概念内包を規定している。前記、四日間会員の発言は、こうした「現代史としての文学史」という、文教研の基本姿勢を反映した嬉しい発言だった。というのは、ここ二十年来「文学史を教師の手に」を合言葉に私たちが追求しつづけたことは、総て「現代史としての文学史」に収斂される内容だったからである。
 私たちが「文学史を教師の手に」を合言葉にしたのは、一九七一年。以降、さまざまな角度からアプローチしてきた。たとえば「異端の文学系譜を探る中で」をサブテーマに、現代と現代を生きる自分を問いつづけた。またたとえば、昨年の全国集会の統一テーマは「政治と文学・文学教育――虚構精神の確立のために」だった。思想の混迷、激動する政治状況。明日が見えにくい中で、私たちめいめいに日常実践の問題として、行動選択が迫られる。そこでは虚構の目で内なる政治を問い直し、展望を模索するしかない。そうした思索を支える虚構精神を豊かでみずみずしいものに培うことが、文学・文学教育の分担任務だろう。そうした視点から、虚構精神に満ちた作品『丹下氏邸』
(井伏鱒二)や『葉』(太宰治)を読みあった。
 さらに今年度は、世代概念――階級概念としての世代概念を軸に、私たちの志向する文学史を、より精緻なものにしてきた。文学史を外側から規制するのではなく、作品の内側から、あるいはプシコ・イデオロギーの問題として構想しようというのである。集会では世代概念をめいめいのものにすることで、作品鑑賞にどういう変化・深化があったかが問われよう。そういう目的から、取りあげる作品はかつて話題にしたことのある作品になった。連続参加者には、かえって親しみがもてるのではなかろうか。なお、今年度新しく対象とした作家に、近松がある。近松のリアリズムを、古学派
(穂積以貫)の系譜の中で明らかにしたことは、特筆していい成果だったと思うが、三泊四日の日程には組み込むことができなかった。残念だが、次の機会を待つほかはない。
 右に述べたように、第40回全国集会の統一テーマ「現代史としての文学史」には、文教研の研究姿勢と研究成果の総決算という思いが託されている。「現代の実人生を私たちがポジティヴに生きつらぬいて行く上」で、文学は欠くことができない。その文学の機能と役割を、めいめいの主体に即し、真剣に考え合う集会になることを、心から期待する。(20180506)
 
『文学と教育』№157 1991.11    古典の発展的継承を   委員長 福田 隆義 
 
 ――外はみぞれ、何を笑ふやレニン像
 いうまでもなく、太宰治の作品『葉』(一九三四年「鷭」に発表)の中の一節である。テレビを観ていて、ふっとこの言葉が蘇ってきた。十数年前、ここでいう「レニン像」は広場に立っている銅像か、それとも、本の扉の写真かが話題になったことがある。その時の戸惑いも同時に思い出した。
 テレビ、これもまたいうまでもないことだと思う。東欧につづくソビエトの政変、それを伝えるニュースや、その解説である。ソビエトでは、レーニンの銅像が引き倒されたとか、競売に付されそうだという。今やレーニンの思想や業績までも「みぞれ」の中にあるようだ。が、ソビエトでのことは、正当に評価し直される日の近いことを期待するほかはない。ところが、そうした動向を日本のマスコミも、おなじみの顔ぶれを動員し、もっともらしく解説してみせる。「スターリン主義の根源はレーニンにあった」などと、歴史の流れを逆にたどったこじつけをする。この発想は、あるべき論評の姿ではあるまい。また、学問の方法に即したものでもないだろう。言葉が過ぎるかもしれないが、あら探しだ。私にはそうとしか思えない。聞いていて空しさが残る。まさかレーニンを取るに足らない人物と思っているわけではあるまいにと、腹だたしくもなる。そうした後向き予言は、レーニンの思想や、その業績の発展的継承とは無縁である。現状打開の方途が見出せないばかりか、有害でさえある。現にソビエトでは、混迷の度を一層ふかめているではないか。
 話をもとに戻そう。なぜ『葉』の一節が、ふっと蘇ってきたのだろうか。それは単に、「レニン像」という言葉が重なったというだけではない。『葉』という作品を徹底的に読みあっていたことと関係する。ところで『葉』が発表されたのは、一九三四年。日本の軍国主義者は、満州事変から日中戦争へと突きすすんでいた。いわゆる暗い谷間の時代である。思想弾圧も極に達した時期。小林多喜二が虐殺されたのも、この年だった。そういう状況下で、ひそかに著作を通してレーニンと対話していた人間がいる。その思想に感動し扉のレーニン像と対面。さらに感慨をふかめている姿がイメージになる。レーニンの発展的継承、それは徹底した対話、徹底した自己凝視なしにはありえない。そのうえ太宰は、同世代の内なる仲間との対話も重ねている。「何を笑ふやレニン像」ここには太宰世代の苦悩がにじんでいないだろうか。行動を起そうにも動きがとれない。発言しようにもその場さえない人間の倦怠の思いが、レーニンの偉大さとともに伝わってくる。
 文教研の直接の分担課題は、文学と教育にある。右にみた太宰のような対話の方法に学びながら、既往現在の文学作品から選んで、その発展的受け継ぎを問いつづけてきた。とはいうものの、当の太宰文学自体が、正当な評価を受けていない。私たちは「太宰文学奪還」を合言葉に、長い期間にわたって太宰文学と取りくんだといういきさつがある。その対話精神をつかみとるためだった。
 ところで、文教研の新年度は九月総会で始まる。今年度、第一期の研究テーマは「文学事象としての大逆事件――『謀反論』前後の徳冨蘆花の作品を中心に」。いうまでもなく<現代史としての文学史>という視点からである。『謀反論』それに『思出の記』や『灰燼』は、以前にも取りあげた。が、さらに『黒い眼と茶色の目』を加え、新しい切り口から印象を追跡し直そうというのである。そうした積み重ねなしには、まっとうな受け継ぎはできない。限りのない道のりといえよう。(20180516)

 
『文学と教育』№158 1992.3     芥川生誕百年にあたって   佐藤 嗣男          
   (「巻頭言」の記載なし 独立論文扱い)
 一九九二年三月一日、――芥川龍之介が生まれてから、ちょうど、百年目ということになる。
 一八九二(明治25)年、辰年の辰月辰日辰刻に生を受けた龍之介は、大逆事件(幸徳事件)後の<冬の時代>から三・一五事件前夜に到る大正デモクラシー下の時代に、文学に自己の分担課題を見出し、精神の自由を賭して闘いを続けながら、一九二七(昭和2)年、その三六歳の短い生涯を閉じていった。帝国主義段階に突入しファシズムへの道をまっしぐらに進む世界史的潮流、その流れに乗った天皇制資本主義下の日本的現実の中で、<娑婆苦>に呻吟する民衆の、自己の世代の姿を真摯に見きわめようとした作家の激烈な生涯であった。
 その短い生涯の中で生み出された数多くの作品は今もなお深い感銘を与え続けている。一九九一年度以降使用されている高校の「国語Ⅰ」の教科書を見ると、11社21種中、実に10社17種が芥川の作品を採用している。芥川の教科書採用が顕著になるのは一九五〇年代に入ってからのことだが、そうした土壌があってか、芥川研究もまた隆盛を極めている。今までに出された芥川関係論文はゆうに四千点を越えるものとも言われ、近年は、年間百点を越す勢だという。今年はまた、芥川生誕百年ということもあって、とりわけ多くの芥川論考が発表されるに違いない。
 関口安義氏の『「羅生門」を読む』(三省堂選書一六五,一九九二・一・二五刊)は、そうした動きの先陣を切って刊行されたものである。関口氏は書いている。「芥川龍之介の小説『羅生門』は、今日この国の青年で知らないものはいない。高等学校必修国語教科書『国語Ⅰ』の共通教材となって久しいからである。高校進学率が九十数パーセントに達している現在、十代半ばの日本人の大多数は教室で『羅生門』に接し、それからさまざまなものを学んでいる。『羅生門』は国民教材ということになろうか」と。ところが、教育現場からは、〝芥川なんかいくら読んだって、読み手に「敗北」しか与えやしない〟とか、〝こういう暗いネクラな作品は、現代の高校生は受けつけない〟とかいった声があがっているのも事実である。
 そうした声に対して関口氏は、「学界でのそれまでの『羅生門』評価がとかく<虚無><老成><世紀末>などの評言を伴いがちで、陰鬱な主題を読もうとしていた反映が高校の国語教室にも及んでいるものと」とらえ、「その学習指導の展開、いわゆる指導過程のまずさが、学習者の曇りない鑑賞の目をスタートの時点でにぶらせ、受け身の鑑賞の態度に追いやっている」点を強調する。「『羅生門』の授業の第一時から作者を持ち出し、その不幸は生い立ちから劇的な死に至るまでを紹介するというのは、懇切な指導に見えながら、実は」「学習者に教材に出合わせる前に、先入観として暗い陰鬱なイメージを与えて」しまっているのだと言う。
 それでは、高校国語教育の現場において『羅生門』の復権と奪還を図るにはどうすればよいのか。氏は、そうした指導過程への訣別と同時に、「<主題>指導からの離陸を目指すこと」を主張する。それは、「受験国語的指導」や「これまでの日本の国語教育界を支配してきた<国語教育解釈学理論>の呪縛からの解放ということ」でなければならない。「『羅生門』指導において、『この小説で作者が言いたかったことはなにか』という問いがあり、『人間のエゴイズムです』と答えさせるのは、受験国語の典型」とも言えるものであり、こうした「解答は一つという読解の強制」を許容するものが、「これまで無批判に受け入れられてきた解釈学的国語教育にあった」からだと指摘する。
 「指導者はひたすら観察者として教材を眺め、そこに埋められていると信じるテーマの掘り起こしに躍起となり、学習者にも同様のことを求める」解釈学的国語教育からの離陸を説く関口氏の提唱は、長年、解釈学主義との闘いのもとに文学教育を構想してきた私たち、文教研の主張とも相通ずるものがある。ともあれ、国語教育の面と文学教育の面とから『羅生門』にアプローチした『「羅生門」を読む』は、従来の文壇的学界的芥川論に一つの新機軸をもたらすものともなろう。
 ところで、氏の『羅生門』指導過程批判のモメントの一つとなっているのは、氏も引用しているように、熊谷孝氏の、戦後の芥川文学研究の主流は「立論の出発点をこの作家の死(自殺による死)に求め、そこから逆照射するかたちで組み立てられたものではないのか」とする発言(「なぜ、今、芥川文学か」/文教研著『芥川文学手帖』)にあるようだ。そうであるならば、当然、「大正デモクラシーに固有な文学体験のアクチュアリティーを、現実にこの作家が芸術的虚構性と形象性において創造主体の内側のものとなしえたのはどの時点においてであったか、という問いが、さし当たって」(熊谷『芸術の論理』)の課題となってこなければならないだろう。そこで、なのである。「今はまだ仮説でしかない。が、いわば≪徳冨蘆花の『謀反論』と若い日の芥川竜之介≫といったテーマの切り取り方で芥川の世代形成過程を考え、芥川文学の地下水とでもいうべきものを、『謀反論』に媒介された大逆事件との関連の中でつかみ直そう、という試みが、いま始まっている」(熊谷「なぜ、いま、芥川文学か」/「赤旗」83.11.26)ということになる。
 芥川が『謀反論』講演を直接聴いていたのかどうか、まだ確証はない。が、私が「毎日電報」(明治44.2.4)の記事にふれて語ったように(「芥川龍之介と大逆事件」/「むさしの文学会会報」第7号、89.9.17)、関口氏もまた、萬朝報」(明治22.2.5)をもとに当時の一高の『謀反論』騒動をあげて、芥川の直接聴講がなかったとしても無関心でいられる筈がなく、「すると演説会場の聴衆の中に若き芥川龍之介の姿を捜そうとする意味は半減する」(『「羅生門」を読む』)と指摘している。直接か間接かの別をあえて問わずとも、<『謀反論』と龍之介>というテーマを抜きに芥川文学を論じることはもはや不可能なのだ。
 例えば、熊谷孝氏は次のように論じている。「現在を過去の曲面に投影し、逆にそのことで現在的現実像の持つひずみを、適確な遠近法と適切な距離感において自意識にもたらす、という」芥川の歴史小説を、「小説の方法としてそこにもたらした意識の根底には、一点、この作家年来の善悪一如の想念が働いていたように思われる。倫理的行為の主体である人間は、歴史を通じて(・・・・・・)常に、善悪一如の存在として生と死を経験してきた。この人間的事実、真実を否定するとき、ひとはニヒリズムに陥るか、救いがたい自己欺瞞と偽善に陥るほかはない、とするその想念である。」「その想念が歴史小説の可能を意識させた。人間の条件を問い、その条件を剥奪する疎外の倫理的意味を問うという限りにおいては、歴史小説は可能であるというより、むしろ、それは文学的必要であり必然である。このようにして、『青年と死』における過去の曲面への自己の課題の投影という実験を経て、今ここに本格的な短編歴史小説『羅生門』が誕生した」のだ(「羅生門」/『芥川文学手帖』)と。
 蘆花の『謀反論』講演は原稿なしでなされ、現存する草稿と比べると相当の省略や変更がしてあったようだ。講演の聴衆の一人であった、蘆花の遠縁にあたる浅原丈平は、今に残っている言葉の一つとして、「此世に於ける是非善悪は時と所とによりて異る。永遠に生きるものは人格である。諸君、人格の培養に努めよ」という結びの言葉をあげている(「『謀反論』聴講の思出一節」)。こうした結語に見られるような蘆花の発想を発展的に受け継いでいったところに、若い日の芥川の<善悪一如の想念>も醸成されてくるのだ。(明大)
  (20180526)

 
『文学と教育』№159 1992.7    熊谷孝先生を偲ぶ    委員長 福田 隆義              
   (「巻頭言」の記載なし)
 一九九二年五月十日午後六時五十六分、熊谷孝先生は永眠されました。あまりにも唐突なお別れでした。五月五日、ことし八月開催の文教研第41回全国集会運営委員会では、数々のご助言をいただきました。また、委員会終了後「今年の集会は、いい会になりそうですね」とも、おっしゃいました。そうした助言や言葉の端ばしに、全国集会に賭けていらっしゃる先生の気迫と、期待の大きさを感じました。先生の健康状態は悪くはなかったはずです。いいえ、八日にも「九日の研究例会を楽しみにしています」とのお話があったくらいです。それが九日の午後入院、二十数時間後には逝ってしまわれました。なんともあっけない信じ難いお別れでした。
 先生は一九五八年、文教研の前身「サークル・文学と教育の会」を創立。以来三十四年間、全精魂を傾注し、文学教育研究者集団を、今日のように育ててくださいました。いうなら、先生は文教研の産みの親であり、育ての親であります。この三十四年間、合宿でも例会でも、いつも先生のお顔がありました。長い年月の間には、体調のよくないこともあったに違いありません。しかし、先生の場合、文教研を休むということはありませんでした。まさに、心身をすり減らしての献身だったと思います。それほど文教研に賭けていらっしゃいました。そうした先生の期待に、私たちがどれだけ応えられたか、省みて恥かしくなります。が、今は、心から、ありがとうございましたと、お礼を申しあげます。
  私たちは先生を、国内はおろか世界でも一級の研究者だと敬愛しております。文教研の会員は、先生の理論に魅了され、先生を慕って集まった者ばかりです。先生は私たち研究者集団の求心力であり、研究の推進力でありました。しかし、偉大な研究者でありながら先生はいつでも私たちの身近にいらっしゃいました。あまり身近で、その偉大さが見えにくいこともあったように思います。つい甘えて、気楽に研究プランをお願いしたり、筋違いの質問をしたりして先生を悩ませたこともありました。また、いつでも、そしていつまでも側にいてくださってご指導いただけるような錯覚がありました。先生も不死身ではないことを忘れて真剣に学ぶ姿勢が欠けていたこともありました。今にして思うのですが、先生は私たちのそうした甘えがもどかしくてたまらなかったのではないでしょうか。先生のお気もちを察するとき、痛恨の思いでいっぱいです。もう先生から、直接のご指導、ご助言はいただけません。あの迫力、あの情感あふれるお話は伺うことができません。そう思うと、たまらない淋しさがこみあげてまいります。
 先生には、まだまだ私たちにいっておきたかったことが、たくさんおありだったようです。ご一緒に食事するようなときに、それを感じました。学界に対するご意見、日本や世界の動向に対する憂慮などなど、私たちが育つのを待って話そうと思っていらっしゃったようです。それを話さずじまいになって、どんなにか心残りだったことでしょう。慙愧にたえません。
 だが、幸いにと申しあげたら不謹慎かもしれませんが、終生を研究者として生き貫かれた先生は、数々の業績を残されております。たくさんの論文や不朽の名著を、私たちに遺産として残してくださいました。直接お話を伺えなくなった今後は、そうした論稿やご著書を媒介に、先生と対話をつづけます。先生を、内なる師表、内なる仲間として暖めつづけます。そして、私たち集団の成員一致して、先生が追求されてきた理想に、一歩でも二歩でも近づく努力をいたします。そうお誓いしてお別れの言葉にかえさせていただきます。どうか先生、私たちを見守ってください。 
(20180606)

 
『文学と教育』№160 1992.12     追 悼    委員長 福田 隆義              
  (「巻頭言」の記載なし)  
 熊谷孝先生、五月十日は私たちにとっても、降ってわいたような日でした。唐突としかいいようのない一日でした。九日午後、先生が入院されたときは、退院の予定日を担当のお医者に伺っておこうと思っていました。それが、わずか二十数時間後に逝ってしまわれようとは。信じ難いお別れでした。
 先生、
診断書には急性多臓器不全などと書いてありました。医学の知識に乏しい私には、その意味することがよくわかりませんが、かなり以前から、お加減がよくなかったのではないでしょうか。先生の病院嫌いを、ここにきて責めてもしかたがないと思いながらも、なお心残りでなりません。が、そう申しあげながら、先生は「今さらなにを……」とおっしゃりそうな気がいたします。
 先生はたしかに、ここ数年「これが最後の全国集会になるかもしれない」とおっしゃりながら、私たちへの助言はもちろんのこと、先生ご自身、講演や談話という形で積極的に主張を展開してくださいました。また、例会では「これは私の遺言だと思ってください」と前置きをして、私たちにいくつもの課題を提示してくださいました。先生はそれを「歳のせいであせっているのです」ともおっしゃいました。だが、私たちはそうした先生の言動に、むしろ若々しい情熱をさえ感じておりました。今にして思うのですが、あの頃からすでに自覚症状があったのではないでしょうか。私たちの鈍感さを恥じると同時に、先生の必死の訴えに充分応えられなかったことを、心から お詫びいたします。
 先生、いま私は文教研の三十四年間を思いおこしております。会員が七名だった創立当時のこと、先生の御家族全員が手伝ってくださった第一回全国集会のこと。終電の時刻も忘れて論議した『文学の教授過程』
(一九六五年 明治図書刊)の編集会議。粗末な食事、蚊にさされながらの合宿などなど、思い出はつきません。楽しい時も苦しい時も、みんな先生とご一緒でした。いいえ、いつも先生が中心でしたし、先頭にいらっしゃいました。
 先生は何度か「私が文教研」という呼びかけをされました。「体調が少しわるいから休もうという人が何人かおれば、例会は成りたちません。それが何回かつづけば文教研は消滅します」とおっしゃいました。「会員は、お互いがお互いを支えているのです」ともおっしゃいました。そして、先生は創立の時から、最期のその日まで「私が文教研」という姿勢を貫かれ、私たちを支えてくださいました。文教研の歴史は、先生によってつくられました。先生は、文教研の歴史そのものです。三十四年もの長い間、ほんとうにありがとうございました。
 先生、私たちは先生の突然のご逝去を、心から悼みます.。追慕の情は禁じえません。しかし、追慕に止まることは、先生の本意でないことを承知しております。先生が生涯をかけて創造された理論体系を継承し発展させるのは、文教研をおいて他にはないことも承知しております。それが先生を敬愛していた私たちに課せられた責務だという自覚もございます。たしかに、文教研の真価が問われるのはこれからです。先生を亡くした今「私が文教研」という呼びかけが、実感として迫ってまいります。
 先生、私たち一人ひとりは微力です。しかし、お互いがお互いを支え合いながら、先生が追求しつづけられた理想に、一歩でも二歩でも近づく努力をいたします。そうお誓いして、お別れの言葉にかえさせていただきます。
 
 合 掌
 
 一九九二年五月十二日
 
 葬儀委員長           福      田      隆      義
  (20180616)

 
『文学と教育』№161 1993.4    文教研の再出発にあたって――基本路線の継承と発展を    委員長 福田 隆義        
 
 文学教育研究者集団第41回全国集会、第一部は<熊谷孝を語る>という構成だった。そこで、乾孝先生
(法政大学名誉教授)は「六十余年の交流をとおして――マンダノロギーの学問仲間」と題して、故人を語ってくださった(「漫談論議」に「マンダノロギー」とカナをふたそうだ)。乾先生は、そのお話をつぎのように結ばれた。「僕はね、学問の進歩っていうのは、弟子が教師を誤解することに始まる、と思うんです。弟子は教師を誤解する権利を有している。あなた方が、熊谷孝を誤解に誤解をする。文教研――発展させてくださるってこと、心から応援してます」と。
 文教研に結集する仲間は、熊谷孝氏の不肖の弟子を自称する者ばかりだと思う。そうした私たちにとって、乾先生の「あなた方が、……」という呼びかけは、暖かい励ましだった。また、文教研の今後へ向けての示唆であり、期待であろう。たしかに、今までもそうだった。これからも誤解は容易に解消されないだろう。それだけに「弟子は教師を誤解する権利を有している」という言葉は、胸におちたし救われる思いがした。というのは、熊谷氏の文芸認識論は、私たちが自覚している以上の水準にあると思うからだ。
 だが、誤解から対話が始まる。今は亡き熊谷氏を呼びもどし、私たちは対話をつづけたい。その対話が、氏の学問業績を継承し、結果的には「学問の進歩」に結びつく。大げさなようだが、志は高くである。それが、熊谷孝と文教研を知る者の願いであり、私たちへの期待であろう。
 がしかし、熊谷孝と文教研を知る者は、残念ながら、そう多くはなかった。あるいは、熊谷氏の学問業績を故意に避けているのではないかと思ったくらいだ。最近になって、文学の講義に、氏の文芸認識論が位置づけられたり、学術論文にも取りあげられるようになったと聞く。文教研の存在についても同様といえよう。かつては「ちっぽけな団体」と、いわれのない中傷を受けたこともあった。が、すでに私たちには三十数年の歴史と実績がある。文教研は発足にあたって「<明日の民族文学創造>の基盤を確かなものにしよう」という宣言を採択した。知る人ぞ知る熊谷孝と文教研にあまんじてはならない。学界で、あるいは、教育研究や実践の場など、めいめいの持ち場で積極的に文教研の主張を展開していく必要があろう。今後の課題の一つにしたい。
 ところで、文教研一九九二年度は、熊谷理論をめいめいが総括することから始めた。正確には、第一次の総括というべきだろう。文教研会員に曲解はありえない。が、誤解はつきまとうと思うからである。具体的には、文芸認識論を中軸に、西鶴をはじめ、鷗外・芥川・井伏・太宰と作家論、作品論。さらには、児童文学、文学教育の側面からと多岐にわたる。それらを一人一役をたてまえに、報告や司会を全員で分担し、研究例会をすすめてきた。が、当然、第二次、第三次と総括学習はつづくことになろう。そうした上昇循環の過程で、一歩でも二歩でも熊谷理論をふかめることができたらという願いを託した、再出発の年だともいえよう。
 あるいは、熊谷孝先生亡きあとの文教研は? と危惧している地方会員や誌友の方がいらっしゃるのかもしれない。が、どうかご安心を。文教研の研究路線の基本は、右に述べたように変わりはない。そいうしたなかで、第42回全国集会の準備も着々とすすめている。ちなみに、集会の統一テーマは「現代史としての文学史――創造完結者の視点から」に決定。さらに私たちの知恵をしぼった具体的なプログラムは、近日中にお届けできるはこびになっている。ご期待を乞う。 (20180626)
 

 
『文学と教育』№164 1994.3    今だからこそ<教師論>  副委員長 佐伯昭定     
 (162、163号に「巻頭言」の掲載なし)
 
あなたは最近「黒井文人」さんという方とお会いになりましたか。唐突な言い方で失礼しました。山田洋次監督の映画『学校』の先生(西田敏行役)の名前です。「夜間の生徒は母校が懐かしいんです」「知っている先生が誰もいないんじゃかわいそうじゃありませんか」と言って、校長からの異動勧告を拒否する黒井先生。美しい田島先生に掛算九九を教わりながら、いつの間にか競馬の話になってしまう五十過ぎのイノさん。奈良行きの楽しい修学旅行、「ナラ」はあなたの国の言葉だと教わるオモニ。
 この映画では山田さんの教育論、教師論が語られているのだと思いました。この映画についての対談の中で、「できないヤツにも存在理由がある」と、戦後民主主義の初心として語られています。
 黒井先生は体当たりで生徒を理解しようとしています。励ましています。涙が出ます。しかしなぜか一方で、醒めた眼を私に感じてしまいます。それだけでいいのだろうか、という思いです。映画の中の授業では詩集『山芋』の中の「夕日」が読まれます。少年・大関松三郎の詩です。授業は黒井先生の情熱的な朗読で進められます。しかし、松三郎が二十そこそこの歳で戦場で死んだことを、知っていて授業していたのでしょうか。だとしたら、少し違った授業になったのではないでしょうか。感動的なあの映画にケチを付けるつもりはありません。教師はああでなくてはならない、と思いながら、あれだけで良いのだろうか、という気持が私の中で交錯しているのです。
 五年ほど前の事です。東京の高校の先生がたちが、新聞に意見広告を出しました。それに添えて「出陣学徒壮行会」の写真も載せられました。「教師が教師でなくなった日」、これが広告のタイトルでした。きのうまで教師の前にいた若者が居なくなってしまったのです。あなたの前に今、子どもが居ますか。「子ども」と言える子どもが居ますか。「感情」まで点数化される対象は、もはや「子ども」ではありません。「人間」でもありません。
 国立音大の荒川有史さんが最近『母国語ノート』という本を出しました。その中に、三十代の頃の若い熊谷孝氏、その教室風景が詳しく紹介されています。教室に持ち込まれる教材の多くは、一字一字手書き、ガリ刷りの自主教材。コピー機のなかった時代の話です。「自国語としての日本語のありようについて思索する」「母国語教育のありようと深く関わる」ような授業であったといいます。私はこの熊谷先生と「黒井先生」と較べてしまいました。どこか違うのです。対象が違えば、もちろん方法も違います。そんな事ではないのです。どちらも優れた教師です。でもやはり、どこか違います。
 熊谷孝氏はかつて<教師論>について、次のような意味の事を述べられています。
 落ちこぼれだの、ワルだの、そんなふうに言われている子どもの中に、温かい人間の心根をみつけた時、思わず胸が熱くなる。その感動を子どもたちが自分自身の生き方の軸に据える、それを可能にする教育を実現するのは教師である。
 まさに「黒井先生」です。けれども、そのためには、教師は常に授業者としての自分を点検し続けなくてはならない。授業者としての何を。それは自分が持っている価値観、価値意識。何もむずかしい事を言っているわけではありません。例えば「君が代」をどんな意識で受けとめているか、「新学力観」を自分でどう受けとめているか、そのために今何をしているか、というようなことです。教師としての「人間主体」、その主体の発想のありよう、それを問い詰めることなしには、<教師論>は成り立たない。そういうことではないでしょうか。  
(20180706)

 

 
『文学と教育』№165 1994.6     乾 孝先生を悼む  副委員長 夏目 武子    
 
 一九九五年二月二十七日、心理学者・法政大学名誉教授の乾孝先生が永眠された。
 乾先生から「お互い、もうしばらく、人間を続けましょう」というメッセージが届いたと、研究例会の折、熊谷孝先生が話されていたのは、いつの頃だったか。つい昨日のような気がしている。が、思えば、熊谷先生が亡くなられて、二年が過ぎようとしている。困難な時代に自己の旗を守り通した、偉大な二人の先達を続けて失ったことの悔しさと悲しさを噛みしめている。この二年間、全国集会での講演を引き受けてくださるなど、私たちを励まし続けてくださった乾先生に感謝し、先生のご冥福を心からお祈りしたい。
 熊谷先生が亡くなる前の、ここ十数年、文教研は、会員自身による全国集会の運営をめざし、講演を会員外の方にお願いすることをしていなかった。そうしたことから、乾先生の新しい研究成果は熊谷先生の媒介で知ったり、荒川有史事務局長の絶えざる乾先生関係図書の紹介を通して、活字から摂取させていただいていた。
 文教研第41回全国集会
(一九九二年八月)では、「熊谷孝・人と学問」と題して、お二人の法政大学での学生・助手時代を中心に話してくださった。一つの山は「文芸学への一つの反省」(一九三六年九月 岩波「文学」掲載)。吉田正吉氏と三人で喫茶店に集まり、交互に執筆したとのこと。どうしてそういうことが可能だったのか質問させてもらったら、「徹底的に漫談論議(マンダノロギー)をしていた」からとのこと。場所は例えば、終電が通った後の駅のホームのベンチ。「くまさんは礼儀正しいので、駅員さんに手に持っていたみかんを一つ渡して、改札を通って……」と、お若い頃と変わらない、お元気な、例の語り口で話されると、さもありなん、という気になってしまう。二・二六(一九三六年)前後の、治安維持法が強化され思想統制のさらにきびしくなった時代にあっての、研究者としての自己の立場の表明。太宰治のいう「心の王者」の面目躍如たるものを感じた。
 昨年八月の第42回集会。「第二信号系理論と母国語教育」と題する乾先生の講演を心待ちにしていた矢先、体調をくずされ、緊急入院をされたとの報。が、先生は私たちの集会のことを心配して、「知覚・コトバ」という先生手作りの、本邦初公開のビデオを貸してくださる。ビデオの中の先生の声に耳を傾け、画像に集中して、参加者全員でみせてもらった。さまなざまな実験を通して実証された乾心理学の真髄が、抽象をくぐった具体性といったらいいのだろう、概念主義的にではなく、視覚に訴えながら、展開されている。「少し蒸してきたから、窓を開けたらどうでしょう」と教師が学生に言葉で相談する。「だけれど」蒸し暑く感じているのは教師だけで、自分が上着を脱げば解決することであった。提案は否決されたけれど、現実の事態や、互いに自他のことがわかり、相談する前に比べて、現実認識が深まり、互いに自己変革をしている。論理的に言えば、これが弁証法というものでしょう、とコメントされる。幼児が目の前に母親が不在であっても、「ママ、ウマウマ」と語りかける。目の前に不在の相手と、目の前に不在なもの
(まだ起こっていない事態も含めて)について、相談する。これが人間にだけ可能な、思考するということだ。「猿山には防災訓練はないでしょう」という、意表をつく乾調に思わず笑ってしまう。
 「人間を続けましょう」云々は、こうした人間だけに可能な思索を続ける、という意味であった。お二人ともなくなる寸前まで、思索を続けられていた。学説史を批判的に摂取、否定的に媒介して、社会科学として自己の学問を位置付ける。お二人の研究成果を発展的に受け継ぐことは、仲間と、そして今は亡き先達と相談し合うことで可能となるのだ、とお二人は私たちを励まし続けてくれている。  (20180716)
 

 
『文学と教育』№166 1994.8    対話精神の回復を  委員長 福田 隆義     
 
 終生、忘れられない先輩の助言や忠告は、誰にだっていくつかはあると思います。その多くは、時が経つにつれて真意がわかってくるという性質のもののようです。私も例外ではありません。事にふれ折にふれ甦ってくる助言や忠告が、いくつかあります。たとえば「対話精神」とは、と自分に問うとき、まず思い出すのがつぎのような忠告です。私の発言に対して、さりげなく「かりに、あなたが今知っていること、考えていることの全部を子どもたちにわからせたとしても、たかがしれてますよね」といわれました。反論の余地はまったくありませんでした。その時のショックも一緒に甦ってきます。私の考え方が傲慢だったわけです。そのうえ論理も狂っていると思われたに違いありません。思いあがりもいいかげんにしなさいと𠮟りとばしたかったのを、若さに免じて優しく諭してくださったのだと思います。
 この忠告、その後の私の発想を支える太い柱になりました。その時も、若者の一途さ、私の知識の多寡を問題にしているのではなさそうだ、ということはわかっていました。だが、それではどうすればいいのか、処方箋をお聞きしたい思いでした。しかし、それが無理な注文だとわかったのは、ずっと後になってからのことでした。というより、だんだんわかってきているといったほうが正確です。教育・文学教育の視点からいうなら「たかがしれている」という、わかりきったことの自覚、それが「準体験」概念の重要さの自覚につながってきました。さらにというか、そのためには、私の言語観や文学観の問い直しが欠かせないという自覚にも連動しました。つまり、小手先のテクニックの問題ではなく、私の観念・思想の変革を促した忠告だったわけです。
 当人は自覚していないにしろ「わからせる」という発想自体に傲慢さがあります。自分の考え方が正しいという前提、自分が上位にあるという前提があります。自己凝視の姿勢が欠落しています。たとえ相手が子どもや若者であろうとも、許されるものではありません。文学教育にあっては、なおさらです。この発想からは、新しさの発見も思索の深まりもありえません。「たかがしれている」ということになります。
 これを言語観の問題としていうなら、言葉を上意下達の用具とみなす、言語実体説にならないでしょうか。こうした言語観にたつかぎり、いくら子どもの意見を大事にとか、読者を尊重するとかいっても、それはしょせんポーズにすぎません。相互変革をもたらすような対話の実現は望めません。先の忠告は、教育の場面でいうなら、子どもに学べ、子どもと一緒に考えよ、といい直してもいいかと思います。つまり、対話精神の欠如を指摘してくださったのでしょう。対話精神、それは問題解決へ向けた目的意識的な相談、一緒に考え合う精神のことだといえましょう。連帯志向の精神です。今次集会の目的の一つは、そこで働く言葉の本質的な機能の解明にあります。
 ところで、その対話精神による形象的思索、これこそがまともな文学創造・創造の完結をもたらす必須の要件だと思います。内なる読者との徹底した対話をとおして、直面する課題を探り、解決へ向けて考え合う姿勢です。そうした文体を創造した作家に井伏鱒二があります。作家はすべてお見通しという方法意識による自然主義の文学、またイデオロギー主義にも組せず、対話精神を回復した作家として、私たちは文学史上に位置づけます。今次集会では、井伏文学を対象に、私たちめいめいの対話精神の問い直しをと思います。
 ご存知のように、この集会は「教師自身のための文学研究の集い」です。めいめいの言語観・文学観の問い直しが、明日の実践を切り開く、そう期待してやみません。 
 (20180726)
 

  
 『文学と教育』№168 1995.3   新春雑感――思想の混迷と文学の役割   常任委員 樋口 正規     
 (167号に「巻頭言」の掲載なし)    
 一九九五年が明けた。「戦後五十年」の筋目とあって、過去を振り返る記事が目立つ。「戦後五十周年」「敗戦五十年」「被爆五十年」「女性参政権獲得五十年」など、呼び方も視点も様々だが、歴史の中から現代の課題を探ろうとする真摯な論議から学ぶことは多い。「国連五十年」の今年は、「国連寛容年」でもあるという。
 ともかくもこの五十年間、日本の軍隊が外国の民衆を殺戮することは一度もなかった。その点、日清戦争以後の侵略の五十年と極めて対照的である。それは、日本国憲法と大日本帝国憲法との本質的な違いをはっきりと示している。そして、いずれの半世紀を日本近代史における特殊な時期にするかは、今後の私たちの選択にかかっている。
 文教研第39回全国集会
(一九九〇年八月)のプログラムの前文(「思想の混迷と疎外」)は、私にとって忘れがたい文章のひとつである。その冒頭部分は次の如くであった。

  今日は思想の混迷の時代である。各人の行動選択の規準となるプシコ・イデオロギーの動揺という意味での、思想の混迷の時代である。ところで、そうした混迷が、歴史的かつ国際的な規模における最近の政治情勢の急激な変動を直截的に反映したものであることはいうまでもない。今日のこの政治の動向に対する人びとの関心は極めて大きい。

 続いて前文は、政治の問題が「自己の存在証明(自分が人間であることのあかし)に直接かかわる問題」として、つまりは「自己の日常性」の問題として人々につかまれて来ていることに注目した。さらに、知識人大衆の思考に揺さぶりをかけ、階級的なものの見方を否定して資本主義を美化する体制内知識人の論調を厳しく批判したのだった。
 ソ連や西欧における「社会主義」体制の崩壊を理由に日本国内の諸矛盾を隠蔽しようとするイデオロギー攻勢は、今も依然として続いている。「冷戦終結」論は後を絶たない。だが一方で、「社会主義は幻想だったと断じるのは早計」だとする社説
(「東京新聞」一九九四年十月二十三日)のように、事実に即して客観的に判断しようとする傾向も見られる。ソ連解体後の混乱と新たな困難が、そうした思索を促しているのであろう。
 昨年十月、大江健三郎氏がノーベル文学賞を受賞された。エンターテインメントとしての「文学」作品の量産と消費が常態化している中で、氏の受賞は爽快であった。これを機に、とりわけ十代・二十代の若者の多くが大江文学と格闘し、誠実な思索の輪に加わるとしたら、その意義は大きい。それは、文学の世界を通して「戦後五十年」を準体験することであり、文学の機能や社会的役割について認識を新たにする契機となるにちがいない。
 <想像力>論や<グロテスク・リアリズム>論など、大江氏の文学理論には難解な部分もある。また、かつて<私小説>への批判と抵抗の姿勢を示していた氏が、いまそれを評価するかに見えることについて、疑問なしとしない。それはたとえば『かきつばた』
(井伏鱒二)を結局のところ<私小説>の範疇で説明しようとするところにも見られるのだが(『小説の経験』)、そうしたことの検討は今後の課題である。
 文教研<私の大学>は、ことしも休みなく続けられる。太宰と西鶴を中心に、である。

 (この稿成った直後、阪神大震災の報に接した。その惨状は戦争による被害と酷似している。だが、天災と人災との違いは決定的である。人知で防ぎうるものは、断固として防ぎきらねばならない。)
  
  (20180806)

 
 『文学と教育』№169 1995.6   文教研と太宰治   夏目 武子      
    
 『母国語ノート』(荒川有史著)
 には文教研結成以前の熊谷孝氏、荒川氏が、<私の大学>として太宰文学をどう読んだか、その一端が記されている。ここでは、一年間の研究活動の凝縮ともいうべき全国集会を中心に、文教研がどのように太宰文学と取り組んだか、取り組もうとしているのか、考えてみることにする。
 節は二つある。1974年の第23回と、85年の第34回集会である。もちろん、それ以前にも、『葉』『女生徒』『畜犬談』など、例会でとりあげている。『葉』は創立直後に、その後、71年、72年にも検討されている(本誌№85 荒川有史)。が、「こうした個々の作品論の暗黙の前提となっている各人の太宰文学の全体像を自覚にみちびき、それを自覚にもたらす形で討議を重ねていく(本誌№85 熊谷孝)作業を始めたのが、1974年。太宰文学の時期区分論の原型が、熊谷氏によって提示される。各自が作品を読破することと並行して、仮説としてあげた候補作品を例会で検討し、背骨となる作品、太宰文学の大きな流れをつかんでいく。
 74年には「文学史を教師の手に・芥川から太宰へ」という統一テーマのもとに、太宰作品からは、太平洋戦争開始時以降における作品『新郎』『十二月八日』『律子と貞子』『正義と微笑』『禁酒の心』『黄村先生言行録』。75年は「文学史のなかの太宰治」、作品は『列車』『右大臣実朝』『たづねびと』。86年は「リアリズム志向のロマンチシズム」、『右大臣実朝』。
 74年前後から、集会を<私の大学>、また<教師自身のための文学研究の集い>と位置づけ、<文学史を教師の手に>というアピールを掲げるようになった。85年集会では、<文学史を教師の手に>という場合の文学史とは何か、明確な方向づけがなされている。つまり、<現代史としての文学史>と呼ぶほかはないような、「既往現在の文学との対話・対決の中に、形象的思索において現代詩の課題を探り求めようとする営為であ」り、そこに「自己の分担課題を見極めようとする、主体的・臨床的な営為にほかならない」(プログラム前文)ものであると。
 文学教育研究と文学研究を相即的にとらえている文教研の研究姿勢から、「太宰治と西鶴――異端の文学にみるリアリズムの系譜」という、今次集会の統一テーマが生まれた。また、新たな節づくりをめざして。  (20180816)


 
 『文学と教育』№170 1995.8     今こそ文学教育を!   文教研委員長 福田 隆義      
    
 戦後五十年の今年は、年あけから心が暗くなる災害や事件がつづく。五千人を超える犠牲者と、その数十倍におよぶ被害者をだした阪神大震災。地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教の、身の毛がよだつ一連のの暴挙。相変らず〝いじめ〟は、教育の場でもあとをたたない。それだけに、明るい展望をもちたい。展望を切り開く、私たちめいめいの分担課題を確認し合いたい。
 というのは、戦後五十年を機にさまざまな論議がおこっており、催しも計画されている。国会の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」もその一つ。だがこの決議は、内容もさることながら、その過程ですでに醜態を内外にさらしてしまった。
 そんなときに目にしたのが「平和教育の反省――軍事アレルギーの克服と理性的討論の必要性」という、某教育雑誌掲載の論文である。「軍事アレルギーの克服」を主張する論者は、阪神大震災から説きおこす。「人命の損失を大きくした今回の悲劇の責任の一端は、日本の戦後の平和教育にも在るのではないか」という。「私自身も、長い間反自衛隊感情のなかにつかって生きてきた。湾岸戦争は決定的な転機であった」といい、「今回の阪神大震災は、私のなかの『平和主義』の第二の致命的な敗北を意味した」とつづく。阪神大震災での救援活動のおくれは、テレビの前の私でさえ耐えがたかった。釘づけになって救援隊の到着を待った。だが、人命救助と戦争を同じ次元で論じていいのか。論者は〝平和は力によって保たれる〟という考え方に、阪神大震災をこじつけているとしか思えない。戦後五十年の節目を「軍事アレルギーの克服」の年にしてはならない。もちろん、批判・反論も掲載されている。が、民間教育の側にたつ雑誌だけに、首をかしげてしまった。
 ところで、私たちは文学教育を分担課題として追究・推進してきたし、文学教育という視点から平和教育を実践している。声高に反戦平和を叫びはしなかった。素材が戦争文学、反戦イデオロギーだからといって、教材化することには慎重だった。だが、静かに、しかも人間精神の深いところをゆり動かす文学作品を媒介にした実践を継続している。それは、「文学が本来、自由と平和へ向けての人間精神の営みに属する」という文学観、「文学本来の精神へ向けての人間教育が文学教育にほかならない」という文学教育観にたっての実践である。いうなら「文学教育の内発的な教育性格そのものが民主主義=平和教育以外のものではない」と考えるからだ。すぐれた文学作品との真剣な対話・対決をとおして、自・他を見つめ直す。他者の喜びを、あるいは痛みや苦しみを共有し、解決の方途を一緒に考え合う。さらにいうなら「文学の人間回復の機能に賭けて」若者とそういう共同作業をすすめたいのである。付け焼き刃のイデオロギーは、やがてははげ落ちる。
 一緒に考え合う精神、対話精神をはぐくんだ若者は、阪神大震災の被災をわがこととして考え、救援活動のおくれを怒るにちがいない。だが、それを「軍事アレルギーの克服」に直結させるようなことはしないだろうし、軍事力の行使に賛成するはずがない。また、人間の所業とは思えないオウムのリンチ、無差別殺人をどうみるだろうか。彼等はエリート頭脳集団を組織し、ガス兵器を開発し、軍事訓練まで行なって、いわば戦争をしかけたわけだ。さらに〝いじめ〟問題の解決も、そうした人間回復の教育を地道に推進するより他に、特効薬があるわけではない。後追いの対策や対応では、どうにもならない深刻な事態である。
 今ここで、私たちは私たちの分担課題「今こそ文学教育を!」という主張を、再度、確認し合いたい。明日への展望を切り開くために、である。  
(20180826)


 
『文学と教育』№172 1996.3     明日へ向けての思索   副委員長 金井 公江    
 (171号に「巻頭言」の掲載なし)   
 現代の若者は「明るい」ことが大好きなようだ。私とて「暗い」より「明るい」方がいい。
 『徒然草』七十五段は「つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るる方なく、ただ独りあるのみこそよけれ。」と書きはじめられている。この段を読み合っていた時、「『紛るる方なく、ただ独りあるのみこそよけれ。』とは自分と向き合い、自分の心の中をのぞいてみるのがいいって言っているんだよね。」なんて話した。途端に「やだー、暗い!」と叫ばれてしまった。あかるくチャーミングな女生徒にこう叫ばれて私はひるんだ。確かに「自分と向き合う、心の中をのぞく」と言っても、これは難しいことだ。往々、空っぽだったりする。気を取り直し、「うん、じゃあ、明るいって何だろうね。」と問い返した。その時の発言をまとめてみると、「明るい」には「ものごとをあまり深く考えず、流れに乗り、皆んなで仲良く楽しくやろう。」というようなイメージが託されているようだ。自分を見つめてみる、思索するなどということは、「暗い」ということになる。
 ところが先日、昨年行われた「東京の高校生/平和のつどい」のビデオを見る機会があった。目標の五百人をはるかに越えた千百五十人が集っていた。自作自演のメッセージ・ソングや劇を楽しみ、講演やメッセージに耳を傾け、平和について考えていた。準備に半年をかけた彼等は、その間、横田基地見学に行ったり、第五福竜丸を訪れたりして学び合った。実行委員の一人は「私たち高校生は、今の激動に時代をどのように生きるかがわからず、心から信頼できる友達とも出会いにくく、暗中模索を強いられているように思います。」と訴えていた。一見、考えること、話し合うことをカッコ悪いことだと感じたりしているような若者達が、本当は心を通わす仲間を渇望しているのではないか、と気づかされた。
 もし、現実の中で心を開く友を見出せない時は文学作品に向って、あり得べき方向を探ってみてはどうか。すぐれた作品は豊かな対話の相手である。兼好は書きながら思索を続けた。長明は書いていることの意味を自分に問うてみた時筆を置いた。定家は、西鶴は、芭蕉は、と考えるといつの時代も先は見えにくかったのだと改めて思う。出口などないのかもしれない。否定せざるを得ない現実の中に自分がいる。自分に与えられた現実をそうしたものとして認める。そこからあるべき人生、方向を探りつつ生きる。楽ではないが、これが本当に「明るい」生き方と言うのではないか。明日へ向けての思索を放棄したらおしまいだと思う。   (20180906)
 

 
『文学と教育』№173 1996.6    不可能を可能にしようとする夢を   副委員長 夏目 武子     
    
 「〝現代〟は、主体の姿勢がどういうものであるのかということを不問に付したまま、だれもがじかに手で触れられるような形において、そこに静止しているわけではない。不可能を可能にすしようとする夢を持つ人間の実践だけが、瞬間、瞬間のそれへのアプローチとタッチを可能にする。何かそういうものが、〝現代〟というものだ(略)。つかめた、と思って足を休めた時には相手の姿はもうそこにはない。それが〝現代〟というものだ。」
 『芸術の論理』や『文体づくりの国語教育』に示される熊谷孝氏のこの現実把握の発想は、思想の混迷に陥っていると言う他ない今日、鋭角的に鮮明に私たちに迫ってくる。ここに息づくロマンチシズムに心揺さぶられるとともに、その指摘の厳しさに思わず衿を正す。
 この稿を準備していた四月十日、テレビ「おはよう日本」のシリーズ「学校は変わるか・悩む教師たち」が放映された。教師を辞めたいという方が多いのに驚いた。そして、それは私の中で、一種の危機感に変わっていった。不可能を可能にしようとする夢を教師が失ってしまったら、幼い人や、若い人たち、後続の世代はどうするのだろう、どうなるのだろう。自分たちをここまで追いこんでいるものは何か、このような現代とは何か、いっしょに考えましょうよ、とテレビの向こうの、私の心の中の仲間に向かって語り掛けていた。
 私的な事で恐縮だが、退職してから、非常勤講師として国語の授業を担当した。昨年、一年間勤めた学校で、私は大きな刺激というか、励ましを受け、教師である喜びを感じた。そこでは、教師自身が自分を変えつつ、教師集団として、その学年の生徒に働き掛けていた。生徒が変わっていくありさまを、私はこの目で確かめることができた。生徒たちは、基本的に教師を信頼していた。そうした中で、講師である私も、その学年の目指す方向を確かめつつ、授業に取り組んだ。気が付くと、生徒への働きかけ方、具体的には話し方が変わっていた。いや、変えざるを得なかった。私自身、その学校の生徒の目線に立たざるを得なかったのだ。が、そのことを通し、私は私自身を変えていたのだと思う。 それを自覚したのは、今次集会で取り上げる『皇帝の新しい着物』や『コシャマイン記』を読み直している中で、であった。あの正直者の大臣のイメージが、今までとは異なった文体反応として成り立ってきた。大畑末吉訳の文章のリズムが、強烈に私に働き掛けてくる。笑い飛ばしていた、自己欺瞞に陥っていく大臣の姿が、どこか自分と重なってくる。英雄として生きようとしても生きられないコシャマインの姿が、前と異なる印象を私に与える。部分の印象が変わることで、作品全体の印象も変ってくる。印象を追跡し続けたい。ここでは、あの大臣の姿にギョッとした自分について、自己分析してみたい。教師現役であった頃は、自分は管理体制には組み込まれないぞ、精神の自由を保っているぞ、という自負を持とうとしていた。それが自負の域を越え、いつか、自己を絶対化していたのかもしれない。また、「文学教育の季節」と呼ばれるロマンチシズムの精神が旺盛な時代に、文学教育に取り組み始めた私は、そのときの文学教育に対するイメージを固定化していたのかもしれない。自分の発想を固定化しておいて、周囲を、生徒を観ても、その実像はつかめない。
 「イマジネーションに活力と自由を与え、想像の自由な飛翔によって、これが現代の実像だというものをつかみ取ろうとする、それが虚構――虚構精神である」と熊谷氏は指摘する。
 十九世紀のデンマーク、一九三〇年代の日本。それぞれ、困難な時代にあって、自己の世代にとっての〝現代〟を、虚構精神においてみごとにとらえ得た前記の作品。これら作品の文体刺激に対する自己の反応のありようを確かめつつ、現代の実像を探り続けていきたい。  
 (20180916)
 

 
『文学と教育』№174 1996.8    明日への行動選択の足場を確かなものに   文教研委員長 福田 隆義    
    
 「核兵器が存在する限り、人類が自滅するかもしれないということは、決して想像上の空論ではありません。核戦争はコントロールできるとする戦略、核戦争に勝つという核抑止論に基づく発想は、核戦争がもたらす人間的悲惨さや地球環境破壊などを想像できない人間の知性の退廃を示しています。」(パンフ「裁かれる核兵器」本の泉社)
 右の引用は一九九五年一一月七日、ハーグの国際司法裁判所でおこなった、平岡啓広島市長の陳述からである。マスコミがあまり取り上げなかったので、いま少し平岡氏の陳述を引用しよう。「私はここで、核兵器廃絶を願う広島市民を代表し、特に原爆により非業の死を遂げた多くの死者たち、そして五十年後の今もなお放射線障害によって苦しんでいる被爆者たちに代わって、核兵器の持つ残虐性、非人道性について証言いたします」と前置きをし、陳述を始めている。それにつづけて、被爆の実相を細かく資料に基づいて証言。「国際法に反する」と断じている。冒頭の引用は、結びの部分に位置づく。平岡氏には、その筋から圧力があったと聞く。そのなかでの行動選択である。ご自身の被災体験はもちろん、爆死者や多くの被爆者の体験を<準体験>することで、核兵器は人類と共存できないと実感したのだろう。誠実な陳述で感動した。と同時に、この陳述は日本政府の見解に対する痛烈な批判にもなっている。
 日本政府の見解は、ご記憶の方も多いと思う。「核兵器の使用は国際法に違反するとはいえない」という、いわば国際法の解釈にすぎなかった。この見解に対し、文教研三役は連名で、当時の羽田孜首相、柿沢弘治外相あてに抗議と要請文を送付した。そうした世論の反発にあって、この文言は削除したものの、今回も国際法違反とはいっていない。日本人でありながら広島も、長崎も、他人ごとであり本当にわかっていないようだ。米国の核戦略下に日本を置くという立場に立てば「核戦争がもたらす人間的悲惨さや地球環境破壊など想像」できなくなるのだろう。まさに「人間の知性の退廃」といえよう。
 しかもハーグで、平岡氏や、伊藤一長氏(長崎市長)に先だって陳述した、日本政府代表は「これから証言する広島・長崎両市長の発言は、証人としての発言であり、日本政府の立場からは独立したものである。とくに、事実の叙述以外の発言があれば、それは必ずしも政府の見解を表明するものでないことを申し添える」と結んだという。どっちが日本国民を代表した証言であり陳述なのか、聞いてあきれる。
 米国の核戦略に固執・追随する政府・官僚。国民と乖離してしまった彼等に、民族のあるべき明日を想像することはできない。それは、沖縄をはじめ米国の基地撤去運動に対する、憲法さえ無視した政府の対応や、「日米安保共同宣言」に基づく危険な策動にもみることができる。既成事実を積み重ね、それを現実といいかえる。そして現実的な対応・適応といい、さらには追認するというのが、保守・反動の常套手段だった。こうした一連の動向は彼等の悲願、憲法改定へ向けての布石だろう。
 文教研は創立以来、<対応・適応>の論理を拒否。<変革と創造>を合い言葉に、母国語教育・文学教育の側面から研究と運動をすすめてきた。今次集会のテーマ<虚構精神とは何か、を問う視点から>も、その一環として位置づく。「知性の退廃」した人間の言説に迷わされることなく、歴史と現実を凝視する。そこから可能にしてあり得べき明日を、形象的思索において探る営みである。すぐれた文学作品は、そうした思索を促す<準体験>機能をもつ。明日へ向けての行動選択の確かな足場を用意する。激動の時代という人がいる。不安定な時代という人もある。それだけに、確かな明日をみすえたい。   (20180926)
 

 
『文学と教育』№176 1997.3     いまどきの学生気質   副委員長 佐藤 嗣男    
(175号に「巻頭言」の掲載なし)   
 二月、三月といえば、教師稼業にとってはまさに<師走>というところ。調査書作成、学年末試験、入学試験、等々、多忙の種に尽きることはない。かく言う私も、人並みに駆けずり回っている今日この頃である。
 ところで、私の対象とする学生はM大学の商学部の学生であるが、この一月に行なった試験の答案を読んでいて愕然とした。
 試験は「文章表現」の試験。課題は、今年の年明けからの平均株価の動きと、主な銀行、証券会社の株価の動きとを示すデータを使って、「最近話題となっている<株価不安>について論述せよ」というものであった。答案は、ほぼ、次の四つのタイプに別けられる。
 1. 株など自分の生活には無縁である。興味もなければ論ずる必要もない。
 2. 株については殆ど知らぬ。商学部の学生として恥ずかしい。
 3. 今まで(大学等で)学んできたことを踏まえて論じてみる。
 4. 「文章表現」の課題として不親切である。学生を落すためとしか考えられない。
 受講学生は三年生と四年生である。まがりなりにも、何らか、商学を学んできた学生たちなのだ。1、2、4タイプの答案が半数ほどにもなる。思わず晩酌の席で愚痴のひとつも出るというものだ。
 「専門科目の先生たちは、一体、何をやってるんだ。」
 大学四年の娘がたしなめる。
 「先生方は一所懸命やってるのよ。この間、友だちの履修()ってる図書館学の時間、代りに受けてやったんだけど、ほんとに分りやすく話してた。こんなの前にやってあるんだろうというのも、私ですら分るように話してた。それでも皆、ボケーッてしてるからね。……株など関係ないって言うんなら、商学部なんか来なけりゃいいんだ。」
 「来なけりゃいいじゃ、実も蓋もないよ。」
 「そんなら、お父さんが頑張らなきゃあ。」
 そうか、頑張らなきゃあ、か。
 しかしながら、<自分には関係がないから>というこの一言(ひとこと)、何とかならぬか。この一言でわが身の周りにバリアーを築く。それも、堅固で不透明なバリアーならいいのだが、内側がまる見え、そんな感じなのだ。子どもの蟹のやわらかい甲羅にたとえた人がいるが、私にはガラスの動物園に見えてくる。
 ガラスの塀の中の懲りない面々を塀の外側にひっぱり出してくるためには、どうすればいいのか。それが、問題なのだ。
 世紀末。思想の混迷の時代。自己のレーゾン・デートルがつかめない。私だってそうですよ。混沌としてる。だからといって、あるがままの己れをかたくなに守ろうとは思わない。かたくなに守ろうとすれば、確かに、バリアーを築くしかない。大変なことだ。疲れてしまう。そういえば、最近、どこにでもすぐにしゃがみこんだり、ぺたっとすわりこんでしまう若者を多く見かけるが、そういうことだったのかもしれない。そうした疲れを取り除くことから始めなければならないのだろう。
 いや、疲れる前に疲れないよう、心身を鍛える必要があるのだろう。他者との真摯なコミュニケーションを拒否する前に、他者との葛藤・対話に耐え得る心身を培うのだ。そうした心身を培う場、それが教育の現場の真の姿であるに違いない。
 教師の一人として、改めて、自分の教育の現場を検証してみたいと思っている。   
(20181006)
 

 
『文学と教育』№177 1997.6     クールな眼と熱い心   常任委員 井筒 満     
   
 アンデルセンは、『皇帝の新しい着物』の最終場面で、裸であることがバレてもけっして行進をやめようとしない皇帝
(=絶対君主)の姿を描いている。「いまさら行列をやめるわけににはいかない」――これが、皇帝の行動選択の原理なのである。
 熊谷孝氏は、この場面について、かつて次のように指摘していた。
 「読者は大いに笑ったらいい。そのこと自体は確かにマンガなのだから。だが、こうしたマンガの行列行進の巻き添えをくって死の行進を経験させられたことのある者、それから今現にこの死の行進への参加を強要されつつある者にとっては、それは『マンガだ』ではすまされないものがある。」
(『文体づくりの国語教育』/三省堂/一九七〇年刊)
 「――『いまさら、やめるわけにはいかない。』/怖ろしいことばだ。この怖ろしいことばを口にするような人間がわたしたちの前から姿を消し去らない限りは、『皇帝の新しい着物』のテーマは永遠のテーマである。」
(同書)
 この指摘をふまえて、九〇年代後半の日本の現実を見つめなおしてみるとどうだろう。製薬会社の利益のために患者の命を犠牲にした薬害エイズ問題・銀行を救済し負担を国民におしつけた住専問題・国土を破壊しつづけるムダなダム建設・消費税アップ・沖縄を踏みにじる駐留軍用地特別措置法改悪……。理不尽な決定を民衆に押しつけようとするとき、権力者たちが従っているのは、結局、「いまさら、やめるわけにはいかない」という「論理」に他ならないこと――彼らの行動の本質――がはっきりしてくる。
 また、あの皇帝がまさにそうだったように、こうした「論理」に従って生きている人間は、恥ずべきことを恥ずべきこととして感じる人間的な感受性を失ってしまうのだということもはっきりしてくる。例えば、新崎盛暉氏は、故屋良朝苗氏の県民葬に出席した橋本首相について次のように書いている。屋良氏の教え子代表である中村文子氏の「米軍用地特措法改正のニュースに、胸がかきむしられる思いがする」という声は、「追悼の辞」を読み上げて「そそくさと退出してしまった」橋本首相には届かなかった。だが、仮にこの声が届いたとしても「彼には何らの感慨も呼びおこすことはなかったろう。/そして、県民(、、)感情に配慮した
(傍点・新崎氏)この政治的パフォーマンスの翌四月三日、橋本内閣は予定通り『日米安保条約に基づく義務を的確に履行するため』、米軍用地特措法『改正』案を閣議決定した。」(「どこまで沖縄を踏みにじれば気がすむのか」/「週刊金曜日」/四月二二日)。「県民感情に配慮した」つもりになれる感受性と「『義務』を履行するためにはいまさら、やめるわけにはいかない」という論理――両者は不可分の関係で結びつき橋本首相たちの行動を規定しているのである。
 アンデルセンは、皇帝たちの行動の本質を喜劇精神によって突き放して描いた。そして突き放して見つめなおすというアンデルセンの文学の眼を媒介することで、現代の日本を支配する権力者たちの行動の本質が、私たちに、はっきりと見えてくる。また、本質が見えてくることによって、私たちの怒りは、より広い展望と結びついた持続的で深い怒りへと変わっていくのである。
 対象を突き放して見つめるクールな眼と怒るべきものに怒り続ける熱い心――文学の眼はそれを私たちの内面に培ってくれる。「いまさら、やめるわけにはいかない」という「怖ろしいことば」を平然と口にする人間たちがつぎつぎと現れてくる現状の中で、自分を見失わないで彼らと対決し続けるために、そのような眼と心とを主体化することが私たち一人一人にいま求められているのではないだろうか。
 (カリタス女子短期大学)
 (20181016)

 
『文学と教育』№178 1997.8      二十一世紀に生きる子どもたちを見すえた母国語教育を   福田 隆義      
 
 
「改革」という言葉が氾濫している。「政治改革」に始まって「行政改革」「経済構造改革」などなど。「改革」という言葉には、なにがしか期待を持たせる響きがある。が、その期待は裏切られるばかりだ。「教育改革」も、例外ではない。中央教育審議会(中教審)は、昨年につづき第二次「答申のまとめ」を五月三十日に公表した。予想はしていたものの、われわれの期待に応えるものではない。子どもたちの呻きや叫びを聞きとっていない。この答申を受け、今後は教育課程審議会で次期「学習指導要領」の改定に向けた審議が始まることになる。
 ところが、それを先取りする動きが、国語教育界にある。例えば、明治図書刊「教育科学・国語教育」(五月臨時増刊)では「二十一世紀の国語科学習指導要領」という特集を組んでいる。そこでの提案や意見の多くは、中教審の答申に即したもののようだ。「国際化」「情報化」に対応できる日本語の教育をとか、中教審答申でいう「生きる力」を踏まえた改善を、あるいは、新しい学力観の確立に連動すべきである、などなど。
 その中から「文学の読み」についての提言・意見を拾ってみよう。殆んどが大学の先生方の見解である。例えば「『読者論』による文学作品の解釈を自由に楽しむ仕事は、クラブ活動の受け持ちにしたらよい。すると『この教材の面白さはどうやって教えたらよいのか』という難題は無くなる。めでたいではないか」という提言。あながち挑発提言ではなさそうだ。というのは、それに対して「文学的な文章を排除するのではありません。当然『情報』の一種として扱います」と補足意見がある。さらには「文学好きは、今や〝趣味〟の問題」といい切る方も。また、やや視点は違うが「情報化時代が進むにつれて、国語科の授業のなかでも、文学をじっくり時間をかけて鑑賞するような読み方は減っていき、文学なども情報の一つとして位置づけられるようになりつつある」と状況を分析してみせる。「国際化・情報化」のすすむなかでは、外国人にも理解してもらえる「論理的言語」と「コミュニケーションの技術」の訓練に力を注ぐ必要があるからだ、というのが理由のようだ。そのこと自体は大事であり否定はしない。しかし、技術の訓練が国語(母国語)教育の最終目標ではないはずだ。ともあれ、この特集で見る限り、国語教育も時代の流れに対応・適応すべきだという見解が、多数であることは確かだ。
 むろん「文学作品を国語科教材から追放しようという声もあるようであるが、賛成はできない」という意見もある。「『文学作品の読み』は国語科固有の仕事」だとする見解、「文学の読み方と併せて自分とつなげての人間の生き方を学ぶ――自分探しの学びこそ重視されるべきであろう」という主張、「国語(日本語)を干からびた魅力の乏しいものにしてしまう」という危惧などがそれである。だが「文学教育」という発想からではないようだ。もっとも、「学習指導要領」には、「文学教育」という発想はなかったし、今もない。
 文教研は、一貫して「母国語教育としての文学教育」を主張してきた。文学教育は、母国語教育の一環、しかも重要な側面として位置づく。文学教育を外しては、母国語教育そのものが成立しないという主張である。文学教育は、言葉(母国語)の機能の一つ、言語形象を媒介に、人間が人間として明日を生きる道筋を思索する場といえよう。母国語はたんにコミュニケーションの用具ではないからである。
 前記「教育科学・国語教育」特集のテーマをもじっていうなら、今次集会の課題は「二十一世紀に生きる子どもたちをみすえた母国語教育を」である。国語教育界の混迷を打破する確かな足場を築く討論を期待している。     (20181026)


 
『文学と教育』№181 1998.6       内なる対話   金井 公江     
(179号、180号に「巻頭言」の掲載なし)   
 
神戸少年事件の供述調書を読んだ。途中、二、三度読むのを中断してしまった。あまりにも冷血残酷な行為を冷静に淡々と語っていることに、ついていかれなくなったのだと思う。精神鑑定の結果は「非行時、現在ともに顕在性の精神病状態ではなく、意識清明であり、年齢相応の知的判断能力が存在していると判断する」であった。調書を読み返すうちに、その後ナイフにより次々と事件を起こした何人かの少年達の精神状態もこの少年のそれと深い繋がりがあるように感じられてきた。それだけでなく、他の多くの「ふつう」の青少年の心の中にも、これに近いものが潜在的にあるのではないかと思う。
 供述調書の中に次のような箇所があった。「僕は、人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために、……」、「B君が死んだと分かった時、僕は、B君を殺すことが出来B君を支配出来て、B君が僕だけのものになったという満足感でいっぱいになりました」。「何の理由もなく、またきっかけもない女の子ふたりのそれぞれの頭をショックハンマーで殴り付けたことから、僕は到底越えることが出来ないと思っていた一線を越えたのです。(中略)一旦人の道を踏み外したら、後は何をやっても構わないと思うようになり、……」。(検事調書。『文芸春秋』1998.3 による。以下同じ)
 彼は知りたいこと、したいことの意味を問うことはしていない。自分の内面に向かって問い返すという行為が微弱である。したがって考えて答の出ないときには待つというような心性は育っていない。しかし、「勿論、僕の心の中には、この様に思う心に対し、嫌悪感を抱く気持ちもあったのです。今思うと、その気持ちというのが、僅かに残っていた僕の良心と理性だったと思います」というような箇所を見ると、彼の中にも複数の彼がいて、わずかながら自己の内部で対話がなされているということを感じる。

 横浜市立大学の中西新太郎氏は雑誌『論座』の中で、今の子供の成長発達を支える三つの基礎的環境として、家庭、学校、そして消費社会型の子ども文化(サブカルチャー)をあげている。氏は消費文化をどう生きるかが、この世代のアイデンティティー形成の中心部分にかかわっていると強調している。この三つの領域とどう折り合いを付けて暮すのかが子どもたちの日常的な問題だと言う。確かに、消費社会型文化は、待てない、物を大切にしない、今がよければいい、友達よりゲーム、人の話を聞こうとしない、というような精神状態を生み出す土壌であるかもしれない。そしてそのような考え方がひとつの世代をつくりあげている。私は文学教育を通じて、このような世代と係わらなければならないと考えている。文学教育の課題は、「私の中の私たち」を豊かにすることなのだから。
 文学作品に引き込まれて読んでいるというのは、読者が作品に係わっているいる時である。その世界が目に見えてくる、音が聞こえてくる、感じられてくるという状態である。その状態を一度突き放して見つめ、自分の言葉で表現してみる。そうすることで自分が見えてくる。読者と作品の対話の成立である。すぐれた文学作品は今まで見えなかった自分を発見させてくれる。そして他者と自分の違いやその距離が見えてくることによって、「思考すること」が始まる。他者との関係を知ることで、「待つこと」もできるようになる。
 もちろん青少年を取り巻く疎外の状況は厳しく、単に文学教育だけで解決する問題ではないが、国語教育の中でこのような文学教育はもっと大切にされなければならない。進学入試のための授業(これも消費社会型文化の一つの現われなのかもしれない)が学校教育を侵食している現在、自己の内なる対話を育てる文学教育を、と思わずにはいられない。   
 (20181106)

 

 
『文学と教育』№182 1998.8     子どもたちの「自分さがし」に手を   夏目 武子    
 
 現在の子どもの、その親が子どもだった頃のことを考えてみたい。親といっても個々の親というより、親たちの生まれ育った時代のことである。そのことが、現在の子どもたちの心の荒れに関係があると思うからである。親の多くは、高度成長政策が展開されていた時代に生れ、育ち、一九七三年の第一次石油ショックをきっかけに、その高度成長政策が破綻する七十年代以降を生活してきた人々であろう。日本の経済・社会構造の変化に伴い、価値観や生活体験のありようが大きく変わった時代に、その世代形成過程を送った人々と言えよう。七十年代に多感な十代であった人も多いと思う。
 本誌一七四号拙稿「〝児童観〟の今日的課題」で、七十年代以降の「能力主義と競争の原理にさらされる子どもたち」について触れた。高度成長政策と結びつきながら、日本の教育を能力主義で再編成しなければならない、という経済界の強い主張に基づき、企業内の競争原理が教育の世界に持ち込まれ、七十年代以降の低成長下にあって、それが家庭をも支配するようになった、と記した。その頃の子どもたちが、今親となっている。
 親たちの年代から、すでに、子ども特有の世界でゆっくり自分の「心の粘土を捏ねる」時間は奪われている。豊かな感受性で、外界の刺激を受けとめる。お話の世界に想像の翼を広げる。多くの人々との出会い。さまざまな体験の積み重ね。すべての感動が「心の粘土」として捏ねられ、内なる仲間としてあたためられる。その仲間との対話を通し、自分のことばが形成されていく。そして、「言葉による人生設計の実験期」へ。幼児から世代形成過程の、そうした時間が保障されなくなってしまったのだ。
 子どもたちは、今、「自分さがし」(自分のことばさがし)を始めている。それが意識化できない場合、既成観念では想像もつかない「荒れ」とか「甘え」など多様な形で、大人に対して信号を発している。
 高度成長政策以後の人間疎外を、〝ことば〟という側面から考えてみたい。「人間は自分の文体というものを持っていてこそ、主体的に、個性的にものを考えることができる。人間の認識過程におけるその現実把握の発想と見合うことば――ことばのありかた――が文体だ」。「現代は文体喪失の時代である」と警告した『文体づくりの国語教育』(熊谷孝/一九七〇年)の一節である。「画一化されステレオタイプ化されたマス・コミ的文体の氾濫。思考の発想そのものが、マス・コミに飼い馴らされている」云々。ハードウェア(機械、装置)に依拠する「もの中心」の社会から、ソフトウェア(利用技術)を中心に動く「もの離れ」に移行しつつある低成長時代、生産・労働がますます見えにくくなり、さらに高度化した情報社会において、自己の文体と言える文体は危機にさらされている。幼児の頃から、競争の原理に追い立てられ、仲間との連帯を断ち切られた子どもたちにとっては、さらに深刻である。
 親と限定しないで、大人自身、自己の文体喪失、飼い馴らされた自己のことば操作のありように、目を向ける必要がある。ことば本来の機能をいかした、ことば操作のありようを模索し続けながら、外的条件を変えることをめざすとともに、子どもたちの「自分さがし」に手を貸すことができたらと思う。子どもの持つ可能性を信じたい。私たち大人の年代にはない魅力を持った若者も、現に存在している。ユメを失いたくないのだ。
 井伏や芭蕉俳諧の文体は、私たちに大きな刺激を与えてくれるだろう。「自身に文学を必要とし、また、文学の人間回復の機能に賭けて、若い世代の〝魂の技師〟たろうとする人々」が、今年の夏もまた、八王子に集ろうとしている。   
 (20181116) 
 
 
『文学と教育』№183 1998.12      文学教育の研究者(、、、)集団であること   夏目 武子    
 
 例会会場の確保を依頼され、申し込みに行く。利用者名を告げ、任務完了と思っていたら、当日、会場掲示をみて、びっくり。なんと利用者は~研究()集団。三十年以上前のことである。以後、会の名を聞かれた時は、「~ケンキュウシャのシャはモノです」と言い添えることにしている。また、節目ごとに文学教育研究者集団の意味を考えることにしている。個と集団の関係をである。そして、文学教育についてである。
 これも、ずいぶん昔の話である。事情があって、しばらく例会を欠席していた方が、久しぶりに姿を見せ、「例会の刺戟が自分にとって、いかに必要か痛感しました」云々と発言しておられた。なぜか、印象に残っている。個と集団を考える原点かな、と思う。その集まりに加わることで、自分が刺戟を受ける。新しい切り口からの指摘に接し、あいまいであった自己の発想にゆさぶりがかけられる。自分が求めていたのは、こういうことだったのか、と気づいたり、あるいは、その発言と自分の発想の違いが明確になることにより、自己の発想のありようを改めて意識することもある。他を意識することで、他との関係で、自己をとらえ直す。自己の内なる仲間としての組み込みが始まる。そうしたことが可能であるかぎり、自分とその集団は対立的ではない。私は、集団を抽象的なものとしてとらえている。夏・秋の集会に参加する方を、三日・一日会員としてお迎えする所以でもある。
 新年度のテーマ、研究対象について、真剣な意見交換がなされる。それぞれ自分の課題を明確にしたいという、目的意識があるからだと思う。一年間の共同研究が自己の課題に重大な関わりのあることに気づき出したばかりだから、もう一年継続しようという立場からの発言の多い年もあり、研究対象を変えて、新しい切り口から現代の課題に迫ろうという立場からの発言が多い年もある。本年の九月総会の発言にもあったように、「研究対象を変えることで、逆に前年取り上げた作家・作品の、現代史的意味も見えてくる」側面もあろう。前年度、取り組んだ作家・作品に再挑戦することに対して、その作品に精一杯取り組んだ人にとっては、「一年の間にそれを越える研究の視点を出すのは厳しい」こともあろうし、また、「参加者にとっての魅力でもある、新しい対象に取りくむ私たちの気迫が薄くなる」ことを心配する発言にも、耳を傾ける必要もあろう。要するに、主体的な参加である以上、「現代史としての文学史」の視点に立っての、作業仮説が確認できればいいのではないか。集団研究に取り組む前の、真剣な意見交換が、その作業仮説の検証・確認の場になるのだと思う。そうでありたいと思う者の一人である。
 私たちが私たちの所属する組織の名称として、<文学教育研究者集団>というタイトルを選んだ理由について、十年前の一九八八年第37回全国集会の熊谷講演を想起したい。
 演題は「鑑賞体験の変革と文学の科学――文学教育方法論の直接的な最重要課題」(本誌一四六号参照)。文学の科学の三側面――①文芸認識論・②文学史研究・③文学教育研究――に言及、第三の文学教育研究は「文学の科学の日常性に関わる最も実践的な側面領域である」ことを強調。「文学というアピアランス(現象)をアピアさせる反映というのは、すぐれて<媒介による反映> であり、その場合の<媒体><媒介者>が読者=鑑賞者である」。文学教育はこのような読者を育てるための、<子どもの心にフィクションの粘土を>提供する仕事である。粘土をこねるのは子ども自身である。良質の粘土を見極めるのが第三の領域の仕事であり、そのことに責任を負おうとすれば、第一、第二の側面領域の研究の深化、変革を促すことになる。学校教師に限定されることなく、文学教育意識を持つことで、文学の科学を追究する私たちの今日的課題がみえてこよう。    (20181126)
 

 
『文学と教育』№184 1999.3     文学教育を抹殺して「生きる力」が育つか   福田 隆義    
 
 十二月十四日公示の、一九九八年版改定「学習指導要領」小・中学校編を読んだ。読み通すには、たいへんな努力と我慢が必要だった。こんな文言を論議しながら書く(書かされる)方々に同情した。丹念に読む人はあるまいと思った。が、この文言が行政を縛り教師を拘束し教科書を規制すると思うと、黙視はできない。子どもたちの未来にかかわる問題であるからだ。
 すでに、中央教育審議会の答申や、側近のジャーナリストの誘導、先導的試行という名の実践報告などで予想はしていた。一言でいうなら、文学を教育の場から抹殺しようということだ。もっとも「指導要領」に、文学教育という発想があったわけではない。教科書に文学作品、ないし文学的な文章が掲載されていたにすぎない。それをさえ排除、または骨抜きにする読みをさせようというのである。
 たとえば、教材選定の基準に「説明的な文章や文学的な文章などの文章形態を調和的に取り扱うこと」という一項が加えられている。一見もっともらしい記述である。が、計算し尽くされた追加項目のようだ。マスコミは、この一項を鵜呑みにして騒ぎたてる。「案」が発表された翌日、十一月十九日の各紙は、つぎのように報道した。「文学的文章の読みとりに偏っていた現状を改め、生活に役立つコミュニケーション能力の育成を重視する」(朝日)、「六、七割を占めていた文学的文章を減らし、説明的文章を増やす」(読売)、「文学作品読解を軽減」(毎日)。あたかも、文学的文章の読みが、子どもの過重負担の元凶であったかのような報道だ。こうした論調で煽っておき、次期教科書から文学・文学的文章を締め出す。自主規制をさせるという筋書きだろう。それでも教科書に残った文学的文章は、情報の一つとして読ませる。たとえば[必要な情報を得るために]とか「効果的な読みを工夫する」などと強調する。文学を文学でないものにする読みである。
 いま一つ、せっかく国語科の目標につけ加えた「伝え合う能力を高める」も、生活に役立つコミュニケーションを、ということのようだ。今回の改定でも「生きる力」を強調する。生きる力は、生活に必要な情報を効果的に処理する能力だけではないはずだ。言葉の機能は、一方通行の伝えに終始する用具ではない。言葉は思考や思索の用具である。自問自答、自己凝視など、心に暖めた仲間、内に反映された仲間との対話を通して伝え合いも進行する。そこで果たす言葉の働きである。自他変革の契機をもたらす言葉の生産的機能といえよう。そうした言葉操作を身につけてこそ「生きる力」も育つ。
 ところで、その機能に概念的操作による思考と、形象的(イメージ)操作による思索の側面とがある。両者は支え合いながら、人間の認識活動を促し深めていく。文学教育は、いうまでもなく、後者を軸に展開する。概念としての言葉も具象的なイメージに裏打ちされて、はじめて自分のものになる。文学教育は当然、母国語教育の重要な側面として位置づけなければならない。さらにいうなら、すぐれた文学は、読者にイメージにおいて、あるべき現実、あるべき未来への思索を促し、あるべき行動の選択を迫る。いうなら、文学教育は読者の主体を賭けた感情ぐるみの認識をはぐくむ教育である。したがって、楽しい学習であり、ときには苦しい学習にもなる。そうした文学の機能を体制側は百も承知のはず。承知しておればこその文学教育の抹殺であり、文学的文章の排除である。
 この時点で「母国語教育としての文学教育」という私たちの主張を再度、確認し合いたい。秋季集会「心に〝あそび〟を――文学を読もうよ」も、そうした文学教育研究と文学教育運動の一環だった。今ほど、私たちの力量が問われているときはない。  
  (20181206) 


 
『文学と教育』№187 1999.11     自分のことばで考え、自分の頭で学びとる――全国集会あいさつから   夏目 武子     
(185-186合併号に「巻頭言」の掲載なし)  
 全国集会プログラムの表紙には、一九八二年から<文学史を教師の手に>というタイトルで、次のようなアピール(部分引用)が刻まれている。「限界状況の一歩手前まで追い込まれた、日本の社会と教育の現状は、今、まさにそうした人々――自身に文学を必要とし、また、文学の人間回復の機能に賭けて、若い世代の〝魂の技師〟たろうとする人々――の文学教育への積極的な参加を求めている」。「限界状況の一歩手前」という言葉を、参加者とともに深刻に受けとめ、「これ以上、ひどくなったら、人間、やっていられないよネ」などと、人間の疎外状況を話し合ったことだ。それから、十数年。
 今年も全国集会――文教研<私の大学>に仲間が集い、自分たちの世代の課題を模索し確かめ合った。。一度参加した方にはなじみの<私の大学>という呼称も、じつは、七四年のプログラムの表紙に掲載された、<私の大学>宣言以来のことである。
 プログラムには、こんな風に記されている。「大学に行けなかったゴーリキィにとって、それはヴォルガの川岸や、小舟の上で、道行く人々から学ぶことであった。自分のことばで考え、自分の頭で学びとっていく<私の大学>。それが今こそ、私たちにとって必要なのではないだろうか。教師として、子どもの未来に責任を持つためにも」。
 ゴーリキィの同名の作品『私の大学』の世界が髣髴としてくる。作中の<私>は小さい頃から、自分のパンを自分で稼がなければならない境遇に置かれた。あらゆる仕事に携わるが、読書生活はずっと続けている。ナロードニキ運動が盛んな頃でもあり、読書生活はそうした学生たちのグループによって支えられる。「経済学の根本的な命題は、わたしにはひじょうにわかりきったもののように思われるようになった。それらはわたしの皮膚の上に書かれてお」る
(神西清訳による)。一方、自分の子どもを失った御者が、その悲しみを馬と語り合ったというチェホフの作品を読んだとき、数年前、祖母の死を知った自分が、話す相手もなく、鬱々と過ごしていたことを想起した。なぜなのとき、自分は鼠と悲しみを分かち合わなかったのだろう。パン製造工場で働いていた自分のまわりには、仲睦まじく付き合っていた鼠がたくさんいたのに。そう感じたとき、チェホフの文学は、<私の文学>となる。
 厳しい労働にもかかわらず、すぐれた仲間との出会い、議論、その仲間の支えや刺激による豊かな読書生活。社会科学の文献や、十九世紀から二十世紀にかけてのロシヤ文学の最高峰とも言える作品の数々。そうしたことで、目の前の〝百姓〟が、自分が読んだ作品の中の魅力的な〝百姓〟と重なってとらえられるようになる。<私>の生活の場であったヴォルガの川岸や小舟の上で、道行く人々から人間の喜びや悲しみ、怒り、そして誇りを、人間の持つ可能性をつかみとっていく。作中の<私>は、「本から現実へ」、そして、現実を自分のことばでつかみ、現実から多くのことを学びとることができるようになったのだ。
 朝日新聞の「窓」欄
(八月二八日付)の一節。「『戦後』を超えるための一つのけじめ――。そんな表現が、国旗・国歌法成立を歓迎する新聞の社説に見られた」。他の答申にもよく使われており、「どうやら最近流行の言い回しらしい」。繰り返し使うことで、その気にさせてしまう常套手段のこわさ。さすが「窓」は「戦後を超えて、どこへ行こうというのだろう。まさか戦前へではあるまいに」と釘をさしているのだが、秋季集会では、ナチスが着々と政権奪取を目論んでいる時期に出版された、『点子ちゃんとアントン』を読み合う。ケストナーは自分のことばで何をどう描いているのか。印象を追跡し合いたい。    (20181216)

 

 
『文学と教育』№194 2002.4      文教研の歴史をウェブサイトで   夏目 武子    
(188号-193号に「巻頭言」の掲載なし) 
 公開集会の歴史を通して
 二〇〇一年十一月三日、ウェブサイト(いわゆるホームページ)開設。担当グループのお骨折りで、文教研の歴史が読みやすい形で掲載され、しかも、絶えず、追加、更新されている。これら、精選された資料の中から、必要な項目を選んで目にすることができる。(中略)

 何をどう活用しているのか? そこから始めたい。昨年の全国集会(八・五~八、於八王子大学セミナー・ハウス)で、集会が五十回目を迎えました、と挨拶した。その歴史がどんな意味を持つのか、参加者の方といっしょに考えあいたかったのだが、資料・説明ともに不足であった。そのことが気なっていた矢先の、ウェブサイト開設である。(中略)

 公開集会へ向けて、月二回の研究集会と年三回の合宿研究会を持っている。これは、会員自身が自己の印象を追跡する場として欠かせないものでもある。他の鑑賞体験をくぐることで、自己の鑑賞体験のありようを見直すことができる。共同研究の場を通して、文体刺激に対する文体反応のありようが変革される。鑑賞を通して、既成の概念を必要な概念に組替える作業も、概念把握のあいまいさを確かめる場も例会・合宿の場である。(中略)

 例会・公開集会での相互の意見交流は、最初から完全一致ということはありえない。異なる鑑賞体験であるからこそ、互いに媒介しあい、伝え合う必要があるのだ。その一つの手段として、概念規定を確認しあう必要があろう。
 「基本用語解説Ⅵ」
(一九七一年八月発行本誌七〇号掲載分)に前書き風な次のようなことが記されている。「同じタームをもちいながら、その言葉に託したものが相互にくい違っているために、時間をついやした割には話し合いの効果があがらない、というような場合が意外と多い。私たちの公開集会にあっても、そのことは例外ではなかった。そこで、これまでの経験からして、お互いの間にギャップの大きかった(また誤解の多かった)タームを選んで、一般学問常識のレヴェルでの解説を試みることにした」云々。
 基本的な方向を再確認する必要を感じ、ウェブページを読み直しているところである。担当者は本誌四八号以降に掲載されたものから、順を追って取り上げている。本稿執筆時点での、<基本用語解説>は、次のものである。
Ⅰ  精神・意識・発達、心的過程、感覚・感情、主題、表示と表現、場面規定、認識過程、概念、読解、追体験と準体験、構造と構造論 
  客観主義・主観主義 
  文体 
  印象の追跡としての総合読み  
  形象(その一) 
  文体、語り口、言表、表示、表現、記述、観念・概念、観念とイメージ、発想、認識過程、認識活動のニ側面、想像、感情、イメージ、形象、典型、虚構、虚構と主題、言葉の継時性、言表における部分と全体、言表の場面規定、読みの三層構造
  文体と文体論と、教養的中流下層階級者の視点、文学史、印象の追跡としての総合読み 

 現代史としての文学史
 (中略)
 熊谷孝とともに、研究を積み重ねてきた会員の活動は、<「対象」とどう取り組んできたか>に跡付けられている。<芥川竜之介・芥川文学とどう取り組んできたか>に始まり、井伏文学、鷗外文学、西鶴文学、太宰文学、芭蕉文学、ケストナー文学、児童文学と続く。なんと多くの仲間が加わっていることか。サークルとしての共同研究の積み重ねが克明に刻まれている。
 この他、<二〇〇一年秋季集会参加者の声>、<「私の教室・私の研究」>は、文教研を身近なものに感じてもらえる重要な媒介役になっていると思う。
 <「文学と教育」掲載記事選>の作成にあたって、担当者は、機関誌の「比較的閲覧が困難となっている初期の号から、歴史的にだけではなく現代的意義をもなお失っていないと思われる記事を、適宜選択し翻刻掲載」云々と記している。(中略)

 自己の思索のありようを確かめるために、熊谷孝の理論形成史、その系譜、文教研の研究活動の時期区分など、深めなければならないことは多々ある。が、今回、ウェブサイトをみながら、文教研は、各自の現実把握の発想に揺さぶりをかける形で「現代史としての文学史」の視点から、今日的課題に取り組んできたサークルであることを、そして、その時点での指摘の適確さをあらためて感じる。「リアリズム志向のロマンチシズム」は研究の対象であるとともに、私たちの現実把握の構えそのものであることも、確認しあいたい。私たちは、熊谷孝氏亡き後も、研究企画部を中心に、「日本型現代市民社会と文学」という切り口から、今日的課題を探ろうとし、共同研究を続けている。   
 (20181226)

 

 
『文学と教育』№196 2002.11     「期待される人間像」の今日版   夏目 武子     
(195号に「巻頭言」の掲載なし) 
 九月二二日付朝日新聞トップ見出しは「教師の九割 改革に『不満』」。「文部科学省の教育改革について、全国の公立中学校の教員、校長のうち97%が、『もっと学校の現実を踏まえた改革にしてほしい』と考えていることが、研究者らの調査でわかった」。アンケートの自由記入欄には、「机上の空論」「方針のぶれ」「上からの押し付け」などという「改革」への教師の批判が記されていたという。 「学校荒廃現象」の打開策を求めるというより、五五年体制下に始まる反動教育路線が、より強力に進められたから、こうした厳しい指摘がなされたのであろう。
 教育政策も政治・経済情勢と無関係ではない。立命館大学人文科学研究所刊『総合現代史年表』の〈俯瞰図〉により、大きな流れをたどってみたい(ここでは教育現象に絞る)。
 経済成長時代に入った五〇年代は、「平和・民主主義をめぐる保革対決の展開」。民主的な教育運動の高まりと、教育反動化の急速な進行(後述)と。六〇年代に入ると、「能力主義教育政策の展開による差別・選別の教育が進行し、教育の歪みの顕在化」。それが七〇年代に入ると「入試競争の激化、高校間格差の拡大」となり、八〇年代は「児童の画一的管理、偏差値教育・管理教育の強まり。進学塾等の教育産業の盛況。長欠・不登校・脱学校、いじめ、校内暴力の増加」。九〇年代教育は「教育荒廃・学校荒廃現象の蔓延と打開の混迷」(「 」内は年表による)。
 先に反動教育政策と記したが、それは必ずしも戦前回帰を意味しない。つぎのような天皇制に対する指摘と重なると思う。「日本の支配層は、経済大国の実現という現実によって、『近代化』論を国民統合の支配的イデオロギーとして獲得するが、それを補完するナショナリズムのシンボルとして天皇制を利用する。この天皇制は権力の主体としての天皇制ではなく、伝統と文化の象徴としての天皇制であった」(歴史科学協議会編『日本現代史』二〇〇〇年青木書店刊)。こうした文脈での反動文教政策を、私は〈期待される人間像〉に感じるのだ。周知のようにその第四章は「国民として」、第二項は「象徴に敬愛の念をもつこと」となっている。
 五〇年代には、教育二法成立、教科書問題、教育内容への干渉。後半には教育委員会の任命制、勤務評定・管理職強化、道徳教育義務化など。六一年、財界が技術教育振興、「能力主義」教育の要望。そして、一九六三(昭和38)年六月、時の文部大臣から中央教育審議会に、「後期中等教育の整備拡充」についての諮問。その理念としての「期待される人間像」(六五年一月中間草案発表、六六年九月最終報告)が発表された。
 今夏の全国集会の挨拶でもお話ししたように、「後期中等教育の整備拡充」・「期待される人間像」は誰にとってのそれであるかと、文教研例会で問われたことが印象に強く残っている。肯定できる部分もある、納得いかない部分もあるという部分主義ではなく、どんな立場にたっての発想なのか、それが問題であると。財界、独占資本、大企業――こうした側の要請に見合う教育政策・理念であることが話し合われた。
 最近「心のノート」を読んでいて、これこそ〈期待される人間像〉の今日版だと思った。全国集会井筒満氏の基調報告で紹介された「ショッピングモール・ハイスクール」は、後期中等教育の多様化構想の行き着くところであろうか。財界の必要とする人材教育は、能力主義により、教育の中にも競争原理を持ち込み、それに打ち克つエリートの養成であろう。その結果の教育荒廃であることを、年表の言表は証明しているといえよう。今回も、それの打開策ではなく、エリート教育をさらに推し進め、荒れた心を「心のノート」で補修するという構想。すべての子どもの成長を願い、「人間として面白味のある人間」に育ってほしいとねがう現場教師の気持ちを逆なでするものである、と思うこのごろである。
 九月の朝日「声」欄に十四歳の中学生の声が三篇掲載。確かな眼で現実を直視している。私は元気付けられた。リアリズム志向のロマンチシズムの眼で現実を凝視し続けたい。    (20190106)
 

----------------『文学と教育』の「巻頭言」欄は196号をもって終了---------------- 

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