< 熊谷孝 文学講座記録 Ⅰ、Ⅱ >

1981年2月20日
1981年3月20日
婦人民主クラブ再建連絡会議主催

  
  文学講座 芭蕉文学の世界 (Ⅰ)
文学講座 芭蕉文学の世界 (Ⅱ)
文学講座 芭蕉文学の世界  レジュメ(資料)

  芭蕉文学の世界(Ⅰ) 熊谷孝 (1981.2.20)    〔テープ起こし・井筒〕
  
  雑階級者の孤独と倦怠



< レジュメNo.1-1 「芭蕉」 熊谷孝/東京堂 『世界思想教養辞典 日本・東洋編』 >

 最初にアウトラインをつかんだ方がいいんじゃないかと思いますので、<No.1-1>を読むことから始めさせていただきます。
 ひと昔前ということになるんでしょうか、東京堂でさかんにいろんな種類の辞書を刊行しておりまして、『世界思想教養辞典』というのを二冊本で出しました。「西洋編」と「日本・東洋編」なんです。で、その内容面の編集を担当していた人が私の先輩であった関係で――専攻はまるで違いまして中国哲学者なんですけれど――もう亡くなりました山田統さんという方です。孔子不在説というのを唱えまして……、孔子っていうのは架空の人物だ、あれは、中国史が封建制を経験した段階で、過去の古代中国にこんな偉大な人物があったというふうにでっちあげた人物なんだ。つまり、『論語』とかいう書物には封建思想が述べられてあるんで、けっして古代中国からあった思想じゃないんだ。封建体制を維持していくうえに、昔々こんな偉人がいたっていうことで、封建倫理ならびに封建論理に箔を付けようとした……そういうことであったのだということを、すでに、中華民国のあの時期に、かなり冒険だったんですけど、それを唱えた学者です。
 で、そんな友人から頼まれまして、ありきたりではなく、本当に思うところを、しかも主観主義に陥ったら困るんで、客観的に、芭蕉を八〇〇字でまとめるという大変な注文で、そのとき西鶴と近松と芭蕉をそれぞれ八〇〇字でまとめろって言うんで、これちょうど八〇〇字で収まっているはずです。ですから、ずいぶん無理をして書きまして、カットにカットを重ねたものですから、良く言えばエッセンスがあるし、悪く言えば舌足らずな文章になっております。そういうことを御承知の上で、ご一緒にお目通しくださいませんか。そして、これに即しながら解説を申し述べてまいります。また、ごく簡単なコメントを添えてまいります。
 

  1.西鶴と芭蕉/芭蕉の出身階級
 「芭蕉  一六四四~一六九四(正保一~元禄七) 俳人。」
 「正保一年」ってのは、「寛永二一年」ってことですね。徳川家光の時代です。その寛永二一年の十二月に正保と改元されるわけです。生まれた年は――西鶴の場合もやはりそうだったように――死んだ年から逆算して割り出した年なもんですから、一六四四年っていうのは事実でございますが、正保元年なのやら寛永二一年なのやらこれは不明です。で、まあ、一二月も押し迫った時期に改元されておりますから、いま考えれば安全策をとって寛永二一年と書くべきだったと反省しております。
 で、個々でお考えいただきたいことは、西鶴が生まれた年から数えて翌々年に芭蕉は誕生しているってことです。二つ年下だってことです。ですから、配布した西鶴の年表に社会事象について多少とも触れてございますが、あそこに挙げた社会事象は、、同時に、そのままそっくり一・二年のずれをもって芭蕉にあてはまる、というふうに御承知いただけたらと思います。
 つまり、封建制の確立期から動揺期、その時期を生きた西鶴でありましたが、芭蕉も同様だと御承知いただきます。それから、亡くなった年、九四年、西鶴より一年遅れて死んでおります。要するに、西鶴が生きた時代を生きた芭蕉、西鶴がぶつかった封建的現実のどす黒さと、あの闘いの姿ですね。その闘いを、芭蕉という詩人はどう闘ったのか。その闘いの姿勢にはどういう共軛性があるのか。またどう違うのか.それからジャンルですね。まあ大雑把に言って、小説という散文文学を武器として闘った西鶴、詩・俳諧詩というジャンルで闘った芭蕉。そのジャンルの特性をどう活かしたか。いやむしろ、その個性の違いが、芭蕉を詩人たらしめ、西鶴を散文作家たらしめた、その秘密ですね。
 それから、限界ってのは悪い意味じゃありません。全てのことに限界ってのはあります。限界のないものなど一つもありません。長所が短所であったり……。その辺の問題を絶えず念頭にお置きくださってお考えいただくならば、前三回の西鶴文学のつかみ方もふくらみをもってくるでしょうし、それから、散文文学の世界から切り離して、詩だけを問題にすることもないでしょう……。
 良くありますね、未だにありますね。だいいち、芭蕉の生まれた上野に参りますと――私は四回参っておりますが――俳聖殿などというものが建っておりますね。俳諧の神様、あまりにも神様あつかいされて人間離れした芭蕉。妙に、みんなが低姿勢で向かい合っている芭蕉。それは尊敬に値するものやら……人間としては親しみを感じられない芭蕉になっちゃうんですけど、そんなことはないはずです。あの元禄の時代をかなり生臭く生きた芭蕉だってことをつかんでいただけるんじゃないか。私、かなり独断でございますが、ただ嘘は言えない。自分の実感を離れて物が言えないもんですから、思うとおり申しております。お気に障るかたもあると思うんです。「芭蕉は神じゃないか。お前は芭蕉を人間に引きずり落とすのか」と。だが、人間は人間であることが一番尊いんで、幸せなことなんで、芭蕉を幸せにするために一緒に勉強したい。心からそう思っているわけであります。

 「俳人。本名、松尾宗房。通称、甚七郎・忠左衛門など。芭蕉はその号。」
 これ、お持ちの方も多いんでしょうけど、昭和四年にでました『芭蕉全集』(日本名著全集・江戸文芸之部)です。実に誠実な、忠実な、また学問的に実り多い資料の蒐集の仕方で集めたもので、今でも僕は一番いいって信じてます。
 解説もまた湛々たるもので、贄川他石さんですけど、勝峰晋風さんのお弟子さんですか、ご自身が俳句の作家で、同時に徹底した芭蕉の研究家であります。私は、小学校の四・五年生の時から中学校が終わるまで、静岡県の沼津にいっておりました。親父が仕事で失敗し破産いたしまして、一家がちりぢりばらばら……兄貴が三人おりまして、沼津におった真ん中の兄に預けられたんです。で、(私が住んでいた村の)前村長が贄川さんで、いかにも俳人のうちらしいうちで、豪邸なんてものではないが、かといってみすぼらしくもない。風雅なんです。その村から沼津の町の映画館通いをしておったものですから、贄川さんのうちの前を通るんです。が、今にして思えば、あれ芭蕉庵の庭なんですね。「古池や蛙飛び込む水の音」……あれをちょっと小ぶりにしたような池と庭を持っている、そういう感じです。贄川さんは、亡くなった市川先生(市川房枝?)と比較すべくもありませんが、清廉・清潔な方だという点では一致する人でした。
 何かあとで聞きましたが、図書購入にあらゆる収入を注ぎ込んだ、親から譲り受けた財産もすっからかんになった、そうやって作ったのがこの『芭蕉全集』ですね。当時一円六〇銭。もしお持ちでなかったら、この機会に、古本屋で見つけたらお求めになるといいなと思います。むろん欠落はありますよ、編集の仕方で……。
 ことのついでです。これをお持ちでございましょうか、岩波文庫版『おくのほそ道』、金四〇〇円。芭蕉をのぞこうって方にはぜひぜひお薦めしたい。というのは、プリントの中で後で出てきますが、芭蕉のお供をして奥の細道の旅を旅した曾良ですね、曾良のいわゆる随行日記・旅日記がこれ付録として出ています。これが素敵です。かつてこれは読むことができませんでした。曾良の「旅日記」が発見されたのはそんなに古いことではありません。……日本に一つしかないんです。それでどうしたか。あの、天理大学ってのはすごいですね。あの大学は、ほんとに金をふんだんに使って、大学の図書館を充実させましたね。古典の写本からはじまって初版本とか……で、そこにしかなかったんです。僕なんか、はるばる奈良県の天理までこれを見るために行って、何泊かして写した。ゼロックスはなかったし、なんとかの理由で写真は撮らせてくれないし。しょうがないから、写本を写本したんです。いまやこうやって、金四〇〇円の一二〇円分ぐらいで入っているんです。本をお求めならば、そんなとこに気をお遣いになってお求めいただけたらと思います。……『芭蕉全集』ですけれど、芭蕉の古い伝記(江戸時代のもの)が数本これに収められています。『蕉翁全伝』なんてのがございます。芭蕉の孫弟子が書いたもので九〇%信頼に値する本です。学者がなんか物知りだと思うかもしれんけど、これが種本です。

 「……芭蕉はその号。別号、桃青その他。」
 「桃青」――芭蕉庵桃青とか、芭蕉桃青とか、彼死ぬまでこの号を使っておりますが、比較的、談林の俳人であったころ用い始めたのでしたかね、それ以前は宗房とか……。伝記により、また彼の著作により知られるわけであります。

 「桃青その他。伊賀(三重県)上野の城下町に手習師匠の子として生まれ……」
 これ八〇〇字の制限でこう書いてしまいましたが、親父さまが「手習師匠」をほんとにやったかやらないかは、これは推定以上に出ません。ただ、いま残っている芭蕉の生家が寺子屋の造りになっておりまして、あすこが、手習のお師匠さんが住んでたうちなことまでは言えるわけで、おそらく芭蕉の父であろうと……。
 それから、兄一人姉一人ですから芭蕉は三男坊で、あと下に妹が二三人おりますけれども。兄の名前は半左衛門と申しますが、芭蕉が死ぬるまで何十回にわたってでしょう、その内、十数通残っていますが、半左衛門殿に宛てた手紙がありますので、これは実在の人物です。この人が手習いのお師匠さんをやったことはほぼ確実です。親子二代でやったんだろうと思います。
 親父さんのことは御承知の通りで、松尾与左衛門(よざえもん)と普通呼んでおりますね。これは、上野の柘植の郷の無足人ということも御存じですね。郷士ってのがありますね。武士に準ずる、実質的にはお百姓である人を言いますが、これをこの上方地方では無足人と呼びます。正式なときは両刀を手挟む、普段は鋤・鍬を持って働く、土着の人ですね。柘植の郷の郷士であったこともほぼ確実ですね。
 これはどうでもいいこととは言い切れないんで、芭蕉がどういう教養的環境・社会的環境・生活環境の中で生まれ育ったかということが、彼の意識に作用する面が多いもんですから。純粋な農民の出身でもなければ、純粋な武士の出身でもない、その辺からしてやや中途半端っていいますかね――悪い意味じゃありませんが――そういう階層の出身だっていうことを気持ちのどこかに留めて置いていただくと、有難いと思います。
 ……余談になって申し訳ありませんが、『蕉翁全伝』に系図が載っかってるんです。これがインチキなんです、残念ながら。九〇%って言ったのはこういうことがあるからなんです。
 ……芭蕉の親父さまが、柘植の郷から上野の城下町に出てくる。郷士であることに満足できないんです。本物のお侍になりたくなったんです。これが、先月・先々月の西鶴の話題につながるわけですけど、農民層の中から新興町人が生まれてくる。水呑百姓の二三男坊が新興町人になっていく。おそらく、西鶴の親父さまもその一人であったろう、と申し上げましたが、ああいうタイプの農民出身の町人があるわけですが、これはまた半端な武士ですね。これが半端じゃない武士になろうとする。そういうかたちで都市へ進出していく一つのタイプがあるわけです。芭蕉の親父さんはそのタイプの一つの典型なんです。
 親父さんは就職運動をやったんでしょうが、失敗したらしいです。そこで手習師匠をやって――ということは教養人ですね――教養人を父として芭蕉は生まれたわけです。自分は失敗したが子どもをと考えまして、兄の半左衛門を、上野の藤堂家のある一族のうちへまあ、下級武士として売り込むことに成功したわけですね。しかし、結局うまくいかなかったらしく、何年かの後にはまた自分のうちへ帰ってきて、手習師匠として暮らすというふうなことになってます。そういう親父さまと兄貴とをもって、彼は生まれ育った。こういうことはちょっと念頭に置いていただきたい。
 で、家系なんですが、松尾家っていうのは、先祖は平貞盛ということになっているんです。平貞盛の先祖は桓武天皇、やんごとなき血筋……これ信用できない。親父さまは就職運動をやったでしょう。それから芭蕉の兄貴を売り込んだ。最後には、芭蕉を売り込んだわけでしょう。そのとき、系図書きってのがいるわけです。系図書きの専門家がいて、大枚のお銭を払うわけですね。そして系図を書いてもらう。これ、作った系図に決まってます。
 で、系図について大事なことをおっしゃったのは、タカクラ・テルさんですね。私、同意見なんです。系図というとピラミッド型になってるでしょう。これがインチキなんです。一番確かな先祖は、僕にとってもあなたにとっても父と母でしょ。複数じゃないんですか。それから、まだ確かなのは、父の父と父の母、母の父と母の母……そうするとピラミッド型で説明するのはおかしいじゃないですか。逆ピラミッド型であるべきでしょう。先祖はなんとかだと威張るのはナンセンスです。結局、民族って問題に帰って行く。もはや血の問題ではなく民族性の問題ですね。だから、自分の子孫を考える場合でも、オレの子だからオレの孫だからべたべた可愛がって、よそのはガキだ、ぜんぜん相手にしない、こういう根性ってのは系図精神とあまり変わりないですね。
 芭蕉の先祖は不明です。あえて言えば、日本民族です。
 ……ところで、この系図の中に「百司」ってのがいて、これが松尾家の中興の祖であるなんて書いてあるんです。これ伊賀の出でしてね、伊賀にはやはり、忍者の系譜でもってかの有名な百地三太夫っていう大家がいるでしょう。立川文庫などによると、百地三太夫のお弟子に、霧隠才蔵とか猿飛佐助とかが出てくるわけですね。これとなんか混同が始まってくるわけなんです。つまり、芭蕉は忍者の系譜だと、こうきちゃうわけです。大学教授で、ジャーナリズムの上でも非常に著名な方が、芭蕉忍者説っていうのを唱えて、非常に普及してるわけなんです。……これは取るに足らない説です。また、忍者説から発展して芭蕉が旅の文学者として終始したのは、徳川幕府の密偵だったのだ……つまりお庭番だったのだという芭蕉お庭番説。こういうの面白いもんだから、みんな興味持つけれど、こういうの時間つぶしですから、奇妙奇天烈な説にはあまり耳を傾けない方がいい。素直に彼の詩を、彼の俳諧の世界を、丹念に、感動を込めて、批判すべきところは批判しながら、読むことが大事であろうかと、私は思います。念のため。


  2.蝉吟・寿貞・京都への脱出
 「……一〇歳のころ上野城主の一族、藤堂新七郎の嗣子良忠(俳号、蝉吟)の小姓となり、俳諧(貞門俳諧)にしたしむ機会を与えられた。」
 「一〇歳のころ」――これもあくまでも「ころ」なんです。「上野城主の一族」と書いたことはミスではないんですけど、不十分だったことをここで白状いたします。上野城は、最初、藤堂高虎があそこに赴任いたしました。そしてそこから禄高が増えまして、伊勢は津でもつ津は伊勢でもつの、津の城主になりまして、この上野城には、自分の家来筋、あるいは、親戚筋の人間を派遣して城代として任命いたしました。大体、代替りや転任があるものですから、七千石ぐらいの一族の武将が赴任しました。その城代の次席の位置に小藩から派遣されるわけですが、それが藤堂新七郎家なんでございます。これが五千石の侍大将でございます。その新七郎家の二代目に良精(よしきよ)ってのがいます。その跡取り息子が、芭蕉が仕えた良忠です。そして、貞門派の俳人でございます。その俳号が「蝉吟」で、その小姓に芭蕉は就職したわけでございます。

  「二三歳のとき蝉吟の死にあい、武士をやめて貞門派偉人の道を選んだ。」
 ところで、二三歳の時、その若き主君蝉吟は亡くなるわけであります。二五歳。非常な親しみをもった間柄で……No.2のプリントをちょっと見て下さいませんか。

< レジュメNo.2――下段の「付3」 >
  「  おなじ年(貞享五年)の春にや侍らん
     故主君蝉吟公の庭前にて
  さまざまの事思ひ出す桜かな 芭蕉  (『笈日記』)」

 『笈日記』ってのは、御承知のように、各務支考が、芭蕉の死んだ後、芭蕉のいろんな作品を求めて、また、その業績を求めて旅をするんですが、その中の「伊賀の部」って中に芭蕉のこの句を発見するわけです。「さまざまの事思ひ出す桜かな」――非常な親しみを込めて、忘れられない人として、主君蝉吟のことをこんなふうに吟じているわけであります。<No.1-1>にお戻りいただきます。
 芭蕉と主君良忠とは二つ違いですね。殿様の方が二つ年上ですが、この主君であり同時に俳諧上の友=俳友であるところの親しい間柄であったことがほぼ知られるわけですが、その死が、二三歳の芭蕉にとってどんな意味を持ったかについて、多少時間を使って申し上げておきたいと思います。
 これもまたいろんな説があるわけだけど、私は私の判断を、推定は推定だと断りながら申し上げます。ともあれ、二三歳の時、主君を失って、そして、おそらくは上野の城下から逃げ出し、逃亡の生活に入っていきます。これも異論がございますけど、私はそう考えます。どういうことかと申しますと、そもそもが、芭蕉の親父さまは、彼が一三歳の時亡くなっています。これは確実な資料によりました。そして、逆に考えると、兄と姉があって彼が三番目の子で、この年で亡くなっているとすると、芭蕉の親父さまが上野の城下町に出てきたのは二〇歳前後であろうかと思います。若き与左衛門が、将来の武士の生活を夢見て、胸をはずませて出てきた人が、ガクンといくわけですね。そして、倅に自分の出来なかったことへの期待をかけ、死んでいく。
 で、そのお倅さんですけど、一三歳の春、二〇歳になり、やがて二三歳になる彼ですが、彼にとっても、やはりバラ色の人生として人生が映ったに違いございません。なぜなら、いまはしがない小姓の身分だが、蝉吟は跡取り息子です。大殿がご隠居になるとか、亡くなられると、その跡をおって五千石の殿様になられる。そのとき自分がどういう身分に出世できるかは見えていたわけです。家柄はないんです。扶持もひどいもんです。けれども若殿が大殿になった時には、側用人に出世できるわけです。実質上の家老になれるわけです。家柄がないから家老職は継げないでしょう。けれど、柳沢吉保と綱吉との間柄のようなものでございます。代替りすれば、れっきとした御家老に準ずる身分に昇格するわけです。その日は遠くはないのです。つまり、武士としての出世が約束されていたわけです。ということは、現在低い身分だからといって、人は軽蔑しないわけです。彼の将来性を買って扱ってくれるわけです。
 ところで、ここで、彼は恋をした。後に寿貞と名乗って、深川の芭蕉庵に二人の子どもをつれて訪れてくるあの寿貞。寿貞は尼さんになってからの名前ですから、多分ああいう僧侶としての名前は実名を入れるでしょうから、「寿」の方へ目を付ければ「ひさ」と言ったかもしれない、「貞」の方に目を付ければ「さだ」と言ったかもしれない。おそらくは「ひさ」とか「さだ」とかいう女性……そして、それは、郷土史家の研究ではっきりしておりますが、格は違うけれど、蝉吟なんかと同じ伊勢の津の藩士の娘ですね。そして、親父さまや兄貴は上野城につとめているわけですね。つまり、芭蕉は陪臣であったけれど藩士の娘と恋に落ちたわけであります。心からの恋をしたことが、あとの彼の思い出の中で知られます。
 ともあれ、その恋を、ひさの父や兄は無下に否定はしなかったでしょう。何故って、芭蕉の将来性に期待していたからです。しかし、今は、正式な結婚は許されないでしょう。あまりの身分違い。今は無理だけれど、将来、正式の結婚は可能だったでしょう。その日を芭蕉も夢み、ひさも夢見るという中で、彼は、バラ色の人生として自分の将来が約束されていると思ったことでしょう。今、殿様にも非常に愛されている。繰り返し申します。そのバラ色の人生を、観念において彼は夢見ていたわけであります。
 ところが、主人が二五歳で若死してしまった。その時、彼の将来性は、一切合財奪われたわけであります。門閥家ではない松尾家、家柄のない松尾家、その手習師匠の倅たるものですね、もう死ぬるまで、三人扶持――一日一升五合――だと言われていますが、その切米を貰うわけです。これで一生暮らさなきゃならない。ひさとの縁談もご破算です。二人の間は裂かれるわけであります。このとき、侍をやっていて何かあらんであります。
 彼は逃亡するわけであります。そして、おそらくは、ひさが、その後を追って京都へ行くわけであります。そして、同棲というのか同居というのか、正式の法的な結婚ではありませんが、二人はともかく支え合いながらの生活を続ける……。
 そして、彼は、私の判断ですが、北村季吟(貞門俳諧の第一人者)のもとで、俳諧の修業をする。と同時に、貞門のいろんな仕事・雑務を引き受けて、その俳諧師としての、人生の裏街道を歩く雑階級者としての生活の中で、それなりの、「成功」――仮に使いましょう――を夢見ていた。それが二九歳までの彼の姿である。つまり、五年・六年という生活は、貞門俳諧の北村季吟のもとでの生活であったと考えます。これは違う意見もあって、中村俊定先生なんかは、禅寺に入って行脚僧として暮らしていたのだという説をおっしゃっております。所詮、推定です。僕のも推定で確証はございません。どちらが、いわゆる「事実」ではないにしても、歴史的真実に近いか。そういう場合、私は、季吟の下にあったという判断に従いたいと思います。
 で、とにかく、本格的な俳諧師・詩人への修業を積み重ねていた芭蕉の姿が、この二三歳から二九歳までの間にあったわけです。では、ひさと芭蕉はどうなったか。これは知るよしもございませんが、別れますね。というよりは、芭蕉が一生懸命逃げ回りますね。勝手な推測はやめたいと思いますが、はじめ愛情があったから最後まであるとは限りませんね。不人情だからでもなんでもない場合が多いと思いますね。
 彼が二九歳の時、江戸へ下ります。そして、江戸談林の御大になります。一人前の俳諧師としてスタートをきります。が、それは、詩人としての成功を夢見た野望による点はいうまでもないが、同時に、お尻に火をつけたのはひさだったようです。彼は一生懸命逃げ回っています。とうとう最後につかまります。三〇代の終り頃に。そこから『野ざらし紀行』の旅が始まります。悪い意味じゃございません。そんな不幸な彼らの姿があるんです。そこで、その辺のとこをちょっと申し上げておきます。No.2のプリントを御覧ください。

<No.2――下段の付『元禄七年の書簡」/①「杉風宛・五月十一日」/②「猪兵衛宛・六月八日」/③「遺言状・十月」>

 これは、元禄七年の五月・六月・十月の手紙で、十月のは遺言状です。そして、彼は死んでいくわけですが、その死のすこし前に、彼の不幸な恋の相手・寿貞が亡くなるわけです。その時の寿貞をめぐって書いた手紙でございます。①から読んでいきます。

 「猪兵衛病気、桃隣無御油断被仰付可被下候(そろ)。」猪兵衛ってのは、芭蕉に芭蕉庵を提供した杉風の手代をしていた人ですね。おそらくは、芭蕉の親戚か縁類であろうと言われております。その下の桃隣もご同様でございます。杉風は、鯉屋って屋号を持った人であること、御承知の通りであります。幕府にお魚を納める大手の商人で、これ芭蕉のお弟子です。で、杉風さんへの手紙です。

 「折々深川へ御なぐさみに御出あれかしと存候。」 芭蕉庵を訪ねて下さい。「され共、寿貞病人之事に候へば、……」そろそろ死に至る病を病んでいた寿貞がここに出てまいります。芭蕉もやはり死ぬ年です。「しかじか茶をまいるほどの事も得致まじく存候。」病人ですから、おもてなしは何も出来ないでしょうけど、たまには見舞ってやってくれと。「これらが事共などは、必御事しげき中、萬御苦労に被成被下まじく候。」あまり気を遣って下さるなと。
 
 「猪兵衛・桃隣指図に而、ともかくも留守相守り、火の用心能仕候様に被仰付可被下候。」この「火の用心」ってのは面白いんで、芭蕉庵一回焼けますよね。だから火事のことが気になってんですね。やっとまた建てることが出来た芭蕉庵。病人と爺さんばっかりだから、あんた面倒みてくれと……ちなみに杉風さんは芭蕉より三つ年下で、まだこの頃四〇代であります。

 「此度所々状数有之候間、重而具に可申進候。以上。」……この手紙から、寿貞が病気で寝ていることが知られます。と同時に、寿貞のことを、あわれ・すまないと感じている芭蕉の気持ちが出ております。

 ②は、寿貞の死を知らされた時の芭蕉の手紙です。「寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく難申盡候。」「寿貞無仕合もの」……本当に寿貞ってのは幸せのない人。「まさ・おふう」寿貞がこの二人の子ども――女の子でしょうが――をつれて、深川の芭蕉庵を訪れて、それから二人の生活が始まるわけです。これは、芭蕉の子どもかどうかは確証がございませんが、少なくとも、そのうちのどちらかは、芭蕉と寿貞との間に生まれたであろうと思います。

 「好斎老へ別紙可申上候へ共……」――好斎老ってのは近所のおじさんで面倒みてくれる人です。「急便に而此書状一所に御覧被下候様に頼存候。」しかじか……。寿貞、ほんとに幸せのない人だった……陰に、自分の責任といったものがインプリケーションとして述べられているものであります。

 その次の③。「伊兵衛に申候。当年は寿貞事に付色々御骨折、面談に御礼と存候所、無是非事に候。残り候二人之者共、十方を失ひうろたへ可申候。好斎老など御相談被成、可然了簡可有候。」――二人の子どものこと、自分も病気でどうにもならないので、よろしく頼みますよと。それに先立って寿貞のことではお世話になりました……その他、省略いたしますが……。

 そして、No.2の付2を御覧下さい。


<No.2――下段の「付2」>
 「  尼寿貞が身まかりけるときゝて
 数ならぬ身とな思ひそ魂祭  芭蕉  (『泊船集』)」

 これを追悼の句として詠んでおります。やはり、同じく病床にあった芭蕉が妻の死を悼んだ句でございます。決して、あなたは、数ならぬなどと思って下さるな。私の愛情は変わりない、愛情の思いでいっぱいなんだ……と詠んだ句ですね。ただし、それは、「只これ天にして……」と、『野ざらし紀行』にあるような「天命」なんだ、どうしようもないんだ。愛情がないわけではないけれど、私は、あなたを避けとおしに避けてきた。だからといって、「数ならぬ身」――そんなふうに、あなたがあなた自身を考えてはいけない。どうぞ、私の愛情を疑わないでくれ……そういう句ですね。

 ……話をもとに戻します。上野の城下から脱藩して逃亡し、おそらくは、京都の貞門の下へ走った芭蕉。バラ色の人生が灰色の人生に……だが、その灰色ってどういうことなのか。そこから、詩人としての芭蕉の出発点があるわけであります。恋、そして恋の破綻。心からの恋・人間的な愛情、それを疎外するところの封建的な重圧ですね。具体的に言えば、封建的な圧力とは、芭蕉にとって何であったのか。いろんなファクターがあるけど、根本は、その恋を踏みにじったことですね。将来出世する可能性があるっていえば、見て見ぬふり、暗黙の肯定をしておいて、そういう意味の将来性がないとはっきりしたとたん、みんなそっぽを向く。みんなが邪魔を始める。これが封建的な倫理の正体なんですね。
 そもそも、男女七歳にして席を同じうせず、なんてもっともらしいことを言って、その正体は何か。封建倫理こそ、実は、出世主義なんですね。深く深く内側でつながっている。人間というものを疎外する根源、それはいわゆる理屈の問題ではなくて、実生活の中にこういうふうに出てきたんだ。芭蕉は実感していくわけなんですね。我が行く道は武士ではない、武士の生活に人間は息づかない。人間が息づく世界を求めて、そこから、彼の逃亡と詩人への道がスタートするわけです。ここはじっくり押さえておいていただくと、また、はっきりしてくるんじゃないかと思います。

                         ……休憩……


    3.貞門から談林へ

 教養という言葉は、教養主義という言葉と混同されまして困るんですけど、本当の意味での教養ってのは、客観的な言葉で言えば文化ってことですね。文化を個々人の上に映した言葉が教養ですね。つまり、芭蕉は、文化的・教養的な環境の中で人と成った、ということ。それから、今日的な言い方で言えばお勤めに出たわけですけど、お勤め先が大変恵まれていたわけですね。俳諧を中心においた文化的環境の中で世代形成過程を経験した。
  で、その経験の仕方が、貞門俳諧的であったという今度はマイナスが出てくるわけです。彼は、二三歳から二九歳まで、私流に言えば、京都で、北村季吟の下で修業を積んだ。こんなふうなことを申しました。
 で、ある記録に従えば、季吟の執筆を彼が務めたということになるわけです。俳諧ってのは俳句が中心じゃないんでして、中心なのは連句なんで、それを吟じていくのを懐紙に書きとめていくのが執筆の役目ですね。これは、むろん、きれいな字を書き、学があって誤字を書かないっていうのが条件で、俳諧にかなり通じていなければ務まらない。当時の俳壇の第一人者・季吟に目をつけられて、可愛がられて、執筆を任命されたってことは、この二〇代後半期の彼が、貞門俳人としては一級の俳人であったことを指すわけであります。
 私はいま「マイナス」ということを申しました。貞門俳人であったことの不幸とは? この貞門という文学集団の基盤っていうのは、それは特権町人でございます。西鶴がもろに被害を受け、それと闘ったその特権町人たちであります。
 その特権町人のお出入り先――すなわち、堂上公家とか本願寺様なんかがあります。そう、本願寺に北村季吟はいりびたりでございます。本願寺の図書館が当時すばらしかったんで、ほとんど、日本や中国の古典の原本を集めつくしていたわけであります。この書庫に、彼はいりびたったわけであります。で、季吟といえば、みなさんどなたも、偉大な古典の注釈家であり、校訂者であること、ご存じの通りであります。俳諧師としてよりは、私たちは、古典研究家として親しみを持つ彼なんであります。そういうことはどうして出来たか。本願寺へお出入りが出来たからであります。
 つまり、俳諧師として、本願寺様に教えに行くわけですね。それから、点者として点をつけるわけですね。「お前さんのはここはええ、何点じゃ。ここはダメだからこないだより落ちたねマイナス二点……」なんてやるわけですね。そういう宗匠の役割を北村季吟はやりつつ、本願寺の蔵書をこなしてったわけです。
 その下で芭蕉は修業をつんだ。さっきも言ったように、貞門の基盤は、特権町人、あるいは特権町人と関わり浅からぬ堂上公家、本願寺のような寺院貴族、藤堂蝉吟がそのひとりであるような地方の上級武士ですね。そういう中で、芭蕉は、それなりの俳諧を身につけていったわけですが、だんだん我慢ならなくなってきたということは申すまでもありません。そして、最後には、貞門の親玉・松永貞徳の悪口まで書き出してますね。いつまでも貞徳老人の後を追っててはダメだ、あんなじいさんの……ということを言い出す若い日の彼であります。
 そして彼は寿貞のこともあって、江戸へと、一種の逃亡に似た江戸下りを実現したのは二九歳の時であります。<No.1-1>の続きの部分を読んでいきます。
 「二九歳のとき江戸に下り、しだいに談林の俳風への接近を深めていった。」
 あいだは省きますけど、この間に、談林派の中心人物・西山宗因の東下りなどがありまして、その宗因を迎えることで煽られて、彼はいよいよ江戸談林の代表者になるわけであります。しかし、なかなか俳諧でメシは食っていけないんで、その頃の新興都市江戸にありまして、下水道を含めた水道の工事監督なんかの仕事に携わって、彼は収入を得るわけですね。そして、早く一人前になりたいって思いがあったんでしょう、西鶴の向こうをはったみたいな万句興業――一日に一万句、独吟で詠んじまうみたいな――、そいうことに野望を燃やして、有名になろう有名になろうとするわけですね。何か、最初の初志貫徹ではなくて、初志からちょっとずれたような生き方をする彼の姿が、そこに点描されます。


  4.「さび」・「をかしみ」・「軽み」――蕉風の展開

 「しかし、やがて三七歳ごろにはこの一派とも訣別、『野ざらしを心に風のしむ身かな』の『野ざらし紀行』の旅において、『冬の日』(『芭蕉七部集』第一編)の歌仙が名古屋で興行されるころ(一六八四、四一歳)には、その独自の俳風(蕉風)を樹立するにいたった。」
 一六八四年というと、西鶴は何をしていたかを考えて下さい。そして、すでに、例の三井の越後屋は、開店してピークに達していた時期であります。

 「蕉門の到達点のひとつは、『奥の細道』の旅の後、『猿蓑』の興行(一六九〇、九一 『七部集』第五編)において示された『さび』の境地である。それは、中世和歌文学の『さび』の伝統につながり、それに媒介されつつ、封建的な人間疎外に苦悩する元禄期民衆の悲哀を、離俗の姿勢において歌いあげようとするものである。しかも、そのような哀感を、俳諧が体質的にもつ『をかしみ』の中にとらえようとするのである。」
 「中世和歌文学の『さび』」って申しますのは、一口でごくわかり良く言えば、余情の境地ですね。で、その余情の中身は何かと申しますと、静寂とか枯淡とか、それから、藤原定家の言う妖艶(狂おしい思い)などです。そういったものに、蕉風がつながっていることは確かです。が、そこに止まらんや、でございます。
  「中世和歌文学の『さび』……に媒介されつつ」――仲立ちされながら、「封建的な人間疎外」――芭蕉にとってはそれはまさに恋の破綻というかたちではっきり認識されたものでありますが、「……元禄期民衆の悲哀を」――それは芭蕉自身の悲哀でもあります――「離俗の姿勢において歌い挙げようとするものである。」
 「離俗」――俗を離れる……俗とは、この場合、談林俳諧的な俗・通俗さであります。それは、生活サイドの上での通俗さでもありますね。今でも、関西のある地方での挨拶の言葉で、「おはよう」って代わりに、「儲かりまっか」「ええ、まあまあ」というのがあるそうですが、そういう意味での新興町人的なものとの訣別でありますね。そういう意味での「離俗」ってかたちで、彼の詩の世界を確立するわけであります。
 「しかも……『をかしみ』の中にとらえようとする……」――俳諧っていう言葉自体がおかしみ・ユーモアって意味ですね。つまり笑いでありますね。笑いの中にとらえようとするのである。

 「さらに、そうした『さび』に徹し、そこを越えたところに、やがて『軽み』の境地が生まれる。『七部集』の第六編『炭俵』(一六九四)は、蕉門に人々が最後に到達した、そのような俳境の所産であった。彼のことばを引いて言えば、『俳諧の益は俗語を正す』点にある。」
  俗語を否定するわけではありません。和歌文学の用語であり、また言葉操作の仕方でもあるところの雅語は否定するわけであります。民衆が日常使っている俗語をとりあげるわけであります。しかも俗語ならいいってことじゃないんで、俗語には俗語の――雅語がやはりマイナスを持っているように――マイナス面を持ってるんです。それを自己否定するわけです。即ち、俗語を正して詩の言葉(詩語)をクリエートすることであります。そのことを、彼のお弟子の服部土芳が、彼の死後に、『三冊子』の「くろさうし」の中で、師の言葉として紹介しているものであります。
 「それは、『実ありて、しかもかなしびを添ふる』 ものでなければならない。」
 中世の詩人たちが歌いあげた優れた和歌には「実」がある。からっぽじゃない、内容がある。しかも、「かなしびを添ふる」者である。俳諧もまたそのような「実」のあるもんじゃなきゃいけない。口先だけのもんじゃだめだ。言葉の遊びに終始してはだめだ。民衆の悲しみを、おのずから「添ふる」なんです。付け足すんじゃありませんでして、自然と表現の中に滲みでるものとしてなければならんと。

 「しかし、『高く心を悟りて俗に帰る』こと、すなわち、『浅き砂川を見る如く、句の形、付心ともに軽き』句境こそ、風雅究極の理想にほかならない。『門しめてだまって寝たる面白さ 芭蕉』の境地である。」
 俗を離れることを主張した彼が、俗に帰ることを主張してるわけです。この場合の<俗>と否定された<俗>とは、現象的には同一であります。何かもっともらしいことを言う人あるけど、同じです、現象的には。ただ、その現象に何を見つけるか、どういう意味を見つけるか、その点で違ってくるわけです。つまり、アウフヘーベンされた、止揚された、否定の否定というかたちをとった、そのような俗>であります。真実の民衆的なものであります。西鶴流に言えば、常の町人中層者の意識につながるものであります。
 その俗>が到達点だというんですね。現実町人社会を否定することが、社会的にものを考えたり行動することを否定することであったら、それはペケです。私は、リアルって言葉とリアリスティックって言葉とを厳密に区別して考えております。現実的と現実主義的です。で、現実的なものを芭蕉は否定するわけです。
 私の子孫、中学生なんですけど、私立の高校を受けたんです。で、私は、試験にはノータッチで、親たちがいろんなことを言っているのをそばで聞いてますと、「とにかく、いま試験に受かることやんなくっちゃ……」ということで、とにかく「得する」ことが大事なんです。これが現実的な態度です。現実主義的というのは違うわけです。真実を現実の中に探ることです。そういう生き方です。第二期以降の西鶴がそうであったように、芭蕉もまたリアリスティックに考えている。少し言い過ぎかもしれませんが、西鶴のリアリズムとはずいぶん違いますが……。ともあれ、リアリスティックな方向に向かっている。
 「すなわち、『浅き砂川を見る如く、句の形、付心ともに軽き』句境こそ……」これは『別座舗』の中で、お弟子が師の語録として書いてるもんですがこうなっています。「さて俳諧を尋ねけるに」――「俳諧って何なんでしょう? 俳諧精神って何なんでしょう?」と尋ねると、「翁今思ふ體は」――今、私が考えている文体・発想は、「浅き砂川をみるごとく、句の形付心ともにかろき也。其所に至りて意味有と侍る。」となっております。大きな川、したがって、底の深い川、流れてんだか流れてないんだかわからない川、こういうのを人は尊ぶけど、実は、俳諧は違うんだ。「浅き砂川」のようなもんじゃなくちゃいけない。サラーとしてなくちゃいけない。

 「軽み」ってのは、言い換えれば、「重み」に対するもんです。単純な話です。ねばっこいやつ、アルファからオメガまで、描写になろうがなるまいが、説明していくようなやり方です。芭蕉は言う。「いひおほせて何かある」です。本当は、生命ってところをとらえてサラーっといく人への期待が俳諧なんだ。
 思えば、彼の、旅から旅へという実生活であり、文学生活であるもの、彼は何を求めて旅をしたか。いろんなファクターがあるが、根本にあったのは、連衆を求めてであります。心の通い合う連衆、基本的な方向において同じ発想をもつ、同じ思想をもつ、同じ感情をもつ、そういう人間を求めてなんです。相手が悪けりゃろくな句は出来ませんよ。おべっか使いが相手では、本当の詩は生まれません。何でもつっかかればいいと思うやつ、いますね。あれでもダメ。本当に相手に連帯を感じ、相手を大事にする。
そういう相手でないと連句は作れません。その相手を、江戸においてついに彼は見いだしえなかったわけです。つまり、彼は、江戸にあって孤独だったんです。
 大勢の弟子にとりかこまれ、だんだん蕉風が俳壇の上でも勢力を得てきて、大宗匠ってわけで、みんな頭を下げるんです。しかし、彼はちっともうれしくない。孤独なんです。何を言っても芭蕉先生だとほめたたえるおべっか使いたち――本人はおべっかのつもりではないかもしれないが――やりきれたものではありません。それから、ただ反抗すればいいみたいな人たちもいます。これもつきあいきれたもんんじゃありません。
 本当に、ものは言わなくても心の通い合う、そういう相手とじっくりと問題を深めていく――詩情を深めていく。彼は連衆を求めて旅を続ける。そして、名古屋で、思うような連衆と出会うわけです。完全なんてことはどこにもありません。江戸では経験できないような素朴さをもった、ある人の言葉をかりれば、消費都市江戸では求めえないような、生産につながっている名古屋の商人たちと出会うわけです。その人たちと心ゆくばかり連俳を楽しむと言ったら良いか、深めると言ったら良いか、……楽しみなしには深められませんよ。その真の喜びとともに深めたのが『冬の日』だったわけです。蕉風の実作上の確立があるわけです。例えば、No.2を見て下さい。

<No.2-14『冬の日』(「木枯の巻」 表六句)>

 この句づくりをした俳人・詩人たちの名前を見て下さい。野水――これ名古屋の人です。それから、荷兮・山本荷兮――これは名古屋の町医者です。それから、三番目の重五・加藤重五――名古屋の材木商です。木曽川の材木を買い取って他に販売していく、そういう材木屋のおやじさんです。つまり、山で働く樵の人たちとしょっちゅう出会って生活を共にして、それでこの商売がなりたつんですが、そういう人です。杜国・坪井杜国――これ名古屋の米屋さんです。正平――小池って名前で尾張の人だってことはわかるが、あと何もわかりません。こんなふうに、生産から遊離した江戸の商人たちとな違う、生産と直接つながりをもっているような商人、生産者と絶えず交流し合っているそういう商人。それから、市民たちの脈をとっているお医者さん。こういう人たちとの出会いにおいて、俳諧らしい俳諧が詠めるきっかけができたんです。これが、『冬の日』なんですね。

 No.1にもどります。そして、その結果は、さらにその境地を越えて、「軽み」の境地へ入っていった、ということになってきます。で、代表的な句は何かっていうと「門しめてだまって寝たる面白さ」。発句や俳句じゃございません。連句の一節です、これは。以上のことを前提にして、具体的に一つ一つの句に入っていきます。


  5.芭蕉文学における連句と発句
 <No.1-2 「歌仙一巻」の構成表・ 3 『水無瀬三吟』・ 4 『猿蓑』(「梅若菜」の巻 表六句)> (1)

 歌仙一巻の説明を2で致しました。さっきも言いましたが、俳諧ってのは連句なんです。連句あっての俳句なんです。で、連句ってのはどうなってんだかが2に出てくるわけですが、また、先へ行きます。
 そもそも、俳句ってのは、正岡子規がはじめて使いだした言葉でしょう。もとは、発句って言ってたんですよね。
 ところが、芭蕉もやっているわけですが、後の句を考えないで、それだけで独立させた作り方があるんです。これは厳密に言えば発句形式の発句ですね。2の表にでてる発句は連句形式の発句ですね。そもそもが、発句なるものは、連句の最初の句として詠まれたもんなんですね。それがやがて後に独立していって、いまは、発句だけを詠むようになって、ます。朝日新聞の俳壇などのものは、みんな俳句すなわち発句ですね。
 で、芭蕉の優れていることは、連句を通して十分に自分を鍛えたから、俳句も素晴らしいんです。連句に鍛えられない発句(俳句)ってのは、どこか歪なとこがあります。俳句だけでは俳句にならないんです。俳句だけでは詩にならない。芭蕉の俳句は、素晴らしい俳句になっている。それは何故か。
 芭蕉の俳句は連句の修業に支えられているんです。そもそもが、俳句は、発句だったわけですね。その発句は、それで確かに、一つの完結した世界であります。それだけで独立させて意味の通る詩情の豊かな――芭蕉の場合で言えば――そういう句なんです。けれど、それは、脇句・第三・第四と先のことを予想して作られているわけです。言い換えれば、脇句以下の作者に問いかけをしてる句なんです。あの、五・七・五の短い詩型で、いくらふんばろうとね、あらゆることを言えるものではありません。言いたいんだけど言えないものを、後の脇以下に期待して、詠んでいくわけです。したがって、脇は、発句の余情を十分に理解しなければ、自分のものにしなければ、作れません。以下同文です。
 じゃ、独立性がないか。蕉門の俳諧の特徴は、芭蕉の生きている時代の蕉門の特徴は、――駄作もありますよ、しかし、『七部集』に収められているようなもののあらかたはですね――それぞれが詩としての主体性を持っている。詩として独立した主体性を持ってますよ。しかも、前の句を支えてるんです。そして、後の人が作りいいように、いや、作ってほしいからこそ未完結のまま投げ出すわけなんです。つまり、お互いに、連帯意識がなければ作れないのが連句です。
 連句の中では、わがままは許されません。主観がなければダメですが、独り善がりは許されません。主観主義を自己否定して、その時にはじめて、連句の中の句がそれぞれ独立性をもって現われてくる。で、また、支え合いにおいて問題を深めて発展させていく、そのそもそものきっかけが発句なんです。
 やがて、芭蕉は、『奥の細道』の旅にでる。『野ざらし紀行』の旅だって同じことですが、連句を詠む相手がいない時には、その時は、独立形式の発句つまり俳句を作るんです。その俳句は、連句で鍛えられた、主観主義でない、きわめて主体的な感情において詠まれています。その主体というのは――主体一般なんてどこにもありはしない――民衆の文学主体です。そのような主体において創作したからこそ、すぐに、それに後の句が付けられるような、付けたくなるような俳句になっているんです。
 「荒海や佐渡によこたふ天河」あの句一つみても、流人の島――『八雲御抄』を書いた順徳天皇をはじめ、お能の世阿弥その他その他、名もなき人を含めて、実に大勢の悲しみを背負って流されてきた。そして、そこで死んでいった。世阿弥は晩年帰れたけれど。その流人の島を、芭蕉はそこに歌いあげていますね。民衆の悲しみ、それから、身分は民衆でないかもしれないけれど、順徳天皇。時の権力機構の中で、うちひしがれた文化人・順徳天皇。それから、もっと卑近な面で言えば、佐渡は、芭蕉の時代、金山でしょう。あそこで苛酷な労働を強いられた――無理矢理、罪もないのに罪をきせられたりして送りこまれた――坑夫たち。朝起きた時は、まだ星が瞬いていて、真っ暗。そして、穴へ入っていく。出てくる時は、お日さまはもうない。何年も何年も、いや、一生、ただ真っ暗な中で暮している。そして、死んでいく人たち、その人たちの苦悩の島……これをあそこで歌いあげていますでしょう。
 いかがでしょう。上手下手は別として、私たち、あれの脇を付けられるでしょう。可能性はあるでしょう。第三も付けられるでしょう。坑夫の身の上をもっとじかに歌ってやりたい。順徳天皇の悲しみを悲しんであげたい。付けられるでしょう。そういう句になっている。あれは、連句の中の発句ではないにもかかわらず、独立した発句・俳句であるにかかわらず、であります。
 「夏草や兵どもが夢の跡」――同じとは言いませんが、共軛する面があるでしょう。そして、この句には、「をかしみ」があるでしょう。権力のために闘った武将たちが出てくるでしょう。必死になって夢中になって、これがわが人生の目的とばかり……空しいことじゃないか。領土を広げたり……広げたところで、今、何が残っている。「夢の跡」だ。
 そこには、民衆サイドの笑いがありゃしませんか。この空しいことに命をかけた人間の、無意味な人生ね。それへの笑いも、「荒海や……」の句とは違ってこの句にはありますね。これもまた、脇を付けられませんか。第三を付けられませんか。できますね。そういう句なんです。


  6.伝統と創造――芭蕉と西行と 
  いま、朝日新聞に載っかっている句を御覧になって、脇を付けたくなる句がどれだけありますか。けっして、否定しません。いいお楽しみだと思います。例えば、俳諧こそが現代詩の中の最高だなんてバカなことをいう人がいるから困るんです。その可能性あるんですよ。しかし、いまさらね、連句の訓練をもういっぺん自己にほどこしてね、そこまでやる意味があるのか。
 伝統につながるってことは、しきたりにつながるってことじゃない。ならわしを受け継ぐってことじゃない。それを越えることが、伝統につながることである。俳諧こそが現代を代表する詩のジャンルだなどということは、ゆめ、伝統を重んずる人間は言うべきではない。
 私は、第二芸術論者じゃないですよ。桑原武夫なんて、腹立ててんですよ。論理的に間違っている。どういう民族体験の体験の仕方してるか。我慢なりません。で、僕は、誤解をうけるかもしれませんが、ある意味では、伝統主義者・伝統尊重論者です。
 伝統を尊重するとは何か。真に伝統につながることは、しきたりを越えることだ。それなしに、伝統につながりようがない。そのことを言いたいんです。芭蕉って詩人がそうだったんじゃないですか。次のことを言ったのは、梅原猛さんですけど……。自然詩人西行法師と芭蕉とを比較しながら、芭蕉は、自然詩人じゃないと。そのかぎり、僕もそう思うんです。自然詩人ってのは、自分と自然とがじかに向かい合って、その感動を、感情をこめて歌い上げる人です。西行は、まさに、そのような優れた自然詩人です。芭蕉は違うでしょう。伝統を仲立ちにして自然に迫っていくわけでしょ。自然の中に彼が見つけるのは、自然であるよりは人間なわけでしょう。松島で彼は何を見た……笑うがごとき美女を思います。象潟で、自然の中に人間を見たでしょう。で、彼は、ある時期ほとんど、古典・伝統を仲立ちにして、――西行なら西行を仲立ちにして――自然に迫っていくでしょう。
 だから、桑原さんなんか悪口を言うわけでしょ。彼の、みんな頭下げてる句を見てみろ。これ、漢詩にあるやつを、こう取ってきてやってるじゃないか……と比較するんですね。この「は」と「に」と「を」とが違うよと。それだけ違えばたくさんですね。一七文字でね。要するに、いろんなもののマネごとをやってるだけだ、悪く言えば、剽窃してたんだと。
 そうであろうか。だいいち、文学者に二つのタイプがある。それが、西行と芭蕉だと思います。直にぶつかっていく人たちがいるんです。西行は素晴らしかったが、近代の自然主義は非常に下らなかったですね。無知なんです。ぶつかってく自分がなっちゃいないんです。文化以前です。惨憺たる自然主義。西行は偉大でしたが……。芭蕉は違う。漢詩、中国の詩、それから、日本の古典、その古典すなわち伝統を媒介しながら、迫っていきます。そして、彼は、古典人・過去の文学者が――西行でも能因でも紫式部でもいい――彼や彼女たちがついにつかめなかったような美――仮に美といっときましょう――を発見するわけです。亡き紫式部に向かって――『野ざらし紀行』なんかがそうです。能因や西行に向かっては、御承知のとおり、『奥の細道』で。もういっぺん、そういう視点で読み直してみて下さい。自己を主張しています。元禄期民衆の自己を主張してます。
 新しい文学の主張がある。それは、過去に無知では出来ないことです。過去・伝統を仲立ちにして、それはしかも、所詮、仲立ちなんです、結論は。仲立ちすることで、それの裏打ちをやったんです。自分をぶっつけるわけです。そして、過去の人々が見つけ得なかったものを、そこに探りあてるわけです。自己主張してる。
 だから、『奥の細道』の旅の目的などは、彼の言葉によれば、「歌枕をさぐる」、つまり、古典につながることでしょう。私は、『冬の日』の旅を中心にして、その後も続くんだけど、連衆を求める旅、これが根本ですね。それから、こういうふうな古典の世界をもとめる旅というのがある……。
 

  7.詩人と世捨人 
 ……太宰治の芭蕉論ってのは、非常に面白いもので、彼なんかは、「なあにあいつは、政治家だよ」というんですが、あの調子で、どこまで本音かしりませんけど……。「オルグして歩いたんだよ、日本全土を。方々に弟子を新しく開拓しながらね。すげえ政治家だよ。」と彼は言う。これもまた面白いと思います。
 それから、また、旅なんかの話になりますと、えてして、彼は、道を求めて、求道の精神で歩いて……という坊主臭い、世捨人としての芭蕉をそこに思い浮べて、パチパチ拍手をおくる人がなんと多いことか。かたや、『野ざらし紀行』なんかは、風狂の精神ということが最も相応しい世界ですが、そういう風狂者としての彼に賛美を贈る人がありますでしょう。ある論者なんかは、芭蕉は若い頃――といっても四〇代じゃあんまり若くないですが――その頃までは、風狂の精神にいた彼が、晩年は、「秋深き隣は何をする人ぞ」なんて句を詠むようになって、変わったとかなんとか言ってます。
 が、本当にそうでしょうか。No.3を見て下さい。

<No.3-19「元禄七年(五十一歳)>
「 秋深き隣は何をする人ぞ   (『笈日記』)
 此道や行人なしに秋の暮    (同右)
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る(「赤さうし」)」

 これ、彼の死んだ年です。死を前にしての句「此道や……」、それから、言うまでもない辞世の句ですね、「旅に病んで……」。これなんか、風狂の彼の姿でてるでしょう。世捨人の精神なんかないでしょう。だから、そう都合よくいってないですよ。四〇代は風狂の精神で、五〇近くなったら世捨人になって深まっていった、なんて、そんな研究者の言葉に耳を傾けないで下さい。そんなに、人間・人生ってのは、そう簡単に、ここからここへっていうふうに変わっていくもんじゃない。いろんな要素を含みこみながら、矛盾の中で死んでいくってのが、人間だと思います。で、その意味で、No.4を見て下さい。

<No.4-上段左端の注・芥川龍之介の芭蕉論>

 芥川龍之介の芭蕉論の一節でございます。これに、僕は全面握手なんですけど、みなさんはどうなんでしょう。「芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かったのではないであろうか? /僕は世捨て人になり了せなかった芭蕉の矛盾を愛している。同時に又その矛盾の大きかったことも愛している。」いかにも、芥川文体の、その発想の言葉でございますが、いかがでしょう。私も、実は、このとおりに思っております。半世紀以前に、芥川は、こんなふうに言ってんです。私は、「言いおほせて何かある」じゃなくて、言いおおせてる、と思います。だから、第一段落はこうで第二段落はこうでてな、単純なものじゃないってことです。


  8.弟子たちの芭蕉論・蕉風歌仙を読むための基礎知識…… 
<No.4-下段 『去来抄』 ・「赤さうし」 からの引用>

 それから、下段に書き込んだもの、これは、蕉門の人々が書いた芭蕉論――句に即した理解をできるだけ探し求めて書き込んだものです。句をどうつかんでいくか、あんまりこむずかしいことは、僕には、わかりませんが、まず、原点として、同じ時期の、本来の読者というに近い人たちの理解がどんなものであったか、これを読むことで、芭蕉の表現場面がつかめてくるんじゃないか。だから、みなさんの芭蕉研究はこういうところからスタートなさってみてはいかがだろう。そういうご参考までに並べてたのがNo.4ですし、これに即して、連句というものはどういうものかを、みなさんとご一緒に考え合いたいと思ってるわけです。
 で、No.1に戻って下さい。

<No.1-2 「歌仙一巻」の構成表・ 3 『水無瀬三吟』・ 4 『猿蓑』(「梅若菜」の巻 表六句)>(2)

 蕉門時代は、歌仙が連句の代表形式でございました。2で御覧ください。要するに、二枚の懐紙を使って、初めの懐紙を初折、二枚目を名残とします。そして、初折は表六句、裏が一二句あります。二枚目の名残の表が一二句、裏が六句。合計三六句、三六句だから歌仙です。
 で、最初からご覧ください。発句・脇・第三、で、約束事がございます。実は、連歌の時代から、否定すべきことは否定しながら、それをできるだけ受け継いだのが蕉門なのです。
 発句・脇については、<No.1-2の注『山中問答』>に、どう詠まねばならんかってことが書いてあります。今日は省略いたします。
 いろんな約束事ってのが連歌から出てるって言いましたが、3を御覧ください。宗祇が発句を詠んでるわけです。で、だいたい、これ、俳諧の方も同じでして、御主人があるわけです。連句を詠むときの会がありまして、その日の主人がいまして、主人が脇を付けるのが普通です。そして、お客さまを何人か連衆としてよぶわけですね。その連衆の中の主賓に発句を詠んでもらうわけです。したがって、4の方を御覧くだされば、主賓は芭蕉で発句を詠んでいる。乙訓、これが主人でして、そこで脇を付け……こういうふうなかたちでございます。
 で、3を御覧ください。「雪ながら山本かすむ夕かな」――「かすむ」ってのは春の季語なわけでしょう。右の2の表と比べてみて下さい。発句は季がなければならない。この場合は春が季になっている。脇も春でなければならぬ。「行く水遠く梅にほふ里」――春ですね。第三は、できれば季語を、しかし雑でもかまわない。この場合は、季があります。「河風に一むら柳春見えて」。第四にまいります。第四は平句で雑ですね。第五「月やなほきり渡る夜に残るらん」――ここは秋になっている。「月の定座」で、月を詠みこみなさいということです。第六句、これは秋でなきゃならない。「秋は暮けり」とありますでしょう。こういう原則なんです。
 4を御覧ください。蕉門の完成形態です。「梅若菜鞠子の宿のとろゝ汁」――「梅・若菜」が、春でしょう。脇「かさあたらしき春の曙」、春・春と続いてますね。第三「雲雀鳴く小田に土持頃なれや」――「土持頃」は田に土を盛るあれですが、時間があれば次回に話します。その次はどうですか。「しとぎ祝ふて下されにけり」、雑でしょう。第四は「片隅に虫歯かゝへて暮の月」……可笑しいんですが……「暮の月」と、月の定座でしょう。第六は、「二階の客はたゝれたる秋」、秋の句でしょう。こういうふうになっていくわけでしょう。だから、連歌の伝統ですね。蕉門は、なるべく、それにつながるかたちをとったんです。

 5を御覧ください。連歌以来の伝統に背中を向けた姿がでてくるかと思います。
 今日は、まあ地ならしだと思ってます。次回は、この前提でここから先へ追ってまいります。




【参考】 文学講座の全体構成  ( * 本ページ掲載)


  婦人のための文学講座 《歴史の流れにきらめく文学》 
             ・会期 1980年9月26日~1981年6月19日
             ・会場 東京都目黒区大橋区民会館
             ・時間 毎回13:30~15:30

Ⅰ 世阿弥の世界 法政大学教授  表  章
       (1) 「花」の理論   9月26日
      (2) 「夢幻能」の成立  10月24日

Ⅱ 西鶴文学の世界  国立音楽大学名誉教授  熊谷 孝
       (1) 封建制下の民衆の生活と文学  11月21日
       (2) 喜劇精神  12月12日
       (3) 自己疎外――雨月物語の世界へ  1月16日

Ⅲ 芭蕉文学の世界  熊谷 孝  *
       (1) 雑階級者の孤独と倦怠  2月20日
       (2) 帰俗の精神  3月20日


Ⅳ 近松世話浄るりの世界  和光大学教授  荒木 繁
      (1) 心中物の世界  4月8日
      (2) 封建制下の家庭悲劇  5月20日

Ⅴ 近代詩の夜明け  熊谷 孝
      (1) 蕪村から北村透谷へ 6月19日