< 熊谷孝 文学講座記録 Ⅰ、Ⅱ >

1981年2月20日
1981年3月20日
婦人民主クラブ再建連絡会議主催

    文学講座 芭蕉文学の世界 (Ⅰ)
文学講座 芭蕉文学の世界(Ⅱ)
文学講座 芭蕉文学の世界  レジュメ(資料)

   芭蕉文学の世界(Ⅱ) 熊谷孝 (1981.3.20)    〔テープ起こし・井筒、芥川〕

   帰俗の精神




  1.象徴詩としての俳諧・俳句/抒情詩としての和歌
 レジュメNo.1をご覧ください。何から話題にするかといいますと、まず、芭蕉以前・蕉風以前の俳諧について話題を組みたいと思っております。で、明治期の代表的な文芸評論家・島村抱月なんですが、彼が近代文学者という視点から――つまり、正岡子規のような、近代における俳句の作者とか俳論家という視点ではありませんで――近代文学、来たるべき近代文学の立場から、日本の伝統を振り返りまして、次のような発言をしていることは御承知の通りであります。つまり、和歌と俳諧、あるいは和歌と俳句について、彼は次のようなことを申しております。
 和歌というのは抒情詩である。国際的な文学概念を適用するならば、和歌は抒情詩なのだ。これに対して、俳句・俳諧というのは――と言って、彼は何か不思議な言葉を使うのですが、次のように翻訳していいと思うのです――象徴詩の世界だ。シンボリックな詩の世界だ。和歌と俳諧とは根本的に違うんだと。この点をふまえることから、過去の俳諧論も、過去の和歌論も展開すべきだし、和歌や俳諧を今日に復活させるべきかということも考えるべきなんだと。こういう重大な発言をしているわけであります。
 で、抒情詩の、象徴詩の、といっても、それはものは程度でありまして、抒情のない象徴ってない。ただ、のっぺらぼうな抒情ですね、「私はこう思う、こう感じる」・「私は震えがとまらない」ということをただのっぺらぼうに抒情するのではなくて、それにストップをかけたものもあれば、のっぺらぼうなものもあるというわけでございます。
 これを具体的に申せば次の通りであります。一般な的な短歌の世界を考えてみますと、「何々で人ぞ恋しき」というような――いま、結びのとこだけに目を留めてみますが――言葉や「しみじみとしたあわれを感じる」というような言葉で結んでみたり、あるいは、富士山の美しさを讃えるために、「富士の姿ぞめでたかりける」というふうに、自分の感情を端的に抒情していく……こういうキャラクターが和歌の全般的な一つの姿勢であろうかと思います。
 で、あとで話しますが、これにストップをかけた偉大な詩人は、他でもない藤原定家だというふうに私は考えておりますし、その定家の仕事をどれほど意識してか否かは別として客観的に見れば、定家の和歌文学において果たした役割を、あるいは、果たそうとした役割を、ある意味で発展的に受け継いだのが俳諧文学の芭蕉であったろうか、こんなふうに私は考えております。
 ともあれ、「富士の姿ぞめでたかりける」というその抒情の姿を思ってみてください。俳諧は――端的にわかり良く俳句をとりますけれど――まるで違いまして、「富士の山」というのがでましたけれど、「富士がめでたい」の「富士の姿に感動した」のとは書きませんで、「元朝の見るものにせん富士の山」、むろんこれは床の間の掛軸の絵を指してはいるんですけど、「今日(きょう)に最も相応しい富士の姿だ」ということなんですが、「目出度い」とも「美しい」とも「感動的だ」とも書いておりまでん。「元朝の見るものにせん富士の山」です。
 つまり、感動を、我に、また他の人々に及ぼすような対象を、対象を設定するところの素材ですね、それを出していくわけなんです。そのものに、言葉に託したものに、さらに我が感動を託すわけなんです。つまり、象徴するわけであります。感動をのっぺらぼうに述べるわけではないのです。

<レジュメNo.1ー8 「談林派の俳諧」 の① >(1)

 ……で、No.1の二段目ををご覧ください。
  「富士は雪三里裾野や春の景」(宗因)
 西山宗因の句であります。富士が美しいとも……言葉としては何もないわけです。しかし、感動が宗因自身にあるわけです。「春の景」の象徴として富士を感じるわけです。「裾野」――文字どおり裾野でございます。お尻の方が広いんでございます。その広大で伸びやかな姿、それを詠み上げるだけでございます。それを美しいとも目出度いとも書いていないんです。この言葉、そしてこの言葉に託したそのものに託すわけです。
  「菜の花や五本咲きし松のもと」 (同)
 もう解説を要しませんね。
  「玉笹や不断しぐるゝ元箱根」 (西鶴)
 みなさんご経験の箱根路を思ってみて下さい。そして旧街道をできうれば思ってみて下さい。「不断」は、絶え間なしに・ひっきりなしに、です。ふもとから登ってきた時はからからのお天気だったが、今は箱根に来てみれば、朝から時雨れている、その情景だというんであります。いろいろな感動がこめられていますね。
  「大晦日定めなき世の定めかな」 (西鶴)
 無常の世なんですけど、その無常の世にも定めがある。その定めが大晦日。一年生きることは必ず大晦日を経験する、借金取りを経験する。あるいは、涙がこみ上げてくるんだが――今度は掛取りの方です――自分は生きるために相手を傷めつけながら、「金がないなら、お前の敷いているもの(病人に言います)を持っていく……いや掛け布団よこせ」とか、こうやって取り立てをやる。でも、心ではやっぱり泣いている。死ぬか生きるかの町人の悲しみとこんな行動をとらねばならない自分の怒り、自分に対する怒りとか悲しみとか……。いったい、こんな状況に我々を追いこんでいる根源は何なのか、そういうふうな特有な気持ちが、「大晦日定めなき世の定めかな」……。取り立てられる側、取り立てる側、年に一度はどっちかの立場に自分が立たねばならぬ新興町人たちの姿、常の町人たちの姿、その悲しみや憤りを歌った句ですね。
 「悲しい」の、「いきどおろしい」のという言葉、一つもありません。「大晦日定めなき世の定めかな」、象徴詩でございます。抒情詩ではございません。しかし、この象徴詩にこそ、真の怒るべきものに対して怒り、泣くべきことに泣く、あるいは、その泣きをこれえてじっと堪えていく……そういうものが象徴されていくわけです。これは、連句の中の一句(発句?)ではございませんで、発句形式の発句、すなわち俳句でございます。この中にも、和歌との違いが判然と見ていただけるんじゃないかと思うわけでございます。


  2.句の独立性――連歌から俳諧へ

 ……今度はちょっと(前回とは)角度を変えて、3を見てまいりましょう。俳諧以前の連歌の世界です。連歌と俳諧とどこが違うんだ、同じじゃないか、とおっしゃられると、ある意味では、形式は全く同じものです。ただ、つかみ方が違うわけです。俳諧の方は、町人的現実とか、一七世紀の都市市民の感情とか、農民の感情とか、その感情において描いております。当然、言葉の選び方も違ってくる。句のつながり方も違ってくる。かたや斜陽貴族を中心とした『水無瀬三吟』、あるいはその周辺にある人間の感情において詠まれていくわけです。善かれ悪しかれ古典的でございます。ちょっと読んでみますと、「雪ながら山本かすむ夕べかな」……ここにでている感情というのは別段新しい感情ではございませんでしょう。抒情詩であるところの短歌の世界に展開している感情と寸分違わない、そのような感情でございましょう。
 そういう意味での新しさはございませんが、しかし、古いものは一概にいけないんじゃなくて、古さのもつ良さと申しますか、そういうものは充分でている句づくりなんだと思います。で、ここで一つの特徴をお感じにならないでしょうか。発句の「雪ながら山本かすむ夕べかな」、脇の「行く水遠く梅にほふ里」、第三の「河風に一むら柳春見えて」、表六句を通して、それぞれ、前の句と切り離し、あとの句と切り離して独立させて読んでみていただきたいのです。
 「雪ながら山本かすむ夕べかな」――一つの独立した世界を形成しておりませんでしょうか。これは発句形式の発句だといっても充分とおるんじゃございませんでしょうか。脇は、七・七ですから俳句とひとしなみに扱うことはできないにしてもですね、それで独立性をもっておりませんでしょうか。「行く水遠く梅にほふ里」――充分情緒豊かな春の日の……ぽかぽか陽気と申しますか、そういったものを体で感じとりながら、そういう世界を展開しておりませんか。第三の「河風に一むら柳春見えて」、前の句と切り離して下さい、後の句と切り離してください。この句だけで充分、独立性を持ってはいませんでしょうか。
 あと読みませんが、それぞれの句が立派な独立性を持っている。これすぐれた連歌の一つの特徴であります。前の句につなげてみないと意味が成立しない、情緒がでてこない、そういうものとは違うんです。立派に、そのそれぞれの句が独立性をもって個性をもっている。個性というには、発句の個性と脇の個性、第三の個性があまりに似通っていて、その間の個性的なものというのは感じませんが、にもかかわらず、広い意味での個性をそれぞれの句に感じる、こういう世界なのであります。

<No.1ー5『江戸両吟集』>(1)

 ところが、……貞門を一つここに連句をとらなくて申しわけなかったのですが貞門はカットして、左のページの5にいって下さい。桃青と素堂(信章)との両吟ですね。二人で連句をかわり合って詠んでいく形式が両吟ですね。一人で五百句、千句と詠んでいくようなのは独吟ですね。山口素堂(江戸談林の代表的作家)とまだ江戸へ出てきて数年しかたたなかった桃青(芭蕉)とが両吟した句集でありますが、発句は(「この梅に牛も初音と鳴きつべし」)――桃青ですが――これは発句としての独立性があると思いますが、あとずっと御覧になって下さい。
 「ましてや蛙人間の作」(信章)――発句ぬきにして意味が成り立ちますか。独立性がないんです。その次の句(「春雨のかるうしやれたる世の中に」(信章)……「酢味噌まじりの野辺の下萌」(桃青)……ちっともわかりません。「擂鉢を若紫のすりごろも」(桃青)――意味の通じない駄洒落でございます。つまり、句としてのそれぞれの独立性を欠いているんです。脇は当然発句を支えるためのものではありますが、しかも、独自性・独立性がなければ文学とはいい切れないように思います。

<No.1ー上段の注『破邪顕正』>

 上の段の注を御覧下さい。これは、談林派を目の敵にした、談林派にとって代わられた貞門ですね――松永貞徳一派の――その貞門の立場から、新しがりの談林に対する批判の書が出版されました。『破邪顕正』(はじゃけんせい)――その中に、談林のマイナス点を批判したこんな言葉があります。読んでまいります。「あまり上手過ぎて一句の埒あかず」――一句としてのまとまりがついていない、それぞれの句が独立性を欠いている。このことは含みとして、例えば『水無瀬三吟』のようなかつての連歌の伝統をふっきっているが、いい意味でふきっているのではなくあれから低下している。せっかくの連歌の良さを――今度、俳諧という名前に変わったときに、お前さんたちは――文学を見失っているではないか、リズム感覚がないのではないか、ということを言っているわけです。
 「前句への理屈を仕かけて」――前句へ無理矢理こじつけて、連絡をつけて――、「一句の出来やう成次第に仕立てるをよしとする故に」――即興的に作るのがいいと考えるから――、「異やうの狂言」に、お前さんたち談林の俳諧は成り果てたという批判です。

 で、「狂言」と申しますのは、実は二つございます。連歌の時代から言われていることですが、連歌の中にも俳諧の連歌が生まれてくる。能連歌を省いた俳諧というようにやがてなるという経緯がございますが、その場合、俳諧というのは連歌に対してかたちは同じだけれど性質は違う。連歌というのは、あのお能、世阿弥・観阿弥・金春……あのお能なんだと。それに対して、能狂言――能に対する能狂言というポジション・位置づけに俳諧はあるんだ。能になったら連歌に帰っちゃうんでペケなんだ……。
 然り而して、同じ狂言でもですね、歌舞伎狂言ではいけないんだ。それは、連歌でも俳諧でもない。つまり、詩でないもの、文学でないものに成り果てるから。「かぶき」という言葉は「傾く(かぶく)」という動詞の連用形の名詞化したもの、品詞の転成したものですね。傾く狂言なんですね。「傾く」というのはバランスをくずすんです。そこに歌舞伎の特徴があるわけなんですけど……だから「異やう」なノーマルでないアブノーマルなもの、それが歌舞伎という言葉に託されている。歌舞伎狂言になってはいかん。くり返します。連歌は能である・俳諧は能狂言である。然り而して、歌舞伎狂言ではこれは非文学である。
 ところで、ここにはっきりあるように、「異やうの狂言」に、つまり、能狂言ならぬバランスをくずしたアブノーマルなそのような狂言に成り果てている。お前たちのは、詩でもなけりゃ文学でもない。こういう批判が生まれてくるわけですが、この批判は、いい点から目をそらして悪い所にだけ目をつけた言い方なんですけど、それは重々わかるんですけど、『江戸両吟集』を御覧になればわかるように、確かにそれぞれの句に独立性がない。ただ前へもたれかかったり、後をただひたすらたよりにししたりで、その句だけ読むとなに言ってんだかちっともわからない、というものになっているわけです。

<No.1ー5『江戸両吟集』>(2)

 念のために、5をちょっと見ます。「初音」とくれば鶯に決まっているわけです。鶯が鳴くのはあたりまえですけれど、牛がモウーと、牛も鶯に加わって鳴いている。やっぱり、牛は牛なりに感動してんだなあ……モオーと鳴いている、これが初音じゃという、そこのところでひとひねり捻ったおかしみ。俳諧なんでございましょうね。これは当然独立性をもっておりますが、脇はさっき言った通りです。
 「ましてや蛙人間の作」――私も結局わからないのですが、「牛ですらましてや蛙」とこうなるわけでしょう。牛だって、この梅の美しさ・春の喜びに鳴声で表している。蛙にいたっちゃその春の喜びをたっぷりたっぷり、ギャーギャーと鳴いている、とこう言うんでございます。いままでの鳴き方と違うんじゃない、そう思ってみればさ、というやつなんです。
 「人間」てのは、いろいろ調べてみましたけれど、当時まだ「にんげん」という使い方皆無かどうか知りませんが、あたったかぎり、「にんげん」て言葉でてきません。つまり当時は「ひと」とか「ひとびと」と言っております。「人間」という言葉の場合は、もちろん「じんかん」とも読む言葉でして、人間と人間との間、つまり社会とか世の中とか、浮世とか、そうした意味にどうやら用いられているというところにやっとたどりついたのが、いま、私の現状であります。
 「作」ってのは、人間の作為という意味、人間が手を下して作ったもの、作ろうとしたもの、それが「作」でございます。つまり、ある感動を象徴するためにある対象を選び取る、言い換えればある素材を対象化するわけです。蛙の鳴声という材料・素材を春の賛歌として対象化する。思えばですね、万葉このかた蛙というのは、歌の上の雅語としてずうっと使われてきてますね。万葉の場合、蛙っていうのは河鹿のことですね。それが、中世・近世にいたっては、蛙ってのは……混同されて……本来の河鹿っていう意味を失ってしまうわけですけど、そういう知識は、この作者たちにはむろんないんでしょうけど、思えば万葉このかた蛙は春の象徴として、あるいは春の喜びを奏でる声として、蛙の声が詠まれてきている。人間がそうやって対象化し創作したものである。牛に新春を讃えるなんていう象徴はございませんね。モオーってのは春の喜びじゃございませんね。しかし、牛にさえそれを感じる。いわんや、蛙は古来万葉このかたね……こういうことになっていくわけなんでしょう。独立性のない……。
 その次の句も、なんだかそれだけではわけわかりません。「かるうしやれたる」――かるくしゃれて、の意味です。それを承けて芭蕉が詠みます。「酢味噌まじりの野辺の下萌」――春雨でもって野辺が潤って、地べたが芽をふきだしてくる、これが「下萌」でございますね。その色あいが「酢味噌」みたいな感じだってことなんでしょうね。それと同時に「下萌」によっては、それは、酢味噌にほうりこむとおいしいんだそうですね。そんなのをごちゃごちゃっと詠んだものです。
 それを今度は承けて――承けてというとかっこいいけど、前句への理屈を仕かけて、です、貞門風に言えばですね――「酢味噌」だから「擂鉢」で摺るんで「擂鉢」。で、「擂鉢」だから「すりごろも」摺るというふうにもってく。「若紫」は、これは薄い色合の紫色です。「すりごろも」と通せば、染草ですね、染草で模様を摺りあげる。その摺りあげたおべべのことを摺衣と申しておりますね。
 「むし働きの男ありけり」――これがわからなかったんですけど、幸いいろんな異本が『両吟集』に見つかりまして、これはおそらく――僕、人のものから取ったんですけど――ミスプリじゃないかと思います。「むかし働きの男」……それからさらに別の異本を見ますと「庭働きの男」……ともかく、どっちが間違っていてどっちが正しいじゃなくて、両方とも人びとに愛吟された言葉なんでしょうね。

<No.1ー6「宗鑑の前句付」>

 で、6へ順序を追って下さいますか。これは、まだ俳諧の連歌といわれたころの連歌の中のおかしみの連歌ですね。代表作家・山崎宗鑑の代表作、前句付ですね。前句付は、江戸時代の後期にも流行いたしますが、そもそもが足利時代・室町時代に流行したもので流行らした代表的な人物が山崎宗鑑であります。
 これ、「なぞなぞなあに」みたいなもんです。五・七・五・七・七の七・七を先へやるわけです。「なんとかとかけて、なんとかと解く、心は?」ってやつですね。その心を導くものを後で詠む、一人で詠むんです。
 「あつたらみかんくさらかしぬる」
 「あつたら」――「惜しいなあ」です。みかんを腐らしちゃった。大事にしすぎて腐らしちゃった、というだけなんです。ただ、ここで、風俗的な知識として必要なのは、みかんてのは、当時の貴重品で、西鶴のときに申しあげたように、みかんが我々の口へ自由自在に飛び込むようになるのは、江戸時代に入ってから、しかも、元禄期以後の現象です。しかも、まだ、貴重品だったんですね。紀国屋文左衛門の、例のみかん船を思ってみて下さい。何よりも商業的農業として、封建的農業ではなくて商業的農業として、農民たちが果樹の栽培をしたわけです。それが土地柄でして、駿河国(静岡県)、紀州(和歌山県)あの辺が中心になって行なわれるようになった。それからは貴重品ではだんだんなくなっていって、大衆の口に入るようになりますが、この室町時代なんてのはめったに人の口に入るものじゃないですね。
 織豊時代から江戸時代の初めにかけての頃に、例えば、悲劇の女性がいますね、千姫。徳川家康の孫娘・秀忠の長女、豊臣秀頼夫人で……そして、助けだされたというか無理矢理つれ出されて、あっちへ嫁さんにやられこっちへ嫁さんにやられ、政略結婚で生涯傷めつけられた気の毒な人がいますね。それでひどいのになると、なんか千姫というのは妖婦だとか……実は、本当に気の毒な、そしてヒューマニスティックな感情を持った人であることが、いろんなものを通して知られますね。
 例えば、例の駈込み寺・縁切り寺――鎌倉の東慶寺。千姫の手紙があのお寺に保存されております。ただ、千姫直筆ではなくて千姫の御右筆の書いたものですけれど、文章自体は千姫のもののようであります。あそこは、御承知のような女性たちが暮らしているわけですね。それに千姫は非常な同情をもつわけです。我が身にひきくらべて、いたぶられた同性に対しての同情と、いたぶる相手への怒りとかですね。そして、どうあっても守りぬかねばならぬこの治外法権の寺。で、いま、苦しんでいる女性たちに向けて贈物をするわけです、彼女は。
 その手紙によりますれば、「……御厚意によって、私のところへみつかん二箱献上された。その内一箱を、こちらへのお寺へ寄進する。どうぞ、気の毒なあの人たちと御坊様尼様、ご一緒に召し上がって下さい」という意味の、心あたたまるような手紙を、(以前訪問したときに)見せていただきました。
 要するに、「はん、みかんか、腐ったっていいじゃないか」なんてものじゃなくてですね、「あつたらみかん」――「あたら」ではなくて「あつたら」と言いたくなる気持ち、どうぞ汲んでやって下さいませんか。惜しいことして、もう何か夢に見る悔しさね。
 で、どうしたんだと言うと、――今度はなぞ解きの心の方です――「正月のちやの子にことをかきばかり」――「ちやの子」はお茶請け、お正月のお茶請けにすっかりことを欠いている。「かきばかり」の「かき」、言うまでもなく果物の柿です。これは珍しい食物じゃありません。あるのは柿ばっかし……どんな珍しいお客様がいらしても柿しかない。暮に腐らしちゃったよ。お正月に用立てるために大事にしすぎちゃって……せめてあのとき自分で食べちゃえば良かったのに、という気持ちですね。
 その次は、「せんたくせんをあんじこそすれ」。「せんたく」は神様の御宣託です。籤を引いてみたら何とかと書いてあったとか、あるいは、神主さんが拝んでくれたら、神様の御宣託は「かくかくである」と意味のわからないことを言う。いったいどういう意味なんだろう。「あんじこそすれ」――一生懸命、神様のお考えをあれやこれや考えたという意味ですね。それ以外にありません。
 ところが後を見ると違ちゃうことは申すまでもありません。「なれぬればころもの虫もかはゆくて」――「ころもの虫」とは虱のことです。ぼくはたっぷり経験があります戦時中……さんざん経験しました。でも、この心境には、ぼくはなれなかった。「かはゆくて」――かわゆくない、憎らしいんですよ。この人はかゆいんです。
 そこで前へ戻るんです。「せんたくせん」――お洗濯です。「せん」は「しようか」という意味です。「洗濯せんか否か」です。洗っちゃうと虱は死んじゃうわけです。かわゆくて死に至らしめることは出来ない。でも、痒いことは痒いんです。どうすべえか、という笑いなんです。
 これが詩なのか詩でないのか、みなさんのご判断にまかせますが……これが俳諧史の第一ページに出てくるわけです。

<No.1ー7「貞門」>

 次に貞門ですね。そこで、いわゆる俳句を選びました。これも有名で説明を要しません。
 「冬ごもり虫けらまでも穴かしこ」 (貞徳)
 「穴かしこ」――「あなかしこ」、手紙の最後の言葉で「さよなら」という意味の言葉ですね。虫たちまでも冬ごもりして穴に入っちゃったというだけのことですね。言葉洒落です。
 「山の神の耳の病ひか蝉の声」
 みんみん蝉です。たまったもんじゃない。さぞや山の神様、ほとんど……だろうというわけです。
 「しをるゝは何かあんずの花の色」
 くだらないですけどね、言葉洒落です。「あんず」は「あんずの花」……と「案ず」、あんずの花が凋んできちゃった、何か心配ごとがあるのか、というわけですね。
 「雪月花一度に見する卯つ木哉」
 卯の花の特徴ある色彩ですね。多様な色彩。その花を思うと雪を思わせる、月影に雪があるごとく見える……それを言ったんですね。
 「皆人のひるねの種や秋の月」
 秋の月の美しさをこういう言い方をしているだけです。あんまり寝る気にならないで、一晩中まんじりともしないで月を見ていた。そのあげくは、翌日、朝寝どころか昼まで寝ている。夜になってまた目をさまして……いびきかいて寝ている……ということを言っているだけです。
 「涼しさのかたまりなれや秋の月」 (貞室)
 それに比べれば多少ましなのは、その次の、彼のお弟子の貞室での句です。秋の月の涼しさ、それから皓々と冴えわたった月の色、それの心を打つ姿を言っているわけですか。
 「まざまざといますが如し魂祭」 (季吟)
 最後の句、これは素敵でしょうね。お前の俳句感覚は古風だと言われればそれきりですが、何かいい感じしませんか。実感を美しい言葉で、あるいは、言葉の美しい操作の中で詠み上げられている……そんなふうに言えるんじゃないでしょうか。

<No.1ー8「談林派の俳諧」①②③④⑤>(2)

 ところで、(レジュメの中段の)①、この辺になると、貞門とくらべて、文学としての深まりみたいなものを感ぜざるをえませんね。「涼しさのかたまりなれや秋の月」と「菜の花や一本咲きし松のもと」、まるで違うでしょう。詩の世界ここに実現する、顕在化する。そんな印象を受けるんでございます。そして、人間から切り離された風景の美しさとは違って、「大晦日定めなき世の定めかな」。ここまでくれば、談林の存在理由(レーゾンレートル)は明瞭である……。
 ②「此頃は寝ても覚めても空を見る (西鶴)
     出雲千俵売つてのけうか    (同)
 これは西鶴の独吟の中の二つつながったところを拾ってみたわけです。米商人(あきんど)の気持ちですね。いちかばちか賭けてるんです。しかも、恐らくは、常の町人二代目の心境ですね。なけなしの金、金融できるだけの金融の手づるをつかんで、金を手にして船を雇って、はるばると海路ですよね、日本海から瀬戸内へとかけて、下関を通って船が向かって行くわけですね。しかし、当時の船はもろいんですね。時化にあえば難破して米を捨てなきゃなりません。その時は破産・倒産ですね。借金が返せなければ、入牢……牢屋につながれる身になります。もし日和に恵まれれば、一攫千金、財産が産まれますね。これより生きる道がない。その商人、しかも大手の商人ではない、西鶴の描くような手前よろしき商人ですね。まあまあの商人たちの気持ちを歌い上げている句でしょう。「此道は……」――時化にならんでくれれば……雲ひとつひっかかっても気になる、その気持ちですね。
 で、句のつながりはいたって下らないんで、「空」――「出雲」――空に雲が出るんでしょう。「出雲」の米買うというのも、だいいちおかしいんですよ。あの越後とか、日本海側で言ったら米所はたくさんあるわけです。九州だって、熊本とかいろんな米所がひかえているわけです。その米を買うと言ったら素直に通るんです。そこはどうしても物付的な(心付に対する)制約に縛られている西鶴の姿がここにあります。素晴らしい素材とか素材の対象化を行いながらですね、しかもこういうところで縛られている西鶴の限界。彼がやがて浮世草子につっぱしっていく――いい意味ですよ――やがてこういう拘束に拘束されない自分の世界を求めて散文文学の世界へ移っていく、そういうものを予測させる姿をこの辺に見るわけであります。
 ③「さればこゝに談林の樹あり梅の花」 (宗因)
   「世俗眠りをさますうぐゐす」      (雪柴)
 さて、そもそも「談林」て名前は、彼らが談林派と唱え、世間も誰言うとなく談林派と言ったのは――これは百韻の中の発句と脇ですが――ここから出てきます。西山宗因が中心人物です。「されば……」――「談林」と申しますのはお寺・寺院です。ただし、今日のお寺さんと違って墓守じゃありません。インド哲学ならびに中国哲学の研究所です。学僧たちの学舎(まなびや)なんです。つまり、アカデミーなんです。
 「されば……」――春を歌ってるわけですが梅の木はただの梅の木ではない。談林の梅なんだ。梅ひとつ見るんでも昔の花鳥風月的な見方で、梅のきれいな、桜は美しいとやるんじゃないんです。談林の精神で見るんだと。言い換えれば、知性・主知主義――その立場を鮮明に表しているのがこの言葉であります。談林派とは知性派という意味であります。その際、中心の人物が井原西鶴であります。花鳥風月の世界に満足しないんであります。
 で、脇をつけた雪柴も、師の心を本当に汲んで、脇を詠んでいます。「世俗眠りを……」俗流・俗世間――俳諧の世界で言えば貞門の世界、あの通俗な貞門、それから、通俗な、「もうかりまっか」の町人たち――それの否定であります。その世俗どもの眠りをさますうぐいすが談林の梅の木で鳴いていると。我々はうぐいすだ、知性のペンで揺さぶりをかける……こういうふうなすばらしい宣言があります。なるほど、「寝ても覚めても」や「大晦日定めなき」の句も生まれるはずだ、プラスの面ではそういう指摘もできるわけですが……。
 ④「松に藤蛸木にのぼるけしきなり」 (宗因)
   「三かしら鶉鳴くなりくわくわくわいくわい」 (西鶴)
   「りんりん鑵子底ぬけなあに花に酒」 (顕他)
 ところが④に至ると、なんじゃらほいとなるわけです。「松に藤…」――松は大木なんです。それに、藤蔓が這ってるんですね。これはまるで蛸なんですね。足ひろげて木へ登ると見える。そういう見立てなんですこれは。松に藤蔓があって、旧弊な貞門的見方で見ようとしない――そこまではいい――どう見ちゃったっていうと蛸なんです。
  その次にいたってはもっとひどいでしょう。鶉が鳴いてんですけど、「三かしら」(三羽ですね)……うるさいでようね、「くわいくわい……」と。それを書いただけですよ。
こんな調子のが、ほんとうにどうしようもないのが出てくるわけであります。
 ⑤『江戸三吟集』(延宝五/一六七七/三四歳)
  「あら何ともなやきのふは過ぎて河豚汁」  (桃青)
 …… ・ …… ・ …… ・ …… ・ …… ・ …… ・ …… ・
  「  質のながれの天の羽衣     (信章)
   田子の浦浪打ちよせて負博奕  (信徳)
     不首尾で帰る海女の釣舟   (桃青)」
 芭蕉も、江戸談林の代表的な点者でありました。彼らの三吟であります。「あら何ともなや……」――こんな調子の句を詠む彼でもあったわけであります、この時期にあっては。
 「あら何ともなや」というのは謡曲の調子を活かしているわけでしょう。きのう河豚食べちゃったよ――心配してるわけです。一日大丈夫だった。今晩あたりダメじゃないかってやつですね。
 で、間は省きますが、その付俳、なかなかやっぱり新興町人の世界に密着した表現になっていること御覧下さい。
  「  質のながれの天の羽衣」  (信章)
 謡曲の場合と違って、天の羽衣を漁師は取り上げちゃったんですね。がめついやつで、そういう転合・冗談です。天の羽衣を取り上げて、「質の流れ」ですから質入れしたんですね。その質入れしてどうしたか、暮らしの足しにしたかどうかはこの句だけでは分かりません。それを信徳が付けます。
  「田子の浦浪打ちよせて負博奕 」  (信徳)
 質入れして得た金でもって、博奕打ちに行ったんですね。失敗したんですね、すっからかんになって、漁師ですから、田子の浦です。釣舟を漕いでしょんぼりと後悔しながら、今度は勝ってやるなんて思いながら帰っていく姿。
   「 不首尾で帰る海女の釣舟」  (桃青)
 それに芭蕉が付けます。ずいぶんくどいですがね。「質」に「不首尾で」帰っていく、漁師の釣舟の姿……。なんとはなしに独立性はなし、ということなんであります。

<No.1ー二段目の注「阿蘭陀丸二番舟/宗因」
>   (※ 青松軒木原宗円『阿蘭陀丸二番船』にみられる宗因の言)

 で、この調子でいきますと、⑤はいいんですけど、④の調子で見ていくと左の二段目の注「好いた事して遊ぶにしかじ、夢幻の戯言なり」という宗因のセリフになるわけであります。どうせこの世はたいしたことはない。好きなことをやって、短い一生を過ごした方がいいよ。思えば、俳諧というのは詩だなんて言うけど、「夢幻の戯言(けげん)」に過ぎぬのだよ。こんなセリフを談林派の御大が口にしてますし、こういうことを口にしながら、実は、俳諧を自己否定して、彼は、要するに、俳諧では駄目だ、詩ではないんだと。俺も俳諧をやって駄目になってきた、この辺で立ち直らなくちゃーてんで、彼は連歌師として復活いたします。というと景気よさそうですけど、連歌師に落ちぶれるわけであります、文学史的に言うと……。
 さて、西鶴は、俳諧を生涯続けます。けれども、浮世草子に主力を注ぐようになります。彼の俳諧は、死ぬるまで善かれ悪しかれこの調子のものであります。これを遙かに越えた世界を浮世草子の中で実現したことは、『五人女』の世界を思ってみただけでも歴然ではないかと思います。

<No.1ー4『猿蓑』(「梅若菜……」以下、表六句>

 さて、俳諧として、詩として深めていったのは、右ページ下段4の通りであります。これをやりたいんですけど、時間が危ないので二枚目に移るところで休憩させていただきます。
                         ……休憩……
 

  3.深川の芭蕉庵へ/漢詩調・字余りの意味
<No.2ー上段9/付4>

 ……レジュメの二枚目でございます。これ年代を追っているわけです。上段の9「延宝八年/一六八〇/三七歳/深川の芭蕉庵に」。この芭蕉庵、後に火災で焼けるんですけど、最初の芭蕉庵、深川に入ります。なぜ入ったかと申しますと、談林に愛想尽かしをしたんですね。また、談林から足抜きをしようとしたんです。やはり、人間は食うことが先ですから、人はパンのみに生きるものにあらずってことは、パンなしには生きられないってことが前提でして、そのため彼は点者になって、俳句に点数をつけて食ってたわけです。それをさらりと捨てて、芭蕉庵にこもります。この頃に、彼はもう、参禅なんかを致しております。
 で、その時期だと御承知願って、下段も付4「『幻住庵記』(元禄二年/四七歳)』と、そこをちょっとつなげて見てくださいませんか。この間、私はこんな話を致しました。重ねてお名前をだしますが、敬意を表しておるものですから。中村俊定先生が、芭蕉は二三歳の時、蝉吟公に死なれて京都に行ったことは認める。私もそう考える。ある人は、伊賀の上野でかんばっていたというけれど、私は京都へ行ったと思うと。けれども、北村季吟のもとへ行ったとは思わない。禅寺に籠ったんだ。行脚をして、行脚僧として生活費を稼いで、そして、ときおり俳人たちと会って修業したんだ。そう考えるのが妥当であろうと中村先生はおっしゃる。でも、私は違うと、このあいだ申しました。私は、京都説です。やはり北村季吟のもとへ行ったという判断でございます。行脚僧になったんじゃなくて、季吟のもとで修業し、雑役に従事して、それをたつきにして暮らした。じゃあ、どうなるって言うのが、その4なんです。芭蕉は、過去を振り返ってこう書いています。
 「倩年月の移こし拙き身の科をおもふに」と書き出しまして、「ある時は仕官懸命の地をうらやみ」――つまり、一人前、一丁前の武士になろうとして、蝉吟に仕えたその時の気持ちを言っていることは申すまでもございません。その次です。「一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも」――これを、中村先生は、つまり、行脚僧になったというふうに、二三歳から二九歳の間にですね、その何年かを行脚僧になったと御判断なされるわけです。
 で、僕の判断は、上段9にありますように、深川の芭蕉庵に入った時、彼は参禅しておりますので、禅寺に籠っておりますので、そのことを意味していると考えるのが妥当ではないかと、考えております。でも、しょせん、両方とも推定でございます。みなさんの芭蕉論をつくってくださいませんか。
 事のついでですから、4を読み続けます。
 「たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。」自分は、才能がないから、能無しだから、俳諧しかやることができなかったから、俳諧を生涯のものとして、結局俳諧の道一筋に、二〇代から四〇代の終わりになるまで続けている。こういうふうな事なんでございます。で、これは素敵な言い方ですね。ま、正直におとりになる方は、この席にはおいでになりませんね。無能無才を自覚してた謙虚な人だ――冗談じゃないですね。俺には、これしかできないよ、だから、これやっただけさっていうのは芥川の得意の台詞ですね。俺は小説しか能がない、だから、小説書いてるだけさっていうやつですね。自負に満ちてます。そこに使命感が働いています。それから、怠け者でない姿があります。道一筋というのがどんなに大事かということですね。真の自信と自負がありますね。芥川然り、而して、芭蕉も然りであります。禅に凝った時期もある。一丁前の武士になろうとして、一生懸命だった時もある。それから、花鳥風月に身をゆだねたときもある。今は違う。そういう宣言が『幻住庵記』に記されています。

 では、上段の9、延宝八年に戻ります。その頃の彼の句を、ここに二つ選んであげておきました。
  「いづく時雨傘を手にさげて帰る僧」
 「いづく時雨」――ちょっと字余りですね。調子がなんだか俳句らしくないですね。でも字余りを意識してやってる。あるいは、積極的に字余りで表現しようとしている。そして、調子は、従来の俳諧・俳句の姿勢ではない。この間お話ししましたが、漢詩古典をくぐって、現実とぶつかり自然と向かい合う。この姿勢に徹底してますね。直に自然・現実と向かい合うのでなく、古典を仲立ちにしてぶつかり合う。このへんが西行さんと、彼が尊敬している西行さんと違うところですね。そういう点、特徴が出ている点だと思います。後に、彼は、自然詩人西行につながる境地を開拓するんでございますが、それは二〇分後の話になるかと思います。
  「夜竊かに虫は月下の栗を穿つ」
 これは、字余りにしたくなかったら、「夜(よ)、竊かに」と読めばいいんでしょうが、どうしても調子がでませんでしょう。「夜(よる)、竊かに」でしょ。この強さ、このリズムをつくる強さ、字余りでしょう。
 つまり、現在を含めて、物心ついてから現在まで、自分の月並みな俳諧・俳句に対する姿勢、これは詩精神以下だ。真の詩の精神、詩精神を生かすために、どっかでふっきらなければならない、過去を。その時、談林派や何やでやってる調子と違って、明らかに漢詩を表面に出した調子ですね。人はこれを詩じゃない、俳句じゃないというかもしれないが、いいじゃないかっていう調子で創られたものですね。
 で、ことのついでに忘れそうだからお話ししておきますが、これは朝日の天声人語で紹介されていたので、お読みになった方も多いと思いますが、ついこの間、惜しい老詩人が亡くなられましたね。堀口大学先生。僕これ知らなかったんですよ。堀口先生こんなことおっしゃってたってこと。日本語が乱れていると嘆いていた。アクセントが、変になってしまったと。どこに原因があるか、その原因の一つに、小学校や中学校で、やたらに語尾をはっきりさせるのはどうしたことかって……。これ、僕も思うんです。で、いまの「夜竊かに」でも、その調子でこの句を読んだらおしまいです。僕は、ずいぶんずいぶん駄目な男ですから、僕みたいにならないためにって、学生たちによく言うんですが、皆様方にもそう申し上げている訳ですが、堀口さんの言葉です。「日本語が、かわいそうです」。なんか、しみじみきますね。芭蕉も談林の中に身を委ねていて、日本語が、かわいそうですって……そうして、そこで漢詩調の句になっていったわけでございます。
 日本語は、波が消えるように終わりが消えるところがいいんです。そうじゃないでしょうか。終わりが消えるように、連句や俳句を声に出して読んでいただきたいと思うんです。で、アクセントということがありました。もう一つは、鼻濁音です。日本語の美しさを保証する。知ってる限り、わずかにのぞいた限りで言えば、フランス語の美しさを保証してるのは、鼻濁音ですね。シャンソンを鼻濁音で歌わなかったら、どうでしょう。聞いちゃいられない。日本の歌手の人でもいますね。それから、代議士さんが、盛んに、ガーガーやってますね。鼻濁音使えないんですね。で、ある人が書いてます。山口瞳さんのお母さんが、山口瞳さんを教育された頃、鼻濁音が身につくようにと。瞳さんがあるときのこと、九州長崎をナッガサキと言っちゃって、お母さんがカンカンに怒って、それでもう取り合わなかったそうですね。鼻濁音が使えるようになるためにと。また、僕の知ってるある家庭の過去の話です。お母さんが、俳句を子どもたちにつくらせました。やっぱりそれは鼻濁音と、それに語尾を消して口ずさめるようでなくては、自分でも良い句はつくれないからですね。この問題大事なことですね。


  4.『野ざらし紀行』――自照の文学/自己凝視と虚構と

<No.2ー10、11、14>

 レジュメNo.2の9、10……「夜竊かに……」の調子が続いてまいります。11「天和二年/一六八二年/三九歳」――桃青あらためではありませんが、芭蕉となります。
 14「貞享元年/一六八四年/四一歳/『野ざらし紀行』」です。このあいだ申し上げたこと、思い出してください。少なくとも、野ざらしの旅は、何のための旅であったか。多目的の旅であったことは、言うまでもない。部分とは全体のことでありまして、その命になる部分、生命的部分っていうのがございますですよね。で、芭蕉の、少なくとも『冬の日』の野ざらしの旅、その他多くの旅にもつながりながら言えることなんですけど、彼の旅は、連衆を求めての旅である。良き連衆です。一人っきりの時は、連句はつくりようがない。独吟は可能でしょうけど。ですから、『奥の細道』の旅などでは、いろんな所で連句を、『奥の細道』には書かれておりませんけど、つくっております。でも、多くの場合、彼は、曾良を供として発句、即ち俳句をつくっております。が、絶えず、連衆を求めての旅でございます。その連衆を求めての旅のしょっぱなに出てくるのは、どなたも御承知の句であります。
  「野ざらしを心に風のしむ身かな」
 「野ざらし」は、申すまでもない髑髏であります。頭蓋骨であります。野ざらしになることを、覚悟しての旅だ。随分、何かある意味で、悪く言えば誇張の多い句です。だけど、この誇張が、彼にとっては誇張でない本質の面を表している。本当にこういう気持ちなんでしょうね。誇張の面もないとは言えませんね。ふっ切るためには、過去とはっきり袂を分かつためには、誇張が必要ですね。
 「夜竊かに……」のこの句。「いづく時雨」の句。ある意味では、破格な読み方をあえてしたり、ここでも「野ざらしを」という、おおげさって言えば、おおげさです。おおげさにやらなければ、ふっ切れないんです。ふっ切るための仰山な歌い方、詠み方です。でも、それはあくまで副次的でしょうね。主要なものは、本当に野ざらしを覚悟の気持ち、それは単に肉体の上での野ざらしを覚悟したというより、この旅に賭けたんですね。連衆を求めて。本当の連句がつくりたくて、長いこと住んでいた江戸、宗匠、宗匠と立ててくれていたお弟子たち、そこに真の俳諧の上での友人、俳友を見いだし得なかったんですね。そこで、可能性に賭けて、巡り会えるかどうかわからないんです。人生は出会いだっていいます。その出会いを求めて……。そのまま、空しく、その望は果たされないで単に髑髏になるだけの旅かもしれない。でも、可能性を求めて、賭けて、賭けに生きた彼の姿があるわけです。その旅で、出会ったこと。
 「富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣くあり。(「みっつ」と読まずに、「みつ」とお読みください。)此川の早瀬にかけて、浮世の波をしのぐに堪えず、露ばかりの命まつ間と捨置きけむ。小萩がもとの秋の風、こよひや散るらむ、あすやしをれんと、袂よりくひ物なげて通るに……」と、無論この「小萩がもと」しかじかは、『源氏物語』桐壷の巻の言葉をふまえていること言うまでもありませんが、それも大事なことですが、今日は時間がない。
  「猿を聞人捨子に秋の風いかに」
 目の前に「三つばかりの捨子」が泣いていた。それを抱きかかえて彼は去ったか。ノーです。袂より食い物を投げて逃げるみたいにして、去った。その時の心境を詠んでいる。「猿を聞人」は、御承知の通り漢詩の世界です。中国の詩の世界です。「猿」は、寂しきもの、悲しきものの絶頂を指している。また、詩的感動をもたない人は、その真情を味わうことはできない。ああ、猿公が鳴いてらあ、になっちゃう。その「猿」を聞くことのできる人です。詩情豊かな人です。ものの哀れを解する人です。その人の目に、捨子が、なのであります。
 「いかにぞや汝、ちゝに憎まれたるか、母にうとまれたるか。ちゝは汝を憎むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。只これ天にして、汝が性のつたなきを泣け。」
 ノーコメントでいいんだろうと思います。コメントは、必要ないと思います。むろん、目の前に赤ちゃんなんか泣いていない。捨子なんかいやしなかった。彼はイメージしたのです、捨子の姿を。彼の文学は、自照の文学だとよく言われます。当たっていると思います。あまりにも、言いふるされたことだけど、当たっていると思います。自己凝視の文学であります。自分の心を見つめたときに、目の前に、現実でないんだけど現実以上の現実、即ち、真実として、文学的真実として、明らかに、三つばかりなる子どもの泣き叫ぶ姿を見たわけであります。
 14には矢印が付いていて、矢印の下には、寿貞に関する芭蕉の書簡が並べてあります。これはこのあいだ、僕わりに力を入れてお話しした通りです。寿貞とのことです。
まさ おふう っていう名前まで出しておきました。自分は、捨子をしている。妻を捨て、子を捨て、そして旅に出ている。せっかくこの芭蕉庵にですね、妻が子どもを連れて訪ねてくれた、しかし、それを振り切るようにして旅に出た。自分ってものを、自分の気持ちってものをじーっと見ています。決して、これでいいなんて思っちゃいません。そして、下にあるように、「数ならぬ身となおもひそ魂祭」でございます。後になっても、愛情なんかまったく冷めてないんです。けれど、どうしようもないんです。これを、彼は、運命、「天にして」「性」という言葉で言っております。桑原武夫氏なんかにあうと、芭蕉はズッコイからな、とこう言うんですが、いい気なもんだと……そうかもしれません。別に僕は、芭蕉に恩恵を感じなければならないわけではないんで……。ただ、わかりますね。とうしようもないことっていうのは、人生にあるんで……。
 自己凝視の句であります。自己凝視の文章であります。無きものを有らしめるのがフィクション、虚構の世界であります。虚構とは、つくりものではございません。それが、現実以上の現実になってるってことでございます。そこに赤子が泣いていないとしたら、嘘だってことです。こういう心境・状況なればこそ、彼は連衆を求めて、本当に心を通わせるって詩の世界に飛び込める相手を求めて、この野ざらしの旅、そして、『冬の日』を経験することになります。


  5.『冬の日』――倦怠ゆえの風狂

 で、『冬の日』については、このあいだ、とにかくその作者群の職業なんかを、私、申し上げました。生産と密着している商人、市民生活のなかで生きている、都市生活のつるぼの中で生きている商人。それらが、ここに並んでいる作者群だった。そんなことを見た通りです。時間の関係で、少し詳しく説明したいなと思っていたんですけど、読んでいきます。「笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士、(これは、御承知のように竹斎のことです。)此国にたどりし事を、不図おもひ出て申侍る。」
 自分を、対象化して見ております。俺、寂しいよと抒情するんじゃありません。そうではなくて、自分というものを対象化して見る。対象化して自照する。自己凝視する。風狂の我が姿を見つけるわけであります。で、風狂、風狂って言うんだけど、これを一般化した言い方をすれば、倦怠の故の風狂であります。
 倦怠、広辞苑を引いてみました。なんだか知らないけど、夫婦の倦怠期なんて使い方があるとか……。これ、アンニュイの翻訳語です。僕の知ってる限りでは、一番最初かどうか知りませんけど、夏目漱石の『三四郎』までは、使ってない。文学史上最初だと思うんですが、あそこで倦怠の世界を描いています。倦怠の問題と必死に取り組んだ作家。漱石と並び称せられる鷗外のこと。この二人の申し子みたいに、鷗外と漱石との二人の間に生まれた子みたいに、芥川龍之介がいる。芥川なんか、俺、関係ないよって面しながら、実は深く関わっているいる井伏鱒二。その井伏と芥川につながって、また、鷗外ともつながっている太宰治。彼らは、すべて倦怠の文学者であります。倦怠の問題と必死に取り組んだ作者たちであります。倦怠に甘ったれるなんていうんじゃありません。甘ったれるような倦怠は、倦怠じゃございません。倦怠っていうのは、自己の運命なんだ。自分自身でどうしようもなく、先天的に決定されてる状況、そのことを意識し、自覚したときに、倦怠・アンニュイを感じる。芭蕉がそうだったわけであります。
 私の用例で言えば、幸徳事件(大逆事件)の時期、倦怠って言葉が、良き意味で非常に流行しました。心から、人々は、倦怠を感じたわけです。政治的な圧迫、心に思うことを口に出せない時期。そして、自分は声を出せないでいて、いつか出せる日が来るのか。いいえ、声を出す日がなく自分の人生は終わる。人生五〇年、六〇年、言いたいことが言えないで、叫びたいことが叫べないで、そして、死んでいかなきゃならない。自己の未来、見えきっている。その時に、人は、倦怠を味わわせられます。
 で、この『野ざらし紀行』のこの部分にも、そうした倦怠の思いがあるわけです。『冬の日』の発句の詞書き、倦怠の思いがそこにあるわけであります。人はこれを風狂と言う。しかし、風狂一般なんてのは、どこにもない。芭蕉の風狂とは、倦怠ゆえの風狂でございます。詩に生きる以外に、俳諧に生きる以外に生きる道が見いだせない。俳諧やったからって、世の中が変わるもんでもない。我が人生が、実人生が変わるもんではない。でも、これにすがって生きる以外に、生きる道を見いだせない。No.2の下段の付4「『幻住庵記』」にある「無能無才にして此一筋につながる」であります。
 そういうふうな世界があります。ここでもまた字余りもいいところ。
  「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」
 さすが芭蕉も、何年かあとで、これは少しひでえやと思ったんでしょう。「狂句」っていうのを省きました。だけどここでは、冠も句の中の一語でございます。狂句っていうのは風狂の句。単に、いわゆる意味での俳諧ではございません。

<No.3ー16『秋の日』(元禄元)/四五歳・『信夫摺』/四六歳>

 『秋の日』と『信夫摺』、続けてご覧下さいませんか。
  「 秋の田をからせぬ公事の長びきて  越人
     さいさいながら文字問ひに来る    芭蕉 」
 私、生臭い芭蕉を少しのぞいていただいたらと思ってきたと、このあいだ申しましたが、こんな連句も詠んでいる彼だっていうことを、お目通しいただけませんか。
 これ、つまり、お百姓の諍いですよ。お上との諍いであったり、地主さんとの諍いであったり、貧農の。それが、秋の田をもう刈らなきゃいけない時期なんだけど、公事、訴訟、裁判沙汰でもって、稲刈りまで手がのびないお百姓の姿を越人が詠んでくれます。それを十分踏まえて、ここに一人インテリがいるんですね、村のお医者さんでしょうか。公事、訴訟組、裁判を起こす訴え組、字が書けない、あるいは字をあまりよく知らないもので、再々ながら文字を問いにくる……そういう世界であります。
 次は『信夫摺』です。
  「樟の小枝に恋を隔てて  芭蕉」
 畠と畠の間に樟の小枝があるんです。そこで、亭主と女房は、姑さんに分けられているんです。木の茂みの向こう側で、二人をやっかんで邪魔ばっかりしてるんです。夫婦の語らいは、すべて気に入らないんです。で、
  「うらみては嫁が畠の名もにくし  等躬」
 姑の気持ちです。ここが嫁の耕す領域なんだ。それだけで、カッカ、カッカきてるんですね。こういう、なんていうか、封建的農村に、あるいは、武家社会に、ことにはなはだしい現実。これこそが、彼の、寿貞との恋を裂かれて、結果的には俳諧の道一筋につながっていく要因だってこと申しあげましたね、先月。こういうことに我慢できない芭蕉の姿があります。封建的抑圧とか、人間疎外とか、なにも特別にあるんじゃなくて、こういう日常の家庭生活や友人関係等で、お互いがお互いに労わらない、相手の気持ちをくぐらない、それが封建的だってこと言ってるんですよ。
 だから、悪く言えば詩に逃れる、文学に逃げるんです。逃避するんです、倦怠の故に。逃避しっぱなしでないところが、彼の素敵なところです。それを越えていくんですね。で、逃避でなくなって、里に入ったかっていうと、このあいだ申しあげた通り、そうじゃないってことなんです。


  6. 芭蕉の文学者宣言――「煩悩増長して一芸すぐるゝもの」

<No.3ー18『閉関の説』(元禄六年/一六九三年/五〇歳)・下段『赤草紙』からの引用。「松の事は松に習へ……」>

 で、18へとんで下さいますか。
 「人来れば無用の弁有。出ては他の家業をさまたぐるもうし。」とありまして、また、後で、そういう句を詠んでいるわけですが、いかにも何か逃避と逃避の世界、あるいは悟りの世界へ落ち込んだかにみえます。そうではないんで、これは『閉関の説』の結びのほうにある部分ですが、その前の部分を、佐藤先生にお願いして黒板に書き付けていただいたのであります。以下、これに添ってお話しすることで、私の芭蕉を終わります。
 あと、下段に、有名な「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」というのがあります。さっき、芭蕉は、西行とは違ったタイプの詩人だと申しました。その彼が、最終的には、西行的なものを自分の中に組み込んだ偉大な詩人だということを、ご承知いただければいいと思います。リアリズムなんです。対象尊重なんです。自分の主観がなんとあれ、対象は、現実はかく有りです。その現実を現実主義的にみていく姿勢ですね。松をつかむためには、松に習うのほかはない。十分に古典をくぐり抜けた彼が、最後に到達した姿勢、創作の姿勢ってのは、「松の事は松に習へ」、この姿勢につながっていくものであったということだけを申しあげておきます。

 このあいだは、ある時期は風狂である、ある時期は坊さん的な悟りに入るというような、そんな単純なものじゃないと、芭蕉について申しました。また、芥川龍之介の『芭蕉雑記』の言葉にまったく同感だと申し上げました。それは実は私の結論です。具体的に少し見ていきましょう。彼の『閉関の説』の中の一文であります。
 「色は君子の悪む所にして、仏も五戒のはじめに置けりといへども、さすがに捨てがたき情の、あやにくに哀なるかたがたもおほかるべし。……家をうり身をうしなふためしも多かれど、老の身の行末をむさぼり、米銭の中に魂をくるしめて、物の情をわきまへざるには、はるかにまして罪ゆるしぬべく……煩悩増長して一芸すぐるゝものは、是非の勝るなり。」
 元禄六年。元禄七年には、彼は死んでおります。五〇歳の彼が書いております。ここで「色」という言葉がでます。愛欲というふうな意味でお取りくだされば、一応いいんだと思うんです。ただ、愛欲というものも、煩悩の一種であります。「色」という言葉を、煩悩と置きかえてもいいかと思います。
 色は、愛欲は、君子の憎むところである。儒学儒教のほうでも極めて否定的に扱われている。人間、色に溺れてはならぬ。色に囚われてはならぬ。愛欲否定なんです、儒学の教えでは。同様に、仏教の教えでも、仏も、五戒のはじめに、愛欲は戒めるべきであると、仏様もおっしゃっていると経典にも書いてあると。で、これを否定するんじゃないけど、
 「さすがに捨てがたき情の、あやにくに哀なるかたがたもおほかるべし。」
 そうはいうけど、はじめっから否定的に考えがちだが、私はそうは思わない。人間にとって捨てがたき情が、煩悩・愛欲に内在している。これを感じない人間は人間じゃないんですね。そこには、哀れなるしみじみとした「かたがた」、諸側面も多いのであると。愛欲を仏教も儒教も否定している。つまり、今日の、武士道徳、武士道も否定している。世の中の倫理道徳は、頭ごなしに否定している。が、私はそうは思わない。ここに、彼の文学者宣言があるわけですね。愛欲にこそ、煩悩にこそ、捨て難き人間らしい感情面がある。この点見落として、何をかあるであります。儒教絶対、仏教絶対でならば、文学なんか無用のものだ。「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆に逆ひて用ふる所なし」(「柴門の辞」/No.4上段)――「衆に逆ひて」しかじかでございます。
 なるほど、愛欲に溺れた場合ですね、囚われた場合、我々は家を売る。西鶴の『置土産』の「人には棒振り虫同然に思はれ」のあの世界みたいに、家を売り、家産を失った、そういうことはあるだろう。そういう例しも多いけれど、それだっていいじゃないか。「老の身の行末を貪り」です。もう、いい加減いい年してですよ、老人になってですよ、まだ何年生きるつもりだっていうんです。結構いいかげんな生き方してるって言うんです。人間の感情なんかわかっていない、人の誠意なんかわかっていないんです。それで、日常生活の毎日がズッコイよって言うんです。
 「米銭の中に魂をくるしめ」、まだ儲けることを考えていると言うんですね。で、自分の魂を踏んづけてるというんです。非人間的になってるんです。当然、そういう人間は、「物の情をわきまへざる」状態なんだ。こんな状況よりは、愛欲に狂ったあげく家を売っちゃった、破産しちゃった、素敵じゃないかって言うんです。絶対のものなんて、この世の中にありはしない。これがいいなんて、私は、言っちゃいない。けど、ものは比較だと言うんです。なるほど、立派な家に住んで、調子のいいこと・格好いいこと言ってね、人の情も汲めないような、ものの哀れもわからぬような人間に比べれば、破産するのは自分の責任で終わることです。人に迷惑かけやしません。いいじゃないかって言うんです。「はるかにまして罪ゆるしぬべく」、有罪だと言うんです。でも、許せる罪というのはあるってんです。その許せる罪人であるって言うんです。
 さらに、「色」もなにも含めましょう。煩悩という言葉で統一しましょう。煩悩が増長してです。煩悩が、極度の頂点まで押し昇っていって、その時に初めて一芸というものが身につくというんです。俳諧の道、然り、文学もそう、科学もそう、哲学もそう。あらゆるものがそうです。煩悩が増長しなくてですね、適当にやって何が生まれよう。煩悩が増長したときこそ、真の文学の誕生なんです。真の文学者が誕生なんです。多くの罪を犯しているであろうが、なんですね。
 「是非の勝る物なり」、是非を超越している。いいとか悪いとかの問題じゃない。ただ極めて人間的だと彼は言うんです。芭蕉に言わせれば、人間が人間になるためのものが、俳諧なんですね。人間が人間になるとは、何か。人間が、自己の人間性を回復することです。どっかで人間を身につけているはずです。頑是ない子どもの時代に、子どもなりに。それを失っております。その人間を自己に回復する。言い換えれば、人間が人間になるわけです。人の誠意を誠意として、誠意に応えるような行動をとることが出来る人間になる、これが文学です。
 正岡子規が連句非文学論というのを唱えました。御承知の通り。そして、彼は俳句こそと言いました。だが、連句というのは、懐紙の中に書き付けられたもの、さらにそれが、こうやって活字に印刷されたもの、それを読むのが連句に接する道ではないんです。(芭蕉たちにとって連句は)創っていく過程が問題なんです。なぜ、人は連句を創るか。人間が人間になるためであります。
 芭蕉にとって、連句・発句は、これに打ち込むこと以外、自分が人間として生きる道はないものだったわけです。ここにおられる皆様方のお一人お一人にとって、それは多分俳諧である方は少ないだろうと思います。別の道だろうと思います。何故ならば、あなた方は「無能無才」だから、芭蕉の言う意味でですよ。そのご自分ご自分の道一筋に生きること、これが文学精神なんだと思うんです。ある人はそれを句づくりでやろうとし、ある人はそれを詩づくりでやろうとする。ある人は、それを小説を読むことでやろうとする。人さまざまです。でも、僕に比べればはるかにお若いけれど、いい年です。自分がどの道筋につながるべきか、発見できない方は一人もおられないはずです。ご自分の道一筋が、どんなに大事かを確認すること、それを今度は対象化して、芭蕉文学に改めて迫っていく、それが芭蕉文学にアプローチする唯一のまっとうな道であろうと思います。ろくな話はできませんでした。ことに今日は少し怒りんぼで、肋間神経痛のせいです。
 文学をやりながら、相手の誠意が汲みとれない、相手の誠意を踏み躙る、やる気をなくさせる、そういうことはいい年をした人間のやるべきことではない。これだけは、どうか肝に銘じて下さい。 ……以下略……




【参考】 文学講座の全体構成  ( * 本ページ掲載)


  婦人のための文学講座 《歴史の流れにきらめく文学》 
             ・会期 1980年9月26日~1981年6月19日
             ・会場 東京都目黒区大橋区民会館
             ・時間 毎回13:30~15:30

Ⅰ 世阿弥の世界 法政大学教授  表  章
       (1) 「花」の理論   9月26日
      (2) 「夢幻能」の成立  10月24日

Ⅱ 西鶴文学の世界  国立音楽大学名誉教授  熊谷 孝
       (1) 封建制下の民衆の生活と文学  11月21日
       (2) 喜劇精神  12月12日
       (3) 自己疎外――雨月物語の世界へ  1月16日

Ⅲ 芭蕉文学の世界  熊谷 孝  *
       (1) 雑階級者の孤独と倦怠  2月20日
       (2) 帰俗の精神  3月20日


Ⅳ 近松世話浄るりの世界  和光大学教授  荒木 繁
      (1) 心中物の世界  4月8日
      (2) 封建制下の家庭悲劇  5月20日

Ⅴ 近代詩の夜明け  熊谷 孝
      (1) 蕪村から北村透谷へ 6月19日