NEWS memo 〔日曜に想う 朝日新聞 2023.2.12〕 「私も当事者」劇場での気づき 編輯委員 吉田純子 より ……クラシックの演奏会に対し、どうしても敷居を感じるという人は少なくない。しかし、敷居と感じられがちなものは、劇場という場でしか味わえない感動を約束すべく、奏者と聴衆が互いへのリスペクトを礎に育ててきた文化でもある。 ……「私たちの社会は『自分』と『他人』じゃなく、もっと曖昧(あいまい)に溶け合った集団です」。宝塚歌劇団で熱狂的な支持を得て、惜しまれつつ昨年退団した演出家の上田久美子さんの言葉が、ふと蘇(よみがえ)る。 上田さんは今月、初めてオペラを演出した。「人々の思考を突き動かす仕事をしたい」というまっすぐな覚悟が、取材中もみずみずしくスパークする。 ……上田さんが手がけたのは、「芸術」というベールを突き抜け、人間の負の感情をも生々しく劇的に描き、イタリアオペラを新時代へと導いた「道化師」と「カヴァレリア・ルスティカーナ」の2作。不倫の果ての殺人という究極の心理劇だが、舞台の両隅では、ダンサーの演じる2人の路上生活者が、我関せずの風情で自らの生の営みを淡々と続けていた。驚いたことに、彼等は終演後にも、劇場の出口に座り込んで物乞いをしていた。 むろん演出だが、観客は、さっきまで舞台で起こっていたことの当事者に自身がいつなってもおかしくないのだという現実を、ひんやりと背中に突きつけられる。盛大なブラボーとブーイングが交錯する場所に立ち、上田さんは表現者としての新たな一歩を確かに踏み出した。 劇場は「現実で起こってはいけないこと」の解放区であり、人間の感情がいかに複合的で多層的であるかという気付きの宝庫でもある。 ……昨年11月に襲撃された社会学者の宮台真司さんは先月、東京音大で開いた講演でこう語った。いかに安全を確保しながら、大学を外へ開いてゆけるか。その最適解を、今こそ恐れず真剣に探るべきだと。容疑者とみられる男の死亡が伝えられた後も、宮台さんは動画でその家族や友人を思いやる言葉を述べていた。 宮台さんは、できうる限り多様な状況の「当事者」であろうとしている。そのために日々本を読み、人々の声を聴く。本や劇場は「当事者」となる疑似体験の装置であり、他者への想像力を培う触媒になり得る。そこから始まる「個」と「個」の議論こそが重要だ。どんな戦争も、何かのきっかけで、水の中に一滴のインクがこぼれて広がるかのように始まる。その時に、誰もが「個」をなくした傍観者となってしまっていたら、インクはあっという間に水の色を染めてしまうだろう。結果、誰もが自覚のないまま、権力に加担する事になりかねない。 匿名の人々の言葉によって築かれた石垣に守られながら、次なる礫(つぶて)を投げる誰かを「正義」の名のもとに探し続ける人たちは「自分は当事者ではない」という安全地帯に立っている。いや、立っているつもりでいる。「安全地帯に立ちたくない」。宮台さんの語ったこの決意の先にこそ、学問とアートを緩やかに連ねる未来形の豊かな議論の土壌を見たい。 NEWS memo 誰もが孤独の時代 人間性失わないで
……ウクライナ人がロシア文化を排斥することに賛同はしませんが、その背景はよく理解できます。ただ、作家は人々を育むために働いています。ドストエフスキーが示したように、私たちは「人の中にできるだけ人の部分があるようにするため」に働くのです。 ウクライナ侵攻では人間から獣がはい出しています。私も「本当に、言葉には意味があるのだろうか」と絶望する瞬間があります。それでも私たちの使命は変わりません。文学は人間を育み、人々の心を強くしなければなりません。残虐な運命に身を置かれた時、人間をのみ込む孤独に打ち勝てるように。 ……私たちが生きているのは孤独の時代と言えるでしょう。私たちの誰もが、とても孤独です。文化や芸術の中に、人間性を失わないためのよりどころを探さなくてはなりません。 |
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NEWS memo
今、「国語」という教科で「文学」をどう扱うか、熱い議論を呼んでいる。 幸田国広著『国語教育は文学をどう扱ってきたのか』は、戦後の国語教育が文学の「鑑賞」から「読解」へ、つまり「おいしいかどうか」から「食べ方」の教育へと変化してきた経緯を丹念にたどっている。結果的に『羅生門』や『走れメロス』 など一部の教えやすい教材が定番化し、読解指導の硬直化を招くことになったのであるという。 一時代前の人格主義、教養主義が教室の「文学」観を狭めてしまった弊害など、なるほど傾聴に値する指摘である。だが一方で、後半の論旨には素直にうなずけないものがあった。感動中心の文学教育では社会に役立つ論理を身につけることはできず、今後は文学と言語運用能力の養成とを区別し、情報化社会に見合った思考力をめざさなければならぬ、というのである。 前半を読むと言語教育と文学教育との高度な融合を理想としているように読めるのだけれども、どうも後半の論旨はそのようには進んでいないようだ。「文学」と「論理」を分類すれば事態が解決するほど単純なものでないことは、昨今の教科書検定をめぐる一連の報道などからも明らかだろう。 まず「中身」から これに関連して紅野謙介著『国語教育 混迷する改革』は、こうした一連の動向に警鐘を鳴らしている。教材読解の比重を減らし、言語運用能力、コミュニケーション能力の育成に傾いていく動きへの批判である。もちろん「話すこと」「聞くこと」の育成が重要だ、という主張に反対する人間はいないだろう。だが一方で、人生でもっとも多感なこの時期、悩みや劣等感を置く抱えた高校生たちに教室でいったい何を語らせようというのか、と紅野は問う。 コミュニケーションのためにはまずカバンの中身が必要だ。先人の優れた文章の読解を通して異質な他者への理解を深め、世界の成り立ちについて考えていくということ。一時代前の文学主義に代わる、こうしたあらたな「人文知」の啓発にこそ、問題を解くカギが隠されているのではないだろうか。優れた文章の「読解」を通して身につけていく力と、自身の考えを周囲に伝達し、対話していく能力とは本来分かちがたく結びついている。 真に恐ろしいのは両者を切り分け、何しろ情報化社会なのだから後者が大切だ、という論法に流れていく風潮だ。社会の在り方の本質に目を向けず、ただ「説明だけがうまい子」ばかりが大量生産されていく事態など考えがたいことである。情報化社会であるからこそ、異質な知性が求められているのだと思う。 「読解」の大切さ その意味でも、渡部泰明ほか著『国語をめぐる冒険』は実践的な提案として楽しく読めた。「文学」と「情報」の切り分けに悩んでいる現場の教員にぜひ読んで欲しい一冊である。(略) 文学教材が重要なのは、それが現代社会を生き抜く知恵と不可分なものであるからだ。言葉をコミュニケーションのツールとしてのみ扱ったとき、「国語」は死んでしまうことだろう。その意味でも幸田がその著の冒頭に紹介している、言語教育と文学教育とは本来一体のものである、という理念にあらためて立ち返りたいものである。 |