≪抄録≫ 芸術の論理――熊谷孝著作より
 

 芸術の論理     民主主義科学者協会芸術部編集『芸術研究 2』(1947.12)掲載  

 
  現実の生をはなれて芸術はない。それは、思考し行為する人間の生の表現として、限りなく歴史に結びついている。歴史の法則は運動であり、歴史的なものは転化し流動してやまぬものである。芸術も歴史的なものとして時代の子であり、それは時代と共に生れ時代と共に滅びゆく歴史の運命をになつている。古代社会には古代社会の芸術があり、封建社会には封建社会固有の芸術があった。(…)過去の芸術遺産をうけつぐことなしに新しい芸術の出発はあり得ない、ということを考えのうちに入れるとしてもである。芸術は、すぐれた意味において歴史的社会の反映であり、それの主体的な表現であるということができるであろう。(p.118-119)<20170214>   
  [天才] の手になる作品が、ユニィークな世界を示しているということは、それが単に特殊的であるということでなく、時代にとつて最も本質的なものがきわめて特徴的に捉えられているということであり、そこに現実の集約的な凝結があり、現実の全的な要約がみられるということであろう。(…)彼が卓越した芸術上のジェニィーでり、その芸術がデモーニッシュであるということは、彼の眼が時代の真実を洞察しているということであり、彼の享受が最も即時代的な性格を示しているということにほかならない。(p.119-120)<20170224>    
  歴史的理解のみがすべてを解決する。なぜなら、現実はもと動的・歴史的な自然であるから。天才も時代の子である。いな、時代の子と呼ぶにふさわしいのは、時代の真実をいきた天才たちであろう。「古い芸術作品における奇跡をもう一度繰返すことを天才に求めても無駄である。天才の本能は、美や神聖なものを、新しい、そして必要な事実のなかに見出すのだから」とアメリカの或批評家もいつている。このようにして、また、それがすぐれたものであればあるほど、芸術は即時代的であり、時代の真実に忠実であると考えられる。(p.121-122)<20170304>  
  ● 戦場生活をリアルに描写するためには、自身戦場を体験することが必要であろうし、自身農村を体験し、農民生活の実態と農民心理の現実的なありようを探求することなしには農民文芸は生れ得ぬであろう。が、しかしそのことは、作家が兵士の眼を以て戦場を眺め、農民のこゝろを以て農村生活を感覚するということであつてはならぬであろう。兵士の眼をとおして眺められた現象は、彼の表現に素材を提供するにすぎぬ。(…)現象は現実に置換えられねばならぬ。あるいは、現象のもつ現実的な意味がそこに探られねばならぬのである。本来ナマの素材にすぎぬところの現象を、その儘敷写しにしたうえに、絵そらごと的な加工を施すというところに、芸術職人的なサロン装飾用の骨董品がうまれて来るのである。(p.122-123)<20170314>   
  ● われわれの作家に求めるものは、「真理のかりうどであり生命の番人である」芸術家の眼である。体験に徹することによつて体験を超え、おのれをむなしうすることによつて物のまことに至ろうとする、芸術家の態度である。それは、現象のうわべを描くということではなくして、現象を描くことをとおして、それの背後にあるものを見究めるということであり、あるいは、それのもつ意味の認識において本質的なものと偶然的なものとを識別し概括する、ということでなければならぬ。(p.123)<20170324>  
  ● 芸術の認識は、科学の認識と同一ではない。法則を求めて抽象する科学の現象概括と、芸術における現象の処理とでは方法を異にするのが当然である。科学にとっては法則追究のための、したがってまた現実探求のためのデェタにすぎぬ現象そのものが、芸術にとっては現象即現実という関係において抜差しならぬ意味をもって来るのである。芸術においても現象は現実に置換えられねばならず、現象を概括することなしに芸術の表現はあり得ぬとしても、それは日常性における現象の概括であり特殊化であるとされねばならぬ。そこに、芸術が現象の典型化であり、それの形象的把握であるといわれることの意味もあるであろう。(p.124-125)<20170404>  
  ● 芸術が現実についての認識であるということは、それが問題性における現実の把握であるということである。どういう意味においても問題になり得ないようなものは、認識の対象となることはできない。こうした意味において、芸術は、問題表現の型(ティプス)であり、それの解決の様式(シュティル)であるということができるであろう。芸術史が、問題史として方法されねばならぬ、とする主張も、この点に理由をもつであろう。(p.125)<20170414>  
  ● 芸術に対象性を与えるところの現実が、動的な現実であり移ろう現実であるがゆえに、時代の問題であつたものも、それ自身の秩序においては次の時代の問題たり得ず、あるいは全く問題性を喪失するに至るのである。特に、芸術における問題の把握は、準体験的・形象的な問題認識であるがゆえに、表現者(芸術家)と享受者とのあいだに体験の共軛的な一致の存する限り、それは日常的生活感情に訴える直接的なものをもつのであるが、問題表現のそうした日常的リアリティーのなまなましさのゆえにこそ、芸術の生命は短いのであり、またそれが時代の制約を超え得ないという、そのことこそが、芸術を芸術として意義あらしめるものなのである。(p.125-126)<20170424>   
  ● たとえば、過去のプロレタリア文芸の提出した問題は、こんにちにおいても決して解決されていない。だからといつて、それを過去におけると同一の文脈において取上げることが、問題の解決に一歩を進めたことにはならない。問題が未解決の儘に残されているということは、問題そのものが現在においても同一の形においてある、ということではない。現在の社会的与件のもとにおいて問題の所在を明かにするというか、問題の現在的なありかたをつきとめるというか、ともかくも新しい現実のありように即応した芸術的構想とスケールとにおいて問題を探求することだけが、こんにちの新しい民衆文芸に始発点を与えることになるだろう。(p.126)<20170504>   
  ● 時代の芸術は、自らの提示した問題と問題表現の意義喪失にともない芸術としての機能を停止するに至るのであり、時代の子としての歴史の運命に殉ずるのである。クダラ観音の像がそのまえにたゝずむわれわれの胸にどんなに大きい、またどれほど深い歓喜のおもいをもたらそうとも、その歓喜はアスカのいにしえにおいて体験された芸術享受のそれではないであろう。われわれは、どういう意味にもせよ、古代人のリアリティーにおいて享受し追体験することはでき得まい。享受も、単に受動的な体験でなく、ゲェテもいつているように「ひとは、同時に自分自身創造者となるのでなければ、何ものをも体験し享受することはでき得ぬ」であろうから。(p.126-127)<20170514>   
  ● 芸術とは何かということは、このようにして、また、帰納された論理に基いて、それをどういうものとして考えるべきかを提示することであり、答はおのずからあるべきようの芸術のありかたについての反省と示唆とを用意するものとなるのでなければならぬ。しかし、そのことは、「あることなくして、単にあるべきもの」について語ることではなく、あるべきであり且あることが社会的予感(ないし歴史的予見)として想見されることころのものについて指向性を与える、ということでなければならぬであろう。(p.127)<20170524>   
  ● 芸術への理解と把握は、このように決して一様ではない。/芸術に対する理解の、この多様さは、しかし単に体験の多様性に基づくものであるという以上に、芸術的体験そのものの日常的な性質に根差していると考えられる。いいかえると、日常的体験の多様性を規定するものが、ひとしく芸術的体験の多様性を規定するものとしてこゝに考えられねばならぬ、ということだ。なぜなら、芸術の体験が、科学の認識におけるような真に非日常的・抽象的な体験であるのなら、かくも多様な観点と観察の相違が、そこに生れることはないであろうから。現実の芸術作品のありかたは、明かに「芸術家の数だけの素描と色彩がある」ことを示している。あるいはそれを、作品のかずだけの色彩のヴァライエティーがある、といいかえてよいかも知れない。(p.129)<20170604>   
  ● 科学の認識が客観的であるというのは、その知識が普遍の固定した知識であるということでなく、却つてそれが現実の変化に対応し得るだけのアダプタビリティーとフレキシビリティーとをもつ動的な知識だ、ということであろう。科学が、本来行為に合目的性を与えようとする、人間の実践的要求から生れたものであるとすれば、それの運動の過程における現実の抽象であり概括であつてこそ、それは科学の知識であるともいい得るであろう。現実はすぐれた意味において歴史的現実であり動的現実であるからだ。客観的な知識というのは、このようにして動的な知識のことであり、知識は動的であることによつて、客観的な一般性と一様性とを自らのものとなし得るのである。科学の認識は、知識をより客観的なものたらしめようがための、普遍的知への運動にほかならない。(p.131-132)<20170614>   
  ● 芸術の体験は、科学の認識におけるような一般的な体験ではない。いな、その体験が一般的でなくして、個別的であり個性的であるという点に、むしろ芸術的体験の特色があるだろう。芸術の何であるか、ということへの理解が、あるいはまた、芸術をどうみるかということへの理解がひとによつて一様でないということは、必ずしも我と彼との認識論の相違や流派的な対立をあらわしているのではない。一つの流派によつて真実であるものも、他の流派にとつては真実でない。写実派の真実は、もはや印象派のそれではない。シャピュの写実は、ドガにとつては既に写実としての意味を失つている。しかし、立場の相違がもたらす見解のへだたりというようなことは、すでに一般的な体験にぞくしている。(p.132-133)<20170624>   
  ● 立場の違いというようなことを除外しても――というのは、同一の立場をとる、同一の傾向の世界観をもつ人々のあいだにおいてすらも、ということであるが――なお且つそこに多様な意見の対立が見られるということは、それが芸術的体験の特殊な性質によるものと考えざるを得ない。ここに特殊の性質というのは、日常的な性質のことである。日常的な体験は、直接的な体験であり個別的な体験である。体験が直接的であり個別的であるがゆえに、芸術の体験も自己完結的であり、一般的なものの制約から自由であるかに見えるのである。(p.133)<20170704>   
  ● 自己において体験せられたものは、自分にとつて真実であり動かしがたいものである。それが、特に日常性における現実の体験であるばあい、その体験は具体的な全体感に裏づけられて、いよいよその切実感・真迫感の度を強いものにするのである。しかも、そのばあい、それがどういう仕方における体験であるのかという、体験そのものについては反省されていないのが普通である。このようにして、日常的体験のもたらすものは、論理でなくして信仰であり信念である、ということができるであろう。それが、知性に媒介されざる単なる信念であるがゆえに、体験的知識は、合理的な思惟・思考に対して却つて反撥的でさえあるのだ。(p.133)<20170714>  
  ● 心理的事実は、論理的事実にすり替えられて強力なものとなる。常識は主張する、体験的知識としての常識は、それ自身の「論理」と秩序において自己を主張するのである。尤も、芸術の体験は、単に日常的な体験ではない。却つて体験的な現実を超えたところに、芸術の形象は成立つといわねばならぬであろう。しかもそれは、個別的・直接的な体験として、特にそれの自己完結的な性質のゆえに、日常的体験に準ずべきものと考えられる。芸術への理解が、一般的なものの制約を超えて多様であるということは、芸術的体験のかゝる日常性に基くとされねばならぬであろう。立場の同一、必ずしも見解を一致に導くものでなく、また意見の対立、必ずしも立場の相違をいいあらわすものでないということは、このようにして芸術的体験にとつて特徴的である。(p.134)<20170724>  
  ● 享受と批評とに関する近代観念論美学の、大きな特色の一つは、体験的自己省察の名に隠れて論者自身の観照を絶対化し、それを普遍的な規準として作品に臨むという点に求められる。(ディルタイの見解は、そうした点できわめてティピカルなものを示している。)ところで、彼の享受は、所詮彼一個人の享受にすぎない。彼の芸術への理解のしかたが現実の芸術作品に対する彼の享受のありかたを規定し、個々の具体的な作品に対する彼の享受が、また彼自身の芸術観を形成していくという関係にあるとすれば、芸術への理解は、既に見てきたように一様でなく、個々人の作品観照もまた個別的・個性的であって、その限り、各人の観照は自らを主張し得る相対的な自由と権利とをもつ、といわねばならぬであろう。(p.135)<20170804>  
  ● 一個人の観照を以てすべてを断ずることはナンセンスも甚だしい。にもかかわらず、作品理解の一資料にすぎぬ自己の享受を彼我あい通ずる一般的なものであるかに考え、それを規準として作品の表現を論じ芸術を語るということは、科学的批評たることを以て自認する唯物論芸術批評のばあいであつても、決して珍らしい例ではない。それの発達にとつてクリティシズムがいちばん密接な関係にあるとされている芸術の分野において、しかもそれが最も立遅れを経験しているという事態は、芸術的体験の自己完結性による、享受と批評との混同によつて導かれている。(p.135-136)<20170814>
 
  ● 享受を前提とすることなしに、批評はおこなわれ得ない。芸術家の感受性は、同時に批評家にとつても欠くことのできぬ資質的条件である。クローチェも、雛[ママ]術家と批評家との本質的同一を指摘して、次のようにのべている。「ダンテを批評するには、彼の高みに昇らねばならぬ。経験的には、われわれはむろんダンテではないし、ダンテはわれわれではない。しかし、享受と批評との瞬間においては、われわれの精神も詩人の精神も同一であり、その瞬間にはわれわれと彼とは一つになつている。」批評家も、何らかの意味において芸術家であらねばならぬ。現実に彼が作家であるか否かはすこしも問うところではないが、すくなくとも自ら創作することの可能性をもつものでなければ、よき批評家たることはでき得まい。批評家は、可能性における芸術家である。(p.136)<20170824>   
  ● 批評は、作品をはなれたものでなければならぬと同時に、また作品に即したものでなければならない。農村問題について考えてみたことのある人でなければ、この問題をテェマとした作品を正当に評価するはでき得ないけれども、しかしそれが単に事象の一般的な認識にとゞまり、そうした角度からの単なる裁断批評に終わつているばあい、それは芸術作品を芸術作品として批評したことにはならない。飽くまで作品の表現に即してこれを批評し、しかもその批評が、作品に示されたそれとは別個の形象的認識のしかたを示唆するようなものとなるのでなければ、それが芸術批評であるということはでき得まい。批評家もまた、自らの感受性をより鋭いものにし、自らの享受をよりよいものに導くべく努力を傾ける必要があろう。(p.136-137) <20170904>  
  ● クローチェは、(…)「批評家のしごとが成立つのは、受取られた印象が保たれると同時に、それが超克された場合においてである」と述べている。それを別の言葉でいえば、批評の前提となるものは享受だ、ということだろう。享受を措いて批評はあり得ない。しかしまた、自己の享受を否定することなしに批評は成立ち得ない、ということを彼はいつているのだ。自己の享受を超えるということは、ひとりぎめに自分の享受を絶対的なものと考えるという態度を揚棄して、万人の享受をかえりみるということである。が、それは、万人の享受をかえりみて自らの享受を深めるということに終るのではない。「批評家のしごとは、何よりも思惟に属している」(クローチェ)のである。芸術作品の与える感性的なものを悟性の言葉に翻訳することによつて、作品に示された芸術的認識を概念的に再認識する、という機能を批評はもつのである。それは、感性的・日常的なものの非日常化であり、非日常的なしかたにおける体験である。(p.137-138) <20170914>   
  ● 批評は、作品に即したものであると同時に、作品をはなれたところに成立つ。(…)時代の真実に忠実であろうとする批評家は、屡々、自らの享受において深い共感を覚えたところの作品に対して、却つて否定的であり反撥的でさえあらねばならぬのである。自らの享受に深い共感を与えるような作品こそ、超克し切れぬ旧き自らのものであるがゆえに、それは歴史の進歩に対して、したがつてまた芸術の発展に対して反動的な機能をもつ作品であろうから。批評は、それがすぐれたものであればあるほど、批評家自身の享受のありかたに反して否定的であり、また肯定的であるばあいがすくなくない。本当をいえば、享受を媒介して作品の客観的把握を可能ならしめ、更にまたそれを主体的理解へと導くという点に、芸術批評のつとめがあるわけなのだ。もしそうでなければ、それは単に自己の享受を言葉に翻訳したものか、作品をとおしてみた作家の、あるいは時代思想の研究というようなものに終るであろうから。(p.138) <20170924>   
  個々人の享受は、それが享受としてある限り、作品理解のためのデェタとしての意味をもつにすぎない。享受は批評に媒介されることによつて、享受者自身の生活意識、日常的なもろもろの生活感情、世界に対する彼の認識のありかたそのものを規制し方向づける力となり得るのである。
 こんにち、芸術に対する分野全般にわたつて見られるところの享受と批評との混同が何に因由さるのであるか――芸術的体験の自己完結的な性質が、日常的体験のそれにも準ずべきものであることは、右の事情からも明かであろう。(p.139) <20171004> -了-

 

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