芸術の論理     熊谷 孝
  
民主主義科学者協会芸術部会編集『芸術研究 2』(1947年12月 解放社刊)所収--- 

     1 序  章――動的現実の再現――
     2 世界の動的認識    (以上本号)
     3 形象的現実の形成
     4 直観と認識
     5 芸術の方法と対象

      1 序  章
           ――動的現実の再現――
    

         

『芸術研究 2』 芸術とはどういうものか、という問いに答えるのは、決してなまやさしいことではない。それは同時に、現実とはなにかという問いに答えることであり、何よりも現実の生の構造のどういうものであるかを明(あきら)かにすることでなければなならない。それはまた、人間性の深みに徹し、人々のこころやおもいを、歴史の進歩と人類の解放のための実践的情熱へとかりたてるような、われわれにとって本当に必要な芸術というのはどういう芸術であるのか、ということをつきとめることにもなるのだ。本当をいえば、そういうことをはっきりさせるために、芸術の何であるかということが、いま、われわれに問題になってくるわけなのだ。
 現実の生をはなれて芸術はない。それは、思考し行為する人間の生の表現として、限りなく歴史に結びついている。歴史の法則は運動であり、歴史的なものは転化し流動してやまぬものである。芸術も歴史的なものとして時代の子であり、それは時代と共に生れ時代と共に滅びゆく歴史の運命をになっている。古代社会には古代社会の芸術があり、封建社会には封建社会固有の芸術があった。ギリシアの芸術は、しかしローマの芸術ではなく、ローマの芸術はもはや現代のものではない。それは歴史的意義の評価において古典としての価値をあらわにし、現代的意義の評価によって、古典は現代のカテゴリィーに翻訳され、芸術への認識と芸術的認識とによりよい指向性を与えるものとなるのであるが、しかし字づらどおりの意味において、芸術が限りないいのちをもつと考えることは無意味にひとしい。過去の芸術遺産をうけつぐことなしに新しい芸術の出発はあり得ない、ということを考えのうちに入れるとしてもである。芸術は、すぐれた意味において歴史的社会の反映であり、それの主体的な表現であるということができるであろう。
 天才の芸術といえども、決して例外ではない。いな、むしろ、天才の作品においてこそ、そのことが明瞭に観取されるのである。彼の手になる作品が、ユニィークな世界を示しているということは、それが単に特殊的であるということではなく、時代にとって最も本質的なものがきわめて特徴的に捉えられているということであり、そこに現実の集約的な凝結があり、現実の全的な要約が見られるということであろう。「彼のするどい眼は、性格――すなわち形態の下に透いて見える内部の真実を発見する」(ロダン)のである。それが最も典型的な面における現象の形象化であり、歴史的社会の集約的な反映であるがゆえに、凡百の芸術家をしのいで彼の作品は、殆(ほとん)ど超時代的と思われる迄にユニィークなものを示しているのである。K.ランゲもいっている、「天才というのは、行為し感覚し思考することのすべてにわたって自己を超え、自己の限りある限界をつき抜けて他のものの自然、全体と一つになり得るところの力である。」彼の天才たるゆえんは、経験と勘にのみたよる芸術職人的な芸の持ち味への執着をすて、万人のこころをこころとすることによって自己の限界を超えたところに可能とされたものである。したがって、彼が卓越した芸術上のジェニィーであり、その芸術がデモーニッシュであるということは、彼の眼が時代の真実を洞察しているということであり、彼の享受が最も即時代的な性格を示しているということにほかならない。
 もしそうでなければ、ロダンがミケランジェロの作品のまえで「すっかり色を失ってしまう」というようなことは起り得なかったであろう。ルネサンスの要約ともいうべき、この天才の作品をまえにしたロダンの驚ろきは、そのとき彼が「ギリシアの模範で頭がいっぱいになっていた」ことによるのであり、古典ギリシアの芸術をとおして「決定的に捉えていたつもりであった、数々の真理を、それらがことごとに否定していた」ことによるのである。彼自身そういっているように、天才ミケランジェロは、「往々にしてひとが主張するような芸術上の孤立者」ではなくして「全ゴシック思想の帰着点」であり、「この最後の人は、明かに十三世紀ならびに十四世紀のイマージェの継承者」であったといい得るであろう。
 「一般には、ルネサンスは偶像的合理主義の復活であり、中世の神秘主義に対する、それの勝利であったといわれております。それは半ば正当であるにすぎません。キリスト教精神は、ルネサンスのかなり多数の芸術家たち、すなわち彼らのなかのドナテルロや、ミケランジェロの師であった画家ギルランダーヨや、またブォナロォティ自身に、絶えず霊感を与えていました。」とロダンはいっている。それゆえに、ミケランジェロは、十三世紀につづく十四世紀のイマージェの継承者であるともいい得るのであり、またそれゆえにこそ、ギリシアの芸術に永遠の真理を見出していたロダンは、ミケランジェロの作品のまえでは色を失ってしまったのであった。そのときの驚ろきと困惑を、彼は次のようにのべている。
――わたしは自分に語りました、『さあ! 胴のこのくぼみは何故なのだ、この上についている腰は、この下っている肩は何のためなのだ?』私はほとほと困ってしまいました…… 
――かといって、ミケランジェロが誤りをおかしたという筈(はず)はありません!理解せねばならぬのでした。私はそれに没頭し、そして成功しました。
 その成功が、ルネサンスの芸術精神の系譜を探り、ミケランジェロを時代の子として理解することによってもたらされたものであることは、彼自身の言葉が示すとおりである。歴史的理解のみがすべてを解決する。なぜなら、現実はもと動的・歴史的な自然であるから。天才も時代の子である。いな、時代の子と呼ぶにふさわしいのは、時代の真実をいきた天才たちであろう。「古い芸術作品における奇跡をもう一度繰返すことを天才に求めても無駄である。天才の本能は、美や神聖なものを、新しい、そして必要な事実のなかに見出すのだから」とアメリカの或(ある)評論家もいっている。このようにして、また、それがすぐれたものであればあるほど、芸術は即時代的であり、時代の真実に忠実であると考えられる。現実の生をはなれて芸術はなく、「芸術における唯(ただ)一つの原則は、眼に映ずるところを再現するということ」(ロダン)だからである。尤(もっと)も、形象的現実の世界が、存在的現実をありの儘(まま)に再現したものとしてあらねばならぬということには、註がいるであろう。それが、見たが儘の現実の再現であるということは、芸術作品が、現象の表面を無差別に描くことによって作られるということを意味しない。「もしも芸術家が、写真のなし得るような外面的輪郭をのみ再現するにすぎぬとすれば、またもしも概観の種々さまざまな容貌を克明に、しかしその性格をあらわすことなく記録するのだとすれば、その人は何の賞賛にもあたいしません。……彼の獲得すべき相似とは魂のそれなのです。重要なのは、唯それのみです。」と「考える人」の作者もいっている。性格という言葉が、彼のばあい、現象のうしろのあってそれを支えているところの内部的真実を意味していることは、既に見てきたとおりである。
 戦場生活をリアルに描写するためには、自身戦場を体験することが必要であろうし、自身農村を体験し、農民生活の実態と農民真理の現実的なありようを探究することなしには農民文芸は生れ得ぬであろう。が、しかしそのことは、作家が兵士の眼を以て戦場を眺め、農民のこころを以て農村生活を感覚するということであってはならぬであろう。兵士の眼をとおして眺められた現象は、彼の表現に素材を提供をするにすぎぬ。尤も、それが素材としてもつ意義は大きいに違いないが、しかもそれはモデルのもつ意義以上の意義をもつことはできぬ。それが単にモデルの姿態を外面的に模写することに終っているとすれば、克明な描写も、そのリアリティーにおいて、ついに写真屋的感覚と技術による一片のプロマイドに劣るであろう。現象は現実に置換(おきか)えられねばならぬ。あるいは、現象のもつ現実的な意味がそこに探られねばならぬのである。本来ナマの素材にすぎぬところの現象を、その儘 敷写(しきうつ)ししたうえに、絵そらごと的な加工を施すというところに、芸術職人的なサロン装飾用の骨董品がうまれて来るのである。


         二

 われわれの作家に求めるものは、「真理のかりうどであり生命の番人である」芸術家の眼である。体験に徹することによって体験を超え、おのれをむなしうすることによって物のまことに至ろうとする、芸術家の態度である。それは、現象のうわべを描くということではなくして、現象を描くことをとおして、それの背後のあるものを見究めるということであり、あるいは、それのもつ意味の認識において本質的なものと偶然的なものとを識別し概括する、ということでなければならぬ。
 戦争文学と銘うった戦時下の一連の文芸作品が、作家自身、現象に足を掬われることによって、戦争の実態と本質的意義を洞察し得ず、或いは真実に背を向けて反動的支配勢力のプロパガンダとなり果て、その結果、単に戦争生活の一局面をスケッチしたものとして見てさえも虚偽であり、それがけっきょく現象的事実の断片をさえ描出し得なかったということ、また、戦前・戦時下の農民文芸が、農民のための文芸としてあり得なかったことはもとより、つまりそれが市民のまえに繰りひろげられた珍奇な農村風景・農民風俗以外のものであり得なかったということ――たとえば、和田伝の職人的に磨きのかかった農民小説を見よ――、更にまた、終戦後のいわゆる解放された文芸が「配給された自由」の卑屈さのなかに低迷し、二〇年代・三〇年代の世紀末的デカダンスへの旋回や、あぶなげな足どりでの現象追随に身をすり減らしている現状は、芸術への認識と芸術的認識との問題についてわれわれに反省を促すところが大きい。
 尤も、芸術の認識は、科学の認識と同一ではない。法則を求めて抽象する科学の現象概括と、芸術における現象の処理とでは方法を異にするのが当然である。科学にとっては法則追究のための、したがってまた現実探究のためのデェタにすぎぬ現象そのものが、芸術にとっては現象即現実という関係において抜差しならぬ意味をもって来るのである。芸術においても現象は現実に置換えられねばならず、現象を概括することなしに芸術の表現はあり得ぬとしても、それは日常性における現象の概括であり特殊化であるとされねばならぬ。そこに、芸術が現象の典型化であり、それの形象的把握であるといわれることの意味もあるであろう。「科学的認識は、現象の研究に際して、それの法則や現象相互のつながりや、またそこから出てくるいろいろな関係を吟味する」(ショウペンハウァ)のであるが、「芸術は、世界の移り変る流れの中から或現象を捉え、それを他の現象との因果関係から引離して、時間と空間とによる制約とは独立に、事物の果(はて)しない流れと同じであるかのように芸術的形象において再創造する」(同上)のである。形象的現実は、再創造された現実である。しかも、それは、日常性における現象の再創造としての、準体験的な現実なのである。が、しかし、いまさし当って必要なことは、芸術も現実の認識であり、現象の概括であるということである。
 芸術が現実についての認識であるということは、それが問題性における現実の把握であるということである。どういう意味においても問題になり得ないようなものは、認識の対象となることはできない。こうした意味において、芸術は、問題表現の型(ティプス)であり、それの解決の様式(シュティル)であるということができるであろう。芸術史が、問題史として方法されねばならぬ、とする主張も、この点に理由をもつであろう。
 ところで、芸術に対象性を与えるところの現実が、動的な現実であり移ろう現実であるがゆえに、時代の問題であったものも、それ自身の秩序においては次の時代の問題たり得ず、あるいは全く問題性を喪失するに至るのである。特に、芸術における問題の把握は、準体験的・形象的な問題意識であるがゆえに、表現者(芸術家)と享受者とのあいだに体験の共軛(きょうやく)的な一致の存する限り、それは日常的生活感情に訴える直接的なものをもつのであるが、問題表現のそうした日常的リアリティーのなまなましさのゆえにこそ、芸術の生命は短いのであり、またそれが時代の制約を超え得ないという、そのことこそが、芸術を芸術として意義あらしめるものなのである。また、たとえば、過去のプロレタリア文芸の提出した問題は、こんにちにおいても決して解決されていない。だからといって、それを過去におけると同一の文脈において取上げることが、問題の解決に一歩を進めたことにはならない。問題が未解決の儘に残されているということは、問題そのものが現在においても同一の形においてある、ということではない。現在の社会的与件のもとにおいて問題の所在を明かにするというか、問題の現在的なありかたをつきとめるというか、ともかくも新しい現実のありように即応した芸術的構想とスケールとにおいて問題を探究することだけが、こんにちの新しい民衆文芸に始発点を与えることになるだろう。
 このようにして、時代の芸術は、自らの提示した問題と問題表現の意義喪失にともない芸術としての機能を停止するに至るのであり、時代の子としての歴史の運命に殉ずるのである。クダラ観音の像がそのまえにたたずむわれわれの胸にどんなに大きい、またどれほど深い歓喜のおもいをもたらそうとも、その歓喜はアスカのいにしえにおいて体験された芸術享受のそれではないであろう。われわれは、どういう意味にもせよ、古代人の享受を古代人のリアリティーにおいて享受し追体験することはでき得まい。享受も、単に受動的な体験でなく、ゲェテもいっているように「人は、同時に自分自身創造者となるのでなければ、何ものをも体験し享受することはでき得ぬ」であろうから。
 芸術とはどういうものか、という問いに答えることは、このようにして、芸術の歴史を現実の生との具体的な結びつきにおいて要約するということでなければならず、かかる要約としてえられた芸術の論理を機能的に捉えるということでなければならぬ。芸術とは何かということは、このようにしてまた、帰納された論理に基(もとづ)いて、それをどういうものとして考えるべきかを提示することであり、答はおのずからあるべきようの芸術のありかたについての反省と示唆とを用意するものとなるのでなければならぬ。しかし、そのことは、「あることなくして、単にあるべきもの」について語ることではなく、あるべきであり且(かつ)あることが社会的予感(ないし歴史的予見)として想見されるところのものについて指向性を与える、ということでなければならぬであろう。
(註) この章の引用書目を一括すれば、次のとおりである。
    「ロダンの言葉」(ポール・グゼル)
    「芸術の本質」(K.ランゲ)
    「意志と表象としての世界」(ショーペンハウァ)



       2 世界の動的認識

          

 芸術を知ることはむずかしい。しかもひとは、どういう意味においてか、また、どういうしかたにおいてか芸術を知っている。それはまず、自らの体験に即して理解され、その体験と反省のありようにしたがって多岐多様の形を以て語られるのがつねである。芸術は自然の模倣である(アリストテレス)といい、現実の再現である(ロダン)といい、あるいは純粋なイデアの反映であり(プラトン)、精神的原型への追想である(ハイネ)などといわれる。そしてそれらの言葉は、同一文脈における同一観念をあらわしているのではなく、いずれも異なる秩序における異なる内容を示しているのである。
 たとえば、ロマン・ロランにとって、芸術は、肉体の牢獄からの脱出を意味していたといわれるばあい、それはどういう意味にもせよ現実が彼にとって桎梏(しっこく)として体験せられ、形象的現実の形成においてのみ、そうして現実の苦悩を超えることができ得たという、彼自身の体験をいいあらわしている。クリストフの悩みは、彼の悩みであると同時に、別人のそれである。あるいはまた、それが彼の悩みであると同時に、彼の悩みを克服し得たものとしてあるところに「ジャン・クリストフ」の世界は成立つ、ともいえるだろう。また、芸術を人生の和解であるとしたゴーゴリの言葉に対しても、われわれはそこに彼の体験した現実の影を見るであろう。人生の救いを芸術に見出しているという点で、この二人の作家は全き一致を見せているけれども、現実を不調和としている理由も、だからまた芸術を救いであるとしている理由も、彼らにおいて決して同一ではないことは、彼らの生きた現実のどういうものであったかを思ってみただけでも明かであろう。芸術への理解と把握は、このようにして決して一様ではない。
 芸術に対する理解の、この多様さは、しかし単に体験の多様性に基くものであるという以上に、芸術的体験そのものの日常的な性質に根差していると考えられる。いいかえると、日常的体験の多様性を規定するものが、ひとしく芸術的体験の多様性を規定するものとしてここに考えられねばならぬ、ということだ。なぜなら、芸術の体験が、科学の認識におけるような真に非日常的・抽象的な体験であるのなら、かくも多様な観点と観察の相違が、そこに生れることはないであろうから。現実の芸術作品のありかたは、明かに「芸術家の数だけの描写と色彩がある」ことを示している。あるいはそれを、作品のかずだけの色彩のヴァラエティーがある、といいかえてよいかも知れない。もちろん、科学の認識といえども、単に一様ではない。むしろそれは、認識そのものの認識論的構造の相違・立場の相違に基いて視点を異にし方法を異にし、相互に対立しつつ相克の姿を示しているのが普通である。「反動化した」ブルジョア科学に対する「人民の側に立つ」科学の立場からの判断と、ブルジョア科学によるそれへの反駁・再批判等々々……。
 科学の求めるものが、普遍的な法則的知識であることはいう迄もない。科学の理想像は、それが一つの形においてあることである。科学が一つであらねばならぬということは、もと世界が一つであり唯一つであるということに照応している。そして、現に、それぞれの立場に立つ科学者とそのイデオローグたちは、いずれも自らの理論が科学性をもつ唯一の論理であることを主張してやまない。しかし科学は、単に出来上った法則的知識としてあるのではない。それは法則的知識でなくして、法則的知識への探求であり、むしろ探求の過程である。たとえば、万有引力の法則は相対性理論に媒介されて、それはより高次の合法則的認識へと導かれる。ニュートンの力学は、その儘現代の力学であることはできないし、十七世紀の科学認識は、もはやわれわれのそれではあり得ない。
 また、たとえば、史的唯物論の立場に立つ科学といえども、現実の進展につれて当初のプログラムに修正を加えざるを得ない。本当をいえば、歴史の転化に照応しそれを反映するということこそが、この認識のたてまえなのであるが(「唯物論と経験批判論」)、マルキシズムのマルクス・レェーニニズムへの発展も、科学的認識の深化に裏づけられたものであると同時に、それは、現実の深まりそのものが科学的認識の深化・発展を要求したのである。科学は絶えざる探求である。しかし、それが探求であるということは、探求してえられた新しい事実を、単に既成の法則・既得の知識に付加えることですべてが終るというような関係にあるということを意味するのではない。その法則を法則として定立せしめたイデーそのもの、既成の認識そのものを媒介し止揚することによって、科学は自らを発展せしめるのである。認識論的反省を欠いて科学の発展はあり得ず、科学することを措いて科学はない、といわれるのもその意味においてである。イギリスの古典経済学の、マルキシズム経済学への発展は、同時に認識論そのもののコペルニクス的転回を意味している。あるいは、認識論の転換が、特殊科学としての経済学の発展を可能とした、といってよいのかも知れない。科学の認識は、それ自身絶えず否定に媒介されて深まり、それは発展し転化する現実との絶えざる対決において自らを規制しつつ内に深まることを求めてやまぬのである。論理は歴史の要約であり、論理は現実のうちに求められねばならぬ。現実をはなれて論理はなく、知識は現実と共に深まることを要求されている。
 科学の認識が客観的であるというのは、その知識が不変の固定した知識であるということでなく、却(かえ)ってそれが現実の変化に対応し得るだけのアダプタビリティーとフレクシビリティーとをもつ動的な知識だ、ということであろう。科学が、本来行為に合目的性を与えようとする、人間の実践的要求から生れたものであるとすれば、それの運動の過程における現実の抽象であり概括であってこそ、それは科学の知識であるともいい得るであろう。現実は、すぐれた意味において歴史的現実であり動的現実であるからだ。客観的知識というのは、このようにして動的な知識のことであり、知識は動的であることによって、客観的な一般性と一様性とを自らのものとなし得るのである。科学の認識は、知識をより客観的なものたらしめようがための、普遍的知への運動にほかならない。それは、単に一様であるのではない。しかもそれは、普遍的な法則的知識への運動であり、個別的・特殊的なものの一般化への体験である。科学の認識は、このようにして、それが一様であることをつねに要請されており、すくなくとも、同一の認識論的立場をとる科学のあいだにおいては、既にそのことが実現に移されている。


          

 芸術の体験は、科学の認識におけるような一般的な体験ではない。いな、その体験が一般的でなくして、個別的であり個性的であるという点に、むしろ芸術的体験の特色があるだろう。芸術の何であるか、ということへの理解が、あるいはまた、芸術をどうみるかということへの理解がひとによって一様でないということは、必ずしも我と彼との認識論の相違や流派的な対立をあらわしているのではない。一つの流派にとって真実であるものも、他の流派にとっては真実でない。写実派の真実は、もはや印象派のそれではない。シャピュの写実は、ドガにとっては既に写実としての意味を失っている。しかし、立場の相違がもたらす見解のへだたりというようなことは、既に一般的な体験にぞくしている。そうした立場の違いというようなことを除外しても――というのは、同一の立場をとる、同一の世界観をもつ人々のあいだにおいてすらも、ということであるが――なお且つそこに多様な意見の対立が見られるということは、それが芸術的体験の特殊な性質によるものと考えざるを得ない。ここに特殊というのは、日常的な性質のことである。日常的な体験は、直接的な体験であり個別的な体験である。体験が直接的であり、個別的であるがゆえに、芸術の体験も自己完結的であり、一般的なものの制約から自由であるかに見えるのである。
 日常的な体験の特色の一つは、それが自己完結的であるという点に見出されるであろう。自己において経験せられたものは、自分にとって真実であり動かしがたいものである。それが、特に日常性における現実の体験であるばあい、その体験は具体的な全体感に裏づけられて、いよいよその切実感・真迫感の度を強いものにするのである。しかも、そのばあい、それがどういう仕方における体験であるのかという、体験の仕方そのものについては反省されていないのが普通である。このようにして、日常的体験のもたらすものは、論理でなくして信仰であり信念である、ということができるであろう。それが、知性に媒介されざる単なる信念であるがゆえに、体験的知識は、合理的な思惟・思考に対して却って反発的でさえあるのだ。
 心理的事実は、論理的事実にすり替えられて強力なものとなる。常識は主張する、体験的知識としての常識は、それ自身の「論理」と秩序とにおいて自己を主張するのである。尤も、芸術の体験は、単に日常的な体験ではない。却って体験的な現実を超えたところに、芸術の形象は成立つといわねばならぬであろう。しかもそれは、個別的・直接的な体験として、特にそれの自己完結的な性質のゆえに、日常的体験に準ずべきものと考えられる。芸術への理解が、一般的なものの制約を超えて多様であるということは、芸術的体験のかかる日常性に基くとされねばならぬであろう。立場の同一、必ずしも見解を一致に導くものでなく、また意見の対立、必ずしも立場の違いをいいあらわすものではないということは、このようにして芸術的体験にとって特徴的である。
 たとえば、唯物論科学の全分野のなかで芸術に関する部面が最も立遅(たちおく)れているという事態は、そのことを示している。立遅れているというのは、それが依然として観念論美学の規範に縛られているということであるが、そのことは、享受者の観照を措いて芸術の表現は成り立ち得ないという事柄と結びついて、自己の観照が自分自身にとって最も直接的であり具体的な真実感をもつところから、それを動かしがたい絶対的なものと考えるという、芸術的体験の自己完結性に基いている。彼の既得の芸術体験は、時代の新しい芸術性に共感を覚えるべく旧(ふる)い生活感情のものである。しかも、新しい民衆の芸術は、いま漸(ようや)くその始発点が与えられたというにすぎない。民衆の芸術にも歴史はあるし、この戦時中においても、ひそやかな、ためらいがちな努力が続けられて来てはいるのだが、しかしそれは余りにも未完成である。そこに生れる芸術享受の混乱が、芸術科学の分野における、また芸術批評の領域における混乱を導いているといえぬであろうか。
 享受と批評とに関する近代観念論美学の、大きな特色の一つは、体験的自己省察の名に隠れて論者自身の観照を絶対化し、それを普遍的な規準として作品に臨むという点に求められる。(ディルタイの見解は、そうした点できわめてティピカルなものを示している。)ところで、彼の享受は、所詮彼一個人の享受にすぎない。彼の芸術への理解のしかたが現実の芸術作品に対する彼の享受のありかたを規定し、個々の具体的な作品に対する彼の享受が、また彼自身の芸術観を形成していくという関係にあるとすれば、芸術への理解は、既に見てきたように一様でなく、個々人の作品観照もまた個別的・個性的であって、その限り、各人の観照は自らを主張し得る相対的な自由と権利とをもつ、といわねばならぬであろう。それが強制を受けるのは、一般的な立場においてであり、各人の観照をデェタとしてそれが批評に媒介され理解にまで高められたばあいにおいてである。一個人の観照を以てすべてを断ずることはナンセンスも甚(はなは)だしい。にもかかわらず、作品理解の一資料にすぎぬ自己の享受を彼我(ひが)あい通ずる一般的なものであるかに考え、それを規準として作品の表現を論じ芸術を語るということは、科学的批評たることを以て自任する唯物論芸術批評のばあいにあっても、決して珍しい例ではない。それの発達にとってクリティシズムがいちばん密接な関係にあるとされている芸術の分野において、しかもそれが最も立遅れを経験しているという事態は、芸術的体験の自己完結性による、享受と批評との混同によって導かれている。
 享受を前提とすることなしに、批評はおこなわれ得ない。芸術家の感受性は、同時に批評家にとっても欠くことのできぬ資質的条件である。クローチェも、芸術家と批評家との本質的同一を指摘して、次のようにのべている。「ダンテを批評するには、彼の高みに昇らねばならぬ。経験的には、われわれはむろんダンテではないし、ダンテはわれわれではない。しかし、享受と批評との瞬間においては、われわれの精神も詩人の精神も同一であり、その瞬間にはわれわれと彼とは一つになっている。」批評家も、何らかの意味において芸術家であらねばならぬ。現実に彼が作家であるか否かはすこしも問うところではないが、すくなくとも自ら創作することの可能性をもつものでなければ、よき批評家たることはでき得まい。批評家は、可能性における芸術家である。芸術批評というのは、この文脈からすれば、作品において表現された問題の、より正しい秩序における芸術的解決の方法を提示するものでなければなるまい。いわゆる技術批評・批評的なものを肯定するしないは別として、表現技術の面にまで立入ってその作品を批評し、ほかの解決方法ではない、芸術的秩序における解決の方法を提示するというところに、芸術批評の芸術批評たるゆえんがあると考えられる。批評は、作品をはなれたものでなければならぬと同時に、また作品に即したものでなければならない。自身、農村問題について考えてみたことのある人でなければ、この問題をテェマとした作品を正当に評価することはでき得ないけれども、しかしそれが単に事象の一般的な認識にとどまり、そうした角度からの単なる裁断批評に終っているばあい、それは芸術作品を芸術作品として批評したことにはならない。飽くまで作品の表現に即してこれを批評し、しかもその批評が、作品に示されたそれとは別個の対象認識のしかたを示唆するようなものとなるのでなければ、それが芸術批評であるということはでき得まい。批評家もまた、自らの感受性をより鋭いものにし、自らの享受をより深いものに、よりよいものに導くべく努力を傾ける必要があろう。
 けれど、享受はどんなにそれを深めようとも批評にはなり得ない。批評家と詩人との精神的自己同一を説いたクローチェは、しかし別のところでは「批評家のしごとが成立つのは、受取られた印象が保たれると同時に、それが超克されたばあいにおいてである」と述べている。それを別の言葉でいえば、批評の前提となるものは享受だ、ということであろう。享受を措いて批評はあり得ない。しかしまた、自己の享受を否定することなしに批評は成立ち得ない、ということを彼はいっているのだ。自己の享受を超えるということは、ひとりぎめに自分の享受を絶対的なものと考えるという態度を揚棄して、万人の享受をかえりみるということである。が、それは、万人の享受にかえりみて自らの享受を深めるということに終るのではない。「批評家のしごとは、何よりの思惟にぞくしている」(クローチェ)のである。芸術作品の与える感性的なものを悟性の言葉に翻訳することによって、作品に示された芸術的認識を概念的に再認識する、という機能を批評はもつのである。それは、感性的・日常的なものの非日常化であり、非日常的なしかたにおける体験である。
 批評は、作品に即したものであると同時に、作品をはなれたところに成立つ。享受を前提とすることなしに批評はあり得ぬということは、同一のオーダアにおいて享受が批評に直結しているということではない。時代の真実に忠実であろうとする批評家は、屡々(しばしば)、自らの享受において深い共感を覚えたところの作品に対して、却って否定的であり反発的でさえあらねばならぬのである。自らの享受に深い共感を与えるような作品こそ、超克し切れぬ旧き自らのものであるがゆえに、それは歴史の進歩に対して、したがってまた芸術の発展に対して反動的な機能をもつ作品であるだろうから。批評は、それがすぐれたものであればあるほど、批評家自身の享受のありかたに反して否定的であり、また肯定的であるばあいがすくなくない。本当をいえば、享受を媒介して作品の客観的把握を可能ならしめ、更にまたそれを主体的理解に導くという点に、芸術批評のつとめがあるわけなのだ。もしそうでなければ、それは単に自己の享受を言葉に翻訳したものか、作品をとおしてみた作家の、あるいは時代思想の研究というようなものに終るであろうから。したがって、それは、旧き自らへの自己批判の形において、一身上の立場においてはむしろ身近かなものとして感じられるところのものに対して、却って反発的たらざるを得ないのである。このようにして、個々人の享受は、それが享受としてある限り、作品理解のためのデェタとしての意味をもつにすぎない。享受は批評に媒介されることによって、享受者自身の生活意識、日常的なもろもろの生活感情、世界に対する彼の認識のありかたそのものを規制し方向づける力となり得るのである。
 こんにち芸術に関する分野全般にわたって見られるところの享受と批評との混同が何に因由さるのであるか――芸術的体験の自己完結的な性質が、日常的体験のそれにも準ずべきものであることは、右の事情からも明かであろう。
(註) 引用書目
    「ロマン・ロラン」(ツワイグ)
    「ロダンの言葉」(ポール・グゼル)
    「唯物論と経験批判論」(レェーニン)
    「詩人と構想力」「詩人と創造」(ディルタイ)
    「美学綱要」(クローチェ)


熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 人と学問