〔紅野謙介『国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領』 ちくま新書 2018.9〕 


『国語教育の危機
――大学入学共通テストと新学習指導要領(抜粋)
 
 「大学入試センター試験」に代わって新しく導入される「大学入学共通テスト」。試行テスト等の内容を見る限りでは、本当に国語の大学入試問題なのかと首をかしげたくなる。新テストは、「新学習指導要領」の内容を先取りする形で作成されており、これが文部科学省の目指す理想形だとしたら、いま国語教育は重大な危機に瀕していると言えよう。「大学入学共通テスト」と「新学習指導要領」をつぶさに分析し、そこからいま見える国語教育が抱える問題を指摘し、警鐘を鳴らす。 ( 同書カバーより ) 

†第三者のポジション
 (…)これまでの出題パターンでは、問題文に登場する人物に視点を置いて、その人物の視線で捉えることを前提にします。サンプルのような、登場人物が複数出てくる問題文であれば、そのような問い方を基本とします。そして今回とほぼ近い正答を導き出したいのであれば、これで問題はないはずです。しかし、このモデル問題の出題者はそうした問い方を採用しませんでした。ここに登場する人物のいずれでもなく、一言も発していない空白の人物である「かおるさん」の名を借りて問いを立て、かつ正答に誘導するという奇妙な手法をとったのです。なぜ、そのような手続きをとらなければならなかったのでしょうか。
 推測するに、これは父と姉という二つの意見を対立させた上で、第三者というポジションを重視したのではないでしょうか。哲学には、ある命題に対して、反対の命題をぶつけ、両者の矛盾と対立のなかからそれらを乗り越える命題を案出する「弁証法」という対話的な論理技術がありますが、そうした論理の展開を人物ごとにあてはめようとしたように思えます。しかも、正反合の「合」にあたる「かおるさん」の意見とされる解答は、姉に賛意を唱えつつ、父の危惧にも対応できるような「補助金」問題に言及し、行政を動かすことにしようという方向にリードされていたわけです。もちろん、これは「弁証法」のまねごとであって、そのものではありません。あるのは、条件を狭めていって、「資料」のなかの特定の「情報」を見つけてくるようにという指示なのです。
 論理学を学ぶことが重要であるのは言うまでもありません。私もそれは賛成します。しかし、ここにあるのは一定の規律訓練を覚えさせるのと似たようなことです。しかも、「自由意志」と「自己負担」という、いま登場人物たちが直面している大きな問題を、「補助金」支給問題で切り抜けようという方向に導くように問いと答えが用意されています。これは政治的な政策の提示に等しいのですが、果たしてそれは適切なのでしょうか。政府や自治体からの「補助金」はたしかにさまざまな事業や組織・機関にとって大きな柱になりますし、独立して新規の起業をやろうとする人やNPO法人のような団体にとっても支えとなるでしょう。しかし、他方で「補助金」に依存してしまう傾向があることも否定できません。実際に原発にしても米軍基地問題にしても、住民の「自由意志」と「自己負担」の矛盾を、ひとまず抑え込む政策としては特別な「補助金」交付制度が機能してきたことを、私たちは知っています。
 姉が「ガイドライン」の「補助金」に言及した箇所をとりあげ、父を説得するような展開にしたとして同じ理屈ではないかと言われるかもしれません。しかし、それは登場人物の「主観」のなかでの論理をたどることになります。設問に答える側は、自分とは異なるこの人物の理屈ではどうなのかを想像して考えるわけです。それは、「かおるさん」という、事前情報ゼロのまっさらな第三者に、受験生である読者が身を重ねて、方向づけられた推論をたどるのと、同じではありません。
 この場合の第三者とは、対立する意見に対して、少し上の立場から判断を下す審級にあります。しかも、この人物の主観を示唆するような個性も、意見も何も示されていないのです。超越的な第三者性をここまできっちり設定した上で受験生の誘導をはかるのは、論理学の学びという目的よりも、社会参加のしかたを方向付ける目的があるからのように思えます。(42頁~45頁)

†「問題文」から「資料」へ
 こうした記述式問題のモデルがこれまでの「国語」の問題文とは大きく違うことは先にふれたとおりです。最大の違いは、「問題文」という概念もなくなり、すべては「資料」となり、その「資料」の書き手の署名がないことです。(…)
 そして最後の「資料」にあたる「家族の会話」は、父と姉という発話者がいますが、それは記録として示されていて、誰かの記憶のなかの会話でもないし、想像のなかの会話と受け取ってはならないという設定になっています。この会話を記録した書き手も署名はありません。父を父と呼び、姉を姉と呼ぶ人物として必然的に「かおるさん」が聞き手となるはずですが、そうした聞き手の『主観」があまり前面に出ないようになっているのです。
 これまで「国語」の大学入試問題、それのみならずほとんどの高校の「国語」教科書において教材として採用されてきたのは、大半が署名のある文章です。山崎正和や大岡信、古くは丸山真男や柳田国男、小説では芥川龍之介、中島敦、夏目漱石など、署名のある書き手の評論や小説などを載せてきました。なぜ、署名のある文章が前提とされてきたのでしょうか。
 たとえば「日本史」や「世界史」の教科書には記述者の署名がありません。客観的な記述を目指しているからです。しかし、歴史の教科書はしばしば政治的な論争を呼びました。教科書の記述に対して、事実かどうかという問いを徹底してつきつけ、立証するエビデンスがない以上は、事実と言えない、虚偽であると否定し、非難する、そのような認識が今もなお続いています。
 これに対して、「国語」は少なくとも中学・高校では、署名のある教材を通して、その書き手の個性的な主観を媒介に世界をとらえることを学んできました。まるきり嘘偽りの文章を用いることはないけれども、著者のフィルターから見える世界が並立する。そのような構成がなされていたはずです。そのフィルターは書き手の主観であり、同時にその主観を成り立たせているのは言葉とその表現法です。したがって「国語」においてこれまで重要視されてきたのは、書かれていることがらの真偽ではなく、どのように表現されているかでした。ある評論を教材にするときでも、書き手の考えに賛成か、反対かはひとまず措く。まず書き手が中心となることがらをどのように捉え、どのように表現しているかを学んで、そのあとで書き手のフィルターでは見えないところ、抜け落ちているところは何かを考えるという教育を進めてきたのです。
 それは試験問題の作成においても同じでした。どんな問題文を選ぶか、誰のどの文章から引用するか、多くの問題作成者はそこに腐心し、試験問題の成否もそこにかかっているという自負をもって、定期試験であれば教科書のなかの問題文を、目を皿のようにして精読し、実力試験や入学試験であれば、まだ多くの人が知らない文章のなかから問題文になりそうな箇所を探すべく、多くの書物や雑誌を博捜してきたのです。(45頁~48頁)

†署名のない問題文
 しかし、このサンプル問題では署名のない問題文が導入されました。この一例からだけで判断するのはむずかしいですが、いくつか指摘することはできます。
 一つは、これはシミュレーション型の問題文で、架空の市、架空の条件での思考実験をしようという趣旨で成り立っています。しかし、架空の市とはいえ、公共機関の公文書を前提に、その解釈と運用を議論の対象としています。住民である父と姉は、公文書の内容に対して賛否がわかれますが、これを前提にしなければならないという判断で共通しています。つまり、「ガイドライン」に反対の父が「ガイドライン」改定に乗り出すという選択肢はそもそも想定されていません。かつまた、受験生がみずからを重ねあわせてみる妹の「かおるさん」は、「ガイドライン」を支持する姉の意見にまず賛成したことになっています。そして「ガイドライン」のなかで父も納得する方策を探るかたちで、設問が導かれているわけです。
 したがって、この問題はまず公共機関の公文書への批判や反発に抑制的に動くことを推奨しています。市役所は住民に対して、適切なかたちで規制と奨励を行っているのですから、それにしたがうことを促しています。仮にそうした見解が表明されているのだとしても、それがある特定の人物によって書かれているものならばそれもありうるでしょう。しかし、その署名はありません。
 少なくとも、私たちは国家も行政府も公共機関もときに間違いを犯す、失敗することがあるということを知っています。公共機関であるがゆえに、その失敗の訂正はきわめて困難になり、修正や謝罪は長期にわたり、深刻な影響をこうむった人々が長く苦しんだ歴史があることを知っています。「国語」の教育は「道徳」教育でもなければ、「歴史」教育でもありません。署名のある問題文を用いるということは、ただ単に著名人や作家、学者の文章を集めるために行っているのではないのです。書き手の主観的な限界こそが重要であると判断しているからです。これに対して、無署名の文章には一定の権力性がつきまといます。サンプル問題はそのことに無自覚であるか、あるいは反対に意図的(、、、)にそうしているか、そのどちらかだと言えましょう。(48頁~50頁)

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†失敗した設問
(…)ほんとうに生徒の「思考力・判断力・表現力」が問われるとしたら、この架空の高校の生徒会活動委員会の執行部が延長問題にぶつかって、「それでは、どのように提案していけばいいか、みんなで考えましょう」と島崎委員長が発言したその後のことではないでしょうか。延長の希望と、安全面の考慮という矛盾をどう解きほぐすのか。答えのない問いにぶつかるから、初めて思考力が試されます。自由な発想や突飛なアイデアが突破口になるのもそのときです。「創造的に思考」することは「論理国語」に課されていたテーマでした。しかし、この記述式問題で問われているのは、複数の資料をまたいで、あちこちにちらばっている情報をひとまず集約する能力ではあるが、「創造的」な能力ではなかったのです。(184頁)

†情報の取捨選択
 情報の集約はたしかに必要な能力の一つです。しかし、情報の集約はつねに現状の分析に終始します。エビデンスを示すことは重要ですが、それだけでは背景にある現実を動かすことは視野の外に追い出されてしまいます。この青原高等学校
[資料=問題文中に出てくる学校]では、「生徒会部活動規約」が一種の「法」として機能しています。この「法」のもとに動かしていかなければならない、それが会話に参加しているメンバーの前提です。それはサンプル問題のときの城見市[資料=問題文中に出てくる自治体]の「ガイドライン」と同じです。駐車場管理会社の契約書の場合は、業者と個人のあいだで結ばれます。これを約束した以上はそのルールに従わなければなりません。ただ、ルールの変更もあり得る設定になっていて、その手続きが議論されますが、公共的に機能する社会的な「法」や「契約」の順守という前提は崩れていないのです。
 果たして「国語」という教科は、社会的な「法」や「契約」をめぐる道徳や手続きを教えるのでしょうか。記述式問題をめぐる見本が、サンプル問題の二問、プレテストの一問と、これまで公表された三問がいずれも同じ傾向をもつということをどう解釈したらいいのでしょうか。さまざまな記述式問題が想定できると思います。しかし、大学入試センターの提示した見本は、いずれも同一傾向、同一主題の方向に動いていました。論理的な思考や想像的な発想を問うというよりは、複雑な情報のなかから必要な情報を取捨選択することばかりを求めていたのです。(184頁~185頁)

†作成者のイデオロギー
 
サンプル問題の一つは、景観保護によって行われる制約と住民の自由意志が対立的にとらえられ、公共好況による制約を優位に置いた上で、自由を生かす補助金の獲得へと促していました。いま一つは、民間企業による不当な運用に対しては、個人が契約書を盾に主張することの必要を唱えていました。プレテストでは、高校の生徒会を舞台に、生徒の要望と安全面の指導を対立させ、後者の重要性を指摘するところで終わっています。サンプル問題の二つ目が多少異質に見えますが、これは民間業者と個人という「私」と「私」のあいだでの交渉を扱っているからで、その間で交わされる「契約」の絶対性は揺るぎません。
 はしなくも、これらの複数の記述式問題は、作成者の思想
(イデオロギー)を照らし出しているように思えます。それは現在の日本の政治・経済・社会によって規定されている「公共」の概念を絶対条件として受け入れようという意思です。しかし、言葉を学ぶということは、その範囲にとどまることではありません。「法」や「契約」といった社会的公共性を重視した著者のテクストを教材として掲載することに、――それが優れたテクストであるかぎりにおいて反対はしません。そのような考えの表明は重要です。しかし、社会的公共性はつねに歴史的なものであり、変化していくものでもあります。欠点もあるし、偏りもある。だから、そうした偏りのある社会に合わせて生きることがつらい人々もいるでしょうし、軋轢も生じうるのです。そうした異なる考えがあることを表明し意見をたたかわせることができて、初めて「社会に開かれた」教育になるはずです。しかし、無署名であることは作成者の「無意識」を鉄の意思として示すことなのです。それはみずからを「公共性」の代表とし、全体に従うように表明することに等しいのではないでしょうか。
 「国語」という教科は、「数学」や「英語」、「日本史」「世界史」「地理」などの地理歴史科、あるいは理科の各教科とも大きく異なっています。なぜ、国語の教科書は教材集という形態をとり、署名のある書き手たちのアンソロジーであったのか。そのことがあまりにも安易に忘れられているように思えてなりません。(185頁~187頁)
         
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†論理的思考力と教育課程
 (…)高校一年生の必修科目「現代の国語」でも「実社会に必要な国語の知識や技能」の修得や、「論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力」の育成が目標とされていました。また、そこには「文、話、文章の効果的な組立て方や接続の仕方」や「話や文章に含まれている情報の扱い方」について、「主張と論拠など情報と情報との関係」を理解することや、「個別の情報と一般化された情報との関係」、「推論の仕方」、「情報の妥当性や信頼性の吟味」、「引用の仕方や出典の示し方」などが教育内容として掲げられていました。しかし、第2章で見たように、時間数の配分からいくと、「話すこと・聞くこと」や「書くこと」に「読むこと」の三倍以上の時間をかけるように指示されています。これでは、読解力や論理的思考力より、対話やコミュニケーション能力の方に重点が置かれていることになります。なるほど、「大学入学共通テスト」のモデル問題やプレテストで、さかんに対話や議論をしているようにみせかけた問題文が用意されたのもそのためなのでしょう。
 しかし、手続きや方法論において、私たちはまたもや壮大な失敗をしようとしているのではないでしょうか。「論理的思考力」と「表現力」を身につけるには、限られた授業形態のなかで、じっくりと教材に向きあいながら教師と生徒、生徒と生徒が対話的に関わるような場面がなければなりません。もし、教科書をきちんと読解する力がなくなっているのだとすれば、試験問題の変更でリカバーできるものではないからです。教育課程を総体として整理し直し、小学校高学年から中学校にかけての時期に文章の「基礎的読解力」を身につけ、中学校の後半から高校の前半にかけて「論理的思考力」や「表現力」を鍛えることをめざす。そのような全体としての教育の流れを作りだすことが不可欠です。
 記述式問題を導入し、マークシート式問題でも大量の資料を複数提示して、膨大な情報のなかを泳がせるような試験にすれば、こうした能力の育成につながるというのは大きな錯覚だと言わざるを得ません。(271頁~273頁)

†その方法は適切なのか
 教育にとって、ドラスティックな改変は混乱をもたらすばかりです。
 現在の初等・中等教育のなかで「統合的な思考力や判断力・表現力の獲得」が重要であることはもちろんです。グローバリズムとAIの時代が到来するなかで、既存の思考に依存し、周囲の空気を読むことのみに長け、独創性よりも同調性に強い人材を育てても効果はありません。複数の情報のなかから的確な情報を集約し、それらを組み合わせて、既成観念にとらわれない自由で創造性あふれた思考力・判断力・表現力の育成を目指す、そのことに誰も異論はないでしょう。しかし、掲げた目標はその能力の獲得にいたる過程のすべてを正当化するものではないのです。どのように教育プログラムを進めるのか、その方法は適切なのかがくりかえし問い直されなければならないと思います。
 高大接続改革の名のもとに、高校の教育を変え、大学の教育を変え、それらを接続する入学選抜制度を変えるというのが文科省の三点セットです。文科省は、高校も大学もそれぞれ「創立の理念」や入学者選抜
(アドミッション)の方針、教育課程(カリキュラム)の方針、卒業資格(ディプロマ)の方針を掲げて、個性化してかまわないと言います。しかし、「学習指導要領」で高校教育を規制し、多くの高校生が受験する大学入学者選抜制度を規制していけば、個性化は進めようがありません。「生きる力」と謳い上げながら、その言葉だけをお題目のように唱えることを推奨していくのであれば、それは実際の「生きる力」とはならず、「生きる力」という呪文への依存に終わってしまうでしょう。
 「統合的な思考力や判断力・表現力」は、限られた時間のなかで、複数の資料のなかから情報を見つけ出すことによって獲得されるわけではありません。試験時間を二〇分も増やしましたが、問題冊子も四〇ページ台から五〇ページ台へと一気に増えました。しかも、見てきたように異なる種類の文章や図表があちことに登場し、情報は断片化していました。提示された記述式の試験問題が要求するのは、それらを短時間でサーベイしながら、コピー&ペーストし、加工編集すること、そのテクニックであり、思考力ではありません。記述式問題では、この社会の確固とした「法」や「契約」が厳として存在することを踏まえ、その間隙をすりぬけることが求められています。変えることに知恵を尽くすよりも、「法」や「契約」のもとで生きることが要求されています。(273頁~274頁)

†持続困難な方針
 この記述式問題が入ることで、大問は五つになりました。まるまる一つの大問が増えたのです。これで冊子のページを抑えようとすれば、マークシート式の四問を短くしなければなりません。それでいて、さらに問題文に複数の資料を入れなければならないとしたら、短い本文に図表という組み合わせにせざるを得ないでしょう。勢い、問題文の候補は絞り込まれます。候補となるような材料はたくさんあるわけではありません。数多くの予備校や業者が事前に行う模擬試験や講習で、可能性のある問題文をまたたくまにリストアップしていくことでしょう。困ったあげく、まず教科書には採ることのないような問題文が選ばれる危険性も生まれますし、珍問奇問も出てこざるを得ません。こうした問題点は一過性の、まだ制度変更に慣れていないがゆえの過渡期の症状で、いずれ正常化するのでしょうか。
 問題作成委員のことを考えてみましょう。センター入試の問題作成委員は、この試験に参加している多くの国公立大学や私立大学の教員や、高校教育の現場からはいったん離れた教員経験者から選抜されて構成されています。彼らはこの新たな「大学入学共通テスト」の作成に喜んで参加するでしょうか。もちろん、いまでも喜んで参加している者は少ないでしょう。しかし、より高いハードルとなり、きわめて作成困難になった出題にすすんで挑むのは、これもまた相当な変わり者たちとなります。果たして、この問題作成において持続可能性はあるのでしょうか。私は、ないと考えます。
 複数の資料をまたぐと「統合的な思考力」が育つというのも、きわめて安直な発想です。記述式の問題は採点がしやすいように、限られた場所にいくつかの要素がちりばめられているだけで、その場所を見つければ簡単に答えは出てきます。語句を結びつけて文を作り上げ、文同士の関係を副詞や接続詞でコントロールしていく文章力は生まれるかもしれませんが、それは高校の定期試験などでも十分可能ですし、むしろ、いくつかの私立高校がすでに実践しているように、高等学校の卒業前に卒業レポートを作成させることを必修にしたならば、大学入学前に十分力がつくのではないでしょうか。そうしたそれぞれの現場を、それこそ「統合的」に組み合わせれば獲得可能である能力を、なぜ「大学入学共通テスト」でやらなければならないのか。気の遠くなるような高額の税金と大量の人的投資をかけてまで。(275頁~276頁)


†「国語」の力をとりもどす
 こうした改革派たちは、おそらく「国語」という教科の内容と意義を理解していないのだろうと思います。もちろん、これまでの「国語」にまったく問題がないとは言いません。「基礎的読解力」を育て、「論理的思考力」を鍛えて、「統合的な思考力」を生み出していく、そのための工夫はもっと必要でしょう。しかし、かつての教科書とは異なり、「国語総合」の教科書の多くは、評論の読解を細かく解説し、文の組み立てや接続関係、文脈による意味の変化、問題提起・論証・結論の構成、論証のパターンを解説したパートを挟んでいます。おおよそ三〇篇以上の教材が並ぶ中で、小説は五、六篇、詩歌をべつにすれば、半分以上が評論やエッセイの教材となっています。文学教材に偏っているというのはそれこそ偏見にすぎません。
 また、一つの署名ある書き手が書いた文章のなかに複数の要素、複数の価値が競合し、葛藤しているものがたくさんあります。主張の明快なテクストであれば、優れた教材となるわけではありません。そうしたものも教科書は採用していますが、それはまさに二元論的な論理構成や説得のしかたを学ぶための教材です。しかも、その限界や死角、問題点や応用可能性を議論するためでもあるのです。
 もちろん、文学教材も重要です。すぐれた小説は、必ずしも一元的ではなく、むしろ多元的な複数の要素から成り立っています。小説は特定の登場人物の心理を追いかけるだけのものではなく、その物語世界に現れたさまざまな人物の、性別や年齢、階層、国籍を超えた複数の立場がぶつかり合い、あるいは惹きつけ合い、それぞれの個性やことば、感情、信念や思想が錯綜するなかで動いていきます。出版界で本が売れないことがさんざん言われていますが、それでも、本屋に行けば、毎月、芸術的な小説からエンターテインメントまで多くの新しい小説が刊行されています。なぜ、そんなに小説が書かれ、かつ読まれているのか。それはこの社会で生きている私たちが複雑な葛藤や対立に日々、巻き込まれ、苦しみながら、この生を肯定する道筋を探しているからです。文学はまさに私たちの「生きる力」の根源にふれているのです。
 複数の資料からでないと「統合的な思考力」が育たないというのは迷信か、悪い冗談に過ぎません。現代が対立する情報や相反する主張、真偽とりまぜた夥しいニュースに取り巻かれていることは、いまや小学生でも知っています。試験問題のなかの複数の資料を安易に統合したところで、真実が分からなくなってきたこの時代や社会に対応する能力が簡単に生まれるわけはないのです。
 大事なことは、一つのテクスト、ひとりの人間のなかにも複数の要素があり、さまざまな価値の衝突があることをじっくりと見ることです。夥しい情報の渦に目を背けて、自分だけの世界に閉じこもりながら、それだけが世界だと錯覚し、身を固くしているものたちに対して、相反するさまざまな刺戟に反応し、揺れ動く自分がいることを知り、価値の多様性のなかに身を開いていくこと、それこそが重要です。「国語」という教科が評論文とともに、小説や詩歌などの文学テクストを取り入れてきたのはそのためです。
 繰り返しになりますが、テクストは単なる「情報」ではありません。それは、これまで使われてきた膨大な歴史と記憶を背景にひそめ、手触りをもった言葉によって組み立てられています。言葉は人々を解放するとともに、他方、厳しく拘束もする。だからこそ、言葉について学び、言葉への愛情とためらいを学ぶのです。
 「学習指導要領」の実施はもはや避けられません。すでに決定されました。それをどのように運用していくかは、教育に関わる人々が衆知を集めていくしかありません。しかし、「大学共通テスト」はまだプレテスト段階です。いま高校一年生の生徒が卒業するときには実施されるのですが、それまで二年半の猶予があります。統計的な分析やアンケート調査だけで是非を問うのではなく、「国語」教育にたずさわってきた多くの教員や研究者を交えた質的評価をめぐる議論こそ、これからまさに必要な工程ではないかと思います。「国語」の教師たちが積みあげてきた技術や経験知を汲み上げながら、この歴史的改革を正しい道筋に戻すことが求められています。(276頁~279頁)


国語教育・文学教育論議の「現在」