1947.4 | 『文学』 第15巻第4号(岩波書店刊) | 不可知論と芸術学 |
1947.12 | 『芸術研究』 2(民主主義科学者協会芸術部編 解放社刊) | 芸術の論理 |
1949.3 | 『教師の広場』(宮城県教組機関誌) | 民主主義確立のために(たにもと・しげる=熊谷孝) |
1949.6 | 『文学入門』 (学友社刊) | 文学入門 |
1951.4 | 『文学』 第19巻第4号 (岩波書店刊) | 四つの文学論 |
1951.5 | 『文学序章』 (磯部書房刊) | 文学序章 |
1951.7 | 『法政二校』 第2巻第2号 | 小説を読むということ |
1956.1 | 『講座・日本語 Ⅶ 国語教育』(大月書店刊) | 国語教育の問題点 |
1956.11 | 『文学教育』(国土社刊) | 文学教育 |
1959.8 | 『講座・文学教育 2』(文学教育の会編 牧書店刊) | 戦後の文学教育――その展開 |
※ 戦後の熊谷孝著作のうち、主として<文学と教育の会―文学教育研究者集団>創立以前に発表された論考からの抄出 (一部は全文)である。 ※ 「(…)」は本ページのおける省略箇所を示す。 ※ 「[薄字]」は本ページにおいて付した注記であることを示す。 ※ 「不可知論と芸術学」本文中の太字は本ページにおいて適宜、設定したものである。 |
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1947.4 『文学』 第15巻第4号 (岩波書店刊) |
「不可知論と芸術学」 本当に芸術を愛するものだけが、芸術を語る資格をもつであろう。けれど、その芸術愛が、美的体験として抽象化された芸術美への陶酔を意味している限り、それは実践に役立つ現実の力とはなり得まい。芸術への関心の高まりが、同時にわれわれ自身の政治的関心と社会的実践への意欲とをよおび起すようなものとしてあってこそ、それはほんとうの意味での芸術愛ということもできるだろう。が、そのためには、芸術は、人民のための芸術にならなくてはいけない。人民の政治が働く人民自身の手によっておこなわれねばならぬのと同じように、芸術はいま、精神貴族の手を離れて民衆自身のものとならなければならぬ。民衆のものとなり切ることによって、芸術は、現実の闘争に参加する人民みずからの生活のよろこびと悲しみを、その希望と夢をあらわすものとなり、やがて人々の心とおもいを一つのものに結びつける社会的な力となるであろう。芸術家は民衆と共にあらねばならぬ。そのことによって、また芸術を真に民衆のものたらしめねばならない。 (…) 物質的現象に対して科学があり、芸術は生命そのものに対してあるとする考えかたは、けれど現実を遊離した形式論理にすぎない。知性の作品である科学は、単に物質的操作の秘密をわれわれにときあかすだけでなく、むしろ生命の秘密に肉薄することを目ざしている。これは知性の欲求であり、知性的人間の要求である。知性的人間は、さらに芸術に対しても、それが単なる本能的なもの・直覚的なものを超えたものとしてあることを求めている。芸術の認識を、単に直感的と見做(な)すことは許されない。芸術は現実の再創造であり、準体験的現実への移項である。創造は英知の、そしてデーモンの協力を必要とする。直観は、それ自身では何ものをも作りはしない。芸術は現実の形成作用として、直感的であるよりはむしろ知性的・感性的な全人間的な実践活動であるということができる。感覚的であり同時に頭脳的である人間の心を満たすもの、そして何よりも行為する人間の実践的要求にかなうものとしてあることが、そこに求められる。 (…) 科学の知識は抽象的であり、それが抽象的なものとしてあるがゆえに、科学はわれわれの実践に役立つ現実の知識となるのである。 しかし、科学のそうした有用性について疑う余地はないとしても、それは所詮知識であるにすぎない。科学のもたらすものは、原物についての知識であって、原物そのものではない。或いは、生の全体感における現象の概括ではない。生あるものの生命は、科学によって剥奪される。それは、ものの外部的・外面的な把握であって、生命の内部に触れたものではない。それが科学の対象とされる限り、歴史的な人間の生も、因果関係において捉えられた人間の生態記述にほかならない。このようにして、また、純粋に知性的なものの適用は、物理的自然に、或いは物質的操作の秘密をときあかすことに限定されねばならぬ、ということにもなるであろう。が、しかし、物質的操作のメカニズムは、それをいのちあらしめている生命と無関係に問題にされ得るであろうか。また、歴史的自然の把握は、単なる人間の生態記述を以て満足さるべきであろうか。世界を、物質と生命との対立ないし複合という秩序においてみる限り、科学はむしろ、生命の秘密に迫ることに目標をおかざるを得ない。 このようにして、既に前世紀において、生命や精神に対する物理学的ないし生理学的説明が試みられ、やがてそれらを媒介として、物質と生命とに関するモニスムス[一元論]に導かれたのであった。「思想の脳髄に対する関係は、尿が腎臓に対する関係と同じである。」(「人間についての講義」)というK.フォクトの命題は、精神を物質の属性であるとするビュヒナーや、物質と精神とを分ちがたい一体的なものであるとするJ.モレショットの一元論につながっている。けれどこの一元論は、それの素朴実在論的な性格ゆえに、不可知論[*]への道を用意したにすぎない。フォクトは、デュ・ボア・レーモンによって批判されねばならなかった。生命が、また精神現象が、かりに物質的条件によってもたらされたものであるとしても、精神の作用は脳髄の構造から説明されはしない。精神は不可知である。そして、おそらくそれは永遠の謎であるだろう。イグノラビムス[**]。(「自然認識の限界について」) [* 不可知論:意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在は論証的には認識できないという説。そういう実在を認める立場と、その有無も不確実とする立場とがある。(『広辞苑』)]生命の内部に躍入しようとする精神の科学は、このようにして、イグノラビムスの声高らかな宣言のうちに直観的認識を方法としての資格において要請する。知性の枠ははずされて、知性は直観の下僕の地位に迄おとしめられる。なぜなら、生命に調和するのは直観だけであるから(ベルグソン)。直観的方法は、精神科学の体系的枢軸である。このようにして、また、精神科学の求める真理は、存在的真理でなくして存在論的真理であり、法則ではなくして個性が、客観的認識の概念に代るべきものとして主体的認識がそこに要請される。 (…) 歴史的自然は、主体的に形成されたものとして物理的自然とは明かに次元を異にしている。自然現象が繰返すと考えられるのに対して、歴史的なものは一回的なものである。一回的なものは個性的なものであり、個性的なものとして、それはまた価値的なものである。人間の生態ではなくして、人間的存在の表現する意味がそこに追求されねばならぬ、とされるのである。さらにまた、歴史的なものは表現的なものとして、単に説明さるべきでなくして、理解され解釈さるべきであるとされる。このようにして、精神科学は、また精神の解釈学としてあることが要請される。単に外部から内部を理解するにとどまらず、同時に内部から外部を、特殊から一般を理解することが、そこに求められる。このようなものとして、精神科学は、世界を対象的に構成するのではなくして、それを主体的に形成するのであり、このようなものとして、それはまた直接現実の形成作用となるのである。 既に明かなように、精神科学の思想の系譜は、不可知論につながっている。それは、紛うかたなく不可知論の嫡出の子である。 (…) 精神科学は、不可知論に出発しているという点で既に大きな矛盾を、致命的な誤謬(ごびゅう)を孕(はら)んでいる。不可知論は、機械的唯物論の否定のうえに自らの立場を樹立したものではなく、それの認識の限界を口にしつつも、自らはその立場の基底にもたれかかっているというにすぎぬものなのである。立場といえば、それが不可知論の唯一の立場なのだ。だから、イグノラビムスという不可知論の帰着点は、――不可知論にとって、それは同時に出発点となるものであるが――いわれているように判断中止を宣言するものでなくして、むしろ自身機械的唯物論の系列にぞくしていることの表白にほかならない。不可知論が唯物論であるというのは、あながちパラドクスではない。なぜなら、機械的唯物論は、観念論のヴァリエーションにすぎないから。 (…) 芸術学が精神科学として出発したということは、精神の外化・表現としての芸術の本質は、純粋の知性的認識によっては捉えられ得ぬものであるという前提のもとに芸術の探究がおし進められた、ということである。芸術学は直観の学であって、知性の学ではない。芸術学の前提となるものは不可知論である。精神科学が、その本質において科学の否定であるという意味において、芸術学の成立は同時に科学の否定を意味するものであった。このようにして、芸術史は因果的必然の鎖から解き放たれ、芸術の自律性と永遠性がそこに保証される。芸術は、そこでは永遠の子とされ、また偶然の子とされた。このようにして、また、芸術学の要請する芸術のイデーは、浪漫派的芸術思想の再生であるということもできるであろう。 ドイツ・ロマンティーク[deutshe Romantik ドイツ・ロマン主義]は、偶然への信仰に出発する。必然的なものは怠惰を意味し、退屈を意味している。 (…) 創造の過程は、単に美的体験としてあることはでき得まい。かりに、美的直観の概念をここに持込むにしても、それの作品への結晶には、知性の媒介を必要とするであろう。芸術的体験にとって、むしろ知性と直観とは一体的なものとしてあらねばならぬであろう。芸術的認識が主体的な認識であるというのは、しかしそれが単に直観的なものとしてあるということではない。芸術活動を感性的なものと考えるにしても、それは単に直観的なものとして感性的であるのではなく、むしろ知性的・直観的なものとして感性的なのであり、何よりもそれは行為する人間の社会的実践活動として感性的なのである。芸術家の創作活動は社会的である。芸術的体験は社会的な体験である。それは、単に美的体験として考えらるべきではない。尤(もっと)も、それが社会的であるというのは、科学が社会的であるというのとやや趣を異にしている。 芸術の社会に対する関係は、科学のそれにくらべてより直接的であるということができる。直接的であるというのは、その結びつきが身体的・有機的であるということである。芸術活動にとって、認識と表現とは別個のものとしてあり得ない。認識を表現に移すのでなくして、認識即表現という関係において、芸術は直接現実の形成作用となるのである。認識することが同時に表現の作用を意味しているというのは、 芸術に固有のことである。科学が一としての世界の認識であるとすれば、芸術は多としての現実の認識であるということもできるであろう。芸術的認識は、日常性における現実の認識である。尤も、それが日常性における現象の概括であるといっても、形象的現実は現象の単なる再現ではない。描かれた現実は、直接的所与の現実を超えたものとして、明かにそれとは次元を異にしている。それは現象の一般化でなくして典型化である。それはまた、事象の典型的な面における現実の移項であり、そのようなものとして準体験的現実の形成であるということもできるであろう。芸術的体験が社会的な体験であるというのは、まずその意味においてである。 (…) 作品は、表現者と享受者との協働の場である。詩が詩としての表現をかちうるのは、詩人と読者との共軛(きょうやく)する体験の面においてである。そして、作品のありかたを規定するものは、より根源的に享受者の現実観照のありようそのものであり、彼ら自身の日常的社会的な実践活動そのものであるとされねばならぬ。芸術家が自らを超えて、民衆の心を心としなければならぬといわれるのも、また彼の生活が生きかたが、彼自身の芸術活動にとって決定的な意義をもつとされるのも、そのゆえである。形式として一つであるところの芸術作品が、内容的には決して一つのものとしてあり得ないということは、単に観照力の違いという文脈において考えらるべきでなく、享受者一人一人の体験がそれぞれ異なったものとしてあるということ、彼らの生きかたがそれぞれありようを異にし方向を異にしているということに基(もとづ)くと考えられねばならぬ。このようにして 「感情より生じたものが、次には感情を、しかも同じ感情を惹(ひ)き起す。そこには、ただ程度の弱さがあるだけである。したがって、詩人の体験する過程は、読者あるいは聴衆の体験する過程とその種類において同じである。」(「詩人の構想力」)とディルタイがいうとき、それは既に大きな誤謬に陥っているといわねばならぬ。 彼のおかしたあやまちは、第一に、感情より生じたものが、歴史の制約を超え階級の枠を超えて 「同じ感情を惹き起す」 と考えたところに、またそうした普遍人間的な感情の想定のもとに、美的体験の普遍性と超越的な追体験の可能を盲信したところに起因するものと考えられる。芸術的体験は、しかし超歴史的・普遍人間的な体験でなくして、却(かえ)って個人的・個性的な体験である。それは、社会的人間として行為し実践する個人の 「感情を道程とする社会性の拡大」(ギュヨー・同上[「社会学から見た芸術」])なのである。感情を道程とするということは、日常的なものを道程とするということである。芸術は、日常性における生活の再組織であり、社会意識の拡充である。そのようなものとして、それは社会的であり、歴史の制約を階級の枠を超えることはできない。したがって、それはまた、単に美的体験というようなものとしてあることはでき得ない。芸術的体験は、人間の主体的な実践活動であり、そのようなものとして社会的な体験であるということができるのである。 (…) 彼[作家・享受者]の芸術体験(認識活動)は、同時に彼自身の世界観をより高いものに組織し、彼の社会的実践に大きく作用するものとなるのである。芸術の意義は、社会的規模において考えられねばならぬ。 にもかかわらず、芸術的体験が単に美的体験として考えられ、芸術的享受即美的享受であるとされているのは、人々が無前提に芸術の目的を美にあると考えていることに基いている。美の解釈学は、こうした一般の常識に照応するものをもっている。既に指摘したように、現代の常識は、常識化された観念論にほかならない。そうした常識の支持、世論の支持において近代観念論美学の小集成としての美の解釈学は、美に対する一般の迷信をいっそう深いものにするにあずかって力あったものである。 (…) 芸術社会学が学としての形をととのえはじめたのは、精神科学としての芸術学(美の解釈学)の成立とほぼその時期を同じうしている。精神科学が不可知論の前提のものとに出発したとすれば、社会科学は、不可知論によって導かれた相対主義の泥沼を乗越え、まさにその名にあたいする実在論の立場に立つことによって、新たな発足を遂げたということもできるであろう。社会科学のパイオニアたちは、純粋に知性的な認識だけがもののまことに至る道であり、また実践と結びつくことによってのみ、合法則的な思惟の合理性が約束されるということを知っていた。そのことを彼らに教えたものは、古代・中世社会の総決算としての近代の資本主義的現実である。ところで、そのような思考様式・認識形式の原型を提供したものが、実は却ってオーソドックスなドイツ観念論哲学であったことも、こんにちでは既に常識となっている。精神科学は、それの実質的な役割において、社会科学の対立物として生まれたものだとさえいい得るのである。しかもそれは、社会科学的認識を否定的に媒介したものでなくして、却って不可知論にまで逆行し、それを唯一の盾とするところの世界の神話的解釈にほかならなかった。それは、所詮小器用に纏(まと)められたドイツ古典哲学の縮小版にすぎなかったし、しかもそれの小集成の過程において、近代観念論哲学にとって最も本質的な――或いはそれの唯一の取柄(とりえ)であるところの――批判精神(社会的関心)を脱落せしめたということは生の哲学にとって特徴的である。 ともかくも、このようにして、美の解釈学とオーヴァラップしつつ、芸術学は一方に社会科学としての始発点を与えられたのであった。けれど、何よりも政治・経済機構の史的究明に当面の問題を見出さざるを得なかった社会科学の成立・発達の事情は、長くそれを未開拓の分野として放置するの結果を招いた。 (…) 芸術社会学が、自らの理論的体系をうち樹(た)てるべくまさにこのような美の観念と闘わねばならなかった。そして、やがて美をきっぱりと芸術の国から追放するに至った。けれど、それを追放した結果は、芸術作品は歴史と時代を語る単なるモニュメントにすぎぬものとなった。芸術作品を他の文化財から区別するものは何であろうか。このようにして、美は再び迎えられて芸術の国の王座に着くことになった。尤もそこでは、美は歴史と共に変化する相対的・可変的なものとして規定し直され、ギュヨーにしたがって、美的情緒は社会的性質のものとされた。このようにして、貴族芸術には貴族芸術固有の美があり、市民芸術はそれと異(ことな)る市民芸術固有の美をもつと考えられた。けれど、それを超越的なものと考えようと、可変的なものと考えようと、芸術的体験を美的体験として思念する限り、芸術は結局永遠の子とされねばならぬ。なぜなら、芸術的体験を美的体験と見做(な)すことのうちに、既に美の観念に対する神秘的な解釈が秘められているからである。 ところで、社会科学は、或(ある)意味からすれば、形而上学的生命概念の否定のうえに成立したということもできるであろう。芸術社会学も、社会科学の一翼として当然そのような前提に出発すべきであった。けれど、芸術社会学が自らの論理的基礎として要請したものは、美的体験以外のものではなく、また不可知的な美の観念以外のものではあり得なかった。このようにして、社会科学の全分野のなかで、ひとり芸術科学だけが素朴実在論的認識の泥沼のなかに取残される結果となったのである。そして、この禍根がなお現代において取除かれ得ていないという点にわれわれの関心があるのである。 芸術社会学の未成熟を導いた要因は、同時に精神科学としての芸術学の発達を促すに大きく役立った。近代の市民社会は、これに市民権を認めるはもとより、選良としての地位をさえ付与したのであった。特権階級の代弁者であるこの選良は、芸術が有閑的な精神貴族の独占物であることを宣言し、人民大衆を芸術の国から締出しにしたのである。そのことによって、芸術が民主主義革命の側に赴くことを阻害すると同時に、芸術に対する民衆の関心をひたすら精神貴族的な芸術愛のなかにつなぎとめようとしたのである。 |
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1947.12 『芸術研究』 2 民主主義科学者協会 芸術部会編 (解放社刊) |
「芸術の論理」 ● 現実の生をはなれて芸術はない。それは、思考し行為する人間の生の表現として、限りなく歴史に結びついている。歴史の法則は運動であり、歴史的なものは転化し流動してやまぬものである。芸術も歴史的なものとして時代の子であり、それは時代と共に生れ時代と共に滅びゆく歴史の運命をになつている。古代社会には古代社会の芸術があり、封建社会には封建社会固有の芸術があった。(…)過去の芸術遺産をうけつぐことなしに新しい芸術の出発はあり得ない、ということを考えのうちに入れるとしてもである。芸術は、すぐれた意味において歴史的社会の反映であり、それの主体的な表現であるということができるであろう。(p.118-119) ● 彼 [天才] の手になる作品が、ユニィークな世界を示しているということは、それが単に特殊的であるということでなく、時代にとつて最も本質的なものがきわめて特徴的に捉えられているということであり、そこに現実の集約的な凝結があり、現実の全的な要約がみられるということであろう。(…)彼が卓越した芸術上のジェニィーでり、その芸術がデモーニッシュであるということは、彼の眼が時代の真実を洞察しているということであり、彼の享受が最も即時代的な性格を示しているということにほかならない。(p.119-120) ● 歴史的理解のみがすべてを解決する。なぜなら、現実はもと動的・歴史的な自然であるから。天才も時代の子である。いな、時代の子と呼ぶにふさわしいのは、時代の真実をいきた天才たちであろう。「古い芸術作品における奇跡をもう一度繰返すことを天才に求めても無駄である。天才の本能は、美や神聖なものを、新しい、そして必要な事実のなかに見出すのだから」とアメリカの或批評家もいつている。このようにして、また、それがすぐれたものであればあるほど、芸術は即時代的であり、時代の真実に忠実であると考えられる。(p.121-122) ● 戦場生活をリアルに描写するためには、自身戦場を体験することが必要であろうし、自身農村を体験し、農民生活の実態と農民心理の現実的なありようを探求することなしには農民文芸は生れ得ぬであろう。が、しかしそのことは、作家が兵士の眼を以て戦場を眺め、農民のこゝろを以て農村生活を感覚するということであつてはならぬであろう。兵士の眼をとおして眺められた現象は、彼の表現に素材を提供するにすぎぬ。(…)現象は現実に置換えられねばならぬ。あるいは、現象のもつ現実的な意味がそこに探られねばならぬのである。本来ナマの素材にすぎぬところの現象を、その儘敷写しにしたうえに、絵そらごと的な加工を施すというところに、芸術職人的なサロン装飾用の骨董品がうまれて来るのである。(p.122-123) ● われわれの作家に求めるものは、「真理のかりうどであり生命の番人である」芸術家の眼である。体験に徹することによつて体験を超え、おのれをむなしうすることによつて物のまことに至ろうとする、芸術家の態度である。それは、現象のうわべを描くということではなくして、現象を描くことをとおして、それの背後にあるものを見究めるということであり、あるいは、それのもつ意味の認識において本質的なものと偶然的なものとを識別し概括する、ということでなければならぬ。(p.123) ● 芸術の認識は、科学の認識と同一ではない。法則を求めて抽象する科学の現象概括と、芸術における現象の処理とでは方法を異にするのが当然である。科学にとっては法則追究のための、したがってまた現実探求のためのデェタにすぎぬ現象そのものが、芸術にとっては現象即現実という関係において抜差しならぬ意味をもって来るのである。芸術においても現象は現実に置換えられねばならず、現象を概括することなしに芸術の表現はあり得ぬとしても、それは日常性における現象の概括であり特殊化であるとされねばならぬ。そこに、芸術が現象の典型化であり、それの形象的把握であるといわれることの意味もあるであろう。(p.124-125) ● 芸術が現実についての認識であるということは、それが問題性における現実の把握であるということである。どういう意味においても問題になり得ないようなものは、認識の対象となることはできない。こうした意味において、芸術は、問題表現の型(ティプス)であり、それの解決の様式(シュティル)であるということができるであろう。芸術史が、問題史として方法されねばならぬ、とする主張も、この点に理由をもつであろう。(p.125) ● 芸術に対象性を与えるところの現実が、動的な現実であり移ろう現実であるがゆえに、時代の問題であつたものも、それ自身の秩序においては次の時代の問題たり得ず、あるいは全く問題性を喪失するに至るのである。特に、芸術における問題の把握は、準体験的・形象的な問題認識であるがゆえに、表現者(芸術家)と享受者とのあいだに体験の共軛的な一致の存する限り、それは日常的生活感情に訴える直接的なものをもつのであるが、問題表現のそうした日常的リアリティーのなまなましさのゆえにこそ、芸術の生命は短いのであり、またそれが時代の制約を超え得ないという、そのことこそが、芸術を芸術として意義あらしめるものなのである。(p.125-126) ● たとえば、過去のプロレタリア文芸の提出した問題は、こんにちにおいても決して解決されていない。だからといつて、それを過去におけると同一の文脈において取上げることが、問題の解決に一歩を進めたことにはならない。問題が未解決の儘に残されているということは、問題そのものが現在においても同一の形においてある、ということではない。現在の社会的与件のもとにおいて問題の所在を明かにするというか、問題の現在的なありかたをつきとめるというか、ともかくも新しい現実のありように即応した芸術的構想とスケールとにおいて問題を探求することだけが、こんにちの新しい民衆文芸に始発点を与えることになるだろう。(p.126) ● 時代の芸術は、自らの提示した問題と問題表現の意義喪失にともない芸術としての機能を停止するに至るのであり、時代の子としての歴史の運命に殉ずるのである。クダラ観音の像がそのまえにたゝずむわれわれの胸にどんなに大きい、またどれほど深い歓喜のおもいをもたらそうとも、その歓喜はアスカのいにしえにおいて体験された芸術享受のそれではないであろう。われわれは、どういう意味にもせよ、古代人のリアリティーにおいて享受し追体験することはでき得まい。享受も、単に受動的な体験でなく、ゲェテもいつているように「ひとは、同時に自分自身創造者となるのでなければ、何ものをも体験し享受することはでき得ぬ」であろうから。(p.126-127) ● 芸術とは何かということは、このようにして、また、帰納された論理に基いて、それをどういうものとして考えるべきかを提示することであり、答はおのずからあるべきようの芸術のありかたについての反省と示唆とを用意するものとなるのでなければならぬ。しかし、そのことは、「あることなくして、単にあるべきもの」について語ることではなく、あるべきであり且あることが社会的予感(ないし歴史的予見)として想見されることころのものについて指向性を与える、ということでなければならぬであろう。(p.127) ● 芸術への理解と把握は、このように決して一様ではない。/芸術に対する理解の、この多様さは、しかし単に体験の多様性に基づくものであるという以上に、芸術的体験そのものの日常的な性質に根差していると考えられる。いいかえると、日常的体験の多様性を規定するものが、ひとしく芸術的体験の多様性を規定するものとしてこゝに考えられねばならぬ、ということだ。なぜなら、芸術の体験が、科学の認識におけるような真に非日常的・抽象的な体験であるのなら、かくも多様な観点と観察の相違が、そこに生れることはないであろうから。現実の芸術作品のありかたは、明かに「芸術家の数だけの素描と色彩がある」ことを示している。あるいはそれを、作品のかずだけの色彩のヴァライエティーがある、といいかえてよいかも知れない。(p.129) ● 科学の認識が客観的であるというのは、その知識が普遍の固定した知識であるということでなく、却つてそれが現実の変化に対応し得るだけのアダプタビリティーとフレキシビリティーとをもつ動的な知識だ、ということであろう。科学が、本来行為に合目的性を与えようとする、人間の実践的要求から生れたものであるとすれば、それの運動の過程における現実の抽象であり概括であつてこそ、それは科学の知識であるともいい得るであろう。現実はすぐれた意味において歴史的現実であり動的現実であるからだ。客観的な知識というのは、このようにして動的な知識のことであり、知識は動的であることによつて、客観的な一般性と一様性とを自らのものとなし得るのである。科学の認識は、知識をより客観的なものたらしめようがための、普遍的知への運動にほかならない。(p.131-132) ● 芸術の体験は、科学の認識におけるような一般的な体験ではない。いな、その体験が一般的でなくして、個別的であり個性的であるという点に、むしろ芸術的体験の特色があるだろう。芸術の何であるか、ということへの理解が、あるいはまた、芸術をどうみるかということへの理解がひとによつて一様でないということは、必ずしも我と彼との認識論の相違や流派的な対立をあらわしているのではない。一つの流派によつて真実であるものも、他の流派にとつては真実でない。写実派の真実は、もはや印象派のそれではない。シャピュの写実は、ドガにとつては既に写実としての意味を失つている。しかし、立場の相違がもたらす見解のへだたりというようなことは、すでに一般的な体験にぞくしている。(p.132-133) ● 立場の違いというようなことを除外しても――というのは、同一の立場をとる、同一の傾向の世界観をもつ人々のあいだにおいてすらも、ということであるが――なお且つそこに多様な意見の対立が見られるということは、それが芸術的体験の特殊な性質によるものと考えざるを得ない。ここに特殊の性質というのは、日常的な性質のことである。日常的な体験は、直接的な体験であり個別的な体験である。体験が直接的であり個別的であるがゆえに、芸術の体験も自己完結的であり、一般的なものの制約から自由であるかに見えるのである。(p.133) ● 自己において体験せられたものは、自分にとつて真実であり動かしがたいものである。それが、特に日常性における現実の体験であるばあい、その体験は具体的な全体感に裏づけられて、いよいよその切実感・真迫感の度を強いものにするのである。しかも、そのばあい、それがどういう仕方における体験であるのかという、体験そのものについては反省されていないのが普通である。このようにして、日常的体験のもたらすものは、論理でなくして信仰であり信念である、ということができるであろう。それが、知性に媒介されざる単なる信念であるがゆえに、体験的知識は、合理的な思惟・思考に対して却つて反撥的でさえあるのだ。(p.133) ● 心理的事実は、論理的事実にすり替えられて強力なものとなる。常識は主張する、体験的知識としての常識は、それ自身の「論理」と秩序において自己を主張するのである。尤も、芸術の体験は、単に日常的な体験ではない。却つて体験的な現実を超えたところに、芸術の形象は成立つといわねばならぬであろう。しかもそれは、個別的・直接的な体験として、特にそれの自己完結的な性質のゆえに、日常的体験に準ずべきものと考えられる。芸術への理解が、一般的なものの制約を超えて多様であるということは、芸術的体験のかゝる日常性に基くとされねばならぬであろう。立場の同一、必ずしも見解を一致に導くものでなく、また意見の対立、必ずしも立場の相違をいいあらわすものでないということは、このようにして芸術的体験にとつて特徴的である。(p.134) ● 享受と批評とに関する近代観念論美学の、大きな特色の一つは、体験的自己省察の名に隠れて論者自身の観照を絶対化し、それを普遍的な規準として作品に臨むという点に求められる。(ディルタイの見解は、そうした点できわめてティピカルなものを示している。)ところで、彼の享受は、所詮彼一個人の享受にすぎない。彼の芸術への理解のしかたが現実の芸術作品に対する彼の享受のありかたを規定し、個々の具体的な作品に対する彼の享受が、また彼自身の芸術観を形成していくという関係にあるとすれば、芸術への理解は、既に見てきたように一様でなく、個々人の作品観照もまた個別的・個性的であって、その限り、各人の観照は自らを主張し得る相対的な自由と権利とをもつ、といわねばならぬであろう。(p.135) ● 一個人の観照を以てすべてを断ずることはナンセンスも甚だしい。にもかかわらず、作品理解の一資料にすぎぬ自己の享受を彼我あい通ずる一般的なものであるかに考え、それを規準として作品の表現を論じ芸術を語るということは、科学的批評たることを以て自認する唯物論芸術批評のばあいであつても、決して珍らしい例ではない。それの発達にとつてクリティシズムがいちばん密接な関係にあるとされている芸術の分野において、しかもそれが最も立遅れを経験しているという事態は、芸術的体験の自己完結性による、享受と批評との混同によつて導かれている。(p.135-136) ● 享受を前提とすることなしに、批評はおこなわれ得ない。芸術家の感受性は、同時に批評家にとつても欠くことのできぬ資質的条件である。クローチェも、雛[ママ]術家と批評家との本質的同一を指摘して、次のようにのべている。「ダンテを批評するには、彼の高みに昇らねばならぬ。経験的には、われわれはむろんダンテではないし、ダンテはわれわれではない。しかし、享受と批評との瞬間においては、われわれの精神も詩人の精神も同一であり、その瞬間にはわれわれと彼とは一つになつている。」批評家も、何らかの意味において芸術家であらねばならぬ。現実に彼が作家であるか否かはすこしも問うところではないが、すくなくとも自ら創作することの可能性をもつものでなければ、よき批評家たることはでき得まい。批評家は、可能性における芸術家である。(p.136) ● 批評は、作品をはなれたものでなければならぬと同時に、また作品に即したものでなければならない。農村問題について考えてみたことのある人でなければ、この問題をテェマとした作品を正当に評価するはでき得ないけれども、しかしそれが単に事象の一般的な認識にとゞまり、そうした角度からの単なる裁断批評に終わつているばあい、それは芸術作品を芸術作品として批評したことにはならない。飽くまで作品の表現に即してこれを批評し、しかもその批評が、作品に示されたそれとは別個の形象的認識のしかたを示唆するようなものとなるのでなければ、それが芸術批評であるということはでき得まい。批評家もまた、自らの感受性をより鋭いものにし、自らの享受をよりよいものに導くべく努力を傾ける必要があろう。(p.136-137) ● クローチェは、(…)「批評家のしごとが成立つのは、受取られた印象が保たれると同時に、それが超克された場合においてである」と述べている。それを別の言葉でいえば、批評の前提となるものは享受だ、ということだろう。享受を措いて批評はあり得ない。しかしまた、自己の享受を否定することなしに批評は成立ち得ない、ということを彼はいつているのだ。自己の享受を超えるということは、ひとりぎめに自分の享受を絶対的なものと考えるという態度を揚棄して、万人の享受をかえりみるということである。が、それは、万人の享受をかえりみて自らの享受を深めるということに終るのではない。「批評家のしごとは、何よりも思惟に属している」(クローチェ)のである。芸術作品の与える感性的なものを悟性の言葉に翻訳することによつて、作品に示された芸術的認識を概念的に再認識する、という機能を批評はもつのである。それは、感性的・日常的なものの非日常化であり、非日常的なしかたにおける体験である。(p.137-138) ● 批評は、作品に即したものであると同時に、作品をはなれたところに成立つ。(…)時代の真実に忠実であろうとする批評家は、屡々、自らの享受において深い共感を覚えたところの作品に対して、却つて否定的であり反撥的でさえあらねばならぬのである。自らの享受に深い共感を与えるような作品こそ、超克し切れぬ旧き自らのものであるがゆえに、それは歴史の進歩に対して、したがつてまた芸術の発展に対して反動的な機能をもつ作品であろうから。批評は、それがすぐれたものであればあるほど、批評家自身の享受のありかたに反して否定的であり、また肯定的であるばあいがすくなくない。本当をいえば、享受を媒介して作品の客観的把握を可能ならしめ、更にまたそれを主体的理解へと導くという点に、芸術批評のつとめがあるわけなのだ。もしそうでなければ、それは単に自己の享受を言葉に翻訳したものか、作品をとおしてみた作家の、あるいは時代思想の研究というようなものに終るであろうから。(p.138) ● 個々人の享受は、それが享受としてある限り、作品理解のためのデェタとしての意味をもつにすぎない。享受は批評に媒介されることによつて、享受者自身の生活意識、日常的なもろもろの生活感情、世界に対する彼の認識のありかたそのものを規制し方向づける力となり得るのである。 こんにち、芸術に対する分野全般にわたつて見られるところの享受と批評との混同が何に因由さるのであるか――芸術的体験の自己完結的な性質が、日常的体験のそれにも準ずべきものであることは、右の事情からも明かであろう。(p.139) |
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1949.3 『教師の広場』 (宮城県教組機関誌) |
たにもと・しげる(熊谷孝)「民主教育確立のために」 一 話を具体的にはこぶことにしよう。 生徒のことをしんみになって考え、ほんとうに「生徒のための学校」ということを考えている教師だったら、いま、きっと、こういう一つなやみをなやんでいるに違いない。それは、父親や母親の世代と、生徒がそれにぞくしている子どもたちの世代との、ものの考えかたや感じかたの大きなへだたりのなかに、教師自身、身を置いているということにかんしてだ。 教師のなやみは、こうした二つの対立をどうさばいていくか、という点にかんしてである。いや、どうさばくかという事よりは、自分自身どちらの立場を選ぶか、ということのなやみなのだ。それを、どういうふうにさばくというにしても、教師独自の第三の立場というようなものはありえないからだ。二者択一――そういうぎりぎりのところに自分というものが追い込まれているからなのだ。 ところで、それはつまり、新憲法の立場に立って教育を事とするか、それとも日本人民の憲法をふみにじって反動教育者に成り下がるかという境目なのだから、立場の選択になやむというのは、なやむだけヤボな話だということになりそうだが、事に実際に即していうと、そう簡単にケリのつく事柄ではない。書斎の窓から首だけつきだして、人民の「下情」を遠く眺めやっている人たちや、たとえ効果や実績がどうあろうと、動き回ればそれで気がすむ、まごころ主義者やビラ貼り行動主義者たちの眼には、およそケッタイなこととして映るかも知れないが、しかしこれが世の中の実際なのだ。なげかわしいことだと言うなら、それは確かにその通りだが、なげかわしくともナサケなくとも、現実の事実がそうなのだから致しかたないのだ。事の実際を無視して理論も成り立たなければ、実践もあったものではない。教師のなやみは、ここにある。 試みに、新憲法の精神をそのまま教育の現場に実行してみたまえ。なんらかの圧力が教師の身のうえに及んでくるのは請け合いだから。早い話が、「主権が国民に存する」という憲法の条文にふれて、天皇はもう国家や国民の主人ではなくて、クニのあるじは、誰でもないわたしたち国民自身であるという意味のことを これはまた、その反対の例だが、憲法は変ったが国体は断じて変らないとか、婚姻にかんする新憲法の規定は、それを額面どおりに受け取るなら、それはわが国古来の家族制度の美風をそこねるものである、というようなことを生徒にたいして「訓話」する教師も、げんにある。これは、生徒の失笑と黙殺を買う代りに、地元の受けはひじょうにいい。生徒の個性を伸ばすとか、新憲法的な性格の民主主義者に生徒をそだてあげるとか、そういうための文化機関として学校を考えていない、一部の教師や学校経営者にとっては、何よりもまず、この地元の気受けというのが問題なのだ。つまり、これらの人々の文脈からすると、学校は一つの商売、それもいっぷう毛色の変った客商売だということになるのだ。それで、世界や日本の世論――それが、つまりほんとうの意味での民主主義の世論というものなのだろうが――にしたがって教育を事とするよりも、地元の「世論」にしたがって、まず直接の取り引き先(?)であろう父母のお気に召すような方策をとる、ということになるらしい。 ここまで書けば、もうわかって頂けると思うが、そんなふうに、自分のかわいい生徒を、一部のかたくなな父親や母親と同じような枠の人間に仕立てることには、すくなくとも良識ある教師はあきたりないものを感じている、ということを訴えたいのだ。学校は工場とちがって、きまりきった規格品をこしらえるところではない。全体主義ではあるまいし、民主主義や民主主義者の規格品なんてもののあるはずはないし、それにまた、規格品のモデルが生徒の親であったりするのでは、お話のほかだろう。学校というところは、若い世代を、親の世代以上のものに向上させるための文化機関だ。それがつまり、「生徒のための学校」ということなのだ。文化機関であることをやめるなら、学校はもはや学校でないものになってしまうだろう。おそらく、それは、半端人足養成機関か、旧憲法型花嫁志願者第一期調教所というようなものになるのほかはあるまい。それは戦前・戦時下の学校が、文化を追放することで兵営と化したのとは、やや趣を異にしているにしても、である。 二 二年兵たちが、初年兵時代に経験したと同じ屈辱感を、まだ「地方」のくさみの抜け切れない新兵たちにしんみり味あわせようとかかるのは、日本の兵隊の悪い趣味(?)だった。夢よ、もう一度――自らの若かりし日に 「しきたり」を「しきたり」として、たんにそれを繰り返えしていたのでは、進歩も向上もありはしない。これは、至極わかり切った話だ。生徒がけっして先生より偉くならないような、また、親まさりの子どもは薬にしたくも見当らないような、そんな民族だったら、明日をまたずに亡びてしまうだろう。前の世代の文化を承けつがないでは新しい文化はつくれない、というようなギロンもあるけれど、しかしそれは、唯単に「しきたり」だから旧い「ならわし」に従がうということではないはずだ。むしろ、今となっては「しきたり」としての意味しか持ち合わせていないような、そんな旧文化の名残りは、きれいさっぱりと拭い去るべきで、過去の文化のもつ文化意識を現代の範疇に翻訳し再生産することで、明日の文化の創造にプラスするということこそ、実は文化遺産の継承ということでなけらばならない。そんなわけで、文化の継承というのは、文化生産のエネルギィーとなったもの――文化意識――を受けつぐということなのだ。文化の継承ではなくて、文化意識の継承、現代のカテゴリィーによるそれの翻訳・再生産ということなのだ。だが、しかしそうであるからといって、翻訳してみたって何のたしにもならないようなものを、いまさら持ち出すのはナンセンスだ。いわんや、封建時代や旧憲法時代の反文化的な文化意識(?)を現代の意識として再生産するにおいてをや、だ。「しきたり」のもつ反動性は、ざっと右のとおりだ。 「しきたり」は、だから、反動的な意識において再生産された過去の文化であるか、過去の反動的「文化」意識の直訳的再生産であるかだ。(たとえば、国学思想の「昭和維新」思想・皇道主義への翻訳などは前の例だし、あとのよい例は、歴史社会的範疇を無視した、儒学思想の現代への直訳的適用だ。)「しきたり」とは、そうしたものだ。それは、文化のすこやかな成長をはばみ、歴史の歯車を逆転させる魔力をもっている。現代の意識・現代の感覚が、「しきたり」にたいして素直でありえないのは、当りまえのことだ。「しきたり」を破ろう、旧い「しきたり」を破ることで、むしろ新しい「しきたり」を自分たちのこの手で作ろうではないか、――いってみれば、そうした意識と実践への情熱が、民主革命のこの時代に若い世代の心を 若い世代のそうしたひたむきなおもいを、むしろわが事として感じ得るだけの感覚の若々しさと柔らかさがなかったら、こんにち、ひとは教師となることはできない。こんにちこの時代に「先生らしい先生」となるためには、教師は、この新憲法的感覚をわがものとしなくてはいけない。新憲法をさえも旧憲法的感覚で感覚し、生徒を、学校を、かつての全体主義的・画一主義的な統制のもとにとどめようともくろんだり、すきがあったら学校をもとの秩序に、全体主義的なもとの仕組に引き戻どそうとたくらむような事では、それがいくら口先だけのこととはいえ、ひごろの口ぐせみたいに喋っている「民主主義」が泣くだろう。言うだけヤボな話だが、教師はほんものの民主主義者にならなくてはならない。ヤボは承知の上うえで、あえてこうしたことを口にするのは、言わねばならぬだけのワケが、そこにひそんでいるからなのだ。 三 だが、ひと口に民主主義というのにもいろいろあるらしい。それで、、人民民主主義がどうの西欧民主主義がどうのという、ムズかしい事はぼくにはわからないが、ぼくがここで「ほんもの」の民主主義というのは、新憲法の精神を護持する立場のことだ。それを裏からいうと、ポッダム宣言にそむいたり、憲法に背中を向けたりするような民主主義なんてものは考えられない、ということなのだ。暴力や暴力的な思想を、それがどんな形のものであっても、ぼくらはにくむ。民主主義の立場に立つ限り、そうなるのだ。ぼくらは自由と平和を愛し、合理主義に主義に徹しようとおもう。新憲法は、そのことをおしえている。 だから、教師がいまなお旧憲法的感覚の人であったり、または封建的ボス的旧勢力とヤミ取引きすることで一身の「立身出世」や「身の安全」をねがう、というような事であってはいけないわけだ。それでは学校というものが「生徒のための学校」ではなくなって、たかだか「親のための学校」「教師のための学校」になってしまうからだ。しかも、その「親」とか「教師」というのが、一般の父母教師ではなくて、ボス勢力である旧い型の特殊な父母や教師であるからだ。朝日の論調を借りれば、それはP.T.AでなくてB.T.Aだということになろう。(Bというのは、ボスの頭文字だそうな。)P.T.AがぜんぶB.T.Aだというわけでは、むろんない。だが、そうした顔がものいう旧体制のものも、 BをPに切り替えると同時に、TをTらしいTにすることで、PとTを結びつけるということ以外に、ほんとうの意味での生徒のための学校――文化機関としての学校――はつくれない。旧い世代の思想や感覚が否定されなくてはならないからといって、教師が生徒の父母と背中合せになるのは、けっして好ましいことではない。教師は、生徒の教師であると同時に、その意味では父母の教師でなければならぬわけだ。こんにちの教師のつとめは、たんに生徒を啓蒙するということに尽きるのではない。 今のはんとし一年は、昔の五十年百年にも相当する。いや、見ようによっては、もっとテムポが早いと言っていい位のものかも知れない。「歴史の巨歩」という言葉が、きょうこの日ぐらい、しっくりぼくらの胸に響いてきたことはない。歴史の大股なあゆみは、その歩幅の大きいことのために、しみのすくない若い心には、じかに、ゆがみなく反映していくのだが、すり減った、感度のにぶった「経験の深い」人の心には、それが映らぬらしい。映ったにしても、それが妙にゆがんだ形でしか影を投げかけぬもののようだ。「深い」経験がわざわいしており、誤まった経験の仕方がもたらした心のねじくれのせいである。そういう、ものを見る眼のゆがみと心のねじくれは、しかし同時に教師自身のものである。だから、父母を啓蒙するというしごとは、同時にきびしい自己批判が伴なわなくてはならぬわけだ。相手を批判するということは、自分を深くかえりみるということだ。そして、そういう自己批判が、修身道徳的なチョロイものでない限り、そこにきっと相手を啓蒙するという実践的な意欲が生れてくるはずだ。 だが、事の実際・世の中の実際に照らしてみて、これはひじょうにムズかしいしごとだ。ほんとうを言ったら、ひとりやふたりの教師の結びつきでは出来る話ではない。だからこそ、初めに愚痴を並べたように、一片の良心のカケラでも持ち合わせている程の教師は、みんなここのところでなやみ、かつ足踏みしているのだ。そして、たまさか一歩前へあゆみを進めた教師があったとすると、たちまちにして浮き上り、袋叩きにあってしまうわけなのだ。だが、この線を踏み切ることができなかったら、教育の民主化も教育復興も何も出来はしない。だから、結論は踏み切ることだ。踏み切ることなのだが、それには踏み切れるような体制をあらかじめ作らなくてはいけない。そうでなければ、大きい力になることが出来ないからだ。そういう体制、そういうシステムがどうしたら出来るかと言ったら、教員組合が教員組合らしくなるということだ。教師の理想像は「人の師表」となることだろう。だから、教組を「人の師表」の集まりというにふさわしいものにすることだ。 「人の師表」は、進むべきところで尻ごみしたり、戦友をタマよけにして見殺しにしておいて、そのくせ戦利品の分け前だけを当然の権利のような顔をしてもらったりはしないはずだ。また、都合のいい時だけは同志で、わざわいが身に及びそうになるとソッポを向く、なんて事もけっしてないはずだ。 四 あの侵略戦争のさなかにおいてすら、国民のあらゆる層が東条軍閥を支持し、戦争を支持していたわけではない。すくなくとも、知識人の多くは、心ひそかに戦争を呪い、かつ敗戦のこんにちを十分予見しえていたはずである。これが見透せないようなのは、もともとが知識人でなかったのだと言い切っていい。それは知識人ではなくて、たんに学校でムダメシを食ったというにすぎない学歴人――単なる大学・高専の卒業証書所持者であったわけだ。だが、ほんらいの意味での知識人たちだって、あんまり大きな顔は出来ないはずだ。内心反戦的であったというだけで、戦争を喰い止めることができなかったのだし、第一そういう意思表示さえろくろくしなかったわけなのだから。 このことは、こんにち、知識人の自己批判の問題として取り上げられ、自分たちが民衆のひとりであるという自覚を欠いていたことや、民衆と背中合わせになることで、民衆の啓蒙をないがしろにし、その結果、民衆から浮き上ってしまっていたことなどが、ふかく、きびしく内省されはじめている。教師も知識人の端くれだったら、ことに戦時中に身をもって「実践」した戦争協力の罪業の数々をうしろめたく思うなら、今こそぼくらは人民意識にめざめるべきだし、民衆との積極的な結びつきをふかく考えるべきであろう。ぼくらが心ならずも戦争に協力しなければならなかったのは、どうしてか? 或いはまた、この侵略戦争を心から「聖戦」だと信じて大きなミスを仕出かしてしまったのは、どうしてなのか? 前のばあいは、知識人相互の、或いは教師相互の横の結びつきを欠いていたということ、さらにまた、知識人(ないし教師)と一般民衆との関係が背中合わせになっていたという事によるものだ。あとのばあいは、教師たちが理論的精神を欠いていたということ、理論的精神によって構想された実践の人でなかったということを言いあらわす以外のものではない。それはつまり、教師その人が人民意識にめざめない愚衆の一人であったということを示すものだ。 愚衆から民衆へ、人民意識をもった民衆へと自分を変革していくことが、いまだいじなのだ。人民意識をもった人でなくて、人民の子どもを育てることはできない。人民の子のゆがみない素直な心に、もし黒いシミでもつけるような事があったら、何といって申訳(もうしわ)けするつもりなのだ。自身、まず「人民」になることだ。人民意識をもった民衆のひとりになるためには、だが書斎にこもって、百冊の社会科学の文献を退治してみたってダメだ。すくなくとも、その事だけでは自己変革はできない。そういうふうな勉強だったら、これまでの知識人がみんなやって来たことなのだ。そうした、いわば書斎派的な勉強がもたらした知識が、現実の事実として、戦争を防止するうえに三文のたしにもならなかったという点にこそ、こんにちの批判があるのではなかったか。 ぼくらが市民として生き、教師として生活しているということ、そのことが、実はなんらかの実践をおこなっているということなのだ。それがプラスの実践であるか、マイナスの実践であるかは別としてである。それが或いは当の本人には自覚されていないかも知れないが、教師としての自分の日常のふるまいが、結果としては、教育の民主化にブレーキをかけたり、それを促がしたりしている事になっている、というわけのもだろう。ふつう、ぼくらは、ぼくらの行動を、これまで生活の経験からえたところの知識でもって律して来ているわけだが、そういう日常的経験的な知識だけでは、どうふるまってよいのかの判断がつきかねるというような場面に行き当ることも、ままあるわけだ。理論の探究というのは、そういう壁を突き破るためにおこなわれるものだ。どうすれば、もっとも効果的に短時間にこの壁をこわすことができるのか、という実際問題を解決するためには、まず「壁」の造くりや仕組を知らなければなるまい。つまり、そこで、事象の起こりや、それのもとになっているものや、事象の外側と内側からの事象そのものの理解というような事が、客観的・因果的にさぐられなくてはならぬわけだ。それもこれも、事象の探究をとおして現実そのものの秩序(論理)を捉え、そのことによってまた、事象をすきなく解決するという、実践の論理(秩序)をわがものとするためにである。論理が実践のためのものであるなら、論理は現実の秩序に一致しなくてはならない。そして、現実の秩序をさぐるための組織的な認識活動が、ここに理論と呼ばれるものであるわけだ。現実が動的なものである以上、論理も、だからまた理論も、それとして固定したものとしてあるわけにはいかない。 それで、つまりこういう事になるだろう。ぼくらが人民意識にめざめた実践の人となるためには、自分というものを内側から変革していかなくてはいけないわけだが、しかし内部変革という言葉を使ったからといって、それはなにも実践をないがしろにした書斎派になれということではなくて、むしろその反対なのだ。理論は、もともと人間の実践的要求から生れたものだし、実践のためのものだ。実践に役立たないような知識や理論は、理論のまがいものにすぎない。だが、しかし、「理論よりまず実践」という声には、どうもぼくは同調しかねるのだ。理論と実践とを機械的に対立させて考えることで、ビラはり行動主義のオトシアナに片足突っ込んでしまっているからだ。書斎派のインテリどもが観念的であるのと同様に、実践マニアのこれらの行動主義者たちも十分観念的なのだ。内部と外部を、理論と実践とを、こんなふうにバラバラにしてしまったら、もうおしまいだ。ほんらい民衆の一部であるはずの知識人が、民衆自身と対立するという奇妙な現象が、第一こうしたバラバラ事件の産物であったわけなのだから。 事のついでに、知識人と民衆との対立の話にちょっと戻どるが、かつて知識人の人民意識を眠りこませた魔薬にハイデッガー流の存在論哲学のあったことを、ここで想い起こすことにしよう。火に油をではなく、水に油を注ぐように、このハイデッガーにマルクスをこね合わせて作られたのが、あの「中間者」の哲学――三木哲学だった。三木清の死が、人民解放の前夜を背景として、きわめてドラマティックなものであったということも手伝って、きょうこの頃では、一部には、反人民的なこの中間者の論理が、人民哲学の論理そのものであるかのように考えられている向きもあるらしい。けれど、三木哲学のプラスの面は別のところにあるのであって、中間者の論理そのものは、あえて言えば修正主義の悪い見本みたいなものだ。パトスとロゴスの中間者としての人間彫像を刻むことで、実質的には階級者としての人間規定をなし崩しに取り除き、人間を歴史の枠の外にほうり出すことで人間を人間でないものにしてしまう、という役割を演じたものだった。これが、三木清の「歴史哲学」であり「人間学的基礎」による人間の自己省察であったわけだ。このようにして、人間らしい人間というのは、超歴史的・超階級的なこの中間者の自覚に達した人間のことであって、知識人こそは、まさにそのような自覚に至る唯一のひとであるということになるのだ。インテリは、第三階級にも第四階級にもぞくしない中間者――単なる知識人ではなくて知識「階級」――であるから、というしだいだ。 だから、つまり、ひと世代まえの文化青年たちにこうした迷信を植えつけた当のものが、「中間者」の哲学、三木哲学であったということになるのだ。(すなおに白状すると、ぼくもまた、当時、三木哲学の影響下にあったひとりなのだ。)それで、きょうこの頃、実存哲学や実存主義的気分の横溢・流行という現象とあいまって、またそれが若い世代の一部にずい分もてはやされているらしいが、もてかたそのものに何か問題がありそうな気がするのだ。 五 これは、木村禧八郎氏が書いて居られたことなのだが(世界評論・十月号)、社会党のある参議が松本治一郎氏に向って、「あなたは、いったい右派なのか左派なのか」と だが、教員ひとりびとりについて言えば、それは欠けているのではなくて、教員相互の横のつながりと結びつきが弱いために、効果的に力が発揮できないでいると言ったほうが当っているだろう。ここで教師の横の結びつきというのが、教員組合のことであり、また、組合員相互のつながりをバラバラなものにすることで組合そのものの力を弱め、教育復興ということを掛け声だけのものにしてしまっている当のものが、松本氏に「立党の精神を忘れ」といって極めつけられたような、「組合設立の精神を忘れた」ひと握りの力であることなどは、いまさら口にするのもヤボな話かも知れない。
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1949.6 熊谷孝 『文学入門』 (学友社刊) |
『文学入門』 文学のまがいもの (…) こんな時代に、文学をたんに美しいものとしてだけ語るのはまちがっている。こんにちの文学のきたならしく、うすよごれた魂を、うわべのごてごてした 文学は、まだ、奴隷のくさりにつながれている。 こういう時代に、こんなふうな文学環境のなかで、文学とはどういうものかという問いに答えることは、けっきょく、どういうもがほんものの文学作品で、どういうのが文学のまがいものであるのかという、 世間におこなわれている文学入門書というものにたいして、わたしは、もうせんから大きな不満をいだいていた。それがきまって文学の実際をはなれたものであるからだ。こんにちの文学の実際からはなれているということは、また、これらの入門書の問題のとりあつかいが、わたしたちの生活の実際からはなれた、ことばの遊戯にすぎないものだということである。どうしてかといえば、人間生活の実際(現実)をはなれて文学というものはありえないからだ。文学は、もと人間の生活のなかからうまれ、そして人間生活(社会)といっしょに成長してきたものなのだ。現実からうまれて、現実そのものについて考え、そして人間の現実生活のありようを変えていくというのが、文学のアルファでありオメガである。これらの入門書が文学の実際に即していないというのは、つまり、こんにちの文学のほんとうのところが、筆者その人につかまれていないということによるのだ。だから、それはまた、こんにちの現実そのものが筆者に理解されていないということのあらわれでもあるわけなのだ。このようにして、学者の書いた入門書は、きまって「文学とはことばを どうしてかといえば、文学は、世の中の実際をうつしたものであり、わたしたちの生活のうえを考えたものなのだから、それがことの実際とちがっているような認識をあらわした作品は、けっきょく、にせものだということになるし、その反対に、ものごとをあるとおりに、うそいつわりなく書きあらわした作品はほんものだということが判断されてくるわけなのだ。そういう判断は、けれど、社会というものがほんとうにのみこめていなくてはできないことだ。社会の勉強がさきだといった理由の一つはこゝにある。だが、せっかくの社会の勉強も、その勉強したことが、知性の実感となり日常的な生活の実感となって、自分の思想そのものを動かすようにならなくては、文学表現の (…) 思想は生きものだ (…) 「わたし」の思想はわたし自身のものであって、ほかのもののそれではない。「わたし」は「わたし」の思想をもっている。しいられて、むりじいにしいられて、「わたし」はいまの思想に生きているわけではない。どういう思想をもつかということは、めいめいの自由である。経験の教えるところにしたがい、むしろなまなましい自分の体験の整理として、「わたし」はいまの、この思想にたどりついたわけなのだ。 しかも、「わたし」の思想は、わたしたちの時代のものの見かた、考えかたから自由であることはできない。わたしたちの考えは、多かれ少なかれこの時代の思想、この時代特有のものの見かたにしばられている。時代のながれにさからって生きようとする考えも、時代のながれにさからって、とそう考えている点で、じつはかえって時代の思想というものにこだわり、それにしばられているということができるだろう。つまり、わたしのいいたいのは、思想いっぱんというようなものはありえない、ということなのだ。思想は時代の子だ。思想はいつだってだれかの思想であり、ある社会環境に生きるなまみの人間の思想であるということだ。なまなましい自分の社会体験の要約――それが思想というものなのだ。思想は、つまり人間の社会生活の産物である。 (…) 思想というものは、(…)多かれ少なかれ固定的な、われとわが身をひとつの方向にしばりつける傾向をもっている。なぜなら、それはたんなる知識、ネクタイ代りの「教養」的知識ではなくて、なまなましい自分の生活体験に裏づけられた、生きた知識の体系であるからだ。思想は、ふつうにそう考えられているように、たんにあたまの問題ではない。思想は、むしろ「胸」なのだ。知性と感情とが、分かちがたくひとつのものにとけあったところに、はじめて思想とよばれうるものがめばえてくる。であればこそ、思想は (…) もともと生活の実際に合わせてつくられたことば(思想)が、世の中の進むにつれ、生活の変化するのにともなって、現実(世の中の実際)と矛盾するようになっても、それは現実のほうがまちがっているのであって、現実をうつしたことばのほうがほんものでほんとうだと考える、妙な錯誤を生じてくる。つまり、鏡にうつった顔がほんものの顔で、顔そのものは顔のまぼろしにすぎない、というわけなのだ。いまげんに、そうしたかんちがいをもとにした、さかだちした観念が、哲学や科学や芸術の世界で大きくのさばりかえっている。 (…) 現実の反映 世の中は、移り変るものだ。進歩するものだ。運動ということこそ、自然と人生をつらぬく歴史の根本法則なのだ。こちらが動かなくとも、相手は動いている。いや、動かないとおもうのはまちがいで、それは自分が一歩あとじさりしたということ、世の中の進歩からとり残されたということである。あたらしいものも、時がたてばふるくなる。進んだ思想といわれるものも、そのまゝの考えをつゞけていたのでは、やがては、かびくさくおくれた思想になってしまうだろう。それは、思想が固定的な傾向をもつのに反して、現実のほうがどしどしさきに進むからだ。歴史に停滞ということはない。置きざりにされ、とり残された思想。これが、しかし思想というものの運命である。思想は時代の子である、といったのも、まずこの意味においてである。 (…) で、ともかく、思想は、きまった座標軸、あるきまった視点による現実の どういうのが進歩的な思想かといえば、それは、現実をむりやり自分の考えに合わせて解釈するのではなくて、思想そのものを現実のあゆみに合わせて発展させていくような、そうした思想のことである。つまり、思想と現実との矛盾を、現実のほうに思想を近づけることによって解決するという考えかたなのである。現実をありのまゝに反映することで、逆に現実の人間生活がもつ (…) 人間解放の文学 (…) 古来すぐれた文学は、人間解放の文学であった。いま、そのことをシェークスピアの文学について考えてみたわけだが、こんにちの文学も、それがまがいものでない、ほんものの文学になるためには、以前のそれにもまして積極的な、自由と解放のためのいとなみとなるのでなければならない。どうしてかといえば、ルネサンス当時における人間解放のもつ意味と、こんにちのそれとでは、その幅において深さにおいて、まるで性質のちがったものになってきているからだ。かつての人間解放は、たかだか市民の解放という意味をもつにすぎなかった。人間というのは、つまり市民のこと、市民的人間のことであって、農民その他をふくむ人民ぜんぱんのことではなかった。もっとも、この運動は、ほかの面からいうと、市民による市民自身の解放をめざすものであるとともに、貴族・農民その他の市民化、自己への同化をめざしているものであったから、それによって貴族の封建的特権は廃止され、またそれによって農民もいちおう解放される結果にはなった。西ヨーロッパ諸国の例についてみると、農奴として土地にしばりつけられていた農民も、封建制度がガタガタにくずれていくのにつれて、土地そのものから解放されて自由の民になることができた、というふうにいえよう。だが、土地から解放されることは、農民にとっては生活の手だてをうしなうことである。いいかえれば、それは解放ではなくて追放でさえあった。だから、農民に与えられた自由は、貧乏人の気らくさという意味での「貧困の自由」にすぎなかった。同じことは、市民自身についてもいえる。ひとにぎりの資本家をのぞけば、市民たちも、やはり農民と同じように、自分の労働力を売りものにして生きていくいがいには暮しのたてようもない、貧困の自由を与えられたのだ。このようにして「解放された」いっぱんの市民と農民たちは、「あすのパンをのみ思いわずらう」工場労働者や農場労働者や職人等々になっていったのである。これが、ルネサンスから近代にかけておこなわれた人間解放のもつ、ほんとうのなかみだ。 だが、それでも、ヨーロッパのばあいは、まだましだ。みじめなのは日本の近代である。(…) 日本の近代社会は、(…)資本主義と封建主義とのからまり合いのうえに成り立った。だから、政治の制度のうえにも、貴族院のような、たんに封建貴族の子孫であるという、それだけの理由から政治にくちばしを入れうるようなしくみもつくられていくことになったし、また、封建主義をまもるためというかんばんをかゝげた大政党がつくられたり、しかもその政党が政権をにぎって内閣を組織したりということにもなったのだ。そればかりか、治安維持法などいう悪法をしいて、こういう封建主義に反対するひとにたいして、はむろんのこと、たんに反対の考えをもっているらしいという こんなふうに人民をいじめつけた結果が、経済生活の面でいえば、国内購買力の低下だ。 これが日本の『近代』であった。日本には近代がなかった、といったひとさえある。けっしていいすぎではない。日本の近代文学が、なにかはじめからあきらめと絶望の調子をみなぎらせていたのも、だからむしろ当然のことだといえるだろう。 こんにちの文学を求める自由が、それのひろがりとふかまりとにおいて、かつてのそれとちがった性質と内容をもつべきは当然のことである。かつての自由を、だから旧自由主義をこんにちにむしかえしたところで、それは現在の問題を解決するちからにはなりえない。かつてのそれは、たんに市民的な自由にすぎなかった。しかも、日本のばあい、現実は封建的遺制の支配する現実であったのだから、自由ということは、たゞ観念(考え)としてひとびとのこゝろに生きていたにすぎない。それはまた、その自由の観念は、日本的現実にねざすものというよりは、西欧のそれを移し植えたものだといったほうがあたっている。つまり、現実の反映としてうまれた思想でなかったのだから、この観念は、大地に根をおろしてすこやかに伸びていくことができなかった。現実の実際面で満たすことのできないあきたりなさを、観念の世界で代用満足する、いってみればそういう性質のものであった自由の思想は、このようにして、日本にあっては、現実のなかからうまれたものではなく、だからまた、現実を動かすちからにもなりえない、無用の飾りものになってしまった。そこに、思想は思想、現実(実際)は現実、世の中は理くつではいかぬものとする考えや、また、思想というのはつまり理くつのことであって、それはたんにあたまの問題にすぎないとするような、思想そのものにたいする、いっぷう変った理解をうみだすことにもなったのである。 思想というのは、実際の用には役だたないへりくつのことという考え、若いときはだれでもいちおう自由であるとか真理とは何かというようなことを考えるが、人生の経験を積んでくれば、そんなことは役にもたたない無用の考えにすぎなかったことがわかってくる、というような俗物的な考えも、だから日本の近代においては、いなみきれない真実をふくんでいたということにもなるのだ。だから、また、西欧的なそういう思想は、その思想にふれた当人にとっても、たんなる知識として、あっちのポケットこっちのポケットというふうにしまいこまれて、思想としてのまとまりも肉づけももたぬまゝ、たゞたんにおひけらかしの「教養」になってしまったのである。教養ということばが、実用にはあまり役だたぬ、身だしなみの知識というふうな意味でつかわれるのは、日本だけの現象だ。 だから、自由の観念に生きることによって、人生をろう獄だと感じた (…) こんにちの人間解放の文学が果さねばならぬだいじなしごとが何であるのかということも、おのずと明らかだろう。それは、つまり、こんにち求められている人間解放がどういう性質をもち、また、どういう内容をもっているかということできめられてくる事がらなのだ。ルネサンス当時における人間解放の対象(相手)が市民であったのとはことなり、現代の対象となるものは人民いっぱんである。工場で働くひとであろうと、耕作にしたがう農民であろうと、また官庁や現業の公務員であろうと、さらにまた医者や学者や弁護士であろうと、およそ自分の労働力によって収入をえ、暮らしをたてているところのすべての人民が、その対象となるのである。こうした人民大衆を奴隷のことばから解放することによって、人民の名にあたいする人民たらしめ、またそのことによって、搾取ない真の人民の社会を作りあげることである。文学は、いま、まさにそのような人民解放運動の一翼として、たちあがらねばならぬのだ。 (…) 政治と文学 (…) どのような生きかたをしようと、生きているというそのことが、なんらかのかたちで政治につながりをもっていることになるのだし、また、どのような生きかたをしているか、他の人間とどのような関係を結んで生きているかということで、政治そのものが右にも動き左にも傾くということになるのだ。そのことによって、また、わたしたちの食欲がみたされたり、みたされなかったりするという関係がみちびかれてくることにもなるわけなのだ。 みたされた胃ぶくろと、みたされない胃ぶくろ。いまかりにみたされているとしても、明日はおそらくみたされないであろう胃ぶくろ、肉体のまことに内容を与えるものは、このようにして、社会の制度であり経済の組織であり、つまりは政治そのものであるだろう。そしてまた、政治を動かすのも、また、この肉体にほかならない。そのような肉体は、もはやたんなる肉体ではなくて、精神をそなえた人間である。なまみの人間――食いかつ働くところの人間、生きることによって考え、また考えることによって生きかたを規定していくなまみの人間、それはたんなる肉体でもなければ精神でもない。具体的な人間は、肉体と精神との、だからまた、生物的人間と社会的人間との統一者である。肉体だけを解放しようとすることは、精神だけを解放しようとすることで問題を解決しようとするのと同様にあやまりである。精神だけを、精神の側面においてだけ人間を解放しようとすることが、かえって人間をふるい制度のくさりにくゝりつける結果となるように、肉体だけを解放しようとする考えも、人間をかえってふるい政治のわくにおしこむ結果をつくりだすことになるであろう。歴史と政治にかえりみない、実感による人間解放が、人間に自由をもたらさないばかりか、奴隷の状態にながく人間を放置する結果となること、以上のとおりである。実感主義の文学の効用は、まことに戦時中の実感否定の文学のそれとかわりなく偉大である。 (…) 現代に欠けているものは合理精神である。保守主義というのは、どんなあたらしい刺戟を与えても同じ反応しか示さない態度のことである、とある生物学者はいったが、こんにちの時代を支配するものは、反合理的な保守主義だということができる。そうした保守主義者たちが、自分では伝統と世俗に反逆する進歩的な人間のつもりでいるところに、こんにちの混乱の手におえない、むずかしさがある。こんにちの文学者にのぞみたいことは、自分というものを、政治とのつながりにおいて、ふかくするどく見つめることである。なによりも自分の肉体と精神を政治と対決させることである。自分の思想をさゝえている実感が、それとしてことの実際をとらえた実感であるのかどうかを、きびしく見きわめることである。そうしたきびしい自己批判が、自分のいまの実感をいつわりであると判断したとき、――それでも、この実感にしがみつこうとするのは、文学の精神に反している。頭ではなるほどとおもうが胸におちないというばあい、文学の作家たるものは、よろしく頭の論理にしたがうべきである。知性の声をしりぞけて創作にしたがうことは、文学をけがすことになる。文学の求めるものが真実をおいてほかにないからだ。 (…) |
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1951.4 『文学』 第19巻第4号 (岩波書店刊) |
「四つの文学論」 一 「文芸学は可能か」の問題 加藤周一著『文学とは何か』(角川新書、五〇年八月刊) 福田恒存著『芸術とはなにか』(要選書、五〇年六月刊) 桑原武夫著『文学入門』(岩波新書、五〇年五月刊) 中野重治『文学論』(ナウカ講座、四九年一二月刊) 与えられた課題は、現在、文芸学が採っている方法(ないし文学研究の方法)の盲点を突きとめるための、右の四つの文学論の方法の吟味ということだが、課題の趣旨からいって、とくに問題を というのは、(一)それぞれ別の視点、別の角度からではあるが、この二つのエセイが、始発点にさかのぼって、文芸学は可能かという問題(或いは、芸術の研究に科学の方法が適用され得るかという問題)を吟味しなおしたものであるからだし、また、(二)そうした吟味の結果が、文芸学の否定に(加藤の場合)、さらに一歩突き入って科学そのものの否定にまで至っている(福田の場合)という点に、並々ならぬこんにち的な意義が看取されるからである。 さらにまた、(三)文学というものの性格からいって、それの本質は客観的方法によっては捉えようのないものだと福田も言い、加藤もけっきょくそう言うのだが、そういう文学の性質というものが、客観的方法以外のいったいどういう方法によって突きとめられたものであるのか、という点が興味であるし、また、(四)そうした科学的方法の適用を拒む論拠としてそこに挙げられている、いくつかの事がら(たとえば、文学の内面的規定としての「美」や「才能」「文学的体験」の特殊性 etc)は、文芸学者たちのあいだでも、ほんとうには吟味し尽されていない問題であるだけに、むしろ、これら著者たちの解決に期待するところが大きいからである。――等々を含めたいくつかの理由からして、この稿では、加藤・福田の論旨を軸として、そらにその交差する箇所で桑原・中野の労作に言及したい、と考えている。 が、そのまえに、福田・加藤の評論が、いわば文学的知識人ともいうべき人たちを相手の問題の提起であるのに対して、中野の「文学論」は、産別その他おもに組織労働者の人たちに向けて語られたものであり、また、桑原の『文学入門』も、学生、教師、労働組合の人々を相手に、「お互に社会人として」問題を考えようとして書かれたものである(はしがき)ことを言い添えておかなくてはなるまい。誰を相手に書くかということは、けっきょく、誰の立場――どういう立場に身を置いて問題を考えるか、ということであるのだから。そういう相手の選びが、それを書く人の思考の道筋に制約(方向づけ)を与えないはずはないのだから。それはアクセントの置きどころの違いということもあるが、しかしそれだけにとどまるのではない。 二 文学論の起点 なるほど、たとえば、「いい小説だけれども、あれは学者の生活を書いたんだから、労働者の生活を書いたものにくらべれば値打ちが低いのだとかいうふうな、そういうせまい考え方」に落ち込んではいけない、という中野の言葉(二八ページ)には、労組の人たちを目の前にしての幾分のアクセントがあるかも知れない。また、たとえば、その反対に、こんにちの日本の現実から問題をさぐろうとする作家は、当然、組織労働者を描かなくてはならぬはずだ、という加藤の言葉(一二八ページ)にも、むしろ、語ろうとする相手が小市民的知識人であるところからくる、或る種のアクセンチュエーションが考えられなくてはならぬのかも知れない。だが、けっしてそれだけではない。 中野について言えば、『新日本文学』の誌上座談会あたりで「進歩的」知識人を相手に談論風発している時のかれなどより、労働者あいてに語っているこの中野のほうが、ずっと階級的立場にも徹しており、意見も建設的で具体的であるということだ。さっきのあの「せまい考え方」というのも、労働者独善のせまい考え方というふうな意味ではなくて、それこそまさに小市民的な考え方のせまさであることを指摘して、それがインテリを描いたものであろうと、戦争未亡人の生活に取材したものであろうと、およそ「平和のために、あるいは今日の生活の苦しさからのがれ出ようとしてもがいているものであるかぎり、……援護するという立場で、その欠点やまちがいをも正していく、という方式をわれわれはとらなければならない。」(三一ページ)と述べている。そういう方式によらない限り、民衆の自由と平和のためのたたかいを徹底的に支持するという労働者階級の歴史的任務は遂行され得ない(三〇ページ)、というのだ。 労働者階級のそういう現実的な文学の創造・育成という立場から、「われわれとしては、文学というものを、まずもってひろい意味で考える必要がある」ことを述べている最初の一章は、とくに光っている。中野は、そこのところで、「ひろい意味での人間の表現の仕方の一つとして、文学があるのであって、自分を表現するには、言葉、文字を使うやり方としては、新聞記事もあれば法律の条文もあるのですから、そういうものすべてをひっくるめて文学というものは考えられ、そのなかでそこから専門的なものとして出来てきたものをせまい意味での文学というという、ことになるでしょう。」といい、詩や小説が「それ一つでポツンとあったのでもあるものでも」ないこと、「こういう関係は、歴史的にもそうであり、個人の立場の場合にもそう」であると語っているが、すべての文学論は、ここを起点として始められるべきだ。人間の生活のいとなみの一つとして(また人間の生活のために)文学があるのでなくて、文学のために人間があるというような、まるでそれ一つがポツンとあるみたいな文学論の横行しているさい(次章参照)、中野のこの指摘にはふかい意味がある。 だが、たとえば、ヘタでたくみでないが人を感動させるというようなのが「文学としてはほんとうに値打ちのある文学だ」(一五ページ)といった式の粗雑な言い方はヤメたほうがいい。「よい本とは、初めからしまいまですべて正しい本という意味ではなく、多少の錯覚があっても、正しいところはひどく正しい、という本のことである。」(「文学入門」)という桑原の整理された表現に学ぶべきだろう。 三 実存的孤独 ところで、組織労働者を描けと説いている加藤のほうは、中野とは反対に、むしろ階級的な文学観や人間観を否定する立場から、そのことを提唱している。 加藤の考えでは、小説は必ずしも人間を社会的な相のもとに描く必要はないのであって、社会的に孤独な、もしくは「社会的身分や歴史的条件に本来かゝはりない人間の孤独(非社会的な孤独=絶対的孤独)を追求」することで、かえって日本社会の後進性を超越することもできる(一一五,一三五ページ)、というのだ。「人間性の変らざる部分に対する信頼と黙示録的現実の体験」の必要がそこに説かれ(一三三ページ)、さらに、ついで、「もしわれわれが自己の内部へ深く降りてゆくことによって一般に人間的なものを探りあてれば、……小説に如何なる社会を背景として用ひようと普遍的な文学をつくることができるはず」だ(一三五-六ページ)、という願望がそこに語られている。 じつにハッキリしているではないか。組織労働者を描くということも、それは、個人としての組織労働者の意識に内在する、超階級的・普遍的人間を主人公とするということなのであって、社会的人間としての現実の労働者は、そういう内在的人間(普遍的人間)をキワ立たせるための「背景」にすぎない、というのだ。(そこに描かれるものは、つまり骨抜きにされた組織労働者だ。)だから、描く相手はなにも組織労働者に限るわけのものではないのだが、なるべくならニュー・ルックでいこう、というわけなのだろう。「孤独な精神の構造に(社会的孤独と非社会的孤独との)二面があるとしても、……一面だけ現れる場合は少い。リルケの孤独(非社会的孤独)も純粋に絶対的なものでは」なかった、と加藤がいっているのは、語るに落ちた感じだ。ともかく、人間――現実の生活をいとなむ社会的人間のよりよき生活のために文学があるのではなくて、逆に、普遍的な文学の創造と栄誉のためにのみ人間が存在理由を持つ、ということになるのだ。人間のレーゾン・デートルは、 こうして、加藤にとっては、「世代の交替する社会の、無数の人間の一人としての自己が問題なのではなく、ただ一人の、一回的な存在としての自己が問題である」のだが(一三四ページ)、かれが文学的体験を「一般化されない一回的なもの」として客観的方法の適用を拒むのも、つまりはこうした立場からであるし、『明暗』を孤独の文学として手放しでホメちぎっているようなのも(一三四ページ)、やはりまたこの立場においてである。 四 あぐらをかいたニヒリズム(?) 福田は、加藤のように、「人間性の変らざる部分に対する信頼」というようなことを、直接口に出して言ってはいない。けれど、さかんにベルグソンの口移しみたいなことを言ってみたり、また、生哲学ふうの概念を援用して万事(?)生哲学流に問題を処理しようとかかったり、またたとえば、「古典がつねに新しいゆえんは、それが人間性の本質に通じたカタルシスの効用をもっているから」だ(一四一ページ)、と語っているような点からも、福田もやはり、普遍人間的なものへの信頼感にもたれかかってものを言っていることは明らかだ。 福田によると、現代こそ呪術の時代であるというのだ。ジャーナリズムとう「呪術的秘儀の場所」において、「右から、左から、中立の立場から、呪文の放射線」が交錯している(二一-二五ページ)。つまり、現代においては、何もかもが呪文である。それで、「われわれは正しい認識をもって現実に処するにしくはない」のだが、正しい認識だの正しい実践なんてものは、むろんあるはずがない(一〇五ページ)、というのだ。科学もまた、呪文の一つにすぎない。 科学が「観察し実験し検証し説明し組織しうるものは、つねに過去である」にすぎぬ。「この過去から経験主義 的に帰納しえた方法によってのみ 未来をとらへよう」(圏点=太字斜体 筆者)とする科学は、しかし「人間精神のいとなみを、その全領域にわたってうしろむきにして」しまっただけである(一〇四ページ)。 ところで、芸術は――芸術は「演戯」なのだ。「演戯といふのは、自分で自分を位置づけること」である(三八ページ)。つまり、いっさいが呪文と化してしまった現代にあっては、演戯することによってだけしか、人間は生きがいを感じることができないし、また、自由を自分のものにすることも出来ない。「人間の自由とは、演戯の自由のほかのなにものも意味しません。」(四四ページ)芸術だけが救いだ、という声が、どこからか聞えて来そうである。 芸術だけが救いだ、――そう思うのは当人の自由だ。それもいいだろう。だが、救いである芸術は、福田の言うとおり、自分で自分を位置づけする以外に成り立ちようがないのだ。一切を否定することで自分自身をも否定してしまった人間に、いったいどう自分を位置づけすることができるというのか。「人間は――個人は――つねにまちがひを犯す存在であります。」(一〇五ページ)なぞと居直ってみたところで、それはそれだけの話で、問題の解決になりはしない。 福田は、また、「芸術とはなにかを知ろうとすれば、芸術作品につく」ことだ、と言っているが(一八八ページ)、芸術作品につく――芸術作品を享受するということは、享受者自身、作者(演戯者)といっしょに演戯する(自分を位置づける)ということだろう。そのことによって、当然、享受者は、自分自身に対する自分のこれまでの位置づけ方を改めることになるのだろう。それは、新しい体験(準体験)によって精神の内容が変るということである。ところが、福田にしたがえば、「医者は病気をなほすのが目的であって、その肉体がなにに使用されるかは、問題にしないやうに」芸術によって人間はその精神を強壮にするだけだ、というのである(一六〇ページ)。「精神は変る必要もなければ、変ることもできない。」(同)それを、病気をなおすこともしないで、「病躯をひっさげて投票場へ駆けつけること」を説くような医者が今は多くて困る(一六一ページ)、というのが福田の言い分である。福田の言おうとするところも、ここまで来れば歴然である。 真意が明らかになったところでダメを押しておくと、芸術は精神を強壮にするだけだというのはウソだ、ということだ。いや、精神が強壮になるということは、それの内容が変る――位置づけが変るというのと一つことである。それを変らないといって、妙なリキみ方をするのは、人間の精神が変化するものだということになっては、例の普遍人間性への信頼感にヒビが入って不都合だからだろう。ともかく、「芸術はカタルシスであり、カタルシスの本質はくりかえしにある。」(一四五ページ)なぞとヤニ 問題は、それから、科学についての福田の考え方だ。 五 現代非合理主義 福田の言うように、科学が人間精神のいとなみをうしろむきにしているかどうかは大方の判断に待つとして、それが「経験主義 的に帰納しえた方法によってのみ 未来をとらへよう」とするものだというのは受け取れない。科学の方法は経験的ではあっても、経験主義 的でなんかけっしてないからだ。(科学史の過去の一コマを捉えて、だから科学というものは……というのはナンセンスだ。) 同様のことは加藤の場合についても言えるのであって、「文学史を作る人の、『文学とは何であるか』が、『文学とは何であったか』を決定する」はずであるのに、文芸学では「文学とは何であったかといふことから……文学とは何であるかを定め」ようとしている、これはおかしい(一二ページ)、という加藤の言葉は、素朴実在論的な客観主義の文芸学――それは、むろん文芸学の昨日の姿だ――に対する批判としては当っているところもあるのだ。が、問題は、いま、この客観主義ないし経験主義の否定ということが、加藤や福田の場合、客観的方法・経験的方法そのものの否定にまで突き抜けてしまっているという点にある。 ところで、また、科学は現象の解説者・説明役としては有能だが、「生そのもの」「芸術そのもの」については全く発言権を持たない、と福田は言うのだが(一七三ページ)、この考え方の底にあるものは、「生は生によってしか理解され得ない」という、生哲学流のあの問題の立て方であろう。そして、それは、生の自己同一性・超時間性ということを前提としている限りにおいて、文学的体験の一回性による科学的方法の適用拒否という、加藤のあの考え方につながるものを持っていることが知られよう。 それで、けっきょく、過去の或る時期において、新カント派や生哲学の一派が、機械論(客観主義)の盲点をさぐり当てることで、客観的方法(科学)そのものの限界をきわめ得たかのようなウヌボレを持ったのと同じように、いやそれをさらに下回って(というのは二番煎じだから)、客観主義をたてまえとするのが科学の立場だ、とひとりぎめにきめ込んで、いまさらのように機械論のアナを眺め回してアゴを撫でているのが、福田であり加藤であるということになろう。 六 「美」とインタレスト そこでまた、福田や加藤が、不易の美にささえられた芸術の永遠性への感激を口にしている根拠が、生の自己同一――普遍人間性への信頼にあることは繰り返すまでもあるまいが、しかし不易の美云々というのは具体的にはどういうことなのか。 加藤によると、何が美しいかということは時とところによって違っても、「美しい」という言葉は、いつどこの国においても用いられている、それは「何を美しく感じるかはちがっても、美しく感じるという人間の精神のはたらきには共通のものがある」からだし、またそれだからこそ、「美しさのなかには時やところを超えて変らないものがある」のだ(三六-三七ページ)、というのである。これは、ひどい。 なるほど、美という「言葉」は一つかも知れない。けれど、この言葉がコンミュニケート(伝達)する実質的な内容は、必らずしも一つではない。造形美術の歴史にかえりみれば明らかなように、いわばそれを荘厳とか宏大というふうに感じた気持(或いはそう感ずる精神のはたらき)を、「美しい」という言葉であらわしていたような時代もあったわけだ。また、たとえば、有閑的で装飾的なものに対してしか美を感ずることの出来ないような精神のはたらきと、実用的なものほど美しいと感ずる気持(精神のはたらき)とを、加藤のように、共通だ、一つものだといって、あっさり片付けてしまうことが出来るだろうか。 美という言葉は、こんなふうに規定性の乏しい、ひじょうにあいまいな言葉だ。だから、桑原が、「美という言葉を持ち込むことは一方的解釈におち入るおそれがあり、むしろ避けた方がよい」として、インタレストという言葉(概念)により文学を説明しようとしている(一二-一三ページ)のは賢明である。「インタレストは『興味』であると同時に『関心』であり、さらに『利害感』でさえあって、それは行動そのものでは決してないが、何ものかに働きかけようとする心の動きであって、必然的に行動をはらんでいる。……人生を表現した文学に面白さを感じるということは、そこに人生的なインタレストをもつことではなかろうか? もし文学に心ひかれるということが、人生に対してインタレストを失い、人生から逃避することであるならば、どうして文学が人生に必要などということができよう。」と桑原は語っている。また、「おのおのの文学者は、自己の作品創作という苦悩にみちた経験によってようやく到達した、彼独自の諸インタレストの調整の仕方 を示すのであって、そのことによって彼は、人生いかに生くべきかという問いに、彼としての答えを出しているのである。」(圏点筆者、五七-五八ページ)とも語っている。こうして、いわば文学の内面規定であるインタレストが「利害感」でさえあり、行動を孕んだものであり、文学者の体験が諸インタレストの調整において成り立つものであることが具体的に明らかにされた場合、加藤の、文学的体験と日常的体験および科学的体験との形式的な区別(分類)や、福田のあのカタルシスがいかに無内容なものであるかがバクロされて来るのである。 触れなければならなぬ問題は、なお数多くある。たとえば、文学の創作には才能(あるいは素質)が必要だという当然の指摘が、しかし桑原の場合、その実質的な内容についての説明を欠いているため、旧い観念論美学の天才論から一歩も出ていないものになってしまっており、また、福田の場合、「才能とは精神と技術との出あう場所」だというようなことでお茶を濁しているにすぎない、といった点である。また、たとえば、ジャンルの問題・言語法の問題その他についての加藤への質疑などである。一二具体例を挙げると、――「世界を、言葉を通して眺め」るのが散文で、「言葉を媒介とせずに(世界を)感じ、その感じと等価値的な言葉を探」すのが詩である(七四-七五ページ)、というような、常識をひとひねり捻ったにすぎない問題の解決(つまり問題の放棄)や、詩精神の枯渇から生まれてくる中世日本の「本歌取り」の形式を、反対に詩精神の躍動の結果とする非歴史的な理解や、また、「風の上に星のひかりはさえながらわざともふらぬ霰をぞ聞く」という藤原定家の詠歌を、「移りゆく時を超えて、われわれの前におかれてゐる」詩であるといい、「それが詩といふもの、大理石のやうにかたく、動かしがたい作品」だといっているような主観的な、あまりに主観的な古典の把握(八六-九一ページ)等々々。さらに、これは福田とも共通した映画芸術にたいするプリミティヴな理解の仕方であるが、映画の表現というものを、ぶっつけに(つまり無前提に)事物のリアルな客観的な再現である、ときめ込んでいるような点、たんに説明不足からくるアナとだけはいえないものがある。(それで、加藤の場合、芸術として見て、映画のほうが文学よりも格が落ちるという口ぶりだし、福田に至っては、「映画は芸術ではありません。」と言いきるのだから、ひどいものだ。「あとがき」でいっているように、福田は、「日ごろぼくはよく反語的」なものいいをし、「ぜんぜん反対のことを平気で放言する」のだそうで、「そんなことからなにかと誤解されることもある」そうだが、ぼくのこの理解も「誤解」の部類に入るのだろうか? ともかく、あとで弁解しなくてはならないような放言ならヤメたほうがいいし、反語で呟くほか手がないような深刻なことを言っているのでもないのに、思わせぶりな言い回しをすることは、この批評家のためにも採らないところである。) |
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1951.5 熊谷孝 『文学序章』 (磯部書房刊) |
『文学序章』 序章 文学を制約するもの 一 政治と文学 (…) 『ヴェニスの商人』のシャイロックは、例の人肉裁判のシーンで、貴族の奴隷所有に対して、次のようなするどい批判をこゝろみている。 ――「(…)てまえが要求する肉一ポンドは高い価で買い取りましたもので、てまえの所有物でございますから、いたゞきたいと申すのです。それを『ならん。』とおっしゃりゃ、お国の法律はほごも同然です。ヴェニスの政令はまるっきり無効だ。ぜひとも御裁判を願います。いかがで。願えましょうかね。」(坪内逍遥訳による) (…) ところで、いま、問題は、そういう民衆の抗議が、悪玉シャイロックの口を借りてなされなければならなかった、という点だ。観客から見れば、憎い 言葉のあやに生きる文学の表現というものは、常識のしょぼしょぼまなこではむろんのこと、たんに社会のしくみをそれとして一般的に理解しているというだけでは理解されようはずもない、ニュアンスを持っている。一般的知識は、知性の実感にまで内に深められ、血のかよった思想とならなければ、それは文学の認識を内容づけ、それの表現を理解する感受性とはなり得ぬのだ。むずかしいのは、この点である。 文学は、このようにして、外側からの政治の制約を文学の内部において受け止めながら、また文学内面の要求(これも、右に見てきたような政治である)を縺れた舌で「ことば」に結晶させようとつとめるのである。 (…) 第五章 認識としての文学 二 抽象的と具体的と――文学の認識(表現)手段―― (…) 文学の認識もまた、日常的現実体験の抽象性を自覚するためのものだ、という事になろう。つまり、いつもは気づかないでいる生活のワクを自覚することで、現実を見なおす、ということなのである。たゞ、それを、科学のように「いついかなる所にいる人間にも通じるような」手段によっておこなうのでなく、身体的生活場面を同じくしている人間の立場においておこなうのである。いいかえれば、文学は、超個人的・普遍的な立場に立つのではなくて、多である現実の一つに身を置いて、現実の内側から現実そのものを追求していこうとするのである。それを、表現する者の立場からいえば、文学の作家が、自分の認識の対象として見つめるものが、知性の実感に媒介された、読者のそれに通ずる自分の日常的な実感であり、そうした実感にさゝえられた思想によるところの現実凝視であるという点に、科学的認識との違いがあるのだ。だから、科学の認識が客観的であるといわれるのに対して、文学のそれは主体的であるなどともいわれている。 科学の認識が客観的で、文学的認識は主観的だという考えには、ぼくは実は異論がある。科学の認識だって主体的だし、それが主体的なものだからこそ、科学の客観性が保障される、という関係にあるからだ。だが、この点については、あとでゆっくり考えるとして(第五章の三「実感の分析」の項参照)、文学の認識が主体的であるということは、それが主観的なものだという事ではない。現実の内側から考えていくといっても、それは自分の日常的な実感にあまえて、自我の小宇宙を絶対のものとするという事ではなかった筈だ。むしろ、そうした狭い自我(主観的現実)を乗り越えさせてくれるのが文学であればこそ、科学に対すると同様、ぼくたちは、文学に身を打ち込まずにはおれないのである。 (…) 第八章 リアリズムの系譜 一 ヒューマニズムとリアリズム 人間の幸福は、人間が人間自身の手で作り上げていくほかないものだ、という自覚に達したとき、人間は初めて「人間」(人間性)に目覚めたという事ができるだろう。人の世のしあわせも、またふしあわせも、その大もとが人間自身の内部に(或は人間と人間との関係のなかに)潜んでいるということに気づいたとき、人間とはどういうものかということが改めて問題になってきたのである。 それは、もはや神の前に無力な者としての人間の追求ではなくて人間そのものへの深い信頼における人間の探求であった。それは、人間の無力を語ることで人間を甘やかすことではなく、人間を突き放し突っ撥ねてみることで、人間そのものを試みるということであった。だから、それはまた、人間を人間そのものの目であくまでリアルに追究して行くということでもあった。 こうして人間そのものへの深い信頼と愛情において、人間がみずからの「人間」(人間性)に目ざめたとき、歴史の上に初めて人間の世紀――ヒューマニズムの時代が訪れたのである。このヒューマニズムは、また、人間自身の立場からの人間の探求というリアリズムにさゝえられて、ヒューマニティー(人間性)の奥底までふかぶかとおりて行くことが出来たのである。このようにヒューマニズムとリアリズムは、その成立の当初において、すでに一つものの裏表の関係に立っていたのであり、また、ヒューマニズムにおけるその後の「人間」への深まりも、人間による人間自身のリアルな探究という、このリアリズムを唯一のさゝえとしておこなわれ得たものであった。そして、今でもヒューマニズムは、このリアリズムを唯一のさゝえとして成り立っているのである。 ヒューマニズムとリアリズムとは、一つのものの裏おもての関係に立っている。リアリズムを欠いたヒューマニズムは、まがいもののヒューマニズムであり、また、ヒューマニズムに裏打ちされないリアリズムは真のリアリズムではない。こゝろの底から人間を愛し信頼しているときにだけ、人間は人間自身を突き放して見ることが出来るのであり、そしてまた、ふかくふかく人間性の奥底にまでおりて行くことも出来るのである。それがナマ半可な愛情やナマ半可な信頼感というようなものであっては、すぐにも壁に突き当ってしまい、そこのところで人間を――自分を甘やかすということになってしまうのだ。ふやけたヒューマニズムは、千鳥足のリアリズムをしかもたらさない。こうして、ヒューマニズムの限界は、またリアリズムの限界であり、リアリズムの限界がまたヒューマニズムそのものの限界を示している、ということにもなるのである。 現代は民衆の世紀である。すくなくともそういうものとして現代をあらしめることが、デモクラシーの精神であろう。こんにちのヒューマニズムは、民衆への信頼と愛情を抜きにしては成り立たないし、少なくとも、民衆の現実に背中を向けたヒューマニズムというようなものはあり得ないのである。現代ヒューマニズムは、このようにして、民衆的現実の肯定の上にのみ成り立つのである。が、しかし、それを肯定するということは、民衆を甘やかすということではなかったはずだ。むしろ、かえって、かれらを突っ撥ねて観察するという迫真のリアリズムが、そこに要求されるのである。民衆を真に民衆的なものに高めて行くためにである。(…) |
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1951.7 『法政二校』 第2巻第2号 |
「小説を読むということ」 文学作品を享受する――小説を読むということは、ほんらい、作中の人物のなかに自分を(或いは自分の分身を)見つけ出し、その人物といっしょになって、自分が現に辿ってきたコースとはまた別の人生コースを歩いてみる、ということなのです。描かれた現実はあくまで描かれた現実であって、自分がこれまでに体験し今げんに体験しているところの実人生とは別物です。それにもかかわらず、この二つの現実、この二つの人生のあいだには必ず触れ合うものがあるのです。(もし、触れ合うものがないなら、享受は初めから成り立ちません。生活の軸とワクのちがった文学にたいして翻訳という手続きが必要になってくる理由も、こういうところにあるでしょう。) で、いま、『アンナ・カレーニナ』の世界を思いうかべようと、『罪と罰』のあの現実に思いを走らせようと、それは諸君の自由ですが――そこに描かれた人間の生活、人間の体験は、それがたとえ「異常」なものであろうと、また余りの特異さ、異常さのゆえに、事がらそのものとしては部分的一致をしか感じさせないものであったとしても、しかしそれが自分のかつて体験した「出来事」に通じる何かを含んでいることだけは確かです。そして、この その「出来事」というのが、或いは読者めいめいの場合としては、心のどこか片隅でおこなわれた出来事であるかも知れません。が、ともかく、その出来事に対して、ぼくたちは、或る判断にしたがって行動し、その結果として今この境涯――心の状態にいたっているわけです。それゆえのこの悩みであり、またそれゆえの今のこの行き詰まりである、ともいえるでしょう。 ところで、作中の人物は、かつてのあの自分の立場に立って、しかもそれとは別の行動を起こそうとしているのです。それは、ぼくが選んだ道とはスレスレのものでありながら、しかしけっして一つのものではないのです。そして、それは、あの時、あそこで、ああしたふうな ところで、作品享受による体験は、いまそこのところで注記したように、言葉による行動の代行――準体験でした。それは、あくまで準体験(体験に準ずるもの)なのであって、体験そのものではありません。だから、それがどんなにあぶなっかしい道筋であろうと、ぼくたちは臆病風に誘われずに、そこを歩いてみることが出来るのです。現実の人生コースにおける弱者も、準体験の世界ではヒーローになり得るというわけです。 が、もし、また、自分にはとても付いて行けない、かれといっしょには歩く気がしなくなったということであれば、いつどこでもこの主人公と別れることが出来るのです。(読みさしのまま本を伏せる、というシグサでそれが簡単に出来るのです。)それでまた、思い返して、やはり行動を共にしたくなったというような場合には、相手はけっして冷めたくないのです。いついかなる時でもぼくたちを迎えてくれる寛容さを持っています。 いきさつは人によっていろいろでしょうが、ともかくこうして連れ立って歩いてみた結果は、(それが文学としてすぐれた作品であれば)現実の人生以上の「生きがいのある人生」を、きっとぼくたちに味あわせてくれるに違いないのです。それで、唯の一度でも人生の生きがいのどういうものであるかを味わい知ったほどの者は、このサムザムとした人生をうつ向き加減に歩くというようなことはもう出来なくなります。こうして小説の享受による準体験は、相手によっては現実の体験以上のものとしてはたらき、人々の生活の実感そのものを鍛えなおし、行動の体系としての思想そのものをはげしく揺(ゆさ)ぶるのです。 こうしたものが、小説を読むということ、つまり、作品享受の「しくみ」と「はたらき」なのです。その作品の表現が、読者の生活のしくみ、(行動の体系)にまで食い入ってそれを縛りつけ、或いは行動の体系としての生活の実感そのものを変革する力としてはたらくか、それとも行動の単なる代行としての観念的なはたらきにとどまるかということは、けれど読者その人の現実の生活体験(体験の仕方)のありようそのものによってワクづけられるのです。(1951.6.6) [同誌所載「執筆者紹介」「教職員一覧表」によれば、当時熊谷孝氏は、法政大学第二高等学校講師(国語担当)・法政大学助教授 であった。] |
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1956.1 熊谷孝 編 講座・日本語 Ⅶ 『国語教育』 (大月書店刊) |
「国語教育の問題点」 a 文学教育をめぐって 経験主義と文学教育 戦後の教育が戦前と違う点は、といったら、それはおそらく、教室から教壇がとり払われたということだけでしょう。それ以外に何もありません。が、ある意味からすると、教壇がなくなっただけという、この 一方交通のいい気な教授主義の学習から、児童・生徒の自主性を基盤とした経験学習へ――。言語主義の神がかり教育から、体験の実証をおもんじた経験学習へ――。 ……と、そんなふうにいうと体裁がいいのですが、それがじつは経験主義学習にほかならなぬという点に問題がありましょう。 (…) 「それでも戦前の教育とくらべたら……」というふうなことばは、『教育勅語』と『軍人勅諭』に明け暮れた、暗い谷間への回想のなかでつぶやかれる実感のそれなのでしょうが、しかしよくよく考えてみるとどっちもどっち、ということになりはしないでしょうか。戦後の教育にましなところがあるとすれば、それはけっして新教育のおかげでなんかありはしない。むしろ、アメリカ製新教育への教師の抵抗がつくりだした、それは民族的良心の成果でした。 が、誤解しないでいただきたいのです。経験学習そのもの、経験学習という学習方式そのものを否定しているつもりはないのです。うその多い教科書のページを繰るかわりに、生徒たち自身の生活のうえを生きた教材としておこなわれた話し方・綴り方の経験学習が、暗い谷間における抵抗教育の最後の拠点であったことを、わたくしたちは、いま、ここに思い起こさないわけにはいきません。ですから、むしろ、もっと徹底した経験学習を、とさえいいたいくらいなのです。いけないのは、経験がすべて、経験だけでという、理論軽視のその経験主義です。無内容・無目的な――いや、無内容で骨ぬきなところが存外目的なのかもしれなせんが、ともかく経験のための経験という、その経験主義が批判されなくてはならぬのです。つまり、自由を守りぬこうとする強い気 もっと徹底した経験学習を、と、わたくしがいうのも、それはだから、自分たちの経験(体験)の軸を自覚することができるような体験の仕方に学習者をみちびく、そのことでまた、自己の体験のひずみや体験の仕方のゆがみが自覚させられる、というふうな指導の実現を期待しての発言なのです。たんに既成の社会のしくみや既成の観念を ですから、また、かつての文学教育が「教師の教授を中心とした作業であった」のに対して、戦後のそれは「文学活動の経験をさせることが中心になっている。これは明らかな進歩である」と西尾実氏は語っておられますが(『文学教育の回顧と展望』一九五四・七――『文学』)、その経験のさせ方が経験主義的であるかぎり、ウカツにそれを進歩だなどとはいいきれないわけです。なにが目的で生徒に文学活動を経験させようというのか、また、なんのための文学活動の経験であるのかが、そこに問われなくてはならぬでしょう。そうでないと、教壇さえどり払えば、教育そのものまでが進歩するというみたいな、奇妙な形式論になってしまうからです。 経験主義との対決 (…) 経験主義は、(…)教養主義(=文化主義)に結びつく。というよりは、むしろ、学習者の文学への関心を文化主義的なそれへとそらすための、また学習者の文学観を(したがって、その鑑賞や批評の態度などをも)文化主義的な非実践的なものに釘づけしておくための、文学活動の経験学習であった、ということになるでしょう。また、同時にそれは一方で、世渡りと社交に事欠かぬ程度の文学的教養を、という、卑俗な実用主義となってあらわれているわけです。 (『学習指導要領』にしばられた、現行国語教科書の編集が、そうした実用主義・経験主義の要求にそった名作ダイジェスト的教養趣味満点のものになっているという点については、まえに指摘したとおりです<『朝日新聞』学芸欄、一九五五・四・五その他拙稿>。すくなくとも国語教科書に関するかぎり、現行のものは〝憂うべき教科書〟であるという判断に到達する。それは、某政党が語っているような意味で〝偏向〟しているからではありません。もしも偏向ということをいうならば、指導要領が示しているような偏向と妥協する以外に、いま教科書の編修も発行も不可能に近いという点で偏向を見せているということです。つまり、民主主義に名をかりた思想統制が、教科書のこの〝憂うべき〟状態をもたらしているのです。) (…) |
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1956.11 熊谷孝 『文学教育』 (国土社刊) * 1955.10 熊谷孝編 『日本児童文学大系 6』 (三一書房刊) 「解説」 の改稿 |
『文学教育』 第一章 問題史的展望 三 形象理論と文学教育 1 マルキシズム以後 (…) 文学は、日常生活におけることばを底辺とした三角形の頂点にすぎない。底辺(基底)やその底辺の上のひろがりを忘れて、頂点だけにとらわれるのはまちがいだ、というのが、そのころの西尾[実]氏の国語教育論(「読方教育論』――国語科学講座・一九三四年七月)であった。 (…) やはりマルキシズムに背を向けたディルタイの場合がそうであったように、氏のいう〝生活の規定〟とは、生哲学ふうの形而上的・非歴史的な〝生〟に他ならない(ディルタイが歴史の項を骨抜きにし消去するために、歴史という 鑑賞をふかめるとか解釈するとかは、したがって氏の場合、〝追体験〟以外の操作を意味しているとは考えられない。生は生によってしか理解されえないし、その理解の方法は、追体験以外にはありえぬ(ディルタイ)わけなのだから。追体験とは、そして、勝部謙造氏にしたがえば、「其人の心にまで追溯すること」であり、「其人の心を以て我が心とすること」にほかならない。 2 西尾氏の所論とその批判をめぐって 西尾氏のこの生哲学的な生の立場、―― (…) と語っておられる。 さいきん、日本文学協会の内部でも、西尾理論に対する批判がぼつぼつ出かかっているようだが、西尾理論のこのベースを突いたものが見あたらないのは、どうしてだろう? たとえば、「西尾氏は理論構成にあたって、立場と方法と内容を統一的につかもうとしたそのねらいを、むしろ観念的に方法の問題に限定されたような感じ」だ、と益田勝実氏は語っておられるが(『しあわせをつくり出す国語教育について』――日本文学・一九五五年八月)、西尾氏がしゃにむに問題を方法の面に限定して発言しようとした、その〝立場〟こそ、変形された形象理論・解釈学主義・追験主義のそれにほかならない。 また、たとえば、荒木繁氏は「西尾氏の所論は、作品とそれによって喚起された問題意識との必然的な関係をあきらかにせず、……これを創作意欲の喚起や研究意欲の喚起と並置されている点において賛成できない。」(『文学教育の方法』――岩波講座・文学の創造と鑑賞・第五巻、一九五五年三月)と語っておられるが、創作・享受(鑑賞)・研究を根源的に同質のものと考えるところが生哲学(=形象理論)の生哲学たるゆえんなのである(それは、たとえば、こういうことなのである。生哲学にしたがえば、鑑賞とは追体験による生の理解に他ならない。研究とは、またたんに鑑賞をそれとして深めていく操作をしか意味していない。また、たとえば、鑑賞が一面創作過程の追体験であるという点で、それは創作と同質のものである、という方式の論理なのだ)。〝立場と方法と内容を統一〟した西尾理論の批判が望まれる。(p.22~25) 3 ヴァリエーションABC こうしてその立場をハッキリさせたうえで見なおすと、前に非常にもっともな意見のように受け取れた、三角形うんぬんの所論が、かなり観念的なものであることに気づくだろう。 人間のさまざまな その意味では、むしろ、文学の基底・基盤は人間の具体的な社会生活そのものである、といわなくてはならない。ことばは、文学にとっては唯一の媒体であり通路であるが、しかし基底ではない。文学は、〝ことば が、ことばづかいの問題はいちおうどうでもよい。問題は、きっすいのリベラリストである西尾氏が、しかし国語教育を「伝統に根ざした、底力のある つまり、その ことのついでにいうと、いま日本文学研究や文学教育の分野でもプラグマティズム批判がさかんだが、しかしそれにあわせて、その大もとの生哲学批判をやらないのはどうしてだろう? プラグマティズムが帝国主義の哲学なら、生哲学はれっきとした戦犯の経歴をもっている。が、ディルタイのそれと、戦時中のファッショの手さきになったような俗流・亜流の生哲学とはやはり区別されなくてはならないように思うが、相手がプラグマティズムの場合にかぎって無差別爆撃をあえてするのは、なぜだろう? 生哲学の亜流にすぎないこの形象理論は、こんにちこの時点において、ふたたび、いきおいを盛りかえそうとしている。その盛りかえし方は、一方では文化主義を媒介とするプラグマティズム・との結びつきのかたちにおいて、また他の一方では、プラグマティズム・コスモポリタニズムそのものに反発する人びと(そのなかのある種の人びと)の哲学史的無知を逆用してである。 (…) 七 戦前から戦後へ 1 良心のともしび 満州事変から二・二六事件にしぼって考えられるこの谷間[暗い谷間]の一時期は、太宰治のいわゆる〝更衣の季節〟(『苦悩の年鑑』)であった。たとえカーキ色の国民服は身にまとわぬまでも、「 こうして三六年、三七年、三八年……と、ファッショ街道の早がけ行進がはじまる。一年が一年といえなかった。一年が四分の一世紀にも半世紀にも相当する急テンポの転落の〝一年〟であった。 そうした谷間のどん底における抵抗の国語教育が、言語教育――とくに文法教育重視の方向にあゆみを進めたのは、むしろ当然のことだった。 (…) 右に見るような高倉[テル]氏の批判は、ことばを神秘的なものと考える また、波多野完治氏(『言語の道具説と形象論批判』――国語教育誌・一九三九年一一月)がそれとほぼ同じ時期において、「言語が道具性をもつ」ことをハッキリと語り、「従来の国語教育が言語の道具説をとり入れることをおこたっていた」点を指摘し、「言語の道具説はそのままでは真理ではない」が、「言語の道具性を無視するところに、すべてのいわゆる象徴主義の言語観の行きすぎが横たわっている」と批判しているのも、同様の意味で注目される。 右の波多野氏の形象論批判と同一歩調をとって、城戸幡太郎氏(『国語教育における形象の問題について』――国語教育誌・一九四〇年一月)もまた次のように語られる。 (…) ファッショの御用哲学に成り下がった生哲学(=形象理論)の国語教育界における横行・バッコ。こうした時点において右の文章に接するとき、「やたらにむずかしい文章を解釈することに骨を折らさないで……」と語る城戸氏の底意・真意を読み誤ることは、もはやほとんど不可能であろう。 たとえば、右の波多野・城戸両氏の論文に見るような(ある意味からすれば)、こんにちの水準を遥かに上廻った、卓越した言語理論にささえられて、抵抗の国語教育としての言語教育がそこに強く主張され、またある程度に現場において実践されてもいたのである。が、当然それは、たんに言語教育の域にとどまるものではなく、文学教育への志向と (…) 高倉氏のことばをかりれば、「こうした国語教育の欠点に、意識的に、或いは無意識の中に不満を感じた、まじめな教師諸君が、綴り方の部分でその欠陥を補おうと」したこと、しかしその生活綴り方運動が「在来の芸術教育から抜け出そうとするまじめな努力であったにもかかわらず、やはり こうして暗い谷間の言語教育は、〝目かくしされた環境〟を生きる子供や若者たちのあいだに、まともな現実感覚、まともな思考力をつくりだすための良心のいとなみであった。 (…) 一〇 若干の補足 1 理論的と実践的と (…)文学教育のいわば内面の問題として、〝問題意識喚起の文学教育〟のそれが未解決のまま、こんにちに持ち越されている。それは、西尾実氏にしたがえば、問題の位置づけとして「小学校、中学校、高等学校を通じた文学教育の方法」の問題であり、「鑑賞指導の問題」である。いいかえれば、「作品の理解、評価ということと別に、生[ママ]自身に喚起された問題意識をどう指導したらいいかということ」なのである。(第一章・九『文学教育の到達点』参照。)つまり、それは現場に直結した、指導当面の問題なのである。 外側の問題としては、言語教育と文学教育との統一をどこに見つけるか、また、他教科や一般学校教育活動(…)との関連のそれなどが、やはり手さぐりされている段階である。(…) 第一の点については、その後益田勝実氏によって、「問題意識を生むための作品と考えられる西尾氏の場合と、問題意識によって作品をよむと考えられる荒木[繁]氏の場合は、いってみれば正反対」という整理がおこなわれ、(…) という意見が結論的にうちだされた。幾分とも方向感覚だけはついてきたような格好だが、何を問題意識と考え、したがってその指導をどう内容づけ方向づけるかという点での両者の考え方の相違(――それは究極において認識論的立場の相違にほかならないが)を、これではまだ統一したことにはならない。 そこで、今となっては現場の実際面から実践的に問題を解決していくほかないではないか、というような声も出てくるわけだが、そしてそれは確かにそのとおりなのだけれど、理論的につくすべきところをつくさないでおいて、今それを口にすることは、理論放棄の経験主義へ横すべりしていく危険がある。 あえていうが、このていの問題を方向的に処理するぐらいの基本方式は、いわば公式として、すでに過去の理論的成果が用意してくれている(第一章『問題史的展望』一~七参照)。そうした理論的成果を十分にふまえ、それを実地に検証してみたうえでの不信から(自分なりの仮説をそこにたてて)、〝実践的に〟というのならわかる。が、今のはそうじゃない。受け継ぎが不十分にしかなされていないのに、「既成の理論ではどうにもならんから実践でいこう」というのは、これは逆に非実践的である。理論はほんらい実践のためのものだ。理論にみちびかれない実践というようなものはどこにもない。 手がかりもつけないでおいて、それであとはめいめいで処置しろといわれても、現場はどうしようもないのである。教育ジャーナリズムのうえではコテンコテンの『学習指導要領』や『学習指導法』が、しかし現場の実際面へ出ると大きな顔をしてのさばれるというのは、あながちにそれが権力を背景にしているからだけではない。一見具体的に見えるような、いちおうの指導理論を用意しているところが、それの強味なのである。 理論的追求を放棄して実践、実践というのは、これは問題回避である。これではせいぜい、現場の個々の経験をアトランダムに(それもじつは一定の先入見にしたがって)並べ立てるのが落ちではないか、と思われるのだ。 (…) 第二章 課題と方法 八 現在の時点にたって 〔経験主義と言語主義とはウラ・オモテ〕 死の灰このかた反米熱が急カーヴに高まってきているようだが、反米にもいろいろ変種があって、中には「平和憲法、あれはアメリカ製だからいかん」というような反米論(?)もあるようだ。 安保条約賛成、MSA大歓迎というような〝親米的〟な人にかぎって、こうした反米的な言辞を つまり、新憲法に対するのと同じように、親米的な人ほど、このアメリカ方式の新教育がお気に召さぬらしいし、故意に、あらぬ方向にそれをねじ曲げようとして躍起になっている。が、戦前のカサカサにひっからびた言語主義の教育――たとえば、ウソをマコトといいくるめた修身・公民・国史の授業内容や方法などと比べたら、経験による実証をおもんじる経験学習方式は、 ところが、それがじつは経験 既成の社会の 発達段階は、あえていえば経験に先行して経験の仕方やあり方を規定するもの、先験的なもの――アプリオリである。〝新〟教育の経験主義の基底にあるものは、あの古めかしい先験主義である。だから、じつは経験主義と言語主義とは異質的な対立物ではないのだ。すくなくともベースは一つものである。その一つのベースが、つまり先験主義にほかならない。 〔復古はいけない〕 この経験主義も、社会そのものがいきいきと発展していっている時期には、それはそれとしていちおう意味があったわけだ。けれど、ひとたび社会が足ぶみ状態になってくると、この教育方式ではどうにもならなくなる。現在のおとな以上の人間に成長してくれることを、子どもの世代に期待しなくてはならなくなるからだ。既成の人間の型(世のおとなたち)をモデルにして子どもを育てたのでは、社会の行き詰りを打開することはできないからである。 そこでつまり、教育のたてまえそのものが改められなくてはならない。ことに、こんにちの日本にあっては、たんに既成の事実や観念を身につける以上に、子どもや若者たちは、今のおとなをのりこえて成長するために必要なものを自分のものにしなくてはならぬ。たんに現実を経験するのではなくて、経験の仕方――よりよい成長のための新しい体験のしかたを身につけなくてはならない。 新教育プロパアの経験学習では既成事実をウ呑みに〝経験〟することはできても、既成事実そのものを批判して、それをのりこえ、それを改めていく方法(=体験の仕方)を実感するわけにはいかない。 とすれば、このアメリカ方式新教育ではもう旧い、ということになりそうだ。が、のりこえるというのは前へ進むということであって、逆行する、復古する、ということではないはずだ。問題はその点にあるだろう。 ここ数年来の、コスモポリタニズムへの良心的な教師たちの抵抗のなかに(それを裏側からいうと、新教育――『学習指導要領』の側に立つ人びとの足並みのみだれのなかに)、すでに前向きの動きが出てきている。それにもかかわらず、いまこの時点において、逆コースに教師たちをかり立てようとする動きの見られる点に問題があるのだ。 こんどの社会科の改訂にしても、改訂することには賛成だが、改訂の方向が問題なのだ。歴史なら歴史という科目を独立させること、そのことがいけないのではなくて、それを戦前の言語主義の方向へ復古させようとするタクラミがいけないのだ。 事のついでにいえば、問題解決学習か系統学習かというような論議も、奴れい教育の二つの側面である経験主義および言語主義への批判に出発しないかぎり、その意味はほとんど失われてしまう、ということなのだ。 〔〝修身〟の復活〕 功利的なこの実用主義を温存したまま、徳目主義――〝修身〟を復活させたら、どういうことになるか。三十代以上の人なら、それこそ〝経験〟でわかっていることではないか。わたしたちは、わたしたちの少年期や学生時代、あるいは軍隊生活を思ってみただけで十分である。 まず、 彼らが成人して若者ともなれば――そこで、あなたは、ご自身の軍隊生活をふりかえってみるのが早わかりだ。軍隊は万事〝要領〟である。他人や他の班の所持品・所属品をかっ払ってでも点呼に員数をあわせて自己の〝責任〟をはたす。一つ、軍人は〝礼儀〟を正しくすべし、というわけで、「班長殿、ご苦労でありました」などと心にもないことを口にしながら、遊び呆けて帰営した下士官殿の巻脚絆に飛びついた一昔前を、あなたは、ゆめ忘れはしないだろう。 改訂社会科のもたらすものは、つまりそれだ。憲法や児童憲章を空文にしておいて、それで礼儀がどうの責任がどうのと、お題目(徳目)を並べてみたって、子どもや国民の道義心は向上しはしない。結果はむしろ、逆だ。ことさら、教師が、その徳目を天皇に結びつけて説明させられるようなことにでもなったら、それこそ名実ともに戦後版天皇制臣民教育の登場である。 (…) 〔抵抗教育への反省〕 ところで、右に見てきたような抵抗教育――民主民族教育としての文学教育という線でずっとおしてきているのは、日文協(日本文学協会)のラインの文学教育活動である。 それは、森山重雄氏によれば、「現実を隠蔽し、植民地的退廃を見て見ぬふりをし、これと野合した」コスモポリタニズムの文学教育をしりぞけ、「人間に働きかけ、生徒の心のなかに真実を求めようとする意欲を呼び覚ますような文学教育を主張しよう」とするものであった(『国語教育の十年』――日本文学・一九五五年六月)。 当然そこでは『学習指導要領』ラインの言語教育や文学教育は「植民地的従属のために強いられた国語教育」として全面的に否定される。そして、こんごの課題を「この〔指導要領の〕言語教育におけるプラグマチズムと文学教育におけるコスモポリタニズムの両面に対して、統一的な批判を加え、これを克服する道を発見する」という点に設定する。こうして、いまや、文学を愛し教育に情熱をかたむける多くの〝民族的良心〟によって、理論的にまた実践的にこの課題への応答がつぎつぎと試みられている。明日への期待が、日文協ラインのこの方向において満たされるであろうことは疑いをいれない。 ただ、残念に思うのは、そうした良心の呼びかけが、結果において現場の大多数の教師に聞き過ごしにされている点である。聞きすごしにするほうにも、むろん問題はある。が、それを聞き過ごしにしても、現場の実際面では直接べつにさしつかえは起こらない、というふうに考えさせる何かがそこにあるのだ。問題はその点である。 ことばとしてプラグマティズムを批判はしても、プラグマティズムの本家本元である生哲学そのものは批判できないでいるばかりか、自分自身、かたちを変えた生哲学(――民族的生の自己同一)の立場をとっているという矛盾、――そうした自己矛盾に問題のヤマがあるように思われるのだ(第二章・五『文学教育の問題点』参照)。 認識論的逸脱をとげた、そうした立場からのプラグマティズム批判やコスモポリタニズム批判が、声の大きいわりあいにナカミの薄手なものになりがちなのは当然である。そこには、相手の心にじっくりと訴えていくものがない。深い民族愛に根ざす、その呼びかけが、単なるイデオロギー的立場からの〝演説〟というふうに受けとられがちなのも、そのためである。 こんにちの時点において、文学教育は、抵抗教育としてあるのほかはない。それは、こんにちの文学が抵抗の文学としてあらねばならぬということとも理由を一つにしている。伊藤整氏が、「文芸作品をもって教育・指導の具たらしめようとする愚劣な考え方」について語り、また「秩序を作る材料として芸術を利用するほど、芸術の本来の性格に反したことは」ないこと、「芸術は、秩序に対立して人間性を主張する力の現われであり、常に被害者または被圧迫者または攻撃者、破壊者の立場をとるもの」であることを指摘しておられるが(『創作と批評の論理』――『世界』一九五六年八月)、文学および文学教育の方向をこれほどハッキリと示した文章はまれである。 が、文学教育が、こうして抵抗教育・民族教育としての方向をめざすかぎり、それは当然自己の理論的立場についてたえず深い反省を試みるものでなくてはなるまい。なぜなら、「理論的な克服だけで事物はけっして現実的に克服されるものでないことは明らかだが、逆に理論的な克服なしに実際的な克服をまっとうすることは実際的にいってできないことだ」(故戸坂潤氏)からである。 (…) 第三章 文芸学と文学教育 三 文学研究と文学教育 1 文学教育と言語教育との統一 (…) もともと一つのものである国語教育が、現実の教育場面の要求に応じて、あるときは言語教育が主になり、またあるときは文学教育が軸になって国語教育活動がおこなわれる、というのが本来だ。ところが、それが分析的にでなく、バラバラに分解されて扱われ、〝言語教育か文学教育か〟というような対立をうんでいたのが、これまでのいきさつであった。今それをのりこえるべきときにあたって、なおも文学教育は文学教育、言語教育は言語教育、読書指導は読書指導というバラバラな考え方をするのは、おかしな話だ。(…) 2 方法と過程を規定するもの そこで、読書指導といっていいような読書指導を生みだすためには、また言語教育がその名にふさわしい言語教育となるためには、それらは文学教育をささえとしなくてはならない。そこでまた、文学教育が文学教育としての実をあげるためには、言語教育をささえとしつつ、そこに文学研究との結びつきが必要になってくるのだ。 あえていえば、勉強することを〝卒業〟してしまった教師が、児童や生徒や学生たちに向って「勉強しなさい」という資格はない。文学を勉強することをしないで、文学教育も文学学習も何もあったものではない。 現場の問題は、しかしそんなところにあるんじゃない、いくらいい作品を読ませてみても感動しない子どもが多いという現実、そうした子どもの処理をどうするかという点が悩みのタネのなのだ、とこういうわれる方があるかもしれない。が、じつはそれだからこそ文学の勉強を、文学の研究活動に参加することを、というのである。 ジャーナリスティックになれ、といっているんじゃない。むしろ、その反対だ。教師が自分自身、文学的思考の身についた人間になるためにこそ、文学研究との結びつきが必要なのだ。文学研究への参加による文学的思考(――文学的思考をささえとした論理的思考)の深まりが、やがて自分の対決している現場のカベをつき破る具体的な方策と現実の道筋――方法と過程を発見させることになるのだと思う。 文学研究と結びつかない文学教育というようなものは、こんにちではもはや考えられない。それがお そして、さらに、現場の実践の深まりが、文学研究の方向と内容にたいする批判と要求を生むようになることは、文学を研究する側にとっても、また文学教育に当面している側にとっても望ましいことに違いない。(…) |
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1959.8 『講座・文学教育 2』 文学教育の会編 (牧書店刊) |
「戦後の文学教育――その展開」 1 運動の実践形態として 文学教育の歴史は、同時に文学教育運動の歴史である。すくなくとも、それが運動の様相を呈するにいたったときに、文学教育のいとなみは、みずからの機能と役割とについて自覚的なものになりえた、ということだけはいってよさそうである。いいかえれば、すぐれた運動意識が明確な文学教育意識をつくりあげ、みのり多い実践的・理論的成果をもたらしている、という関係がそこに見られるのである。 ここに文学教育意識というのは、文学教育を欠いて人間形成のいとなみはありえないとする意識、文学教育を必要とする意識のことである。さし当って、そのことを意味している。指導の成功を偶然に賭けるのではなく、むしろ、この偶然をさえ必然に変え、成果を持続的なものとして発展させていこうとする態度――それこそ、すぐれた文学教育意識のもたらすところのものである①。 ともあれ、それが運動意識にささえられたいとなみとなったときに、その活動が自覚的なものとなり、真に実践的なものになりえた、ということを、歴史の事実ははっきりと裏書きしている②。とくに、戦後の文学教育運動は、いわば運動そのものの実践形態というかたちをとって開始され、また展開していっているという点で特徴的である。 さて、戦後十余年の文学教育運動は、次の三つの時点においてみずからの進路をえらびとった、と見てよさそうである。すなわち、 (1) 児童文化雑誌『子供の広場』③の創刊(一九四六年四月)前後 (2) 日本文学協会・一九五二年度大会(一九五二年六月)前後 (3) 文学教育の会成立(一九五七年四月)前後 の三つの時点においてである。 このようにして、また、民間教育運動の視点から見て、戦後文学教育の展開については、 (1) 児童文学者を中心とした、文学教育の提唱と実践の時期(一九四六~五一年) (2) 学習指導要領ラインの、上からの文学教育・国語教育(そのコスモポリタニズム・プラグマティズム) 。。。。への抵抗を底流とする、学校文学教育の研究・実践の時期(一九五一、五二年~) (3) 文学教育関係者の大同団結による、対立の統一が意図された時期(一九五七~) の三つの時期を、過去に考えてみることができそうである。 もっとも、それを、たんに、過去といいきってしまえないものがある。戦後のそれぞれの時期においてかかげられた課題なり問題提起のいずれをとりあげてみても、そのほとんどすべてが未解決のままに終っている。問題のほとんどすべてが未解決のまま、多少かたちを変えただけで、こんにちに持ち越されている、といっていいのである。 だからして、また、上記の三つの時期区分も、その意味では、しょせん年次を追っての便宜的な構図――ピークとピークをつなぐ便宜的な構図によるもの、というほかないのである。戦後はまだ終結していない。戦後は現在なお継続しているという意味で、戦後文学教育史は明確な時期区分をもつというところまでは至っていないのである。 じつをいうと、こうして戦後が終結を見ないうちに、早くも(?)戦前の天皇制臣民教育への復帰がたくらまれ、ほとんどそれと紙一重のところまで学校教育――学校文学教育が追い込まれてきているのが、こんにちこの唯今の時期にほかならない。 それは、もはや、注記するまでもないかと思う。ごく最近の出来事だけについてみても、例の教育二法・三法このかたの教員の政治活動に対する大幅制限、教科書国定化への動き、教育委員のアマクダリ任命制の実施、そして勤務評定の一方的強行。さらに、この勤務評定の施行を前提とした、「道徳」の時間特設と、国家基準の制定というかたちをとっての学習指導要領の全面改訂、等々。 「道徳」を、いわば全教科の核として特設し、それを施行規則によって強制すると同時に、各教科のカリキュラムを戦前の臣民教育の方向に改訂することで、天野文相このかたの歴代の文相のもとにおいて意図された「修身」の復活は、ある程度実質的に具現された、と見ていいのである。 このようにして、くちぐちに子どもたちに「君が代」を歌わせながら④、「国民的自覚」をそこに促がしたり、その「道徳性を高め」たりという、現政府筋の期待するような国語教育や文学教育というものが、その方向と内容においてどういうものであるかは説明を要しないであろう⑤。 また、すでに、「道徳」の時間のほうでは、「読み物の利用」というかたちで、“道徳教育のための文学教育”とでもいうべきものが行われている。文学作品のなかから、道徳的要素――いわゆる道徳的要素だけを抜きだしてきて、それを教育に「利用」しようというのである。あるいは、文学作品を教訓読み物・教訓咄にすり替えて扱おう、というのである。ともあれ、文学作品は、そこでは「道徳」教育に利用すべき読み物の一種に過ぎない⑥。 文学ほんらいの感動(文学的感動)を疎外した、この文学学習(?)が、文学固有の感動・文学的思考を生命とする国語科文学教育を破壊にみちびくものである、という点については、すでに小・中学校の教育の現場から批判が巻き起こっている ⑦。 教育および文学教育への、このような上からの破壊工作・破壊活動に対して、こんご、文学教育の会や日文協国語部会その他民間諸団体がどう対処し、どう対決していくかは、直接教育の現場の動向につながる問題である。と同時に、それはまた、上記三つの時期のあとを承けた今後のこの時期が、文学教育史上の輝かしい時期として記録されるか、大きな汚点をそこにとどめるかという分れ目でもある。 上記、第三期において意図された“対立の統一としての大同団結”が、とくに、こんにちのこの段階において、どの方向にむけての大同団結とならねばならないか、――ともあれ、今までにない困難な時期にさしかかってきている、といわなくてはならない。 註 |
∥ 国語教育・文学教育論議の現在 目次 ∥ 《資料》「学習指導要領」批判の軌跡 ∥ 紅野謙介『国語教育の危機』より ∥ □ |
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