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編集部 今日はお忙しいところ浜田山くんだり(――杉並区立浜田山会館)まで足を運んでいただいてありがとうございます(笑い)。『文学と教育』もいよいよ百号ということで、特別企画をということで。まあ、本誌中心にということもあったわけですが、なんといっても、熊谷さんの文学教育理論を抜きにしては、本誌のみならず、文学教育研究者集団の成長はありえなかったと思われるわけですね。そこで今日は百号という一つの節をよい機会に、今までなかなか先生にお聞きできなかったところ、いわば、95号から連載し始めた「文教研理論形成史」の前段階とでも言うか、そういったところでの、熊谷孝先生個人の、文学教育運動への道、そのプロセスでしょうか、そのへんのところをお聞きしたいと思うわけです。特に、戦前の鑑賞主義論争とか、ですね。最近の傾向をみますと、どうもそのへんがネグレクトされている。そうした意味でも、ぜひ、お聞きしておきたいわけです。そんなわけで、今日は座談会ということではなく、変則インタビューですね。編集部だけでは心もとない(笑い)ということで、複数の聞き手に来ていただいています。文教研委員長の福田隆義さん、事務局長の荒川有史さん、会員の芦辺寿江さん、葛西朱実さん。そうそうたるメンバーです(笑い)。ではさっそく始めていただきましょうか。
■ 教師稼業を離れて
熊谷 編集部も相当なものですね。こちらを語部(かたりべ)扱いするんですから(笑い)。ぼくは、さしづめ、ヒエダノアレというところ。編集部さんは、オオノヤスマロですか。ただし、この語部は物覚えが悪くてね、何をお尋ねになっても、「どうも記憶にございません。」というようなことばかり言って終わり、というようなことになりかねませんよ。(笑い)……
福田 どうも、「(笑い)」だけのインタビューなんて聞いたことがないです(笑い)。いいですか、私が一番手で……。こんなこと言うと失礼なんですが、先生はどちらかというと文学畑、研究畑で教育畑の人ではないわけですよね。戦前の岩波書店でのお仕事や、戦後の三一書房のお仕事あたりから、文学教育のほうへ出てこられたわけだけれど、どういうきっかけでそうなられたのか、編集部の意図にも沿うわけで、僕としてはそのあたりを聞きたいわけですね。
熊谷 福田さんとは二十年近いおつきあいですから、折に触れて断片的にですけれど、いろんなことをお話ししましたね。岩波にいたころの思い出や何や……。でも、岩波での経験というのは直接僕の文学教育への出発とは関係ありません。全然無いと言ったら嘘になるでしょうが……。
福田 ともかく、その辺の時期のことからお話しください。
熊谷 ああいうの、ウルトラ・ナショナリズムと言っていいんでしょうが、国粋主義の団体で国本社と言うのがありましてね、日中戦争の末期、そこの親分格の竹内何とかいう人物が法政大学の学務担当の理事として乗り込んで来まして、採算が取れない上に赤字の温床である文学部なんかブッ潰せというわけで、文字通りファッショ的な、目茶目茶なことをやりました。その時は、心理学研究室の助手をしていた乾孝さんと、斎田隆さんという社会学の助手、国文学研究室の熊谷助手、僕ですね、三人でこの竹内理事のところに、かけあいに行った。そうしたら、文学なんて趣味としてやってりゃいいんで、あれ、学問じゃない、というんです。それから、オレは心理学なんかにはかからないから、乾君、きみが何を言ったって無駄だよ、と言うんですよ。心理学を催眠術と同じに考えているんですね(笑い)。……それから何年かして、太平洋戦争勃発の年に、この心理学にかからない男を学長に推せんするという策謀があって、意見を聞きたいと言うから、反対だと答えたら、十日後に首になりました。乾孝は兵隊に行っていたんで、休職のまま首がつながった、ということなんでしょう。そういうわけで、教師稼業を離れまして日本出版文化協会へ就職することになりました。
もっとも、それまでにも教職プロパアな仕事をした期間は半年そこいらしかないのでして、研究室時代もその後も、たとえば、「文芸復興」(注1)という雑誌、近藤忠義先生を中心にした、国文学界における抵抗運動の一つの拠点になった文学・文化誌ですが、それの編集実務の面を担当しました。それとどちらが先だったか、岩波の嘱託になって二年ぐらい編集部で働いた。で、今でもそう考えるんだけど、教師であること以外に教職外の仕事に携わることが出来てよかった、と思うんです。福田さんのご指示に従って岩波での日やとい仕事の場合について申しますと、当時のあそこの編集者の人たち、ほとんど皆、それぞれ専門を持っていて、すぐれたスペシャリストなんですよ。大学中退、旧制高校中退という人が多いんだが、家庭の特殊事情で学校をやめたとか、学生運動にとびこんで卒業できなかったという人たちで、頭脳は明晰だし、行動力はあるし、そんじょそこらの学者どもには負けないぞという気力を持ってる……。そういう人たちの中に、大学卒一年そこそこの僕が、ぼーっとした調子で入っていったわけです。
毎日がもう恥のかき通し。たとえば、ある項目について解説を書かされる、二ページ分なり三ページ分なり……。その書いたもの先輩の編集者七・八人の間で回覧され、朱筆を入れられる。翌日手もとに戻されて来たものを見ると、自分の文章が姿を消してしまってるんですよ、全然。……てやんでえ、というんで朱の部分を読んでみると、なるほど訂正されるのがもっともというか当然なのですね。なるほどオレの文章はひでえや、これじゃあ使いものにならないやね、と自分の文章の独りよがりなことに気づかされたわけです。二年間、恥のかき通しでしたけど、でも、すごく勉強になりました。
いやね、勉強になった、なぞというのは、まだまだ甘かったのでして、あれが二流出版社だったら二カ月三カ月で首だったでしょうね。使いものにならん人間を飼っておくほどの資本の余裕はないわけですから。資本主義というのは、きびしいでしょう。テレビ・タレントを例にとると、放送局から声がかかる。風邪っぴきだからというんで断わるとしますね。もう二度と使ってくれませんね。「干(ほ)される」と言うんだそうですね、こういうの。……そこで這ってでもスタジオへ行く。そういうことを繰り返しているうちに、だんだんオシャカになって行くんだけれども(笑い)、そこをくぐり抜けないと、この世界には生き残れない。岩波の場合は、あの戦前の岩波の場合は、(岩波の人たちは、自分たちの職場のことを古風にミセと言っていたけど)ミセの信用と権威にかけて、高度の内容に加えていっさいの点で誤りのないものを出そう、という所でしょう。そこで逆に、五年先、七年先にすぐれた編集者に成長することを期待して、みっちり、しかし気長に新入りを鍛えて行ったのですね。それを鍛えられる側に回っていうと、居たたまれなくなるぐらいに毎日恥のかき通し、ということになるわけです。
その点、教師の世界は気楽ですね。職場で同僚同士、相手を先生、先生と呼んで相手を立てたり、ヘンにいたわり合ってね(笑い)。往年の岩波の編集室に見るような、相互批判のきびしさは学校には欠けていますね、多くの場合。他人(ひと)のことではなくて自分のことだけど、僕みたいな怠け者は、こういうぬるま湯に漬ってると、ますます駄目になるなと、そのころ思いました。また、こんなことを思い出しました。僕みたいな、ぬるい人間は、相互批判が可能なような人たち、集団の中で揉まれて生きないと自分が駄目になってしまうということ、集団の力の偉大さということを身にしみて感じました。それが戦後、文学教育運動へ入り込む、どこか、意識のどこかにあったのかもしれませんね。
■ 〈準体験〉という言葉の誕生
芦部 私たち教師にとっては、だいぶ耳の痛いお話しでもあったわけですけれど、もう少し、岩波でのお仕事の中身ですが、お話しいただければ、今後の私たちの研究姿勢をかえていく上でも役に立つと思うのですけれど……。
熊谷 ええと、ひとつには、あそこで『国語』という旧制中学校の教科書の仕事をしてました。西尾実先生の編集によるものですね。その仕事に携わっていたのは、あとで大変お世話になった大久保正太郎さん、「子どもの広場」の編集をやった大久保正太郎さんなんですが……。中学校(旧制)から師範学校の二部へ入って一時教師をやった人で、教師家業は嫌いだけど教育熱心(笑い)という得難い人でして、教師用指導書編集の主任をやっておられたわけです。この、大久保さんが西尾先生の愛弟子でして、僕のほうは直接師弟関係はないのだが、研究室の助手をしていた時分に先生が講師で法政にみえられて、「きみの勤務は何日かね」「三日でございます」「じゃあ、二日ぐらい手伝って貰えるね」とおっしゃって下さって、大久保さんの下で働くことになったわけです。
本当は、現物ご覧いただければ一番なんだけれど、ああいう格調の高い教師用指導書、今あったらなあ、と思います。それを持って行くと教室にすぐ間に合うというようなものではなくて、もっと自分で深く掘り下げて調べたくなる、という意欲を起こさせるものなのです。もっとも、それは教師によりけり、相手次第ということでしょうがね。
ただし、そこに一貫しているものは、〈主題・構想・叙述〉というあの西尾理論なのですね。これ、僕は初めから疑問でして、食うために目をつぶってやってはいましたけれど(笑い)、戦後の三一書房の仕事で、『文学教育の理論と実践』の仕事で、遂にその矛盾を指摘することになってしまった。先生個人に対してはすまないな、と思いながら………。というのは、「国語教育は国防教育である」という、恥しらずな意見を先生はお出しになった。妥協するにも程があるとは思いましたが、でもご時世がご時世だしと、そのこと自体にはあまり驚かなかったけれども、その国語教育構造論が依然として〈主題・構想・叙述〉と変わっていないのには唖然としました。原理が変わっても方法論は変わらない、というのは、どういうことなんだろうと思いました。先生の国語教育観に、その時は失望しました。
葛西 お話が、戦後の三一書房のお仕事にまでからんできたようですね。三一でのお仕事、熊谷先生と文学教育運動ということでは、決して欠くことのできないものだ、ぜひお話をと思うのですが、その前に、先生の戦前の理論活動、そのへん、もっと話していただけませんか。先生の理論のキイ・コンセプトである〈準体験〉(注2)ということ、一九三六、七年頃にはじめて出されたとお聞きしていますが……。
熊谷 〈準体験〉というのは僕のことばではないんですよ。口にしたのは城戸幡太郎さんなんです。あとなんですよ、僕は。記憶を辿ってみましても、城戸先生がどのへんでおっしゃったか、さだかではないのですが。つまり、あの方は一般講義がお嫌いな方で、研究室で――隣が実験室、心理学の、そこへ僕らみたいなのがいつも入りびたって、というのは、心理学をやっていた学生乾との関係なんでしてね。そして、かわいがっていただいたというと叱られるのかもしれないけど、なんかその講義とも言えない講義ですねえ、そのへんのところで聞いたような気がするんですよ。自費で素晴らしいソファを一つ持ちこんで、ほかの人にはすわらせない。先生がいないと、われわれがその上であぐらをかいてる(笑い)、そういう気分の部屋でね。
「体験ではないね。追体験でなどもうとうない。なんだろうなあ、とにかく、こう、体験に準ずるもんだ、きみ……。」というような話を、いつかの折、口にされたのではなかったかと思います。それを少しつづめると〈準体験〉になるでしょう。これ、つかっちめえてなことになったわけです、たしか。とにかく、城戸先生、〈準体験〉という言葉でおっしゃったんじゃないと思うんですがね。それ以前に、そんな言葉、とにかくなかったですね。ところで、僕がつかい出したの、何でつかい出したのかな……。
荒川 「『文芸学への一つの反省』補遺」(注3)という論文でではなかったでしょうか。
熊谷 だから、むしろ乾(孝)さんの用語ですよ、それは。
■ 〈追体験〉の否定
荒川 ええ、その後、乾先生のほうは余り口にされなくなって、先生が、戦後の著作の中で一作ごとに準体験概念を認め、深めてきておられるわけです。
熊谷 当時にさかのぼって言うと……、記憶をたどってるところなんですがね……、今、漫談的に城戸先生からという話をしたんだけれど、言い出しっぺが誰だということより、客観状況の中に位置づけていうと、一九三〇年代の半ばあたりから、いやもっと前から文化ファシズムの抬頭ということがあって、リベラリストの主観的にはファシズムからの文化防衛、客観的には文化ファシズムへの傾斜という、二律背反みたいな現象が見られるようになったわけです。「われわれは美の聖地を守る十字軍だ」なんてことを言い出す人まで出て来て、この十字軍、ファッショと闘うかと思ったら、そうじゃなくて、美の聖地だか芸術の花園を荒す唯物論者との対決が使命だというふうな宣言になって、追体験的な、あるいは追体験主義的な鑑賞論をいっせいにブチまくり出したという、いきさつがあります。僕たちは、そういう鑑賞論を、鑑賞主義と呼んで、真向から批判したわけです。まっとうな鑑賞は、場面規定を押えた準体験においてのみ成り立つ、というふうに。
不勉強なものだから、要するに本を読むのがめんどうくさいものだから、自分たちで追体験の対立概念を作ろうということでの準体験概念の提出ですね。だから、『芸術とことば』でしたか、波多野完治さんが推薦文を書いて下さってね、今まで自己主張の強かった熊谷が珍しくここに客観的なパブロフ理論とを合一させたところがいい……と。とにかく、本を読むのがめんどうくさいんですよね、僕。……『論語』かなんかにあるじゃないですか、「学而不思則罔。思而不学則殆」。でも、あれ、ほんとですね。本ばっかりただ読んでたってよくないし、逆にまた……ということなのですね。
荒川 〈追体験〉という言葉は、たんに便利な言葉として誰しもが使える言葉ではないと思うんです。それこそ、ナチズムの支柱になる生哲学ですが、それがまた、まわりまわって日本の天皇制ファシズムの、こう、基本的な概念というか、そうした範疇(はんちゅう)組織のものだと思うんですね。それで一つ疑問だったのは、進歩的な歴史学者と称している人たち、あるいは世間からそう見られている人たちが、現在も含めてですが、平気で追体験概念を使っているということですね。
熊谷 不勉強ですね。
荒川 哲学ということでは、そのへん、進歩的と自称、他称する人たちは、哲学史を媒介せずに、歴史を書いているということになるんでしょうか。
熊谷 だとおもいますけど……。断言していいと思います。そのことよりなにより、哲学史がないということですね、根本的には。「哲学史」がたんなる知識の歴史――知識の体系の歴史になってしまってる。主体性がないんですね。
■ 鑑賞主義論争――鑑賞主義 の批判
編集部 〈鑑賞主義批判〉という言葉も出ましたこのへんで、鑑賞主義論争(後掲、資料・2「主要文献」参照)について詳しくお話しいただけたらと思います。こちらは正真正銘の不勉強なもんですから(笑い)、十分に当りきれていませんけれど、二、三、当って みたところでは、殆ど、鑑賞主義論争の名は出てきていないようですね。岡崎義恵氏の『日本文芸学』(一九三五・一二)刊行前後から戦後になってからも続いた論争と伺っているわけですが……。
さきほどからの、準体験概念の誕生のプロセスなどをお聞きしていますと、多くの日本近代文学の論争史を扱った本のように、たんなる「日本文芸学」論争にとどまらない、〈鑑賞〉概念を軸とした、文芸認識論上の問題、論争として浮かび上ってきますし、また、なんらかの形にせよ、その部面にふれた書物にしても、川端康成さんら文壇からの支持もあったそうですが、その岡崎さんの心理主義美学と鑑賞主義に対する歴史社会学派の鑑賞排撃の主張、というふうに整理されていくわけですけれども、それともちがう論争だったんじゃないか――と、今、あらためて驚いているようなわけです。論争に関する最高の文献は、やはり、先生の三一書房でのお仕事、『日本児童文学大系(6)
文学教育の理論と実践』(一九五五・一〇)の「鑑賞主義論争と文学教育」の章に、資料の収集・掲載という点からいっても、それにつきると思われますが、なんといってもナマの迫力にはかないませんから(笑い)……。
荒川 ぜひ、お伺いしたいですね。それから、たしか、「潜行的マルクス主義者」というレッテル、その時に、先生、貼られたのでしたね。
熊谷 ええと、「潜行的マルクス主義者」ってのは、岡崎義恵教授のセリフでしたかしら……。あれは、僕、正当に自己評価してるんだけれど、本当は、近藤忠義先生を叩きたかったわけでしょう。本当は僕みたいなのは問題じゃなかったのでしょう。
で、近藤先生はなにしろ芸者屋で、つまり、置き屋で 卒論を書かれたって伝説の持ち主の方ですよね。すぐ、漫談に入っちゃうんだけど(笑い)、おしゃくかなんかを焼芋屋にやらせて、先生呑めないんですよね、で、焼芋を囓りながら、三味線ひきひき、卒論を書いてた。これ、関係ないんですがね(笑い)。先生ご自身も、なんかそれに近いことおっしゃってた。そういうわけで、なにがそういうわけか知らないけれど(笑い)、卒論は歌舞伎に関する画期的なものだったそうです。五百枚だ、千枚だというのが自慢の卒論時代に、東大国文科始まって以来の短い、たった七十枚の卒論でしたけど、「でっかけりゃいいてもんじゃない」なんて僕にもいってらしたけど、藤村作教授がひじょうに感動されて、「歌舞伎研究」へ推薦なさったんだそうです。置屋と、三味線と、おしゃくと、焼芋と、卒論……どうもチグハグな取り合わせだけれど(笑い)……この時期の先生の、やや耽美主義的な傾向を示すエピソードですね。
きっと先生の卒論にも、江戸趣味というか、幾分の唯美主義的な傾向が、内容のどこかにあったんじゃないか、という気がします。そういう傾向というか要素が、唯美主義である東北大学の教授、岡崎義恵氏の共感を誘ったらしい。これこそ日本美論のすぐれた一環であるというので、わざわざ、かけ出しの、今の新宿高校、あの頃は府立六中ですか、そこの教師をしておられた近藤先生のところへ手紙を出して文通がはじまるわけです。
その後、近藤先生は、今の芸大、東京音楽学校の講師になられる。が、そこを赤だというんで首になったわけですね。で、法政にいらしたんだけれど。そのへんから、なんだ、あいつ赤かということが岡崎さんの眼底に焼きついていったところへもって、近藤先生、旧国文学批判的なことをどんどん始められたわけです。で、その批判の目立ったものが、鑑賞主義論争という名前でよばれているものだけれど、鑑賞主義はいけないってことを言ってるんで、鑑賞を否定したわけではなかったんですがね。結局は、それをやられたわけですよ。
で、そのお先棒をかついだのが僕らですね。単にお先棒をかついだだけってんで、抹殺されてるのでしょう。いろいろ、わけありなんでしょうがね。およそ、人呼んで〈歴史社会学派〉、さきほども言いましたけど、鑑賞を否定しているんじゃない。鑑賞を否定して文学が成り立つものですか。そうなんだけれど、鑑賞主義の「主義」のつくやつはいかん。というのは、自己の鑑賞にベッタリになって、そういう意味での鑑賞眼の高まった評価が正しい評価だ式の、ただ、いいものはいいというふうな自己を標準にしたそうした式のものへ批判をぶつけたわけですね。そうした中で、たまたまというのかしら、岡崎義恵さんが岩波から『日本文芸学』という大著をお出しになったんですね。ですから、鑑賞主義論争というのは、その二、三年前から始まっていたと考えてもいいんじゃないでしょうかしら……。
で、岡崎さん、こうなったわけです。角を出したんですよ。近藤先生のところにはいかないで、将を射んとすれば馬を射よ、ではなくて、熊を射よですか(笑い)、でありまして、こっちへ攻撃がまわってきたわけですよね。日本は、今、非常事態にある時代であるにかかわらず、「マルクス主義の亜流」のみならず「潜行的マルクス主義者」が国文学界にはびこっている……。あれは何でしたっけね……。
荒川 『岩波講座・国語教育』(一九三七・九)の中の「古典及び古典教育について」の中でですね。持って来てますので、読んでみましょうか。「『文芸史における古典の評価は、その作品を問題とすることの現代的意義の評価にはじまり、それの歴史的意義の評価におわる、唯その一つの規準を規準としておこなわるべきものなのである。』(『文学』五ノ四、熊谷孝氏『古典評価の規準の問題』)という如き言葉を」云々ときて、「かかる立場に立つ潜行的マルクス主義者が、国文学界に活躍し、教育界に巣食うという事は、いかように考えてよいものであろうか。」そして最後にこう書いてますね。「教育行政の機関はよろしくかかる不適当なる、或いはむしろ有害なる教育者を芟除(さんじょ)すべきである。」
熊谷 てなことをお書きになったわけです。そういうふうないきさつですね。で、僕としては、あのおかげでついに東京脱出を考えて、あるところに内定していた口があったものですから。ところが、それも取消されました。その辺がケチのつきはじめ……。
編集部 先生、話はちょっと飛ぶかもしれませんが、最近、「文学は果たして学問的に研究しうるか」というセンセイショナルな広告タイトルで、高橋義孝さんの著作集が出されていますね。文学を学問研究の対象として認めている私たちにすれば、きわめてショッキングなことだと思うんです。その高橋さんなんですが、たしか、「広義の享受体験は一箇の自己充足的・自律的体験であって、あとから論理や概念などによって説明せられる必要もなければ、それを欲しもしない。」(『文学研究の諸問題』、一九五八)とおしゃってますね。粗っぽい言い方をしますと「享受」も鑑賞の一つの形態だと思うものですから……。鑑賞主義論争には、高橋さん、加わらなかったのですか。
熊谷 あの頃あの人はたしか東京高等学校のドイツ語の教授で、そういうことで知ってただけで、業績については知りません。あの人個人に対しては、です。ただ、今のお話に関連するのは、われわれが掲げた鑑賞主義批判というのは、つまり、あえて言うならば、言葉面(づら)の上で言えば、その広告タイトル的なものから感じられるもの、つまり、そうなんです。「鑑賞が一切だ」って。そうしたような考え方への批判だったんです。ただ、高橋義孝さんほどの精緻な論理の組み立てのものではなかったですがね。ただそのへんは意識的・無意識的にレーベンスフィロゾフィー(生哲学)に通じる考え方の人たちが主流でしたね。追体験的な鑑賞によって、「心頭滅却すれば」式に作品の神髄に悟入するみたいな、つまり、学問否定論になるわけですよね。だから、厳密な科学としての国文学というのは文献学しかない、というところに行ってしまうわけです。自然科学的方法で処理できるはずだ、だから、「あはれ」という言葉がいくつ使われているとか、清少納言さんは「あはれ」をあまり使わず「をかし」をこれだけ使ってるとか、パーセントにするとどうなるとか……。ただそういうなにか、文献学主義とでも言うべきものと、それからその鑑賞主義とは、まさに、同じものになってくるんですね。まったく表裏一体の関係の、ですね。
■ 国粋主義的民族論の否定
荒川 熊谷理論形成史の中で、戦前の持つ比重がだいぶ明らかになってきたわけですけれども、『芸術とことば』でもふれられていますが、準体験概念の提唱は、同時に、「生の自己同一」という考えにもとづく追体験概念の否定であり、また、それの逸脱したというのでしょうか、「民族的生の自己同一」の論理への批判でもあったわけですね。そこにまた、先生の「民族」概念の形成史のひとつのプロセスを見るように思うのですが……。
たとえば、「民族とことば・民族のことば――奥田靖雄氏の所論にふれて――」(「国語教育」一九六五・一二)で、先生が展開された、民族の中核は生産の担い手である民衆だ、という規定ですね。そういう整理に行きつかれたプロセス、もう少しお話しいただけませんか。
熊谷 あの頃の国語の教科書を支配していたものはだんだん国粋主義になってくるんですね。国粋主義と矛盾しないような文学作品をとりあげる。それから、言語の説明のしかたにしても、国粋主義的民族論の発想なわけですね。日本語が世界で一番美しい、美しい言葉だ式なんですね。で、僕の民族論というのは、その辺の国粋主義的な民族観・国語観の否定がスタート・ラインになるわけです。民族の主体性は考えなくてはいけないが、というのはナショナルな主体を抜きにして国際的ということも言えないわけなので……民族国家相互の平等な横の関係をネグレクトした国際主義というようなものがあるとすれば、これは植民地主義か何かの別名にすぎないだろうから……だが、国粋主義というのは独善的な民族エゴイズムですからね。わが子が可愛い、というのは当然のことだが、だからといってわが子が常に、何でもよその子より出来がいいと考えるのは、これはおかしい、とそんなふうに国粋主義の民族観・民族論のことを考えていましたね、当時。
編集部 当時の国語教科書取材の文学作品がおかしい、というお話のようでしたが……
熊谷 その点については、いつかこの機関誌で(後注/「文学と教育」97号所掲「自主編成の条件と条件づくりについて」)触れましたので、ここでの話題からは、はずさせて貰いますが、ひとつ告白したいことがあるんです。それは、なんで、こんなに文学作品をふんだんに教科書に盛り込むのだ、という不満です。文学だけが言語・国語じゃないんだから、国語教科書は〈国語〉の教科書なのだから、もっと文学以外に取材すべきじゃないのか。正直言って、そういう実感をかなりの期間、持ち続けました。ですからね、僕には、今の教科研なんかのああいう考え方や何や、体験的にわからないことはないのですよ。十分、準体験できるのですよ。(笑い)……戦中・戦後の疎開教師として僕が熱を入れて教えたのは西洋史・日本史で、国語は担当教科だからやっていたというふうなところがあるのです。自己批判として言っているのですから誤解のありませんように。
国語の教科書はもっと言葉の教科書にならなければいけない、という考え方はどこから来ているかというと、高倉テルですね。日本だけじゃないか、自分の国の文法を教えない国はと、次には『最後の授業』を思い出すんですね。感動しました。フランスの文法とアメル先生。そんなこんなで、僕は戦中の教師としてはどちらかと言えば文法のことばかり教えていたんですね。
■ 脱スターリンの民族論へ
熊谷 ところでなんでしょう、あれ? 戦後の話にもっていけばですね。存外、僕にとって考えるきっかけになったのは、石母田正さんの……。
荒川 『歴史と民族の発見』ですか。
熊谷 正・続とありましたね。石母田さんの考え方、ほかのものに比べてはるかに水準が違うんだけれど、なにか不満でしてね。あとは自分で考えているうちに、今ここにおられる荒川さんでしょうね。いろんな資料を僕のところへもちこんで勉強させる。ときには一冊位くれるんですよね。本の買えない僕を哀れんでね。これ読んで勉強しろってね。そういういきさつで、たとえば、デューイの『経験としての芸術』なんか、誕生日なんかにくださるんです。読めってことなんです。かならず、そのうち研究会でやりましょうって。何のことない、読まされたんです(笑い)。
そういうふうなプロセスの中で、〈民族〉ということを考えました、考えざるをえなかったことと、それから〈民族文学〉ということですね。なによりも、戦中の国粋主義的民族文学論の否定が、今度は、民族の否定につながってはまずい、ということですかね。これはまた戦前にもどるんだけれど、民族と階級という問題ね、なんか一貫した僕のテーマだったわけです。つまり、プロ文学はというと、あそこには民族論がない。階級論があるだけです。民族って言うことがもう反動的みたいな印象になるんですよね。そんなはずはない、ということ。それから、ある段階では、民族と人種とを混同していた時期が僕にはある。しかし、これはまあ戦中に克服できましたけどね。ヒントは、実はアメリカだったんです。多民族国家なんで、そして多人種国家なんですよね、アメリカという国家社会は。
やはり、石母田さんと荒川さんでしょうねえ、僕にそういうことを考えさせたのは……。そして文学教育運動へ参加したことがよくしたか悪くしたかは別として、定着させましたね。
民族の子を育てる。これは日教組のスローガン、ね。わが民族の次の世代を戦場におくらないこと。そうでしたね。では、民族というのは階級とどうかかわるのか? これ一種の二元論なんです。「一種の」ではなくて、二元論なんですけど、ある段階でこんなふうに考えたんですね。階級というのは普遍人類的な問題ですね。地球のどこでも、たとえば中東民族にも、ブルジョアがい、プロレタリアートがいる。日本民族にもそれがある。しかし、日本民族は日本民族であって、中東民族ではない。たんに血の問題であろうか? それは人種である。では、民族とは何であるか? 荒川さんにいろいろ言われたこと、それから、最初は石母田さんの本で引用してあったのかしら、かのスターリン研究論文とか……。あれもなんかそのまま頂戴するにはあまりに高邁で僕にはわからない。そこで、僕流の翻訳で受けとめて、そして、脱スターリンをして……。まあ、そんなこんなで、僕なりの民族概念を出してみたわけですけどね。なんての、未整理のままなんですけど、答えになりませんかね。
■ 戸坂潤との出会い――認識論の世界へ
熊谷 今日は私的なインタビューと言うことですから、もう、どんどん聞いて下さい。編集部が気がきかんもんで、僕が司会まであいつとめなければならない(笑い)。
葛西 ちょっとオカタイお話が続いたので(笑い)……。先生、『芸術とことば』の「あとがき」で、「故戸坂潤先生が認識論の面で開拓された仕事を、文学理論ないし芸術理論の基礎的な側面において受けつぐこと」だとお書きになってますね。先生と戸坂先生の出会い、ぜひ、いつかはお話ししていただきたいと思っていたのですけれど……。
熊谷 そうですねえ、親しくおそわったかというと実際は違うんですけれどね。あの頃の法政大学文学部というのはパージの集まり(笑い)。そういう中でもまれてると僕みたいなのができてくる(笑い)。とにかく、そういう時代でしたがね。哲学科に戸坂先生が講師で入っていらしたわけです。僕はその頃国文科の学生だったけれど、ちょっと、哲学に興味がありましてね、いわば、モグリです。たしか、二百人位の教室で……。出席をおとりになるわけではなし、けっこう哲学科の学生もサボってましたし、それでも二十人位はいたかなァ……、とにかく、モグリよかったんですね(笑い)。
行ってみると、あの頃はベルだったけれど、鳴るともう先生は教室にいらしていたんですね。恥しい思いをしましてね……。それで、二回目からはベルの十分前にこっちは行くことにして先生をお待ちしたんですけれど……。で、その講義は三木清さんとは対照的なんですね。三木さんのは、メモももたなければ何ももたないで、目をつぶってお話しになって、「こういうこと話しても、君たちにわかるかな」って調子で……、チキショウてなもんですよね(笑い)。戸坂さんのは、もう、小さな細長いメモを持ってらして、で、こまかい字でいっぱいに書いてらしてね、それを丹念にめくりながら、丹念にそれを追いながら、お話しになるわけです。それが岩波の「思想」だとか、いろんな哲学関係の雑誌に発表されたものではなくて、発表以前のものなんです。あとで何カ月かして、雑誌で見るわけですよね。もう、たいへん感動しましてね。
とにかく、先生が好きで……、名前呼ばれるわけではなし、名前もむこうでご存知ではない、ただ、こっちはもぐれる時間だけはもぐっていた。うらがえしに言えば、それだけ国文科の講義にはあまり出なかった。で、単位がたりなくて卒業しそこないそうになった(笑い)……と、そういうことですかね。で、先生のお仕事、受けつぐことができたら、という思いになったわけです。
■ 文学教育の歴史への着手
編集部 どうも気のきかない編集部で……、たいへん楽をさせていただいています(笑い)。ところで、そろそろ戦中から戦後へと……。先生の三一書房でのお仕事あたりからどうですか。
熊谷 さきほどもふれられてましたけど、三一書房から出た『日本児童文学大系』、これ全六巻ですけどね、その第六巻の『文学教育の理論と実践』、あれ、僕の責任編集の巻だったわけです。今考えてみると、実質的に僕の失業時代なんです。つまり、東京での生活の設計ができていないのに帰ってきた、好むと好まざるにかかわらずにね。僕にはほかに能がないから、書くよりほかに生活かけていく手段がない。そんな時に、よき先輩が何人かおりまして、いい意味で僕に押しつけたのが、資料編纂の仕事ですね。日本の文学教育の歴史。その文献を集める。解説する。集めりゃ山ほどあるんだけれど、それをどういう価値観で切っていくのか、拾いあげていくのか……。で、この仕事、今の僕にやれといっても、できないなァて感じするんです。やっぱり、経済生活のきびしさと、これ以外食う手だてがないということで本当にくだらない原稿を書きまくっていたんだけれど、これはやりがいのある、やる気を起こさせる仕事でした。しんから打ちこめましたね。その頃ちょうど荒川さんが法政大学の文学部の学生で、献身的に応援してくれたし……。その巻末付録の文学教育年表といったものは、実は、荒川君が中心になって作ってくれたものですよね。
それから、わが委員長、福田さんによく言われるんですが、熊谷は仕事を請負ってから勉強をはじめる云々、これは本当のことです。文学教育のなんたるかも僕は知らなかった。それで引き受けたってのは食うためになんですけれども、やらざるを得ないし、やってみせる、そういった気持はあったわけですよ。だから、ほんとにイロハからはじまったわけですよ。粗雑な仕事でしたけれども、今やったらもっともっと粗雑なものしかできないっていうかしら、僕としてはあれで精一杯な仕事だと思うんですね。これはもう僕にとっての、文学教育への第二段階か第三段階かの仕事なんだけれども、この仕事をすることで、文学教育の何たるかが多少論理的にも見えてきた、というもうけもありましたね。
芦部 当時、三一書房というのはどんな感じのところだったんですか。
熊谷 三一は、当時、赤い出版社って言われてましたね。どこまで赤いのか、その逆なのか知らないけれども……。神田神保町のちっちゃなとこでしがなくやってて……、本社は京都なんです。
そんなわけで、あれは僕、校正に京都までもっていかれたわけです。これ、余談なんですがね、京都にもあんな安い宿があるということ、僕知りましたね。むこう持ちなんだけど、民宿よりまだ悪い(笑い)。そこのおばさんが、先生、今後とも京都に来たときはうちに泊ってくれというようなことを京都弁で言いながら、実にマズいものを食わせるんだ(笑い)。昼は三一で食べるんだけれど、三一がまた必死の態勢だったんですね、社長というのが全員の中のたった一人の男性でありまして、あとは女性、というよりは女の子といった方がふさわしいような編集員だの、営業員だのがいて、お昼はみんなで、土間でもって、でっかい鍋で煮たきするんですよね。そこへわれわれが行って、鍋を囲んで食べるんです。湯葉ですか、あのおいしさ、あそこでしみじみ味わったのですけれども……。そういう待遇を受けながら、四日ぐらい泊りこんだですがね。むこうも、社長が「すまない、すまない」と言いながら……。で、最後に、清水の舞台から飛びおりるような気持であったろうと思うんですよ、あの社長にしては。ご馳走してくれたんですけど、苦しかったんでしょうね、四条通りだったですかね、それがなんとこんな肉の薄いビフテキだった(笑い)。まあ、そんなところだったんですよ。
■ ラーメンとふとん部屋と……
熊谷 三一も厳しい状況の中で、いいものを出そうって腹だったんですよね。われわれ責任編集者グループの、菅忠道とか、大久保正太郎とかですね、その集まりたるや、やっぱり、すごかったですね。神田の神保町の汚い、下が土間になっている、敗戦色濃い建物(笑い)の二階の、畳のすり切れた、もう表替えの済んだ畳ですね、もうこれがすり切れたら代えるよりしようがない、が、かえられない、そんな迫力のあった畳にみんなであぐらをかいて、ねそべったりしながら討論をかわす、それででる食事はっていうと、ラーメン(笑い)……、たいてい、出版社の責任編集者の会なんていうと、料亭でやるでしょ、それもおおいに経験しましたけれども、あの三一のは忘れられませんね。大月書店の『講座
日本語』のときもまた同類ですね。やっぱり、双方必死だったんでわりといいものができあがったんではないんですかね。
ただ、当時は、原稿料というのはこわいんで、原稿は書いたけれども、払うか払わないか、はなはだ疑問な時代でしたね。たぶん、僕の書いた枚数はばくだいなものだけど、そのうち手元に入ってきた原稿料は十分の一とはないでしょうね。西尾先生なんかは僕にむかって言いましたよね。「熊谷君、気をつけなさい。あんた田舎ッペになってるからね。出版社ってのは、今、信用できない。だから僕は、原稿を渡す前に金を受取る。」あの頃、西尾さんは国立国語研究所長でしたかね。こっちみたいな下っぱはそうはいかないですよね。金をもってこい、それから原稿を渡す(笑い)。なにを言ってるか、ということになっちゃいますよ。
あれはいつだったかな? ある年の大晦日に、これ、なんのことはない、くだらないものを書いて、単行本なんだけれども、それ一緒に書いた人と二人ですわりこみをやったんです。半分でいいから払えって。ビタ一文払ってないんですよ。その本の編集を担当したのは法政の後輩でしてね、彼はすっかり社と僕ら執筆者との板ばさみになってしまって……。で、むこうの女主人にむかって、「払ってくれなければ、僕はやめます」と言ったら、「「ああ、やめなさい」(笑い)。「やめるってったらやめる。」「先生、すまねえ、これで許してくだせえ」って言いながら雪の中すっ飛んできて……、あれ、戻ったのかもしれない(笑い)。そんな場面があって、すわりこみ効をそうせず……(笑い)。
まあ、そういう状況の中での、三一や大月の仕事でした。なんかこうあの頃の業績だとか言って、それこそ料亭で編集会議をもってとか、そうした錯覚が多くの人にあるでしょうね。ご存知ないだろうけれど、薄汚れた宿屋とは名ばかりのふとん部屋、ちょうどあんな具合でしてね、二階に上るとふとんの山、そのふとんにもたれながらやったんですよ。これがあの三一書房なのかと思ったですよね。それでまた、お金がもらえない(笑い)。荒川さんがなんども交渉してくれて、最後にはとうとうこっちで販売するからということで本をもってきたりとかね……。だから、乾が書いたか話したかしていたんだけれど、戦前の某活動家が戦後とらわれて留置場へぶちこまれる、そして彼は、ああ、朝メシに味噌汁があるってだけでも感動してると、中へ入ってる若い学生諸君は、こんなぬるいの食えるかあってあたためさせて食べてる、もう手も足も出なかったって話がありますよ。だから、なんか今の生活考えると、僕には古き活動家の部類の感覚が残ってるんですね、文句言う手ねえぞって感じさえするんですよ。で、これ、けっしていい感覚ではないんですよ。今のようでもまた低いのだけれど、ね、その割にやることやってんのかあって……。だから思うんだけれど、生活つづり方運動なんかやってきた人たちの苦しみ、本当に、たいへんなものなんですね。安月給の中で、身銭を切ってね……。
■ 次こそ文学教育の季節だ
福田 今の先生の出された〈生活つづり方運動〉で思い出したんですけれども、たしか、サークル文学と教育の会創立の頃だったと思います。もう生活つづり方は終ったんだというようなことを、先生、おっしゃられていましたね。
熊谷 そうでしたね。もちろん、生活つづり方運動の果した一定の役割を評価した上でのことですがね。あれは、文教連の創立大会の時だったかな……、当時、文教連とは言わなかったけれど、その時の講演で言いだしはじめたんじゃなかったですかね。たしか、「文学教育と生活つづり方」というタイトルで……。
つまり、あの頃の僕の発想は、生活つづり方の戦中に果した役割を今日はたすものは文学教育だ、もう生活つづり方では駄目なんで、もう使命は終えた、つまり、生活つづり方の精神を受けつぐものは文学教育だ、これから、われわれの大きな奪胎がはじまる、そしてそれを体系化する意味を持つゆえんがそこにあるというようなもので、そんなことをたしか話したわけですね。
福田 次は文学教育の季節に、というわけですよね。
熊谷 ええ、そういうことで……。つづり方の季節は一応終ったんですよね。
荒川 先生と福田さんとはサークル文学と教育の会の創立以来ですよね。全青教と広場(注4)とが一緒になって作られたわけですから。あの時はまだ広場とびわの実(注5)段階ですかね。
熊谷 かも知れませんね。福田さんとの関係で言えば全青教でですか、知りあったのは。
全青教。全国青年教師連絡協議会の略称ですね。文学好きな教師と、文学を教えていくという考えの教師が、この広い日本にはかなりいるわけですね。そうした教師が結成したのが、その全青教の中の文学部会という、だんじて文学教育部会ではない文学部会、むしろ、基本方針は、自分たちが文学わからずに文学を教えることはできっこない、あらためて文学を問いなおそうという、そうした方針のもとに、年に一度の七夕さまに集まるわけです。その時、なんか知らんけど、つまり、僕が教育に縁のない人間なんだからでしょうね。講師にこいと言われて行った。最初の会が東京だったものですから、それがご縁で今度は新美南吉のなんかで愛知へと、ぐるぐるまわるようになったわけです。
それから文教研成立へ、というのはご存知の通りなんだけど、その、文学教育と称するものをやってみて、こう、打ち込む気になってきたのは、これはもう正直言いますが、文学教育ってのは読者をつかめる、読者の生きた実体をつかめる、こりゃあもうけだって(笑い)。児童文学で言ったらズバリですよ。小学校の児童という読者を目の前にして、どこに感動し、どこに感動しないか、あるいは、どういう指導を加えることで本当の感動をおぼえるかとか、その逆になるとか、そういうこと、目の前に経験できるんですよね。僕自身は出来なくとも、そういう経験を持った文学教師が、そういうリポートをやってくれる、それにたずねて教えてもらうことができる。中学、高校、大学と考えても、みんな読者ですよね。つまり、僕は読者論の立場の文学論だったわけでしょう、始終かわらず。そういう要素がなければ、僕、文学教育運動へずうっと入っていかなかったでしょうね。
■〈文学教育〉という言葉を自分のものとして
福田 もうひとこと、僕、言わせてもらっていいですか。こう、鮮明になってきたのは、サークル文学と教育の会のことですね。あの創立宣言の中に、ひとつは、国語教育の中に文学教育を位置づけると同時に、明日の民族文化創造の基盤を作ると、はっきりうたったわけですね。先生が文学教育に入って来られたのは、読者がつかめるからだとお話しして下さったことで、そのことのもつ重み、今、ズシッとわかったような気がするわけです。『芸術の論理』で出された「創造の完結者としての読者」とういうテーゼにずうっとつながって来ていたんだなあと思うわけです。あの時点で、僕は、そうは考えていなかった。なんとはなしに、そういう原理面から入ってきたのではなしに、教えこむっていうのかな、違った発想でことばをつかんでいたということがありますね。
ところで、その頃、断片的には先生にうかがっていたのですが、「文学教育」ということばですね。菅忠道さん云々というお話がありましたね。今日は、断片ではなく(笑い)、全部お聞きしたいですね。
熊谷 それ、本当なんです。僕、「文学教育」という言葉を自分の語彙として持っていませんでした。
疎開して田舎にいたときに、『文学入門』を書きおえて本になったとたんに、東京へ戻らなければならない事情がおきてきましてね。古き仲間、大久保正太郎、その親友の菅忠道、その頃の日教組教研の講師ですね、で、彼らから、文学教育に少し足を踏み入れないかって、さそいがあったわけです。
これ、、「子供の広場」の職場にいた時。今のお茶の水の駅を明大側へ降りて、駿河台下の方へ出て、その右側に、うす汚れた建物が残ってます。二番目の右に入ると、角に、戦中は東亜研究所、例の近衛体制のブレーンの機関ですね、そのあとにあったんですよ、「子供の広場」。そこで、「子供の村」の編集長だった菅さんが、「少し熊谷君やらんかね。」「文学教育って、それ、なんです?」(笑い)「なんだ、お前が書いた『文学入門』、あれが文学教育なんだ。あれ、読者対象、誰だい?」「十代の人たちだ。」ですね。「あれが文学教育のひとつのあり方だ。」「ああ、それだったら、これからも大いにやるぞ」って。それが「文学教育」って言葉に僕が接した生まれてはじめてのことですね。
あれ、昭和二十、何年でしょう?
荒川 二十四年ですか。
熊谷 あるいはこえて二十五年かも知れませんね。
荒川 今、文教研の例会で、私たちの悩まされてる、井伏鱒二さんの『遙拝隊長』の出た頃ですね。
熊谷 ああ、そうねえ(笑い)。で、僕としては、真剣にあとで考えましてね、それからそのことを繰り返すようになった。やはり、言葉は力だ。言葉を持たないということは、概念は言葉でしか表わされませんからね。そういう言葉を所持しないということは、そういう概念を自覚的にはつかんでいないということになりますね。だから、「文学教育」という言葉が自分の言葉の中へ、語彙の中へ入ってきたことで、やはり、文学教育概念がそこに初歩的な形にせよ成り立ったんでしょうね。
それから少しして国土社から原稿の依頼がきた。「教育」という雑誌、いい意味での教科研の機関誌だったものですね。なんだか知らんけど、あれ、国土社が実権にぎってたんですよ。なんで僕のとこにきたんですかね、まあ、よく知りませんが、僕も食うに困ってたから、安い原稿料だったけど、確実にあそこ払いますからね、それでなんか、書いた文章も、文学教育ってことになっていったんですね。そのあとは、教育大の何かに、文学教育について書けなんて、まるで文学教育の玄人(くろうと) さんみたいな扱いをしだして……、ま、とにかくメシの種ならなんでもやりますなんて(笑い)……。
■ 文学教育の実際面を支えとして
熊谷 失業時代から、こりゃあひまですからね(笑い)、僕の目黒時代ですけれどね、あの地域の子どもたちを集めて本を読み聞かせるとか、地域への絵本の推薦だとか、なんとなし、自前でやり出していたわけですね。
一方、ある友人が紹介してくれまして、芝公園にある児童館の仕事をして……、というのは、この児童館発行の月刊機関誌に、毎号、二年間ぐらい、母親を読者対象とした、子供の本の紹介(後掲、「資料・3」)みたいなものを書いていたのですが、これは友人たちが僕の暮し向きのことを心配して、紹介してくれた仕事なのです。だけれども、僕にしてみますと、他にもっと別の意味がありました。こんないい本がありますよ、ということを紹介する以外に、親のほうでその本を読んで、子供の読書に親がどう手を貸すかということを考える、考えてみて欲しい。何かそういう気持を掻き立てるようなものを書いてみたい、ということがあったわけです。結果は、どうもうまく行きませんでしたけれど、自分の気持としては、そういうことがあったわけです。
そんな仕事がやっぱり文学教育の仕事の実際面でしたよね。そういうような経験をへて、学校教師とのつながり、学校文学教育とのつながりがはっきりしてきたのが、さっき話題にした全青教だったわけです。そして、なんだか知らんけど、そのへんのものを集めてちょっと書きかえたのが『文学教育』(国土社刊)という小著なわけ。
どうも、今日の僕の話は苦労話に終始してしまって、全然、本論にはふれずじまいと、……そういうことです(笑い)。
編集部 いえいえ、そんなことはございません。いわば、文教研前史ともいえる、実際は、熊谷先生の理論形成史なわけですけれども、裏話も含めまして、普段ではなかなかうかがえない、貴重な、興味あるお話だったと思います。もっと時間があれば、というところですが……。本日はみなさん本当にありがとうございました。とりわけ、先生には、長時間、本当にありがとうございます。(一九七七年二月一三日収録。文責/編集部・佐藤)
熊谷 孝(くまがい・たかし)氏略歴
一九一二年、東京に生まれる。一九三五年、法政大学国文学科卒。一九三七年、同大学院修了。同大学助手、講師、助教授を経て、本年三月、国立音楽大学を退職。同大名誉教授。文芸認識論専攻。現住所
東京都世田谷区南烏山6-12-16-405
《主なる著書》 『文学入門』(学友社/一九四九) 『文学序章』(磯部書房/一九五一) 『新しい日本文学史』(同/一九五二) 『文学教育』(国土社/一九五六) 『芸術とことば』(牧書店/一九六三) 『言語観・文学観と国語教育』(明治図書/一九六七) 『文体づくりと国語教育』(三省堂/一九六九) 『現代文学にみる日本人の自画像』(三省堂/一九七一) 『芸術の論理』(三省堂/一九七三) 『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集――』(文教研/一九七七)
《主なる編著書》 『十代の読書』(河出新書/一九五四) 『文学教育の理論と実践』(日本児童文学大系・第六巻/三一書房/一九五五) 『国語教育』(講座・日本語・第七巻/大月書店/一九五五) 注:文教研著は省略。「文教研関係図書」の頁を参照。
〈注1〉 「文芸復興」――昭和12年、近藤忠義を中心とした文芸復興社(東京市小石川区竹早町35、モナス内)から月刊で出された雑誌(6月創刊)。国文学批判の一つの拠点であった。
〈注2〉 準体験――「追体験ではない、自己の直接体験を越えた体験を自己に媒介する体験である」(『芸術とことば』/p.30)
〈注3〉 「『文芸学への一つの反省』補遺」――乾孝執筆(文芸復興/昭12.8)。「本間氏の『文芸学』批判のかたちで」というサブ・タイトルのもとで書かれている。鑑賞主義批判の一つの核をなす論文である。熊谷孝、吉田正吉との共同研究の成果をふまえて論が展開されている。
「鑑賞の問題は熊谷が繰返し説明してゐるからもはや言ふまでもあるまいが、(略)鑑賞を挨って芸術作品がはじめて芸術たりうるのは因よりのことだ。私共は、芸術作品は見る者の準体験として働き爾後のよりよき実践へと彼を駆り立てた時、はじめて使命を畢るものだと規定してゐるがその為にも鑑賞はなくてはならぬ手続きなのだ。私共はそんな意味での「鑑賞」をまでしりぞけたのではない。恋人は恋する相手の恋情を挨ってはじめて恋人たりうるのである。併しまた、クレオパトラの肖像に感心出来ないからと言ってアントニウスを罵るのはナンセンスだらう。アントニウスの心情をよく理解する為には自分の恋愛体験の裏打ちが必要であるにしても、何も自らクレオパトラに惚れ込む必要はあるまい、否、却って、自分の彼女への一身上の感情は除外されなければならないのだ。卑俗な例で畏れ入るけれども、芸術品の感激にも同じ様な相対性があるのだ。だからそれは主体的に直感によって追体験すべきだといふのが解釈学流の行き方だが、実はだからこそ出来得る限り客観的に理解 しなく(て)はならないのだ。(p.48/ゴチック部分、( )部分は編集部)
「表現が融通性の面(=芸術的表現)に近よる程、直接体験による規定が多くなる訳だから、ますます感動は生々しくなる。そこで芸術家は、まづ自分の体験を充分規定性の面(=科学的表現)で鍛え、次に自分の目ざす大衆の生活面による規定を計算し予定して可及的に融通性に富んだ表現によって訴へる。したがって、理解される内容がむしろ主に理解者の体験の抽象面によって規定されるから、その規定の坐標軸が理解者自身には自覚されず、主観的な全体感を与へるのだ。これが本来の意味での鑑賞でなければならない。かういへば、古典の当時の意義を理解する為には私達自身の鑑賞が邪魔である理由も判然とするだらう。」(p.49〜50/( )部分編集部)
〈注4〉 広場――一九五四年設立。『十代の読書』を読みあうことを核として実践的に文化運動をすすめようとした文化サークル。
〈注5〉 びわの実――一九五四年設立。河和の創作活動をも含む文学教育サークル。
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資料・1 文教研略年史(省略) |
資料・2 鑑賞主義論争主要文献
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資料・3 〈読書〉小学生文庫(1950.6「月刊児童福祉」bV)
【これは文学教育運動の理論を実際面から支えていった、敗戦後の熊谷孝氏の実践的文筆活動の具体例の一つである。】
小学校中級程度の子供には、まだやはり絵といっしょに文章を与えるという工夫が必要だ。それもお添えもの程度の挿し絵ぐらいでは駄目なので、絵と文章が半々というバランスでないと、子供のほうからは食いついてこない。その絵はまた、線の非常にはっきりした、対象が浮き彫りにされているようなものでないと、いけない。むろん、色刷りに越したことはない。
それから、ある程度に筋の展開が見られる、読み物ふうのものであることが大事だ。筋の構成を持った、しかしそれでいてまたあまり筋のこみ入っていない、その場その場で一応ケリがつく――事柄の処理が行なわれる、というようなものとしてあることが望ましい。
これらのことは、紙芝居に対する今の子供たちの人気というものを考えてみれば、しぜん胸に落ちるものがあろう。街の紙芝居と漫画本に夢中になっている、はなはだしい学力低下の中にある子供たちを引き上げるのには、まずこの辺のところから出発する以外に手は見あたらない。
いま本屋の店先で子供の人気をさらっている小峰書店の小学生文庫は、一般のそうした要望にこたえたものである。
『青い鳥』『地球のふしぎ』『生物のくらし』『バンビのゆめ』の四点がその第一期計画として刊行されたわけだが、中でも『地球のふしぎ』は、すばらしい。地質学者の武者金吉氏が草稿を作り、児童もので長年苦労してきた編集者が文章の表現と構成の面で協力して出来上ったのが、この本である。(『生物のくらし』も同様である。)
主題としては一貫した構成を持っていながら、部分部分が読み切りの形になっている。これはいい。また、「なぜ空は青いのでしょう?」というふうに、著者は子供の心情の文脈にしたがって考えていく。そういう観察と思索の糸は、「地球をこの世の中をもっと住みよい所にするための地球の研究」という著者のイデエに織りなされて子供の心につながっている。
可愛い童画ふうの絵と総ルビの文章で初級向けとして見ても、さまで無理ではない。価格の低廉なことも一般の親にはありがたい。(小峰書店刊、定価各冊百円/T・K)
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資料・4 あだ名はモール――カール=マルクスの話
【前記特集のいわば資料・3の続編でもあるが、埋もれた文学教育運動の資料の再現である。児童文学者協会編・昭和31年11月・実業之日本社刊『お話世界歴史』(六年・下)に収録されたものである。】
ドイツの革命家リープクネヒトが、『カール=マルクスの思い出』という手記をかいている。リープクネヒトの目にうつったマルクスは、どんな人だったろう。その手記には、つぎのようなことがかいてある。
きみたち、カール=マルクスの肖像を見たことがある?
きみは?
それなら、きみは? …
そう、きみのいうように、ヒゲもじゃの顔をしていたよ、マルクスは――。
あさ黒い顔に、もじゃもじゃのヒゲ。それにコールタールみたいな、まっ黒なかみの毛。そこだけを目をつけると、まるでアフリカの土人そっくりなんだ。
そりゃあ、土人にしてはひたいが広すぎるし、きりっとしまった、なんとも考えぶかそうな顔はしていたけどね。
そう。それで、マルクスには『モール』というあだ名があるんだ。アフリカ土人のモール〔ムーア人〕に似てるから、というのだよ。
姉むすめのジェニーだったか、それとも末っ子のタシーだったか、とにかく子どもたちのつけたあだ名なんだ。
「モール。」
「モール。」
うちの人も、よその人も、おとなも子どもも、だれもかれもみんなマルクスのことを、こういうんだ。
むろん、ぼくも、そう呼んでいた。「モール」ってね。ほんとのことをいうと、いまだって、あらたまってカールだのマルクスだのという気がしないんだよ。
あだ名といえば、マルクスの家の人たちぐらい、人にあだ名をつけたり、あだ名で呼んだりすることのすきな人も、めずらしいんじゃないかな。
ぼくたちの同志であり、モールのしたしい友人であるエンゲルス……きみたち、知ってるだろう? マルクスと力をあわせて『共産党宣言』を書いた、フリードリヒ=エンゲルスのことを。
そのエンゲルスを『将軍!』というんだ。むろん、モールのつけたアダ名だよ。
「おはよう。モール……」
「やあ、将軍のおいでか。」
といった調子だ。
タシーたちの女友だちのリナ=シェーラーさんは、それでかわいそうに『モグラばあさん』というのさ。モグラばあさん、はじめはブリブリしてたな。
すこし親しくなると、みんな名まえが一つふえるんだ。多いのは三つも四つもあだ名がつく。タシーだって、ほんとうの名まえはエリナというのだ。タシーのほかに、『シナの王子』『コーコーさん』だの『こびとのアルベリヒ』だのという名を、エリナはもっていた。
だから、はじめてマルクスの家へいった人は、あっけにとられるにきまっている。なにしろ、かれの家には、カールの『モール』や、エリナの『シナの王子』をはじめ、『ホッテントット』やら、それから『オウム』までいるのだからね。
家じゅうのだれかれが、めいめい、おたがいをあだ名で呼びあって、そしてそれがさもさもおかしくてたまらないというふうに、にぎやかなわらい声をたたている。
それで、この家でだれがいちばんあだ名をつけるのがすきかというと、モールなんだ。ほんとに、いたずらっぽい、ちゃめけたっぷりのマルクスだよ。
友人のだれかがそういっていた。「マルクスの家から、明るいわらい声の聞えない日は、一日だってなかった」と――。
ぼくの知っているマルクスも、この友人のいうとおりの人だった。マルクスも、マルクスのおくさんのイェニーも、そして四人の子どもたちも……。
どんなにくらしが苦しくたって、どんなにつらいことがあったときでも、ほおえみを忘れたことのない、明かるい顔をしたモールだった。
が、モールの明かるい顔から、ふっとわらいが消えるときがある。 乞食に出あったときだ。
乞食がやって来ると、モールは、きゅうに、その広いひたいにたてじわをよせて、やさしいその目が、オリンポスの雷神(らいじん)みたいに、するどく光りだす。
モールは乞食がきらいなのだ。
いや、きらいになったのだ。
というのは、乞食に出くわしたからといって、以前はそんんことはなかったからだ。
そんなことがなかったどころか、ボロボロの服をきた、あわれな乞食のすがたを見かけると、目をうるませたりもしていたモールだった。
「きのどくに……世の中がわるいせいだ」
そんなことばを、モールの口から耳にしたこともある。
ふん、ふん、うなづきながら橋のたもとや街路樹(がいろじゅ)の下で、なけなしの金(かね)をめぐんでやりながら、乞食の身の上話を聞いているモールのすがたを、ぼくは、この目でなんべんか見た。
それなのに、このごろは、どうして? ……
「だって、リープクネヒトくん――」
ちかくの林の小みちを散歩しながら、モールは、ぼくにこう言った。ひたいにたてじわをよせ、かんではき出すような調子で――。まるで、そこに乞食がい合わせたかのような、にがりきった調子で――。
「ぼくは、だまされていたんだよ。いや町の人たちが、だまされているのだ。どうやら、きみも、だまされているらしいな。病気で働けないというが、それがウソなんだよ。金がなくて、きのうから何も食べてない、なんてあわれっぽく持ちかけるけれど、あいつらがびんぼう人だというなら、このロンドンの町に、いや世界じゅうに、びんぼう人なんかいやしない、ということになるよ。」
なんのことはない、ぼくたちびんぼう人から巻きあげた金で、会社の株(かぶ)を買ったり、いなかで土地を買って地主になったりしてるんだよ。ほんとうにひどいやつらだよ、あいつらは――。ほら、ぼくは、いま『資本論』を書きつづけているだろ。この本を書くために、世の中のしくみを実地(じっち)にしらべているわけなんだが、しらべているうちに、やつらのそういういつわりが、だんだんわかって来たんだ。あれは、どろぼうだよ。それもびんぼう人のふところをねらう、ごくたちの悪いどろぼうなのさ。他人のびんぼうにシンから同情できるのは、びんぼう人だけだっていうことを、ちゃんとこころえていて、ぼくたちびんぼう人のところへやってくる。……でもね、リープクネヒトくん。みすみすだまされるとわかっていても、子どもをつれた乞食にあわれみをこわれると、ぼくはつい弱気(よわき)になってしまうんだ。子どもは……子どもは、かわいそうだからね。」
おわりのところへ来て、声をおとして、ぼっさりとそう語ったモールの目は、もう、オリンポスの雷神の目ではなかった。
やさしいモール。
やさしかったモール。
いつも子どもたちの味方だったモール。
カール=マルクスは一八一八年、ユダヤ人の子としてドイツに生まれ、社会主義経済学者として新しい学問の道をひらいた。時の政府ににらまれて、ドイツをのがれ、フランスのパリに住み、それからイギリスのロンドンにうつり、一八八三年に死んだ。その間にたくさんの本を書いたが、『資本論』がその代表的なものである。 |
(熊谷 孝) |
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