資料:鑑賞主義論争
「国文学誌要」 昭和11(1936)年7月号掲載 


国文学と鑑賞主義    
近藤忠義
   
 
 国文学の「復興」が謳
(うた)われるようになってから数年を経過したが、それはそれとして、その復興が真の復興の名に値するような復興の端緒 となり得るか否かは、実のところ、今日以後の短い時期に於ける、学界全体の心構えに懸(かか)って居る、と我々に確信させるような事態が、主観的にも客観的にも、継起しつつあるということは、今や周知となって来て居る。
 明治期の国文学は、一口に言えば、文献学的研究・所謂
(いわゆる)基礎的研究と解釈学的研究(この場合は実質的には所謂鑑賞である)との並立の歴史であったと見ることが出来、これが鋭い対立 の姿をもって現われたのが、かの二十年代に於ける大学派と早稲田派との論争であった。時はあたかも「小説神髄」の世に出た直後で、文学とは、人生から切離された単なる「学のための学」でもなく、また人生の片隅で営まれるはかない娯楽(なぐさみ)の具でもなく、真率な人間生活と全円的に・切実に結びついたものでなければならぬ、という考え方が、新しい時代の文学観を形作って来て居た。日本人が近代人として彼自身を主張しはじめたのは、正にこの時期にその端を発する。当時の早稲田派の文学運動には、この意味に於て高い歴史的意義が与えられるのだが、それと同時にまた、彼等の「解釈」の拠って来(きた)る基準は、現代人としての個人に置かれざるを得ず、古典を扱うに際しても、所謂鑑賞・現代的解釈の態度が固く採られざるを得なかったのであった。一方大学派に在っては、従来の、草創期に於ける資料調査の仕事の反面に、やはり此(こ)の風潮から孤立することが出来ず独自の文献的態度(これが後にアカデミックと呼ばれるものの母胎である)を、密閉された研究室から解放し、兎(と)に角(かく)にも「人生の学」にまで押しだそうとする努力を、いささかではあるが、示しはじめたのである。例えば、江戸文学の研究に当って、早稲田派とは異なり、解釈に直接近代美学を援用したり、だしぬけな近代人理解を推しつけたりするのではなしに、謂(い)わば文献学的解釈法に拠(よ)りながらも、既に述べたような、人間や人生を現代に限定せざるを得ざらしめた当時の考え方の限界に制約せられつつ、結局一つの鑑賞主義に踏み込んで行ったのであった。当時、江戸長唄や常磐津(ときわず)の実習が、江戸文学の理解への手引きとして、真面目に説かれて居たというような事情は、正にこのことを裏書きするものに他ならない。このようにして、所謂鑑賞が学的粉飾のもとに、学としての国文学の世界に入りこんで来るのは、この時期を以(もっ)て開始されると見ていいように思われる。
 二十年代に於ける近代的自覚としての「人間復興」の精神は、右のごとき事態のもとに、国文学と鑑賞主義とを固く結びつけたのだが、さらに大正末期から今日にかけて、著しくその成果を収めつつあるところの、国文学の普及・大衆化の実践に際して、この鑑賞主義は新たなる意図のもとに取り上げられ、一段とその威力を強化したかに感じられた。しかし、国文学への大衆動員の標識として採られるこれら鑑賞主義が、国文学自体の学としての成長とは、全く無縁のものであるばかりではなく、およそ逆の作用を生ぜしめる性質のものであることについては今は触れないこととする。
 一方、基礎的・文学的研究はどうか。この研究の操作の第一歩は、文献的資料の捜査に始まるのであり、ついで資料の価値判定・整理・組織という段階を経て、始めて、其
(そ)の上に打ち樹(た)てられるべき研究の基礎的工作としての意義を発生するものであるが、従ってその第一階梯(かいてい)としての資料捜査は、それが全く無計画的な、ほしいままの捜査でない限り、当然その次ぎに資料の価値判定という任務が想定されており、その価値判定には又、おのずから何らかの基準が予定せられて居なけらばならぬ筈(はず)であって、その次ぎに来るべき資料の整理・組織の仕事も亦(また)、この価値判定の基準によって指導せられるより他に途(みち)が無い筈である。従って、この基準の実態如何(いかん)によって、所謂文献学的研究の実質も、更にその成果も亦、海のものとも山のものともなり得るのである。ここに此の研究法の秘密が潜んで居るのだという点に充分留意して置く必要があるのであるが、それは兎に角として、この抵抗の弱い急所に、鑑賞主義が忍び込んで来たのが、既に見た二十年代の大学派の場合であったのであり、爾来(じらい)この鑑賞主義は、さまざまな衣装を身に纏(まと)うて国文学と親交をつづけて居るのである。
 文献学的研究は――言葉の正しい意味に於けるそれは、国文学研究の基礎工作として必須のものであると同時に、その「急所」にはどのような方法も這入
(はい)り得る性質のものであるから、それ自体は一つの完全な方法とは言い難いもので、研究手段の一部分であると見なければならぬものであるが、現実には右のごとく、事実上の鑑賞主義が取り入れられて居るのであったから、その客観的な面貌にも拘(かかわ)らず、実質的には主観的「研究法」の一分派としての地位を、今日の国文学に於て占めて居るものである。その他実証主義的研究、文化史的研究、心理学的研究、所謂社会学的研究、等々々の場合にも亦、殆(ほとん)ど全く右と同様の関係を指摘することが出来るのである。管見に這入っている限りでは、これらの諸研究法はその準備的・前哨的工作の部分の科学的・客観的面貌にも拘らず、それらを一つの結論に孵(ふ)化せしめる正にその重大な刹那(せつな)に、全く異(ことな)った他の実態を剥(む)き出すのであった。そうしてそれは、鑑賞という主観的・現代的方法によってであった。
 人は或
(あるい)はこう言うかも知れない。鑑賞必ずしも現代人的鑑賞とは限らぬ、古典の場合には古典を生んだ時代の実証的把握の後に、我々は古典人としての鑑賞に到達し得る、これこそ我々の目指す「鑑賞の学」である、と。私は曾(かつ)て、例えば紀貫之の創作体験は、我々の把持する学的操作によって、之(これ)を再体験し得ると述べたことがあったが、このような言い方は甚(はなは)だ曖昧であり危険であって、鑑賞の問題に関する見解が未(いま)だ充分整理せられて居なかったことの結果に他ならなかった。この場合、再体験なる言葉は如何ようにも受けとられるのであって、この言葉の意味は何故にあのような歌が要求せられ、あのような歌が創作せられ、あのような歌がよしとせられたかを全面的に・客観的に理解することの謂(いい)でなければならなかった。古典を古典人の立場に身を置いて「鑑賞」し得ると幻想せられて居る場合には、その鑑賞は、事実上現代人的鑑賞であるか、上述の「理解」であるか、もしくはこの両者の何らかの形で混交したものかである。そうしてこのような錯覚は、和歌の如き比較的発展の少い題材を短い詩形の中に取扱うもの(これが和歌の相対的な永続性を約束するものだが此処(ここ)では詳説を避ける)に在って特に起り易いのであることが同時に注意せられねばならぬ。結局、、右の古典的鑑賞論者に於ても、その実証的・科学的操作の後には、依然現代的鑑賞の投影以外のものを求めることは不可能なのである。簡単に言えば、これらは、所謂芸術の永遠性を、文字通りに信奉して居るか、もしくは現代人もまた古典人に復元し得ると妄信して居るか、その何れかによって生じる錯覚であった。
 以上極めて大掴
(づか)みに眺め渡して来た通り、今日さまざまの名称のもとに並び存する研究法は、その折角の科学的・客観的な手続きの一部をさえも、「方法」を正にその個所に於て完成すべき最終の段階に至って、全く反対なものに譲り渡すのであり、その受け取り手が結局主観的・現代的な鑑賞主義そのものであったのだが、しかし、鑑賞主義なるもののこれ程までにも驚くべき魅力は、一つには、文学芸術に付随する謂わば「腐れ縁」的な一面、すなわち、研究の対象としてのそれ とは全然別個の、享受――娯楽の対象としての一面、其処(そこ)からの絶えざる誘惑の手に向(むか)って、無意識に・無批判に引き寄せられて行く弱点を、言い換えれば研究者と享受者との境界が兎角(とかく)見失われ勝(が)ちだという危険を、文学芸術は生れながらにして持つものである、と言う事情から来て居るのである。このようにして、文学と鑑賞とは、夙(つと)に無言の盟約を取交わして居り、それが当然のこと・何かしら先験的なこととして、本能的に鵜呑(うの)みにせられ、鑑賞そのものの実態 に関しては、全く反省して見る機会が与えられなかったのであったから、況(いわ)んや、国文学に於ける科学的・客観的方法の未成熟な時期に際して、理論的反省・整理の不十分な、抵抗の弱い間隙(かんげき)から、この小さな悪魔が忍び込んで来る危険の多いことは、一応無理からぬことである。鑑賞主義の故国(ふるさと)は正に右に述べた如くであるから、これはあたかも家ダニの執拗さを以つて不断に喰(くら)いついて来るのである。退治つくして了(しま)ったという安堵(あんど)の後に、偶々(たまたま)こいつの隠れ家をおのが理論の体系の片隅に見出した時の狼狽を経験したものは、おそらく私だけではないだろう。
 文学に於ける鑑賞主義の性癖は上述の如くであり、今日多くの研究法がその究局に於て之と野合しており、鑑賞そのものが既に文学とは不可避の血縁関係にあるものだと無反省に信ぜられている結果、これとの野合以前の研究手続きが夫々
(それぞれ)の研究法の立看板(たてかんばん)となって、あたかもそれらの名称に値する独自の「方法」ででもあるかの如き印象を与えるのであった。そうして、これら立看板の対立・並立は、その終局の目標が、国文学の鑑賞主義的処理に在るのであるから、やがてはその看板の対立は自然に消滅し、それらは新たに、鑑賞主義とは全く無縁の所謂歴史的方法と鋭く対立することによって、切実な反省を強いられるに至るだろう。而(しか)もこのような理論的反省の必要は、近来新しい段階に這入ったと思われる国文学大衆化の実践に当っても、これ亦当面の問題として、倍加されざるを得ないであろう。かくして文学に於ける鑑賞の問題は、あらゆる切実な実践と直面することによって、その解決を急ぐべき最も根本的な課題として日程にのぼるであろう。今後我々は、その把持する主張の如何を問わず、虚心に周到に、共同してこの問題に当るべきであり、かくしてこそ、国文学に新たなる展望を与え得ると信じるのである。(六月十五日稿)
 なおこの小論に併せて『国文学の普及と「鑑賞」の問題』(国文学「解釈と鑑賞」第二号所載)を一読願えれば幸(さいわい)である。
 

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