資料:鑑賞主義論争
「国文学誌要 4-2」 昭和11(1936)年7月号掲載 


資料主義・鑑賞主義・その他
  ――最近発表された二三の作品論に関連して    熊谷 孝
   

         一

 大分まえの話だが、或る国文学者の学風を紹介した新聞記事に「国文学者としては珍しく視野も広く、理論的な頭脳をもった人である」いう意味のことが書かれてあった。視野が狭くて無理論だ、そんな風に世間一般が国文学者を理解している、という事実を反証するものとしてこの記事を見ることに誤りはないであろう。国文学者たちが、自らの狭い殻に閉じ籠
(こも)り、何のための作品観照なのか資料研究なのか、反省らしい反省をも試みることなしに、挙句(あげく)の果(はて)は目的と手段のけじめも弁(わきま)えないマニャ的な操作にうき身をやつしているそのひまに、現実 はまるでそのありかを変えてしまったのである。いいかえると、学界は、現実から置き去りにされたのである。世間は、やがて、「視野が狭くて理論的な頭脳(あたま)がない」といういい方があたかも国文学者気質(かたぎ)を語るにいちばん適(ふさ)わしい言葉でもあるかのように思い込んでしまったのである。そう思い込む世間の常識が、外界との交渉を遮断してまでひたすら基礎的な資料研究に没頭しないわけにはいかなかった往事の国文学界の実状に暗いものだった、ということは別問題として、そういう世間の眼が さまで 的外れでないことを思わせもする悪しき専門家意識 が、まだまだ人々のあいだに根深く巣喰っており、そういう意識の支配が学界の現状をもかなり偏ったものにしている、という事実を、私たちは見遁(のが)しえないのである。
 私たちのこうしたいい方が、兎
(と)もすれば資料研究の意義を否定するものであるかに、また、資料的な基礎知識の不必要を語るものであるかに曲解されがちであるけれども、そう受け取ることは余りにも性急な、不用意な理解の仕方でしかない。私たちは、そういう研究や知識やを否定するどころか、そうした基礎研究の確固たる成果の上にこそ私たちの歴史・社会的な研究も、着実な、健やかな成長を期待し得るものである、と考えるのである。そう考えることは、しかしながら、基礎的研究がそれこそ字義通りの完成をみるまでは原典批判に関する以外のものいいを絶対にしてはならぬ、という資料主義者の偏った主張に私たちが従順であることを決して意味しはしない。もちろんのこと、国文学研究の現段階にあって、資料研究が大きな分け前をもつものであることはいうを俟(ま)たぬところであるし、事実、これまでのそうした基礎的研究が私たちの前進のための如何に強固な地盤を用意してくれていることか。唯(ただ)、私たちは、基礎的研究は飽くまで基礎的研究であってそれ以外のものではないということを、それは飽くまで手段であって目的ではないということを明瞭に意識することの必要を主張するものなのである。そういう分け前を座席を正当に認めることが、資料研究家の位地を低める所以(ゆえん)でなど決してあるのではない。それどころか、そういう自覚に生きてこそ資料研究の意義もはじめていきいきとして来るというものである。
 ところが、今日、一部資料学者の語るところを聴くと、単に自らの分け前を正当に主張しているものとは見做
(な)し難い底(てい)の、(一例を挙げれば)資料にたいする考証・判断をおこなうことが国文学者のなすべき殆(ほとん)ど唯一の任務でもあるかのような強弁をさえ敢(あ)えてしている始末である。とどのつまりは、資料的知識の豊富を徒(いたず)らに誇り、そこにひたすら自らの「権威」の保証を求めているのである。かくして、悪しき専門家意識は、今日の学界になお支配的でさえあるものである。


         二

 視野が狭くて無理論だ、という国文学者に貼
(は)りつけられたレッテルも如何(どう)やらなかみにそぐわぬような、そういう世評を抹殺できそうな機運が現象した。無風帯だった私たちの学界にも、この国の文化の全面を覆うて前のめり なものに方向づけたあのたくましい嵐の余波が吹き寄せて、ともかくも国文学界が一環の文化圏内にあることを立証するまでの活況を呈したのは、たしか五六年も前のことであったろうか。(尤(もっと)も、そういう動きのうちには真性も擬性もあったけれども――。)だが、そういう前のめりな機運も、封建制ギルド的支配の絶対的な私たちの学界にあっては、遂(つい)に健やかに培(つちか)われることなしに、卑屈なまでにその鉾先を歪められてしまったのだった。殊更(ことさら)に、「国文学者」は、科学者としての使命に生きるまえに、ある特定の使命に奉仕する義務を先天的・宿命的に負わされたグループであるらしく見えた。あらゆる前のめりな動きにたいする伝統擁護のための監視が、彼らに課せられた最高至上の役割でもあるかのように見えた。彼らは、何は置いても自らの義務にたいして忠実であらねばならなかった。かくして、ここに、国文学者の、伝統擁護のための「ものいい」が始められたのである。
 しかしながら、現実 は、も早
(はや)昔ながらの現実ではない。現実は進展したのである。固く鎖(とざ)した鎧戸の彼方に展開された「現実」は、自分たちの手の届かぬ所まで進んだ、だから国文学者たちにとっては余りにも進みすぎた 現実であったのである。「昔ながらのものいいを以(もっ)てして如何(どう)して若き世代を繋(つな)ぎ止めることが出来えよう!?」感傷は自棄に変り、自棄はやがて「居直(いなお)り」に変る。もともと自らの拠り所とすべきは、唯に資料に関する知識のみであり(そういう知識は、もちろん科学にかかわってくる性質のものではあるけれども、それが単なる知識として止っている限り、遂に科学の知識 ではありえない、物識(し)りが必ずしも学者でないと一般である)決してそれ以上のものではないのである。資料的知識の豊富さに遮二無二(しゃにむに)自らを権威づけるためには、(「尤もそれは段階的な意味に於いてだが」といった言い遁れの口実をつくりながら)資料の考証的研究が今日の国文学者のなすべき唯一の任務であるとか、原典批判の完了するまでは他のものいいをしてはいけない、といった「資料」神秘化のための詭弁を弄しないわけにはいかなかったのである。嚮(さき)に私が指摘した悪しき専門家意識とは、まさに、かかる資料主義者の、自己弁護のための、だからまた伝統擁護のための、「今日」の特殊症状が必至的に齎(もた)らしたところの意識 に他ならぬものであったのである。


         三

 だが、伝統国文学者たちといえども、皆がみな偏狭であるのではない。たとえば、最近発表されたA氏(仮りにそう呼ばせて戴く)の論文についてみれば、氏は、『国文学というものは』『基礎的研究が本領ではないかとまで思われ』『文学批評的研究が果
(はた)して基礎的研究方面のごとく確実に行なわれ得るかということが、時に悲観的に考えられる』にもかかわらず、『然(しか)し、文学作品を直接対象とする以上、作品の本質価値の究明がやはり結局の目的でなければならぬ』と説かれ、しかもその日標的研究が『学として成立するためには、単なる印象批評以外の確実な方法を見出すことに努力せねばならぬ』とまで明快な論断を下していられるのである。わけても『批評的研究は基礎研究と並行して行なわるべきである』という氏の緒論は、私たちがこれまで見きたった資料主義者の妄説にたいするアンチ・テェゼともみられるものであり、私たちの主張と軌を一にするものであるのかとさえ考えられるものである。
 ところが、氏は、「批評的研究」において『重要なことは、直感の力であり、鑑賞の精到である』と説かれる。なぜなら、『すべて文芸の価値は表現を待って始めて生ずるもので、表現を離れた、素材・内容・思想等によっては、価値の問題は論ぜられない』ものであるとし、『かかる本質的価値の闡明
(せんめい)は、結局鑑賞能力すなわち直感の力に依存せねばならぬ』ものだから、と言われるのである。ここに至って、氏が「批評的研究」の名の下に、印象批評超克の手だてとして殊更(ことさら)めかしく提唱されたものが、実は『鑑賞の精到』以外のものでもないのであり、印象批評を言葉の上で 否定しながらも、結局行きつくところは、印象批評から程遠からぬ地点を彷徨する底(てい)の、素朴な鑑賞批評に過ぎぬものなのであって若き世代が真に要望している文芸科学的な「批評的研究」とは凡(およ)そうらはらなものである事は、も早いわずして明(あきら)かであろう。おしつめて云えば、氏の謂(い)うところの『文芸の学』とは、結局、『価値と直観との問題』において『一般科学』と『相違するところ』のもであり、『一般科学的方法によっては、最後に処理しきれぬ本質的価値というもの』を問題とする「学」なのであって、『直観に待たねばならぬ部分』すなわち『本質的価値』を『学的に如何に処理するかが』氏の『文芸の学』の課題であるのだから。
 氏の科学概念・価値概念の把握の仕方の曖昧さ、でたらめさについては贅言
(ぜいげん)を要しないが、念のため一言駄目を押しておくと、――およそそれが科学である以上、政治を対象とした科学であろうと、宗教を対象とした科学であろうと、芸術を対象とした科学であろうと、それらが、おしなべて唯一つの科学的方法によって(また、それによってのみ)方法されなければならない、ということは、いうまでもない話だ。また、そうである限り、芸術学が、文芸学が、問題とする「価値」も、いわずもがな科学が追求する「価値」以外のものであってはならなぬ筈(はず)である。(宗教学的価値・芸術学的価値等々並立する、若(も)しくは対立する価値が別々にあるのではない。「芸術には芸術の価値がある」といった考え方は、素朴にも、芸術には芸術性がある、という何でもないことを、それがなにか価値にかかわってくる事でもあるかのように履き違えることによって惹(ひ)き起こされた錯覚状態をいいあらわすに他ならぬ。)〔註一〕これらのことは、わかりきった事柄であるかに見える。ところがA氏にあっては、『文芸の学』は、飽くまで一般科学と「価値」の問題において相違するものなのであり、かかる『一般科学的方法によっては、最後に処理しきれぬ』文芸固有の「価値」なるものを『如何に処理するか』を課題として掲げている「学」なのである。〔補注〕(そんなものが「学」でもなんでもない事は、いうまでもない――。)
 『一般科学的方法によっては、最後に処理しきれぬ本質的価値というものが残る』といういい方は、しかし、何も文芸学者の間にだけ語られている言葉ではないのであって、今日あらゆる文化の領域において、あらゆる文化財について、アカデミシャンによって語られているところの、伝統擁護のための、科学否定のための合い言葉 に他ならぬものなのであり、そういうものいいが、今ここに国文学者A氏の言葉として放たれているというところに、そうしたところに、俄然昂
(たかま)ってきた国文学界今日の理論的関心が、(主観的には如何(どう)あろうと)真に理論的な反省として喚(よ)び覚(さま)されたものではなく、嚮(さき)に私たちが資料主義について指摘したと同一の根拠から発生したところの、いわば壊滅に瀕(ひん)した伝統国文学陣営の最後の護りとして編成された別働隊の、自己擁護のための死物狂いなものいい――衒(げん)学的詭(き)弁の氾濫をいいあらわす以外のものではないという事を明かに看て取ることが出来るのである。しかも、そういう詭弁に満ちたものいいが、「文芸には文芸固有の価値がある」といった芸術派 の主張する芸術価値論を盾としてなされているという点は、断末魔に足掻(あが)く伝統国文学のイデオローグたちにとって極めて特質的である。
補注】 A氏は、『すべて文芸の価値は表現を待って始めて生ずるもので、表現を離れた、素材・内容・思想等によっては、価値の問題は論ぜられない』所以 (ゆえん)を、『かかる本質的価値は、結局鑑賞能力すなわち直観の力に依存せねばならぬ』所以を説明して、『例えば
 
石見 (いわみ)のや高角(たかつの)山の木(こ)の間より我が振袖(ふるそで)を妹(いも)見つらむか

石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも

の二首の如きは、内容的には全然同一であるが、表現の相違の上に感動の強度の差違が存している。その点にまで感受が至らなければ、この二首の本質を正当に理解したことにはならない』(圏点引用者)といわれる。こういう問題のたて方からして、「直観に待たねばならぬ部分』すなわち、文芸固有の価値(文芸的価値)を『学的に如何に処理するか』といった、でたらめな「学」概念も、でっち上げられて来るわけなのである。
 氏の「価値」に関する考え方が如何に曖昧であり、でたらめなものであるか、という点については本文に詳しいが、氏が『内容的には全然同一であるが、表現の相違』する場合があることの例証として挙げられた二首の歌が、いかさま題材の同一なことは云えるとしても、けっして内容的同一をなどいいあらわしてはいない、ということ、要するに氏のいわれる「内容」なるものは題材の謂
(い)いに他ならぬものである、ということ、そうした内容と題材との混同からして、内容と形式との背反に関するものいいも生れてきているのだ、ということなどを、私は、ここで概括しておきたいのである。或る作家が取りあげたと同一の題材が、他の作家によって取材される、というような場合は無数にある。世界観を異にした作家によって取りあげられる場合すらある。だが、その場合、めいめいの作家めいめいの取材の仕方によって、それぞれのありかたを示す作品が制作されるのである。一作品と一作品との形式の相違は、だから、それらの作品各々(おのおの)の、現実とのかかわりの仕方の相違をいいあらわすに他ならない。だからまた、異(ことな)ったそれぞれの形式が、それぞれの異った内容を示しているわけなのである。
 私たちは、題材を内容と同一視したり、内容を筋書
(すじがき)や梗概のことだなどと考えたりする俗論に厳しく対立するものである。
註一 「価値」の問題、特に芸術的価値の問題に関しては、ここ数ヶ月中に発表を予定している、乾孝・吉田正吉・熊谷孝三人の共同制作による二三の論文をとおして詳論されるであろう。


         四

 ところで、そういう文芸固有の「価値」なるものは、A氏によれば、『鑑賞能力すなわち直観の力』によってのみ闡明されるものであるから、作品の価値は、「研究者」(実は研究者でも何でもない、それはただの享受者にすぎないのだが)個々人の鑑賞能力の差によって(一個人の場合においてすら、年齢や心境やなどなどによって)如何にでも変るものな筈である。(作品の価値を、その作品から受取った自己の感激のメモリによって測ろうとすることが、そもそもの間違いの基なのである。)だからまた、氏のばあいにあっては作品の価値評価の基準 は絶対にありえないことになる。そして、事実、『作品価値の理解』に関する限り、氏は、『方法の眼に見えるみえるものでないからと言って、漫然としてなしとげられるものではない』とか、『天賦の感受能力と持続的な特別なる努力とが必要』だとか、まるで禅坊主の問答みたいな「ものいい」しかしていないのである。『要するに批判的研究は、価値の問題に関する為に困難を生ずる のであるが、先ず根本的な作品の価値判断の重要性を自覚することが必要であり、この点を中心にして更に精細な学的方法が探求せられねばならぬ』(圏点引用者)というのが、氏の悲痛な結論なのである。
 尤(もっと)も、氏は、『もとよりただ一通りの思いつきに過ぎない』とか『、『右の説明は甚だ便宜的なものに過ぎないが』といった二重三重の予防線を張りながら、『批評的研究』の進路として、『心理学的方法を探って創作心理の方面から研究すること』が『もっとも有効ではないかと考えられる』といっていられる。『創作心理は心理作用の一方面であり従って心理学的方法によって科学的・帰納的に研究し得るものであるが、一方に於いては創作という精神活動の意味上ただちに作品の価値・本質に関係して来る』からだそうである。創作真理追究的「研究」なるものが抑々(そもそも)意味ない、と私たちは考えるものなのであるが(本誌前号所掲の拙稿「箔(はく)のついてきた西鶴論」(註二)参照)、それはともかく、作家の創作心理を科学的に帰納し得るとしても、それは結局作品をとおして帰納するだけのことではないか。そういう風にして帰納された創作心理を基にして、逆にその作品を説明してみたところで、『直ちに作品の価値・本質に関係して来る』どころか、なんにもなりはしない。から回りというものである。(尤も、作家の性格への理解が、その作品を理解するための手掛りとなる場合もある。だが、それは飽くまで補助的な意味においてであって、それが作品理解に際して決定権をもつものでなど決してありはしない。)ともかく『心理学的方法を採って創作心理の方面から研究』してみたら、などいう気休め的な、はかない望みを棄て去って、一日も早く問題の建て直しに努力せられる事を、私は、A氏のために望ましく思うものである。
註二 私は、前号に書いたこの論考のなかで、創作心理追求的「研究」の偶然論的契機について簡単に触れておいた。

         五

 以上、二三の国文学者の所論を手掛りとして、資料主義者・鑑賞主義者の主張するところのものが、どんなものか、という事を一亘
(わた)り見渡してみたのであるが、更に、たれかれと名前を挙げつらうまでもなく、資料主義者は、事実上殆(ほとん)ど全部が全部鑑賞主義者であるということを指摘することができる。私は、嚮(さき)に一応、鑑賞主義者たちにたいして、伝統国文学擁護のために動員された資料主義の別働隊であるといった概括を試みたのであったが、しかし現実においては資料主義者と鑑賞主義者とは一人二役を原則とするものなのである。尤も、資料主義とはなんの血の繋(つなが)りもない純粋な立場から「日本文芸学」を提唱する人々もあるけれども、そういう「日本文芸学」なるものも、実はA氏の主張する『文芸の学』とどっちこっちのものでしかないのであって、鑑賞主義のために饒舌(じょうぜつ)を弄しているという点では、伝統国文学の援護隊としての資格を十分具えているものなのである。いや、それどころか、資料主義や素朴な鑑賞主義が世間に通用しなくなりかけている今日、かかる科学主義的な偽装を凝らした鑑賞主義「理論」こそ伝統国文学の最後の護りであるのかもしれない。

(本稿は、五月十六日、本学[法政大学]に開催された国文学講演会における筆者の講演草稿の一部であります。)
 

資料:鑑賞主義論争熊谷孝 人と学問次頁


【参考】 「国文学誌要」第四巻二号(1936.11)所掲「彙報」欄より

□講演会概況・講演内容
 本誌前号に予告した如く五月十六日午後一時より本学学部六十六番教室に於いて、春季国文学講演会を開催した。風巻景次郎・森本治吉・松尾聡氏その他少壮学徒をはじめ、都下男女各大学・専門学校生、各研究会々員等百数十名の参加を得て、五時盛会裡に閉会した。当日の講演概要を次に紹介する。
〔熊谷孝氏〕「日本文芸学の諸問題」との論題の下に、一般に伝統国文学のアンチ・テーゼであるかに見做されている日本文芸学が、実はその修正派的使徒に他ならぬものであり、却って国文学を国学にまで逆行させようとする役割を演ずる以外のものではない所以を明かにし、その非科学性・非方法性を様々の角度から暴露しつつ、方法概念への新たな反省を提出する事によって、真に科学的な日本文芸学の建設こそ若き学徒に課せられた緊急の課題であろうと結論された。
〔永積安明氏〕「平家物語について」(略)
〔西尾実氏〕「近世末期に於ける国学の一形態」(略)

□座談会
 講演終了後、近藤[忠義]教授司会の下に、西尾・熊谷・永積各氏を囲む座談会を国文学研究室に開催。西尾氏の資料発見の苦心談に続いて、平家物語の系統に関する質問に応じた永積氏の懇切な説明があり、更に熊谷氏に向けられた価値論に関する質疑に端を発して、芸術的価値の問題・作家と世界観の問題等を廻って活発な論争が行われ、所定時間を一時間余り突破して七時半閉会した。


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