資料:鑑賞主義論争
「文 学」 昭和11(1936)年9月号掲載  


問題と批判
 

 文芸学への一つの反省 
熊谷 孝+乾 孝+吉田正吉


     
  
 ここ五六年このかた、日本文芸学をうち建てようという要求がだんだん昂
(たかま)ってきている事は大変悦ばしい事であって、殊(こと)岡崎義恵
(おかざき・よしえ)氏の近著「日本文芸学」は、斯学(しがく)の発展途上の大きな足跡といわなければならない。この著こそは、遅蒔(おそま)き乍(ながら)日本文芸学をはじめて科学的に体系づけ、人々の久しい要望に応えた画期的な労作であった。したがって、指針を求めて模索していた多くの後進が、自らの進むべき方向を競ってこれに求めたのは自然のいきおいであった。ここにこの書の意義の大きさと、同時に責任の重さとがある。そこで、私たちは、まずこの著の検討から筆を起こしたいと思う。
 氏は、「文芸の鑑賞と文芸の科学的研究との非常に困難」な区別にもかかわらず「芸術的活動と学術的作業との間に境界を置く」という原則に則(のっと)って、未(いま)だ嘗(かつ)てみられなかった様な厳格な科学者的良心を示していられるのである。而(しか)して、「芸術の研究者は大概芸術家的傾向が多い。それが芸術家になってしまうのならよいが、学者として立って居ながら、無自覚に芸術的態度に陥るならば、虻蜂(あぶはち)取らずの結果になるのではあるまいか。とにかく学者として立つ以上、いかに対象が芸術であり、芸術の愛から出発したとしても、一応科学的軌道を守らなければならないであろう」と考えられる。だからこそ、氏は、「自ら制して純粋の芸術家的態度になる事を」極力避けていられるのである。この様に、氏の意図していられる所は、徹底した科学的な文芸の方法論の確立に在るのは明かであり、昔ながらの(或は昔以上の)非科学的な鑑賞主義に沈湎(ちんめん)している人々の多い今日、大変意義深い企図というべきであろう。
 ところが、氏は、また、別の場所においては、「偏狭に縄張り〔「芸術的活動と学術的作業との間に」〕を固めるという事は私の本意ではないのであって、自然に或地点においては両者の交渉の引離し得なくなる事を予想はして居る」ともいわれ、更に、氏の最近の論文『文芸学の進路について』
〔註一〕では、「文芸学が、精神科学的である以上、恐らく自身の内に文芸体験を包蔵する事のない人が、これに参与するという事は、労して功なきものであろう。文芸学者はかくて、程度の差こそあれ、自身文芸家であるのが当然である。若(も)しそうでない時は、最もよい場合でも、文芸を文芸でないものにしてしまって、対象化する結果となる」(圏点=太字イタリック体 引用者)とさえ言われるのである。してみると、氏が一見精緻な反省を持ちこまれたかに見えた、対象としての文芸のとり上げ方における「科学性」なるものは、必然的に氏のいわゆる「精神科学的」な方法(それは「深き直観的体験の上に立つ」ものだと規定されている)を規定するものであり、具体的にいえば、結局主観的な鑑賞〔補注一〕という段階を方法としての資格において要請するものなのである。かくみてくれば、氏が「『美の聖地』を回復せんとする十字軍」に旅立たれた心情も理解するに難くはないが、併(しか)しそれは上述の氏の正当な意図とは余りにも矛盾するものではあるまいか。氏がこの様に不知不識(しらずしらず)伝統的な鑑賞主義(それを原則において氏は前述の如く排撃しておられるのであるが)的な残滓(ざんし)に禍(わざわい)されておられる点について、私たちは、氏の嚮(さき)の主張の意義を大きく評価するだけに、遺憾の念にたえないのである。
〔補注一〕 鑑賞主義の批判は、後にのべる事にして、ここには唯(ただ)、氏の所説の矛盾と思われる点を指摘するにとどめる。
 科学者的反省のつよい氏でさえも、この様に、感傷主義的偏向から全くは免れえていないとすれば、私たちは、かくまで根づよい鑑賞主義の潜勢力のまえに今一度鋭い反省を試みなければならない。では、鑑賞主義が今迄、いやそして今もなお、どんな風に文芸学者たちの方法を誤らしめているかを一応ふり返ってみようではないか。
 まず、岡崎氏のアンチ・テェゼをもって自らを標榜する人に西下経一
(にしした・きょういち)氏がある。氏の学問的な方法態度がいちばんはっきり述べられている最近の論文『原典批評の問題』(文学 昭和十年十月号)によれば、氏の主張の一つの力点は、原典批評の重要性の提唱であるが、これは、そのとり上げ方如何によっては、私たちの主張となんら矛盾するものではなく、文芸学の確固たる基礎づけのために積極的にとり上げられるべきものですらあろう。(なお、この点については、国語と国文学・本年四月号所載の近藤忠義氏「近松浄瑠璃の研究に就いて」を参照せられたい。)ところが、氏が、この厳密な原典批判の成果を生かそうとする「国文学」とは、文芸学の論理的性質に対立して「心理的性質をも」ち、「文芸学は理論的なものを重んじ国文学は実感的なものを重んず、文芸学はすべての性質を概念化せんとするに対し、国文学は感ずるままの状態を語り伝えようとする、その故に文芸学は鑑賞という実践を学の応用と見るに対し、国文学では重要なる研究部門として教える。文芸学は現在の哲学に立脚し、現在の生活を豊富にせんとし、理論に照して歴史を見んとするに対し、国文学は歴史に標準を求め、過去に遡り、歴史的雰囲気を再現してその中に住まおうとする」ものであると言われる。氏の「国文学は個別的、帰納的、実感的、回顧的、事実的 であり、それらを一貫して心理的、情的(圏点=太字イタリック体 引用者)であって、要するに、私たちの言葉でいえば、科学以前の、感傷陶酔の衒学(げんがく)的ないいあらわしに過ぎず、今更事ごとしく言う迄もなく鑑賞主義の正統派とみらるべきものである。精緻(せいち)な資料研究も、こうした目的においてなされたのではなんにもならない。これに対しては、城戸幡太郎(まんたろう)〔註二〕の「日本文芸研究に於ける原典批判の研究はいうまでもなく必要なことであるが、それが如何なる目的のために必要であるかを意識していねばならなぬ云々」という言葉を正当な批判としてあげたい。(ついでながら言うが、西下氏は、後輩たちが「日本文芸学の樹立という勇ましい掛声に驚かされ、異本研究の意義に就いて疑惑を抱くよう」になることを心配していられるけれども、これは被害妄想というものである。)また、城戸氏が同じ論文で「一つの作品についてその作者を決定することは文献学或(あるい)は古文書学の仕事であるが、文芸学の仕事ではない」と述べられているのも、その限りでは、きわめて至当と思われる。けれども、文献学或は古文書学の成果を積極的に役立てることこそ、文芸学の最も堅実な出発点でなければならない。それはさておき、ここに西下氏の批難の対象として挙げられた当の岡崎氏の文芸学なるものは、嚮(さき)にみてきた様に、西下氏の規定からは余程遠く、むしろ西下氏と共に「文学の本質」を「心理的」に味(あじわ)うことを建て前とするものなのであり、したがって、西下氏の批難に当るものではなく、却(かえ)って私たちによって西下氏とともども同じ欠点を指摘されなくてはならないものであるが、一方西下氏が批難の目標として描き出された氏の意味での文芸学こそは、まさに私たちが岡崎氏のうちに覓(もと)めて獲(え)なかった、真に科学的な文芸学の理想像に近いものであるのは皮肉である。
 また、直観(鑑賞)を批評の不可欠の前段階として考える人々が多いが、そは例外なしにいろいろな言葉を設けて、鑑賞をなにか学的な操作であるかに言いくるめ、しかもいざとなると、その曖昧な神秘性のかげに隠れて安逸に耽っている人々である。たとえば、「非理論的対象を」「根源的に獲得」するための非理論的操作としての鑑賞(観照)の合理化とか、或は、直観を分析することによって、鑑賞を学にまでひき上げ得るという主張などはその典型的なものであるが、芸術は芸術的にしかとり扱えないというのは、感情は感情的にしかとり扱えず、鯨尺
(くじらじゃく)の寸法は鯨尺によらねば計れないという主張同様の無邪気な間違いであるし、「分析的な過程」は学的な操作であり得るとしても、分析された直観は、永久に分析を繰り返しても、畢竟(ひっきょう)直観の破片(かけら)以外のものとはなり得ず、飽くまで分析の対象たるにとどまって、方法とはなり得ないのは言うまでもない事だろう。
 こういう種類の筋の立たない理屈をもって廻って、科学の内に(意識的にではないにしても)、「我儘
(わがまま)」を持ち込もうとするやり方を、私たちは、一般に「鑑賞主義」と呼ぶことにしているが、この鑑賞主義というものは、多かれ少かれ程度の差はあっても、この国の文芸学者たちの体系を蝕(むしば)んで、その人の科学性への努力が大きければ大きい程、その体系を片輪
(かたわ)なものにしているのである。 ともかくもこうした偏向から免れ得ている人に池田亀鑑(いけだ・きかん)氏がある。氏は、最近の論文『方法体系と研究の態度』(国語と国文学・¥昭和十一年四月号)において、「先ず何よりも『鑑賞』と『学術』との混同を峻別してかかる必要がある」という至極正当な主張を述べて居られる。そして「解釈に於ける普遍妥当性ということ」は「たとい不可能であっても、少くともその真に近づく こと」の「可能を信じて」「学者としての喜び」のうちに努力しておられるのである。こうした可及的に正確な解釈というものは疑いもなく重要なものであり、たといいやでも真面目に追求しなければならないのは勿論(もちろん)であるが、しかしそれが文芸学の終極目的でないこともまた言うまでもない。私たちは、嚮(さき)に、「原典批評」の重要性を説いたが、ここでも同じ意味で正しい解釈〔註二〕の大きな意義を強調するものである。ただはっきり言っておかなければならないことは、それが飽くまで作品の文芸学的な取り扱いのための資料的裏づけとしてのみ重要なのであって、決して文芸学的操作の本質が解釈に尽きるのではない、ということである。池田氏の如き学者が「国文学の任務」を「資料に対する正確な考証と判断とを示すことに」に限定し、かかる狭隘(きょうあい)な努力だけを「学者としての喜び」だとして安んじておられるのは、かえすがえすも残念な次第であると言わねばならぬ。
〔補註二〕 言うまでもあるまいが、氏のいわれる解釈にしろ、私たちのいうそれにしろ、あくまで冷静な客観的なそれである。今以て解釈を無反省に、主観的な「享受」や「鑑賞」と同一視する人があるに至っては寧(むし)ろ笑止である。
 次に私たちは、わかりきっている(はず)であり乍(ながら)、しかも屡々(しばしば)いろいろな形で見遁(みのが)されている鑑賞主義の誤(あやまり)を、その根源にまで遡って検討し、二度と再び科学の体系の垣の内に足踏みできない様に焼印を押してやらなくてはならない。
〔註一〕 文学・二月号所掲
〔註二〕 「解釈学よりみたる日本文学の研究」(文学・本年二月号所掲

     
    

 
いちばん素朴な形で「鑑賞」をかつぎまわる人々は別として、この段階を一見科学的に合理化しようとする考えは、意識的にせよ無意識的にせよ、ディルタイ流の解釈学に根拠をおいている様に思われる。ここに腰を据えて彼(か)の体系を批判することはとても紙数が許さないから、それは最近別の機会に詳論することとして、ここにはただ、文芸学と解釈学との関係について一通りの考えをのべてみたい。まず、さきに一寸(ちょっと)ふれた城戸幡太郎
(きど・まんたろう)氏の論文を択(と)り上げ、これを起点として論を進めよう。城戸氏の解釈学は甚(はなは)だ独自なものであるからそれを対象として論じることは、解釈学と文芸学との一般的な関係を明らかにするという目的にかなわない様に見えるかも知れないが、実はその反対なのである。というのは、この論文が、諸々(もろもろ)の文芸学者のいろいろな傾向を余す処(ところ)なく論じたものである許(ばか)りでなく、最も多くの点に於いて私たちと意見を倶(とも)にするものであるために、この学に対する一番根本的な考え方のずれ が最も判然と際立っている故である。そこで、この場合いささか横道に外れても、此の主張をやや詳細に亘(わた)って論ずる事も蛇足ではあるまい。
 さて、城戸氏も前章に挙げた多くの人々と同様に、作品の理解に先立つ作品への「感激」
〔補注一〕というものを説いておられる。この箇所は単に心理的な現象の時間的な前後を記述したものに過ぎないのであって、方法論的な論理の構造であってはならない筈(はず)であるが、そのすぐ後に「かかる感激によって、われらは作品に新しい意味或は価値を付与するようになるのであるが、それは必しも われらが容認し得る価値であるとはいえぬ」(圏点=太字イタリック体 引用者)とある。これをみると、前の章に紹介した、批評の前段階としての鑑賞の論となんら異(ことな)るものではなく、現象的前段階が体系的礎石と混同されているらしいことが窺(うかが)われる。尤(もっと)も二番目の引用文の中の二つの「われら」は、一応鑑賞者としての立場と批評者としての立場とを区別されたものともみられるが、その二つの立場からの評価が「必しも」一致せぬと言われる裏には、時には一致し得る可能性をも許容する気持が察せられる。併(しか)し、これ等二つの立場からの二つの評価は、たとい現象的には一人の人間から下されたものにせよ全く秩序を異にしたものである。こうした混線は氏に限ったことではなく、前章でふれた学者の殆(ほとん)ど全べてに共通したものであるが、苟(いやしく)も評価なるものが成立する為には先(ま)ずその評価の基準が前提されねばならず、基準を異にした諸価値の間の一致不一致を論ずることは無謀というよりは不可能事である。この点後の章で再びふれる。
〔補注一〕 文芸学者が或る作品をとり上げる際に、先ずその作品に心を打たれる事から出発するのはあり勝ちな現象ではあろうが、方法として許される可(べ)きことではない。対象の選択は、飽くまで、その段階における歴史的な問題から出発しなければならない。この事も次章に詳しい。
 さて、ディルタイの影響にもいろいろあろうが、中でもいちばん困るのは鑑賞主義のえせ 科学的な「方法」の基礎づけに悪用された「追体験」の神秘作用と、いま一つは文化とか、民族とかいうものの普遍的精神の存在を迷信させた因(もと)を造った彼のいわゆる「歴史的方法」であるが、城戸氏は文芸学のそうした民族心理学的な、文化心理学的な、もしくは性格学的な取扱いへの脱線に対して寔(まこと)に当を得た警告をされ、文芸固有の問題を作品の様式の研究に規定し(私たちは、この規定に全然賛同するものではないが)、ディルタイがその興味を専(もっぱ)ら作家におき、解釈の可能性を作家の追体験 に覓(もと)めているのに対して「作品の理解或(あるい)は解釈ということは単にかかる追体験とは考えられぬ」として、追体験の文芸学の方法としての誤用を警(いまし)め、また「作品は人間との連絡なしには存在し得なかったとしても、作品は作品として作家とは独立な存在として問題とされる」と説いていられるのである。かく、文芸学の直接の対象を客体的な存在としての作品に限って、ディルタイの無反省な亜流にありがちな、人間としての、或は芸術家としての作家の追求とか、作家を生むだ時代精神や、民族精神などの追求とかを斥(しりぞ)け、文芸学を閑人的穿鑿(せんさく)主義だの、形而上学的語呂合わせ的体系づけだのから救われたのは流石(さすが)であるが、唯問題は、氏がディルタイ流の歴史観の非歴史性の批判をおこたられたことである。
〔補註二〕 ディルタイは、「歴史的意識の生命は全(す)べての時代を見渡すことにある」とし、歴史的要因の項を括(くく)り出して消去せんが為にのみ それに言及する。この手品が文芸学者の間に結果したえせ 歴史主義の害毒も小さくはない。
 氏はまた、作品を「独立な存在として」説くに急なあまり、それの歴史的構造の積極的役割を過軽視しておられる。〔補注三〕例えば「それが如何なる作家により、如何なる時代に創作されたかは直接の問題ではない」という一節なども「直接の」という所に力点をおいて読む場合にはなんの問題もないが、その時代の歴史的構造は、文芸の直接 の問題ではないにしても、而(しか)も極めて重要な資料であらねばならぬ。第一、氏の規定による文芸学の本来の課題たる「問題」とその解決の「様式」を明かにするためにも、その「問題」は、具体的な歴史的裏づけを抜きにしては「問題」ではあり得ない。然るに氏は解釈学に則って、その時代の人々と「立場を転換」し自己の立場を超越することによって歴史的な制約を除去しうると考え、したがってまたその制約の積極的な役割を無視し、こうした手続きによって「理解」された解決の様式の類型発見をもって文芸学の目的としていられるらしい。併し、氏の他の諸労作から推しても、氏の史観自体がしかく観念的なものであるとは考えられない。例えば『古代日本人の世界観』などを見ても、古代人の生活の物的基礎の積極的な役割を明快に論じていられる位である。それなのに、此処(ここ)では、文芸学をこうした見方から全然切り離して了(しま)われるのである。しかも、氏自身こうした「理解」や「立場の超越」が結局相対的な――したがって主観的なものに終ることを認めていられる。こうしたものが文芸学と呼ばれるべきであるならあば、それは成程(なるほど)教養あり閑暇ある人々には適(ふさ)わしい高尚な奥床しいものではあっても、その当人の心を豊かにする丈(だけ)で世の中にとっては何の役にも立つものではなく、こうしたものは如何なる意味においても「科学」と呼ぶことは出来ない。御隠居の骨董蒐集こっとうしゅうしゅう)は所詮「趣味」ではあっても「学問」ではではないのである。
〔補註三〕 尤(もっと)氏はここでも歴史的な看方(みかた)を全然無視していられるのではなく、別に問題史や様式史の方法を考えていられるのであるが、それらを文芸学の方法からバラバラに切り離して説いていられる処(ところ)が問題なのである。<
 厳密な科学的方法を有(も)っておられる一方、こうしたものにも科学の体系中に席を与え、文芸学をそうしたものとして規定していられる点こそ私たちが最も不思議の念に堪えぬ点であるが、これこそディルタイ以来の由緒ある科学論(自然科学の他に精神科学を設ける)の特徴なのであろう。

 そこで一応今までのしめくくりをつけてみると、鑑賞主義といわれるべきものに三種類あって、その一は文芸作品を芸術品として正当にあつかう為には、それを「味
(あじわ)う」の一途しかなく、これを評価したり、褒貶(ほうへん)したりするのが第一よくないということを、度合の差こそあれそれぞれ主張するものであるが、これはそれ自身、「科学」としての資格を放棄しているのだから問題にはならない。次は、文芸作品の価値は飽くまで芸術品としての価値 なので、したがって外の規準からの制約を受けるべきものではなく、この「芸術としての価値」とは鑑賞によってのみ獲られるものであるとするである。これはしかし、自明の様に、好悪ということを科学的な評価と混同しているのである。最後のものは、いちばん「科学的な」外見を偽装しているものであって、「歴史的な」「客観的な」評価の規準を認めつつ、しかもその欠く可(べ)からざる前提として「鑑賞的立場」を要請するものである。これについては前章で相当詳しく批判したつもりだから今更何も言うことはないが、とにかく鑑賞者としての立場と科学者としての立場と、それから亦(また)過去の読者の立場、果ては作者の立場などを自由自在に超越したり転換したりする鮮やかな曲技とも言うべきであろうか。こう見てくると「鑑賞主義的偏向」というものは、尽(ことごと)く「評価」という概念への無理解、無反省によるものだということは明かであろう。そこで私たちは次の章で主として作品の「価値」の「評価」についての問題を論ずることにする。

     


 文芸学における「価値」の問題は、ひとも知るように、故
平林初之助(ひらばやし・はつのすけ)氏の「芸術的価値」と「歴史的価値」との二元論に端を発し、啻(ただ)にかの陣営においてのみならず、あらゆる層に亘(わた)っての論争を捲(ま)き起し、果ては「豆腐には豆腐の価値」中村武羅夫(なかむら・むらお)氏)などいう迷論が続出したのであったが、結局「芸術作品の価値とその作品の芸術性 〔補註一〕とを区別して考え」るべきである、という蔵原惟人
(くらはら・これひと)氏の主張によって一応正当に落ち着いたのであった。併し、問題は、これで了(おわ)ったわけではない。この陣営に対する芸術派その他その他(私たちの謂(い)う所の鑑賞主義者のひと群)の攻撃の矢は、期せずして此処に集ったのである。
〔補註一〕 先だって、窪川鶴次郎氏がまたもや、この問題を蒸し返しておられるのは奇妙であるが、いったい、氏は、人間の背丈が問題である場合、「人間であること」自身が「高さ」でないからと言って人間であることが人間の背丈に何の「積極的意義」も有(も)たないとでも言われるつもりなのか。
 わけても谷川徹三氏は、ひたむきに自らの普遍人間性を要請し、芸術の不変的側面なるものを「変わらぬ人情」といったもので説明して、「芸術品は芸術品として扱わ」ねばならぬとか、マルクス主義文学理論は芸術品を「単なる歴史的ドキュメント」に了(おわ)らしめるものだとかいう風に語られた。尤(もっと)も、氏は、歴史的な面を見遁(のが)していられるわけではないのであるが、しかも、氏によれば「それは結局いずれも側面的事実」に過ぎない、という事になっている。この点については、当時、小宮山明敏氏や青野季吉(あおの・すえきち)氏などによって、それぞれ駁論(ばくろん)がおこなわれたのであったが、結局問題は、谷川氏が自ら認めていられる「変化的側面」というものを、なおざりにして、徒(いたずら)に「不変的側面」に身を打ち込んだ事実にかかっている。最近の氏の労作をみても、氏は未だこの地点を彷徨(ほうこう)しつつ、「芸術には芸術の世界がある」とか、或(あるい)は亦(また)「風景の享受」は「地球は円(まる)いで片づけられては困る」とかいう風に、もっぱら「享受」をふかめてゆく鑑賞操作だけが芸術を理解するための、たった一つのキイであるとなされ、その為、氏の批評は、ただ「享受」に於ける「感傷」が「反省」(しかも純粋な主観的な)に置き換えられただけのものなので、「評価」を予定するものではなく、また、本来なんらの「評価」をなし得る筈のものでもないのである。
 また、
雅川滉
(つねかわ・ひろし=成瀬正勝)氏は、「文学とは、人間精神の具体的な表現だ」といわれ、「従って文学の批評とは一個の作品から人間の精神を汲むこと」であると考えられる。それ故、「所謂文学史に」は「不満を抱」き、「文学はもっと文学自体を尊敬すべきである」と主張される。また、「文学の階級性から文学史を書き直すべき意味の要求」などには氏は全く「興味がない。何故なら、それは少しも文学の歴史ではな」く、「文学の社会的解釈の歴史に過ぎぬ」からである、といわれる。また、船橋聖一氏は、「文学の価値とは、読者のイリュージョンの働き出した時から生じる」といわれ、つづいて「古典的現実の中で〔古典を引用者註〕読まんとする努力は無意味であり、飽く迄現代的現実の中で読まねばならぬ」と強調され、「しかし古典の鑑賞は必ず直接に古典の詞章によらねばならぬ」とも主張していられる。しかし「若(も)し、われわれが『源氏物語』を鑑賞するのに、直接に平安時代の現実を知悉(ちしつ)し、その中の人となって読むのでなければ『源氏物語』を本当に理解することが出来ぬのであったら、『源氏物語』は、一九三二年を待たずして、既に一塊の襤褸(らんる)である。」と氏自身の根本的な態度を明かにしていられるのである。
 雅川・船橋両氏の説かれるところは、うち見たところまるで裏はらなものであるように見え、たとえば雅川氏にとっては、文学史に於ても「作者から人間の精神を汲むこと」が「文学の批評」なのであって、「苟
(いやしく)も文学史を、文学的現実の歴史として記述するとすれば、この〔傑作から傑作への、最高と最高との〕不連続線的な線の上に、文学の流れを読みとらねばならなぬ。文学史の書き換えとはまさにここにのみ意義がある。」と観られる一方、船橋氏は、直接文学史の方法に触れずに、むしろ現代人の古典鑑賞の途(みち)を説いて居られるのであるが、「優れた古典」は、「古典に古典的価値ばかり追求してゆく人々」には覗(うかが)うべくもない「必ず立派に現代に触れる所の何者かを持っている」と言っていられるところをみると、氏は文学史家の古典評価を、終結に於いては否定していると見做(な)されるような見解を抱き、古典作品の評価の基礎を、全然、現代人の立場からの鑑賞の上に求められているとしか考えられない。してみると、この二つの一見異(ことな)った所論は、結局、倶共(ともども)さきにみてきたような(例えば中村氏を指す)偏った観方から一歩も出ていないものと言われても仕方のないもので、「価値」という言葉の考え方の履き違えの上に描き出された戯画にすぎないのである。
 ところが、こうした混線はどこにでもあるものと見えて、一応芸術至上主義等から無縁の筈の左翼の陣営にあっても、やはり芸術の「絶対普遍妥当的」な価値への空しい憧
(あこが)れが跡を絶たない。例えば、甘粕石介
(あまかす・せきすけ)氏は、その近著「芸術学」において、「プロレタリア芸術の地位がお山の大将」に畢(おわ)らぬ為の客観的な基準として「客観的直観の正しい芸術的反映の度」をあげられ、「科学と芸術の目的は真理の認識にあって、それらの客観的価値は、真理をどれ程多く言い表しているかによってのみ決定される」のだと主張される。そして「芸術史は、一定社会の芸術はどの階級の利害、心理に奉仕しているかということを明かにするとと共に、この客観的な芸術的価値の規準からそれを評価することをも同時に行うことによって成立」し「これによって芸術批評との分離が始めて合一される」ということになっている。けれども、「同時に」おこなったにしても、二つの別の操作は「合一」されはしない。この二つのものの統一は、却(かえ)って次の様に言われるべきである。すなわち「客観的真理の反映」ということにしてからが、その芸術品の働きに役立たない限りは何の値打ちももち得ないという判りきった点を指摘しさえすればこと足りる。文学史に於ける「評価」も、自然科学の諸分野の歴史と等しく、先ずある対象を問題とすることの現代的意義の評価――この点に於いてそれは文芸時評と交流する――に始まり、その作品が、どれだけの歴史的役割を果たしたものであったかという評価に了(おわ)る、ただその一つの軸に沿ってのみなされるべきである。その作品から、今日、私たちがどれだけの「客観的真理」を読みとり得るにしても、またその作品が、どれ丈(だけ)資料的意義をもっていたとしても、それは一応別の問題なのである。況(いわ)んや、その作品から、私たちがどれだけ胸をうたれ、どれ程の感銘を得たとしても、そんなことは全く秩序の違った問題である。たとえ、私たちの心をうった作品が、偶然同時に歴史的にも高く評価されたとしても、それは他の理由からでなければならない。それとこれとを混同し、混乱するのは全く評価の座標軸への無理解によるのであり、同時に、作品をそれだけで完結したものと考えて、それの働きを読者〔補註二〕と無関係に考えている事に起因している。甘粕氏の様に、認識者としての作家と、その作家によってなされた表現としての作品と、読者によって理解された作品の表現とをゴチャゴチャにして、どの時代のどの層の人々が読んでも、一つの作品は不変の真理を同じ度合で語り得るなどと盲信するからこそ、形式論理的な普遍妥当的価値などに頭を悩ます様なことになるのである。
〔補註二〕  読者を、具体的な歴史的人間と考えないかぎり、鑑賞主義者諸賢と選ぶ所はない。読者の積極的役割を反省することによって明かにされる可(べ)き多くのこと、例えば、所謂「内容を伴わぬ技巧の進歩」の問題など、述べたい事は多いが他の機会を待つ。
 以上、評価の軸への無理解による価値観の誤謬(ごびゅう)をいろいろ見て来たが、もっと大事な事は、評価することの価値への反省をすることである。大ざっぱに言えば、生の哲学の科学論が、芸術に浸(ひた)り楽しむことを一つの科学として許容したとすれば、価値哲学のそれは、故人や古典作品に勲章を捧げることを一つの科学の目的に迄高めてしまったとも言えるかも知れない。評価すること自身自己目的的なものにまで昇天してしまえば、評価の軸など問題ではない。人々は、勝手に独自な価値の体系を築いて楽しむのもいいだろう。しかし、私たちが、いつも忘れてはならないのは、学問というものは、自分の楽しみにするものでもなく、単に体裁の好い体系をつくることでもなく、唯(ただ)よりよき実践の為のより正しい認識の整理をこそ目的にするものなのだということである。そうしてこそ、科学の各分野の協働は完(まった)きを得、そうしてこそ、今迄の「論理的要請」による形式主義的科学論によって片輪にされた諸分野は完き方法を自覚することが出来るのである。


資料:鑑賞主義論争熊谷孝 人と学問次頁