資料:鑑賞主義論争
「文学」 昭和12(1937)年4月号掲載    

  古典評価の規準の問題         熊 谷  孝    

 
        

 「好色一代男」の意義について、ひとは、これ迄いろいろな言い回しでいろいろに語っている。ところで、そのいろいろな云い分というのを詮じ詰めていくと、言い回しに含みを持たせてあるのとそうでないのとの違いこそあるが、結局、次の一つ事が蒸返し論じられているに過ぎないということがおいおい判ってくる。――非芸術的 な、でなければ前近代文芸亜流の作品をしかもち得なかった近初の時期に「一代男」は制作されたのだ。それは時代的な一つの驚異であった。ひとは、ここにはじめて文芸らしい文芸に接することが出来得たのだ。が、しかし西鶴作品中の傑作を 「一代男」に認めることは許されまい。なぜなら、芸術作品としての ヨリよき完成の姿は、寧(むし)ろ「五人女」に「一代女」に、或(ある)いは「置土産(おきみやげ)」などに覓(もと)められるのだから。「一代男」は、浮世草紙を浮世草紙として非芸術的な仮名草紙から区別し、「五人女」以下好個(こうこ)の芸術作品を生みだすに至る重大な始発点となった、というその歴史的意義 において高く評価さるべき作品であり、それの芸術的価値〔芸術品としての価値〕は、その意味では、たかだか仮名草紙との対比において相対的に保有する、所詮その底(てい)のものにすぎないであろう。……
 私はここで、こうした評価が、あながちに過少に失するものだとか過重評価に陥っているものだ、といった物言いを付けようとするのではない。そうではなくて、作品の価値を歴史的価値と芸術的価値との二つに分けて考え、しかも芸術は飽くまで芸術であってそれ以外のものではないのだから、芸術作品の評価は、結局それの芸術的価値の評価に了
(おわ)るべきであり、それ以外の規準からの制約を受くべき筈(はず)のものではない、といった考え方、この種の評価を貫くそうした考え方の歪みに私の眼は向けられているのである。
 しかしまた、かかる二元論の立場に固執せざるを得ない心のほども、ひとが歴史的意義ということを上述のように理解している限り、一応 無理からぬこととして肯
(うべな)われもするのである。私は、終局において、古典の評価はそれの歴史的意義の評価に了(おわ)るべきだ、と考えるものなのであるが、しかし私のいう歴史的意義と、ひとが歴史的意義として考えているものとは決して同一の内容を指し示してはいない。「五人女」等々すぐれた芸術作品を創りあげるキッカケを西鶴に与えたとか、彼の文芸的発展にとってこの習作はモニュメンタルな意義を有(も)つものである、という程の意味なら、それは「一代男」の歴史的意義でもなんでもない、「五人女」「置土産」等々の作品を理解するための、乃至(ないし)は作家西鶴を理解するための資料として 役に立つ、ということでしかないだろう。作品のもつ資料としての意義 と、作品そのものの歴史的意義とが混同されてはならない。私はこの二つをきっぱり区別する。
 で、歴史的意義ということに対するそういう履き違えが履き違えられたなりにそれが一般の通念となって了
(しま)っていた以上、文芸史的地位〔乃至(ないし)は価値〕は高いが芸術的には余り優れた作品ではない、といった評価がこれ迄、いやそして今もなお可成(かなり)おおっぴらに行われているということなども敢(あ)えて怪しむに足りない。そこで、今後はいっそのこと、芸術的に優れた作品、芸術的価値の高い作品を文芸的にも価値の高い作品という事であっさり片付けていったらよさそうに思われる。ところが、なかなかそう簡単にはいかないのである。いったい「芸術的」「非芸術的」という判断が、如何(どう)いう基準にもとづいて、如何いう文脈から語られているのであるか、という点への考察がそれに先行しておこなわれなければならないだろう。評価するということ、そのことの意義がいちばんはじめに反省されなければならないだろう。作品評価の規準の問題がここに問題となってくる。


    

 仮名草紙から浮世草紙への発展は、近初町人文芸におけるロマンティシズムからリアリズムへの発展の過程を示している。このことは今では立派な常識である。ところで、ひとがロマンティシズムの文芸といい、リアリズムの文芸といい、或
(あるい)はロマンティシズムからリアリズムへの発展という場合、ロマンティシズムの、リアリズムの、或は発展ということの概念内包がしっかり把(とら)えられているかと云うと必ずしもそうだとは限らない。有体(ありてい)にいえば、仮名草紙から浮き世草紙への展開をひとが「発展」と呼んでいるのは、それがロマンティシズムからリアリズムへの発展を言いあらわしているからでも何(なん)でもない、「非芸術的」文芸から「芸術的に洗練された」「芸術的に深みのある」文芸への、実用文芸から純文芸への歩みを示しているという唯それだけの理由からでしかないだろう。敢(あ)えて私が提案する迄(まで)もなく、芸術的価値の有無による作品評価が、事実これ迄の文芸史における価値評価の基礎をなしていたのである。さればこそ、「一代男」を、それが「非芸術的」な仮名草紙から自らを区別し、芸術的に優れた作品を生みだすキッカケとなった、というその「歴史的意義」において高く評価し、「五人女」「置土産」等々との芸術的価値の比較において低く評価する、といった価値評価が行われて居たわけでもあったのだ。かくて、謂(い)うところの「歴史的価値」は、芸術的価値との一応の対立にも拘(かかわ)らず実はなんら対立的なものではなく、もともと芸術的価値に隷属するところの、いや一元的 に芸術的価値に統一されてあるところの、謂(い)わば特別の場合に限って用いられる芸術的価値の別名に外ならなぬものであったという事は、も早(はや)(おのずか)から明かであろう。
 では、(い)うところの「芸術的」「非芸術的」ということ、「芸術的価値」の高い低いということ、それはいったいどういうことであるのか。
 概括的にいって、仮名草紙が、素朴な技巧をしか用意していないということ、表現にフレクシビリティーを欠いているということ、それは否み難い事実である。仮名草紙が非芸術的であり、芸術的価値の低い文芸であるとして評価される所以
(ゆえん)のものである。しかし、概念的であるということ、技巧が素朴であるということ、そのこと自体 が文芸作品にとってさまで致命的なことであるだろうか。私はそうは考えない。仮名草紙の表現がフレクシビリティーに乏しいということを明確な事実として承認する私は、しかしながら、却(かえ)ってその故にこそそれらは十分芸術的ででもあり得たのではないか、という真反対な結論に到達するのである。なぜ、そういうことになるのか。
 芸術的でないということ、言葉の正確な意味での 芸術的でないということ、それは文芸作品にとってまことに悲しむべきことである。余りにも芸術的でない、いいかえると芸術性の稀薄な 文芸作品は、結局芸術的効果を挙げ得ないで、芸術本来の目的に副
(そ)い得ないものとして了(おわ)らざるを得ないであろうから。文芸作品は飽(あ)くまで芸術的であらねばならぬ、芸術性に浸透してあらねばならぬ、と私も考える。
 ところで、作品の芸術的・非芸術的ということは読者 を抜きにしては絶対にいい得ない。早い話が、吉屋信子氏の小説に眼を腫
(は)らし鼻を詰まらせている文学少女に島木氏の作品など恐らくは興味は持てまいし、それは少くとも全身的な享受の対象とはなり得ないだろう。島木氏の作品を「吾等の文学」として受取る程の人にとって、吉屋氏のものなど一向面白くも何(なん)ともないだろう。それではいったいどちらがヨリ芸術的なのか。だからその判断は読者に挨(ま)つの外はない、というのである。吉屋ファンにとっては氏の小説は十分「芸術的」なのだし、芸術的価値 は高いのである。島木氏のものなど、未知の別世界を覗かせてくれるという点で読物的な興味は感じはしても、試練に耐えて進む作品中の人物に(恋愛道の騎士に対すると同じセンチメンタルな)同情・共鳴は感じはしても、所詮それだけのことでどっちみちしっくりは来ないのである。いや、本人は十分わかったつもりでも、その鑑賞 は、島木氏が期待したところの、或(あるい)は氏のよき享受者(本来的な読者)が受取ったところのそれとは全然質を異にしたものだ、ということなのである。(島木氏の作品が、氏の予想したところの読者層に、事実所期の働きかけをなし得ているかどうか、ということはこの場合一応別問題である。)
 理屈はこれと同じことである。今日の私たちに迫って来ないからといって、やはり当時の読者にも仮名草紙は面白くなかったに違いない、ということにはならない。私たちが文芸にフレクシビリティーを要求しているにも拘
(かかわ)らず、仮名草紙がそういう表現を示していないからといって、それを頭から非芸術的な作品だと決めてかかるのは身勝手というものである。文芸史の取扱いに於(お)いてはそういう我儘(わがまま)は許されない。
 仮名草紙(わけても前半期における)は、これ迄も屡々
(しばしば)述べてきたように(国語と国文学・昨年一月号「仮名草紙小論」、同誌・本年三月号「西鶴論断章」など参照)、集権的封建制建設の過程にあって政治的・文化的啓蒙の使命を帯びて登場したところの、或は中世的残存勢力の自己擁護のために動員されたところの文芸の謂(い)いであった。かかる目的奉仕のための文芸――近初啓蒙期における実用芸術としての仮名草紙が、素朴な技巧をしか用意し得なかった、また、表現にフレクシビリティーを欠いていたということなども、当時の文化的水準を計算に入れた場合、止むを得なかったというよりは寧(むし)ろ、必然的にそうした表現を採らざるを得なかったし、またそうした表現を示したればこそ、そうした創作方法によったればこそ、それらは十二分の芸術的効果をもって読者に所期の働きかけをなし得たわけでもなかったか、と考えざるを得ないのである。何遍もいうが、作品の芸術的・非芸術的ということは読者を抜きにしては断じて云い得ない。なんらの文化の伝統をも教養をも持合わせていなかった近初の新興町人――こうした特定の層 が仮名草紙に予想されたところの読者であったのだ。「仁勢(にせ)物語」「竹斎」等々模擬物がいいあらわす卑俗化された古典の再制作、「可笑記」「他我身の上」等々の教訓物が示している様な比喩的・概念的な教説の叙述、素朴な技巧をもって表現されたそうしたものこそ、謂うところの「芸術的に洗練された」作品にもまして彼等の芸術感につよく迫りゆくものであったろうことは想察するに難くない。仮名草紙を非芸術的な文芸であり、芸術性の稀薄な作品であると無反省に頭からそう決め込んでいる世間の常識に敢(あ)えて反発する所以(ゆえん)である。
 事態はかくしても早
(は)や明(あきら)かである。仮名草紙の表現が概念的 であるということにしてからが、実は今日の私たちが受取ったところの表現がそうだ、というだけのことなのであって、そのことからしてすぐさま、仮名草紙に予定されたところの読者=近初の町人にとってもそれら作品の表現がやはりそうしたものとして理解されたに違いない、ということにはならない。身近な処に例を覓(もと)めると、――講談や浪花節などに語られている世界であるが、それは私たちには(少くとも私には)てんで空々(そらぞら)しくてしっくり来ない。清水の次郎長でもいい、国定忠治でもいい、そこに出てくる人物という人物が、筋の運びが、問題の把(とら)え方が、凡(すべ)てが凡て割切れすぎていて一向に実感を伴わないのである。人間の具体的な姿は、現実の人間生活の姿というものは、ああした一面的なものではない、もっと多角的な、もっと個性的な微妙なものなのだ、聴いていてそうした不満を覚える。私たちは、表現にもっともっとフレクシビリティーを要求する。けれども、私たちが肉づけの足りない憾(うら)みを感じようと感じまいと、それとは無関係に、浪花節ファンは寄席の定連(じょうれん)は、事実手に汗を握り血涌(わ)き肉躍(おど)って聴入っているのである。この種の層にとって浪花節の表現は概念的であるどころか、十分現実的であり十分具体的なのである。表現の概念的・具体的ということは享受者層を度外視しては断じて云い得ない。
 が、しかし、普通、仮名草紙がフレクシビリティーに乏しいと云われる場合、技巧が素朴だ、という程の意味に用いられている。その限り、習慣にしたがって、それが概念的な表現を示している、といった云い方をすることとても一応差支
(さしつか)えはない筈(はず)である。そうしてまた、私なども、そういう意味から、格別の規定もおこなうことなしに無条件に「概念的」という言葉をこれ迄使用して来たのであった。それを今頃になって殊更(ことさら)めかしく用語の詮議だてをしようとするのは、とかく「概念的」ということ(実は私たちの鑑賞に堪えない程度に技巧が素朴であるということ)が、すぐさま「非芸術的」ということに置き換えられ、それが一般に「価値」の問題に結びつけて考えられがちである、という事態をはっきり見せつけられたからであり、事情がそういうことになっていると知ったからには「概念的」という言葉の意味内容も、も早この儘(まま)曖昧にして投げ出して置くわけにはいかない、という点に思いを致したが故に外ならない。
 技巧の素朴・複雑ということが、すぐさま作品の「芸術的」「非芸術的」ということにはならない。この問題は一応検討済みである。そうして「概念的に洗練された作品だ」といったこれ迄の古典に対する判断が、実は「批評者」の
純粋な 鑑賞者としての立場からなる判断に外ならぬものであったということ、いいかえれば、私人としての資格において、一身上の立場から、古典を、自己の鑑賞に堪えうる様な表現を示している作品とそうでない作品とに分類し、それぞれに対して「芸術的」「非芸術的」というレッテルを貼りつけた、謂(い)わばその底(てい)の判断に過ぎぬものであったという事などについては前に述べた通りである。これを要するに、読者〔作品の制作に際して予想されたところの読者〕によって理解された作品の表現と、鑑賞者としての「私」がその作品〔古典〕から受取ったところの表現とを混同し、一つの作品はどの時代のどの層の人々が読んでも同一の表現として読みとられるものであるという風な考え違いをしていた点に、読者を具体的な歴史的人間 として考えなかった点に、これ迄の文芸史家が不知不識(しらずしらず)おかしていたところの誤(あやまり)の根源があったのである。
 私は嚮
(さき)に、吉屋・島木両氏の文芸に対する読者層それぞれによる(本来的な読者とそうでない読者との)鑑賞の相違〔作品の表現に対する理解の仕方の相違〕を語るに際して「芸術的価値」の問題に触れたのであったが、慧眼(けいがん)な読者諸賢は、そこからして「芸術的価値」なるものが、所詮は読者めいめいの鑑賞を通してそれぞれに受取ったところの感動の度合(どあい)をいいあらわす以外のものではないという点に、そうして、殊更(ことさら)古典に対してそれの「芸術的価値」が云々される場合、実は「批評者」それぞれの、作品に対する私人的な嗜好(しこう)が色とりどりに語られているに過ぎないという点に夙(つと)に気づかれたであろう。


         


 謂
(い)うところの「芸術的」「非芸術的」ということ、「概念的である」とか「芸術的に洗練されている」ということ、乃至(ないし)は技巧の素朴・複雑ということ、そのこと自体が作品評価の規準に決してなりはしない。それは私たちにとっても早(はや)批判済みである。それでは、読者を計算に入れた場合の、言葉の正確な意味での芸術的に優れた作品、予想されたところの読者に対して所期の働きかけをなし得たところの作品、それを直(ただ)ちにプラスに価値づけられる作品として規定していいだろうか。そうではあるまい。その働きかけの仕方こそ、その作品が事実読者をどういう方向に組織づけたのであったかということこそ、私たちにとって問題にされなければならない点であるだろう。(芸術作品は飽くまで芸術性に浸透してあらねばならぬ、という事にしてからが、結局、所期の働きかけをその作品が出来るだけ能率よく果す手だてとして、是非ともそうしたありかたを示していなくては不可(いけな)い、という意味であるだろう。)「芸術的価値」の実体を明らかになし得た私たちにとって、それはも早自明である。読者〔予期された読者〕が受取ったところの作品の表現、それが事実読者をどういう方向に組織づけるものであったかということ、いいかえれば、作品の制作された時代にあってそれが現実 に対して分け有(も)ったところの役割、作品の果したところの歴史的役割がどの様なものであったかということ、そのことこそ私たちが最後に問題にしなければならない点であるだろう。作品の歴史的意義の評価こそ、文芸史における作品評価の窮局の目的であらねばならぬと考える所以(ゆえん)である。
 ところで、こうした私たちの考え方に対しては、これ迄もずい分いろいろな批難が浴びせかけられているのであるが、とりわけ、私たちの主張する文芸学は「結局、文芸を文芸として扱っていないものなのだから、それは本来文芸 学の名に値しない」とか「そういう問題の立て方では作品の個性的なものが解らずじまいに終って了
(しま)う」といった種類の批難がいちばん多い。そうして、そういう論は「文芸を文芸としてとり上げるためには、作品の個性を知るためには、矢張り鑑賞が必要だ」とか、「やはり鑑賞能力は優れているに越したことはない」という処(ところ)に落着くらしい。この種の考え方(「鑑賞」を遮二無二(しゃにむに)方法としての資格 において要請しようとするこの種の考え方)に対する私たちの批判は、結局前章の記述に尽きているが、之(これ)を要するに読者を具体的に歴史的人間として考えないという点に、読者の積極的な役割を無視しているという点に根本的な誤(あやまり)があるのである。そうして、今は唯(ただ)、次のような反問をこうした方々に向って呈しておく。論者のいう様な意味での「文芸を文芸として」扱うということは、自分の心を娯(たの)しませること以外、いったい何の役に立つのであるか。鑑賞を手段としたら、いったいどんな風に作品〔古典〕の個性が解るのであろうか。
 こうした愚劣な論議が、後
(あと)から後からと蒸(むし)返されているというのは、外でもない、評価するということ、そのことの意義に対する無反省に起因するものなのである。あの作品よりもこの作品の方が優れているとか、いやそうでないとかいうことを喋(しゃべ)っていれば、それで評価が成り立つという風に考え違いをしておったればこそ、人は、「鑑賞」を如何(どう)でも学問の体系の中へ持込もうという様な筋の通らぬ無理な相談に耳を貸すことにもなっていったのである。私たちは、前に「学問というものは、自分の娯(たの)しみにするものでもなく、単に体裁の好い体系をつくることでもなく、唯よりよき実践のためのより正しい認識の整理をこそ目的にするもの」(文学・昭和十一年九月号「文芸学への一つの反省」)だ、ということについて語ったのであるが、学問というものの性質が本来そうしたものである以上、そうして私たちの文芸史学が文芸学の体系を構成する一部門としてある以上、評価という操作も学問本来の目的に適(かな)うものとして、現実の課題へのヨリよき応答を目指すものとして行われなければならない。したがって、それはまた、窮局において、今日の文芸を正しく将来せしめるための、そうした目的のための過去への遡及(そきゅう)でなければならない。そうである限り、私たちが古典の評価に際して、どの様な作品をとり上げるべきかということ、そうしてまた、それをどの様な角度から問題にしていくべきかということも、啻(ただ)に私たちの当面している現実の要請によって規定されて来るべき筈である。――之を要するに、文芸史における古典の評価は、その作品を問題とすることの現代的意義の評価にはじまり、それの歴史的意義の評価に了(おわ)る、唯その一つの規準を規準としておこなわる可(べ)きものなのである。
* 文芸学の方法論的体系は如何(どう)構成されなければならないか、という問題に対する私たちの考えは、乾・吉田両氏との共同制作『文芸学への一つの反省』〔文学・前掲〕の続論形式で後に発表する。なお、嚮(さき)に触れた「芸術性」の問題についての具体的な考察も、当然同じ論稿の中で試みられていく。


        四

 従来こうした点への反省を欠いていたために、文芸史は、ひどく歪んだ、片輪
(かたわ)なものにされていたのである。文芸史は、かくして今日その全(まった)書き換え を必要とする時機に遭遇している。そうして、この稿はまた、文芸史の書き換えはどの様な基線に沿ってなさるべきかの問題に答えることを目指して書き始められたものであり、さしづめ近世文芸史に於(お)いておこなわれているところの作品評価(およびその評価の方法)に吟味を加えていきながら、従来の文芸史の殆(ほとん)どどれもを規定している方法論の論理的構造を明(あきら)かにし、それの根本的な欠陥を発(あば)き出すことによって、謂(い)わば、建設のための破壊の操作を試みようとしたのであった。そうして、私は、かかる破壊をおこなうことの中に必至的に用意され来たったところの近初町人文芸論の一くさりを、この章に於いて語ることを予定していたのであったが、も早締切日も遙(はる)かにすぎ、所定の枚数も超過している始末であるから、他の機会を期してひと先ず筆を置く。
拙稿『西鶴論断章』(国語と国文学・三月号)を併(あわ)せ読んで戴ければ、いちばんしあわせである。
――昭和十二年三月五日稿――
    

資料:鑑賞主義論争熊谷孝 人と学問次頁