本誌前号の読者は、西下経一氏が「批評ではなしに感想を」の中で、岡崎義恵氏の「藤村論序章」(「文学」八月)を激賞していたのを記憶しているだろう。それは恐らく褒められる方でてれ て了(しま)いそうな、美文句調の感傷的詠嘆だったが、兎に角それ程の激賞に値する仕事を見せる岡崎氏が、「批評」という同人雑誌では、一個の「喜劇役者」として冷笑されているのだ。
国文学の訓詁主義・文献学的固定化に対しては「革命的」な批難者であるこの大学教授も、「人生観上」に於ける苦悩を「日本的なるもの」への至上歓喜とすり代えた点は、まさに刻下の非常時を背景に喜劇役者として登場したものの一人と見ざるを得ないであろう。(椎崎法蔵氏「現代日本文学評論史評」)
世は様々の感がないだろうか。(中略)
その他、その他、相似た現象は数えたらなお沢山挙げられそうだが、それだけ九月号の諸雑誌を漁っていた私には「乱世」の感じが強く来た。それは些(いささ)か没落者的な感傷だが、手近にいる近藤忠義氏の如きも、大分前のことではあったが、「今年は空砲ばかり撃っている(氏が多く間接射撃的な一般論を発表していることを意味するのだろう)が、来年位から実弾射撃だ(各個に撃破の意気込みかと思う)」などと云って、張り切っていた位だから、此の乱世的状態は、恐らく今後益々顕著化されて行くことだろうと思う。が、それも実際は止むを得ない――と云うより寧ろなければならない現象なのだ。(中略)
楽浪書院の『島崎藤村研究』に「島崎藤村と現実主義文学」という好評論を示していた椎崎氏を、僅(わず)か「喜劇役者」の一語で、この場合の例証に挙げたのは少し気の毒だったが、兎に角岡崎氏の「藤村論序章」は、その依って立つ心理主義的な研究としては、恐らく行き着くところまで行きついているのではないかと思う。そういう力量と究明への努力とを示す人を、よしんばより高い立場に立つにしても、「敵ながら」と観ずるだけの沈潜が無ければ、その人にも結局、適切周到な仕事は望まれないのではないかと思うのだ。それは雅量とか所謂(いわゆる)武士の情とかいう種類のものを指しているのでは無論ない。ただ対象の尊重とそれへの深い沈潜とが望ましいのだ。椎崎氏の場合ではないけれども、反発することにのみ急で――或はそういう行き方をするが故に、自己の所論の周到さや透明さをさえ失わせている議論の如何に多いことか。私はそれを避けたいと思うのだ。(中略)
二三ヶ月前近藤忠義氏によって爆弾が投ぜられて以来、本誌上などでは「解釈と鑑賞」の問題が随分面倒な問題になっているようだが、その面倒さが、すべてとは無論云えないけれども、少くとも或る程度まで、此の「鑑賞」という語の曖昧な用法から来ていることは、確実に断言出来る。例えば鑑賞排撃論者の側では、多くの不明確さを残しながらも、「鑑賞も亦(また)解釈だ」というに近い意見を示している。(中略)
同じ雑誌(「文学」)熊谷孝他二氏の「文芸学への一つの反省」は、上記稍々(やや)他に拘泥(こだわ)り過ぎて、論旨の暢達(ちょうたつ)と透明とに十分であり得なかったものの一例であろう。反発に費す力を、組織する努力に向けかえることが望ましい。大きな期待に値するものが、既に揺曳(ようえい)しているのだから。(以下略)
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