資料:鑑賞主義論争
「国文学誌要 4-3」 昭和11(1936)年11月号掲載   

    
 研 究 時 評

 時 評 的 問 題 一 二
  ――吉田精一・片岡良一両氏の所論に関連して――
熊谷 孝
    
   一  時評というもの (吉田精一氏の批判に応える) 

 時評というものが、若(も)しも行き当りばったりな、とりとめもない「ものいい」をしか意味しないものであるならば、所詮それは在ってもなくてもいい無用の饒舌(じょうぜつ)に過ぎないであろう。殊更(ことさら)、それがセンチメンタルな褒貶(ほうへん)に終始する、その底(てい)のものでしかない場合、無益有害の贅物(ぜいぶつ)でしかないだろう。時評は、もともとそういった性質のものであってはならぬ筈(はず)である。
 ところが、今日
(きょう)この頃頻(しき)りにおこなわれている時評論の中には、数多い批評論の中には、いま云ったような類(たぐい)の無責任な「ものいい」を饒舌に書いてのけているものも、そうしてまた、感情的な「批評」に了(おわ)っているものなども全くないわけではない。――自分のことを引合いに出して大変恐縮であるが、本誌前号所掲の拙稿に対する吉田精一氏の論評(「解釈と鑑賞」八月号・国文学時評)などは全くもってそれのいい例である。
 『大へんいせいのよい論文』だ、という氏の言葉は、拙稿に対する氏御自身の感想を率直に述べられたものだ、という風に解してひがまず承
(うけたまわ)っておく事にするが、私が『岡崎義恵氏の文章をひいて』『「日本文芸学」を鑑賞主義だときめつけた云々』(圏点=太字イタリック体 引用者)の一条(くだ)りに至って一言しないわけにはいかないのである。というのは、第一現象記述それ自体にひどい間違いがあるからなのだ。同拙稿をちゃんと読んでくれた人なら誰だってわかる様に、私は「岡崎氏の文章」など一行半句も引用しはしなかったのだ。長ながと引用したのは、岡崎氏ならぬ全く別人の論文であったのである。これでは、いったい吉田氏の所論が、拙稿を読まれた上でのそれなのか如何(どう)かをすら疑わざるを得ない。せいぜい、ざぁっと眼をとおして、行間に「文芸学」とか「価値」といった文字 を見つけ出すや否や、直観的 に「岡崎氏の文章だ」と独(ひと)り断(ぎ)めに思い込んだんだろう、と云われても仕方があるまい。蓋(けだ)し軽率の譏(そし)りは免れ得ないところである。槍玉に挙げられた当の本人も迷惑なら、間違って引合いに出された岡崎氏にとっては固(もと)より迷惑限りない話だし、でたらめを真(ま)に受けて読まされる一般読者こそいいツラの皮というものだ。こうした種類の時評は、在ってもなくてもいい、いや在っては困る困りものである。こういう事が度重なると、やがて人々は「時評」というものに対して信を置けなくなるだろうし、「時評」は軽い意味での読物ぐらいにしか扱われなくなって来るだろう。そうして、それは、やがて「時評」などというものは学術雑誌にとって無用の長物(?)、といった古めかしい考え方をしている人たちに対して格好の口実を与える事にもなりかねないのだ。だから、これは、単に吉田氏と私との間だけの問題ではない。敢(あ)えて楽屋落ち的な話題をとり上げた所以(ゆえん)である。
 ついでだから、いまひと言いう。――吉田氏は、以上のような誤謬
(ごびゅう)に基(もとづ)いて、次のとおりの云い方で私の論考を「批判」される。
 『しかし文芸の価値についてにせよ、「鑑賞」の意味にせよ、十二分に考えぬかれたのちの「日本文芸学」の主張であり、従来の岡崎氏の実践だったのだ。そのことをよく考えることが、あなた自身の主張を批判することになりはしまいか。』
 岡崎氏の「日本文芸学」の主張に対する私たちの見解は、『文学』九月号所掲の論文「文芸学への一つの反省」(熊谷孝・乾孝・吉田正吉三名による共同制作)に詳しいからそれを参照して戴くことにして、ここでは吉田氏の所論がいかにセンチメンタルなものであるかを、そうして、そういったセンチメンタリズムに促(とら)われた結果、どの様な混乱を氏御自身惹(ひ)き起していられるかを一応具体的に明かにしておこうと思う。したがって、岡崎氏の立場そのものは私にとって当面の問題ではない。相手が岡崎氏だろうと、誰だろうと、この場合全く同じことなのである。飽くまで一般論として問題を扱うことにする。
誰でもいい、ある学者が刻苦研鑽真摯
(しんし)な態度をもって学的「実践」にその半生を捧げたとする。そうした「人間的真摯」は、それ自身確かに尊敬に値するものである。当人の学的業績がどの底(てい)のものであるか、という事とは一応無関係にそうなのである。実績がよしくだらぬものであったとしても、その事は、彼の態度の不誠実を証明することに決してなりはしない。それと同時に、その学者が(主観的に)真摯な学究的態度を持して精進を続けた、ということが、すぐさま彼の方法的態度の正しさ、ひいてはその学的業績の偉大さなどの反証になり得る筈のものではないのも云うまでもないことだ。彼の業績が、どれ丈(だけ)の学問的意義を有(も)つものであるのかとか、それが果して正しい学問の方法によって貫かれているものであるのかとか、といった吟味は彼の人間的誠実さとはかかわりなしに、全く別個の基準に基(もとづ)いてなざるべきである。それとこれとを混同し『十二分に考えぬ』い『たのちの』『主張』だからとか、『従来の』『実践』の成果だからといった事にかかずらって、肝心の『主張』そのものの批判、厳正な学的批判に際してセンチメンタルな態度を持ち込むなどいう事は、いちばん不可(まず)いことなのである。――『十二分に考えぬかれたのちの』『主張』だったら、いったいそれが如何(どう)だと吉田氏は云われるのか。『そのことをよく考えることが』如何して私『自身の主張を批判することにな』るのであろうか。
 こうした種類の、わけのわからぬ事を持って回る感情的な「批評」、批評性を喪失した(いや、はじめから批判性などは持ち合せない)時評が、ともかく人並
(ひとなみ)な顔をして通っているところを見ると、「時評」の意義、それの学問的な意義が案外世間に徹底していないのかも知れない。そこで、私は、次の章で、「時評」乃至(ないし)時評性の問題に触れていくことにする。


   
二  時評というもの(2)

 
時評というものが、若(も)しも何々評判記といった風なものだったり、乃至はペダントな言い回しをすることによってそれを色揚げした程度の読物の謂(い)いであるなら、それは学術雑誌にとって無論あらずもがなのものである。「時評」は、本来その様なものの謂いでもなければ、またそういうもので在ってはならぬ筈である。――
 私たちは、嚮
(さき)に「学問というものは、自分の娯(たの)しみにするのでもなく、単に体裁の好い体系をつくることでもなく、唯よりよき実践の為のより正しい認識の整理をこそ目的にするものだ」(前掲「文芸学への一つの反省」)ということについて語ったのであるが、学問というものの性質が本来そういうものである以上、私たちの研究そのものが、つねに生ける現実との正しいかかわりに於いて在らねばならぬのは云うまでもない事だ。現実から遊離した「研究」、それは所詮(しょせん)閑人の骨董(こっとう)いじりに過ぎぬものであり、それはだから好事家(こうずか)の道楽仕事ではあっても、学問性の名において己(おの)れを主張しうるものでなど断じてありはしないのだ。
私たちの研究は、つねに現実の課題へのよりよき応答を目指すものとしてあらねばならない。そうあってこそ、私たちの研究も一つの学的操作であり得るわけなのだから。(私たちが、作品論に際して、どの様な作品をとりあげるべきか、ということ、そうしてまたそれをどの様な角度から問題にしていくべきか、ということは、ひとえに私たちの当面している「現実」の要請によって制約されている。したがってまた、私たちが、どの様な資料の考証に身を打ち込むべきか、ということも、その資料をとり上げることの現代的意義への科学的反省に基いておこなわるべきである。だから、それらは理論は理論、資料研究は資料研究、といった風にバラバラに切り離して成り立つ筈のものではなく、本来一つの方法論的立場に統一されておこなわる可(べ)き性質のものである。かかる反省を欠いたまま、己れの興味の赴くに任せて作品に沈潜 し、資料の考証にマニァ的努力を傾けていく処に鑑賞主義・資料主義 の陥穽(かんせい)も用意されているのである)。
 現象の正視と批判は、だから私たち学徒の断じて怠
(おこた)ってはならないつとめ なのである。殊更、ときは「乱世」(片岡良一氏・後出)なのである。現象 に足場を掬(すく)われるの醜態を仮初(かりそめ)にも演じてはならぬ心すべきとき なのである。現実は絶えず私たちに向って問題を提供している。
 私たちは伏目
(ふしめ)がちであっては不可(いけな)い。責任を回避してはならない。いつ如何なるときも、まどらかな眼をもって現象を正視し、批判していなければならない。私たちは、まず何よりも批判的・批評的であらねばならない。目まぐるしく移り行く現象に対してそうなのである。
 ここに至って、時評の意義はも早
(はや)自明であろう。殊更私たちの学界は「乱世」なのである。私たちが、自らの研究を真に学問 の名に於いてあらしめようがためには、つねに批判的・批評的であらねばならない。他への批判は、また同時に 自らへの批判――自己批判でもあるからである。かかる「乱世」にあっては、破壊 はつねに建設 を意味するからである。破壊があって、然(しか)る後に建設があるのでもなければ、破壊は破壊としておこなわれ、建設は建設として別個におこなわれるのでも決してない。破壊はつねに建設の第一歩なのである。建設の精神のないところに破壊が如何(どう)しておこなわれ得よう。建設は、つねに破壊を通してのみおこなわれる。だから、私たちが、反発すべきものに対して反発的であるということは、私たち自身建設的な立場に立っている、という事実を立証するに他ならない。いいかえれば、私たちの学問が、批評精神によって貫かれている、ということの一つの具体的ないいあらわしに他ならないのである。(学問が、もともと批判的・批評的であらねばならぬ、という事、またそういうものであってこそ学問性を今日に主張し得るものでもあるのだ、という事などについてはも早贅言(ぜいげん)を要すまい。)したがってまた、かかる反発はつねに自らの学問の体系化への努力と共におこなわれるものでもあるのだ。
 最近、国文学批評が流行しはじめたという事も、かくして、決して故なき事ではなかった。しかも、それらの時評論の中に批評性なき、センチメンタルな「批評」が横行している、という現象は正に「乱世」がいいあらわす悪しき側面の反映であらねばならない。批評性の喪失は、学問性の喪失を意味する。かかるえせ 学問の跳梁
(ちょうりょう)する間は、私たちも当然反発的であらねばならない。かかるえせ 時評が世間に通用している間は、私たちも果敢な闘いを闘わなければならない。そうして、また「時評」の時評をも私たちは試みなければならない。方法的な操作による時評をもってそれに応えなければならない。自明のごとく、時評も一定の立場に立つ学的な操作であらねばならぬのだから。
 が、私たちは、何も謂うところの時評形式に対してのみそういう事を要求しているのではない。
作品論・作家論の形式に於いて、おしなべて研究論文そのものが、なんらか時評性を獲得していなければならないという事なのだ。それは今更云うまでもないことである。学問的批評精神に貫かれている限り、それが現実の課題への応答を目指して制作されたものである限り、如何なる論文といえども必然的に時評的な問題を問題としている筈なのだから。そういう論文であってこそ、また、学問的な意義を今日に確保し得るものでもあるのだから。

 以上簡単ながら、時評乃至時評性に関する私たちの考えを率直に述べてみた。学問というものが「自分の娯しみにするものでも」「単に体裁の好い体系をつくることでもな」い「唯よりよい実践の為めのより正しい認識の整理を目的」とするものだ、と考える限り、そういう結論にならざるを得ないのである。
 ところが、
片岡良一先生が、『解釈と鑑賞』十月号・国文学時評に於いて採られた批評の態度は、上述私たちの主張するそれと全く矛盾するものの様に考えられるのであり、ひいては学問そのものに対する考え方のズレ(先生と私たちとの)がそこから判然と読みとられるようにも思われるのであり、かたがた同時評における私たちの論文
(前掲『文学』九月号「文芸学への一つの反省」)への御批評について反問致したいこともあり、ここに先生の時評論を対象としながら私たちの考えをいま一応整理して行き、そうした上で先生の厳正な御叱正・御教示を仰ぎたく考えるものである。


   
 片岡良一先生への質疑

片岡先生は、同時評論において、九月号の諸雑誌に掲載された諸論考を対象として、例えば風巻氏と島津氏との文学史的時代区画の論に見られる方法的態度の相違など等々を指摘して、『私には「乱世」の感じが強く来た』ことを述べられて、『此の乱世的状態は、恐らく今後益々顕著化されて行くだろう』し、『それも実際は止むを得ない――と云うより寧ろなければならない現象』である所以(ゆえん)を説明され、ひと先ず次のような明快な結論を与えられるのである。
『……惰性的に従来から使い慣れた尺度に執着する者と、新しく設定された尺度に遵(したが)おうとするものの対立相剋(そうこく)は、無論避け得られないことなのだから。だから私は、疲れた精神に「乱世だ」などと感じはしても、別に乱世を悲しもうとしているのではないのだ。』『……無方針が一定の方向に鋳固(いかた)められる前の沸騰と思えば、此の乱世的混沌も却(かえ)って悦(よろこ)ばしい「夜明け前」を感じさせるものになって来るのだ』
ところが、そのすぐあとで先生は、
『だからそれも決して悲しむべき事となど考えているのではないけれども、ただこうして現在のような対立と相剋の時代を生きる人々が、深く沈潜する代わりに徒 (いた)ずらに反発するのは、余り嬉しい現象ではないと思う。』(圏点=太字イタリック体 引用者)
とも云われ、俄然(がぜん)方向を転換されるのである。なぜ、『あまり嬉しい現象』ではないのか――
『闘争意欲の熾烈(しれつ)さが必然的にそれを結果するので、その意味では敢(あえ)非難にのみ 値するのではないけれども、それでは結局自分自身の理解を概念的な固さと窮屈さとに閉じこめて了(しま)うだけではないかと怖れるのだ。』(圏点=太字イタリック体 引用者)
 ここに至って、『乱世的混沌も却って悦ばしい「夜明け前」』だ、と観じられた先生の姿を再びもう見ることはできないのだ。そうして、それ以後の、本論ともいうべき部分全般にわたって辿(たど)られる先生の論脈は、かかる「乱世」を輝かしかるべき「夜明け前」になぞらえる人のそれでは決してなく、唯ひたすらに乱世の「悪」を、しかも『惰性的に従来から使い慣れた尺度に執着するもの』の悪をではなしに『新しく設定された尺度に遵おうとするもの』の「悪」を唯もういとわし気に眺める人のそれとして一貫されていくのである。
 若(も)しも、片岡先生の真意がそういう処にあるのではなく、新しく興りつつあるもの、若きが故の致らなさへの戒(いまし)めにあるとするも、そうした云い方は、単に逆効果を挙げるばかりだ、という丈ではなしに、それ自身『古い尺度に執着するもの』の云い分と寸毫(すんごう)変りないものでさえあるのだ。ということの些細〔仔細 ヵ〕はおいおいわかってくる。私たちの「反発」が、反発のための反発ではないこと、反発すべきものへの反発であること、そうしてそれは同時に建設的な操作であることなどについては繰り返すまい。(前章参照。)それは、だから『非難にのみ 値するのではない』どころか却って奨励さるべきものだ、と私は考えるのだ。『深く沈潜する代りに徒らに反発するのは、余り嬉しい現象ではないと思う』という御感想は、先生が個人としての資格において云われる分には一向差支えないけれども、こうした時評に於いて語らるべき性質のものではなかったのだと思う。そうして、若(も)し『現在のように対立と相剋との時代に生きる人々が』反発する代りに『深く沈潜』するとしたら、それはまた、いったい如何(どう)いう事になるのであろうか。
 更に先生は、『兎に角岡崎氏の「藤村論序章」は、その依(よ)って立つ心理主義的の研究としては、恐らく行き着く処まで行きついているのではないかと思う』と述べ、冒頭椎崎氏の岡崎評をここに持越して、
『そういう力量と究明への努力とを示す人を、よしんばより高い立場に立つにしても、「敵ながら」と観ずるだけの沈潜が無ければ、その人にも結局、適切周到な仕事は望まれないのではないかと思うのだ。』
と感想され、『それは雅量とか所謂武士の情とかいう種類のものを指しているのでは』ないことを註記されつつ、『ただ対象の尊重とそれへの深い沈潜とが望ましい』と希求される。
 しかし自明のように、論文に示された研究者の「力量」とか「努力」を高く買う、ということと、論文を貫く方法的態度を批判する、ということとは全く秩序の違った事柄である筈だ。私たちが論文の批判に際して問題にすべきは、先ずもって該(がい)論文の方法論的な論理の構造の分析にあるのだ。それが、どれ丈苦心して書かれたものであろうと、そんな事は、その論文がどれだけの学問的意義を有(も)つものであるかという事に直接なんの関係もない事柄なのである。にも拘(かかわ)らず、片岡先生が、対象への『深い沈潜』を要求せられるのは、いったい如何(どう)いうわけなのだろうか。(対象に深く「沈潜」するという事は、所詮対象に引摺(ひきず)り回されるという丈のことでしかないからである。――或は先生が、対象への『深い沈潜』ということを「対象への深い理解」という意味に通わせて用いられるのかとも思う。若しそうであるとすれば、『現在のような対立と相剋との時代』に『徒らな』『反発』を避けて『深く沈潜』せよ、と云われた『沈潜』の意味もよく解るような気がする。対象への深い理解は、そうしてまた、現象主義に堕せぬがための深い自省は、固(もと)より私たちにとって必要な事だからである。が、それにしても「理解」は単なる享受でない限り、必至的に「批判」を伴うであろうし、また正しい批判に裏づけられてこそ、それは深い「理解」ででもあり得るだろう。現象に足場を見失わぬがための「自省」の態度は、また、「批判」的な態度としてのみ存在し得るだろう。かかる私たちの批判的態度は、正しからざるものへ苛酷(かこく)な批判・反発としてつねに表現を有(も)つであろう。それをしも片岡先生は、『徒ら』な『反発』と云われるのであろうか。論文の批判が問題である場合、全く秩序の違った研究者の「力量」とか「努力」といった事柄を云々される点が私たちには解(げ)せないのである。)それとこれとをゴチャゴチャにする事は、(思い上った云い方をすれば)、結局、「雅量」を示すとか「武士の情」的な態度に出ることになって了(しま)うのではないか。(しかし先生は、前述のごとく、そういう態度を原則において否定していられるのである。)
『椎崎氏の場合ではないけれども、反発することにのみ急で――或はそういう行き方をするが故に、自己の所論の周到さや透明さをさえ失わせている議論の如何に多いことか。私はそれを避けたいと思うのだ。』
そう語られた先生は、やがて、
『同じ雑誌〔文学〕熊谷孝他二氏の「文芸学への一つの反省」は、上記稍々(やや)他に拘泥(こだわ)り過ぎて、論旨の暢達(ちょうたつ)と透明とに十分であり得なかったものの一例であろう。反発に費す力を、組織する努力に向けかえることが望ましい。大きな期待に値するものが、既に揺曳(ようえい)しているのだから。』
と、私たちの論文を批判される。……しかしながら、もう何遍も繰り返したように、『組織する努力』のないところに如何して「反発」があり得よう。(その「反発」が感情的(センチメンタル)な反発でない限り――。)反発は反発としておこなわれ、組織は組織としてのみ別個におこなわれるものであるならば、『反発に費す力』は或は力の浪費を意味するかもしれないし、また、「学問」というものが、単に体裁の好い体系をつくることを目的とするものであるならば、「反発」に力を費すなどは全く無益の所業であり、私たちは、「現実」の要請に対して眼を蔽(おお)い耳を塞(ふさ)いで、唯ひたすら書物の下積みになっていればよいだろう。しかし、学問は、もともとそういう性質のものではなく、私たちのよりよき実践の為のより正しい認の整理を目的とするものであるのだ。そうである限り、私たちの学問の体系化への努力は、必然的に生ける現実との正しいかかわりに於いてなされなければならない。また、そうである限り『反発に費す力を、組織する努力に向けかえる』などという器用な真似は絶対にできないのである。(私たちが体裁の好い体系をつくることを建て前としない限りは――。)私たちが、片岡先生のお言葉に従順であり得ない所以(ゆえん)もまたこの点に存するのである。
 私は、嚮(さき)に、研究論文なるものも、なんらか時評性を有(も)たねばならぬこと、そうして時評なるものも一定の方法論的立場に貫かれてあらねばならぬこと等について述べた。かかる観点からして、私は、九月号の諸雑誌に掲載された諸論文の中で、永積安明氏の「平家物語に関する基礎的覚え書」(文学)に注意を向けたのであったが、したがってこの論稿に対する片岡先生の御批評は、同時評論の中でも殊更私の関心を惹(ひ)くものがあった――。
『……そうした対象の究明や価値の設定と同時に、歴史学派としての主張を機会のある毎(ごと)に織込んでいるため一種の重厚さと説伏力とがある代りに、稍々(やや)煩雑(はんざつ)さを感じさせないでもない。』
 そう語られる片岡先生のお言葉は私にとってはすくなからず意外なものであった。なぜなら、先生は、最近「西鶴作品の世界」(国語と国文学・四月号)において明確な歴史学派的立場を示していられたからである。「西鶴作品の世界」を貫く方法的態度は、かつて先生が旧著「井原西鶴」に於いて示されたそれとは如何(どう)しても結び付き得ない迄のものであった。そうして私は、「井原西鶴」「西鶴作品の世界」との、かかるひらき を先生御自身の方法論的な転換・発展として好ましく受取っていたのであった。――ところが先生は、永積氏が『歴史学派としての主張を機会ある毎に織込んでいるため』『稍々煩雑さを感じさせないでもない』と云われるのである。歴史学派の立場に立たれる先生であるならば、上掲の学問論を持(じ)する程の先生であるならば、論文が時評性を有たねばならぬことの理由は、そうしてまた、その時評が一定の立場からなる主張として貫かれてあらねばならぬことの意義は、夙(つと)に御承知の筈である。永積氏の該(がい)論文が今日に確保する学問的意義は、まさにかかる批評性によって、方法的態度によって貫かれている点にあったのだ。ともかく『煩雑さ』を云々される点が私には全くもって解せないのである。云わでもの饒舌(じょうぜつ)をセンチメンタルな云い方で持って回る。その底(てい)のものに対して『煩雑さ』を云々される分には一向構わないけれども、云うべきこと、云わねばならぬことを正当に主張している論文に対して『煩雑』だ、と評される態度が私には解せないのである。
 更に、先生は、
『乱世的混乱は、(中略 引用者)頼るべき必然的現象 として起っているのだが、その混乱を更に著しく感じさせる偶発的な現象 の一つとして、用語の混乱ということが取上げられてよかろうと思う』(圏点=太字イタリック体 引用者)
と云われ、「古典」と「鑑賞」との二つの用語について、そのことを例証されるのであるが、かかる「用語の混乱」なるものも、「乱世」に於ける「偶発的」な現象でなどあるのではなくして、これまでの安易な、おおらかな言葉の用い方が「対立と相剋との時代」に際して明確な規定を要求され来(きた)ったことの、一つの必然的な現れだ、と私は考えるのである。が、この事もそれ自体としては、見解の相違といった風に簡単にあっさり片づけて了(しま)う事のできる問題なのだけれども、そういう言い回しのうちに、先生の批評の根本的態度が用意されている点が見遁(みのが)し得ないところなのだ。というのは、一つにはこうした曖昧な現象の捉え方が、やがて「鑑賞」という用語を例証とされた先生御自身の「鑑賞の問題」に対する曖昧な批評の態度を結果しているからでもあるのだ。先生は云われる――
『二三ヶ月前近藤忠義氏によって爆弾が投ぜられて以来、本誌上などでは「解釈と鑑賞」と問題が随分面倒な問題になっているようだが、その面倒さが、すべてとは無論云えないけれども、少くとも或る程度まで、此の「鑑賞」という語の曖昧な用法から来ていることは、確実に断言できる。』
それは現象を現象として眺められたものとして、その限り正しいであろう。ところが、
『……鑑賞排撃論者の側では、いろいろ云っているが、大体根本的には「鑑賞とは主観享受だ」と解釈しているのに対して、鑑賞尊重者の側では、多くの不明確さを残しながらも、「鑑賞も亦解釈だ」というに近い意見を示している。』(圏点=太字イタリック体 引用者)

『少くとも』鑑賞尊重派の人々は、よし漠然としながらでも、排撃派の云う意味とは相当ズレた、「鑑賞という語に対する解釈」を有っているのではないかと思う。』(圏点=太字イタリック体 引用者)
と云われ、また風巻景次郎氏の『鑑賞と解釈断想』などを例証として、「鑑賞排撃派」の恣意(しい)的な概念規定が徒らに混乱を招いたかのような口吻(こうふん)をもらされ、御自身「鑑賞」に対する見解をなんら明示していられぬのである。そうして唯、『そのズレが埋められたら』かかる混乱も、ともかく解決にまで齎(もた)らされるであろう、と希求していられるにとどまる。しかし、自明のように、時評――批評は本来一定の立場に基(もとづ)いてこそおこなわるべきものなのであり、また、そうであってこそ、時評は時評としての意義を有ち得るのである。片岡先生の採られたところの、明確には「鑑賞尊重派」の側にも立たず、もとより排撃派には組せず、といった、公平無私な、謂(い)うところの偏しない批評の態度は、結局、先生御自身「批評者」としての資格を放擲(ほうてき)された事を意味する。なぜなら、凡(あら)ゆる立場を超越するということは、結局「立場」を有たぬことに、立場の無い ことに等しいからである。(或は前者にも非ず後者にもあらぬ第三の立場 を先生御自身要請していられるものと解するも、かかる「第三の立場」なるものは、しかしこの場合絶対に成り立ち得ないことは自明である。なぜなら、「尊重派」の論が、『「鑑賞も亦解釈だ」というに近い』主張を『不明確』な『漠然とし』た云い方で持って回り、それをなにか学的な操作であるかに言いくるめようとして、大汗をかいている底(てい)のものだとすれば、そうして、私たち「排撃派」が、「鑑賞」なるものを方法(学問)の資格においては全然認め得ない、と明確に言い切っているのであってみれば、所詮「第三の立場」は、かかる『鑑賞という語に対する解釈』の『ズレ』に自らの折衷派的立場をひたすら要請しつつ、安逸を貪(むさぼ)ろうとするものに他ならず、しかもかかる折衷派 の立場は、学問の体系の内になんらか「鑑賞」の席を認めようことを前提とすることなしには設定され得ず、したがってそれは事実上「尊重派」的な 〔圏点。。立場に解消されざるを得ないが故に他ならぬ。)そういう、「より高い秩序」に於いて批評するということは、所詮私人としての資格において「ものいい」する丈のことに過ぎないであろうし、また、そうした「ものいい」が鑑賞派のための弁として性格づけられていることも、かくしてまた極めて自然であったのである。
【あとがき】 「鑑賞」の問題等々、なお論ずべき事は多いが、所定の二十五枚も、はや遙かに突破してしまったし、他の原稿はもうとくに校正刷が出来上ってしまった、という始末故、いまはひと先ず尻切れ蜻蛉(とんぼ)のまま擱筆(かくひつ)する。
 片岡良一先生に対して、敢
(あ)えて不遜の辞を弄してしまったが、止むに止まれぬ学的意欲の致す所、ひたすら先生の御寛恕(かんじょ)を乞うものである。なお、本稿の所説に対して、先生の厳正な御批判・御教示を仰ぎ得るならば、私の欣(よろこ)びこれに過ぐるものはない。
  現代文学に関する論文を、という編集部の命令で「麦死なずとコシャマイン記」というテーマで書きだしたのであったが、急に途中から模様がえしてしまった。迷惑をおかけした委員諸氏に深くお詫び申しあげる。

◇執筆者紹介 熊谷 孝氏 本学〔法政大学〕国文研究室助手 (「編集後記」より) 

資料:鑑賞主義論争熊谷孝 人と学問次頁