岐路に立つ国語教育 |
熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
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国語教育時評 16 |
国語教育の曲り角 (初出:明治図書刊「教育科学 国語教育」1966年11月号) |
職人的感覚の排除 国語教育における戦前と戦後というようなことにふれて、某月刊誌の九月下旬発行の号に雑文を書いた。話の枕に必要なので、一部、引用しておく。少し長くなるけど、お許しを。 ――私が子どものころに受けた国語の授業だが、(中略)本筋の作業の合い間、合い間に、“ことば”の意味 とかわけ とか解釈 と称するところの、要するに“ことば”の言いかえ作業をミッチリやらされた。その解釈 の時間にだが、子どもの心にもヘンだな、と思ったことがある。「すなわち」という“ことば”は、「とりもなおさず」とか「つまり」と言いかえればいいんだ、と先生が教えてくれた。ところが、である。その同じ時間に、読本の別のページに「つまり」という“ことば”が出ているのを、クラスのだれかが見つけて質問した。先生は言ったものだ、「これは“すなわち”と言いかえればいいんだ」と。言語要素の指導と読解指導とを問わず、汎言語主義的・“概念”中心主義的な発想に立って指導がおこなわれるかぎり、そこに真実の意味の“国語”の教育は実現されえない、ということを、私はその文章でいったわけだ。引用は語い の指導操作の面にふれてそのことを語った部分だと、ご承知いただきたい。 で、右の引用につづけて、次のことをいいそえておきたい。それは、現在の国語教室の作業が文字の指導は文字の指導、語い の指導は語い の指導、読解については、また然るべくそのように、というふうに、各個バラバラの発想に立って指導が進められている傾向がありはしないか、という点についてである。 いや、それがたとえどんなに程度のわるい教師の場合であれ、また、いつも子どもたちに迷惑のかけ通しというみたいな、ケタはずれの授業の場合であろうとも、全然バラバラに――というようなことは考えられない。それは、ありえぬことだ。私がいうのは、そういうことは、みとめた上での話なのだ。だからして、しかもなお とか、なおかつ という“ことば”をつなぎに使っていったほうが無難かと思うが、国語教育各作業領域間のつながりが全般に不十分にしか意識化されていない、ということを私はいいたいのである。少し順序を立てていうと、次のようなことである。 話題は、はじめ、国語教育のしくみ についてである。各人各様の“国語教育とは何か”にしたがって、そこに国語教育の目的なり教育目標が設定されるわけだ。で、その目的を達成するための手段として、こういう作業をやらなければいかんとか、またそれからこういう作業も……というようにして、さまざまな作業領域が考えられ、実際の作業が組まれていくわけだ。そういう作業を組む中で、個々の作業領域の個々の作業目的を具体的に実現していくための手段としての作業の場面が、当然またそこに出てくるわけだ。 こうして目的に対する手段としての作業、その作業を実現するための、またそのまた手段としての作業の実施、というように作業が組まれて行って、そこに、はじめて、ひとまとまりの国語教育の活動が実現する、というわけのものなはずだ。 そういうはずなのだが、最初にいった“国語教育とは何か”の“何”につながる、国語教育の究極の目的のおさえ方が弱かったり、それがみょうにズレていたり、無目的というに近いものであったりしたような場合、手段と目的の混同、とり違えがはじまるのである。それは本来、目的を実現させるための手段(ないし、手段のそのまた手段)であったにかかわらず、いつか順ぐりに上に昇って行って、その作業自体が目的であるみたいに考えられてくるようになる。手段の目的への転化・真実の目標を見失った自己目的的な作業の実施――つまり、そういうことになってしまうわけだ。この作業はこの作業としてやり、別の作業はまた別の作業として進める、というバラバラ事件がそこに生じるわけなのだ。 誤解をうむといけないからいうが、文字指導なら文字指導の体系をそれとして組む、ということが間違いだ、などといっているのではない。私がいうのは、次の二つの点に関してである。その体系の組み方は、あくまで国語教育という全体、その究極の目的に奉仕するように組まれなくてはならない、ということが一つ。もう一点は、だからして、他の作業領域(たとえば語句の指導、読解ないし鑑賞指導などの作業領域)とのつながりを見失わないように(むしろ、その点のつながりや相互関係をはっきりつかんで)体系が組まれなければならない、ということだ。 とり立ててそういうことを口にしたわけは、楽屋をいうと、次のとおりだ。この夏、ある必要から、各地の現場の方々の協力を仰いで、その地域、地域の漢字指導の記録をよせていただいて、読んだ。主として、がり版刷りのものを七〇編ほどである。いずれも、それとしてみごとな体系づけを持ったものばかりだったし、個々の実践面での指導の発想など、現場人ならではのマトを射たものばかりであった。にかかわらず、その体系づけの面で、ひとしなみに、他の作業領域との相互関係を見落しているのである。文字指導にしぼって書いた報告だから、という言いのがれは言いのがれにならないのである。たとえば、その報告の中には、次のようなものまであった。次のようなものが? ……いや、いい回しこそ違え、同様の趣旨を述べたようなものが、その半ばを越えていた。 ――「文法や文学はわからなくても、別に社会生活に事欠かない。作文教育も手紙が書ける程度で結構ではないか。すべて、ほどほどにである。しかし字が満足に書けないようでは、社会の信用は得られまい。これだけは、ほどほど、というわけにはいかない。自分は自分の行なう国語の授業で、とにかく漢字だけは満足に書ける児童にしようと思った。児童に対する教育の愛情としてそう思った。卒業後、教え子たちからもらう手紙は、他の者のように字のことで苦労しないですむのは先生のおかげだとある。その都度、自分は自分の授業に自信を与えられ、新しい意欲を持って教室にのぞむのである云々。読者の共感をえられるかどうか、困った「愛情」だと私は思う。 小松氏の業績を評価する さいきん、大久保忠利氏が、芦田恵之助のことを、「反動に利用された善人」であるという解きくち、切りくちで再評価し、その業績について功罪を論じておられた。(本誌No.95)じつに的確な問題のつかみ方と整理だと共感したが、氏のいい方を借りていうと、上記引用の文の筆者のようなタイプは、「善人」であり信念の人だから始末がわるいのだ。私はこういうタイプの相手に対しては、説得力ゼロである。 で、何かこう割り切れない思いでいるおりから、小松善之助氏の近著『説明文読解指導の構想』(明治図書・9月号)を眼にした。端的にいって、救われたという思いであった。多分に自分中心的ないい方になるが、どちらかといえばリクツが先行しすぎている感じの私の上記のような発想が、小松氏のこんどの仕事によって実践的に裏づけをえた、という感じなのである。 そこでは、読解の作業が漢字の指導につながり、その漢字の指導が語句指導につながり、それがふたたび読解の作業に帰って行く、という指導の発想になっている。しかも、漢字指導は漢字指導で、語句の指導はまたそれとして、さらに読解に関する面はこの本の題名が示しているように、それぞれタテに一本、体系化への構想が具体的に示されている。その体系化のしかたには、部分的に若干疑問も残るが、いまは方向が問題なのである。国語教育の新段階を約束するものがそこにある、といっていいのである。 このようなダイナミックで立体的な実践と実践記録がどのようにして生まれえたか、といえば、それは小松氏自身の“国語教育とは何か”に由縁するところが大きい、といわなくてはならないだろう。第二信号系の理論に基礎づけられ、それに媒介された、すぐれた実践の事例をここに見るのである。<読みにおける文字指導はどのように行っているか>という項を、その最初の部分について引用・例示しておこう。 ――(上略)教材を読ませる場合、わたしは、原則として範読はしません。(中略)ですから、新出漢字は、この段階で、ひとつの困難な対象となります。そこで、(中略)第一時の初めに、新出漢字をカードで示し、音声化できるかどうかを確かめ、できなければ教えます。たとえば、「魚の感覚」の教材で言えば、私りゅうにいえば、そこでは、概念の意味している事物が、まさに信号として与えられているわけだ。 画期的な国語教育論 「国語教育研究」No.9(9月15日発行)に掲載されている、波多野完治氏の「現代心理学からみた一読総合法」は、六月に開催された横浜市奈良小公開研究会での、氏の特別講演の記録である。 むろん、見聞の範囲での話だが、これほどスケールが大きく、またこれほど高度の、学問的な密度の高い、そしてこれほど具体的な国語教育論を私は知らない。もっとも抽象的なものこそ、もっとも具体的なものである、という意味での抽象と具体において、国語教育の過去が語られている。そして、そこに語られている過去は、つねに現在にむかって大きな規制を与えているような過去に限定される。いいかえれば、現在、私たちが自分たちめいめいの教育実践の問題として対決をせまられているような指導方法上の諸問題が、近視眼的にではなく、歴史的な展望において処理されているのである。 たとえば、千年来の私たちの共通の関心である、三層読みか一読総合法かの問題については、次のような展望を示しておられる。 (1)「読みの三層構造というものは、どんな読みにおいても必ず存在する」こと、けれども、(2)「読みの心理的な三層構造ということから、三回読むのが一番いいんだという教授法の理論は出てこない」こと、ところが、(3)「この三層構造というものをそのまま固定して、読みの教育に定着させようとしたのが、いわゆる三読主義であった」こと、(4)その三読主義は、「石山[脩平]さんが定式化したんだと言われている」が、この石山さんの弁証法と自称している考え方は、「弁証法の基本的な特色であるところの革命的な性格、すなわち新しいものを作り出していくことが欠けて」いること、などなどである。 ところで、一方、一読総合法だが、「この方法の提唱によって、“通読”という、いままで絶対視されていた作業が、いかに無意味なものかがはっきりした」。この方法は、「閉じられた教条主義の読解ではなく、開かれた、真に科学的な読み方理論だ、ということになる」だろう。だが、「一読総合法に人びとに反省してもらわなければならぬことも、いくつかある。たとえば、この方法は、「説明文の場合にはかなりよくあてはまる」と思うが、「文学作品の場合には、これはどういうものだろうか。」また、「一読総合法における立ち止まり読みの単位」のとり方については、教科書のありかた、教材のありかた、子どもたちの読書能力などとの相互関係において、もっと綿密に考えてみる必要があるだろう、云々。 概略すると、波多野氏の見解は次のようなことになろうか。(1)三層読みの主張は、少なくとも学問的な論拠を欠いていること(言いかえれば、その論拠としている点は論拠にならないこと)、(2)一読総合法は、その考え方や実践の面で反省を必要とするものを含んではいるが、しかしその発想において「科学的な読み方理論」だといってよいこと。多分そんなふうに理解していいかと思う。 紹介は、しかしほんの一部にすぎない。もっともっと多様な問題提起を、この講演記録はふくんでいる(たとえば“言語と思考”に関して、またたとえばサイバネティックスに関して)。国語教育研究者・実践家の必読文献ちゅうの必読文献と確信して、未見の方に一読をおすすめしておく。 |
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