岐路に立つ国語教育 |
熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
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国語教育時評 17 |
日教組第16次全国教研への期待 (初出:明治図書刊「教育科学 国語教育」1967年1月号) |
絶えず原則に返って 11月初旬現在で、この稿を書いている。おりから、各県、各支部の第16次教研開催のシーズンである。私も、東北の某県支部教研に参加して、数日前、帰京したところである。教研を準備し主催した組合教文部の人たちが、いっていた。「この第16次ぐらい、切迫した空気で迎えた教研集会は、これまでになかった」と。 また、この教研に参加した人びとが、こもごもに語っていた。「教研というものに対して、これほどつき詰めた気持ちと、これほど大きな期待をもって参加したことは、これまでになかった」と。 切迫した空気。つき詰めた気持ち。――その理由を、ここで説明する必要は多分あるまいと思う。10・21統一ストを闘った直後の組合教研である。しかも、闘いは終わったのではなくて、むしろ、これからが本番なのだ。東京都教組をはじめ、そこ、ここの県教組に手入れのあったことが報じられている。あすはわが身のおもいが、教研に結集した組合員ひとりひとりの胸にある。 切迫した空気、云々。――うんと抽象的なかたちでいえば、そういうことなのである。ことさら、この支部の場合、スト突入の直前、PTAその他地域の諸団体の介入があり、それに加えて、「どこそこの分会が脱落した」とか、「また、どこそこの分会も脱落した。きみたちの分会がストにはいれば、孤立した闘いを闘うことになるだろう」式の、ニセ情報による切りくずしで、すっかり足並みを乱してしまったらしい。 この教研にレポーターとして参加した、ある女の先生がいっていた。「私の分会ではストの前日、最終決定として全員参加を申し合わせたのですよ。ですから私、当日はそのつもりで所定の集会場へ参りましたよ。当たり前でしょ。決定ですし、約束ですもの。そうしたらですよ、ウチの分会からは、とうとう一人も来ないじゃありませんか。……個人、個人に、いろんな事情があったんでしょうから、責める気にはなれないのですけれど、ただ、次の日からの職場の空気が何かこう、ぎごちないのですね。妙に私に気がねしたり、気をつかったり、そのうち、こんどは逆に、だいじょうぶよ、とかなんとか私を慰めてくれたりするので、ますます割り切れない気持ちになりましてね」云々。 結果は、こうして統一ストへの参加は所属組合員総数の半ばを割ってしまった、という。教研の会場には一脈、敗北感のようなものが流れていた。 だが、それと同時に、なすべきことをなしとげた、という思い。悪質な切りくずしにも負けなかった、という、所信をつらぬいた人たちだけがもつ、スガスガしい思いがそこにはあった。また、ひとりひとりの胸にあるそうした思いが、今次教研の空気を盛り上げていた。 いま、そこで紹介した女の先生のことばのように、結果的に自分たちを見殺しにし、裏切ったような人たちに対しても、「個人、個人に、いろんな事情があったんでしょうから」という思いやりのようなものが、そこには感じられた。“なすべきことを正当になし終えた”人たちがもつ、心のゆとり のようなものが、そこにはあった。私は実感した。揺さぶられながらも、そうしたゆとり を個々人の上にもたらすまでに、教師の組織は強固なものになりつつあるのだ、ということを。 「オレたちが苦しんでいる以上に、脱落した連中は苦しんでるよ。きのうの朝、だれそれ君とバッタリ駅で顔をあわせたんだがね。うつ向いたまま、すーっと行ってしまうんだ。裏切ったのでバツがわるい、なんてものじゃないよ。すごく苦しんでるんだな。あそこの分会は、もともと弱腰だったろう。彼がいるんで、持っていたようなものさ。四面楚歌、孤軍奮闘の末、やぶれたという格好だよ。ひとりの力じゃ、どう仕様もなかったろうさ。彼はほんとうに、よく闘ったよ。オレたちの何倍も頑張ったよ。結果だけみて、非難しちゃいかんな。」 休けい時間には、そんな話がそこ、ここでささやかれていた。 この支部は、抵抗の強いことは承知の上で、ヴェトナム反戦のスローガンをかかげて統一 ストに参加した。ストの当日には、スローガンの中から反戦の項目をカットしたも同然の組合も少なくなかった中で――。で、もしも、人事院勧告連続不履行への抗議だけを旗じるしに闘うのだったら、外部からの圧力も、さまで執拗なものにならなかったかもしれない。したがって、分会単位の脱落といった事態は起こらなかったかもしれない。 だが、組合員個々人の教師としての良心と、教師の組織としてのこの教組支部の良心が、ヴェトナム反戦の旗を巻く(おろす)ことに同調できなかった。 教研全体会の経過報告の中で、教文部長は次のように語っていた。「教え子を戦場に送るな、という教組設立の趣旨とスローガンを、私たちは忘れまい。たえずこの原則にかえって、教育と教育研究問題 を考えよう。この原則に立って、私たちは私たちの一〇・二一の統一行動を評価し、きょうのこの教研活動と取り組もうではないか」云々。私もまた、私自身に与えられた課題――教研集会・全体会での記念講演を『組合運動と教研活動の統一のために』と題して、一〇・二一ストに寄せたジャンポール・サルトルのメッセージを読むことから始めることにした。 ――私は、十月二十一日以前に日本を離れねばならなぬことを残念に思い、あなたたちの統一行動に対し、心からの連帯のごあいさつを送ります。 なにとぞ、殿下のお力をもって…… 上記の教文部長のことばが、そしてサルトルのことばが、すべてを尽くしているように思う。国語教育も、国語教育研究も、上記両氏の語っているような、自由と平和を愛する諸国民への連帯と、民族と民族教育に対して責任を負う教師の立場(現代日本の教師の立場)において進められねばならないだろう。ヴェトナムの「戦闘停止を要求」する、しないは、国語教師ないし国語教育の問題ではないと考える人があるとすれば、その人は、すでに、ただの教育職人、ただの国語屋になり果てたことを意味するだろう。 教師としては、あるいは組合員としてはヴェトナム問題への関心を必要とするかもしれないが、しかし国語教師としては無関心であってよい、というような論理はどこにも成り立たないのである。(ところで、そういう論理が現在、いかに横行していることか。)それは、まるで、国語教師は非人間(つまり、ひとでなし)ないし透明人間でも勤まる、といってるみたいなものだ。国語教育は教科教育であって、生活指導でも「道徳教育」でもないのだから、教師はむしろ透明人間であることが望ましい、とでもいうのか。教科教育には、教師と児童・生徒との心のふれあいは不要だ、とでもいうのか。 これも、同じ教研の場で耳にした話なのだが、故芦田恵之助のことである。現在、この東北の地で小学校長をしておられる某氏の談である。氏は、若い日にあっては芦田に傾倒し師事し、その講演行脚にはつねに随行してアシスタントの役をつとめる、というぐらいに献身的な身の入れ方をした人だ。それほど敬愛した芦田恵之助に対して、しかし幻滅を感じる一瞬を氏は後に経験しなければならなかった、という。戦後の、あの混乱の一時期においてである。 「戦後のこの世相、とうてい黙過することはできない。なにとぞ、殿下のお力をもって何とかしていただきたい。」という意味のことを「さる宮さま」――つまり、ある皇族にあてて書き送った、という。 「芦田のおじんつぁんは、天皇の血につながる皇族の力でなら世直しも可能だと、心から、まじめに、そう考えていたんですな。いや、芦田先生の純粋な気持ちはわかるし、そこが私、とっても好きなんですけども、これはしかし、どうにもなりませんな。その救いがたい感覚の古さというか、感覚のズレにどうにもならんものを感じて、私、ガッカリしましてね」云々。 つまり、“芦田”になったのでは、こんにちの民族教育としての(民族に対して責任をとる)国語教育はできない、ということなのである。 前々号のこの欄にひいた大久保忠利氏のことばを再引用していえば、国語教育史の上に果たした芦田の役割の一面 は、「反動に利用された善人」のそれであったわけだ。たださえ反動化の路線をたどりつつある、こんにちの教育政策と教育状況のもとで、私たち国語教師が「反動に利用された善人」になど、なっていいはずはないのである。 早い話が、予測される学習指導要領の改定の方向として、小中学校の国語教育から“話しことば”の指導がはずされそうだ、といううわさ がある。もし本当だとすれば困ったことだと思うが(というわけは、話しことば の発達に支えられて書きことば の発達が促され、また書きことば の発達に支えられて話しことば の発達が約束される、という相互既定の関係がそこにあるからなのだが)、それはそれとして、この“話しことば”の指導を中身のあるものにしていくためには、(教師と生徒、又は生徒たち相互に)話しあうこと自体に十分意味のあるような、具体的で中身のある話題が教材として選ばれなければならないだろう。 ところが、である。生徒たちの話題が社会の、実際の生きた事象にふれていきそうになると、あわててストップをかける、というようなことでは、ホンモノの“話しことば”の指導など、できるものではない。 「きょうの国語の時間は、きみたちで自由に議題を選んで、自由に討論をしてみたまえ。国語の授業としてやるのだから、話しかたに気をつけて、相手によくわかるように、くどくなく、よくことば を選んで話すんだよ。それから、聞いてるほうも、相手のいうことをよく理解しよう、という気持ちになって聞くんだよ。」などといってみても、それじゃ、こんどの先生がたのストのことを話題にしよう、なんてことに生徒の相談がまとまりかけると、あわてて「待った」をかける、というようなことでは、これは、どうにもならないだろう。 私は架空の話をしているのではない。ある中学校の、ある先生の国語の時間で実際にあったことを、事例にとり上げているのである。で、その時間は授業にならなかった、という。生徒は気乗りがしないし、教師はてれてしまって収拾がつかなかった、というのである。教師自身がいうのだから、本当だろう。 私は、この教師個人を責めているのではない。教師が「待った」をかけるほかないような状況が、現実に、いまの教育の現場にはある、という点を問題にしているのだ。PTAが、その他もろもろのものが、教師たちのこんどのストに介入して切りくずしをやる、というのが現実、現状なのだ。「先生、なぜストをやるんですか。なぜ、ぼくたち、自習をしなけりゃならないのですか。」という生徒たちの、しんけんな質問に対して、教師がまじめに説明し答えれば、子どもに対して偏向教育をやった、といって喚き立てる人たちも現にいるのだ。「待った」をかけたこの教師を、一方的に責めるのは、むり というものだ。 何のための全国教研か つまり、教育以前の問題が、こんにちでは教育の問題なのだ。また、国語教育以前が国語教育のありかたを根底的に制約しているのである。いま、そこに語った、“話しことば”指導の例は、ほんの一例に過ぎない。これは、作文指導の場合だって同じことだ。書くことの中身に制限を加えておいて、生きた作文の指導など、できっこないだろう。 読み方指導にしたって同じことではないか。「タダほど高くつくものはない。」ということわざ を地で行ったみたいな、検定教科書という名の国定教科書を教師と生徒に割り当てて、あのくだらん教材で国語の読みかたを教えろ――むり というものだ。「道徳」教育の下請け教科みたいな格好になってきている、いまの国語科で「思考力を養う」ということは、至難のわざである。上記のように、一方で児童や生徒の批判精神に目つぶしを食わせるようなことをやりながら、「思考力」だけを養うということなど、できる相談ではない。 それから、歴史教科書の改悪――それが、いかに大きなマイナスの連鎖反応を国語教育の上に惹き起こすものであるかは、本誌・No.84のこの欄に書いたとおりだ。 テスト体制と国語教育の問題――これもやはり、本誌・No.85,87のこの欄でふれたとおりのことである。また、まったくムチャクチャな小学校の全科担任制や、教師という職種のわく をこえた雑用のおしつけ、すし詰め教室の問題など。(本誌・No.80 本欄参照) つまり、“国語”という教科の教育に熱意をもっている教師だったら当然、上記のような一連の問題に関心をいだくはずだと、私は思うのだが、どうか。 また、(国語科担当者の立場からいえば)こうした国語教育のカベとどう対決しつつ、自分自分の国語の授業をどう組むか、ということを考えあう場が組合教研であると思うのだが、どうか。 さらにまた、そのようなカベをつきやぶる教育運動の具体的な場が、教師の組織としての教組の主体性を生かした組合運動そのものだと思うが、どうか。 却説。組合教研についてなのだが、もしも上記のような原則的な問題の検討を(「自明のこと」だというような、ことば のうえだけの処理で)素通りし、「たえず問題を原則に返して考え方をたしかめ合おう」という声を圧殺し、単なる授業過程論などに明け暮れるならば、そのかぎり 官製の教研とそれは選ぶところないものになってしまうだろう。 全国教研は、あるいは部分的にはそのそうな片寄りを持つところがあるかもしれない、下部組織諸教研のプラス・マイナスの成果を、組合教研の総力を結集して媒介的に正しく方向づけていく場であろう。それは、、一〇・二一の貴重な体験をとおして、教研活動に強力に媒介される以外に、教組の運動の主体的な前進のありえないことを実感した人びとの集まりなのである。 “国語”という教科教育研究活動が組合運動を支えるかたちのものとして、この第16次において実(み)を結ぶかどうかは、一にその分科会の運営にかかっている、といってよさそうである。講師団、司会者団のご健闘を期待する。 |
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