岐路に立つ国語教育
 熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
  
民族とことば・民族のことば―奥田靖雄氏の所論にふれて―
(初出:明治図書刊「教育科学 国語教育」1965年12月号) 


     はじめに

 本誌10月号の国語教育時評(『すこし論理がなさすぎる』〈注〉で、奥田靖雄氏の所論にふれた。私たちのサークルの仕事(熊谷孝監修・文学教育研究者集団著『文学の教授過程』―明治図書刊)に対する、奥田氏の批判(『民族精神』―教科研国語部会編集・季刊「教育 国語」No.2・8月刊所掲)についてである。それは、しかし、批判を受けた当事者の立場に立っての反論ではなくて、あくまで、国語教育時評一般の問題としての取材であり記述であった。(〈注〉「すこし論理がなさすぎる」P31参照)
 もっとも、当初の予定では、多少とも当事者としての弁をそこに書き添えるつもりであった。だから、書き出しのところで、「奥田氏の批判に触発されることで生まれた私自身の反省については、紙幅が許せば後でふれよう」と、そんなふうに語った。が、紙幅尽き、このことばは反古になった。このことばを空手形にしたくないから、いま、この稿を書こうというのである。
 それに、私としては、次のようなこともそこに書きつけたわけなのだ。「この欄
(時評欄)は公器である。奥田氏と私の間のやりとり は、別の土俵、別のリングで行なわれるべきだ。どの雑誌か新聞ででも、そのリングを提供してくれないだろうか。心おきなく、論理の問題として反批判を書きたい」云々。
 そういうことを口にした以上、私には書く義務があるというか、書く義務づけを自分で自分に課したことになろう。ただ、今の自分の気持をありていにいって、奥田氏への反批判のためにだけ一文を草する、という気にはなれなくなってきている。時評のペンを執ったときの、たかぶった気持が今はおさまったから、というようなことではない。はっきり言うが、カチンときてることは今でも同じだ。他の民間教育研究団体を反動よばわりして民間教育運動を割る、という、その独善的・排他的・分裂的なヤリクチに対する怒りは、今でも少しも変わっていない。
 反批判のためにだけ書くという気にはなれなくなった、と私がいうのは、多分に非礼ないい方になるが、こうだ。「自分自身の傾斜した視点や角度、自分自身の問題の解き口に対してはまったく無反省」な奥田氏の批判、「“あいつは反動だ”という先入見と偏見だけでものを言ってるみたいな」氏の批判
(上記10月号・拙稿参照)に真っ向から、まともに答えることがバカバカしくなってきている、ということが、まず一つ。
 第二に、奥田氏の文章を読み返してみている中に、これは、もう、話し合いの余地は残されていないんじゃないか、という気がしてきたことである。
 
 ――文教研(文学教育研究者集団)は、「帝国主義」の「御用」をつとめる、「ブルジョア民族主義者」どもの集まりだ。
 ――熊谷たちのいうことは、垣内松三(帝国主義反動の御用理論と化した生哲学・解釈学主義の理論)にそっくりで、「血なまぐさい」ものを感じる。
 ――そういう彼らの手になる『文学の教授過程』という本は、さしづめ『期待される人間像』の国語教育版と言うところか。
 ――そのうち、文教研には「文部省から勲章がくるだろう」云々。
 言いも言ったりである。言うにこと欠いて、という思いである。こういう相手と話し合え、といっても、それはむり だ。だいいち、相手のほうで受けつけないだろう。血によごれた、ファッショの黒い手をもった文教研――と、相手は決めてかかっているのだから。話し合いが成り立つのは、お互いに接点をみつけようとして努力し合っているときだけである。
 “売りことばに買いことば”みたいな、ことばのやりとり をするつもりなら話は別だ。だが、相互理解の深まりを期待し、論理の規正や発展をそこに期待して論争をこころみる、というようなことは、この場合、ほとんどまったく意味をなさないだろう。だから、この稿では反批判に直接の目標を置くことはやめにしよう。むしろ、上記「奥田氏の批判に触発されることで生まれた私自身の反省」について語ることにしよう。つまり、標題の<民族とことば><民族のことば>について語ることである。そういうことを書き、またそのように書き進めることが、ここでなし得る唯一の生産的ないとなみのように思われるからだ。
 しかし、ことの順序として、まず奥田氏の論点の紹介は、また、おのずから、反批判に通じる論議をある程度そこに伴うことにもなるだろう。にもかかわらず、この稿は反批判を目指してはいない。この稿は事実を明らかにするためのものであり、自己整理のためのものである。究極の目的はそこにある、という意味である。

     奥田氏の論点(一) 
――ごく最近、明治図書から『文学の教授過程』という題の本が出た。(中略)国語教師にまなぶものがすくないという意味で、ぼくはこの本をいい本だと思えないだけではなく、そこに不気味なものを感じる、云々。
 これが奥田論文の書き出しである。右の文章につづけて、これは「たぶん荒川有史氏の筆だとおもうが」と前おきして、
 ――日本民話のふるさとは、ほかならぬ日本民族の心である。民衆という広い底辺のなかにとけこみ、その性格感情をそだて、その民族の精神形成の土壌として果たした役わりはみのがせない、云々。(『文学の教授過程』64ページ)
という箇所を引用する。(ところで、これは「荒川有史氏の筆」ではない。)さて、この引用の個所について、奥田氏は次のような批判を加える。
 ――ぼくたちのような戦前派のものにとっては、「民族精神」というのは大和魂のことであって、具体的には忠君愛国、滅私奉公の思想であり、武士道の精神である。
 ――日本のブルジョア民族主義者は、古代社会や封建時代の支配階級の思想・感情、しぼりとられるだけしぼりとられた被支配階級の世界観を「日本民族の心」となづけて、それがあたかも日本人に永遠に、宿命的につきまとうもののごとくにいいふらして、労働者や農民の目を階級的な対立にむけさせずに、他民族の侵略にかりたてた(中略)敗戦とともにかなぐりすてた民族主義を、帝国主義者の要求にこたえて、御用学者はふたたびひろいあげた。これが『期待される人間像』である。まさにこの状況のなかで――。「文学教育研究者集団」に文部省から勲章がくるだろう、云々。
 引用のかぎり、「民族の心」とか「民族の精神形成」ということばを使ったことが奥田氏を刺激したと見るほかはない。ここでの私の反省は、私たちがこの本で無規定に「民族」ということば(概念)を用いた、という点についてである。だから、概念内包を明確にしないまま、「民族精神」というようなことばを使うことは危険だよ、という忠告なら私たちも十分納得がいくのだ。
 だが、奥田氏のいうのは、そういうことばを使っているから、文教研はブルジョア民族主義だ、という断定である。これでは話し合いの余地は、まったく残されていない。が、それはともあれ、「日本民話のふるさとは」云々と書いたとき、私たちの念頭にあったのは、たとえば説経節にその原型の名残りをとどめている『さんせう太夫』などの民話を生んだ民衆の底辺、散所民の姿であった。また、こうしたフォルクロール
(民間伝承)に関するゴーリキーの問題提起であった。
 「同志諸君、私はふたたび、もっとも深く鮮やかな、芸術的に完全な主人公のタイプがフォルクロールによって、勤労人民の口碑的制作によって創造されている事実に対し諸君の注意を喚起したいと思う」云々。
 また、「フォルクロールにはペシミズムがまったく無縁である事実を指摘することはきわめて重要である。フォルクロールの創造者たちが苦渋な生活を送り、彼らの苦しい奴隷的な労働が搾取者たちによって無意味にされ、そして個人生活が無権利で無防禦であったにもかかわらず、集団には自己の不死の意識と自己に敵対的なすべての力に対する自己の勝利の確信とがさながら固有であるかに見える。フォルクロールの主人公『馬鹿』は、父親や、兄弟たちにさえ軽蔑されながら、つねに彼らよりも賢く、つねにすべての浮世の災厄の勝利者である」云々。
(ゴーリキー『文学論』・富士出版社版・315ページ)
 さて、奥田氏のいう「ぼくたちのような戦前派」の解き口ではなしに、このフォルクロール論の解き口で
(だからまた、こんにち歴史学や言語学の世界で学問常識になっている民族概念にしたがって)、上記「日本民話のふるさとは」以下の文章を読んで行った場合、この文章がブルジョア民族主義の思想をいいあらわすものとして映るかどうか、である。

     奥田氏の論点(二)

 上記のような批判につづいて、今度は、「民族的発想」という用語を使っているから熊谷はブルジョア民族主義者だ、というふうに氏はいわれる。「たしかに、日本語をつかっての認識は、他の言語をつかっての認識とくらべると、独自なものがある」ということは認めるが、しかし「認識における民族的な特殊性は、人類の認識の一般的な発展の方向をべつの方向にねじまげなかった」と氏はいうのである。
 これは、奥田氏のひとり相撲である。だれも、民族的な発想において認識を進めることが「人類の認識の一般的な発展の方向をべつの方向にねじまげ」ることになる、などと言っているわけではないのだから。私がいうのは、人類的な認識の現実を媒介するのもが、それぞれの民族の体験、それぞれの民族語による民族的発想以外ではない、というだけのことなのだから。ところで、氏はまた次のようにいう。「ブルジョア民族主義者は
(中略)認識における民族的な独自性を絶対化し、不当に拡大し、民族精神なるものをでっちあげた。ぼくたちは“諸国民の友好と平和”の精神で子どもを教育しなければならないとすれば、“民族的発想”を強調するこの本は『期待される人間像』の国語教育版なのだろうか」云々。
 ことばをかさねるが、奥田氏のひとり相撲である。民族的な独自性を絶対化してデッチ上げられた「民族精神」と、私のいう「民族的発想」と一体どこで、どうつながっているというのか? また、民族的発想を重視することと「諸国民の友好と平和」の精神を尊重することが、一体どこで、どう矛盾するというのか? 奥田氏の批判が「“あいつは反動だ”という先入見と偏見だけでものを言ってるみたいな批判」だと先刻指摘したのは、たとえばこういう点なのである。

     奥田氏の論点(三)

 奥田氏の論点の三つ目は、私の言語観ないし国語観、ひいては私の国語教育観が「ことだま主義」だという指摘に関連しつつ、言語
(民族語・国語)の内容と形式に関してである。
 ――ブルジョア民族主義者は、いまもむかしも、日本語には大和魂がやどっているとみて、国語教育を日本精神をそだてる場であると見る。熊谷氏のつぎのことばは、「ことだま主義」のハイカラな表現ではないか。「いわゆる意味の国語自体ではなくて、内容・形式一体の、民族の感情、民族の体験がそこに息吹いている国語そのものを与える必要があるのです。」
 「息吹いている」と書いたのがいけなかったようだ。このセンテンスを叙述全体の文脈から切りはなして孤立させた上で、「民族の感情」とか「民族の体験」と熊谷がいってるのは実は「大和魂」「日本精神」のことだし、「息吹いている」というのがまた「やどっている」という意味なんだよ、というコメントをそえれば、なるほどこれは、そのかぎり、「ことだま主義」だという事になろう。
 だが、私は、(1)「ことば」というものは、ある事物や事物の意味がそこに封じこめられた「ことだま」的なもの
(つまり実体)なのではなくて、(2)事物の信号の信号(第二信号)として、その事物の意味を発信する条件刺激の媒体であることを、わざわざ項を設けて(「記号としての言語・信号としての言語」)くどいくらい語っている。奥田氏によって引用された上記の文は、その一項につづく次の項の中の一文だ。しかも、「いわゆる意味の国語自体ではなくて」云々というこの文の、すぐ前の文(センテンス)は、まさに大和魂主義・ことだま主義に対して批判を加えた文なのである。
 さらに、この文の十数行後にも、こう書いておいた。
 ――「ことば」は本来、部分で全体を代行(あるいは代理)するものです。事物に「ことば」を与えるということは、その 場面におけるその 事物の全体をその 「ことば」で代理する事に他なりません。
 ――その「ことば」が意味するその事物の全体性・全体像は、その「ことば」の置かれている文脈(場面規定)にしたがう、というわけです。
 一体、私の考え方のどの点が「ことだま主義」なのだろうか?

     奥田氏の論点(四)

 上記の私の文を引用した箇所につづいて、奥田氏はまた、こう言っている。 
 ――ぼくたちは形式的には民族語をもちいて、国際的な思想と感情を表現するのだから、残念ながら、内容と形式とは一体ではない。熊谷氏はこの命題の具体的な説明に「かささぎ」という単語を出してくる。『新古今』につかわれている「かささぎ」とおなじ情感とイメージをよびおこすことができるように、この単語を子どもは所有しなければならないと、熊谷氏はいうのである。これが「民族的ことば体験」なのだそうだ。いまの、そしてこれからの日本の労働者と農民は現代の日本語をつかって、みずからの社会的な実践のなかで対象を認識しているのだが、熊谷氏のことばにしたがえば、かれらは古代語をつかって、古代貴族の感情とイメージで対象をとらえなければならないのである。つまり「民族的発想における事物の認知」がたいせつなのである。戦争まえの、古典中心のよみ方指導がそういう国語教育であった。ふるいものへの執着とその復活、それの大衆へのおしつけがブルジョア民族主義の特徴であるなら、熊谷氏もりっぱな民族主義者である。
 さらに、これは直接私を相手どってではないが、そのすぐ後に、「形式においては民族的、内容においては国際的」という「原則をおしとおさなければならない」と氏は書いている。
 さしづめ、「かささぎ」云々のことから書きはじめよう。本誌6月号の時評
(『技能主義では“国語”は教育できない』)にも引例した、川端康成の『かささぎ』という文章を私はここで引用した。わが家の庭に毎日のようにやってくる鳥が「かささぎ」だということを知ったときの「私」のおもいがそこに書かれているのである。「かささぎ という名を知った今と、知らなかった前とでは、その鳥は私にはもはや同じ鳥ではなくなった。」「かささぎ という言葉の、日本の古歌の流れは、私のなかに浮きあらわれて、なつかしい瀬音も聞こえそうだった」云々。
 私がそこのところで言いたかったこと、そして書きつけたことは、こうだった。
 (1)「ことば(かささぎ ということば)が作用果としての記号 として頭脳に刻まれるだけでは感動は湧かない」ということ。「このことば が、民族の共通の広場
(時空的なその共通の場面)の場面規定における共通信号として機能しなければ、そこに“なつかしい瀬音”は聞えてこない」だろう、ということ。(2)「言葉操作のそのような仕方の実現は“血”の問題ではなくて、まさに教育の結果であるという限りにおいて」「いわゆる意味の国語自体ではなくて、内容・形式一体の、民族の感情、民族の体験が息吹いている国語そのものを与える必要がある」ということ。 
――つまり、民族的なその 場面で「かささぎ」ということばが代理するものは、「ひこぼしのゆきあひを待つかささぎの……」と『新古今』に歌われたような、そのようなかささぎ 以外であってはならない、ということでなのです。その「ことば」が意味するその事物の全体性・全体像は、その「ことば」の置かれている文脈(場面規定)にしたがう、というわけです。
 ――民族的ことば体験、国語体験は開かれた体験です。それは、自分一個人の体験のわく をこえて、もろもろの他者、それも遠い民族の過去の体験にもつながり、自他のそのような体験を現在に媒介して、未来への予見と設計と実践を導くのです。過去という不在なもの、未来という不在なものをそこにもたらす、このような第二信号系としての「ことば」体験、すなわち国語体験の足場を、感情をやしない認知の構えをつくるというかたちで用意しようとするのが、“国語教育としての文学教育”にほかなりません。
 わかっていただけただろうか。私は、なにも、古代語を使って貴族の感情で現実を認識しろ、などと言っているのではない。また、「ふるいもの」に「執着」して、その「復活」をもくろんだり、「古典中心のよみ方指導」を考えたりしているのでもない。未来への予見と設計と実践をまっとうなものにするために、「過去の民族の体験にもつながり」既往現在の自他の体験をそこに媒介し得るような、ゆたかな日本語の創造と教育の必要ということを言っているだけなのだ。
 「かささぎ」の例が適切な例であるかどうかは、実のところ私にもわからない。だが、それは一事例なのだ。事例にすぎないのだ。例がまずいよ、誤解をまねくぜ、という忠告なら納得がいかぬこともないのだ。しかし、奥田氏の批判の方向は、ぜんぜん別だ。例がほとんど、そのすべてなのだ。私がここで言っていることを、ゆがみなく理解していただくために
(奥田氏にではない、読者に、である)、上記6月号の拙稿から引用しておこう。 
 ――「かささぎ」という鳥のことをアメリカでは、フランスでは、ドイツでは、それぞれに別の音声、別のことばでいうだろう。だが、エルスターといっても、かささぎ といっても、それは結局同じもの を指していることばだ、というのは半分の真実にすぎない。日本人にとっては、「かささぎ」というこのことば は、「なつかしい瀬音も聞え」てきそうな、そのようなことば (ことば信号)にほかならない。
 けれど、カ・サ・サ・ギという音声が、そのような意味に結びつく信号(条件刺激の媒体)として機能し作用するようになるためには、「国語」が教育されなくてはならない。「なつかしい瀬音」が聞えてくる、こないは、“血”の問題ではなくて、民族的ことば体験の問題だからである。「生徒の外にある国語を与えること」が、そこに要請されるのである。
 引用のいちばん終わりのセンテンスは、国語教育の任務を、「生徒の手持ちのことばの調整」というふうに割り切って考えようとする、学習指導要領方式の技能主義の国語教育観への批判のことばだ。
 ところで、ここでの所論のかぎり、奥田氏の見解は、労働者や農民の子の教育に必要なのは「現代の日本語」であってそれ以外ではない、と言っているとしか受け取れない。これでは、逆に、上記の技能主義への接近を思わせるものになってしまうが、どうか? あくまで、ここでの所論のかぎりの話だが、これではイデオロギー主義的な素材主義と技能主義をミックスしたものが奥田氏の国語教育観だ、という印象になってしまうのだが。
 私のここでの反省は、ところで、「『新古今』に歌われたような」云々というふうないい方をしてしまった点についてである。ひとくちに『新古今』といっても、後鳥羽院的なものと定家的なものとを区別して考えなくてはなるまいが、それにしても引っかかるものがある、というのは、わかる。が、これは
(ことばをかさねるが)事例にすぎないのだ。   
 さらに、実をいえば、七夕の夜、彦星と織女星の逢う瀬のかけ橋となった「かささぎ」が日本の詩歌に歌われるようになったのは『新古今』に至ってではない。そのことを書くべきだった。古くは『家持集』や『大和物語』に、また『源氏物語』や『枕草子』に、そして実朝の『金槐集』や脇狂言に、下って近世期の町人文学
(たとえば『遊子方言』)などにも、庶民感情にとけこんだ形で取材されている。だいいち、その典拠はといえば、
 ――鳥鵲填メテ織女。 
という『准南子』の記載あたりだろう。奥田氏のような誤解をする人があるとすれば、これらのことを書いておくべきだった。

     若干の反省

 『文学の教授過程』を書いた際に私たちの念頭にあった、私たち自身の<民族とは?>について書いておこう。奥田批判がもたらしたかもしれない、私たちに対する人びとの誤解を解くためにも、そのことは必要だと思われるからである。
 結論を先にいえば、古代から封建への、そして近代へ、さらには社会主義への歴史の段階的な発展の基礎にあるのは民衆の生産労働だが、その労働を担った社会集団が第一義的な意味での民衆だ、というのが私たちの基本的な考え方であった。存在としてのその社会集団とその集団の意識、その意識の他集団への反映等々の複雑な問題がそこに横たわっているが、第一義的には――ということなのである。
 『言語学におけるマルクス主義について』(一九五〇年)というスターリン論文に示されているような、ナロードノスチ(前近代的民族)とナーツィア(近代的民族・国民)との「分離」や「区別」を私たちが認めないのではない。その分離と区別に立って、しかもそのような区別を可能ならしめている統一的契機において「民族」を考えよう、としているのである。
 スターリンもその同じ論文の中で、「階級闘争を社会の分離」や「敵対階級のあらゆる結びつきの切断」として考え、そこには「もはや単一の社会がなく、ただ階級があるばかり」だとするアナーキーな考え方を否定している。さまざまの階級矛盾がそこに発生し、さまざまの階級間の対立・闘争がそこに行なわれる、その土台としての歴史的な「単一の社会」が考えられねばならない、ということである。そこでこの歴史的な単一の社会・社会集団の人的な表現がつまり民族だ、というおさえ方をした場合、上記の存在と意識の矛盾の問題(たとえば『桜の園』に描かれているような、存在としての地主貴族の反民族性と、その意識や文化の面における民衆的・民族的なものの反映etc.)などもある程度ふくみこんだ規定に近づけるのではないかと思うが、どうだろう?
 周知のように、スターリンは一九二九年の論文で、「むろん民族の諸要素――言語、領土、文化の共通性など――は突然天から降ってきたものではなく、すでに資本主義以前の時期に徐々に形成されたものである」といっている。とりわけ、言語(国語)は、「社会の歴史の全進行」「土台の歴史の全進行」により、「全社会により、社会の全階級によってつくられたもの」(一九五〇年論文)にほかならない。「現代語の要素たるや遠い昔、奴隷制時代に端を発するものと考えねばならない」(同上)のである。現代日本語への私たちの関心を必然的なものとする根拠はここにある。
 日本語の歴史は現実に、発達の一語でおおい尽くすことができないものがある。過去をかえりみるなら、あそこの曲がり角で道を踏みあやまることがなかったら、と思うようなことが、いくつもいくつもある。民族(民族語)の歴史への無知のゆえに、過去に犯したあやまちと同じ方向、同じ性質のあやまちを、こんにち人為的に(というのは教育の面でも)くり返すことで、日本語の発達にブレーキをかけているようなことだってある。
 現代日本語に対する関心は、このようにして、日本語の過去への関心につながらざるをえない。「ふるいものへの執着とその復活」のためではない。また、そのような関心が国民大衆みんなのものになるように、関心の足がかりを用意することが国語教育の任務である。それは、けっして「ふるいもの」の「大衆へのおしつけ」ではない。ことばの問題は、ことばの専門家に、というのは、政治の問題は政治家に、というのと同じぐらいに非民主的な考え方だ。大衆よ、ことばの専門家になれ、と言っているのではない。関心をもて、そして関心をもてるような人間の素地を培うのが国語教師の任務だ、と言っているのだ。
 ことは、しかし、「ことば」の問題に限定されるのではない。過去の民衆のことばを媒介としつつ、過去の民族の生活や文化とのつながりを回復することは、民族の明日のためにもっとも実践的な民族的課題の一つではないのか。いまわしい過去の宿縁をたち、民族の新しい運命を開拓するためにも民族の過去に対して無知であってはならない、ということなのだ。

 ところで、「ぼくたちは形式的には民族語をもちいて、国際的な思想と感情を表現するのだから残念ながら、(熊谷の考えているように)内容と形式とは一体ではない」という上記の奥田氏の批判だが、ここでも誤解が先行している。私のいう「内容」や「形式」ということばの概念内包と、氏のいうそれとはディメンジョンが違うのだ。
 奥田氏のいう「形式」というのは、いわば容器みたいなもののことだろう。コップに入れても水筒に入れても水は水、という場合の水筒かコップみたいなものを考えているわけだろう。(そのことは、また、究極において民族語・国語を、思想や感情を盛る容器と考えていることになりそうだが、この点もどうか? )一方、「内容」のほうは、またこの水みたいなもので、ウォーターといおうおと、ヴァッサーといおうと、ミズといおうと、指示している事物に変わりはない、というふうなことだろう。ではないのか。
 つまり、フランス人はフランス語で、日本人は日本語をもちいて考えるが、考えることの中身はその事物に関して一つであり得る、というわけなのだろう。
 言語による認知や表現において、内容・形式は一体である、と私がいうのは、それとの次元の違った話なのである。たとえば、「水」というのと「おひや」というのとでは、また「癪に障った」のと「トサカへきた」のとでは事物認知の仕方が違っている。事物(ことがら)は同じでも、事物の意味が、発想が違うのである。それは、別の発想による別の内容である。言語は事物の等価物ではなくて、それの意味の等価物であるというかぎりにおいて、言語の内容と形式は一体である、というほかはない。
 つまり、そういう意味での「内容」ということなのであり、「形式」ということなのである。民族語によるインターナショナルなものの認知・認識というところへ話を進めれば、そこでやはり、民族的発想によるその事物の認知(反映)というかたちで媒介的に国際的な思想につながり、国際的なものを自己に媒介し組みこむ、ということ以外ではないだろう。そのことが、また、(その民族集団の社会的・歴史的思想体験の要約である)民族的発想の仕方そのものを変革し発展させるモメントにもなるわけなのだろう。
 民族語・国語を、たんに容器や道具という意味での「形式」と考えることは“言語と思考”の事実に反している。民族のことばは、その民族の過去・現在・未来にわたる生活と文化の重みを担っている。それは、思考の具であると同時に、その思考活動のありように規制を加える、そのような媒体に他ならない。それが素通しのメガネのような透明な媒体ではないことが、まずそこに確認されなければならない。

 ともあれ、事物のインターナショナルな認識とそこに言われているものが、その民族の体験と民族的な発想に媒介されることなしに(つまり無媒介に)、その民族集団内部の個々人において成り立つと考えることは弁証法的でない。つまり、事実に反している。素朴実在論的な言語観・国語観――と、そういっていいだろう。


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