岐路に立つ国語教育
 熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
明治図書出版刊「教育科学・国語教育」88 1966年2月臨時増刊号 掲載

   言語主義からの解放
「教育科学・国語教育」88表紙
 掲載誌2月臨時増刊号は「特集 国語教育をどう改造すべきか」。「編集後記」で、この特集を組んだねらいを次のように記している。
 「昭和四十三年を目途に教育課程が全面的に改定されることになった。……本誌ではその審議過程に大きな関心をはらうと共に、民間側の要望を積極的に誌面に反映させていきたいと考えている。……批判のための批判は、プラスにはならないが、審議期間も二年間と十分にあるわけだから、改革への提案をどしどし行なうべきであると思う。黙殺とか無視という態度は、消極的であり、少くとも私は間違いだと思っている。本号の特集は、そうした私ども編集部の考えに立って、久しぶりに臨時増刊として送り出したものである。……全体の構想は、まず最初に戦後国語教育のオピニオンリーダーと目される諸先生に、国語教育の改造の方向を自由に論じていただいた。……<江部>」 

    国語教育の改造のために

 <言語主義からの解放>という標題の意味ですが、さし当たって、それは、言語観ないしメディア観としての言語主義からの国語教育の解放という意味です。そのことを、ここでは教師の主体の問題として考えてみよう、というわけです。
 メディア観? ……コミュニケーション・メディア(伝え・伝え合いの媒体、体験の交流・交換のための交通手段)についての考え方、という意味であります。たとえば、「ことば」や視覚形象、視聴覚形象などさまざまのコミュニケーション・メディアの機能的性質をどう考えるか、その相互の関係・関連は? といったことについての考え方のことです。あるいは、<概念としての言語>と<形象としての言語>との関係、「ことば」の概念的操作とその形象的操作との関係・関連などについての考え方のことであります。
 また、ここに言語主義というのは、「初めにことば ありき。」――ドイツ観念論の伝統的な「ことば」絶対、「ことば」中心の考え方、たとえば「ことば」の芸術である文学に対して(それが崇高な「ことば」のいとなみであるがゆえに)芸術の国の王位・王冠を奉呈するというてい の、旧観念論美学の言語至上主義の考え方などを含みます。それは本来、事物主義(実在論・反映論)に対する言語主義(観念論)の意味なのですから。
 が、ここではおもに、次のような考え方をさして言語主義といっているわけです。(1)「ことば」には、その「ことば」をもちいた送り手の思想なり感情なりが自己完結的なものとして、内容として封じこめられている式の、「言霊(ことだま)」的な言語実体観にはじまって、(2)結局は「ことば」によらなければ事物や現象の本質(真実)には到達できない、といった考え方に至る一連の言語至上主義の考え方が、私がここにいう言語主義なのであります。
 国語教育界に支配的な言語主義は、ところで、「概念」中心主義とでもいべき言語主義であります。(言語主義というものが本来そういうものでしょうが――。)そこでは、「ことば」とは究極において「概念」のことなのであります。「ことば」と「概念」との混同・同一視に立ち、「概念」と「形象」との機械的なきりはなしの上に、概念が概念だけの自己操作によってひとり歩き できるような錯覚がおこなわれています。乾孝氏のことばを援用すれば、そこでは「概念は記号 の中で完結したもののように誤解されている」(『形象コミュニケーション』)のです。
 『ヨハネ伝』(? ――たしか、そうだったでしょう)の作者のことばをもじって言えば、「初めにことば (=概念)ありき。」なのです。「ことば (=概念)は神(=真理・真実)とともにあり。ことば (=概念)は即ち神(=真実)なりき。」なのであります。しかり而して、概念でつかんだその至高の真実の真実性は不変のもの、自己完結的なものとして記号の中に保障される、というわけです。<記号としての言語>と<信号としての言語>――記号 の中に保障される、というわけなのであります。
 例示するまでもあるまいかと思いますが、たとえば、「追体験」によって作者の意図・体験にせまることを終局の目的とした、一連の読解理論やその読解作業。そこには、作品(文章)というものにはその作者の「たましい」が宿っている、意図した送り内容がその記号の中に封じこめられている、という言霊(ことだま)信仰が横たわっています。この考え方では、作品形象は媒体であるよりは実体――作者の思想 を盛りこんだ容器 だ、ということになります。そこでの教師の関心事は、そこに盛りこまれ封印されている一定量の中身をどれだけ生徒に配分できたか、ということになってきそうです。
 また、たとえば、教室で『くもの糸』(芥川)を読ませれば、その主題は「利己心のいましめ」であるとか、『走れメロス』(太宰)のそれは「信義と友情」であるとか、「結局、作者は何をいおうとしているのか」「何が書いてあるのか」というかたちに授業をまとめないと気がすまない、というのなども、この「概念」中心主義のあらわれでしょう。いや、そういう操作をした後で表現読みをして形象に返していくんだ、と言ってみたところで、事態はあまり変わらないでしょう。
 私がいうのは、こうした言語主義的な観念に立つ国語教育、国語教育観からの解放ということです。こうした観念の束縛から自由になって、もう少しサバサバと、すっきりと国語教育の作業にとり組もうではないか、という提案・提唱なのです。そういう提唱をここでおこなうわけは、“上からの国語教育”と“下からの国語教育”とを問わず、こんにちこの只今、国語教育の正常な前進をはばんでいる内在的な要因のひとつにこの言語主義的な言語観・メディア観がある、と考えられるからなのであります。
 誤解のないように、ことばをかさねます。内在的な要因のひとつにそれがある、という指摘にすぎません。それがすべてだ、それが唯一の要因だなどと言っているのではありません。それは、もろもろの要因の中のひとつの要因にすぎません。しかし、見すごすことのできない「要因」であります。この要因は、教師ひとりひとりの実践に関して、その実践を実践主体の内がわから足を引っぱっている当のものだからです。あえていえば、それは、国語教育の前進をはばむもろもろの要因を温存させる、まさに“内在的”な要因だからであります。
 私が問題にしているのは、つまり私たち教師大衆個々人の主体の内部についてなのです。その主体の内がわにベッタリくっついて離れない、言語主義の残りカスについてなのであります。“上からの国語教育”の基本路線は、(そのさまざまのヴァリエーションにもかかわらず)言語主義路線にほかなりません。形象理論による戦前の国語教育がそうだったし、戦後・現在のその亜流や変種も同様であることは上記のとおりです。「昭和五年に出された国語教育の指導案(東京高師方式の指導案)と、こんにち多くの現場で見うける指導案とのあいだに一体どれだけの違いがあるか」という意味のことを林進治氏が語っておられますが(『私の体験した大正・昭和国語教育史・3』――「児言研国語」5)、だいじな指摘だと思います。
 さて、林氏がそこに指摘しているような、言語主義的な指導原理と対決しつつ実践をくむ教師個々人の言語観が、その根底に於て上からのそれと同質のものであるとすれば、どういうことになるか、ということなのであります。国語教育の実践の問題は、教師の社会意識や政治的イデオロギーの進歩性というようなことだけではカタがつきません。教師その人がまっとうな現実観、まっとうな歴史感覚をもつことは、むろん必要なことです。が、それは、いわば国語教育活動にとっての大前提です。
 この大前提に対する前提、直接の前提としての言語観や言語感覚そのものがまっとうなものでなければ、まっとうで前向きな国語教育はそこに実現するはずがありません。そのことにくらべれば、指導過程や指導手順をどう組むか、というようなことは二の次の問題であるように思われます。いや、これは誤解をまねきやすい、いい方でした。方向と目的にかなった指導過程、「ことば」の機能(生産的・実践的なその機能)を生かした指導手順を組むためにも、言語観のひずみ が是正されなければならない、ということなのです。
 くり返しになりますが、そこに必要とされるのは、「ことば」本来の実践激な機能への実践的なアプローチを意図した、そのような言語観であります。「ことば」を記号 の中で完結した、自己完結的なものと考えるのではなく、行動との関連の中で信号 として実践的にはたらく「ことば」の機能と役割をおさえる、そのような言語観の獲得です。そのような言語観の教師個々人における獲得と樹立は、ところで、自己をつき放すかたちでの、自己内心の言語主義(=言語主義的観念)との対決、という姿勢においてしか実現しえないように私には思われるのです。


    言語観の変革がもたらすもの

 誤解のないように、いいそえておきます。<国語教育をどう改造するか>という課題もを、私はとり違えているわけではない。課題が要求しているのは多分、国語教育の構造改革ないし指導過程の変革などについて、なにがしかの提案をせよ、ということだろうと思います。それは、わかっているのです。わかってはいるのですけれど、それは、かくかくしかじかのものとして構想されるべきだ、というようなところから話をはじめる気になれないのです。
 教科構造や方法体系、指導過程などについて形の上でいくら格好つけてみても、言語観そのものが変革されなくては、どうにもならない。教師その人の言語観が方向的に狂っていたのでは、読解がどうの、表現読みがどうのと言ってみてもはじまらない、という気がするのです。
 たとえばの話ですが、私たち教師がほんとうに言語主義から足を洗えるときがきたら、当然、国語教育は、もっともっと文法教育をだいじに考えた国語教育に変革されるでありましょう。その文法教育は、もはや、ただの知識のつめこみ教育ではなく、また場あたり主義の、非体系的な、移調のきかないブンポウ教育ではないでありましょう。それは、きっと、日本語の文法構造と日本人の思考様式との関係を段階に応じて、ダイナミックに、いきいきとつかませていくような、そのような体系をもった文法教育でありましょう。
 このようにして、言語主義が私たちにとって過去のものとなったとき、また当然、今みたいに文学教育を疎外した、学習指導要領方式の(また、それベッタリの)教科構造論や指導過程論、方法論を、現場の教師大衆はその実践において実質的に否定しさるに違いありません。イデオロギー一辺倒の素材主義の文学教育や、道徳教育まがいのブンガク教育、大河原忠蔵氏のいわゆる文学作品埋没型の文学教育や、それと対極的な、詩・物語文の読解指導と称する、文学教育のただの読み方指導へのすり替えなど一連のものも、その新しい言語観・文学観のもとでは徐々に、そしてやがては急激に姿を消しさることでありましょう。
 どうも夢みたいな話をして恐縮です。が、教師自身による教師の主体の変革、教師の言語観の自己変革ということを前提として考えた場合、それは、あながち夢ではない。そう思うのです。
 構えだけでは問題は解決されない。もろもろの要因が同時にはたらなければ、問題は解決の方向にむかいはしない。――ということは、わかっているのです。身にしみてわかっているのです。けれど、構えが主体の内部に用意されないことには、また解決もありえない。そう実感するのです。
 現に、各民間教育研究団体によっておこなわれている、教科構造や指導過程へのさまざまな新しい構想も、実はそれぞれにある種の言語観、ある種の発達観を前提としておこなわれているわけです。その 言語観なり、その 発達観が教師大衆ものとのなることを予想しつつ、また前提としつつ提案や実験的なこころみがなされているわけなのです。
 いまは話題を言語観の面にしぼって考えているわけですが、その言語観が中途半端な――というのは依然、言語主義に片足をつっこんだみたいな――ものである場合、たとえばそこに構想された指導過程論は、それが体系的に手のこんだものであればあるほど、基本的・方向的な面で矛盾をあらわなものにしてくる、という結果をうむでありましょう。こわいのは、その点です。
 体系化へのあゆみが、あるところまで進むと、こんどは出直しがむずかしくなります。基本的な言語観の面で、自身に矛盾をある程度に意識しながらも、その矛盾をとりのぞくことが部分的な修正では間に合わないとなると、「べつに矛盾はないんだ。なかったのだ。これでいいんだ、この儘で」というふうな自己欺瞞をやるようになりがちです。かえりみて、自分自身のなかにそれがあることに気づくし、周囲を見まわして、存外そういうケースの多いことを感じます。こわいのは、この点です。
 だからして、国語教育をどう改造するか、すべきかについて考えるためにも、まず、この言語観の問題におもいをめぐらす必要がある――と、そう思うわけでなのです。


    国語教師の新しいタイプが要求されている

 
かれこれ三〇年ほど前のことですが、J.デューウィが言語主義について、つぎのような批判をおこなっています。ハーヴァードでの集中講義をまとめた『経験としての芸術』の第六章においてであります。
 ――芸術は表現であり、したがって一つの言語である。いや、むしろ、もろもろの種類の言語である。どうしてかといえば、それぞれの芸術はそれぞれの媒体(メディア)をもっており、その媒体はある種の伝えにとくに適しているからだ。それぞれの媒体は、ほかの言語では上手にいえないし、完全には言えないようなことを話すのである。日常生活の必要は、伝えの一様相である「ことば」に、この上ない実際的な重要性を与えた。このことは、建築や彫刻、絵画、音楽などにおいて表現される意味が、ほとんどそこなわれることなく「ことば」に翻訳できるという通念を、不幸にも生んでしまった。ところが実際は、それぞれの芸術は、おなじ事柄についてであっても、ほかの言語ではいえないような事柄を伝えるような話し方をするものである、云々。
 注記するまでもなく、ここに「言語」というのは、コミュニケーション・メディア一般のことです。その総称であり個称です。絵画の言語(つまり絵画の媒体)、音楽の言語(つまりまた、音楽の媒体)等々々。彼がいうのは、それぞれのジャンルのの芸術には、それぞれに固有の世界、固有の対象領域があって、それらは、そのそれぞれの「言語」によってしかつかめない、あらわせない性質をもっている、ということでしょう。人間はその「もろもろの種類の言語」の所有者であり、「ことば」は、この「言語」の一種類にすぎない、という指摘です。
 ところが、いっさいの事物のいっさいの意味が「ことば」でならつかめる。「ことば」でなら何でもつかめるし、「ことば」になら何でも翻訳できる、という考え方(言語万能主義)にすべりがちだ、というわけです。すべりがちだ、というより、すべってしまっている。不幸にも、これがこんにちの「通念」だ、というわけです。
 これは上記のように、一九三〇年代のアメリカ社会での話なわけですが、六〇年代の日本の現在の国語教育の場合、「ことば」になら、「ことば」でなら、というところをすでに通り越して、「ことば」でなくては、というところまで滑べってしまっているように思うのですけれど、どうでしょう? 結局は「ことば」でなくては、ものごとの本当のところはつかめない、云々。「ことば」でつかんだ真実が最高の真実だ、云々。
 こうした考え方でいくと、たとえば童話なり小説作品に素材を求めたようなラジオ・ドラマ、テレビ・ドラマなどの教室での視聴覚指導ということも、たんに読者への導入(いざない)のためとか、あるいは、小説を読むことの代用というふうな意味でしか考えられないことになります。現に、そういう言語主義へのかたよりが見られなくはない、ということなのですが。
 が、実をいえば、見たり聞いたりすることで考える、視聴覚的なメディアによる(映像的認知による)その固有の考え方や感じ方をそこに育む、という点に視聴指導の意義もあるわけでしょう。さらに、それを国語教育プロパアな視点からすれば、「ことば」が「ことば」以外のメディア(信号)との協力の中ではたらく、「ことば」のはたらきの実態について指導できる場面でもあるはずです。それをさせないのが、この言語主義です。教師の内面にひそむ言語主義です。
 この点について、もう先、対談放送の機会に波多野完治氏の意見を聞いてみたことがあります。
 波多野 ラジオ・ドラマとして成功していればいるほど、それは読書指導的な利用というものからいうと都合が悪くなってしまう、ということですね。つまり、『杜子春』という作品の中から、ラジオ・ドラマ的な要素を解放していますからね。ですから、読書指導の導入としてそぐわないものになってしまうということ、それが一つですね。それから、もう一つは、ラジオ・ドラマというものを子どもに鑑賞させるときには、読書指導というようなやり方、そういうやり方では、ラジオ・ドラマ、テレビ・ドラマのようなものの鑑賞指導はできないということですね。ですから、名作のラジオ・ドラマ化という場合でも、その指導は、まったく新しい芸術原理に即した指導をしなくてはいけない、ということになるのではないかと思いますが……
 熊谷 そうですね。新しい指導の仕方がそこに作り出されねばならない、ということですね。ラジオ・ドラマ、テレビ・ドラマでは結局、小説を読む場合のような、深い人間性の把握といったことが不可能だなどと言われておりますが、けっしてそんなことはないのであって、別の角度からの、別の映像による――つまりラジオやテレビを通してでなければつかめない、そういう映像によるつかみ方というのがあるわけですね。
 波多野 小説の場合には一種の心理的な経過みたいなものが非常に重要になりますが、ドラマタイズされたものの場合には、これはドラマツルギーの基本的な原理のせいもあって、精神の弁証法的な葛藤といいますか、そこからくるエモーショナルな、精神的、あるいは精神の激動というようなものが全面に出てくるわけですね。そういうものを指導することができる先生でないと、ラジオ、テレビ・ドラマのほんとうの指導はうまくいかない、というべきだと思います、云々。
 不十分にしか話し合えませんでした。しかし、波多野氏のこの短い談話の中からも、言語主義と国語教育の問題に関して多くの示唆をくみとることができましょう。「そういうものを指導することができる先生」云々――それは、たんに、視聴指導を上手にやれる先生という意味ではないでありましょう。広い視野に立った、幅のある、確実なメディア観をもち、「ことば」の実践的機能を生かして指導をおこなうことで、その実践的機能を子どもたちにつかませることのできるような教師、という意味でもありましょう。
 従来の国語教育の観念や国語教室の習慣から自由な、国語教育の新しいタイプがそこに要求されているわけです。そういう新しいタイプの教師は、どこか別の世界からやってくるのではなくて、自己内心の言語主義との対決において、私たち自身のあいだから生まれてくるのだと思います。


    こんごの課題
 「ことば」を重視するのはいいが、偏見を前提とした重視では重視したことになりません。「ことば」でなくてはつかめないことがあるのは確かです。「概念」でなくてはつかめないことがある、というのも確かな事実です。線や色彩や音などを媒介にしなくてはつかめない(つかみきれない)事柄があるように、「ことば」でなければキャッチできない事柄というのがあるわけです。国語教育の中心課題は、むしろ、やはり、この「ことば」でなければつかめない事柄を「ことば」でつかめるようにすることでしょう。そういう課題の要求からして、文法教育や文学教育などが中心の柱になった、国語教育の教科構造が考えられなくてはならない、というようなことにもなるのでしょう。(私としては、さらにそこに論理教育という柱を考えています。文教研著『文学の教授過程』参照。)
 だが、「ことば」でなくてはつかめない事柄がある、というところから飛躍して、いっさいの事物、いっさいの現象の本質は「ことば」によらなければつかめない、というふうに考えるというのは、やはり偏見というほかありません。
 「ことば」でつかむ、という場合にしても、実はやはり「ことば」以外の他のメディア(信号)に支えられているわけです。それぞれのメディアは相補関係にあるわけです。その相補関係を離れて「ことば」が「ことば」だけでひとり歩き できる、と考えるのは現実の事実に反しています。むしろ、国語教育のこんごの課題は、意識してこの相補関係をつかませることだ、と思うのです。自分の置かれ場面規定の中にこの相補関係をつかんで、「ことば」操作のできる子どもを、これからの国語教育は考えなければならないように思います。子どもたちの未来へ向けてそのことが考えられねばならない、という意味です。
 「ことば」による概念的認知、概念による概念の形成ということにしても、概念だけの自己操作でそれが実現しているわけではない。概念が概念だけでひとり歩きできるわけのものではありません。形象が形象だけでひとり歩きできないように、やはり、そこに、形象と概念の相補関係があるわけです。直接的には、「ことば」自体の形象的操作に支えられた、概念と概念的認知の成立と進行――ということです。
 そこで、「コトバは決してコトバだけで独立してはたらくものではなく、どれほど洗練された概念でも、いつもそれを支える運動感覚的な体験によってその意味をになうものなのである」云々(前掲『形象コミュニケーション』P25・26)という乾孝氏の指摘は大きな意味をもってくるように思います。
 「ことば」は行動の代理・代行として、いわゆる意味の行動とは別のものです。それは、行動の系、運動感覚の系としての第一信号系に対する、第二信号系なのですから。だがしかし、第一信号系あっての第二信号系です。行動の系との生きたつながりを持つかぎりにおいて、それは、第二信号系としての「ことば」なのです。乾氏がいうのも、その点に関してでありましょう。「ことば」は、「ことば」信号なのであって、記号 の中で完結した言霊(ことだま)ではありません。
 「ことば」が信号として機能するのは、つまり人間の(あるいは人間相互の)具体的な行為・行動の場面において操作される場合だけです。「ことば」は、そこでは「記号」を地づら とした図がら として、「信号」として人間の行動の一形態となるのであります。その図がら の模様や、その図がら の意味するものは、それが使われる場面に制約されます。
 国語教育の分野で「読解」という名でよばれている操作・作業が、「ことば」を「記号」として処理することに終始するものなら別として、<文学教材の読解指導>というふうに、それを「信号」として扱おうとする以上、その作品表現本来の場面規定をきっちりおさえて読ませることをやらないといけない。そこのおさえ方が弱いというか、ズレているような場合、同じ記号の場面(本来の場面)に規定されて生まれた、本来の意味内容とは別個の意味内容のものとして受信されてしまうからです。どうもこの、本来の場面規定をくぐって読む(読ませる)という面の指導が、かなり全般に欠けているように思われます。基本的には、言語観のひずみ からくるアナのような気がしてなりません。
 他の場面、他の人間(人間像)のおもいをくぐる――自己に媒介して読む、という、こういう操作を発展的につみかさねていくことで、じつは自身に、ひとの言うことを感情ぐるみに「わかる」素地も培われてくるのだ、と思います。また、どんなふうないい方が相手に対して説得性をもったいい方になるのか、という表現力を自身に育むことにもなる、と思うのです。表現の素地、表現理解の素地ということです。あるいは、表現への構え、表現理解に対する構えということです。言語主義、「概念」中心主義の国語教育に欠けているものは、この素地と構えを育む教育活動である、といえるのかもしれません。
  <国立音楽大学教授>

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