岐路に立つ国語教育
 熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
国語教育時評 5
教材論の問題を中心に
   (初出:明治図書刊「教育科学 国語教育」1965年8月号)  


  自己診断

 既刊の四・五・六月号の私の時評について、五月末日現在、二〇〇通あまり、未知の現場の方々から激励の手紙を頂戴した。ところで、六月号(『技術主義では“国語”は教育できない』)の場合にかぎって、寄せられた約六〇通のうち四通、反論が含まれていたということがあって、考えこんでいたところなのである。それは要約すれば、技能主義をあんなにまで眼のかたき にして叩かなくたっていいじゃないか、技能主義には技能主義でまた「いいところ」もあるのだから、という批判である。
 技能主義のどこが「いいところ」なのかは、そこに記されていない。が、ともかく、「点が辛い」「少し酷だ」「技能主義のすぐれた面についての評価を欠いている」というふうな意見だ。
(カッコ内は手紙の文面のまま。)技能主義の「いいところ」とか「すぐれた面」というのが、どういうことをさしているのか、これは具体的に説明していただかないと私にはわからないし、したがって答えようもないわけだ。
 が、その文調から察して、反論を寄せてくださった方々の指摘する「いいところ」というのは、多分、やはり「いいところ」なんだろうと思う。ただ、その 「いいところ」というのが、機能主義というその 主張、その 考え方が本来的にもつ 「いいところ」なのかどうかは、簡単に一義的にはきめがたい事柄のように思われる。
 いま私は、ある必要から明治の思想家の系譜をしらべているところだが、大井憲太郎なりだれなり先駆的な民衆解放運動家の、私生活面での意外な古さ
(その行動感覚の示す前近代的などす黒さ)を見つけて一驚する。また、その反対に(?)、黒い手のこのいまわしい人物にもこんな人間的な一面があったのかと、意外な感じを受けるのは一、二の専制主義思想家のある種の書簡などを手にしたときである。
 ともあれ、意識と行動とは必ずしも対の関係にはない、ということ、その人が意識していだいている世界観と、その人の行動から帰納される世界観とは必ずしも一致しない、ということなどを、この場合お考えになってみていただければいいか、と思う。
 自身に自己診断の必要を感じたのは、だからその点についてではなくて、「点が辛い」とか「酷だ」という批判に関してである。が、これまた「点が辛い」というのが、点数に足駄をはかせない
(身もフタもない言い方をしている)という意味での「辛い」ということなのか、ほんらい70点なり80点のネウチのあるものを50点か40点にしか採点していないという意味で、「辛い」とか「酷だ」といっているのか、ハッキリしない。
 もしも、後者のような意味で判断を誤っているのだったら、これは私の責任だ。だったら、どうか具体的に謬点を指摘していただきたい。ご指摘にしたがって、じっくり考えなおしたい。が、またもしも、前者のような意味で「酷だ」ということなら、問題は私の時評が対象とした事実のがわにあるのであって、批評の方法そのものが責任を問われる理由はない、ということになりそうである。私としては故意に、ことさらに、底意地のわるい評価をこころみたつもりはない。が、つもりは所詮つもりなのかもしれない。その辺のことについて、論点
(あるいは争点)を明確にした批判を寄せてくださることを期待し鶴首している。

  とらわれない眼

 
(五月末日現在での話だが)今月のうれしいニュースは、教科研・国語部会の機関誌『教育国語』が創刊されたことである。『日本文学』(日文協)、『作文と教育』(日作)、『児言研国語』(児言研)、そしてこの『教育国語』と並べてみると、民間教育運動の明日への期待がより大きなものになってくるのである。「こんにち教育出版事情はかなり困難であるけれども、わたくしたちは、あくまでもこのしごとを継続させていくつもりである。」(『教育国語』創刊のことば)どうぞ、がんばっていただきたい。民族の明日のためにである。
 『教育国語』――季刊、一六〇ページ。商業誌を見なれた眼には、雑誌というよりは論文集という感じの編集で、全国的組織をもつこの団体の機能をフルに発揮した、清新で充実した内容である。とくに眼につくのは、この団体の地方組織にぞくする人々の研究報告が、明確な理論的仮説に立って実践をくみ、その実践を通して仮説の当否を検証しつつ、明日のよりよい実践のための足場となる理論を用意しよう、という姿勢でつらぬかれている点である。これは、ほんとうに、すばらしいことだと思う。
 もっとも、なかには
(あるいは部分的には)仮説を検証する代わりに、仮説をなぞったかたちで報告(実践報告)が進められている、という印象のものも見られないわけではない。が、それも基本の姿勢が仮説ベッタリだ、というのではない。報告の叙述のしかたに多少問題がある、というだけのことにすぎない。総体として私は、ひじょうに感銘を受けた。自分自身の関心がその辺にあるせいだろうが、とりわけ、岩手教科研・国語部会の共同研究『教科書のなかの文学教材について』や、勝尾金弥(石川教科研)による「佐多稲子作『狭い庭』の授業記録」などの労作が示す問題意識のありかたと、問題整理の高さには敬服した。
 右の岩手の共同研究の場合、「すぐれた文章」で「読み方教育を行なう」という教科研テーゼにもかかわらず、「真に科学的な教材論をわれわれはまだもっていない」という反省から、まず岩手が「その研究の口火をきる」という積極的な姿勢で問題が組まれている。しかし、現在の時点では「教材編成の原理」も、「何がいい教材なのかもはっきりしていない。」そこで、「まずやれることから始めようというわけで、教科書のなかの改作された文学教材から研究を始めることにした」というのである。
 このようにして、『ふしぎなたいこ』他七編の作品について、「改作が授業にどういう影響を与えるか」ということが綿密にさぐられる。与える影響としてそこにかぞえられているのは、たとえば次のようなことである。<形象の読みとりが困難になる><誤った形象の読みとりになってしまう><人物の性格がきちんと読みとれなくなる><原作の主題が変わってしまうこともある>等々々。
 報告者が指摘しているように、「このような教材ではいい授業ができないことは、いうまでもない」だろう。教科研の人々が考えている読み方教育のわく 組みからいって当然そういうことになるだろうし、また、私なんかの考える文学教育のわく 組みからしても、文学の授業は、文学精神の背骨をもった作品を通してしか実現不可能だ、ということになるのである。そのような作品でなくては、子どもたちの感情のわく 組みそのものを組みかえるというかたちで、感情ぐるみにその認知を育む、ということはできない。「すぐれた作品しかつかわない」という、そこに示された考え方、その姿勢は同時に、全日本の現場教師みんなのものにならなければならないもののように私は思う。
 だが、「すぐれた作品しかつかわないということは、今の段階では、すぐれた作品をさがし出すこと」である。というわけは、報告者があげている理由に加えて、どういう作品が文学として 「すぐれた作品」なのかが今は問いなおされなければならぬ「段階」だ、ということがそこにあるからである。この点についての寒川道夫氏の発言
(筑摩書房『国語通信』No.75)に、しばらく耳をかたむけよう。
――「実はこの間、福岡での日教組教研集会の国語教育分科会に出席したんですけれども、以前には文学教育とはいったいどういう意味をもつものであるか、そのためにはどういう作品を持ってこなきゃならないか、それからその指導過程はどうでなければならないかというような、かなり基本的な問題から掘り起こされてきていたんですが、二年間出席できないで、ことし出てみましたら、非常にそういう問題のとらえ方が違ってきている。(中略)ある作品を、どう受け取らせていくことが正しいか、という教授過程論にウェイトがかかり、いろいろな実践報告の中からそれを探り出すということに中心があったわけです。」
――「以前には非常に一生懸命に語られた作品論。こういう社会状況の中でこういうふうに子どもたちを育てたい、それにはこんな作品がいいんじゃないか、あるいはこういう作品を読ませてみると、子どもたちはこんなふうに考え方が変わってくるというような、そういう作品論というものが極めて微弱だったのです。とにかくそこでは疑問なしに(中略)この作品はこういう作者の意図または主題であり、こういう表現である、だからその形象を読み取らせることによって主題に迫っていくにはどういう手だてが必要であるか、ということだけが非常にこまかく取り上げられ、文学教育の基本的な問題はすっかりネグレクトされてしまった」云々。
  寒川氏が指摘しているように、「作品論というものが極めて微弱」な状態のもとでの、一義的な作品評価や作品の主題把握が前提となった「教授過程論」では、これはどう仕様もないだろう。そういう偏向がそこ、ここに見られるおりから、まず「教材論の第一歩として」改作教材の問題ととりくみ、「この研究をすすめること」の中で、自分自身の「作品を見る目」をはぐくもうという、上記岩手の研究グループの姿勢には、すがすがしく清新なものが感じられる。

  “筋”をつかむことの意味

 思うに、岩手教科研の人々の場合に見られるような、とらわれないこの実践的な研究の姿勢は、所属団体のいかんを問わず、じつは多くの現場人に共通する姿勢なのであろう。『児言研国語』No.4(五月刊)所収の山地芳弘氏の第14次全国教研ルポにしたがえば、「新しい教材の発掘は、今年も見られなかった」し、また全般的には、「どんな教材が、よい教材と言えるか、というよい教材の具備すべき条件についての分析もあまり深められなかった」けれども、しかし、群馬・山形・東京・千葉などの各県代表からは、「教材観」について「一応の視点」が提示されていた、という。
 また、やはり『児言研国語』のこの号についてみても、たとえば大木正之(『一読総合法の実践検討と展望・5』)などが、教材選択の原理について、「子どもの能力の最近接上位領域のすぐれた作品を与えること」の必要を説き、「教科書検定によって、支配者の論理が基準としてつよくおしだされて来て」いるおりから、「民間研究団体が、自主的に教材選択をしていかなければならない」ことをルル語っている。機運はやはり徐々に熟してきているのだと思う。
 そこで、こうした姿勢をもった現場の人々に期待したいこと、あるいは望みたいことは、こうだ。こんど岩手の人々がこころみたような、改作が改悪以外ではないということの実証につづいて、さらに、(1)そのもとになった作品(原作・原文)や、また、(2)一般に「すぐれた作品」であり「すぐれた教材」だといわれているような、もろもろの作品について、それが真実すぐれた作品であるのかどうかを文学の視点、そして文学教材としての視点からもう一度検討しなおしてみていただきたい、ということなのである。
 たとえば、「すぐれた作品」「すぐれた教材」だとして多くの現場で定説みたいになっているガルシンの『信号』――この作品は、ところで、一八八〇年代のロシアという、展望のきかなぬ暗い谷間の文学史時代の宿命を背負ったガルシンの、しかもいちじるしい創造力の衰弱の中で書かれた、不幸な作品であった。それは、少なくとも「すぐれた」作品ではない。(三省堂『国語教育』五月号所掲の拙稿『文学教育と道徳教育』参照。)また、例えば、「定評」のある宮沢賢治や新美南吉などの作品にしても、そのすべてが「すぐれた作品」「すぐれた教材」だというわけではない。文学とは? という問いを絶えず問いなおすことの中で作品の再検討を――ということを私としてはぜひ言っておきたい。
 さらにまた、私は次のようなことを現場人の研究に期待したい。
 上記、勝尾金弥氏の『狭い庭』の授業記録と、記録の後に添えられたこの作品の作者佐多稲子氏)の授業記録読後感とを読みくらべてみて感じたことなのだが、主題把握と作品教材化のむずかしさについてである。
 勝尾氏の場合、いわば「筋の中に主題」をさぐり、「ささやかな幸せを求めて生きる人々が、知らずに傷つけ合う悲しさ」という点にこの作品の主題を見つけているわけだが、作者の立場からすれば、主題はむしろ、この作品を「読み終えた読者の心の中に」求められるべきものなのであって、これは「筋の上にそれ(主題)を強く押し出していない」作品なのだ、というのである。
 したがって、その主題は、作者からすれば、たんに「……傷つけ合う悲しさ」ということに「とどまら」ない。それは、たしかに「悲しい話ではあるが、その悲しさを作者はうたおうとしてはいない」。「それは、おたがいに知らずに傷つけ合うという悲しさというよりは、働く人々の生活が社会的に温かく保障されていないということです」云々、というのである。
 作者のことばを引用した目的は、作者のことばをなぞって、筋の中に主題をさぐることの誤りをいうためではない。いや、実は、どういう意味にもせよ、筋を追ってつかむ以外に、内容も主題もつかみようがないわけだ。私の言いたいことは、筋を追うことが内容なり主題なりをまっとうに理解することになるような、そういう筋のつかみ方がそこに必要だろう、という点に関してである。
 主題は筋の中にはなく、読み終わった読者の心の中に主題が求められる、ということは、ことば(筋)はその限りにおいては表現と理解を結ぶ(伝え合いを成り立たせる)媒体以外ではない、ということである。しかも、それは媒体(通路)なのである。唯一の通路なのである。作品の内容なり主題は、この通路をたどってつかむほかないのである。しかし、それは、そこを通って つかむほかない、ということなのであって、そこ (筋・ことば)に内容や主題がある、ということではない。
 ことば は、部分で全体を代理するものだ。部分としてのそのことば (筋)があらわす全体像(作品の内容)が何であるかは、そのことば が作用因として操作されるその場面の状況規定できまる。作品表現本来の場面規定(表現の次元を規定するもの)をきちんとつかんだ媒介的な読み と、読みの指導ということがそこに求められる。私のいいたいのは、その点をおさえた実践的な研究を、ということである。紙幅が尽き、意をつくさない。詳細は、明治図書・六月刊の文教研(文学教育研究者集団)共同研究『文学の教授過程』所掲の拙稿についてご承知いただきたい。


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