文学と教育 ミニ事典
  
〈味方の中に敵を〉/〈敵の中に味方を〉
 芥川はこういうことを言っていますね。プロレタリアであるとブルジョアであるとを問わず、自分の望むのは精神の自由を失わないことだ。敵のエゴイズムを見破ると同時に、味方のエゴイズムを見破る必要がある、というような意味のことを言っていますでしょう。たしか、『プロレタリア文芸の可否』という短いエッセイの中なのですが。
 これは、いわば、芥川龍之介の文学的イデオロギーの大事な側面ですね。エッセイにそう書いているというだけじゃなくて、彼の実際の作品形象のありようがそういう発想につらぬかれているわけです。味方のエゴイズムを、というのは、いいかえれば
味方の中に敵を見つける、ということにつながるわけなのでしょうが、『右大臣実朝』の創造過程の中で太宰治が発見したものは、味方の中に敵を、ということをもう一歩越えて、敵の中に味方を、ということだったのではないですかしら? ……
 搾取階級の片割れである貴族の息子の中に芥川が――と、この場合そう言ってもいいでしょう――見つけたものは、鋭い犬歯を具えた“敵”の姿でした。他を疎外することで自己疎外に陥っている、どう仕様もない腐り果てた人間の姿、醜悪なそのメンタリティーでありました。(『大導寺信輔の半生』の終章参照。)ところで、太宰が、新興の搾取階級としての封建領主階級の棟梁、鎌倉の将軍源実朝の中に見つけたものは、この、
敵の中の味方の姿でありました。隣人 に対する暖い心づくしに満ちた、そのすがすがしいメンタリティー。和歌に逃避の場を見つけるのではなくて、そこに心の支えを見つけて、闘うべき相手とは終始闘い続けた彼。その階級存在ということに関していえば、人間はその 階級者に生まれたくて生まれたのではない、という、そういう視点が採られています。
 この作品のナレーターの言葉を借りていえば、またそれを敷衍
(ふえん)していえば、「人間はみな同じものだなんて」、同一階級者だからといってその階級の人間はみな同じものだなんて、「なんという浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。」というところでしょうか。ですから、やがて闘いの果てに精も根も尽き果てて、頽(くずお)れて行く、無惨というかぶざまな晩年の実朝の姿に対しても、搾取者のメッキが剥げたとか本性があらわれた、というような見かたはしておりません。
 人間はその 階級者になりたくてその 階級者の家に生まれて来たわけではない、というこの考えかたは、ところで実は、もともと、芥川のものであったわけです。そういう宿命に束縛されることがないのは、カッパの子だけです(『河童』)。そこで、信輔は、中流下層階級者の子として生まれ合わせた自分の宿命を絶えず託
(かこ)っています(『大導寺信輔の半生』)。一義的な割り切りかたは避けなければなりませんが、そこで芥川は、自己の存在証明を中流下層階級者としての自己に求め、そのメンタリティーにおいて見えて来るものを、その限りリアリスティックにつかみ取ろうとします。まず、中流下層階級者としての自己確認に立ち、同時にその自己確認をアン・ジッヒ(即自的)なものに終わらしめないために自己否定するのです。
 芥川文学は、その限り、中流下層階級者のメンタリティーに座標を求めた、メンタリティーの文学です。
(…)

 同じメンタリティーの文学であり、倦怠のメンタリティーを追求しつづけた文学なんだと思いますが、太宰文学はその辺のところが芥川文学とは違うようなのです。太宰の場合、芥川と違って、搾取階級も搾取階級、東北地方の大地主の息子であるというふうに出身階級が違います。生まれ育ちがまるで別なのです。多分、そのことも作用しているんだとは思います。が、そのこと以上に両者の違いを導いているのは、世代の違いだろうと思うのです。大正デモクラシーの文学的代弁者と、暗い谷間の“二十世紀旗手”との違いですね。(…)

 自己の生活圏以外の人びととのメンタリティーにも太宰の関心は向いている、ということ。そういうことが前提にあって、囚われない気持ちで(芥川流にいえば、精神の自由を失わないで)、人間はみな同じものではないことに気づいた時に、いわば
敵の中に味方を発見するというかたちで“芥川を越える”とか“越えた”ということもできたのだろう、と思います。(…)

 ともあれ、
“敵の中に味方を”という主題的発想は、文学史的にいえば、プロレタリア文学以前の、“冬の時代”の孤立・孤独の闘いを闘っていた鴎外のものではあり得なかったし、すでに見てきたように芥川のものでもなかったわけです。それはまた、当時のプロレタリア文学の発想とも異なるものでした。そうして、それは、どういう意味にもしろマルキシズムをくぐり、一九二〇年代末、三〇年代の階級闘争のしぶきを浴びた経験を持つ、教養的中流下層階級者の文学的視点において模索された発想だ、ということに、どうやらなりそうです。井伏の『さざなみ軍記』がそこに位置づくわけです。

 ところで、『右大臣実朝』ですが、この作品の創造に際して鴎外や井伏の歴史小説に学ぶところが太宰にあったのではないか、と私は申しましたが、証拠は何一つないのです。私に確実に言えることは、戦中の歴史小説ブームですね、そのブームのモニュメントになるような幾つかの作品、何冊かの単行本が今、私の書架に並んでいますが、同じ歴史小説と呼ばれながら、『右大臣実朝』という作品はそのどれ一つともつながりを持っていない、ということです。藤村の『夜明け前』、榊山潤の『歴史』、橋本英吉の『系図』その他その他。さらに、さかのぼって、たとえば菊池寛の『忠直卿行状記』のような新現実派の歴史小説などともつながりを見つけることはできません。この作品がつながるのは、やはり、いま言ったような意味で鴎外であり井伏の作品であるということなのです。
 で、学ぶとか学んだということを、意識的な摂取という意味に限定して考えるとすると、あるいは事実に反するかもしれません。しらずしらず影響されて、今では血肉化している、と言ったらいいのかもしれません。が、何ですか私は、しらずしらず といったものじゃない、という気がなぜかどうしてもするのです。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.262-269〕


 ○太宰の〈心づくし〉というのは、この段階
[『葉』の段階]ではまだ“敵の中に味方を見つける”というところまでは行きませんが、あいつは敵、こいつは味方というんじゃなくて、メンタリティーの問題として他者の中に隣人たり得(う)べきものを探り続けようとしている、そのようなありかたの〈心づくし〉であったと言えそうです。……と、ここのところまで話を進めて来て幾分はっきりしてきたことがあるように思うのです。“敵の中に味方を”という『右大臣実朝』にとって基本的なものですが、それを指向しているものが〈心づくし〉の文学精神にほかならない、ということが、どうやら多少とも明らかにされて来たように思うのです。『右大臣実朝』、それは、文学にとって一番大事なものは〈心づくし〉というものだ、という自覚に立った太宰の作品だったのですね。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.279〕


〔関連項目〕
文学的イデオロギー
メンタリティーの文学
怒濤の葉っぱの世代/暗い谷間の世代
教養的中流下層階級者の視点
史実/歴史小説

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