文学と教育 ミニ事典
  
メンタリティーの文学
 鴎外文学のどこに、あるいは何に惹かれたのかと申しますと、その時はさして自覚的なものではなかったのですが、やはり、人間のメンタリティーの面白さに目を向けている鴎外の創作姿勢に惹かれるものがあったように思います。(…)
 『阿部一族』の細川忠利なり『護持院原の敵討』の山本九郎右衛門なりのメンタリティーの面白さ・面白味に大きな関心を寄せるこの鴎外の創作姿勢との関連・対比の中で、芥川・太宰・井伏など、人間のメンタリティーの面白味を、したがってまた〈人間として面白味のある人間〉をそこに堀り起こし描き続けている作家たちの場合に自然と目が向いて行ったわけなんです。
 切り口をかえて言いますと、忠利がそうであるように、どう仕様もない自分の倦怠感にじっと堪えている人間の姿ですね、あるいは、倦怠感からの脱出口を見つけ得ないで気も狂わんばかりに苦悩している人間の姿を一貫して描き続けた作家が芥川であり、太宰であり、井伏であった、ということなのです。つまり、そういう作家たちの場合に私たちの目が向いて行った、ということなんです。といいますのは、人間として面白味のあるメンタリティーというのは、自己のそういう倦怠との対決の中からだけ生まれてくるというか、培われて来る、そのような性質のものだからです。芥川流にいえば、それは、「孤独に耐える性情」(『大導寺信輔の半生』)と結びついたメンタリティーのほかならないからです。太宰治の場合について言えば、たとえば『右大臣実朝』の実朝像ですね。若い実朝が、宿命というほかないような抑圧と疎外の中で、自己の根深い倦怠感との闘いの中で身につけて行った、人間としてまことに面白味のあるメンタリティーは、彼自身にとってはまさに孤独に堪える性情と結びついたそれであったわけです。
 
メンタリティーの文学というのは、このようにして自己に倦怠を感じ、倦怠ということを知るものの文学です。また、どういう意味にもしろ、倦怠の問題を階級的人間疎外にかかわる、民衆サイドの人間にとっての必然的・必至的なメンタリティーの問題だ、と実感しているような人びとの文学なのであります。
 今、ふと思い浮かべたのでありますが、いつか私たちが例会で扱った黒島伝治の『電報』(一九二三年)ですけれども、熟していないところはあっても、伝治のあの処女作は
メンタリティーの文学です。それが『豚群』(一九二六年)になりますと、イデオロギー先行ということになるものだからして、闘う農民たちが敗北の現実の中で否応なし倦怠感につかまれざるを得なくなる、その一歩手前のところでペンをとめてしまうことになっている。敗北が必至であるあの場合の農民たちの闘争の、局部的、一時的な勝利の場面の描写でもって作品の幕を閉じているわけです。“村の論理”に打ちひしがれて、進学への希望を絶たれた源作の息子が、今は「醤油屋の小僧にやられている。」という、『電報』の場合の決着の付けかたとはまるで違ったものになってしまっているわけです。
 一時的な勝利と、一時的な敗北と。一時的な勝利でも勝利は勝利、その勝利の悦びにしがみつこうとする姿勢と、敗北を一時的なものと考えて……むしろ、それを一時的なものたらしめるべく、倦怠に堪えて明日
(あす)を待つ、という姿勢。イデオロギー主義ないし素材主義の文学と、メンタリティーの文学との基本的な姿勢の違いであります。ともあれ、、私たちの場合、メンタリティーの文学へ目が向いて行った……。それも、徹底して人間のメンタリティーの面白味をそこに探り、そこに、〈人間として面白味のある人間〉の典型を造型し続けた一連の作家群――鴎外・芥川・太宰・井伏の文学へ私たちの関心の目が向けられて行った、ということなのです。。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.94-96〕

   

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