「赤旗」 1982年7月27日号 掲載    

  <森鷗外 没後60年> 短編「あそび」にみる文学精神   熊谷 孝


   四年間の留学中におきた日本の変動

 公務によるドイツへの留学のため鷗外が日本を離れていたのは、一八八四年(明治十七年、鷗外二十二歳)の八月から八八年九月に至る、まる四年間である。この間に日本の現実は大きく変わった。まさにこの時期に、日本の民衆の運命を決定し尽くすような事件があいついで発生している。加波山事件、秩父騒動、大阪事件等々。あの自由民権運動の一連の事件である。
 また、そのこととの関連において、そこに寄生地主制のいっそうの強化を前提としたところの、どす黒い日本型近代の搾取形態が樹立されている。その搾取・抑圧・疎外は奥深く民衆個々人の精神の内部・内面にまで及び、このようにして国民大衆にとって、自由はすでに昨日の夢と化した。
 当然のことだが、鷗外自身はそうした国内的な現実の推移を身をもって経験することはなかったわけだ。それは、いわばめぐり合わせだと言うほかはないけれども、やはりというか、つまりというか、渦中の人ではなかった。彼がそのような決定的な時期にその場に居合わせなかったという、そのことが、しかしその小説第一作『舞姫』(一八九〇年)のありかたを、国内定住者の実人生からはかなり距離のある、リアリティーに乏しいものにしている。現実を見るその目は、帰朝者の――というより浦島太郎のそれにやや近い。
 あえていえば、太田豊太郎を病床に追いやりエリスを発狂させる、という作為的なプロットによる以外は、この時点、この場面での鷗外には日本的現実へのアプローチは不可能であったのかもしれない。それは、『浮雲』(二葉亭四迷)の内海文三の、実人生の中での屈折した思いや挫折の姿とも、また北村透谷の、「想世界」を拠点とした「実世界」との闘いの姿とも明らかに異なっている。

   自己の文学精神の定着と大逆事件

 鷗外の小説家としての立派さは、これは逆説ではない、その後二十年近くものあいだ、小説のペンを折ったにもひとしい状態で迂回を続けたことである。ここで迂回――回り道というのは、むろん小説の仕事を中心にすえての話だけれども、たとえば翻訳なり評論の仕事に打ち込むことで、そこに小説家としての自己の資質を培ったのである。『舞姫』のあのつまずきを再び繰り返すことのないような、実人生の中から実人生について形象的思索を深める、というリアリストの資質をそこに培ったのである。
 大逆事件が発生した一九一〇年に書かれた『あそび』という短編を読むとはっきりするが、この時期の鷗外の創作の姿勢は、書く必要と必然性があるから、したがってまた、書かずにはおれない気持ちになるから書く、子供が遊びに夢中になるのと同じような気持ちになって書く、というのである。これが彼のいう<あそび>の精神にほかならない。
 <あそび>の精神は、また、悪現実との闘いを瞬発的なものに終わらせることなく、それを息の長い持続的なものにしていくための精神の営為でもある。もっとも、鷗外はあまり何々のための、という言いかたはしていない。<あそび>の精神に根ざす<メンタリティーの自然>がそうさせるのである。
 このような<あそび>の精神を彼が自己の文学精神として定着させたのは、まずは大逆事件のさなかのこと、あるいはその直後のことと考えてよさそうである。この時期にあっては、鷗外はかなりはっきりと体制批判の側に立って発言するようになってもいる。たとえば、である。「無政府主義と、それと一緒に芽ざした社会主義との排斥をするために(中略)学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない」云々。(「文芸の主義」/一九一一年四月)

   後期鷗外文学との出会いの意味

 そこで、もしも、この<あそび>の立場はどういう立場か、と問われれば、それははっきりと反体制の立場だと言っていい。<あそび>の営為が人間の精神の自由を守る営為である、という一点において、そういうことになるのである。しかも、それは、かつての『舞姫』の場合に見られたような近代主義の視点的立場ではもはやない。むしろ、反近代主義の路線をそこに用意しつつ、日本型近代の否定に立ち、近代そのものが越えられるべきものとして在ることへの展望の一歩手前までさしかかっていたのが、この時期の、つまりは後期鷗外文学ではなかったかと思う。
 具体的には、それは『阿部一族』『護持院原の敵討』その他の一連の歴史小説が語りかけて来る、<あそび>の文学精神の世界のことである。悪現実への私たち自身の抵抗を持続的なものにしていく、各自主体面の支えとしてこの<あそび>の問題を考えることができるなら、それだけでも後期鷗外文学との出会いは大きな意味を持つことだろう。
 (国立音楽大学名誉教授)


※ 筆者自身の指摘に従い、ミス・プリントの訂正を行った箇所がある。
   ―第2節中―
     ・(誤)これは逆説ではない。 →(正)これは逆説ではない、
     ・(誤)悪現実との闘いを瞬間的なものに →(正)悪現実との闘いを瞬発的なものに
     ・(誤)それと一緒に芽ざした社会との →(正)それと一緒に芽ざした社会主義との
   ―第3節中―
     ・(誤)具体的にはそれは『阿部一族』 →(正)具体的には、それは『阿部一族』

※ 鷗外の<あそび>の精神 に関しては、同じ筆者による、たとえば次のような論稿がある。

    ・「鷗外と“あそび”の精神」(国立音楽大学 日本文芸思潮ゼミ「森鷗外の歴史小説」所収 1971.4)
    ・「“あそび”の精神――鷗外の場合」(三省堂『芸術の論理』所収 1973.5)
    ・「“あそび”の系譜」(鳩の森書房『太宰治 「右大臣実朝」試論』所収 1979.6)


熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955~1964(昭和30年代)著作より1965~1974(昭和40年代)著作より1975(昭和50年代)以降著作より