第30回全国集会「講演レジュメ」(1981年8月)
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近世文学における異端の系譜 熊谷 孝 (一) 論点 1 講演という名の当日の私の報告の前提になるものは、次の小稿に掲載した私見である。 ①[私の太宰治論――鷗外につながる一つの文学系譜」(「文学と教育」109号/文教研・第28回全国集会・講演レジュメ) ②「西鶴の発見」(同、115号) ③「芭蕉文学への視角」(同、117号) 2 右の1の②、③の所説は、実は①で提示した私なりの文学史方法論=文学系譜論の、西鶴と芭蕉という同時期(封建制確立期から動揺期への転形期)の二人の作家への適用であった。今回は、その適用の対象領域を、次期(封建制動揺期)にまでひろげて、西鶴・芭蕉・蕪村という三人の作家の場合について、そのそれぞれの連続面における関連(文学系譜)について考えてみたい。 私なりに用意している結論をいえば、その系譜は、文壇主流の動向に背を向けて、ひたすら精神の自由の確立のために闘った封建民衆文学の異端の系譜であった、ということである。 3 注記しておかなければならないことが幾つかある。その一つは、何をもって精神の自由(あるいは自由な精神)というのか、ということだろう。少なくとも、良心的な作家は、おしなべて精神の自由を求めて創作の仕事に従事しているに違いない。にもかかわらず、客観的にはといったらいいのか現実の事実としてはといったらいいのか、彼らの営為は、精神の自由を失っているような場合が少なくない。 そこで、場面規定である。この場合、最も根本的な場面規定は、 ①封建制――近世封建制=幕藩体制とは何か、という点をつかむ ことであり、 ②封建制ないし封建社会を、運動の過程において、したがって重層的につかむ ことである。(そこで、このレジュメには、そういう場面規定を押えるための一応の手がかりとなるような資料をリストとして後に添付した。) 4 すべてにわたって注記する時間の余裕はないが、いい添えておきたいっことが二つある。 ①西鶴・芭蕉・蕪村というこれらの作家は、それぞれ、封建制動揺期の端緒的段階を、(また蕪村についていえば)解体期へ向けての動揺期を、それぞれの時機に特有の封建的諸矛盾の渦巻く中にあって、自身、やはり矛盾を内包しつつ、自分と闘いつつ他と闘い続けた作家なのだ、というこの至って当たり前のことを見落としてもらいたくない、ということ。(これは、その作品の世界についても同断。純粋培養人間みたいな人間がそこに描かれていないという妙な理由で怒ったりしないで欲しい、ということ。) ②西鶴を文壇反主流の作家と書いたことについては異論があるだろう。実は、この異論は正しい。正しいのだが、主流派としての地位を保持しながら、現実には文壇本流の動向、潮流、枠組みからはみ出した異質・異端の文学性格を自己の作品表現に創り出している点が、芭蕉や蕪村などとも違う、この作家に特徴的な線の太さなのである。その辺の問題を、いま私は、ラザモンド・ハーディングの所説(小著『芸術とことば』参照)に随って考え続けているところである。 5 もう一つの課題は、近世=近世文学の側から、近代文学の成立のモメントについて考えてみることである。時間の余裕があれば、当日に。 (二) 資料 1 『去来抄』=故実 先師曰、世上の俳諧の文章を見るに(中略)或は人情を言ふとても今日のさわがしきくまぐまを探りもとめ、西鶴が浅ましく下れる姿あり。(中略)事は鄙語の上に及ぶとも、懐しく(異本/ゆかしく)言ひとるべしと也。 2 蕪村の俳諧観 ①「俳諧は、俗語を用ひて俗を離るゝを尚ぶ。」(「春泥句集」) ②「流行の先後何を以て分かつべけむや、たゞ日々におのれが胸懐をうつし出て、けふはけふの俳諧にて、あすは又あすの俳諧なり。」(「桃李」序) ③「得たきものはしゐて得るがよし。見たきものは、つとめて見るがよし。」(「新花摘」) 3 蕪村の句 柳散清水涸石処々 古池や蛙老ゆく落葉哉 うぐひすの何ごそつかす藪の霜 百姓の生きてはたらく暑さかな 二村に質屋一軒冬こだち 貧乏に追ひつかれけりけさの秋 商人を吼る犬ありもゝの花 やぶ入の夢や小豆の煮るうち 4 北寿老仙をいたむ 君あしたに去ぬ ゆふべのこゝろ千々(ちゞ)に 何ぞはるかなる 君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ をかのべ何ぞかくかなしき 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲たる 見る人ぞなき 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞ば 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の はげしくて 小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら のがるべきかたぞなき 友ありき河をへだてゝ住みにき けふは ほろゝともなかぬ 君あしたに去ぬ ゆふべのこゝろ千々に 何ぞはるかなる 我庵のあみだ仏ともし火もものせず 花もまいらせず すごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)は ことにたうとき
( 第 1 表 )
( 第 2 表 )
( 第 3 表 )
( 第 4 表 )
注1・2・3・5・6~寄生地主的土地所有の保護政策 注4~同右、新旧特権町人の不在j主化促進政策の側面 |
∥熊谷孝 人と学問∥昭和10年代(1935-1944)著作より∥昭和20年代(1945-1954)著作より∥1955~1964(昭和30年代)著作より∥1965~1974(昭和40年代)著作より∥1975(昭和50年代)以降著作より∥ |