明治図書出版刊「教育科学・国語教育」 227 1976年12月臨時増刊号 掲載    

  言語の教育と文学教育と
(<特集 教育課程基準の改善と新国語科の課題>「新領域〈表現〉〈理解〉と〈言語事項〉をどう受けとめるか」 には、倉沢栄吉、増淵恒吉、輿水実、浜本純逸、田近洵一、西郷竹彦、熊谷孝 他、合わせて十九氏の論文が掲載された。)


 領域の改定をどう受けとめるか、というこここでの課題に直接関係するのは、《まとめ》の4〈各教科・科目等の内容〉の中の、
 (1) <各学校段階別の改善の重点項目>
 (2) <各教科・科目別の主な改善事項>
という二つの事項の中の<国語>に関する事項である。
 (1)の<重点事項>のほうは、簡潔で大へんわかりがいい。小学校では「読み書き」の指導に力を入れなさい。また、中学校では「表現力」が生徒の身につくように特に留意して指導しなさい、というのであるから、目標がはっきりしている。
 実は私は、学習指導要領に示される指示内容というものも、いわば、この程度の(というのは言葉のあやだが、ともかく基本的にはこういう性質の)重点目標をはっきりさせた、ドライで、大まかで、あっさりした内容のものであるべきだと、つねひごろ考えている。あとのことは、いっさい、実際に教育に携わる現場の先生方自身の自主的な教科教育の研究と判断にまかせたらいい、と私は考えている。
 ともかく、あまりこまごましたことにまで規制を加えて、教師をティーチング・マシン扱いすると、学校が、教室が人間不在の味気ない、ただの学習塾と化してしまう。「ゆとりのある」「充実した学校生活」はそこからは生まれない。こと、国語科に関していうと、教師は、自分の言語観なり文学観に目つぶしを食わせた格好の、<国語>の授業はできないし、やりようがない、ということなのだ。教師の言語観や文学観にまで規制を加えるような指示や発言は、あくまで避けなければならない。

 というようなことを私がここで言うのは、《審議のまとめ》でいう国語科改定の趣旨が、何か分かったような分からないような、どうとも取れる不明確さを残しているために、それが受けとめ方では上記の現場教師の言語観・文学観の規制、ひいては授業そのものへのマイナスの規制にかわって行くような点がなくはないようにも感じられるからである。
 たとえば、<改善の基本方針>の項に示されているところの、今後、国語科では「言語の教育の立場を一層明確に」して、「表現力を高めるようにする」云々ということなのだが、ここにいう「言語の教育」というのは、具体的にいってどういう内容のものをさしているのか一向に明らかでない。言語の教育とは言語の教育のことだよ、では説明にならない。また、そういう「言語の教育の立場」というのは、どういう立場のことだろう? この点も明らかではない。
 そんな些細なことを気にしなさんな、と言われるかもしれないが、やはり気になるのである。これは決して些細なことではない。現に、先年、《審議の中間まとめ》が発表されたあたりから、次のような議論がジャーナリズムではさかんである。
 たとえば、「今の国語科教育は文学教育をやっているようなもので(ほんとうかしら?)、国語教育になっていない。国語科教育の実をあげるためには、いっぺん文学教育を振り切って言語教育に徹する必要がある。」というのである。で、そのためには、いっそのこと、「国語科を言語教育と文学教育にはっきり分けたらいい。」というのだ。
 また、「用字や仮名づかいがでたらめな文章を書きながら、何が鑑賞だ、感動だ。」というような意見もある。あらかじめお断りしておくが、そういうブンガク教育は、文学教育のマガイモノである。私自身の実感からすれば、ニセモノのおかげでホンモノが非難を蒙っているということになるが、それはともかく、文学教育を締め出すことで成り立つという、そういう言語教育というものが国語教育プロパアだ、というような考え方には我慢ならないのである。

 私が反問したいのは、《審議のまとめ》で言っている「言語の教育」というのは、まさかここでいわれているような意味での言語教育のことではないでしょうね、ということである。また、その「言語の教育の立場」というのは、いわゆる意味の言語教育がやはり国語教育の本筋・本道であって、文学教育は国語教育の付録だ、ただのアクセサリーだと考えるような「立場」のことではまさかありますまいね、ということである。
 どうもその辺のことがはっきりしないと、《まとめ》に対する賛否はいえない。

 私の個人意見だが、<言語教育>だ、<言語の教育>だというふうな言い方をするから紛らわしくなるのだ。国語教育そのものが全体として、<母国語に関しての言語操作の仕方の教育>なのである。その、言語操作の仕方の教育を<言語教育>とか<言語の教育>という呼び方をするとすれば(今いったように、そういう呼び方をすることに私はあまり賛成できないが)、言語教育なり言語の教育が国語教育のいっさいだ、ということになる。典型(フォアビルト)という意味での言語形象以外のものではない文学にかかわるところの教育活動――文学教育は、当然、右に規定したような意味での言語教育の体系的一環だ、ということになるのである。
 で、国語教育が言語操作の仕方の教育活動のひとまとまりの体系だ、ということを前提にして言わせて貰えば、言語機能の構造的本質からいって、国語教育の基礎構造は、
 @ 言語(この場合、母国語としての日本語)の概念的操作の教育活動
 A 言語(同右)の形象的操作の教育活動
の二側面の統一形態を主軸 としたものである、と考えないわけにはいかなくなる。
 が、これは、国語教育の基礎構造なのであって、国語科としての教科構造はまた別個に考えられなければならない。(私自身はそれを、@文学教育、A文法・音韻・文字の教育、B論理教育の三側面の統一として考えているのだが。)
 で、その教科構造を、<まとめ>のように、表現と理解の二領域、言語事項の一事項として押える、という考え方も十分成り立ちうるわけだ。問題は、右の二領域を側面領域として統一的に押えるという構えがほとんどないにひとしい点である。<改善の具体的事項>を通して読んでみるとよく分かるが、表現(表現の指導)は表現(同上)、理解(理解の指導)は理解(同上)というバラバラ事件を結果している。

 また、そのようにして分割されたそれぞれの領域を、小から中、中から高というタテ系列で見てみると、これはもう説明の章句・用語を替えただけの、同一事項の繰り返しである。そして、ところどころに、「的確な」とか「一層」とか、そういった言葉でアクセントをつけているだけである。
 たとえば、小学校の部で、「文章の叙述に即して内容を読み取る能力」といっていたのを、中学校の同じ<理解>の項では「読解、鑑賞など理解力を養う」といい、高校では「読解及び鑑賞の指導を通して理解力を高める」云々というふうに言い換えている。これではただの“作文”ではないか。何のことはない、小・中・高を<読解><鑑賞>という言葉で通したらよいではないか。また、小・中・高を分けていう必要も、これではないのではないか。
 何とも理解がつかないのは、また、高校の部に至って突如 (突如という感じである) 読みの教材は「すぐれた文章」である必要がある、といっている点だ。小・中学校の教材の文章はまあまあでいい? まさか、である。

 終わりに、上記<改善の重点事項>で、小学校国語科の最重点目標を「読み書き」の一点にしぼっている点について、ひとこと。
 「読み書き」を重点目標としてあげることに別に異議はない。が、小学校低学年段階の言語の発達を考えると、その最重点目標になるべきものは、むしろ、発音・発声の積極的な指導ということだろう。誰が考えてもそういうことになると思うが、どうか。
 目の前の小学校一年生、二年生にとって生涯のものとなるそのアクセント、イントネーション、エロキューションの基本・基底は、実はすでに学齢以前の段階においてかなり根深い定着をみせている。小学校低学年段階は、その発音・発声のひずみを正し、あるいは、それをまともなものに育くむことのできる多少の可能性を残している、いわば最終の一時期なのである。これは、もう、あとでは取り返しがつかないのである。
 で、《まとめ》では、「音声言語による表現力を養う」ことや、「的確な話し方の指導」の必要を強調しているわけだが、その場合、アクセントがへん でも、エロキューションがなっていなくとも、ともかく口が利ければいい、一応話の筋が通るように話せればいい、というわけではないだろう。文章の読みの場合にしても、それを音読する場合の話だが、いわゆる意味の文字がたどれるというだけでは困るのであって、ちゃんとした発音・発声で“読める”ということでないといけないわけだろう。
 国語教育は、直接的には民族の言語生活と言語文化に対して深い、大きい責任を負っている。学習者の生涯の言語生活を決定する問題に対して無関心であっていいはずはないのである。ご一考を。
 <国立音楽大学教授>

熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より1975(昭和50年代)以降著作より