明治図書出版刊「教育科学・国語教育」200 1975年2月号 掲載     

   言語観と母国語意識の変革を前提に
(<特集 国語科研究にとっていま何が問題か>「国語科研究はどうあるべきか――これからの現場研究のあり方を探る」 には、倉沢栄吉、菅野宏、野地潤也、中西昇、熊谷孝 各氏の論文が掲載された。)

    一 部分領域の研究も作業全体の展望のもとに

 この雑誌に書くのは何年ぶりでしょうか。ひところ、よく本誌に寄稿していたことがあります。その時分、<教師その人の国語教育以前が、その教師の国語教育活動の実際のありかたと質を決定する>という意味のことを書いたことがあります。
 <したがって、当然、国語教育の研究――各自の国語科国語教育の研究には、自分自身のこの国語教育以前へ向けての自己省察と診断を起点として、言い換えれば、そうした不断の省察によって座標変換を自己に迫りつつ、自分の研究と実践の筋道を規制していく、という姿勢がつねに要求されることになるだろう>という意味のことを、そのおり、何遍か本誌の書いたことを記憶します。
 国語教育以前? ……むしろ、各自の国語教育の作業にとっての必然的前提――前提条件というふうに言ったほうがよかったかなと、今は思ってみております。それは、直接的には言語観や文学観、そして母国語意識といったことなどを意味しておりますし、また歴史観や人間観その他その他を含めての<国語教育以前>ということなのですが。
 いま言ったように、国語教育以前という言いかたの当否は別として、そのおりに示したような、こうした私の判断の基本と大筋は今も全く変わっておりません。判断のしかたが変わらない理由の一つは、これは言うまでもないことですが、作業の前提となる発想にひずみ があれば、さき行きその作業行程に狂いが生じてくるのは自明の理だからです。
 そこで、絶えず前提にたち戻って考える、問題をつかみ直す、またそのことで実際の作業内容を組みかえ、作業の道筋を選び直す、ということが常時、実践的に必要とされるからです。お互い、誰しも、自分の実践に何らかカベを感じたとき、その実践に実験的な意味を持たせて検討し直すということをやるわけです。実際問題としては、そうした検討のおりに、前提にかえって思索するということになるのが普通でしょうが、今そのことを意識化し一般化した形で言うと、<国語教育以前>と<現実の国語教育の作業>との、上記のような相互関係が実践的に結論されてくる、ということ以外ではありません。
 それと同時に、そういう関係を意識化してとらえ、いわば自分自身の論理としてつかみ取らないことには、いつか自分の国語教育の作業に停滞と固定化が結果することにもなりかねないだろう、という、これは提言でもあるわけです。四年生なら四年生を対象に、どういう漢字を選んで教えるかということは、自分が構想する国語教育の作業全体の展望から決まってくることなわけです。ところが、他学級の担当者より自分のほうが短期間により多くの文字数を教え込むことに成功したといったことだけを自慢の種としているような教師たちの姿も、私たちは私たちの周囲に見かけないわけではありません。一例ですが。

    二 ニッポングリッシュの教育の否定

 もう一つの理由は――といっても、理由は実は二にして一なのですけれども――、教育の営みは教師の主体を通してのみ実現する、という、やはり自明の事実がそこにあるからです。ですから、教育の実際の作業場面にあっては、教師の主体がそこに、つねに、問い続けられなければなりません。とりわけ、自己の習慣化した発想・発想法を自覚にもたらして、それに検討を加える必要があるだろう、ということなのです。
 そのことを今、国語教育の主体に関してという限定において言えば、自分という国語教師の母国語意識のありかたが自己のどのような発想によってつかまれたそれであるのか、という点が自覚にみちびかれ検討されねばなるまい、ということなのですが。
 とり立てて母国語意識のありかたが、国語教師の主体の問題として追求されねばならないというのは、たとえば現実の事実として次のようなことがあるからです。古いことを持ち出して何ですが、十五年戦争下の一時期、教師の持国語意識が偏狭な、国粋主義的な愛国心と直結したコトダマ的な発想によるものであったことから、教師たちがそこで行った国語教育の作業が、<国防教育としての国語教育>へと突っ走ってしまったという汚辱の一ページを、私たちの国語教育史はハッキリと記録しているわけです。
 コトダマ主義――それは、汎言語主義の言語観の最もプリミティヴな形のものです。
 また、その次のページに記録されるものは、最低のプラグマティズムの想念にほかならない言語技術主義につかまれた国語教師たちの姿だ、ということになりそうです。それは、教師自身の自意識においては、コトダマ的な母国語意識の否定に立つ、国際感覚豊かな言語観によるものだという自負だったのでしょう。が、現実の事実としてはその言語観は、すでに批判ずみの言語道具説のヴァリエーションにすぎなかったわけです。
 そこでは母国語は、その国民相互の通信上のただの取り決めか約束ごと、それのただ習慣化されたものにすぎない、というに近い想念が支配的でした。母国語・民族語が、民族の主体性においてその民族の成員が長い生活と歴史の闘いの中でつかみ取った、外界の法則の第二信号系への反映である、という点がそこでは見落とされていました。
 したがって、またそこでは、私たち日本人にとっては自他の体験交流による外界認知(そして変革)の最も基礎的で有効な手段の体系である日本語が、しかしそのような体系的機能をもつ母国語としてではなくて、いわば地球上の一小地域にだけ通用するところの、ミニ・エスペラント的な一方言としてしか扱われませんでした。
 ですから、(戦後一時期のあのハウ・ツウ物の国語教科書のことを想ってみてください)ハロウ何々とやる代わりに、日本語というこの方言を使って電話する時には、どういう言葉をどう並べたらいいのかとか、手紙文はこういう語順で書いたらいいというような、発想の平均的画一化による無文体なニッポン・コトバの言語技術の指導がこの時期にあっての国語教育ということだったわけです。(ドメニコ・ラガナ氏によると、こういう日本語ならぬ日本語のことをニッポングリッシュというのだそうです)。
 例外はむろんあったし、またその例外だけが救いだったという、なさけない状況でしたが、全体的には一事が万事と言っていいでしょう。この調子の、話し言葉、読解、作文、文法などの指導が、母国語の文法構造や文体の特性を無視・疎外して強行されました。
 思えば、学校で教授される国文法とか日本語文法といわれるものは、明治・大正このかた、英文法の初歩が分かればそれの類推で期末テストには十分いい点が取れるような、ヨーロッパ語文法を焼き直したみたいな文法でした。陳述中心の私たちの母国語の文法構造や、当然その文法構造と見合うところの母国語の文体(したがって日本人の思考様式・発想法)の特性を、平均的教師による平均的な国語の授業からは私たち学習者は、ついに学び取る機会に恵まれませんでした。まことに不可解な国語教育だった、というほかありません。

    三 文体づくりの国語教育へ

 一応過去形で申しましたが、この過去が過去になりきっているのかどうか、その辺のところに今日の国語科の問題点がありそうな気がします。たとえば、「国語教育における読解は、ごく普通の日本語の文章を普通に読めるようにすることが目的なのだから、教材は日本語で書かれた文章でありさえすればいいわけで、特に文学作品や評論の文章に教材を求める必要はない」というような意見がまかり通っている現状は、やはり、国語教育史におけるニッポングリッシュ時代というほかないのではありますまいか。
 (文章は二の次、素材が反体制的なものであれば、というイデオロギー優先の素材主義の教材論などもまた、このニッポングリッシュ方式の国語教育論の一変種だというほかないでしょう)。
 初等・中等教育における国語科の直接の目的が、日常的な母国語操作を自由なものにすることにある、という考えかたは決して間違ってはいません。ただ、そういう目的をちゃんと達成するためにも、そこに確かな発想による、みずみずしく確かな文体の文章が与えられなければなるまい、ということなのです。それ自体、母国語文化であると言いうるような、すぐれた文学作品、すぐれた評論の洗練された文体の文章をくぐってこそ、学習者の日常語操作も、いきいきとみずみずしく、正確で自由なものになりうるのです。違うでしょうか。
 言葉は、言葉だけでひとり歩きすることはできません。言葉は、その言葉を使う主体の発想(送り手の発想・受け手の発想)との一定の行動場面における二人三脚の関係にあるからです。ところで、発想とのそうした二人三脚の関係においてつかまれた、生きた実際の文章のありかたのことを私たちは、文体――と、そう呼びならわして来ているわけです。
 そこで、この文体という概念を使って言えば、国語教師は、ゆがみなく自分の作業の効率をあげるために、、(しかつめらしく言えば認識過程と言語過程との統一的把握ということになりますが)こうした発想と言葉との二人三脚の関係における文体概念と見合う形の言語観と母国語意識を自分自身のものにしつつ、国語教育の全体像と部分領域との相互関係についてまず思いを潜めるべきだ、と思うのです。
 <国立音楽大学教授>
熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より1975(昭和50年代)以降著作より