大阪児言研講演(8.3)レジュメ補遺/文教研月例研究会資料 1973年10月7日

  説明文体と描写文体
 <はじめに> 話半分に終わった八月三日の私の談話を、たとえその一部分だけでも穴埋めしておこう、というのがこの稿です。もう少し全体を見通すことのできるようなものを書くつもりでいたのでしたが、山積している仕事と夏バテでダウンしてしまって、「気は心」みたいなものに終わりました。ご寛恕を…。

  言葉は人間と二人三脚である

 文章というものはどう書いたらいいのか、という問いに答えて椎名麟三は言っている。
 「<文章のつくりかた>という一般論は成立しない。名人の主体が違うからである」云々。
 また、こうも言っている。
 「二二ガl四ということを話すためには、金がほしいといった主体的なものは必要がないのである。しかしその論文を書いているのは機械ではなく、人間であるということを忘れないでもらいたい。客観的事実を話しているにすぎないのに、どうしたってその人の<人間>が出てくるのである。それはその人の話し方の中にあらわれてくる。(中略)科学的論文の叙述においても、このような事情が働いている。その事実に命をかけているような熱っぽい文章もあれば、仕方なしに筆をすすめているような素っ気ない文章もある」云々。
 論文の叙述では、それがどういう文章かということより、「そこに述べられている事柄が真実であるかどうかが問題になる」ということを認めたうえでの、上記のような椎名の立場なのである。私は、この、椎名の問題のつかみかたに賛成である。
 もっとも、「そこに述べられている事柄」の真偽ということが、実はやはり、それがどういう言葉でどう叙述された事柄なのか、という、<文章のありかた>にかかわる問題であるということを前提としたうえで、その意見に賛成だという意味である。それがどういう文章かということは二の次だと椎名が言うのも、いわゆる意味の文章のじょうず、へたはここでは副次的な問題である、というほどの意味だろう。
 私が椎名の意見に賛成だというのは、文章のありかた――その語り口には、おのずと書き手の<人間>がにじみ出てくるものだ、ということを理屈なしに実感するからである。しいて理屈がった言いかたをすれば、言葉(=言表)は人間と二人三脚の間柄にあるわけなので、それを操作する人間を離れて言葉(=文章)だけが独り歩きする、というようなことはあり得ないことだからである。
 誰しも自分が切実に訴えたいと思っているようなことを話すときには、自然、熱がはいってくるものだ。その反対に、心にもないことを口にしなければならないようなときには語調はみだれ、言葉はとぎれがきになる。あるいは、そういう雨だれ調にならないように、いっそ開き直って紋切り型のきまり文句でいくかだ。
 文章の<語り口>の中にあらわれる<人間>というのは、そこで、そのそれぞれの行動場面における人間の<発想>ということである。発想の基本的な点は各人にとってほぼ一定しているとしても(もっとも、それも多分に可変的なものだが)、それの具体的なありようは場面によって制約される、という意味である。
 書くという行為――たとえば手紙を書くという行為は、それを書き送る相手があっての<手紙を書く>ということである。知人のたれかれに近況を知らせるという、その限り同じ目的の手紙であっても、それを書き送る相手によって、書く事柄も書きようも違ってくるだろう。実を言えば、書く事柄――事柄の選択と書きようというものは書き手の側から言うと、分離して考えることのできない一対のセットの関係にあるものなのだ。
 だって、そうだろう。何をいかに、という事柄と叙述の関係は、それがいかに叙述されるかによってその事柄のありかたが、性質が、意味が、いろいろさまざまに変わってくるだろう。たとえば、人形の家を出るノラの行為的な意味と性質、その事柄のありかたは、イプセンの場合とストリンドベリーの場合、そしての場合、そして太宰治の場合とではまるで違っている。 
――ノラもまた考えた。帰ろうかしら。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。
私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。
 (太宰治『葉』)
 こうした書きようの違いによる書く事柄の違いは、この場合、そのそれぞれの作家と、それぞれのその読者――読者層との対応関係によって規定されている。それぞれに行動場面が違い、その(・・)事柄に対する関心の持ちかたがまるで違っているのである。であるからして、先刻、<言葉と人間は二人三脚>だというようなことを言ったが、その<人間>というのは話し手と聞き手、書き手と読み手、おしなべて送り手と受け手との双方をさしているわけなのである。
 いや、それは、送り手――書き手のことをさしている、と言って一向にさしつかえないのである。ただ、相手(読み手)があっての、その場面場面における書き手の<発想>なんだ、という点を見落してほしくないのである。

 語り口と発想

 <発想>という言葉を繰り返し口にしてきたが、発想というのは、くどく言えば<現実把握の発想>ということ、<各人の認識過程における各人各様の現実把握の発想>ということである。したがって、また、その当人の<問題の解き口><現実へのアプローチのしかた>を制約する発想ということでもある。(発想ということ自体について注記すれば、それは、その限り鮮明なイメージに裏打ちされたところの、行動の系に直結する観念のことだと、そう言っていいだろう。)
 そこで三段論法じゃないけれども、文章のありかたやその<語り口>というのは、その意味では<問題の解き口>に直接的にか間接的にか(おそらくは間接的にであろうが)つながるものなわけである。(間接的、云々――間接的に、それだけに確実に、という意味である。)このようにして、文章の語り口の中に書き手の発想が示され、書き手その人の問題の解き口が示されているとすれば、学術論文の叙述にしてからが、その語り口には書き手である研究者の視点・視座――究極において<立場>そのものが反映されてくるはずなのである。
 論文(論説文)なり説明文の場合、「客観的事実を話しているにすぎないのに、どうしたってその人の<人間>が出てくる」というのは、だから当然のことである。その人の<立場><その立場の発想>が、その人の人柄――パースナリティーやセンシビリティーをくぐって顔をのぞかせる、ということにほかならない。
 二二ガ四という事実(椎名流に言えば客観的事実)は、これは立場いかんを問わず認めざるを得ない事柄だろう。が、問題はその認めかたである。二二ガ四であっては困る立場と、二二ガ四はあくまで二二ガ四でなくてはいけないとする立場とが人間にはあるわけだ。そこで、「二二ガ四は、やはり二二ガ四以外ではなかった」という嘆きを伴なったその事実の認定と、二二ガ四という<真実>を明らかにするためのその事実の主張とでは、同じ「二二ガ四」という言葉を口にする場合でも、やはり語調や何や――究極において<語り口>が違ってくるだろう。それは、立場と発想が違うからだ。問題の解き口が違うからである。
 どうもイタイ・イタイ病訴訟判決の際の原告側の表情や、被告側の渋い表情などを思い浮かべながら書いているみたいな印象を与えてしまったかもしれないが……いや、それならそれでもいい、問題の限り一事が万事なのだ。

 文種と文体

 いわゆる論説文や説明文などの叙述のことをむしろ念頭に置きながら、話を進めてきた。そういう<文種>の文章の叙述における語り口と解き口との関係、発想のありようと言表のありようとの関係、そして立場の問題などにふれてきた。論説文や説明文にあっても大事なのは<発想>であり<語り口>である、ということを、そこのところで指摘しておいたつもりである。
 説明文などにあってもそれが重要だということは、描写文においては<語り口>や<発想>の示す重要さは決定的である、ということである。描写文(実は描写文体の文章)――とりわけ詩や小説の文章に接する楽しさや面白さは、ユニックで個性的なその語り口、精神でショッキングなその発想に接する楽しさ、面白さである。そういう面白さというか感動を抜きにして、「この作品の内容は……」なんて言ってみたって、はじまらない。そういう狂った発想でつかまれている内容というのは、ただの筋書きか、語り口や解き口とは無関係にとらえられた道徳的観念のことでしかないだろう。それは断じて、その文学作品の<内容>などではない。
 むろん、ここでは、どういう意味にもしろ文学作品の名にあたいするような作品の文章のことを考えて言っているのだが、まさにそういう語り口でなくてはつかめない(話せない)ような発想がその文章に息づいている、ということなのである。そうした個性的な発想と語り口によってつかみ直された事物=事柄=現実が、常識に向かってペッとツバを吐きかけるような格好で自己主張している。
 それが文学の文章なのである。

 で、およそ言表理解に際して私たちに要求される構えは、その文章の語り口、ありかたに即してその発想をつかもうとする態度、いわば発想ぐるみの形で「そこにのべられている事柄」をつかみ取ろうとする姿勢によって前提されたものであろうということだ。それは、論説文だとか説明文だとか描写文だといった<文種>の違いによって左右される事柄ではない。おしなべて、その<語り口>が示す<文章のありかた>に関して、その<立場>と<解き口>、その<発想>と<発想法>をつかみ取ろうとする姿勢である。言い換えれば、文章の文体的把握ということこそが、読み手に対して求められる姿勢である。
 ちなみに、<文体>とは何かと言えば、少なくともそれの基本的な契機は、<発想という切り口でつかまれた文章のありかた>ということだろう。したがって、その文章のありかた――語り口の中に発想を探るという営みが、言表理解において要求される<文体的把握>への唯一の道だ、ということになるのである。
 そこで、言表理解(文章の読み)にとって問題は、<文種>に関してであるよりは<文体>にかかわっている。実は私は、文体に関して<描写文体>と<説明文体>という二つの概念を用意している。言葉の形象的操作による描写文体と、概念的操作による説明文体という二つの概念である。
 この文体概念を文種概念にぶっつけて言うと、説明文なり論説文の叙述にあっても、多分に描写文体による形象的表現部分を含むのが普通だ、ということになる。また、いわゆる描写文の中にも、説明的な記述部分を含むのが普通だ、ということになるのである。然り而して、ひとまとまりの文章全体としてその言表が現実の形象的把握を実現する描写文体を形づくり、あるいは事物の抽象的一般化という方向の説明文体をそこにみちびいている、ということにほかならない。
 だから、そういう言語的(=言表的)事実を無視して、これは説明文だからかくかくの読みかたで読み、またこれは描写文だから、かくかくしかじかの仕方で読む、読ませるという方式の、文種中心の<読解指導方法論>に対して私は全然好意的でない。たとえば、次のような論文=論説文の文章は、描写文体の発想と語り口が解らなくてはつかめない言表のしかただろう。
――文献学を最も模範的に人間学に適用したものは和辻(哲郎)氏の『人間の学としての倫理学』である。いや、ただの適用でなく、いわば文献学からの人間学の演繹(えんえき)だとさえ言っていいだろう。文献学の溶液に存在という微粒子を落すと、たちまちにして人間学=倫理学の結晶がみるみる発達する。それほど文献学の適用がここでは完全なのだ。(戸坂潤「文献学的哲学の批判」)
 この戸坂論文では一体、和辻の著書がどう評価されているのか? 文種一辺倒のイシアタマな読解では、それはつかめないのである。文章全体を流れる皮肉っぽい調子、とりわけ「文献学の溶液に」云々という第三文の語り口と叙述に皮肉とやゆ(・・)(からかい)を感じ取ることのできない限り、いっさい不明というほかなくなるのである。むろん、第一文から第二文へ、第二文から第三文へと断時的に言表(叙述)をたどって行っての話である。そういうふうにたどって行って、なおかつ第三文の――むしろ第三文の語り口を媒介として、このひとまとまりの文章全体の語り口=問題の解き口=発想がつかめないようではアウトだ、ということなのである。
 ――文献学の溶液に存在という微粒子を落すと、たちまちにして人間学=倫理学の結晶がみるみる発達する。
 この叙述の目的は、和辻倫理学の構成と構造(=過程的構造)のエセンスを、否定的評価において語ることである。その言表のしかた自体は、厳密な意味では説明とは言えないかもしれない。「溶液」であるとか「微粒子」であるとか、あるいは「たちまちにして」とか「みるみる」といった比喩的・感覚的な言表に終始している。こうしたものを普通に感覚的なものと言っている。で、一体これは説明文体による言表なのか、それとも描写文体によるそれなのか?
 答は、ついさっき言った通りのことなのである。この一文だけを取り出してどうこう言うことは、あまり意味のあることではない。この戸坂論文は、ヨーロッパと日本における文献学主義の哲学=解釈哲学への総括的な批判を、数十枚の紙幅を用いて展開した論文なのである。右の引用のブロックは、それのほんの一くだりにすぎないし、この第三文はまたそれの一部分にすぎない。
 つまり、引用の部分は、そういう全体の論述・説明の中に含まれる<部分>であり、またそういう<説明>に奉仕する<部分>以外ではない。全体という視点からは、だからそれは説明文体の文章だと言っていいのである。が、しかし、それにもかかわらず、この部分の発想と語り口それ自体は描写文体のそれ以外ではない、ということが先刻からの話題の焦点だったわけである。その点がつかめてこそ、第一文の「模範的」だとか、第四文の「完全」だとかいうのが、ただのホメ言葉でないこともハッキリしてくるわけなのである。
 ここで見落としてほしくないことは、引用のブロックの叙述、とりわけその第三文の叙述が実に精緻な<説明>であると実感できる人というのは、実は文献学主義の果たした(また果たしつつある)役割について実証的な論証を自分自身に用意し得ている人に限られる、という点である。そういう用意を欠いている場合、「溶液」だ、「微粒子」だという比喩による論理からの韜晦(とうかい)・逸脱だという、誤った形式論理的理解を自己にみちびきかねないのである。(未完)

 事務局から
 この論文は、八月三日の講演で話される予定で用意されながら、時間の都合で話せなかった内容の一部です。熊谷先生も心残りだとおっしゃり、事務局も皆さん方が聞けないのは残念だろうと思い(私たちも残念ですので)、無理を承知でお願いしたところ、心よく引きうけてくださいました。
 休み中とておいそがしいなか、押して書いていただいたのが、この論文です。充分活用してください。
 今後とも、ともに研究を進めていかれることを期待しています。
熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より