三省堂刊「国語教育」13-4 1971年5月号掲載 |
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〈座談会〉人間として生きる自覚をつちかう文学教材
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==主題を軸とした三系列== 四橋 国語の教科書で、文学教材の占める位置は大きいものがあります。教科書を御覧になる場合も、文学教材に関心がおありの先生がたが多いようです。きょうは、文学単元・文学教材について語り合っていただきます。 最初に中西先生、この文学単元をまとめられたおひとりとしてひとことおっしゃってください。 中西 文学単元をどのようにまとめるかということについての考え方にもいろいろあると思います。なんのかかわりもない二つの教材を並べ、それをただくくることによって文学単元であるという考え方も可能かと思いますが、さらにその組み合わせによって新たに生ずる力強い意味の重なりというものがあれば、より学習としては効果的じゃないか、そういう意図が文学単元にはあると思います。ここで、ある大きな意味の上で共通するというか、その大きな意味を達成するために有効なものが並べられているというのが、この教科書の文学単元の考え方だと思います。 今回は、従来の人間とか社会状況の認識、感情の浄化の系列の文学単元に、創造といいますか、フィクションの世界を追求していく文学単元を新たに加えて、これまで二本立てだったのを三本立てにいたしました。感情の浄化、あるいは人間・社会状況の認識といっても、文学というもののもっている大きな意味合いはそう割り切れるものはございませんで、あるいは教材の上から見てどちらの単元に入れるか、それは考え方の相違というものもあるかもしれませんけれども、どちらに重みを置いて扱ってほしいか、そういう点から、感情の浄化と人間認識のほうの単元とは区別をして組み立てました。 ここまでは従来と同じですけれども、それにもう少しより芸術としての文学と申しますか、それに近づけた文学単元をつくってみたい、そしてこの単元においては、割合に作品をまるごと与えて、読書指導に近づけたものとしても扱っていきたい、そういう意図のもとに創造性を主体とした、あるいはフィクションの世界を純粋に追求していくという意味での、もう一系列を加えました。今まで割合に見落とされてきた文体論であるとか、表現様式の面であるとかいったものを第三系列目の創造性を主体とした単元によって補いたいという意図は十分ございます。それから私どもが現場で文学作品を扱ってみて、どうしてもこれは現実社会の広がりと深さからくるものだと思いますけれども、教材の文章だけではどうしても教えきれない、より背後に深く作品論であるとか作者論であるとか、そういうものを導入していかないと、どうしても指導し切れない面があります。そういう指導をフィクションを追求する単元で生かしていくことができたら、より効果的な文学の指導ができるんではないでしょうか。 熊谷 従来の三省堂の教科書に欠けていたものが、第三系列というんですか、これでカバーできたという感じです。今のお話のように、どこにアクセントを置き、どこにウェイトをかけるかという問題だと思うのですけれども、やはり文学の取り立て指導の面が従来欠けていたように思います。こんどの単元構成には賛成です。 (…) ==文学教材の条件とは== 熊谷 誤解をおそれずに言えば、結論的には、ぼくは文学というのは人生に奉仕すべきものだし、だからこそ意味があるんだと考えているわけです。ただし、文学を奉仕させるという場合に、文学として文学を奉仕させるという視点をとらないとナンセンスなことになると思うのです。 話が横へそれますが、ぼくは歴史学者のある種のかたがたにある不満をもっております。たとえば近世の新興町人社会のあり方とか、当時の民衆の意識とかを説明する手だてに西鶴や近松を取り上げますね。そのこと自体は間違いではなく、そうすべきだと思いますが、問題は、文学として近松や西鶴を見るということをしていない点です。西鶴の場合に関していえば、おそらくは彼と真反対の見解をもつであろう人物、たとえばがめつい男がそこに登場して一にも金、二にも金というような行動をしますと、それは作者がその行動を肯定して書いたんだという、非常に飛躍した理解に立って、西鶴にしてそうであるようにしかじか、というふうな理解のしかたを示すことになるのですね。こういうふうに文学のいろはも解しない誤った理解に立って文学を奉仕させようとすると、奉仕は奉仕でも、誤解に奉仕することになっちゃうのですね。それと同じようなことが、三省堂の教科書の単元発想の場合に、間違ってそういうふうな使い方がなされた場合、こわいという感じがいたします。 それでぼくは、こんどの第三系列は評価するわけで、第三系列を実現するためには、取り立て単元以外の他の単元においても文学の表現機能を重視する視点を一貫させる必要があろうと思いますけれども、その意識――文学を文学として見て、それで奉仕させるという太い線が今度の教科書には貫かれているという感じで、敬意を感じているわけです。 中西 今熊谷先生がおっしゃいましたことは、今回苦心した点の一つでございます。詩に関して申しますと、文学単元以外のところに出るのは、一年生の最初の「遠景」という、なにか茫洋とした詩ですが、それは学習の導入として、それを手がかりに生徒にそこから感じたものを伸び伸びと話し合いさせる素材として提出はしておりますけれども、この詩が包容力をもっておりますので、詩の文学性が行かされた話し合いが可能なのではないかと思われます。 もう一つは一年生の5単元、労働に関するところに「虫けら」という詩が載っておりますが、この詩もやはり文学として扱うよりも労働の単元の中で扱われるほうが有効に生きてきそうな感じがいたします。 漆原 熊谷先生が先ほど歴史学者の文学教材の利用に関して発言されましたが、ぼくはやはり先生に同感なんです。といいますのは、文学の中から時代を対比させて今日と結びつけていくような古典指導がなされなければいけないのではなかろうか。たとえば「平家物語」を読ませるときでも、那須与一が扇の的を射落した程度だけじゃなくて、貴族が倒れて武士が出てくるあのエネルギー。それから近松門左衛門でも、まだこれは中学生には早いかもしれませんけれども、近松が作品を通して精いっぱい時代に抵抗した、そういうものを生活の中で中学生に認識させるような方向にもっていったとき、三省堂の教科書はさらによくなるんではないだろうかと考えています。 熊谷 「虫けら」という詩についてなんですが、むしろ文学プロパーの単元よりは「働く人々」といったところで扱うにふさわしいという中西さんのお話だったんですけれども、この作品を文学として私自身は高く評価しております。そこで、こういう「働く人々」といった単元を、一人前の文学というか、水準の作品で充当していかれたという点に私は敬意を表しているわけなんです。ですから「働く人々」という単元ではたいへん有効な作品教材ではあるけれども、文学プロパーの単元ではあえて取り上げなくてもいい作品だというのではなくて、文学プロパーの単元でもぜひほしい作品が、こうした単元の中で位置づけられているということがぼくの評価なんです。 中西 決してこれが文学作品として二流だとか三流だと意味ではなくて、もっている詩の内実といいますか、作者の意図するものがより生きてくるであろうということでございます。 熊谷 一年の55が「働く人々」という単元で、6が「想像を豊かに」という単元……それで一方は「感動を書く」、一方が「文学を読む」となっております。そして6のほうでは「よだかの星」が出ております。ぼくはこの二つ、「虫けら」と「よだかの星」をある関連をもって取材されたのかということをお尋ねしたいし、たぶんそうだろうと思って賛意を表しているわけです。たとえば、よだかが虫を食わずには生きられないことに関して、悪い意味ではなくてセンチメントを発揮しておりますが、「虫けら」ではそのセンチメントを切っておりますね。こうした点が生徒諸君によって統一的にとらえられていき、また先生がたによって豊かに指導されることで、文学というものがふくよかに生きていくんだなということを感じたわけです。こんな配列を見て、たぶんご意図の中にあったことだろうと思い、すてきだなと思ったんです。 中西 いえ、そこまでは私どもはは意図しきれませんで、それは先生が敏感にお読み取りくださって、より高次の意味づけをしてくださったわけでございます。「よだかの星」についきましては、ネガティブな形の文学で、こういうものを入れることについてさまざまの議論がなされましたけれども…… 熊谷 ぼくも、これ一つポツンと出るんだとあまり賛成じゃないんですが、こういう対比の中で出るということに、自己主張型と自己否定型、そこのよき統一みたいなものが実現している、そんな喜びを感じましたけれども。 中西 そういう自己以外の他の者の命を犠牲にしても生きていかなければならないその自分が、やっぱり自分より強い者にやられなければならない。そういう不条理なものに対して目を開かせるということを意図して居りまして、そこまでの繊細な目はとどきませんでしたけれども、新しい意味を見つけていただきありがとうございました。 ==小説・物語の巧みな教材化== 熊谷 全般的に言って、今度の新教科書を見まして、ぼくなんかが長年主張し続けてきた作品が教材化されている面が多いということに感動しました。たとえば[トロッコ」、これなんか画期的な教材のしかただと思います。末尾の部分、塵労につかれた良平が出版社の二階で朱筆を握りながら少年時を回想する場面を採られたのは教科書の歴史で初めてなんじゃないですか。 中西 初めてでございます。 熊谷 これはぼくも長年主張し続けてきたことで、ほんとうに感動しました。感動を口にした後ですぐ悪口を言うんですけれども、[トロッコ]が一年生に採られていますが、どうしたって三年でなければ無茶だという感じ。発達を無視しているというか、あれはおとなの心境だもんだから、従来の教科書では、中一向けに子どもっぽくするために削るという芸当をやったわけなんですが、国語教科書の編修の上にいわば新しい歴史をつくった教材化のしかたなだけに一年に置かれたということが残念です。 また今度、「最後の一句」を採り上げられたことに敬意をを表します。しかし、中に向けとして充当されたのは、どういうことなんでしょうか。この作品を教材化する意味というのを、編修委員の先生がたはどのようにお考えになられたのか、それは、文字づらの上に内容があるんではなくて、いうなれば行間に内容があるという文章表現、この点を理解させることが指導の一つのヤマなんだと思うのです。?外の作品をずっとたどってまいりまして「青年」あたりではまだきわめて説明的な要素が強いんですが、そういう要素を切って捨て、切って捨てして実現したのが「最後の一句」の文体だろうと思います、「阿部一族」あたりから始まっての。そんな意味で、こういう文体の文学作品をわれわれの近き祖先が実現させたということをぜひわからせたいし、戦後、現在の文学の理解のためにも必要なことだと思うのです。それだけにこの作品を、その点でわからせなかったら、教材化した意味が半分失われると考えます。このへんは三年というのが妥当じゃなかったのかなどとぼくは思っております。 それから「夜明け前」、これは三省堂から出した拙著『文体づくりの国語教育』の中でるる述べているので繰り返しませんが、すてきな教材化のしかただと思います。スペースの関係でしょうが、惜しまれるのは二つの場面が採られておりまして「暗転」ということばでサッと読めちゃうわけなんですが、暗転にはいる前の、この山の中で一揆が起こっている話あたりをなんとか織り込めなかったものか、そしたらより生きたなという感じがしております。 その次に、「『ごんぎつね』と新美南吉先生」、「ごんぎつね」が適当かどうかは横に置いておくとして、ともかく小学生のころ読んだような作品を中学で見直させていく、高校でまた見直させていくという指導がぜひ必要なのにこういう扱いがなさすぎる。アンデルセン、あれは一度少なくとも中学・高校で読み直させたい、たとえばそんなふうに思いますので、こうした着想に深い共感を覚えます。 二年生の三一八ページの〔学習の手引き〕に、「魯迅の次にあげる作品の中から一点を選び、『故郷』と比べながら感想をまとめてみましょう」として「藤の先生」など三つの作品が出されております。こういう学習の手引きがほしいなと思っていたんです。文学のおもしろさは語り口のおもしろさだと思うし、その語り口が特定のユニークな発想と結びついていて生まれている語り口だというとらえ方ができたときに、その文章表現が文体としてとらえられていくわけですけれども、その発想と語り口の統一的把握、言い換えれば文体的把握、それにどうしても必要なことは、まあ文体というもののごく表面的なところでは、その人の語りくせ、書きくせというものがありますね、それになじませる、それから何かを得るということがないと成り立ちませんが、そのためには、ひとりの作家の一つの作品のこま切れを与えたんじゃどうにもならない、やはり同一作家の他の作品を提示するということがだいじなのですね。それから第二には、今の学校の文学教育の姿、授業をときどく見せていただいたりしていて首をひねりますのは、生徒たちの単なる意固地な自己主張みたいなものが主体的な姿勢だと勘違いされて「ぼくはこう思う」「わたしはこう思う」という議論が盛んに始まりますが、その根拠が明らかでなく、「わたしはこう思うんだから、思う」みたいになる。これじゃまずいんで、そこの表現をどう判断すべきかについて――作者の意図が決してすべてじゃないことを断わったうえなんですが――少なくとも作者の意図における表現はどうなのか、意図した表現はどのようなものなのかということを、一つの理解のモメントとしてつかませる必要があると思います。 そういう面からいって「故郷」の表現――何を魯迅は意図しているか、その理解には、やはりここに並べたような諸作品に目が届いてこそ、帰納的に客観的な判断もできてくるんですね。そういう点に目を向けていく作業が全部教室で実現できるとは考えませんが、こういう態度を、この教科書の学習の手引き辺りで一貫させていただけたら、よりよかったなと思います。 もう一つ、三年生用の三一八ページは、虚構について語られていますね、確か見開きで、やはりこの時期は積極的に正しい概念を与えていくことが必要じゃないか、そういう点からいって中三のこの時期の文学の取り立て単元にこうした配意を示されたことに敬意を表します。 中西 「トロッコ」につきましては、確かに一年生にはむずかしいと私も思います。生徒が一年の段階でそれを読みましたときに、中心になってまいりますのは、自分たちと同じような年齢の少年の心境でして、そこから最後のおとなの感懐というものがどれぐらいつかめるか、それはまだ指導していませんのでまことに未知数でございますし、指導するまでもなく結果がわかることかもしれませんが、とにかく一度全部載せてみようではないか。それでいくらかでもいい結果が出るなり、あるいは「トロッコ」というのはあそこで作品が終わるものではなくて、もう少しあったんだということを、それから先の成長した段階において思い起こして、もう一度読んでくれたときに初めてその意図がつかめてもらえる、そういう未来に託してもいいんじゃないかということで踏み切ったわけでございます。 ==生徒の内面を広げる詩教材== 高橋 「トロッコ」の話が出ましたが、いちばん末尾のところが出てきたというのは大賛成です。前から私もそう感じてたんです。最後のところがつきますと、その前に書かれている出来事そのものの意味が、最後にグンと二倍にも三倍にも変わってくるし、深くなってきますよね。その境目のところに空白がありまして、そこの飛躍というか落差というか、そういうところで意味が出てくる。そこに実は文学の味わいのポイントみたいなものがあるんじゃないか。詩の表現も、それが大きなねらいの一つというよりも、大半はそこにあるような気がするんですよ。そういうものを短い作品の中に、ある一つのものの意味を重層的に深めていくというもっていき方をするときには、どうしても最近の新しい詩の書き方は、あまりたくさんことばを使わないで、ダラダラ説よね。明しないで、情緒で流さないで、非常にカチッとしたイメージに形象化したものを、途中をポツリポツリとあかしておいた形で並べてみせるんです。形象化されたイメージの落差みたいな中で、意味が一つだと思っていたものが、実は別の意味をもっているということを発見させていくという落し込み方が詩のねらいですね。そおういうもっていき方をするのが、まあ今の新しい詩の方向だとすると、叙情的な詩をほかの教科書では多く使っているというのは、古いわけですよね、正直に言うと。やはりもう少し鮮明な、鋭いイメージを打ち出すような詩のほうを、まあ全部が全部そうだと子どものほうもなかなか理解できないだろうけれども、少しずつでもまぜてやって、そういう目を開かせていくということが必要なんじゃないか。 (…) もう一つは、詩の場合、人生あるいはモラルみたいなものが比較的すぐににじみ出してくるようなタイプのものはそれを強く出しすぎると、詩が非常に枯れてきてしまいますね。高村光太郎の詩も、半数以上の詩はしぼんじゃった詩じゃないか、非常にわずかな詩だけが結晶として、その形で立派にできている。ただ、ややもすると、一般的にはそういうものに引かれがちだし、教科書にもその形を入れすぎる傾向がありますね、詩ばかりじゃなくて小説なども含めて広い形で考えたときに、文学の大きなねらいみたいなもの、はじめに熊谷さんが人生に奉仕するということばで表わされたけれども、確かにそのとおりだとは思うのです。でも人間の生き方というのは何か、モラルならモラルというのは何かというのを狭く考えないことだろうと思う。モラルというのを考えた場合でも、モラルをささえているもとになる生きる生命感とか、あるいは感覚そのものが新しく生き返っていかなければ、モラルそのものがしぼんじゃう。だから詩の場合の感動は、モラルのほうにすぐいかないで、モラルのもとになる生命感覚の新鮮さで、それが強靭に力強く意味が深まっていくという、そのへんのどっちかというとあまり遠くのものをねらわずにというあたりのところが強く新鮮に強烈に出てくる、そういうねらいの詩のほうに重きを置いていったほうが、子供の内面的なものを広げていくのにもいいんじゃないかという気がするわけです。 四橋 ではこのへんで。どうもありがとうございました。 |
‖熊谷孝 人と学問‖昭和10年代(1935-1944)著作より‖昭和20年代(1945-1954)著作より‖1955〜1964(昭和30年代)著作より‖1965〜1974(昭和40年代)著作より‖ |