明治図書出版刊「教育科学・国語教育」143 1970年9月号 掲載
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■理論講座/文体づくりの国語教育・第3回 印象の追跡としての総合読み “印象の追跡”ということ 読み の指導面に関しての“文体づくりの国語教育”の方法は、“印象の追跡としての総合読み”である。ところで、“印象の追跡”という概念――思考の形式――を、私は、戸坂潤(1900〜45)に学んだ。 戸坂潤は、次のように語っている。(「所謂批評の“科学性”について」――雑誌『文芸』一九三八年一月号所掲/勁草書房版『戸坂潤全集』第四巻に再録) ――単に文芸批評だけではない。すべての評論ふうの批評は、直接感受した印象の追跡をたてまえとする。ただその印象が芸術的な印象ではなくて、理論的印象や科学的印象であるとき、普通これを印象とは呼ばないまでで、この場合、印象の持っている印象らしい特色には別に変わりがない。印象はそれを感受する人間の感覚的性能いかんによってたいへん違ってくる。印象とは刺激に対する人格的反作用のことであろうが、そうした特色には、科学的労作を批評する場合にもきわめて大きな役割を演じている。“印象”ということ、“印象の追跡”ということについて大方のご了承を得られただろうか。「印象自身と印象の追跡ということとは、ハッキリ別のことではない」という点を含めて、である。 また、「印象はそれを感受する人間の感覚的性能いかんによってたいへん違ってくる。」という点に関しても――である。 この二番目の点について注記すれば、印象がその人その人の感受性によってありようを異にするということは、これまた「決していっぺんコッキリの現象」ではないということだ。問題は、「それを感受する人間の感覚的性能いかん」にあるわけなので、当人自身の感覚的性能のありようそのものに何らか変化が生じるような形になってこないと、その当人の印象は揺らぎはしても崩れはしない、ということなのである。一度定着した印象は、それがすでに何らか追跡された印象として、いわば「永遠の」印象である。決していっぺんコッキリの印象ではない。感覚的性能を異にした者同士の異なる印象の対立は、多くの場合、このようにして半ば永久的と言っていいのである。 とりわけ、文学作品に対する成人――おとなの印象において、そういう現象が見受けられるのである。教師の場合も、むろん例外ではない。早い話が、前回――本誌前号――の稿に例示したような、『くもの糸』(芥川)のテーマは「利己心のいましめ」だといった教育の現場全般の印象は、たとえその印象がひどくズレた印象であるということが文学史的な場面規定において実証されたとしても、なかなか崩れない。揺らぎはしても崩れない、ということなのである。 いや、知性の人である教師は観念 においてその非を認めるのである。が、それが持続的な実感にはなかなかなりにくい、ということなのである。また、他の作品の鑑賞や鑑賞指導においても移調――応用――の利くような形にはその表現理解のしかたが変わらない(変わりにくい)ということなのである。 そこで結局、感受性ないし感覚的性能のほうをつくり変えるより手はない、ということになるわけだが、これは生れ変わって出直すほかはないという印象になるのが、この“感受性”という言葉の響き である。そこで、“感受性”とか“感覚的性能”といった、いわば仕上がりの結果 を言い表わすような印象の言葉はやめにして、行為の原因 を表わし過程 を表わすところの“発想”“発想法”という言葉を――つまり、そういう思考形式=概念を――使って考えてみたらどうだろう。たとえば、次のように、である。 ――その当人の知覚のしかたや思考方法、想像のありようといった、当人自身の認識過程*における現実把握の発想法**がある変わりかたで変わらない限りは、印象の変化(持続的な変化)は起こらない。したがって、ある印象の変化をそこにつくり出すためには、その発想(発想法)自体にある衝撃をもたらさなければならない。また、“印象の追跡”ということが効果的に行なわれるためには、その“印象”をもたらした“発想”“発想法”を追跡し反省する、という形にならなければならない、云々。必ずしも教育だけの問題ではないが、しかも読み の指導にとって根本的な問題である。 * 認識とは、構造的に言って実は“認識過程”のことにほかならない。それ自身運動する過程的構造としての“認識過程”のことである。外界を(また内界を)反映するその活動(運動)の、そのそれぞれのアスペクトが知覚と呼ばれ、想像(イマジネーション)と呼ばれ、また思考(思考作用・思考活動)と呼ばれている、ということだろう。 “総合読み”とは何か このような、自己の発想・発想法を点検し追跡する(させる)という目的意識に立った“印象の追跡”の読み ――読み の体系的な指導――が、“文体づくりの国語教育”における“総合読み”ということにほかならない。もっとも、“総合読み”一般に関して言えば、文章の読みはすべて印象の追跡による総合読み以外ではない。「印象自身と印象の追跡ということは、ハッキリ別のことではない。」という意味において、そういうことが言えるのである。 つまり、(1)(程度や質の問題は別として)“印象”はほとんど常に“追跡された印象”であるという点で、読み は常に“印象の追跡”としての読み である、ということ。だからして、また、(2)かなり自己の実感ベッタリの読み であっても、そこにはやはり、ある“わく 組みによる認知”によるところの分化 が行なわれている、ということ。すなわち、総合読みが実現している、というっことなのである。問題は、その総合読みの質である。 上記のことから、ある程度了解していただけたかと思うが、読み はすべて総合読みであるというのは、それが何らか印象の追跡によるところの、“わく 組みによる認知”の実現をそこに結果しているからである。重ねて言うが、問題はその質である。“文体づくりの国語教育”がめざす総合読みというのは、すぐれた意味における “わく 組みによる認知”を児童・生徒の主体に成り立たせるような、そのような文章の読みの指導のことである。 “わく 組みによる認知”――“相貌的認知”に対する“わく 組みによる認知”ということである。相貌的な認知というのは、抽象的思考に十分に媒介されていない未分化な認知のことだ。わく 組みによる認知というのは、これは概念のはたらきにささえられ、抽象的思考に媒介された認知である。然り而うして、分化が同時に統一であるような性質の認知が、このわく 組みによる認知ということなのである。 一般に読み というものが(それの構造的性質において)本来的に持つ、総合読みとしてのこうしたアクチュアルな実践性・生産性を、教師その人が、まず、自分自身に明確に意識化することである。それを意識化してつかむことで、より生産的な総合読みのしかた(方法)を、目の前の子どもや若者たちの生活の次元、ありように応じ、文章の文体的性質に応じて構造化してとらえるのである。いわば、構造論的構造化において可能にして必要な総合読みの方法を、そこにさぐり求めるのである。* このようにして、学習者の精神の発達に応じて――というのは、彼らの発達を促すかたちで――、それなりに、そのように、印象の追跡のしかたを徐々に意識化させていくことで、日常的な読みの次元とは次元を異にした、すぐれて生産的な総合読みをそこに実現することなのである。そのことで、実は、日常性――日常の生活――における読み のありようを、生産的な、という意味での総合読みのそれに充実していくのである。 * 構造的構造化、云々――現在行なわれているさまざまな読みの指導の方法を、それぞれに方法的構造の模型として押え、それらをスタンダードにして、そこにさらに可能な模型を構想しつつ、その可能なものの中に、まさに可能にして必要な、アクチュアルな方法をさぐるのである。方法主義のステレオタイプ化から読みの指導を自由なものにし、それを生産的なものにするために、である。九月刊行予定の文学教育研究者集団著『文学教育の構造化』(三省堂)は、私たちのこのような構想の具体化として書かれた。参照していただきたい。上記の諸点に関して、文学教育研究者集団のメンバーと意見の交換を行なったことがある。そのおりの私の発言を、記録にしたが、部分的に摘記しておこう。 (1)結論を先に言うと、総合読みというのは、“わく 組みによる認知”を成り立たせるような文章の読みのことである。また、そのような読みの指導のことである。 (2)要するに 何が書いてあるのか、という書かれている事がら だけを知ろうとして、表現のニュアンスや何やを、「こんなの言葉の飾りにすぎないじゃないか」式に読みとばす読みかたがある。総合読みというのは、こういう読みとは異質のものである。言表の過程、言表の部分部分の読みの過程をたいせつに扱うのが総合読みである。ということは、つまり、総合読みというのは、その部分その部分において生じる受け手の印象を大切にし、その印象を追跡・点検する読みである、ということなのである。 (3)部分というのは全体に対して部分なのであって、それ自体独立した小さな全体ではない。また、全体というのは、部分と切り離れて、どこかその辺に全体というものがあるわけのものではない。それの部分部分において、その姿 ――つまり像=全体像――を示すわけなのだ。部分とは、それなりのしかた ・ありかた における全体像のことなのである。(少し慎重な言いかたをすれば、何らか全体像を保障していないような部分は、決して全体に対する部分ではない、ということになろう。)で、それがエッセイなり小説なり言葉メディアによる認識・言表である場合、その部分に示される全体像というのが、読み の進展につれ、Aの部分からBの部分へ、さらにCの部分へ、という時間的推移の中に継時的 にその全体像が変化を遂げていく、ということになるわけだ。 印象の変化というのは、つまりそのことなのである。印象というものは、文章全体を通して読んで初めて生まれるんじゃなくて、ごく初めのほうを読んでいるうちにも、すでにある印象が生まれるわけだ。その印象というのが作品の全体――作品言表の全体――に対するある予測 を含んだ印象なのであって、作品理解の解き口 が一応の意味でそこに決定されることになる。たとえば、これまでの読書体験・鑑賞体験に立ち、これが川端文学の世界なんだという前提に立って、 ――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 という作品(『雪国』)の書き出しの部分を読むと、もうそれだけでムーディッシュなある予測 が成り立つだろう。それで先を読む気が起こるのである。むろん、継時的に先を読み続ける(読み進める)ことで、おいおいに印象は変わってくるし、多分予測も変わってくる。自分の最初の予測や期待が裏切られたりもする。反対に、最初の期待を遥かに上回った巨大な風景(人生風景)に接するような場合もある。ともかく、そういう読みのプロセスの中で、いわばアン・ウント・フュールジッヒ(即自的 対自的)な形で結論がさぐられるというのが文学の言表なのであって、全文章のどこかの部分、どの行(ぎょう)かに結論が語られている――あるいは隠されている――というものではないだろう。 (4)文意がわかる というのは、まず、その文章に即して、その文章が媒介する発想がわかるということだろう。その文章に託された発想がわかるという形で、その発想法でつかみとられた事物(世界)・現実がわかる、ということなのだろう。むろん、受け手その人のアクチュアルなもの、発想・発想法、そのリアリティーなどとの対決の中に、この“わかる”ということが実現するのである。 そこで、その 文章がほんとうに「わかった」というのなら、そのわかったことを、言語化しうる範囲のことなら言葉にして言えるし書けるはずである。ところが、それがカタコトのしどろもどろ な言いかたでしか言えない、というのは、ほんとうにはわかっていない、ということだろう。 自分の発想がすきま だらけな発想だから自然カタコトになる。これは、もと になる発想のしかたそのものを変えないと、どうにもならないのである。つまり、私のいう読みの指導 というのは、そういうもと (根源)にふれ、感情に揺さぶりをかけつつ、思考や想像のありようを変革する指導を、ということなのである。つまり、また、そのカタコトを筋の通った言葉、ふくらみのある生きた言葉、生きた文章にまで高める形で、子どもや若者たちの発想のしかた、発想の展開を確かなものに変えていく読みの指導を――ということなのである。 読みの指導の構造化 ところで、前項「総合読みとは何か」の中で、読みの指導の構造化――構造論的構造化――ということについて語った。むしろ、そのことの必要について語ったのである。指導の現実態をスタンダードにして、それの可能態をさぐり、その中に必要にして可能な 指導方法をさぐり求めることの必要についてである。それは具体的には、何をいかに教材化してそれをいかに指導するか、ということを自他の実践に実験的な意味をもたせて検討し、さらに次には、半ば実験的に(しかもその実験はひかえめに、小出しに)教室実践に持ち込んで検討を加えねばならないのである。 実験はひかえめに、小出しに、云々。――児童や生徒をモルモットにしてはならないからである。実践的有効さについて確信の持てるような仮説しか教室には持ち込めないからである。文学作品の教材化についての、そのような“必要にして可能な”模型づくり(前項参照)の場合、上記の困難に加えて作品分析の困難が伴うのである。 私自身の体験的事柄について言えば、前掲『文学教育の構造化』(文教研著・三省堂刊)の中の一章として、川崎高校の金井公江さんとの共同研究の形でまとめた、村山知義脚色『戯曲/夜明け前』の教材化と指導過程の模型づくりの場合が、それであった。また、次のものは、むしろ模型づくりの準備過程を示すものにすぎないが、拙著『文体づくりの国語教育――創造と変革への道――』(三省堂刊)に収めた、『皇帝の新しい着物』(アンデルセン)、『トロッコ』(芥川竜之介)『羅生門』(芥川)、『信号』(ガルシン)、『最後の一句』(森鴎外)などに関する仮説的な見解の提示では、たっぷりその困難を味わった。 作品分析があるまとまり を示さないことには、教材化も何もあったものではないのである。分析のまちがいに気づけば、教材化のしかたも指導過程も最初から組み替えねばならないのである。また、その教材化は指導過程を予想して行なわれるわけだが、現実の事実としては、目の前の児童・生徒を対象に指導過程を組むその実際の必要から教材化のしかたそのものに変更を要求される場合が少なくないのである。私の場合、ともかくそうやって、模型づくりのほんの準備にすぎないものを文字化し、そして活字化してみたわけなのだけれども、そういう前提的な作業の中にあってすでに作品分析の不十分さからくる、いくつかの不備に気づかされる、という始末なのである。 指導の新しい――というのは必要な――模型づくりのむずかしさをしみじみ思わされるわけだが、今、そのことを、上記『最後の一句』(鴎外)の場合について拙著『文体づくりの国語教育』の記載の不備への自己反省の形で語ることにしよう。ガックリ、クシュンという格好で語るのではなくて、指導の構造化のための模型づくりの作業は困難なことではあっても、教師が相互に協力して継続的・持続的にぜひやらねばならぬ仕事だ、ということを訴えたいから、あえて――ということなのである。 読みの指導はどうあるべきか 最近、この作品を読み返す機会を持たなかったというかたのために、故岩上順一の的確な要約を借りて略筋めいたものを紹介しておこう。 ――『最後の一句』は、死罪に処せられた(処せられようとしている?)父のために、その子供達が、身代わりになってもいいからと救命を嘆願する物語である。海難損害処理にある錯誤を犯した父親太郎兵衛が、死罪に処せられる旨の判決を下されたことを知って、十六歳の長女いち、十四歳のまつ、十二歳の長太郎が、長女いちの救命嘆願の決意に率いられて奉行所に赴く。ふしぎな偶然から、この嘆願書は上役の手もとまで達することとなるのである。そうなると役所の規定上一応の取調べをせざるを得ないことになる。親子ともに呼び出された白洲で(中略)訊問がはじまる。まつは、「お前も姉と一緒に死にたいのだな」と問われて「はい」と答え、長太郎も「みんな死にますのに、わたし一人生きていたくはありません」と答える。いちは「申し立てに嘘はあるまいな」と言われて、少しもたゆたわずに「いえ、申したことに間違いはございません」と言い放つ。役人はたたみかけて問う。いちたちの献身的な行為の結果、というより鴎外がそう書いているように「献身の中にひそむ反抗の鋒」がむしろ、そういう結果をみちびいたと見るべきだろうが、太郎兵衛の助命は成功する。ところで、上記引用のような要約を行なった後で、岩上は次のように語っている。 ――いちの一言の背景には、数十万の大阪商人達の無言の同情と支持とが立っていたのだ。なぜなら罪人太郎兵衛に対する関心は、『市中到る処太郎兵衛の噂(うわさ)ばかりしている』ほどであったから、云々。(『歴史文学論』からの引用・二)上記<引用・二>の岩上のするどい的確な――それとして的確な――指摘は、<引用・三>に見られるような、彼の歴史科学的(経済史的)認識からみちびかれている。ところで、私自身のこの作品の冒頭の文章(「市中到る処太郎兵衛の噂ばかりしている」云々)に対する理解は、岩上ベッタリであった。「(岩上によって)指摘されていることを媒介して読むと、書き出しの文章が、特異で偉大な鴎外という文学的個性を実感させられる」云々(拙著『文体づくりの国語教育』三〇五〜六ページ)。 実は少しいや になっているのである。これは文学の読み方ではない。「太郎兵衛の噂」がどういう噂かがわかるのは、これはずっと先まで読み進めてからのことである。あらかじめ、だれかに絵解き をしてもらってからその作品を読んで、この作品はあなたのおっしゃった通りの作品でした、というのでは文学はどこかへ行ってしまう。ところで、原文の冒頭は次の通りである。 ――元文三年十一月二十三日の事である。大阪で、舟乗業桂屋太郎兵衛と云うものを、木津川口で三日間曝(さら)した上、斬罪に処すると、高札に書いて立てられた。市中到る処太郎兵衛の噂ばかりしている中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衛の家族は、南組堀江際(ぎわ)の家で、もう丸二年程、殆ど全く世間との交通を絶って暮しているのである。(第一段落)太郎兵衛のことだけしぼって話を進めるが、教室での指導の場面を前提にして言うと、事件が繰りひろげられる時空的な舞台として、まず「元文三年」と「大阪」が押えられ、「船乗業」云々、「市中」云々ということで町人社会に発生した出来事であることが押えられねばならないだろう。そして、何よりも、旧暦の「十一月二十三日」という厳冬に、吹きっさらしの「木津川口で三日間」も「曝した上」の「斬罪」という判決からして、“極悪無道”の罪を犯した“悪玉”的な――つまり根っからの悪人の――太郎兵衛の人柄(ひとがら)やその姿をイメージするのが、むしろ普通だろう。つまり、この文章の言表に即して、ここはそう読み取るのがすなお な読みだろう、ということなのである。ここでのキメ手は、その意味では「十一月二十三日」である。この作品の典拠となった『一話一言』巻十の記載にそれがあるとかないとかは、一応 問題ではない。(実を言えば、原話の記載通りに「十一月二十三日」と書いたところが評価されるべきなのだが。)で、最初の読みにおけるこの段落での「太郎兵衛の噂」は、「悪いことはできないものだ。」「いいみせしめ だ。」式のものとして読者に印象されるのが普通だろう。教師は、むしろ、そう押えて読みの指導を進めるべきだろう。 太郎兵衛の人柄や犯罪の性質に対する読者のそうした予測にたじろぎが出てくるのは、第三段落においてである。この段落の叙述は、事がらとして『一話一言』の記載通りである。子どもたちの名前から年齢まで……。この点に関して、前掲拙著に私は次のように書いた。 ――子どもたちの実際の名前の中に、作者が感じとった何かがあるはずである。名前には親の願いがこめられている。太郎兵衛は養嗣子を迎えている。「赤子のうちに貰い受けた」この子の長太郎という名は太郎兵衛がつけた名前だろう。長男の太郎――自分たちの跡取りにするという意志がこめられている。ところで、養嗣子を迎えてから実子が生まれる。(中略)“お家騒動”をひき起こすケースである。ところが、桂屋にはそんな気配はみじんもない。初五郎という命名には、初めて男の子をもうけた喜びと、それはあくまで“五郎”なのであって跡取りにする考えなどないことが、はっきりと示されている。血筋がどうのという武家の感覚とは違った、庶民の生きかたのみごとさとでも言おうか。そういうヒューマンな民衆の生活の雰囲気を、“事実をして真実を語らしめる”という方法で鴎外はみごとに描いてみせたわけだ。少なくとも結果において描き得た、と言っていいだろう、云々。ところで、そうした信義を重んじヒューマニスティックな太郎兵衛との出会いにショックを感じるのは、冒頭の第一段落を、その文章の言表に託されているものをきっちり押え、言表をすなおに読んで来た読者に限定されるのである。第一段落をそのように読み、第三段落であるショックを感じた読者は、再び第一段落に返って、「市中到る処」で行なわれているという「太郎兵衛の噂」の中身についても、あるイメージ・チェンジを行なわざるを得なくなるのである。そして、少し先まで読み進めて行って、太郎兵衛の犯した罪のどういうものかを知ったとき、作品を終わりまで読むまでもなく、「お上のなさることには……」「お上のなさることは……」という叫びが読者自身の声として湧きあがってくるのである。そのとき、読者の胸に(太郎兵衛の痛ましい姿とともに)重なり合うイメージがどのようなものであったか、という点については前掲拙著を参照していただきたい。
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‖熊谷孝 人と学問‖昭和10年代(1935-1944)著作より‖昭和20年代(1945-1954)著作より‖1955〜1964(昭和30年代)著作より‖1965〜1974(昭和40年代)著作より‖理論講座/第1回‖理論講座/第2回‖ |