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「三省堂<現代の国語>編集委員会資料」 1969年12月
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「中学校・現代の国語/新版」とその編修趣旨(現代の国語教育・3)を読んで 1 編修の基本方針について 「現代の状況ときり結ぶ主体的認識を創造する国語教育」を、という編修委員会の国語教育への志向と、そのような志向と発想に立つ「国語教育のための教科書を」という委員会の編修方針に対して、まず、全面的な賛意を表します。 「現代の状況」と主体的に「きり結ぶ」ことの代わりに、「現在の状況」に受身に「適応」しようとしている教科書も少なくありません。そういう教科書を使うことを強制されて苦しんでいる、多くの現場人の姿を見るにつけても、編修のこの基本方針は、いついつまでも堅持して行っていただきたいと思います。 ところで、右に見るような編修の発想の具体化は、 (1) 単元の設定、選定とその系統性 (2) そのそれぞれの単元を構成する教材群の選定と組み合わせ (3) 各単元を構成する各教材群相互間の連繋と、その系統性 (4) 「学習の準備」「学習の手引き」あるいは「脚問」「脚注」のありよう などに示されることになるわけでありましょう。そこで未整理でありアトランダムにではありますが、右の(1)~(4)について感じたことを以下に摘記します。 2 単元の設定について――文学教育の視点から 教科書の単元のとらえ方ですが、「現代の文化と生活の諸領域から重要主題系列を設定し、それぞれを核として単元を構成」する、という編修委員会の考え方に(原理の面で)賛成です。私もまた、編修委員会がそう考えておられるように、「段落をおさえて」とか「要旨を読み取る」とか「詩を味わおう」といった方式の、言語技能や教材のジャンルを軸とした単元構成では「現代の学習の構造化」は期待できないと考えております。 自分が直接タッチしている文学教育の面から申しましても、上記「重要主題系列」による単元の中に文学作品を教材として位置づけて扱ってこそ、文学学習自体の構造化による文学教育の目的の達成ということも可能になる、ということが言えるわけなのであります。 文学教育ないし文学学習の作業を、いわゆる意味での「詩や小説を味わう」こととか、教養主義的な意味での「情操を養う」こととか、あるいは通り一遍の意味での、字句・文・文章読解の一手段というふうに考えるのなら、話は別です。が、その作業を、子供たちの未来へ向けての、歴史を、実人生を主体的に生きつらぬく人間の生き方に寄与しようとする作業であると考える限り、上記の「重要主題単元」の発想に立って、その具体的な作業内容を考えざるをえなくなります。いいかえれば、その単元、その主題を充足するさまざまな性質の教材群の中に、その目的にかなう文学作品を選んで教材化し、教材として位置づけるということが必要になるわけです。 つまり、「重要主題単元」方式で構想することのほうが文学教育自体の作業目的にかなう、ということを私はいいたいわけです。 3 単元のバランス ところで、そういう主題(単元)を充足するためには、次の諸点について慎重な配慮が必要になってまいります。 (1) 単元系列の選定(『現代の国語』では13系列となっております。) (2) 単元相互のバランス (3) 単元を構成する教材群の選定、教材の質と量 (4) 各単元構成の各教材相互間の関連 (5) 取り立て学習単元の内容のありかた 右の(1)については、私の場合、無知でして発言をひかえたいと思います。ただ、「文学」の領域に直接関係する、①「感情・情緒を深化させること」という考え方については、「情緒」を云々することより、ここに「想像」という概念を導入して考えてみては、と思います。また、②「人間状況を認識すること」という言表も、「状況を認識する」ということが文学的に認識するということだと言ってしまえばそれぎりのことですが、しかし、もう少し明確な規定がほしいように思います。 (2)の問題は、(4)との関係の中で考えられなくてはならないわけですが、そういう関係の中で考えてみて――というのは、実際の教科書の教材の配列全体を見渡してみて――なおかつ、やや、総花式の印象がなくはありません。13系列の単元のどれ一つを取り上げてみても、必要不可欠のものばかりと私も考えますが、やや、あれもこれもという感じなのです。 具体的に一、二事例をあげて申しますと、「仲間意識を育てる」という主題の単元や、「労働の意味を考えさせる」という主題の単元などは、質量ともに、もっともっと充実させる必要があるように私は考えます。ということは、(そこまでいうと完全に個人意見になってしまいそうですが)他の単元の多くの部分も、この「労働の意味を考え仲間意識を育てる」という発想が根底になって教材が組まれなくては本当でない、という意味でもあります。 問題は、「現代」をどう考え、「現代の国語」をどういうものとして考えるか、であります。ここはその場ではありませんので理由にはふれませんが、働く国民大衆相互の連帯の回復、連帯づくり、ということが最も現代的な国民的課題だろう、と思います。そういう視点からの、ケルンとなるべき単元の設定を、という提案です。 4 すぐれた教材 前項の(3)「単元構成の教材群の選定」云々という点についてなのですが、上記の指摘は指摘として、全般的には、一年生用から三年生用までの三冊を通して、論説や評論などと、詩や小説や随想などとの組み合わせが、きわめて神経のゆきとどいた仕方で行われているように思います。 取材の仕方も、したがって採択されている教材も、全般的には妥当だ、と言っていいのではないでしょうか。また、書きおろしの文章が見あたりますが、(多少当たりはずれがあるようですけれど)これは編修方針をつらぬく上で妥当というより、必要な企画だと考えます。 そこで、それぞれの単元の目的を考えた上で、教科書改修の際、ぜひ残してほしいと思う教材を拾ってみると、次のようになります。 <一年生用> (1) 『漂流船上の少年たち』 (2) 『地球は青かった』 (3) 『ストウ夫人』 (4) 『虫けら』 (5) 『働く人間の姿をとらえよう』* (6) 『つるの恩返し』 <二年生用> (7) 『家族ひとりひとりを理解しよう』* (8) 『日本人のコミュニケーション』 (9) 『故郷』 (10) 『海の勇者』* <三年生用> (11) 『峠』 (12) 『母の座』 (13) 『虚と実』 (14) 『マス・コミ時代の読書』 (15) 『万葉の人々』* (16) 『武悪』* (17) 『金沢にて』 (18) 『夜明け前』* 注記しますと、右の(5)『働く人々の姿をとらえよう』は、その前文で、「働く仲間」をやや対象的(環境的?)にとらえている感じなのですが、「働く少年」自身、あるいは「働く者の子ども」という視点でつかみなおす(書きなおす)くふうができないものでしょうか。 (7)『家族のひとりひとりを理解しよう』の「一少女の生活記録」がおもしろい、と思うのです。多少、ちんまりまとまりすぎているけれど、いい子の作文でないところがいいと思います。他の某教科書、某々教科書に掲載されている中学生の作文というのが、明らかにおとなの手になる(あるいは、おとながリライトした)こしらえ物なのです。しかも、道徳教育向けといった格好の――。『現代の国語』だけは、どうか現在のこの方針を堅持していただきたいものだと思います。 (10)『海の勇者』―より適切な作品があればよし、そうでなければ改修の際もこの儘に、と思います。 (15)『万葉の人々』こうした形の古典との対話が必要なのだ、と考えます。媒介者(山本健吉氏)が媒介者として過不足なく、謙虚にふるまうことで、読者(学習者)は古典とじかに対面し対話できる、という文章。(16)の『武悪』も、別個のルートでのすぐれた古典入門の役目を果たしています。 (18)『夜明け前』―「あすへの歩み」という単元の要求をみたすのに格好の教材であるし、生徒たちは、やがて、藤村の原作を、読むべき読み方で読むようにもなって行くでありましょう。 5 提案したい教材 三年生の「真実への目」という単元に、芥川の『鼻』が教材として採られています。「小説を読んで、人間の屈折した行動・心理を通じて、人間に対する深い理解を持つ。」ということが学習のポイントになっております。学習のポイントがそういう所にあるとしますと、同じ芥川の作品でということなら、『羅生門』のほうが(文学史的にも内容的にも、つまり文体としても)適切ではないか、と思います。中三の国語教室でのいくつかの実践・実験例があるので提案します。 第二に、『最後の授業』(ドーデ作・桜田佐訳)を「ことば」に関する単元の教材として提案します。小学校の教科書にも採られているから、ということが否決の理由になりそうですが、そのほとんどが、かなり 第三に、『人間の歴史』(イリン著・袋一平訳)を。一、二年生に。 第四に、『電報』(黒島伝治)を。これは、「生産・労働」の領域に関する単元の教材として。三年生に。 『人間の歴史』も『電報』も、東京・神奈川・千葉・宮城などで数年にわたる教室実践の事例があるので提案しておきます。 6 疑問のある教材 端的に、多少とも疑問を感じる教材について申します。 <二年生用> (1) 『清兵衛とひょうたん』―文字どおり疑問を感じるというだけのことでして、単元の目的にそわない、というのではありません。が、数多い近代作品の中から特にこの作品を、という点で、やはり引っかります。何か一種の名作主義の様なものを感じるのです。志賀文学入門という意味なら、話はまた別ですが。 (2) 『世界の借家大将』―「昔の人々」という単元のめざすところ、また「小説を読んで、近世の町人的人間像を、時代背景とのかかわりにおいてつかむ」という学習のポイントからは、むしろ適切さを欠く作品だ、というのが私の考えです。この作品にかえて、私としては『ねずみの文づかひ』(『世間胸算用』所収)を推します。 (3) 『紫式部と清少納言』―上記『万葉の人々』(山本健吉氏)採択の趣旨と通じる企画かと思います。適切なものが見あたらないので「書きおろし」ということになったのだろう、と推測します。そういう企画そのものに対しては異議がないどころか、賛成なのです。疑問を感じるのは、次のような点です。 ①「紫式部と清少納言」という人物の設定で、「古代の貴族の女性像を、時代背景とのかかわりにおいてつか」もうとすることが、やや常識的にすぎる、ということです。 ②「日本の古典文学の中で、最も感動した作品と言えば、わたしは、まず紫式部の『源氏物語』、次に清少納言の『枕草子』……などの作品をあげることができます」云々というのは、筆者のサイン入りの文章ですからかまわないようなものですが、しかしそれが生徒にとっては一種の古典入門の意味をもちますし、「この教科書のための書きおろし」ということであってみれば、その評価が編修者の評価(作品評価)とも通じるものであり、かつ文学史的な評価一般(定評)を代弁するものとして受け取られるのが普通だろう、と思います。先年来の、『枕草子』に対する否定的な評価(たとえば加藤周一氏など)を考えあわせて、こう割り切ってしまってはうまくないな、と思うのです。 ③この文章からは、(たとえば『源氏物語』の成立過程に見られるような)今日とはまったく違う作品の制作事情、作家の創作の姿勢(先行諸作品の一種の編集的な姿勢)などは、その片 ④平安時代が女流文学時代になった要因を、貴族女性が「かな文字の発達によって自分のことばで自由に散文をつづることができるようになった」ことに求めていますが、これでは問題の説明にはならないでしょう。また、紫式部たちは、「父親やその同族たちが、自分の地位と一家の生活を保つために、時の権門に結びつこうと努めるのを、ながめる立場にいた」というのですが、それをながめつつ自分たち自身どう行動したか(どう行動せざるをえなかったか)、という点が語られなくては「中流貴族の娘として生まれた」彼女たちのある部分が「 ⑤この文章に関して、 <三年生用> (4) 『信号』―カットしたほうがいい、と考えます。理由は、三省堂刊の「国語教育」誌上に二度にわたって書きましたので省略します。 (5) 『民主主義と家庭』―日本の家庭の実態が、ここに書かれてある状態からもう少し変貌している、という実感が私にはあるのです。自信がありません。ご検討ください。 (6) 『つれづれ草』―西大寺の静然上人』のほうはいいのですが、『城の陸奥守泰盛は』はカットしたらいい、と思います。生徒には、ただの教訓ばなしとしてしか印象されないでしょうし、教師の側もあまり興味は湧かない(指導意欲がもえない)だろう、と思います。同じ、『つれづれ草』からなら、『八つになりし年』など、どうでしょうか。 (7) 『旅の俳人芭蕉』―芭蕉といえば『奥の細道』というのが、ちょっと気になる、ということなのですが。 (8) 『走れメロス』―「小説を読んで作者の態度をとらえる」という単元のねらいからいって、適切な教材とは思われません。これは、この作品の周辺の太宰の諸作品をこなし、この時期における彼の苦悩や願望等々をつかみとることなしには理解しがたい作品でありましょう。 7 『学習の手引き』『脚問』『脚注』などについて 二年生用の教科書の場合に例をとって申しますが、たとえばP.27の「学習の手引き」の二です。「その考えは、この文章のどこに、どう述べられているか、まとめてみよう。」という箇所です。「中心思想をつかむ」という目的からいって、これでいいわけなのですが、現場の指導の実情からしますと、いわば、 「その考えは、この文章のどの箇所が伏線になり支えになって、どの箇所にどう述べられているか」 というぐらいに懇切にやらないと、論脈・論旨の展開の中に中心思想をつかむことの代わりに、前後の文脈・論脈を無視した機械的な理解(つまり誤認・誤解)をしか結果しない場合が往々にしてあるようです。 次は「脚問」についてですが、小説とか脚本などの場合、原則的には脚問は添えないほうがいい、と考えます。読者(学習者と教師)のイメージを一方的に方向づけしてしまったり、固定化してしまう惧れがあるからです。また、こうした「脚問」が多すぎると、脚問のある箇所でいちいち(あるいは、しょっちゅう)立ち止らされることで、イマジネーションがこわれる、ということがあるわけです。 やはり、小説その他の文学作品の場合ですが、「脚問」などか記入されている下欄に、「新出漢字」を囲みで示すようなことは、やめたほうがいいと思います。「新出漢字」や「重要語句」は、現在そういうふうにやっているように、本文の後に一括して示す、ということで十分ではないでしょうか。理由は、脚問について語った理由に加えて、「国語といえば字をおぼえること」というみたいな意識を生徒たちにもたらし、「文章を読んで考える、感じる」という、その単元のねらいを半減させる役割を演じているようなことも、まったくないとは言えないからです。 おしなべて、文学作品は教科書で読まされると興味索然たるものになる、などと言われているのも、一つにはそういうことがあるからです。 むしろ、教科書で読む文学作品の場合、必要なのは、多くの「脚注」です。P.219の場合に例をとれば、「たつみがまっ黒やあ。」の「たつみ」の注、「郡長さん」の「郡長」の注などは、読み進めていく上のカベを取り除いてくれます。 この辺の配慮・工夫が、どうも必要なようです。 8 関連作品についての手引きを――付、取り立て学習の単元の扱い おわりに、やはり、文学作品の教科書での扱い方について、もうひとこと。 せいぜい四百ページあるなしの教科書に掲載できる作品の数は、限られています。「学習の手引き」の欄などで、その主題単元に即して、そこでのテーマを考える上に必読の作品群を紹介する(可能な限り作品案内のかたちで)、ということが必要なように思われます。(このことは実は、文学作品に限った話ではないだろう、と思います。) また、やはり、「学習の手引き」欄などで、小学生時代に多くの生徒が読んでいるような作品をその単元の中に位置づけ、その教材作品との関連において読み返す指導などが考慮されたら実にすばらしい、と思うのですが、こうしたことは私たち局外者の夢にすぎないのかもしれません。 いい忘れたこと。文学作品を読む技能に関する取り立て学習の単元ですが、ひどく形式的な枠づけ方のように思われます。いや、それはそれで一応いいのですが、もっと根底的なこと、「文学とは何か」を「文学体験」自体の問題として問うことを忘れているような気がしてなりません。時間切れで詳述しかねます。お許しを。 |