明治図書出版刊「教育科学・国語教育」123 1969年9月号 掲載

   文学の授業とは何か 

    〈何を〉と〈いかに〉と

 与えられた課題は、〈文学の授業で何を教えるか〉ということである。〈文学の授業で何をいかに〉の〈何〉がここの問われているのである。むしろ、その〈何〉が問いなおされているのである。
 多くの現場人の関心は、どちらかといえば〈いかに〉に――いいかえれば、文学の授業の技術的なこなし方手順に――向けられているようだが、関心の持ち方というか関心の方向をいっぺん〈いかに〉から〈何を〉に向け変えてもらおう、というのがこの課題、この企画なのであろう。あるいは、それは、この〈何を〉を考えなおすことの中で〈いかに〉を考えなおす必要はないか、という呼びかけなのであろう。多分、これは、そういう課題意識にもとづく企画なんだと思う。
 〈何を〉と〈いかに〉との関係だが、本来、〈何を〉を離れて〈いかに〉を問うことは無意味なことなはずである。〈いかに〉をいかに 上手にやってのけたとか、また、それをいかに トチったかというような評価は、これは〈何を〉の〈何〉の中身が何であるかによる。 に対していかに 成功したか、トチったか、である。トチルこと一般なんて、どこにもありはしない。手段の価値は目的の価値に従属するのである。
 にもかかわらず、今日、多くの現場人の関心が〈何を〉を素通りして〈いかに〉という手段・技術の面に集中しているとすれば、それは〈何を〉がすでに自分たちにとっては自明だ、ということでなければならない。少なくとも、自明だというつもり になっている、ということである。それを自明のこととして問うことを忘れている(あるいは問いなおす姿勢を欠いている)ということは、こわいことである。かえりみて他をいうみたいなことになるが、ひとつ自分の常識――自分にとって常識であるもの――を疑ってみる必要はないか、ということなのである。
 かえりみて他をいう云々……僕自身のことをふくめて(むしろ僕自身の問題として)大学紛争と大学の教師の問題があるからである。たとえば、この問題の一環としての大学運営への学生参加の問題である。第一に、学生の参加を当然とする現在の自分の常識が一年まえの自分の常識の中にあったか、ということである。第二に、学生のゲバ棒に迫られることなしに、現在自分が抱いているような常識が果たして持てたであろうか、ということなのである。たとえ観念としてそういうことは考えていたとしても実現不可能ときめてかかってはいなかったか、ということなのである。ゲバ棒がその「実現不可能」なことを可能にするキッカケとなった、ということは大学の教師にとっていくら自分を責めても責めたりないくらいのものだ。学生の要求を待ってではなく、それは本来、教師が教師自身の手で闘いとるべきものであったのだから。
 だから、こういうことを僕が口にするのはてれる のだけれども、「今は“いかに”が問題なのであって、“何を”は自明である」というふうな自分の常識を疑ってみる必要はないか、ということを、あえて「かえりみて他をいう」格好で口にするわけなのだ。
 もっとも、〈文学の授業で何を〉の〈何を〉が自明であるというのにも、いろいろなニュアンスがあるようだ。
 「考えてみるまでもなくそれは自明のことだ」といった、いわば懐疑することをしらない不屈の信念型・自信型にはじまって、「きみのいうことがわからんではないが、いまさら考えてみたって、どうにもなるわけのものでもないだろう」という式の、半分ヤケッパチのあきらめムードの大勢順応型のものまであるようだ。
 が、この順応型も自信型もゲバ棒誘発型であることに変わりはない。あなた方が口をきわめて否定している「暴力」を誘発し爆発させるのは、ほかならぬあなた方ご自身である。ともあれ、〈文学の授業で何を〉の〈何を〉を、上からのきまり ――つまり拘束だ――にしたがってしか考えることをせず、それを自明のこととして懐疑することをしない姿勢、あるいは自身に故意に懐疑を回避する姿勢――こうした教師の姿勢に今日の文学の授業が不毛・不振の状態をつづけている内在的要因があるように僕には思われるのだが、しかしこれは後の話題だ。そこで、ともかく、〈文学の授業で何を〉ということである。


    これが文学の授業か

 〈文学の授業で何を〉という場合の〈何〉は、ところで、〈文学の授業とは何か〉の〈何〉をどう考えるかによって、その中身がちがってくるだろう。60度ちがうとか90度ちがう、というちがい方ではなくて、次元がちがってくるのである。
 たとえば、ここに、文学作品を教材として――どういう目的に奉仕する教材=材料としてそれを考えているのかは一応いまは不問に付するとして――その 作品の文章の端々(はしばし)を「味わって読む」ことをし、そこからモチーフとかテーマというのをみちびき出せればそれで文学の授業は成り立つ、と考える〈文学の授業〉観も現にあるわけだ。あるどころの話ではない。それが現場全般の風潮であり傾向だ。かりに百歩ゆずってそれが全般的な傾向ではないとしても、少なくとも官製の教研や、その系統の各種の研究授業の場などでモデルとして展開されるブンガクの授業というのはそうしたものだ、ということなのである。
 そういう研究授業の場で「味わって読む」ことを教師が指示するのは、「気のきいたいい回し」「凝ったいい方」「上手な表現箇所」「深みのある語句・文・文章」等々である。
 それから、「筋を短い言葉でまとめる」ことが生徒たちに要求され、「作者の気持ちがよくあらわれているのは、どことどこでしょう?」というような発問がなされて、さて「主題は何か?」とくる。
 その授業の場で主題というのは、多くの場合、作品の筋書――むしろ、そこに扱われている事柄や事件の筋書――の要約に加えて「作者のいおうとしていること」である。それは、けっして「いっていること」でも、「いいえていること」でも、「実際にあらわされていること」でもない。いわんや、学習者が感動において受けとめた何かとは無関係である。感動は感動、主題は主題なのである。(いったい、人間的感動と無関係なシュダイというようなものが文学作品の主題であり得るのか。「味わって読む」のは、どうやら文学としてのその作品の主題に関してではなさそうである。)
 そこで、ともかく、この作品の主題はかくかくしかじかだ、というまとめ をやったところで授業が終わるのが研究授業の定石のようだが、そこに要約されるこうした主題というのが指導書――つまり教師用トラ巻(かん)だ――の指導案に書かれてあることのイミテーションなのだ。ところで、指導書の指導案と類似の線で授業がおこなわれ、かつ子どもたちをそういうプランに「いきいきと」たくみに乗っけることに成功したような場合に、その教師に対する指導講師の「講評」は絶讃に近いものになる、というぐあいだ。
 ともあれ、これは、そういう授業、そういう授業観が今日大勢を占めているという紹介、むしろ確認である。


    教師の〈文学とは何か〉について

 そこで、また、〈文学の授業とは何か〉の〈何〉を決定するものは、究極において教師その人の〈文学とは何か〉の〈何〉である、ということになるだろう。その教師にとっての、これが文学だというものが彼の(あるいは彼女の)授業のありようを具体的にある方向のものに規制しわく づけることになるのである。
 まず、教師その人の自意識の問題としてそういうことになる。また、授業の実際のありようそのものが多分に 教師のこの自意識のありようによって規制されるのである。
 だから、教師自身の〈文学とは何か〉を通り越して、「文学の授業ではかくかくのことを、かくかくしかじかに教えなさい」といってみても、それはできない相談である。教師は自分たちめいめいの〈文学とは何か〉にしたがって、自分自身の〈文学の授業〉を組むのである。組むだけである。
 教師の文学観の変革なしに、だから文学の授業の変革はありえない。だからして、また逆に、あるきまり ――再びいうが、つまり拘束だ――を作って文学の授業を体制のわく にはめ込もうとしてみても、教師の〈文学とは何か〉がそのわく にはまり込むようなものに変わらない限りは不可能である。
 つまりは、そういうことなのであって、教師というものは、自分にとってのこれこそが文学だというものを、自分の文学の授業で準体験させようとする。上記、前項に例示したような、体制のわくにスッポリはまり込んだ自信型の教師の場合といえども、けっして文学でないものを自分の授業で教えようとしているのではない。あれがあの教師の〈文学とは何か〉と結びついた、あの教師自身の〈文学というもの〉だということ以外ではないのである。だから――だから、こわいのである。
 教師が文学の授業ではぐくもうとするのは文学=文学体験である。ただの読書指導の一環としてブンガクの授業を考えているような教師の場合にあってさえ、実質的にはそういう結果をみちびいているのだ。ということは、自分の目の前の児童に、生徒に、学生に媒介しよう――あるいはわかってもらおう――とする文学(=文学体験)が、教師その人にとってのこれが文学だというものだという以外ではない、ということなのだ。
 その意味では文学の授業にとって教師の〈文学とは何か〉がいっさいである、ということ。――どうもその辺のところが、理科や数学、そして社会科・歴史の授業などともおもむきを異(こと)にしている点らしいのである。歴史の授業などにおいてこそ、教師の〈歴史とは何か〉が決定的なキメ手になるわけだが、その〈何〉と〈文学とは何か〉という場合の〈何〉の性質がかなり違うんじゃないか、という気がする。〈文学とは何か〉の〈何〉は、主体の――この場合、教師の主体の――認知のかまえに内側から揺さぶりをかけ、そこにもたらされた観念を実践に結びつける何かである。


    文学体験は個別的、個性的なもの

 これが自分の文学だというもの、つまり教師その人の〈文学とは何か〉を教室に持ち込むなといっても、それはムリである。むしろ、それがなくては授業が〈文学の授業〉にならないのである。(ところが、授業に教師個人 の判断を持ち込んではならぬ、という向きがある。それは、つまり、学習指導要領に準拠した指導書にしたがって授業していればいい、ということである。いや、どうすることが望ましい、そういうふうにしなければならぬ、ということなのである。文学の授業不毛の外的要因の一つである。)
 教師の人間を通さない〈文学の授業〉というものはありえない。教師の人間を通すということは、この場合、教師の〈文学とは何か〉を通すということである。教師の文学体験を媒介にする、ということである。そのことを否定してしまっては〈文学の授業〉は不発に終わるほかないのだ。
 だいいち、文学=文学体験に平均的な文学体験というようなものはありえないし、考えてみることさえ、それは不可能だろう。ではないか。その考えられないもの、ありえないものを、たして二で割ったみたいな格好で割り出してみせて、この「文学」観で授業をやれ、というふうなことを臆面もなく口にする向きがあるから困るのだ。
 困るのは、だからしてまた、上記の飼いならされた「迷うことをしらない」不屈の自信型、そして順応型である。後者のほうはまだギクシャクしているところがあるのが取り柄(え)だが、前者の自信型のほうは、先生には文学というものがすっかりわかっているんだという調子で、あまり文学的でない自分の文学体験を基調に、「この作品の主題はだね、きみ……」というふうにやるのだから始末がわるい。
 もっとも、順応型の中でも次のようなタイプは、やがて自信型に「成長」する可能性を内包している。文学とは何かというようなことはハッキリ自分につかめていないから、指導書のプランにしたがっているまでのことである、という教師の場合だ。だが、それは、トラカンの提示する〈文学とは何か〉に対していささかの(あるいはほとんど)抵抗を感じていない、ということにちがいない。そうではなくて、実はかなり抵抗はあるんだが、というようなことだと、文学教師のはしくれたるもの、これはトラカンの指導案どおりに授業を組むはずはないからである。組むはずがないというより、組みようがないのである。組めないのである。文学の授業とはそういうものなのだ。
 だからして、ということに多分なるだろう。そのことがどの程度本人に自覚されているかは別として、その教師の〈文学とは何か〉はトラカンのそれとツーツーだ、ということ以外ではないだろう。それは、いいかえれば、トラカン的文学観をすでに 自分のものとして持っていた、ということにほかならない。少なくとも、自分自身の文学体験の素地としてそれを持っていたことになる、という意味である。
 デカンショ節の替え歌か何かに、「教師は生徒の成れの果て」というのがあるが、教師もむかしは児童であり生徒であった、という事実。僕が文学体験の素地云々といったことは、こうした事実――被教育者・学習者としての過去の自分の体験――にふかく関係している。三つ子のたましいに叩き込まれたその 〈文学とは何か〉、〈これが文学だというもの〉、それが今は人の子の師となったその人の心の裏側に、なおもしみ を残している、ということを僕はいいたいのである。
 つまり、僕のいいたいことは、自分が過去に被教育者として叩き込まれた文学教育のひずみ というかマイナス面が、現在の自分の内側に依然として痕跡をとどめている、という点についてだ。そのことを意識化して自分自身の自覚にもたらす必要があろう、ということを僕はいいたいのである。
 いいかえれば、自分が生徒として、学生として教えられてきたことを、こんどは自分が教える立場に立って、それに深い反省を加えることもなしにただ申し送るという格好になったのでは無責任すぎる、ということなのだ。攻守ところをかえて(?)、かつての被害者、加害者の立場に立つ。つまり、そういうことにもなりかねないだろう、ということなのである。
 ひるがえって考えれば、順応型教師も学生時代には、学生らしくというか若者らしく煮え沸った造反精神に身をゆだねた経験があるのかもしれないのだ。とすれば、それが今は失われてしまった、ということになるのだろうか。何にしても、これは、あまりに非文学的にすぎる。文学のエスプリは常識への抵抗、通俗への反逆という点にこそ求められるわけなのだから。 
<国立音楽大学教授>

熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より