三省堂刊「高校国語教育」10 1969年1月号 掲載

  古典で何を教えるか---
   ====古典教育と文学教育と====

 「古典で何を教えるか」――これは、与えられた題名である。課題である。
 古典で何を教えるか? 文学を教えるのである。文学は他から教えてわからせることができるものなのかどうか、というような議論は、いまは横にこう置いておく。教える ということを前提にして、古典で何を教えるのかといえば、それは文学を教えることだというほか答えようがない、という意味にとっていただきたい。「高校国語教育」(三省堂)10 表紙
 もっとも、私は、文学教育というもののもつある限界は認めながらも、文学教育は可能だと考えている。したがって、古典教育も可能だし必要だと考えている。ということは、つまり、私の考えは、古典教育はほんらい文学教育の次元で構想されるべきものなのであり、それ以外のものとして行なわれることには、はなはだしく懐疑的である、という、そういう考え方に立っているということだ。
 古典教育は文学教育として行なわれるべきだし、それ以外のものであってはならない、うんぬん。――さしあたって、戦前・戦中のえせ 古典教育のことを思ってみていただければいい。それは、(1)古典で文学を教えるのではなくて、神話で(たとえば『古事記』で)歴史を実物教育するみたいな、皇国史観奉仕の奴隷教育であるか、さもなければ、(2)若者たちの躍動的な心情に対しては何の訴えるところもない、懐古的で詠嘆的な、まことに静的な老人趣味の古典鑑賞教育でしかなかった。あるいは、それは、(3)目的喪失の自己目的的な手段主義・方法主義にすべった、ただの訓詁注釈主義の教育でしかなかった。
 いま、こうしてそのころのことを書いていながらも、私の胸には、自分の旧制中学生時代のあのいまわしく、うとましい古典の教室の思い出がよみがえってきて、身ぶるいを感じる。あれだけは、あの経験だけは今の高校生や中学生諸君にくり返させたくない。
 古典教育は文学教育である。でなければならない。そこで、もし古典をいったい学校教育のわく組みの中でどれだけ、どの程度に教えられるものなのか、ということを言うなら、その限界は、(語学的なカベがどうというようなことは別にして)本質的には、文学教育そのもののもつ限界によって限界づけられる、ということになるだろう。
 もしも教育というものが、教室のいっせい授業でいっさいがっさい何もかもすっかりわからせてしまうことをたてまえ とするものならば、文学教育というようなものは初めから成り立たない。何もかもすっかり――そんなことは不可能にきまっている。文学は究極において、めいめいの先行体験、文学体験のありように応じて、めいめいがめいめいのわかり方でわかるほかない性質のものなのだから。伊藤整氏もある機会に、こう語っている。「私自身の体験では、古典のすぐれた所は、私の能力の範囲でしかわからない、という思いをすることしばしばである」うんぬん。この「古典」ということばを「文学」と置きかえ、そしてまた「古典」ということばに返して考えてみていただきたい。

   ====教えるということ====

 こういう考え方ができものだろうか。何もかも今すっかり、というのでなくて、今はあるわかり方でしかわからせることができないが、しかし将来何かのおりに本人がふとそのことに気づくこともあるだろう、と考え、その日のために足がかりを用意する、という、そういう発想の教えかたがあってもいいのではないか、ということなのだが。それは、たとえば、高橋しん(石へんに「眞」)一氏の次のような回想が示す話題に関係している。
 ――「小学校四年の修身の教科書に教育勅語がついていて先生の前で暗誦させられた。『だめだ、教えた通りでない』と叱られた。『お前は、父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、と切って読んだが、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ……一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ、ではじめて息をつくのだ』といわれた。いま思い出すと、文法上のかかり で切ってはいけない、ということを教えられたのである。」
 ――「私はどうして、藤井先生がそれを教えてくれたのか、大学を出る間際まで解らなかった。父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、というのは、『父母に孝行せよ、兄弟仲よくせよ』といっているのではない。『父母に孝行していて、兄弟仲よくしていて、いったん戦争が始まったら、そんなことは忘れて天皇に忠義を尽せ』ということなのである。藤井先生は、できるなら、もっと私たちに教えたかったのだろう。しかし、それ以上口をすべらせれば、今度は先生のほうが大変なことになる世の中に教えていたのである。(中略)三十年、四十年後に『ああ、あの先生は、こんな深い読み をもって教えてくれたのか』といわれるような先生――大変だろうが、そういう先生になれたらすばらしいと思う。」
 私のいうのは、つまりこの藤井先生のような教え方のことだ。テストがあって教育がないみたいな、とくに60年安保挫折以来の学校教育に欠けているものは、こういう教育の発想なんだと思う。今の大学紛争のことを思ってみるがいい。あれは大学教育自体の問題であると同時に、高校教育や、中学教育のありかたの問題だろう。今の多くの大学生諸君にとって、問題に直面したとき、心の中で語り合うひとりの藤井先生も持たない、ということはどういうことなのだろう。目の前の教師はいわずもがな、中学・高校時代の恩師さえもが「あれはマンガだよ」である。
 話をもとへもどそう。文学教育の志向する指導の発想は、ところで、いわば藤井先生のあの教え方をたてまえ としている。したがって、古典教育もまた、基本的にはそのようなものとして志向され構想されねばならないだろう。きたるべき日のために足がかりを用意する、という、そのことである。

   ====文学はたんに文章ではない====

 太宰治が語っていたという。「文学は、たんに文章じゃない。愛だ」という意味のことを。「たとえば井伏さんの『丹下氏邸』だけれど、あれなど、やはり、愛情だ。内気すぎるぐらい内気な、つつましい愛情だ。」
 あいにくその本はだれかに貸してしまっていて、手もとにない。が、これは、三枝康高氏がお書きになった書物のどこかに引かれていた太宰のことばである。うろおぼえだから、少しあやしい。
 少しどころか、これはまた大いにあやしいのだけれども、あえていう。「近代人はヒューマニズムの何のといういい方をするから、かえってわからなくなってしまうのだが、文学の出発点は、いつだって愛情だ。それも素朴な愛情だ。古来すぐれた大作は、どれも愛情でつらぬかれている」うんぬん。
 文学は、たんに 文章じゃない。――ほんとうに、そうだと思う。内に、ふつふつと煮え沸(たぎ)っているものがなくては、それは文学でも何でもない。それは、ある切り口からすれば愛、愛情だということになるのかもしれない。『丹下氏邸』のような作品を引き合いに出していわれると、なるほどな、という気がしないでもない。
 そこで、古典も文学だ。いや、古典こそは文学なのだという前提に立っていえば、だから「古典」を「古文」という形、「文」「文章」という形でおさえ、それを現代と隔絶したものとして「現代国語」ときっぱり区別してしまっている、今の高校の国語教育課程の考え方は私には全然なっとくがいかない。
 中学校の場合も、その考え方の基本は同じことだ。「古典(古文および漢文)については、古典にたいする関心を深め」ることだ(「中学校の教育課程改善についての最終答申」)、というのである。古典イコール古文 (そして漢文)というおさえ方である。「古典にたいする関心を深める」とは、つまり古文 に対する関心を深めるということであり、つまりまた、その 、その文章 を必要とした「内に沸っているもの」には目を向けずに、それと切りはなして、いわば文体なき文章 として古典の文章を読ませろ、ということ以外ではない。
 文学はたんに文章ではない、ということは、いいかえれば、文体のない文章は(あるいは文体を抜きにして見られたその文章は)どういう意味にもせよ文学の文章ではない。したがって、古典の文章ではない。つまり、古文 は古典文学の文章ではないのである。

   ====民衆相互の連帯の回復をめざして====

 『暮しの手帖』が先ごろ、全国の一般読者からの応募原稿によって「戦争中の暮しの記録」というモニュメンタルな――とたぶんいっていいだろう――特集をこころみた。その編集後記に、花森安治というサイン入りで、こう書かれてあったのをご記憶だろうか。
 ――「その(応募原稿の)多くが、あきらかに、はじめて原稿用紙に字を書いた、とおもわれるものであった。(中略)一見して、文章を書きなれない、というより、むしろかなくぎ流といったほうがぴったりする書体、(中略)誤字・あて字の多いかと、文章の体をなしていないものが多いこと、(中略)しかも、近ごろこんなに、心を動かされ、胸にしみる文章を読んだことはなかった。選がすすむにつれて、一種の昂奮のようなものが身内をかけめぐるのである。いったい、すぐれた文章とは、なんだろうか。ときに判読に苦しむような文字と文字のあいだから立ちのぼって、読む者の心の深いところに迫ってくるもの、これはなんだろうか。一ついえることは、どの文章も、これを書きのこしておきたい、という切な気持から出ている、ということである。書かずにはいられない、そういう切っぱつまったものが、ほとんどの文章の裏に脈うっている。」
 思うに、ここに語られているような、「一種の昂奮のようなものが身内をかけめぐる」までに人の心を揺さぶる何か、この何かが、文学を文学たらしめる第一の、あるいは最も基本的な要素であろう。これらの応募原稿が文学であるのかないのか、というようなことは別個の話題としてである。私のいうのは、いかなる意味においても人の心に感動を呼ばないような文章は、文学の文章とはいえないだろう、というまでのことである。
 そこで、話を初めにもどして、もう一度いおう。古典古文 にすり替えたのでは、文学 はどこかへ行ってしまう、ということである。
 つまり、「書かずにはいられない、そういう切っぱつまったもの」がなくては、文学といえるようなもの、文学の名にあたいする文学は生まれない。ということは、そういう切っぱつまった気持で書かれた文章のすべてが文学になる、というようなことを言っているのではなくて、それがないと文学は生まれないという意味である。古典は、何かそういう切っぱつまったもの――太宰のことばでいえば愛だ――を、そのそれぞれの個性的な発想と文体において文章表現として保障している。いや、そのことを文章表現としえているからこそ、それは古典でもあるわけなのだ。そういう次元の問題としていえば、文学は文章なのだ。文学にとって文章がすべてだ、と言っていいのである。したがって、古典にあっても、である。
 文学=古典にとって文章がすべてだ、ということを言うためには、しかしまず第一に、その文章が「書かずにはいられない、という気持から書かれた文章」であることが前提になる。第二に、それが「読む者の心の深いところに迫ってくる」文章になりえていなくてはならない。そのためには第三に、その発想が個性的であり、かつそれが文体といえるようなものとして、文章の現実の展開に結びついていなければならない、というようなことが条件としてあげられよう。
 古典をただの古文としてではなく、それを古典本来の文学の姿において教えるということは、だからこの切り口からすれば、作品の文章を、それの文体的個性――個性的発想――においてつかませる、ということいがいではないだろう。あるいは、それがつかめるような足がかりを確実な形で与える、ということだろう。いいかえれば、その文章を書かずにはおれなかった「切っぱつまったもの」について場面規定をおさえて考えさせると同時に、文章の現実の展開に示されているその現実把握の発想のしかたと、目の前の受け手(生徒たち)自身のそれとを対決させ格闘させることである。
 古典を文学として教えるということは、それのすべてを肯定的に受け取らせるということではない。過ぎ去るべくして過ぎ去ったもの、現代がそれを否定しさるべきものは、そのように評価させるべきである。が、そのようなもろもろの否定的要素と交り合いながら、現代が見失ってはならないにかかわらず、見失いつつあるもの、すでに見失ってしまったもの、それを発掘させ発見させることが、文学教育としての古典教育の果たすべき大きな役割の一つだろう。そこにさぐられ、そこに見つけ出されるものこそは実は、現代が真に求めているものだろうから。したがって、それは、若い次の世代の民族的・民衆的人間としての成長にとって必要とされる何かであろうから。
 その何かは、おそらく、民族の最も緊急な今日的課題である民衆相互の連帯の回復ということに関係し関連する何かであろうと思われる。「文学の出発点は、いつだって愛情だ。それも素朴な愛情だ。古来すぐれた大作は、どれも愛情でつらぬかれている」と太宰がいったのも、そのことに関係するだろう。愛・愛情とは、連帯を求める人間の感情のことであり、あるいはそれへ向けての意志のことだからである。
(国立音楽大学教授)


熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より