芸術教育研究所内 芸術教育の会 発行「芸術教育」復刊 6 1967年10月20日号 掲載
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内なる読者 創作体験は、それをひとくちにいって、自己凝視の体験にほかなりません。自分の感情を、もうひとりの自分の感情で見つめる――とそういっただけでは、ことばが不十分ですが、ともかく、それは、自己凝視の体験であります。作家その人による、するどい、また、きびしい自己凝視を欠いては創作という表現行為は実現し得ない、といってよい。 もっとも、とりたてて、創作体験だけがそうだというのではなくて、鑑賞体験をふくめて芸術体験一般が自己凝視の体験にほかなりません。つまり、創作体験の特徴は、コミュニケーションということでいえば、それが作家の自己凝視をとおしての伝えである、という点に求められるでありましょう。 自己凝視をとおしての伝え?……むしろ伝えあいといったほうが誤解をさけ得るかと思います。自己を見つめることをとおして、自己のなかに読者をほり起こす、という意味です。 内なるものと外なるもの 内なるものは外なるものの反映である、ということは、思うに、現実の読者と、作家が対話の相手として内にあたためた読者との関係についてもいえるでありましょう。《内なる読者》は、現実の読者の反映像にほかなりません。あえていえば、それは作家という媒体に屈折した現実の読者の反映像にほかならない、ということなのであります。 そのことは、また、鑑賞体験が創作体験に先行しそれを制約する、ということでもあります。作家自身は、みずからの鑑賞体験にささえられることなしには、創作の名にあたいするような表現活動はいとなみえない、ということ、しかもその鑑賞体験は、現実の読者の鑑賞体験に媒介されてのそれである、と、そういっていいのであります。 読者が作中の人物のなかに自己を見つけたり、自分の友人や同僚たちと同様の血のかよった、なまみの人間を見つけることができるというのは、ほかでもない、自分が《内なる読者》として、作品の創造に参加しているからのことに違いありません。「鑑賞によってある感情を体験するためには、読者は、あらかじめ、その感情を所有していなければならない」という、上記ギュヨーのことば(見解)も、こうした視点からつかみなおされることで、それは正当に現代の芸術理論の論理に組みこまれてくることになるのだ、と思います。それがフィクションによって再構成された現実に、現実以上の現実を感ずるからなのであります。 そこで、たとえば、読者の弱い部分を拡大して、それがまるで読者の全体ででもあるかのような、つかみ方を作家がしている場合、いったい、どういうことになるのか? また、相手のそういう弱いところが自分にはしっくり――というふうな作家にとっては、期せずして自分を甘やかすような、問題のつかみ方になってゆくことは見えています。そうした作品が、こころよい眠りをさそう子守唄として、読者のヤワな気持をいっそうヤワなものにしてゆくことも、また見えています。 その反対に、読者の強い部分をつかんだのはいいとして、相手のそこにだけ向けてアピールしたような作品も、これは読者としては、やり切れない思いです。なん曲も行進曲だけをたてつづけに聴かされているようなものだからです。読者のつかみ方――作家による読者のつかみ方に問題がある、ということになりましょう。 つまり、作品鑑賞にさいして読者は、自己の反映像であるはずの《内なる読者》と《作者》との対話を、いま、そこに、耳にし目にしている格好なのです。にもかかわらず、それが他人ごととしてしか響いてこない、というのは、作家による読者のつかみ方に狂いがあるからです。そうに違いありません。 そういう場合は例外として、そこに慰めや励ましを感じたり、あるいは立ちどまって考えさせられたり、というようなことが実現している場合、内なる読者による制約ということをいっていいかと思います。 というのは、その対話に耳をかたむけ、その対話の成果(作品の表現)を目にすることをとおして、読者は自分の意識や感情をいっそうかたくななものに固定させたり、それを前向きなものに変革させたりする要因――要因の一つをそこに見つけているからであります。 だからして、読者の本当のところ、真実の姿をつかむということが、作家にとって、どうしても必要になってくるわけです。つまりは、相手のすぐれた部分を軸にして、相手の全体を再構成してつかむ、ということなのですが、自分の現実の相手は、それこそ全体としてみては〝弱い〟とか〝遅れている〟というような場合があるとします。が、それを相手の体験をくぐりながら、しかもつき放すところはつき放す格好でみてみると、さいしょ思ってもみなかったような、シンの強いところや何やすぐれた面を発見することがあります。まず、それをつかむことだと思うのです。 いいかえれば、そういう前向きのものが頭をもたげるのは、ところで、どういう場面、どういう状況においてであるのか、という、そこのところをつかむことなんだ、と思います。その点をつかみ、その点に中心を見つけて、相手にとって可能な生活の行動半径をイメージとしてそこに描いてみる、胸に描く、ということが作家には必要なのであります。 そういうイメージが、ただの空想や観念の遊戯としてでなく、根のあるものとしてそこに実現するまでには、多くの時日を要するわけですが、そうしたイメージをつくりあげる素材として欠けないのは、読者その人に反映している現実(現実像)のどういうものか、ということでありましょう。つまり、鑑賞者大衆の主体に屈折した現実の反映像をとおして、逆に現実をつかまないことには、芸術的認識として現実をつかんだことにはならないからです。 それは、相手に迎合するということではなくて、相手の体験にそくして、相手といっしょに考えあう、感じあう、ということにほかなりません。あいだを端折ったいい方をすれば、相手(受け手)の体験にそくして訴えることで、自他の体験の仕方そのものを変革する、ということなのであります。 自他の変革――自他の自は、むろん芸術家その人の自己・自我をさしています。表現することがダイアローグに、鑑賞者との相互変革の内部コミュニケ-ションにささえられている、というかぎりにおいて、表現すること自体、送り手(表現者)自身の自己変革のいとなみとなるわけなのであります。創造・創作の名にあたいする表現は、このようにして、自他変革のいとなみにほかなりません。 |
∥熊谷孝 人と学問∥昭和10年代(1935-1944)著作より∥昭和20年代(1945-1954)著作より∥1955~1964(昭和30年代)著作より∥1965~1974(昭和40年代)著作より∥ |