三省堂刊「高校 国語教育」8 1967年6月号 掲載
  〈対 談〉 教育の転機と国語教育の未来像--
●熊谷孝
●高橋和夫  
(国立音楽大学教授)
(群馬大学助教授) 
 教育の現状――「期待される人間像」のねらい

 司会 小・中の指導要領の改訂が間近いと言われて、中間発表が夏に見込まれています。また、高校については、後期中等教育再編の方針がすでに出て、いずれは指導要領の改訂も予想されますし、教育課程改編の動きは激しくなっています。国語教育の面でも、戦後二十年たって、国語教育はこれでいいのか、という問題が出されているときだと思います。三省堂「高校 国語教育」8
 まず国語教育にはいる前に、教育全体についての政府・行政側の動きについて、高橋先生から総括的にお話しいただきたいのですが――。
 高橋 教育全般の転換期の問題ということになると、一つは「期待される人間像」、これは小・中・高を通じてでしょうけれども、とくに価値意識が問題として生まれてくる高校生あたりにいちばん強く働くと思うのです。そこの段階でおとなになってからの資質もきめようという意図があって、「期待される人間像」ができた。それを追っかけるようにして後期中等教育の答申があったわけです。これが昨年十月でした。
 この次には、教育課程の改訂、それから具体的な各教科の指導要領の問題が続いていく。そういうことが行なわれることによって、高校の教育というものが、政府側・文部省側から見て、一応完成したということになるのだろうと思います。
 この背景をさかのぼって考えると、なんといっても、高校への進学率が非常に高くなった。四十一年で七二%です。毎年二%ぐらいずつふえていますから、まもなく八〇%に達することは明らかですね。もう一つは、これに対していちばん強く意図的に動いているのは、財界だろうと思うのです。つまり、高校へ大部分が進学するから、事実上、中卒者は雇えない。それから技術革新が非常に高度になって、少なくとも高校卒程度の学力・能力がないと、企業では使いものにならないということがあって、しかもこれから若年の労働力が減少するということがある。そうすると、同じひとりの人間でも非常に有効に使わなければならないということを考えると思うのです。そうすると、結局、高校の段階で全人的教育、全日制普通高校のようなことでやっていたのではまに合わない。そこで職業教育の重視ということになってくる。現状では六対四、普通高校が六で職業高校が四ですが、それを逆に四対六にもってゆきたい、そういうことで高専設置等も出てきた。悪く言えば、最も使いやすい人間ということを考えている。しかし、同時に技術革新のテンポは非常に早く、五年前のものは現在は使えないという状態なので、本来ならばそのような長い間に使えるような基礎的なものをやるべきなのに、現在の、とくに職業高校なんかでは、当面のものだけを考える。そこのところに、意図と現実との矛盾というものが、実はあるということが言えるのではないか。
 それだけの話ですと、純粋に教育課程を技術的に考えてしかるべきだと思うのですが、それに「期待される人間像」というものがくっついているというところが、一つの「思想」「イデオロギー」ですね。技術自体には、イデオロギーというものはない。しかしそれだけでは、いったいどっちのほうの力が働くかという保証がない。そこでもう一本、「期待される人間像」というものが必要だと……。
 熊谷 クサビを打つわけですか。
 高橋 はっきりその方向づけをしようという意図だろうと思うのです。
 熊谷 私はこれらの動きの意図として、二本あるような感じがしています。一つの側面、これは非常にだいじな側面です。独占資本奉仕の中級技術者をつくる。それが、高橋さんのおことばでいうと、思想ないしイデオロギーですね、それの裏打ちが必要だという点が基本的にあるんだと思います。私も同感です。
 もう一本は、「期待される人間像」を打ち出す目的は、後期中等教育の学習者・生徒だけが対象ではなくて、むしろ彼らを育てるおとなたちの頭をリバイバルするというか、そういうささえをつくる意図があると思う。曲がりなりにも戦後二十年のデモクラシーの歴史がある。そういうなかでのデモクラシーへの洗脳ということをおとなたちはされてきたわけですけれども、それをもういっぺん洗脳しなおすというねらいが基本的にあると思います。
 司会 全体の状勢に非常に危機感みたいなものを感ぜざるをえないですね。
 高橋 私はそれほど危機的に、「期待される人間像」に書かれたとおりに世界がなっていくだろうとは、思っていないのです。ただ、それらのなかで、おとなたち、あるいは今現在の、民主主義的な人のなかのいちばん弱い線に、この答申のなかで比較的妥当する面がはいっていくだろうということは感じます。しかしこの基本的な精神、克己心が強く、自己の内面道徳的なものを重んじて、国家・社会に奉仕する、そういうむしろ服従的な精神は、長い眼で見て、そんなに影響はないだろうという気がするんです。それよりも現実の社会の動きのほうが、こういう一片の道徳的主張を越えて、もっと個々の日本人の資質なりなんなりを変えていくほうに動くだろうという感じをもっているんです。
 熊谷 私は「期待される人間像」を、部分的に一つ一つ切り離すと、もっともなこともあると思うのですよ。極端にいえば、六〇%のもっともなことを含んでいないようなものは、なんの影響力ももたないだろうと思うのです。歴史が示しているように、むちゃなことを一つ言うために、必ずむちゃでないことを九〇%織り込むと言うのが、いわゆる政府側の手だてだと思うんです。しかし、なんかその前提が狂っている。そしてその狂っている一〇%に焦点があるからはねかえすべきだというのが、私の考えです。
 高橋 私はいくつかの答申案を見て第一に感じますのは、いわゆる保守的なものの考え方はなにかということです。特に「期待される人間像」は、これはむしろ私は超保守みたいな感じですから、後期中等教育の答申案、もしくは出るであろう指導要領、あるいは今まで出ている指導要領でもいいのですが、これらにあらわれた考え方、それからものの動かし方は、現状を肯定した上で、たぶんこのように社会は進んでいくであろうから、それを若干程度先取りしていくにはどうしたらいいかという考え方が、いちばん基本的な発想で、これがいわゆる保守主義だろうと思うのですね。そういう発想というのは、非常に根強いのですね。われわれの日常生活というのが、一日か一週間手前のところで 発想しておりますから。だから、政府側・文部省側にはあるきめのこまかさが当然のものとして出てくる。それが、現実の療法としては、相当程度ききめをもっているだろうという気がするのですよ。一方、これに対抗する民間教育運動の側のとらえ方はあらさがかりますね。
 熊谷 私が民間教育運動の代表というわけではありませんが、確かに民間教育運動というのは、ハンディキャップをはじめから負っているわけですね。教育委員会の天下り的任命制があって、これを動かしがたい前提にして、それから指導要領自体が一種法的な拘束力をもっている。それから教科書というのは、本来教材の一種にすぎないはずで、教師が自由に目の前の子供のことを考えて、目の前の子どもに合ったものを編成していくべきものですね。しかしそういう自由が非常に束縛されている。はじめからドカンと体制的な壁があるわけです。ですから民間教育運動はそれへのアンチテーゼの形をとるという宿命的なものがありますね。
 そういうときに、民間側のもつ、きめのこまかさというものは、おっしゃる意味のあるあらさが出てくるということがあるし、実を言えば、あるあらさが必要だということが私の考えです。方向だけは見失わない。方向を見失ったらおしまいだと思います。

 学力・教材をどう考えるか

 高橋 大前提になるのは、日本の憲法を完全に実施し、それから教育基本法の本質を貫き、そして日本の真の意味の民主主義をつくる、そのために、長いビジョンの中で具体的なプランを立てるということだろうと思います。そのことはそのとおりだと思うのですが、現実に今の子供について言われるのは、要するに字が書けない、文章がつくれないではないか、現代社会のなかで、事務文書一つ、レポート一つの書き方も知らないでは困る、そういう形で出てきている。そうすると具体的な点数計算的な勝負というものが、一般の人の考えではないかという気がするのです。そこを考えないかぎり、いつも足をすくわれるという気がしてしょうがないのです。逆に言いますと、非常に教育活動に熱心な先生の持ったクラスが、学力が下がったとか、そういう発想が強いのですね。
 熊谷 そういうような点が、事実あるんだと思います。活動家の先生がどうこうということは、よく言われることですね。ただ、政府側・文部省側から提供されてくる教材では――いま私の頭にあるのは、小学校・中学校ですけれども――勝負ができない、目の前の子どもが育てられない。もっとよい教材を、教師自身がどんどん発掘しているが、それが実際には受け入れられない。そういうふうな問題がありますね。
 高橋 私は全部の教科書が体制側だからだめだという発想はとりたくない。底辺学力は、そういうものとは無関係な部分もある、という見方をとっているのです。
 熊谷 私は絶対、関係があると思います。学力の測定のしかたによるでしょうが、私は、教師は教材で勝負するものだと思います。
 高橋 それは、かなりおとなの読むような、文学作品などでは、ある程度差が出るだろうと思うのです。
 熊谷 私は、ある程度じゃない、絶対なんです。それは小さい子供であればあるほど、カチッとしたものでなければ困る。文章にしても、ふやけた文章では困るというのが、教育の現場に即しての実感です。たとえば「一寸法師」という題名の教材が、核教科書にありますね。これを比較検討してみましても、この教科書の「一寸法師」であったら、これだけいくのになあと思いますね。
 高橋 Aのように理解したから学力がついた、Bのように理解するようになっているのでは学力はつかない、そういう言い方は、一般論的な、教養とか、その人の思想を形成するといかいう点では、差が出ると思いますが、たとえば文章があって、その主題把握の手順だとか、この論旨がどういうふうに続いているかというのは、抽象化された学力として、どんなものにでも共通だろうという気がするのです。
 熊谷 私は、そこは全く違うと考えています。思想ということばが出ましたが、ことばと思想という問題でいえば、ことばを組み立てるということは、すなわち思考を組み立てることだという考え方です。ことばは思想の運搬具だとは考えないわけです。思考を組むことでことばを組む、形成する、そういう操作として考え、その流れのなかで教材を位置づけて考えるわけですから、どんな教材でもいいということは考えない。
 高橋 たとえば段落構成のしかたというのは、すべてのものにのっかる一つのパターンだと思うのです。それをどんななかみをいれていくかによって違いはあるけれども、型だけ抽象してやったものも、私は学力じゃないかという気がするのです。
 熊谷 型だけというのがどうしても納得いかない、抽象的な型があるとはどうしても思えないのです。
 高橋 もちろん、どのようなパターンも入っているようなものを内容に加えるということは、最後的に言えると思いますが、それを一段下げたばあいには、型が有効性を発揮するだろうという、二段構えで考えています。一段低いところでいえば、極端にいうと、どんななかみであっても、ある程度かまわないでしょうね。しかしその学力だけでは不十分だから、教科書のばあいには、それに内容なり思想なりが加わるのは当然だろうと考えます。

 〝言語技術を身につける〟とは

 熊谷 三十三年度の改訂のときには、主導的な役割を演じた方の考え方の中に、明らかに、内容はどういうものでもいい式の考え方があった。ところがこんどのははっきり違っていて、小学校部門でいえば、思想的、道徳的内容のものでないといかんということを、はっきり明言している。少し乱暴な言い方をすれば、指導要領の改訂の歴史をたどっていくと、今までは教材の内容は何でもいいと言っていたが、なんでもよくなくなってきて、今の道徳教育の方向のもの、さらに言えば「期待される人間像」の方向のものに内容を合わせていくという傾向になっています。
 高橋 近代化論者、あるいは言語技術主義者から言えば、科学技術がこれだけ進歩したことによって、コミュニケーション、通信を問題にしている。つまりものの実体をとらえるためには記号でとらえるという発想が強くあるんだろうと思うのです。そういう人たちにとって、だいじなのは、人間の社会生活の変化である。つまりそういう社会でどのような人間が強く生きていけるのか、その勝負のきめ手となる一つの軸を考えようというときに、言語技術、コミュニケーションの技術という点がいちばん強く出てきている。もちろん私は思想の問題を考えるときには、いわゆる進歩的なということを設定したい。しかし、そのばあいにも、やはりたしかな身につく技術はもっていなくちゃいけない。その技術は、コミュニケーション技術だろうと思います。記号を操作することに有能な人間をつくることが、私は現代社会において要求されている国語力だろうと考えるのです。
 熊谷 言語技術を身につけさせることが、ある意味で国語教育の目的だということは、私も信じて疑いません。ただ、その前に、言語技術と内容を切り離すいき方には賛成できません。それが一体にならなければ、言語技術は身につかないのじゃないか。言語技術を身につけるためには、思想のしっかりした――思想というのは感情を含めます。観念じゃありません――作品を教材として提供するということを抜きにして、なんで実現できるかと思うのです。
 今手もとに、三省堂の『新編現代国語』の三があるのですけれども、それの第八単元に「今日の文学」というのがありまして、安倍公房さんの『赤い繭』を採っている。安倍さんの作品を掲載することが適切かどうかは、ちょっと判断中止しまして、こうした新しい文学を高校の教科書にぜひほしいと思っていたのです。大学の教養課程で、現代小説固有の手法や、新ものの考え方の裏づけから出てくる手法で書かれた作品に、学生たちが接しないできているために、十九世紀的な小説の観念にとらわれているのです。それをたたき壊すのに最初の数週間かかってしまう。そんなことを毎年経験しているものですから、こういう内容の作品が高校の教科書に取上げられているということを、私は評価するわけですよ。その問題は、同時に、さきほど高橋さんとちょっと話し合った、内容の問題と関連しているわけです。
 それから、さきほど段落に分けていくパターンはどういう文章を扱おうと同じだとおっしゃいましたが、段落に分ける考え方ですが、どうでもこうでも分けるために分けるという段落指導があるのですね。
 高橋 あれはよくないですね。
 熊谷 それは同意見でしたね(笑い)。

 篤農主義への危惧

 熊谷 そこで指導要領のことなんですけどね、さっきもちらっと話題になりましたけれども、こんどの指導要領の改訂で、たいへん一般の人気をあおっているのは、漢字教育に力を入れるということ。だれが聞いてももっともに聞えるのですけれども、戦前の人間は漢字が読めて、戦後の教育を受けた人間は読めないという前提がおかしいのじゃないか。戦前はごく一握りの人間がたいへん漢字が読めたのです。戦後というのは飛躍的に大衆社会が成立しているんで、そういう戦後教育のすばらしさの評価を忘れて、戦前の子供は読めた、今の子供は読めない。それから旧制の中学生と新制の中学生をいきなり比較して低下しているとか、そういう前提に立ってあおり立てるというのは、ちょっとおかしいと思うのですね。そのことをはっきり押えたうえでそんな漢字中心の国語教育をやるべきなのか、どうなのかという問題ですね。
 高橋 その点では意見は完全に一致しますね。私も、漢字負担はできるだけ最小限度にと思います。かなだけにしたばあいにはかえって不便があるから漢字を入れるのだという程度に考えています。ですからもっと漢字は略字をたくさんふやせというのが、個人的な考えです。
 熊谷 同感ですね。それから作文の問題ですね。やはり書けるようになったのではないですか、全般として。しかし今の制度ではだめだという考えなんです。
 高橋 現実にどれだけ作文を書かせているかというと、一学期に一つ書かせればいいほうなんです。また事実、かりに人員に余裕ができたとしても、そんなに毎週書かせられるかというと、必ずしもそうはいかない。その点で十枚も二十枚も書かせて、それを先生が見てというやり方が必ずしも効果的であるとは思いませんね。むしろ私は、授業のときにノートをよく使わせるとか…。そういう意味もあるのです。
 熊谷 私は、今のような時間の持たせ方、小学校で全科を担任させるというやり方、それから雑務の押しつけ、ああいうふうなことを解消しないがぎり、教師は作文を見る時間はないですよ。そのへんを抜本的にやらないと、国語教育は伸びませんね。篤農主義が生まれてきますね、教師のなかに。これがおそろしい。
 高橋 篤農じゃいけないですね。それがだれにでもできること、そうして合理的な考え方で、これはたしかに最も効果のあがる方法なんだということがわかるやり方でなければいけないと思うのです。
 司会 どうもありがとうございました。

 熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955~1964(昭和30年代)著作より1965~1974(昭和40年代)著作より