明治図書出版刊「教育科学・国語教育」104 1967年6月号 掲載
  〈書評〉児童言語研究会編 一読総合法入門

 構成のしっかりした本だ。論理的にすきまなく組み立てられた内容と編集である。これからこの本を読もうとする方々に申しあげておきたい。最初のページからぜひ順を追ってお読みになられるように、と――。こういうシスティマティックな構成をとっている本は、それを勝手に順序をかえて読んだのでは、理解にポッカリ穴があく。
 第一部は理論編。いま、本誌で時評の健筆をふるっている林進治氏の担当執筆。熾烈な自己主張につらぬかれながらも、いささかの独断もハッタリもケレン味もない。論理的で重厚な筆致の文章である。それは<一読総合読みの疑問に答える>という題名なのだが、(手段という意味でのその個々の方法のありように対してはともかく)総合読みというこの方法原理そのものに対する大方の疑義・疑問は、氏のこうした説明・説得のまえに解消されるであろうと、私は信じる。
 第二部の執筆担当は、小林喜三男氏。世の多くの教師がこの方法を自己のそれとしてマスターするためには、実際に、まず、「どんなことからはじめるべきか」についてそこに語られている。理論と実践との統一点を求めての、そういう視点からの現場人へ向けてのアピールである。この書物において志向されている基本的課題にとって、キイ・ポイントをなす部分だ。書くほうの側からいって(あるいは人選の面で)大変むずかしい箇所に当たるわけだが、現場の内側から現場人に訴えるという姿勢をつらぬくことで、もののみごとに氏は所与の課題にこたえている。豊富な指導体験をもったヴェテランの風格である。
 こうした第一部、第二部の強固な土台の上に、第三部・第四部の、実践例の裏づけによるこの方法への手引きや、個々の方法的基礎作業の方法論的位置づけがおこなわれる。紙幅の都合でほどんど内容にふれえないのが遺憾だが、執筆者、武部優子氏・松山市造氏他十氏。
 で、たとえば右の執筆者に関していえば、益子広則氏なら益子広則氏、大木正之氏なら大木正之氏というそれぞれ別個の教師の主体、教師の個性を通すことで、またたとえば『手ぶくろを買いに』と『走れメロス』というそれぞれ別個の個性をもった作品を通すことで、一読総合法の実践形態が現実にかなり異なった様相を呈している。ということが、じつは児言研の提唱するこの方法理論が、先々、より弾力性のある、よりダイナミックな性格のものへと自己成長をとげていく内在的な契機を示すものとして私は評価している。巻末の、小松善之助氏の<一読総合法が生まれるまで>は、戦後民間国語教育運動史の断面を所与の課題の中に的確にとらえた力編。 (明治図書刊・B6・二一八頁・五二〇円)
 (国立音楽大学教授)
熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955~1964(昭和30年代)著作より1965~1974(昭和40年代)著作より