岐路に立つ国語教育 |
熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
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国語教育時評 13 |
“事件屋”的感覚を排撃する (初出:明治図書刊「教育科学 国語教育」1966年5月号) |
はじめに すっかり長居をいたしましてと、挨拶をすませて表へ出たとたん、忘れ物を思いだしてまた引き返すときの、そのバツのわるさ。しらけた気持。いまの私の気持がそれに似ている。読者の方々には、前々号で“さよなら”を申しあげたばかりなのだから。 私としては3月号を最終回に、この欄の担当をおりたつもりになっていた。ところで、先ごろ、編集部から連絡があって、隔月執筆という条件でもう一年、という話。ヴェテランの寒川道夫氏がカジ棒をとってくださるのだというし、筋はそちらで通してくださるということらしいので、お引き受けした。一徹な寒川さんのことだから、私の書いたものが気に入らなければ、“時評の時評”ぐらいのことはやりかねないだろう。そういうことにでもなったら面白いぞと、そのとき私は考えていた。 が、ありていにいって、今の私にはまだ、“おりた”という気持のほうが強くて、時評への気がまえができていない。継続第一回の今月はそこで、少し我儘をさせていただくことにする。今回は直接私自身に関係したことで話を追ってみることにして、気持のモヤモヤをなくしたいのである。胸にわだかまるものがあっては、時評が時評にならないからである。 かぎられたスペースである。はたして、その全部にふれられるかどうかは、わからない。実際に書いてみないことには見当もつかない。が、ともかく、この号で取材できたらと思っているのは、次の諸論文や記事についてである。 ・国分一太郎氏「文学教育の可能性」(文教連編「文学教育」創刊号)他取材のしかたは先刻お断りしたように、多分に自分本位だ。今回のこの我儘な企画のたてかたについては、かさねて読者の寛容、お目こぼしをねがっておく。 アンチ教科研・統一戦線の結成? 年余、私の心の片スミにわだかまっていることがある。いや、実はすかり忘れていたことなのだが、私や私の所属している研究サークル(文教研=文学教育研究者集団)に対する分裂主義者よばわりや、その“反動性”ないし“反動化への危険な傾向”への熱っぽい調子の攻撃を、教科研なり日本作文の会の機関紙などで目にするにつけ、そのこと を思いだすのだ。あのとき、すぐにも相手の――というより、相手のことばがひき起こすかもしれない世間の誤解をとくというか、ふせぐ努力を私たちがしていたなら、という悔いとともに思いだすのである。上記の「文学教育の可能性」という文章の中での、国分一太郎氏の発言がもたらす(もたらした)世間の誤解についてである。 国分氏のそこでの批判は、「熊谷孝氏のけんか早い」性格についての批判にはじまり、そのけんか早さの実証としての「熊谷孝氏と大久保正太郎氏、菅忠道氏がけんか」した話だとか、それでそば にいた「小心のわたくし(=国分一太郎氏)はびっくりした」話とか、そういうエピソードをまじえながら、やがて熊谷や荒川有史たちが、文教連(当時、文学教育の会)を割るという分派行動に出た後、こんどは日生連に泣きを入れて、どうかオレたちの身柄をたのむ、といって川合章氏(当時、日生連副委員長)を困らせた話だとか、文学教育運動裏ばなしふうの、バクロ読み物的な叙述による批判であった。 ことは旧聞にぞくする。一年もそれ以上も前の国分氏の旧稿をここに持ちだすのは私の本意ではない。だが、暗々裏に国分氏の書いたこの記事を生き証拠にしたみたいな、私たちに対する批判(というより非難)がずっと、おこなわれてきている。いまも、おこなわれている。世間の疑惑の目が私たちに向けられている。早い話が、某出版社、また某々出版社――ある系統の出版社やジャーナリズムからは、“要注意”ということで、締めだしをくっている。これ以上に“真相”にふれると、第三者に迷惑をかけるし、“裏ばなし”じみてくるのでやめるが、事実そういうことなどもある。 どうも周囲の誤解や疑惑は深まる一方のようだ。そして、このことが今では、民間教育運動に支障をきたすような、民間教育研究団体間の感情のもつれ をあおることに一役買っているということがあるとすれば、責任上、私としてはある程度に(第三者に迷惑のおよばない範囲で)事実を明らかにしなければなるまい。国分論文への取材を思いたった理由だ。 そんな気を私に起こさせた直接のキッカケは、ところで「教育国語」bR掲載の奥田靖雄氏の文章だ。原文がいま手もとにないが、次のような意味のことを書いていた。「熊谷は、民間教育研究団体よ、友好的であれ、というようなことを口にしているが、かれにそんなことをいう資格はない。熊谷こそ文教連を割って、文教研というちっぽけな団体をこさえた張本人なのだから」云々。どうも、こんなふうに、からまれたのでは、国分氏の原典(?)にかえって、真相はこうだということを(問題があらぬところに波及しない範囲で)明らかにしておく必要がある、と思わされたわけなのだ。 さらに、同誌bS掲載の奥田靖雄氏の上記の論文を目にして、ハラがきまった、という思いなのだ。荒木繁氏の論文「文学の授業」(――その論旨の概要については、本誌1月号の拙稿参照)を相手どって奥田氏は、次のようにいう。 ――日生連、児言研、文教研と、アンチ教科研のグループがみごとに隊列をくんだ。ここに文部省がくわわると、完全な統一戦線ができあがる、云々。なんとも奇妙な発言である。教科研に盾(たて)つくヤツは、みんな反動だ、という論法なのだ。 アンチ教科研、イコール反動だ、という考え方も狂ってるが、さらにおかしなことは、奥田氏なりだれなりその個人の個人意見に異をとなえる者は教科研に盾つく者であり、したがって反動である、という考え方にすべっているらしい点だ。思い上がりも、はなはだしい。児言研や、日生連にしろ、また文教研にしろ、この私にしてからが教科研を敵だなどと思ってはいない。私自身の場合についていえば、たまたま教科研の一会員であるところの奥田氏個人の上記のような考え方には賛成しかねる、というまでのことなのである。 もし、私に、教科研という団体に対する不満があるとすれば、それは、一連の他の民間教育団体をこうして反動よばわりするような文章を、三号もつづけざまに掲載して反省するところのない、その常任委あるいは編集委の態度についてである。 私には、どうにも理解がつかないのだ。もし私なり、だれなり、文教研内部の者が、奥田氏みたいな発言をしたとしたら、徹底した相互批判・内部批判がそこに巻き起こるに違いないのだ。だいいち、そんな文章を機関誌に載せたりはしない。あえていうが、この現状では、教科研国語部会の内部には、民主的な大衆団体・民間団体らしい内部相互批判の精神が欠けているか、批判の自由がそこにはないらしい、というふうに見られても仕様がないように思われるのだ。 ところで、また、同じ文章の中で奥田氏は次のように書いている。 ――こういう状況のなかで、熊谷孝君が児言研の積極的な支持者になり、児言研は自分たちの「一読総合法」の理論的なささえをその熊谷孝君の経験主義的な、直観主義的な文学理論にもとめた。その熊谷君のたちばに同調して、荒木君は日生連の名のもとに教科研・国語部会との戦闘を開始したのである。(中略)荒木君は熊谷君をまねて、こうかいている。「文学の授業はなによりもまず生徒・子どもの文学的経験をなりたたせることだという命題は、しっかりおさえておかねばならない」云々。読んでいて顔が赤くなった。児言研や荒木氏たちに対して、何だか私が悪いことをしているみたいな気がしてきて――これじゃ、まるで、民間教育運動の中で私の演じている役割は、アンチ教科研グループだか、アンチ奥田ラインだかを固めるしっくい みたいな感じになっているではないか。私という人間はまた、すごくマメで、あっちこっちと、くるくるとび回って策謀する、いっぱしの策士という印象になってくるではないか。冗談もほどほどに、と申しあげておく。 誤解もいいところだ、と思う 以下、国分一太郎氏が上記の文教連の機関誌に書いた文章の一コマである。 ――日本文学教育連盟の前身であった「文学教育の会」ができたということについては、熊谷孝氏の『文学教育』が刊行されるというキッカケがあった。その出版記念会があり、このさい文学教育の研究会をつくるべきではないかとの話がもちあがった。熊谷孝氏としたしい大久保正太郎氏と菅忠道君から、わたくしに話があり、お前が席上で提案してほしいということであった。熊谷孝氏も期待しているということだった。バカ正直なわたくしは引きうけた。熊谷孝氏が、わたくしなどを、勉強たらずのろくでもないやつと、多分内心でおもっているだろうことは、うすうす感じていた。しかし教育界のうごきが、そうむいていることも考えて引きうけた、云々。こっちが恥ずかしくなるような話だ。言うことなし、である。 ――会(文学教育の会、後の文教連)は発足し運動ははじまった。熊谷孝氏自身はあまりでてこなかった。しかしお弟子さんといえるひとびとがでて来てくれるので、ひとまず安心していた。ところで、いつのことだったろう。「文学教育の会」から荒川有史君たちの仲間が、わかれていくことになったときいた。しげしげと出席せぬわたくしは、その理由をうかつにも知らずにすごした「文学教育研究者集団」というサークルが、あっというまにできてしまった。いく月かたってから、日本生活教育連盟の川合章氏から、云々。文教研が「あっというまにできてしまった」云々。これでは、なるほど計画的な陰謀だ。“分派”文教研の印象は、こうして生まれた。いや、作られた。 ところで、事実は次のとおりだ。文教研は、文学教育の会の成立以前に成立していた。<サークル・文学と教育 の会>というなまえでだが。熊谷や荒川有史や福田隆義たちが<文学教育の会>で仕事をしていたじぶんも、このサークルはずっと、つづいていた。熊谷たちが<文学教育の会>を退会したあと、このサークルを「ちっぽけな団体」(奥田氏)に改組して<文学教育研究者集団>と改称した、というだけのことなのである。集団のペラペラな機関誌は、だから<サークル・文学と教育 の会>のころ同様、「文学と教育」という誌名で通している。 で、文教研の機関誌であるこの「文学と教育」の最近号(37・2月刊)には、文教研の成立(改称)の事情が次のように書かれている。 当事者の弁 ――<サークル・文学と教育 の会>のころの私たちは、いわば運動第一主義だった。サークルの場を運動自体の場と考えて行動した。可能なかぎり多くの人によびかけ、可能なかぎり多くの人びとを集めて会合をもった。(中略)それはそれなりに、十分意味のある会合であった。が、会合をかさねることが学習や研究のつみかさねには必ずしもならなかった。サークルのレギュラー・メンバーは、もっぱら裏方さんで会の設営に追われ、勉強も何もあったものではなかった。紙幅が尽きた。国分一太郎氏の次の指摘について、ひとこと。 ――いく月かたってから、日本生活教育連盟の川合章氏から、「文学教育研究者集団」が、「日生連」に近づいてきていて、これに包括してくれといってきているが、文学教育の運動上はどうか、民間教育運動の統一上はどうかと、たずねられた。(中略)なにか対立抗争泥仕合のもとになるのを川合章さんは心配しているようだった、云々。ハッキリいうが、事実無根である。文教研を日生連に包括してくれ、と頼んだ事実はない。文教研が3年ほどの間、日生連と共催の夏期合宿研究集会をもったことはあるが、国分氏の指摘するような意味で頼んでそうしてもらった、という事実はない。文教研の前身である<サークル・文学と教育の会>のメンバーの半数以上が、日生連の青年部ともいうべき全青協(全国青年教師連絡協議会)の文学部会の会員だったし、私個人に関していえば、10年前から、その文学部会や、ときとして日生連の国語部会を夏期・冬期の年度大会のおりに講師とか助言者というかたちで手伝ってきていた。そういう関係が文教研の成立以前からであった。 さて、文教研だが、それは上記のように、むしろ「ちっぽけな団体」の性格に徹し、わが道をゆくという仕方で、学習を同志的につづけていこうとする者の集まりとして成立した。何を好んで他の団体に「包括してくれ」などと頼みこむことをしようか。他の団体への参加・加入は、サークルのメンバーの自由だ。現メンバーの中にも、文教連や日生連に加入している者もいる。また、他の団体から“留学”と称して(むろんジョークだ)文教研に参加している者もいる。つまり、それでいいのではないか。オレは教科研、お前は文教研だといって目くじらを立てる――そのこと自体が異常なのだ。 話を、もとへもどそう。川合氏がウソをいったとは私には思えない。各。国分氏がウソをいうはずもない。多分、聞きちがいだろう。あるいは、記憶ちがいだろう。文教研のメンバーが全員そろって記憶ボケしているのでないかぎりは――である。 |
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