岐路に立つ国語教育
 熊谷 孝著『岐路に立つ国語教育――国語教育時評集』より
国語教育時評 10
教材と指導過程の問題
  (初出:明治図書刊「教育科学 国語教育」1966年1月号)


   あきらめと隣りあわせに

 いちどウチの学校を見にこないか。授業も見てほしいし、自分たちの授業プランや教材研究プランについても、いっしょに検討し考え合ってほしいのだ、といったおたよりを、よく未知の読者の方々から頂戴する。私みたいなシロウトが出かけてみたところで、どうということはない。得るところがあるのは私自身のほうであって、相手方ではない。――というようなことは重々承知していながら、日程のくり合わせのつくかぎり、(文字どおり)おじゃま することにしている。現場の空気を吸いたい一心である。
 先月から今月へかけて勤務先の学校がどこも芸術祭だ、文化祭だ、体育祭だと行事つづきでヒマがつくれた。小学校、中学校あわせて都内・近県の学校を11校たずねた。
 さて、そんなふうに近県各地の現場をシャベリあるきしていて耳にしたことはいろいろだが、直接、国語教育や国語の授業に関係したことでほぼ共通して話題になっていたのは次のようなことだ。
 (1)現在のテスト体制が国語の授業を実
(み)のないものにしていることへの嘆きと、いきどおり。(2)教科書教材のありかたに対する不信・不満。(3)中央 (ということばを現地の先生方は使っていた)の国語教育論議が対症療法的な指導手順論に終始していて、それゆえに、かえって「現場の実践とは縁の薄いもの」になっていること。(4)三読法や一読法の問題にしても、そういう方法に問題があるというよりは、文学なら文学を(文学という性質において)まっとうに文学としてつかんでいるか、という対象の問題を疎外して、指導手順のパターンの問題として一読法か三読法かというかたちの論議になっているのは自分たちとしては受け取れない、云々。これは、悪しき方法主義といってよいのではないか、云々。
 (5)指導書をなぞったみたいな、あるいは、それを色揚げしたみたいな官製の国語教育理論は、現場の指導の実際や苦悩を素通りしたところで論理が組まれているという点で、とてもいただけたものじゃない。が、一方、民間教育研究団体がわの主張も声ばかり大きくて中身がない感じだ、云々。(6)そこには、官製理論打倒の「姿勢」だけあって、その姿勢と見合うような「実証」と「実践」に欠けるものがあるように思うが、どうか。(7)また、民間教育研究団体間の「中央」でのいさかいは、こうして毎日を山の中で子どもたち相手に実践をつづけている自分たちの立場からは、バカげているというか、いい気なものだ、という気がしてならない。自分たちの中にも、いろんな民間団体に所属している者がいるが、あんなバカバカしいむしり合いはやらない。「あれはマンガですね」云々。

 私としても、ずいぶんと耳の痛い話を聞かされたわけだが、またそれだけに勉強になった。上記(1)の問題については大体、本誌5月号や12月号の時評で取材したような内容の話題だった、とご承知いただきたい。(2)の問題についての大綱も、11月号の時評で取材したようなことだ。ただ、ここで話題の教材の問題に関して私が一驚したのは
(驚くほうがどうかしている、と言われれば、それぎりの話だが)、検定教科書というもののあげている実際の効果についてであった。教師大衆を暗いあきらめ に追いこんでいる、その実効と実績についてである。
 現地の会合では、11月号の時評に取材したような、文学作品の悪しき教材化による教科書掲載の問題が期せずして話題にのぼった。たとえば、『ごんぎつね』や『トロッコ』『山椒大夫』などについて、また、ずさん な訳文による『最後の授業』『はだかの王様』『いっすんぼうし』などの教材について。その点に対する不満は参加者全員のものだった。それは、どこの土地の会合でも一様に起こった不満、むしろ検定教科書に対する不信の声であった。
 にもかかわらず、現地の多くの先生方の構えは、@そういう不満は不満として、
(いわば内心のつぶやきとして)そっと抑えておこう、というのである。A「われわれ現場教師は結局この教科書教材を使って授業をやるほかないのだから」というあきらめ に立とうとするのである。そういうあきらめ に立って、B「この教材で教育効果をあげるためには、一体どんなふうに指導手順を組んだらいいか」を考えよう、というのである。
 これが「現実的」な考え方であり、「現場的」な発想の仕方だ、とこの先生方は考えているのである。私は、現地の座談会で口にしたとおりの不遜なことばを、あえてもう一度ここでくり返そう。「あなた方は、飼いならされないつもりでいて、みごとに飼いならされている。」先生方のそういう努力は、カミソリかナイフで杉の大木を切り倒そうとするぐらいに、むなしい努力である。必要なのはオノだ。ここで、どうしても必要なのは、みょうな小細工をほどこさない、まるごとの文学 作品なのだ、云々。
 片手、片足、片肺の、胃袋は残っているが腸は切り取ってしまったみたいな、文学作品の残がい を教材にして、一体どんな授業ができるというのか。結果は、新出漢字をおぼえさせたり、語句の意味を通りいっぺんのしかたで教えながら、そこでの話の筋を筋として追うだけの読解作業に終わるほかないだろう。せいぜい、文と文とのつづきがらや、文中のことばのあや をとり出して味わう、といったことで、説明文ではなくて物語文を扱った
(物語文を扱う扱い方で物語文を扱った)という満足感をおぼえるいうふうなことだろう。
 せいぜい、そんな扱い方しかしていないのに、先生方の指導案を見せてもらうと、「この箇所で、この教材
(作品の意)の感動点を生徒につかませる」とか、「作品の主題を確実に理解させる」などと書かれている。矛盾というべきである。だいいち、骨抜きにされ、ズタズタに寸断され、改悪された教科書掲載のこの作品の対して教師その人が感動していないのである。主題なんか、とっくに、どっかへ行ってしまったことを、教師自身実感しているのである。だから主題は何かもないものだし、どんな感動が湧いてくるかもないものだ。そういうことにならないだろうか。
 いや、そういう矛盾が指導の内がわにひそんでいることは、ほかのだれに言われなくとも先生方自身が先刻承知していることである。また、満足感云々といったが、現地のこの先生方の場合、それがじつは自己満足ないし代用満足にすぎないことも、自身に百も承知しているのである。もともと、やる気でいっぱいの現場人をつぎつぎに、こういうあきらめ と隣りあわせの心境に追いこんでいくものに対して、すごくハラが立つ。
 と同時に、各自めいめいの、眼の前の子どもたちをオシャカにしないために、先生方にもやはり、もうひとふんばり してもらわなくては、という願いを私としては持たざるをえないのである。教師には妥協できない一線がある、ということなのだ。さし当たって、教材は教師の武器である、ということの確認である。教材がそこにあるのではなくて、まず作品があるのだということ、それを教材化 するのは教師その人の仕事だ、というような点の自覚・確認である。納得のいく教材に拠らなくては、納得のいく授業はできないのである。ではないのか。

   特筆にあたいする荒木論文

 「日生連
(日本生活教育連盟)の運動が、荒木繁氏のようなすぐれた理論的指導者をえて、国語教育の分野へ手を染めはじめたことを、木村(敬太郎)氏の論文内容は示している」云々、と10月号の時評に書いた。ところが実態は、手を染めはじめたどころの話ではなかった。10月末刊行の「生活教育」の別冊『文学をどう教えるか』を読むとわかるが、年余にわたってすでに国語教育への本格的な取り組みがおこなわれていたわけだ。
 この本は、@文学の授業
(その原理・課題・方法)、A文学作品の教材研究、B文学の授業記録、という三部構成の体系的叙述によるものである。執筆者は上記、荒木・木村両氏のほか、森久保仙太郎・反町守治・石川清・大竹美千代・和田徹の諸氏。いずれも日生連・国語部会所属の、(日生連の実験校)和光学園のメンバーである。
  ――今日、日本の国語教育界にはさまざまな主張が乱れとび、文学と教育の本質にたちかえった論争ではなく、感情的対立技術的段階での対立が大きく前面におしだされているような印象さえうける。そういう状況のもとで、本書が公刊されることの意義はきわめて大きい。
 これは、日生連委員長である川合章氏の「まえがき」のことばだが、この本の内容を一見した場合、あながち自画自賛の弁とだけはいえないように思われる。とりわけ、上記荒木繁氏の『文学の授業』という巻頭論文についてみれば、それは川合章氏のこのことばを裏書きした内容のものになっている。
 その所論の位置づけをひとくちにいえば、
(戦後の文学教育にレールを敷いたと評されている)往年の荒木氏自身の主張――問題意識喚起の文学教育〈注〉を、現時点の問題として再組織し、いっそう精緻に体系づけたものといえよう。それは、「生徒・子どもの主体を重視し、かれらの問題意識を手がかりとして、その文学理解への道を開いていこう」という発想に立つものである。
〈注〉 日文協・53年度大会における荒木氏の報告『民族教育としての古典教育』他参照。
 荒木氏の所論は、前項(「あきらめと隣りあわせに」)に紹介した。各地の現場が提出している問題に直接間接にふれているような点も少なくない。ということもあって、以下、紙幅のゆるす範囲で論点をいくつか拾ってみることにしよう。

 この論文は、@<はじめに>、A<教材と生徒・子どもの主体>、B<文学教育の方法>の三章から成り立っている。@は、いわばABの所論のレジュメだが、氏はまず冒頭に、文学の授業は子どもたちの文学的経験を成り立たせるためにおこなう作業だ、という考え方を提出している。それは文学的経験のためのいとなみなのだから、その作業を「読解作業一般の中に解消してしまう」ことは許されない。「主題を抽出したり、表現上の特色を見出したり」する「そのような分析的作業の前提として、文学的経験がなければならない」というのである。
 荒木氏の」考える「文学教育の理想的状態」というのは、読むべき時期に読むべき作品を読むということ、「教師のがわから言えば、そのような作品を生徒に向かってさし出す」ような形のものに文学の授業がなることである。「それにくらべると、指導過程などはつぎのつぎの問題だと考えないわけには行かない」云々。――これは、かなり思いきった大胆な問題提起だと思う。
 大胆な発言だとは思うが、
(私自身、同じような考え方をしていることは、この欄のレギュラーな読者の方々はご熟知のことだろう)「文学というものは、教えこまれるものではなく、自分なりの力で発見するしかない」ものだという前提に立つかぎり、やはりそう考えるほかないのではあるまいか。このようにして、「文学の授業の第一の仕事は教材の選択であり、生徒の発達段階に即したその系統的配置であり、文学を受け入れる生徒・子どもの主体の準備と形成である」ということになるだろう。
 この辺から第二章の叙述に移るわけだが、こんにちの文学教育の困難さの一つは、教科書統制の強化による、教材選択の自由が奪われていることだ、と氏はいう。一般的には、まずそのことが言われなくてはならないが、そういう自由が保障されているような学校にあっても、なおかつ、そこに困難が横たわっている。「困難さはむしろ生徒の主体のがわにあるのである。」そこに選ばれた、すぐれた意味でup-to-date な作品も、それを受けとめる生徒の主体のぬるさ のゆえに反応が逆になってしまう、という困難さである。だから、文学教師の仕事は、必然的・必至的に「生徒の主体づくりをも含みこむ」ものにならざるをえない、と氏はいうのである。
 ここで注目にあたいするのは、
(もし私の読みちがえでなければ戦前の生活綴方教育が果たした役割を「現代の状況」の中で受けつぐもの(受けつぐべきもの)は文学教育である、という発言を氏はおこなっている点である。 
  ――かつての生活綴方教育では、子どものすなおな観察眼をひらいてやれば、そこには地域社会の矛盾というものは可視的なものとして露呈され、それをのりこえていく方向づけもなされた。(中略)しかし、現代の状況の中では疎外現象は生徒や子どもの内部にも浸潤し、主体の解体現象をおこしている。(中略)それは、私たちの全人格的な教育をいちじるしく困難にする条件ではあるが、同時に、困難ではあっても、それが私たちの教育がとりくまなければならない課題であるし、文学はすぐれてそういう課題にとりくむことのできる教科であるとはいえないだろうか。
 文学の授業過程は、教材と子どもたち(読み手)の状況との関係に応じて、ケース・バイ・ケースのかたちで組まれなくてはならない。だから、こと文学の授業に関していえば、「これが唯一絶対だというような授業過程のパターンはない」という主張が第三章の中心テーマのようである。そういう視点からして、そこでは教科研の授業過程論が手きびしく批判されている。(1)教科研理論は、その理論自体からは「教材選択の基準は出てこないし、その弱点は教材論を持ち合わせていないこと」だという点と、(2)「この理論がきわめて客観主義的傾向を持っていて、読み手の主体性がいちじるしく軽視されている」点についてである。
 右の第二点に関して荒木氏は、
(『平家物語』の読解に事例を求めつつ「ひとつの作品には、それにふさわしいひとつの読みかたしかない」とする宮崎典男氏の所論を相手どって)次のように論及している。
  ――宮崎氏によれば、客観的真理(正しい読みかた)は読み手の主体の外に厳然として存在しているかのごとくであり、読み手は形象を知覚しつつ、形象の体系をさぐる中で、作品の主題・理想に一歩一歩近づいていけるのだという素朴な確信があるように思われる。宮崎理論によれば、読み手の主体は主観的なものとして排斥され、文学には主体的な読みとりをとおす以外にはルートはあり得ないのだということが顧慮されていない。
 ――宮崎氏は、これまで無数の学者によってさまざまな異なる平家論がつみ重ねられて来た歴史を知っているのであろうか。(中略)少しでも平家研究に足をつっこんでみた者なら、宮崎氏のような簡単な断言をすることに誰しもためらいを感じるであろう。
 ――宮崎氏の理論の根底には、教師は客観的で完璧な作品理解を持っており、生徒を一歩一歩そこに近づけていくのだといった誤れる科学主義がありはしないか。それは自惚れた教師根性にもつながるものであり、云々。
 荒木氏の論点について、私としてまったく疑点がないわけではない。紙幅の関係で引用しなかったが、たとえば原理と方法との関係・関連などに関して――。が、この点の詳述は他日を期したい。ともあれ、荒木論文は、文学教育の視点からする画期的なものであり、近年まれにみる収穫である、というのが私の実感である。必読の論文。



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