筑摩書房刊「国語通信」75 1965年4月号 掲載 |
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〈座談会〉 文学教育の基本点--
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文学教育の可能性と限界性 寒川 実はこの間、福岡での日教組教研集会の国語教育分科会に出席したんですけれども、以前には文学教育とは一体どういう意味を持つものであるか、そのためにはどういう作品を持ってこなきゃならないか、それからその指導過程はどうでなければならないかというような、かなり基本的な問題から掘り起こされてきていたんですが、二年間出席できないで、ことし出てみましたら、非常にそういう問題のとらえ方が違ってきていることを感じました。 と言うのは、文学作品の受け取らせ方については、三日半ばかりの分科会のうち、二日半というものは、もうすでにある作品を、どう受け取らせていくことが正しいか、という教授過程論にウェイトがかかり、いろいろな実践報告の中からそれを探り出すということに中心があったわけです。 以前には非常に一生懸命に語られた作品論、こういう社会状況の中でこういうふうな子供たちを育てたい、それにはこんな作品がいいんじゃないか、あるいはこういう作品を読ませてみると、子供たちはこんなふうに考え方が変わってくるというような、そういう作品論というものが極めて微弱だったのです。とにかくそこでは疑問なしに、文学作品をいきなり投げ出して、この作品はこういう作者の意図または主題であり、こういう表現である、――形象ということばを使いますけれども――だからその形象を読み取らせることによって主題に迫っていくにはどういう手だてが必要であるか、どういう手だては間違いであるかということだけが非常にこまかく取り上げられ、――それも確かに重要な課題ではあろうと思うんですけれども、――文学教育の基本的な問題は、すっかりネグレクトされてしまった格好だったと思うんですね。 やはりここで、文学教育は国語教育の中でどういう意味を持つものであるか、ことに<期待される人間像>なんというものが出てきて、文学教育と言えばいままでは人間像と言いますか、どういう人間をつくっていくのであるか、そのためには毎日の生活をどういうふうにとらえていき、考えていき、自分で生きていくか、――このことをみずからのものにしていく力を養うように言われてきたわけで、ただ単なる日本語の内容とか特質とかというものを教えていく国語教育だけでなくて、まさに人間をつくるという意味においての文学教育の重大性をないがしろにしてはならないと思うのです。まずここで、やはり文学教育とは一体何であるかが問われ、そしてそれに答えるということがおのずから文学とは何であるかということを裏づけていくことになるであろうと思うんです。そこから、では、その作品を子供たちのものにしていくために、どんな手だてが必要であるかということが導き出されてくるんだと思うんですね。 先ほどの雑談では、「国語通信」69号座談会の伊藤整さんの話の中の、文学教育なんかやってもらいたくないということが出たんですけど、作家の立場からするとそうかもしれないが、われわれは、やはり教師の立場として、しかも豊かな人間を育てていくためには文学が大いに力になるんではないかと、文学に対する非常に大きな信頼を寄せている教師の一人あるいはグループですがね……。結局文学教育というものは成立しない、作品と読者とがじかに触れ合うだけであって、それを媒介するところの教師の存在というものは認めない、あるいは教師の存在があることによってむしろ間違った文学の受け取り方がされるのではないだろうかという考えは、あえて作家の場合でなくても出ていないことはないわけですね。 熊谷 これは何というかしらん、人間が赤ちゃんの時から、少女・少年時代を通じて成長してきて、一人前だか半人前だか知らぬけど人間になっていく、そういうプロセスがやっぱり教育のプロセスだという考え方を、ぼくらはとるわけでしょう。つまりそれは何か積極的な教育的な意図を持って指導する場合と、そうではなく何かその本人、子どもという主体が、何かを環境からくみ取っていくという場合を含めて、何か教育のなかに人間が形成されるというのは、これは自明の事実だと思うんですね。よく知りませんけれど、ソビエトの場合なんか、「模倣に始まる」と言いますか、――単に独創というのはないので、つまりそれは文化遺産の継承とか、人間のさまざまの文化的財産の受け継ぎという問題とからんでくるのですけど、――模倣ってことを基盤に考えるんでしょう。この場合、文学教育は可能か不可能かという問題は、「可能にきまっちょる」ということが、まず言われなきゃならないと思うんです。 だけど問題は、きょう伺った限りで言うと、非教育的な教育のしかたでもって文学が与えられてきたというところに問題があるわけなんでしょうね。文学教育という名前の、文学教育でない文学教育が行なわれてきたということと、つまり文学的認識が主体化されて、――こうなると大河原先生のほうの問題になっていくけれども、――「状況を変革していく」というふうなものが生まれりゃいいんだけど、それと反対のものをつくるみたいな非教育的な文学教育がなされてきたという現実が、何か前提にあるんじゃないか。これは明星みたいなところは別ですけれど、何か一般の小中学校の文学の授業というものをみて回ったりして実感するのは、あ、あれが文学教育だ、ああいうやり方でやるんだったらやめて欲しいって思うことがあるんです。ほんとうに何か妙な文学教育をやるんだったら、……教師が生徒と一緒になって理屈をこねたり、この段落はどうの、これの主題はあれだのなんて押え方をする、妙な押え方の授業をやるくらいなら、ただ一緒に読んでいく、それからこんな本を読んでごらんという読書指導の形での文学の読ませ方とか、そういうほうがよっぽどましだということは、ぼくも実感しますね。だから文学教育ははたして可能かってことね、そこを押えるところから今日文学教育は出発し直していくという考え方ですね、確かに。 大河原 確かに最近、伊藤整ばかりじゃなくて国語教師は書き取りだけ教えていればいいというようなことが、去年の何月号でしたか新潮に作家側からの発言として出ていました。その場合に、そういう実作者がどういうふうな概念で文学教育をとらえているかをが逆に聞きたいわけなんです。確かに作品の構造分析のようなものを教授過程的にだけやっていくというようなことだけだと、そう言われる面が出てくると思うんですけども、しかし、僕はやはり文学はどこにあるかというところから、もう一度考えてみたいと思うんです。 子供たちが作品を離れて、そして自分の回りを文学の目で見抜いていく、そういうようなところにも文学教育の文学がなくちゃならないし、むしろそれが主要な領域なんだと考えていくとき、文学というものはもっと国民一般のものであって、そういう実作者の側の発言には一面の真理を持ちつつも、またさっき熊谷さんの言われたような点では確かに共感する面があるんですけども、同時にこれは実作者の一種のなわ張り根性じゃないか、という面を感じないわけにはいかない。やはり子供たちの中における文学というものを、もう一度われわれがしっかりと確認しながら進んでいきたいと考えるんですけどね。 寒川 いままで学校の中で文学作品が取り扱われてきた場合には、まさに文学作品の持つ人間形成力と言いますか、そういったものをある一つの、ためにする内容でとらえて、たとえば、作品に触れて子供たちに非常に思いやりの深い人間にしてやるとか、あるいは自己を犠牲にしも大ぜいのために何かするというような人間にしてやるとかというような、いわば道徳教育的な面が非常に強かったし、それからもし、その人間の心の弱さとか、あるいは実はもっと本質的な人間性なんだけども、大河原さんが<学校の論理の中で>ということばで触れられていたその<学校の論理>だけしか作品というものがとらえられていなかったし、その路線に乗らないような指導というものは認められなかった。だから文学作品というものが、全く広い人間性を開拓していき、その立場から社会の問題や歴史の問題をとらえていく目を開いていくというものじゃなく、いつも何かためにする非常に細々とした道に子供を追い込んでいく一つの手だてとして考えられておったようなことがあって、それがさっきから大いに、あんな文学教育ならやらないでほしいという反論に、なってきているんじゃないかと思います。 熊谷 結局、ぼくは文学教育の限界というところから、限界を文学教師自身が確認するところから、文学教育は始めるべきだというふうに思うんです。 寒川 限界っていいますと……。 熊谷 文学というのは結局、究極においては、自分で、めいめいにわかるほかないものなんだということなんです。ぼくはいつかもある機会に問題にしたんだけど、いまの教師というのは、ある作品をつかまえて、その作品を何かすみからすみまでわからせちゃう、わからせちゃうことができるんだ、何かそういう迷信に立って、授業が進められていると思う。たとえばアンデルセンの童話を小学校の三年だか四年だかでやったいたんですが、それですっかりわからせちゃうというのは、ぼく、めちゃくちゃだと思うんですよ。確かに幼いときに一ぺん読んでおかなくちゃなりません、……だけど、それを先へ行って、育った心で読み返すというところで、それが何かめいめいのあり方で、自分のものになっていく、何かそういう性質を持っているんだということを押え、そういう前提に立って、教師は、では何を教室で行なうべきか、そこからいきたい、いくべきじゃないかと思うんです。 大河原 その点は全く同感ですね。確かにぼくは、やはり子供たちが学校を終えても将来職場へ入っていく、そういう人生のずっと将来までを考えて、そうしてその中で常に文学が子どもたちのものであるように、子供が成長したその状態の――おとなですね、――ものであってほしいという願いが根底になくちゃ、文学教育に対するほんとうの構えというものは出てこないと思う。そういう点で、作品を必ず手にして読む、どんなに忙しい職場にはいっても、将来銀行の窓口の女の子になってもとにかく作品を手にしていくという、そういうことは一つの指導の目標になると思いますけれども、もう一つ、作品も読めないというような忙しい、あるいはいろいろな条件が出てきて読めなくなっても、やはり自分の働いている場所を、文学の目で見ていける力をつけてやりたい。そこのところを抜きにしていくと、やはり弱くなっていくんじゃないかと思うんですね。 寒川 子供が、その文学の目で自分の周囲を見ていくその力を養う、……そうしたらやはり文学教育の可能性というものを考えなきゃいけないし、そこには確かに限界も考えなきゃならぬでしょうけども、そこでの教師の役割りというものは一体何であろうかということですね。 現代の状況をとらえる目 大河原 ぼくはやはり、現実を見るということがいままでよく言われてきたけれども、その現実というのはある意味であいまいなんで、むしろそれは現実の中の決定的現実というか、そういうものを特に鋭く見ていく目、――その決定的現実というのは、当然自分との関係で決定的になっているわけですから、そこに、ぼくに言わせてもらうならば、<状況>というのが出てくるわけですけれども、状況というものを、一つの環境とか現実とかから区別するところのものは、やはり自分の主体との緊張関係、テンションを非常に強く持っているところの現実とか、それをつかんでいく目を考えているんです。 ぼくはこれを微視的な状況と巨視的な状況に分けその微視的な状況というのは日常的な身の回りの状況であり、巨視的な状況というのはもっと社会を動かしている動向とかそういうところにあるものだというぐあいに考えているんです。微視的状況の中に巨視的状況が反映しているわけですけども、ぼくは志賀直哉の作品なんか、ある意味で巨視的状況が非常に弱いと思うんですね。わたしはこんどの戦争を境目にして、非常に巨視的状況と微視的状況が関連し合ってきているというふうに見るわけなんですけども、そういうような巨視的状況を、いや応なしに微視的状況の中に見ざるを得ないという現代の状況ですね、そういうところに子供たちが置かれている、そういうものを、……ですから微視的なものに巨視的なものをダブらせつつ、つかませていく、そういう指導ですね、それを作品を媒介にしてやはりやっていかなければいけないんじゃないかと考えるんです。 寒川 今の、状況をとらえていくというやつね、大河原さんのことばで言えば状況認識なんですが、巨視的なとらえ方というとき、ぼく、大河原さんの言われるこぶし型の思想というような、つまり概念できちんと押えていく、それですべてのものを解釈して価値づけていく、そういう一つの考え方、それが巨視的な見方に通ずるものじゃないだろうか、微視的な見方というのはまさに手のひら型の思想であって、ほんとうに自分の身の回りにある具体的な状況をもとにして、それでもっと一般的なものへの思考の筋道を開いていくという、そういうところでないかなと解釈しておったんですけど、その点はどうなんでしょうか。 大河原 少し違うんですけどね。こぶしと手のひらの問題についていいますと、伊藤整の場合、組織は個人をスポイルするという一つの見解があって、それが一種のパターンになって作品の中にある。そういった場合それがやはりこぶし型になるわけで、そういうふうなのが先行しているわけですね。巨視的状況と微視的状況の場合でも、確かにそれは、われわれがものを考えるために非常に重要なモメントではあるけれども、それだけでそれからハミ出すものを切っていくのではなくて、もっと現実にあるものを、自分の主体と状況のテンション、さっきの決定的現実として把握していく過程で、むしろ組織が個人をスポイルするしかたについても、どんどん新しい中身がそこから取り出していける、そういう認識ですね、それを考えたいわけなんです。だから、先に人間疎外というような一つの見方があって、それを頭に置いて自分の周囲を見ていくんじゃない、見ていくうちに人間疎外というものも、どんどん媒介されてくる、そういう関係だと僕は思うんですけれどもね。 ぼくの学校の生徒ですが、「スズメの死」という文章を書いた子がいるんですけれども、これはやはり自分のうちの黒い飼犬が庭先で小スズメを食い殺した、その屍体を手にした瞬間、これは自分じゃないだろうか、とにかく自分の生活を振り返ってみると、自分がその中にいない、自分というのは結局命を失なっている、――こういうことを、高校生がスズメの死を通して認識する。かなり図式的になっているんですけどね、やはりスズメというものと自分の飼犬との関係の中で、そういう微視的な事件を通して、巨視的な、現代の人間疎外の問題に触れてきているという関係があるわけです。 寒川 いま大河原さんのおっしゃった文学の目でものを見るということ、これはやはり文学教育の一つの目的論としても非常に大切なことだと思うんですね。それならしかし、文学の目はどうやって育てられるか。ぼくは、作品というのは、熊谷さんのことばを借りれば、われわれに準体験をさせるものだ、ぼくたちはその作品の世界に入っていくことによって、つまり作家の見た世界に導かれながら、その小道をたどっていってその世界を自分のものにしていく。だからそれは自分の身体での体験に比べればかなり脆弱なところはあるけれども、しかし身体的な体験というのは非常に限られたものなので、そういう作品の世界に導かれることによってうんと大きな世界にも触れることができる、そのこと自体が現実を深く鋭く見通していく目をつくるのではないだろうか、そういったところが、その文学の目に通ずるのではないかというような気がするんです。 だから作品を読んでいくことは、ソファーの上や、ストーブのそばであっても、酷寒のまさに極限状態における人間の生き方などというものに触れることができるし、そこでは自分が自分の身に振りかかってくるものをやはり自分の生きる路線の上に、決定づけていく、――これはやはり文学教育として非常に大切な点でないだろうか、それが文学の目になり得るんでないかと、そんな気がするんですけどね。 大河原 ぼくも基本的には全く賛成です。ただ問題は、一つの作品なら作品は、その作品の世界を体験させることによって、やはり子供たちの内部を秩序づけるということなんです。ところが、子供たちが現実に生きていく、あるいはこれから生きていく中身、その子どもたちにとってはかなり決定的な現実とのテンションを持っている部分ですね、そこのところの秩序づけに対して、非常におくれをとっていく場合があるわけですね。たとえば、志賀直哉の作品は確かにすぐれた文学教材になっていると思いますけれども、それがどの部分まで子供たちを秩序づけるか、そして、放置されているところが案外推理小説とか落語とか、そういうものによって秩序づけられ、そういう代償行為でやっていっているという形になってないか、そういうことを考えるわけです。 ですから基本的には寒川先生の言われたことに大賛成なんですけども、その辺で作品とのかかわり方に、……ぼくはそこで狭いとも言われているんですけども、やはり状況を書いた作品、あるいは従来の作品についても状況小説としてそれをもう一度見直してみる、そういう形で作品の与え方を考えていかなきゃいけないんじゃないか、というふうに考えております。 状況を書いた作品 熊谷 たとえばいま大河原さんのおっしゃった、志賀の作品は巨視的な状況の把握が弱いとか、何かそういう批判がおありだということは…… 大河原 さっき申し上げたことにまたかかわってくるんだけども、たとえばフランスのガスカールという人の「逃亡者」という作品、これなんか収容所から脱走する非常に緊張した主体を持っていると思うんですが、これが自分の主体と緊張度を持っているところの、極端に言えば、先ほど言いました決定的な現実というものだけを、書いていく。また、たとえば安部公房の「獣たちは故郷を目ざす」もやはり脱走者なんで、これも自分が生き延びるという欲求を内側に抱え、自分のそれによって出てくる利害によって、緊張関係というものだけを非常に複雑な意識の中までかいくぐりながら、それを選びとって書いている。こういった作品を子供に与えると、子供はそれによって開かれた目で自分の中を、自分の状況というものをつかんでいくというふうになっていく。たとえば、自分というものがどうしても生きていかなきゃならない、生きていくためにはこうしなきゃならないという、あいまいなことの許されない、そこのところで状況を把握しているというような文章が生まれてくるわけです。 そういう文章をなるべく書かせていくということ、これがぼくは一つの状況を書かせていくことによる子供たちの成長、人間としての成長、そこのところが文学と教育のかかわるところだと思うんですけども、そこのところを、それによって子供たちが自分というものを逆に確立していくというような、また状況に対する積極的な姿勢、それを子供たちが自分の中につかみとっていくというふうに、ねらいを置くわけです。それをぼくはそれぞれ小宇宙というようなことばを使ったことがあるんだけども、そういうふうなものを育てていく。ですから、こぶし型でこれこれの人間像という形では打ち出せない。そこのところは、むしろ子供たちが書いていった作品、作文の文章ですね、それ自体についての個々のそういう文章について、子どもがどれだけ成長したかというふうなことを問題にしていかないと、そこのところと安易に結びつけることによって、むしろ文学が死んでしまうのではないかというふうに考えるわけです。 寒川 まあ、ぼくは文学作品というものは、非常に具体的な、まさに目の前に、自分たちの生きる世界を展開していくものでなかったら、作品としての生命がないと思うんですけど、そういう具体的な作品に触れることによって、また触れることが深ければ深いほど、そこから自分の思想なり生き方なりの確信を得てくると思うんです。それを手のひらで探り出したものを、やはり「これだ」とこぶしに固めていくんだろうと思うんです。このこぶしで今度やはり自分は身の回りを開拓していくだろうと思いますね。そのときにそれと現実との角逐のようなもの、――矛盾といったほうがいいかもわからない、――その矛盾が再びこのこぶしを開かせ、探らせて次のこぶしをつくっていくのでないだろうか、そうするとぼくは、作品と現実の生活とが絶えず激しくぶつかり合う、そのぶつかり合うことはただ手をこまねいておってはできないので、やはり子供たちが現実に向かってそれを意識的に把握していく、そういう努力がされなければ、ほんとうのぶつかり合いというものは出てこないんじゃないだろうかという気がするんですけどね。 大河原さんの文学教育論を読んでいきますと、子どもに書かせることが非常にたくさん出てくるわけですね。そのことがやはり非常に大切な文学教育の筋道であろうと思うんですが、ただ作品を読んでいままで手探りで探った、この手のひらのとらえたものがこぶしになっている、このこぶしになっている行き方がやはりこの作品の読み取らせの中にあるのであろう、まさに文学教育の手だての問題が出てくるように思うんですけどね。 大河内 つまり学校の論理の中で、非常に教師が安易に学校の論理の上にあぐらをかいて、これはこういう徳目を消化させるために都合のいい作品だということから出発する文学教育に対して問題を感じているからその手のひら型の問題を出したわけです。そういうところから離れて、理論的にこれを考える場合は、寒川さんの言われたように手のひらとこぶしというのは、互いにそれこそ往復して高まっていく問題だと思います。 寒川 そこで、状況をとらえた作品ということが問題になるのですが……。 大河原 少し教材から、離れてもいいですか。一例をあげると、大岡昇平の「花影」という作品、これに対して奥野健男がこれは主人公の葉子以外は全部背景に押しやられて、葉子の白い肉体だけが全部をおおうっている、そういう永遠の美を定着させたという解説をしているんですけどね、ぼくは異論があるわけなんです。つまりなぜ葉子をそういう形で描かなければならなかったかという掘り下げ方をしていくと、実は背景とか前景という関係でなくて、つまり葉子は自己を社会化できない、自分というものを社会化しようとしてもできない、――銀座のバーの女であるという、それ自体が特殊であることもあるんですけどね、――そういう場合に、なぜ葉子を社会化できない形で書いているか、これはやはり戦後の状況の壁の厚さを、アレゴリカルに書いていると見ることができる。そうすると、「野火」とか何かを書いた大岡昇平が、その「花影」にいく過程、つながりが理解できる。「野火」は状況小説だと僕は見るんですけれども、そういうものが戦後社会の壁の厚さを、違った角度から非常に鋭くえぐり出した作品として考えられる。決してものの哀れとか永遠の美なんというところでは済まされないという別の見方が出てくるわけなんです。そういうふうにして見ていった場合に、ぼくはやはり「花影」は状況的な小説として分析にたえ得る――もちろん「花影」」そのものは教材に不適当な点がありますけれども、――そういう観点で見ていくわけなんです。それから、鷗外の「舞姫」もそういうふうにして、もう一度分析してみる必要があるんじゃないか、そうすると「舞姫」も、たえ得るものがあるんじゃないかと思っています。これは教師のほうの教材研究の一つの観点だと思うんですが、そういうふうにしてその教材の押え方、これを変えて生徒との授業の中にそれを持っていく、そういうことが必要になってくるんじゃないかと思うんです。 「本来の読者」ということ 熊谷 いまのお話に、たとえばの話で、大岡の作品じゃなくてお鷗外という過去の作品が出ましたね。いま「舞姫」でしたけど、ああいった作品をいまおっしゃるような意味で検討して、生徒の状況――何とおっしゃったかしら、たえ得る云々――つまり状況小説という視点で一ぺん見直してみて、何か生徒の現実の状況とどういう函数関係を持つか、そこを考えて、そしてたえ得ないものは教材としてカットしていく、というような意味のことをおっしゃいましたね。その場合に、これは大河原さんにとっては自明のことなんで、何かお話がカットされているような印象のことが一つあるんです。それは何かというと、私どもが言っている「本来の読者の次元」という問題に返っていくんです。 大河原 それをぜひ聞かせてください。 熊谷 いえ、至って自明のことなんですけど、何か簡単な言い方をすると、日本近代の作品というものを考えますと、生徒の状況にたえ得る作品というのは大変少なくなってくると思うんです。……何というかしら、弱者の文学というかしらん、決してやせ馬の行列の何のって持ち出すわけじゃありませんが、何か弱いことが人間的なことであるみたいな印象を与える作品の系列がずっと出てくる。だけど、実は歴史状況を媒介した場合に、つまり本来の読者の次元にまで返して考えた場合、弱く見えるものが強く、強く見えるものが実は架空の存在である、という現実にぶつかります。たとえば芦花の「思い出の記」の菊池慎太郎といった、あの主人公の人間像を考えると、彼は強いですね。絶えず逆境にめげず、自己に合致した状況をむしろつくり出しながら生きていくみたいに見えるけれども実はあれは何か架空の人物ですね。芦花自身が語っているように、自分自身と裏返しの形の人間を書いている。あれは実は、やはり架空の存在でしかない、実人生を生きる人間じゃないということが出てきます。そうすると何か安直に考えると、「思い出の記」なんてのが、文学教材として適当だと高校あたりで考えがちだと思うけれども、実は逆だという場合があるわけです。反対に「浮雲」の文三みたいな人間像とか、頭ばかり抱えている人間群像、これは何かその歴史状況の次元で考えていった場合、何か今日の無媒介な目で見て弱さを感じるということがありますが、そこのところを何か媒介する仕事というのが、文学教師の大きな任務ではないかと、私なんか考えるわけです。 それは、さっきから自明、自明と言っているんですけれども、自明の事実だし、実は教師はやっているんですけれども、小学校の文学教育なんか考える場合に、扱う作品が子供の文学のせいもあって、何かしら子供心は古今東西を通じて同じみたいな考え方が教師にあって、いきなりそれへとっかかり、いきなりわかるというか、その状況が把握できるみたいな迷信に立った教育が盛んに行なわれておりますね、その辺のところと私たちは絶えず切り結んでいるわけなんですけどね。ですから大河原さんのお書きになったもの、ぼくはよくわからなくて、いろいろ人を媒介にしていろいろ理解させていただいておりますけれども、なおかつわからないことだらけだったんですが、きょうお話を伺って、ぼくに誤解なければ全く一致したと思うんです。 ただ大河原さんが自明のこととして省略していらっしゃる<本来の読者の次元>において作品をつかむ教師の操作と、教師がまたその生徒たち、子供たちの媒介者としてその本来の読者の次元をどう媒介するかという、その辺のところに文学教師の任務というようなものの一面を感じるんです。 大河原 その本来の読者というのを、もう少し……。 熊谷 これは何か、大河原さんのこぶし、手のひらというのがぼくにはよくわからないように、お互いに少しスラングがあるのかもしれません。たとえば私はつい西鶴を持ち出すんだけれども、西鶴が生きていた時代のいわゆる西鶴文学の読者という意味ではなく、それが前提ですけれども、つまり私はそこでまた<内なる読者>というたいへんなスラングを出すんだけども、……これが第二信号系の理論へからんでくるんです。 つまり、マルクスの「私とは私たちである」という、あのテーゼへつながっていくわけなんですが、作者というのは、ギュイヨーなんかが言っているように、芸術家というのは単数にして複数だ、ギュイヨーという個人がいるけれどそれは市民とかなんとかのギュイヨーではない、あくまでも芸術家としてのギュイヨーである、芸術家としての資格におけるその作者というのは複数なわけです。ということは、現実のもろもろの人を自己に媒介した存在である、つまり彼は自己の個人的な考えとか感じとかいうものを、カタルシスで吐き出すその場が、文学の場なので、もろもろの人の思いを自己に媒介して、媒介者としてそれを外化する、媒介的外化というのが文学の表現なんだ、その考え方が基本にあるわけです。 その場合につまり作家は何か広い意味での思考活動を営むわけですが、その思考するというのは、内なる他者と語り合うという構造を持っておるわけです。作家にとっては、内にあたためた読者と語り合うという姿勢があるわけです。そういう、何か伝え合い、自己の内側における伝え合いの中で思考活動が形成されていく、促進されていくという格好が基本にあるわけです。 その場合、作家が語り合う内なる読者というのは、現実の読者の反映像であることは確かである。だけどそれはなまの反映、いわゆる鏡に映すという意味の反映ではない。これは誤解の多いことばで、あとで注をつけなければなりませんが、「そのすぐれた部分につながっていく」という公式的な言い方、図式的な言い方をすればそうなるでしょうか、そういうようにしてあたためられた読者との話し合い、伝え合いにおいて、認識・表現活動が営まれる、その内なる読者なんですがね、本来の読者と私が言うのは。 寒川 それは、作家が創作をしていく場合の心理的状況の分析、というふうに考えてはどうなんですか。 熊谷 その心理的、という意味に誤解がなければなんですが……。話が飛躍するかもしれませんけど、要するにこういうことなんです。つまり、文学作品を読むという場合、文学教育になるとそうなっちゃいますけど、読む側だけが何か変革されるんじゃなくて、作る側も変革される、そういう自他の変革、相互変革の場として考えたわけです。 その場合、その自己の内なる他者と向い合う、自分の内側で自己と相手が向い合うという場合の自分というのが、またすでに形成されたものなんだ、他者のまさにジンテーゼなんですよね。そういうことが一本と、それから問題は、もっと平たく言って、さっきの歴史状況と言いました過去のある歴史、その中でその過去の場面規定ですね、状況既定の中で、ある発言がある意味を持ってなされるわけですが、違った状況の中でそのことばだけを受けとめた場合に、つまり違った内容の発言に受けとられるということがあるわけです。その場合それを、何かほかの状況で受けとめちゃって、だからこの状況の子供たちには教材としては不向きだというふうなことになると、おしまいなんです。そうじゃないので、ほんとうにこの状況に向くか向かないかということは、無媒介にはわからない、この状況を媒介しなければわからない、そのことをぼくはきょうさしあたって言いたいわけなんです。 これはあまりにも自明なことなので省かれたんだろうけれど、もろもろの文学教育の理論家、国語教育の理論家たちの発言を見ると、その自明が自明になってないで、「読書百ぺん、意おのずから通ず」みたいな発言をしておられるので……。 大河原 そうすると、またちょっと聞きたいんですが、一つの作品が書かれる過程においてあったところの、その作家の中における本来の読者は、これは作品がもうでき上った状態においてはある一つの形、それを持って存在したわけですね。それはそこから、書くことによって作家が別のところにいくことはあり得ても、一つの作品においてはそれは動かないものとして想定できるわけですね。 熊谷 そうです。しかし、動かないというのは、そこがちょっと、私がある人たちから心理主義者だなんて言われるゆえんなんですけど、つまり私はこういう考え方をしているわけです。作者による送り内容と読者による受け内容という、内容に送り内容と受け内容とがある。わかりいい例で言えば、ある画家がトラを描くつもりで、自分はかき得たつもりだが、受け内容としては見る側から言うとネコにしか見えないという場合もあるわけですね。 これは一体、ネコとして保証されているのか、トラとして保証されているのか、そう簡単に言える問題じゃない。ある次元のある場面のある状況の中の人々には、ネコとして受けられ、作者もその場合、描き上がった自分のものに対しては読者であるわけですが、彼にはやはりトラに見えるという場合があるわけですね。そういうことを言うと、何かぼくは作者の表現の客観性がないみたいなことを言っているように非難されますけど、そうではないので、この事実を無視したらおしまいだと思うんです。これはたんに心理的事実なんてものじゃなくて、歴史的事実だと私は思うんです。 大河原 それからもう一つですけど、子供たちが文章を書く場合にも、いまの本来の読者に当たるもの、つまり内なる自分との対話の結果書かれていく、対話の過程で書かれていくという意味で存在し得るわけですね。それに対し、それ自身はどのような形で成長したり変化したりしていくわけですか。 熊谷 そこの中で発展がまずあるということがひとつ言えますね。話し合う前と話しあう後、話し合うプロセスと、そのあとというふうに、それは無限になっていく……、ということは私に言わせれば、「芸術とことば」という本にはその点わりに綿密に書いたつもりなんですが、いまのは子供の話でしたが、話を作家に置きかえれば、私、広津和郎さんの例をあげたんですけど、彼は数多くの作品を書いたけれども、それは実は一つの作品を書き続けているということだ、満ち足りないものを感じるから書く、つまり対話が絶えず高まっていくわけです。それが次の作品という形になっていく、無限にそれはなっていくものだ、あるところで投げてしまえばステロタイプになって固定化するわけですがね。生徒の作文というものも、そういうものだと私は思います。 ……すぐれた文学作品に接していくことの意味、子供たちに接しさせる意味、つまり文学教育の意味の一つに、われわれは日常のことばづかいなんか、あまりにも自己中心的なひとりよがりな話し方をしている、書くものもそうだ、少し自分が高まればすぐ不満になるようなものしか書いてない、その場合に特定の一人の相手への手紙でもなければ自分のための日記でもない文学、その場合まさにマスコミュニケーションで、その場面は確かに広い意味で限定はされていますけれども、マスなんですね。それだけは説得するような努力が、緊張体系がそこにあるわけですね。そのような緊張体系は何も文学固有のものではなくて、日常われわれがなし得るものなんです。話し合いを深めるという形ですかね、話し合えばツーツーになれるものが、いまの悪しき世代論みたいに、戦前派は話にならぬ、戦後派は相手にならぬというようなああいうばかげた世代論みたいなものに結びつく状態、それを打破する力を持っていると思うんですね。だから文学に生徒を接触させる何か、決して俗にいうプラグマティズムの意味で言うんじゃありません、自分が説得力のある文章が書けるように説得力のある話し方ができるょうに、上手下手の問題ではなしに何かそういう問題を持っているんじゃないか、そう思うわけです。 文学をぼくは特別のものだとは思わない、健康な段階のデューイが語っているように、それは全くわれわれの生活の中から生まれ、生活のためにあるものが、文学だと思うんです。文学教育の意義の一つは、存外そんなところにあるんじゃないかと思うんですね。究極の問題と言うか、それとつながりながらおっしゃった状況認識を、まさにクリエイトしていくのが文学教育じゃないか、そんなような考えをしているわけです。 寒川 ぼくはそこまでは全然異論がないんです。やはりそういうふうには考えているんですがね。で、大河原さんいかがですか、その状況認識ということとですね……。 大河原 その内なる自己との対話ですね、それに非常に光を当てて、そして状況認識を書いたり話したりする過程の中に教育的なそういう意味づけを広げていくということが、いまのお話ではっきりしてきたわけですけれども。いままで状況認識をさせてそれが何になるかという形の反論が多かったわけです。そこのところがやはり解明が十分できなかったんですけどね。その辺で内なる読者との対話における自己の成長とか変化ですね、そこのところにやはりぼく自身ももっと光を当てて考えてみたいと思います。 編集部 いろいろと、話が根本のところで、まだまだ充分には尽くせないと思いますが、今晩は、これくらいで終りたいと思います。ありがとうございました。 |