国立音楽大学学生会新聞局 発行「国立音大新聞」再刊1号 1964年6月25日号 掲載
 〈先生訪問〉 足場をしっかりしなくチャ   ―熊谷 孝―  (新聞局インタビュー)

 「音楽学生に何を望むか」ですって? ニガテだな、そういう質問は。たとえば学生にこういう傾向があるが、どう思うか、とい「国立音大新聞」再刊第1号 1964.6.25うふうに聞いてくれると答えようもあるけど。
 えっ? うん、うん、ほかの学部の学生にくらべて社会的な関心が不足していないか、というんですね。個人対個人の比較は別として、傾向としてそういうことがいえるかもしれませんね。逆にきみたちに聞いてみたいのだけど、どうして、そういうことになってしまったのかしら? 技術の勉強に忙しくて考える暇がないから、というわけですか。「音楽学生にしか分らない、この辛さ」だなんていわれてしまうと、僕としていうことは何もなくなってしまうけど、しかし、それだけかしら?
 問題は、自分がこうして立っている足場がグラグラしてるのに気がつかないのか、気にならないのか、平然としている神経。問題意識がどうのという先に、これは、むしろ神経の問題だ、という気がするのですよ。
 学者だろうが芸術家だろうが、学生だってですよ、自分たちの共通の足場が崩れかけていたら、地固め作業に協力するのは、あたりまえのことでしょう? 足場がぐらついていちゃ、芸術の仕事も何も進めようがないのではないかしら?
 子どもたちが足場の崩れに気づかないで夢中で遊んでるというのいは無邪気ですむかもしれないが、大学生が小学生なみに無邪気だとしたら、これは、いただけないな。だいいち芸術って、何なのかしら? 文学者なんかの場合だと、現代人にとってのそういう共通の足場ですね、そういう足場に対する無関心ということは芸術家である以上ゆるされない、ということになるのだけれど……。
 ともかく現代人に共通の感情、こんにち的な感覚――そこへつながり、そこをくぐらないことには、《技術》はついに《芸術の技術》にはなりえない、という気がするのだけれど、こういう考え方はおかしいかしら。

熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955~1964(昭和30年代)著作より1965~1974(昭和40年代)著作より1975~1984(昭和50年代)著作より