T
近世リアリズム芸術の果した、おそらくいちばん大きな役割は、それが人間解放の芸術であった、という点に求められてよいだろう。それに先行する中世末期芸術にあっては、人間的興味は殆(ほとん)どすべて抹殺されている。和歌・連歌の場合がそうだった。能楽の場合もそうだった。そこには余情・幽玄・寂(さび)など末期宮廷貴族の没落的理念によって、はかなくもあえかに美化された所の自然があるだけであり、古典的・浪漫的に類型化された所の人間の姿が見出されるにすぎない。人間は、謂(い)わば王朝的な情趣美を創り出すための機縁として類型的に抽象されているのであった。私たちは、それらにおいて人間の息吹(いぶき)を感じることはできない。近世リアリズム芸術――謂(い)うところの元禄芸術――の使命は、こうした中世的呪縛(じゅばく)の状態から人間を解き放つことと彼らに新たな人間性を付与することにあった。個人の自由を約束すること、自由な人間の創造にあった。
ところで、近代市民階級による十九世紀末葉(ばつよう)の人間解放がそうであったように、近世に於けるそれも固(もと)より人間解放一般ではあり得なかった。それは、商品をガイストとする人間の解放、いいかえれば貨幣資本の人的表現である町人の解放に外ならなかった。だから、そこに要求される自由の性質も、等価と等価との商品交換の法則に応じた「自由」であらねばならなかった。元禄芸術における人間の発見も、そのようにしてまず利己的観念に裏づけられた自由な人間の発見であり、ひとしく根差(ねざし)ない人間=個別化された人間=個人の発見として特質づけられる。
十七世紀後半において商業ブルジョアジィとしての結成を遂げるに至った新興町人の間に『俗姓(ぞくしょう)筋目(すじめ)にもかまはず只金銀が町人の氏系図』(西鶴「永代蔵」)といった自意識の昂(たかま)って来ていたことは極めて自然であった。天下の町人西鶴をしてそう豪語させたところの町人の自己認識の態度、その認識を裏づけた金力万能・人間万能の逞(たくま)しいリアリズム、それが元禄芸術のあり方を規定する根本だった。自由な人間の立場から囚われない眼を以て現実を在るが儘(まま)に描いていくこと、それが彼ら町人の芸術に課せられた至上の任務でなければならなかった。権威・尊厳・神秘、そうした非人間的なもの・超現実的なもののすべては、現実主義者町人にとって
も早(はや)拒否さるべきであり、否定さるべきものであった。現実に実在する人間、人間性によって肉づけられた人間、人間の現実の生活、こうしたものが、そしてこうしたものだけが、彼らにとって生活興味の対象であり得たわけである。
そういう町人の手になった芸術が、人間讃美の詩となり現実謳歌(おうか)の文芸となっていったことに不思議はなかった。だから、自らの芸術の対象としてとり上げようが為には、それが武士の生活であろうと神秘の世界であろうと、すべての事象は、人間的な面において抽象されなければならなかった。かかる抽象面における現実――それは、だから町人生活と共軛(きょうやく)する現実面である――なるものこそ、はじめて町人芸術の対象ででもあり得たわけなのだから。そこで、次のように言うことができる。近世リアリズムがいいあらわす「在るが儘の現実描写」とは、武士や農民にとっての(ましてや貴族にとっての)「在るが儘」の「現実」の描写ではなく、直接芸術の生産者であり享受者であった新興町人の眼に映じたところの「在るが儘」の現実に外ならなかった、ということである。
近世リアリズム芸術は、かくして、それを支持する享受者層(町人)のあり方――歴史的社会的な存在の仕方――によってその具体的内容を規定されていくのであり、西鶴・近松等町人作家の執(と)った、「自由な人間」の立場から「囚われない眼」で「在るが儘」の現実を再現するというその写実主義の創作方法も、「自由な人間」なるものが意味するその現実的内容によって、更にまた封建的秩序が事実彼らに許容したところの「自由」の性質によって、後に述べるような特定の制約をもつに至るのである。
U
これ迄(まで)のところで、町人の求める自由がどういう性質の自由であったか、ということの説明を一応試みたつもりであるが、それではそうした彼らの要求は、事実どのような結果によって応えられたであろうか。
彼らの自由への要求は、当然政治的な・法律的な・経済的な・道徳的な自由へのそれでなければならず、またそれらの自由をかちえることによってのみ町人の健(すこや)かな階級的発展は約束され得べき筈(はず)のものであった。けれども、近世社会は、鎖国政策を前提とするその微妙な社会体制の故に、彼らの経済的制覇力にも拘(かかわ)らず、町人に対して政治の自由を与えはしなかった。政治の自由を剥奪(はくだつ)された「自由」、それは所詮(しょせん)擬似的な自由にすぎなかった。彼らが、権威・尊厳・神秘、そうした個人の自由を束縛するあらゆるものを否認しつづけたにも拘らず、与えられたものは、僅(わず)かに経済生活と好色生活との、そうした狭隘(きょうあい)な二つの生活局面における自由であった。町人は、せめてもの自由を、生の欣(よろこ)びをそれらのなかに求めていったのである。しかし、それとても所詮は擬似的な自由にすぎなかった。なぜなら、彼らは結局町人身分 以上のものではあり得なかったのだから。(奢侈(しゃし)禁令・好色本禁令等々のいわゆる禁令・御法度(ごはっと)の形式・手段による鉄鎚(てっつい)が幾たび彼らの頭上に加えられたことか。)
その当然の結果として、彼らは、純粋といい得るような市民的世界観を、生に対する市民的な認識の方法を遂にもち得なかった。当初から彼らが拒否しつづけた中世的僧侶的世界観そのものからすら全くは免れ得ていないところの、必至的に武士的儒教的世界観をも反映したところの、謂わば諸々の対立的なものを内包しているところの極めて矛盾に満ちた世界観、それが近世町人の世界観であった。近世町人芸術は、まさにかかる社会矛盾の、かかる世界観的相剋(そうこく)の一具現であらねばならなかった。内面的洞察を欠いた現実観照、極めてまずしい認識、――町人生活のあり方、ひいてはその水準を規定するものは、そうしたものだった。かかる町人の生を地盤として生れ出(い)でた芸術が、人間の内面的な深みに徹し、人間の内部的な心理を掘り下げようと欲するものでも、そういう個性的心理描写(表現)をおこなうことを要求されているものではなかったのは固(もと)よりのことであった。町人芸術はまた、はじめからそうした能力を剥奪(はくだつ)されている、その種の芸術であったのである。
内面的人間(個性)の発見・解放という課題は、かくして未解決のまま十九世紀近代市民の手に委(ゆだ)ねられて行くことになるのである。
V
さて、愈々(いよいよ)演劇について考察すべき順序となった。そこで、さしづめ「役者論語」に見えている杉九兵衛・芳澤あやめ・嵐三右衛門・坂田藤十郎らの芸談を手がかりに話を進めることにしよう。
物真似(ものまね)を自らの芸の生命とした藤十郎が、密夫(みっぷ)の所作(しょさ)を工夫するため人妻に偽の恋を仕掛けたという話(「賢外集」)は、話の真偽はともあれ、それがスキャンダルとしてではなく、寧(むし)ろ美談として巷間(こうかん)に喧伝(けんでん)されたという点に、写実劇に対する当代民衆の熱烈な支持の態度が窺(うかが)われる。密夫を演じるためには自身密夫を体験すること、女形(おんながた)たるためには女性としての日常をすごすこと、歌舞伎役者はそうした修業を以て観客の熱誠に応えたのである。(私たちは茲(ここ)で『女形はがく屋にても。女形といふ心を持つべし。弁当なども人の見ぬかたへむきて用意すべし。』―「あやめぐさ」― というあやめの言葉を想い起すことができる。)自らが再現しようとする対象になり切ること、それは写実的演技を目指す彼らにとって当然の前提ではある。が、それを彼らは、藤十郎の密夫における、或(あるい)は女形あやめのその日常生活におけるが如き誠実を以ておこなったのである。女形あやめが、訪問先でとろろ汁の饗応(きょうおう)をうけた際 箸(はし)をとりかねたという話(「あやめぐさ」)は、この間の消息を如実(にょじつ)に伝えるものである。 それではこの写実精神は、『物真似の人体、まずそのものによく成る様に習ふべし。さてその態をすべし』(「覚習条々」)という世阿弥の物真似の精神と同じものであろうか。
言葉の上の一致――現象的一致は、必ずしも質的一致ではない。歌舞伎の目指す写実は、能楽の物真似では、決してあり得なかった。能楽の物真似は、もともと現実のリアルな再現を意味するものではなかった。むしろ現実には眼をそむけつつ、ひたすら王朝的な情趣美を表現すべく対象をアイデアルに写し出そうとするものだった。伝統的・固定的な角度からの人間の抽象であり、写生 であった。それはも早リアリズムと呼ばるべきではない。ところで、元禄歌舞伎は、近世リアリズム芸術の一翼として、まず人間解放のための芸術であらねばならなかった。いいかえれば、それが、人間解放の歴史的使命を帯びて登場した新興町人の芸術である限り、そうした町人を観客とする演劇である限り、彼らの自身の問題――人間解放という現実の問題を解決するものでなければならなかった。彼ら歌舞伎役者たちの目指す写実的演技も、また、そうした問題解決の為のものでなければならなかった。旧(ふる)きモラルを否定しつつ新しき生に生きる自由人の姿をもっともリアルに再現すること、それが歌舞伎における写実だった。だから、言葉に抽象する限り、能役者も歌舞伎役者も『そのものによく成る』ことを建前(たてまえ)としたと言えるけれども、『そのものによく成る』ことの目的も違えば、その成り方もこのように全く異なるものであった。『歌舞妓役者は何役をつとめ候(そうろう)とも、正真をうつすより外他なし』(「賢外集」)という藤十郎の言葉は、かくして元禄歌舞伎の根本精神をいいあらわす言葉であったと言わなければならぬ。
W
『歌舞伎役者は何役をつとめ候とも、正真をうつすより外他なし』 と言った藤十郎は、『しかれども乞食の役をつとめ候(さうら)はば、顔のつくり、著物(きもの)等にいたる迄、大概に致し、正真のごとくならざるやうにすべし』という条件を付けている。なぜなら、『歌舞妓芝居はなぐさみ に見物するものなれば随分華美にありたし。乞食の正真は、形までよろしからざるものなれば、眼にふれてもおもしろからず。慰(なぐさみ)にはならぬもの』だから、と言うのである。つまり、小汚い乞食の姿をいくらリアルに再現してみせたところで、観客の慰み にはならないから『大概に致し』むしろ『正真のごとくならざるやうにすべし』というのである。あやめも亦(また)『とかく実 とかぶき と半分々々にするがよからん』(「あやめぐさ」)と言っている。
若(も)しもここに、世阿弥の『田夫野人(でんぶやじん)の事に至りては、さのみに細(こまか)に、賤(いやしげ)なる態(わざ)をば似すべからず。けりやう(仮令)、木こり、草刈、炭焼、塩汲なんどの、風情にも成りたつ態をば、細かに似すべきか。それよりはなほ精しからん下俗をば、さのみには似すまじきなり。これ上つ方の御目に見ゆべからず。もし見えば、あまりに賤しくて、面白き所あるべからず。』(「花伝書」・物学条々)という言葉などを対比させることによって、天才の語るところは期せずして一致するものだとか、天才の言葉はつねに人生永遠なるものの相に触れる所があるという風に理解するなら、それはも早論外である。私たちは、そのそれぞれを足利将軍家御抱えの能役者の言葉として、また元禄歌舞伎役者の言葉として受取らねばならぬ。そして前に(「能楽における写実について」の章参照)、田夫野人の『賤なる業をば似』せることがなぜ能楽の『面白き所』となり得なかったかを問題としたように、『乞食の正真』をリアルに演じることがどうして見物の『なぐさみ』にならないのか、なぜそこに『かぶき』が必要なのかが、今私たちによって問題とされなければならない。
が、この問に答える鍵を、私たちは予(あらかじ)め用意しておいた筈(はず)である。生に対する町人のまずしい認識。人間を内面的生のかかわりに於いて把(とら)え得なかったということ。いいかえれば、観客である町人に、対象を内面的・個性的に認識する眼が欠けていたということ。
で、そうである限り、彼らが歌舞伎に求めるところは、大名役は大名らしく、遊女役は如何にも遊女らしく演じてくれることなのである。すべてはらしく ある事なのである。Aという遊女とBという遊女との個性的な相違など、彼らの少しも問う所ではない。したがって、歌舞伎役者はまた、武士を遊女を、それぞれその型において最もそれらしく演じればよかったのだ。乞食役もまた、単に乞食らしくあればよかったのである。いいかえれば、町人の人間把握が、その実生活において事実そうであったように、乞食は「物乞ひして生計を営む」というその機能の点において類型的に演出されれば、それで充分であったのである。それも対象が、彼らの生活興味の焦点である「ぬれ口舌(くぜつ)」の狂言ででもあれば、色事師(いろごとし)の所作(しょさ)は、飽くまで『正真』に迫ることを必要としたであろう。藤十郎の人妻に対した如き、三右衛門の若衆(わかしゅ)に対した(註一)如きエキスペリメントも、自然そこに要求されることになって行ったであろう。けれど、自己の生活となにら質的なかかわりを有(も)たぬ乞食の生活を再現する場合、その姿を『顔のつくり、著物(きもの)等にいたる迄』刻銘(こくめい)に「写実」することは、 町人のための 写実劇である歌舞伎にとっておよそ意味のないことであった。観客のリアリティー(『なぐさみ』)を無視した「写実」はも早リアリズムではないのだから。『歌舞妓芝居はなぐさみに見物するものなれば』、つまりそれが町人のための写実劇として在ろうとする限り、『形までよろしからざる』『乞食の役をつとめ』る際には殊更(ことさら)『正真のごとくならざるやうにすべ』きであったのである。(近松も亦(また)『歌舞伎の役者なども兎角(とかく)その所作が実事に似るを上手とす立役(たちやく)の家老職は本(ほん)の家老に似せ大名は大名に似るをもって第一とす』という主張に対して、『此論(このろん)尤(もっと)ものやうなれ共(ども)芸といふ物の真実のいきかたをしらぬ説也』と反駁(はんばく)し、『真(まこと)の家老は顔をかざらぬとて立役がむしやむしやと鬚(ひげ)は生(はえ)なりあたまは剥(はげ)なりに舞台へ出て芸をせば慰(なぐさみ)になるべきにや』といい、『芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜(ひにく)の間にあるもの』であり『虚にして虚にあらず 実にして実にあら』ざるこの虚実皮膜の間にこそ『慰(なぐさみ)が有るもの』なる所以(ゆえん)を説いている。―「難波土産」序― 『とかく実とかぶきと半分々々にするがよからん』というあやめの言葉や、『正真をうつ』せと言いつつもまた『正真のごとくならざるやうにすべし』と言わざるを得なかった藤十郎の場合などと思い併(あわ)せるとき、近松のこの虚実皮膜の論も、観客の『なぐさみ』を規準として語られた写実論であったと言わなければならぬ。)
(註一)『古嵐三右衛門ぬれ口舌などの狂言の仕組に、相手の役人を我が内に呼寄せ、本より酒ずき成(なる)ゆへ、頓て盃を出し、其座に懇して居る子どもあれども、それには眼もかけず、外の子供につぶやき、さゝやき、或はほうずり、つけざし、後には酔て正体なし。元より此衆は恪気(かっき)して様々のゝしれば、同子ども立役あいさつに入、中を直し盃させり。(中略)其座へ藤十郎来り、是は是はさうざう敷(しき)事かな。初日も近日ぞや。若衆と口舌所にては有まじき事。はやはやけいこせよと、笑ひ笑ひ申されしかば、三右衛門、我も左様に存じ、最前より稽古致したりと、初め盃を出せし時より、今なか直しの盃迄、若衆のりんき、人々の挨拶にいたるまで、ことごとく皆覚へ、是替り狂言の稽古也と、其通に仕くみたり。いづれも役人にはいかにといへば、作りたる事はわろし。実よし。その義をおもふが故に、日頃は稽古の場へ盃は出さねど、此度は替り狂言のせりふ付のため、盃をいだし、若衆が是非悋気せねばならぬやうに仕かけ、かくのごとし。いづれも舞台には唯今のやうにいたされよといへり云々』(「耳塵集」)
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そのようにして、歌舞伎の目指す写実は、観客の『なぐさみ』たるべく対象を如何にもそのものらしく表現することであった。彼ら歌舞伎役者の努力は、謂わばそうした類型的真実に肉迫することに向けられていった。たとえば、杉九兵衛はこう言っている。『役々の情をかんがへみるに。けいせいは位高にして。心はしやれたるもの也。武士の女房は下をあはれむ心有て。人おどけたる事をいふ時は。きつとするかたちよし。よつて武士の妻とみえる也。(中略)うれひ事をする時武士の妻は。声をあげてなくは見ぐるし。』(「舞台百ヶ条」)つまりは、『けいせいは位高』だが『心はしやれたるもの』という風に、『武士の女房は下をあはれむ心有』るけれど『人おどけたる事をいふ時は。きつとする』人種だという風に類型に把(とら)えられているのであり、だからそうした武士の妻を演じる際には、たといそれが『うれひ事』の所作であろうと『声をあげて』泣いてはならぬ、とするのである。
あやめも亦(また)、『女形はいかが心得たるがよく候や。』という問に答えて、『女形はけいせいさへよくすれば。外の事は皆致やすし。其わけはもとが男なるが故。きつとしたることは生れ付て持てゐるなり。男の身には傾情(けいせい)のあどめなくぼんじやりとしたる事は。よくよくの心がけなくてはならず。さればけいせいにての稽古を。第一にせらるべし』(「あやめぐさ」)といい、傾城(けいせい)の物真似を基礎にまず女性一般に共通する類型的特性を体得することの要を説き、更にすすんで『家老の女房にて敵役をきめる時。武士の妻なればとおもふ心あるゆゑ、刀のそりを打事かならずりつぱなるものなり。武士の女房なればとて。常に刀をさす物にはあらねば刀の取りまはし
りゝし過たるは下手の仕内なり。』(同上)――『武士のつまなればとて。きごつなるは見ぐるし。きつとしたる女のていをする時は。こころをやはらかにすべし』(同上) 『武士の女房に成て刀を取廻す事。大勢に取こめられ。たとへばお姫様をかばうての仕打には。いかにも男まさりに刀をさばくべし。こゝを大事と忠義の心せまるときはさすがものゝふの妻なり。座敷にて敵役をきめるは。いまだせんのつまりにあらず。刀さばきおだやかなれかし。』(同上)等々個々の場合々々における武士の妻の型にまで説き及んでいる。
つまり、それがAという武家女房であってもBという武家女房であっても、武士の妻である限り、お姫様を『かばうて』『刀を取廻す』場合はつねに『男まさりに刀をさばく』型を以て類型的に表現しなければならぬとするのであり、『座敷にて敵役をきめる』場合には反対に『刀さばきおだやか』でなければならぬ、とするのである。近代リアリズムが個を通じて普遍を描くことを建前(たてまえ)とするとすれば、彼らの場合は普遍を通じて個を描くものであった、というべきである。このことは、彼ら町人の人間把握が、その歴史的宿命に制約されて彼らのあらゆる抗争にも拘らず、未(いま)だ歴史的社会的人間把握にまでは至らず、結局普汎(ふはん)的な人間性一般の把握を超えていなかったという点に根源をもつものである。更にいうなら、能楽においては――このことは中世芸術一般を通じて言えることなのだが――人間は人間一般としてすら描かれず、謂わば普遍的シチュエーション構成の一道具として、自然と未分化な儘に放置されていたのである。
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翻(ひるがえ)って歌舞伎脚本について見てゆこう。元禄六年都万太夫座上演の「仏母摩耶山開帳」に、大名の奥方が傾城に会って次のような会話を取交わす場面がある。
御台 『されば俺は、此屋敷へ嫁入り来て、十日も廿日もただ恥かしうて、殿様の□□□と仰せらるれば怖うてならなんだ。又其方衆は、たつた一夜で如何な男も心安う馴み給ふとある。それはどうすれば其のやうに成る事ぞ。其恋の様子が習ひたさに請出した。教へてたも』
高橋 『是はよい所を尋ねさんす。それが傾城の秘密にする事じや。先づお前方は男一人を守つて御ざんす故、気が狭い。又傾城といふ者は、引く手数多の事なれば、気が広い。其逢ふおてき衆にそれはそれは色々がある事で御座んす。粋もあり野暮もあり、又傾城を手に入れうとする男もあり、それぞれに先の気を見てあしらう事で御座んす。誠に心に思はねども時にあうては、千筋と思ふ此の髪も切り、爪を放すも皆勤ゆゑ今日は東の人に馴れ明日は筑紫の人と語る。皆偽りの言の葉はアア恐ろしや。傾城の身程あさましいものは無い(下略)』
御台 『イヤ俺はあの傾城の身の事では泣かぬ。あのやうな偽りな者を誠と思召し、殿様にはうかうかと騙されて自らが事も忘れ、国を忘れてお帰りなきと思へば、それが悲しうて(下略)』
高橋 『コレなう、傾城も傾城によらう。此の高橋が前で偽な者などゝ言ふて貰ふまい。(中略)さればそれは此方の人に馴染む様子を話せとある故、偽な事も構はず有やうに言うたは何と誠ではないか。又此のやうな恨めしい勤をするも、命かけていとしう思ふ男があるが、俺故今は廓へ来る事もならぬあさましい体に成り給ふとある。此処へ請出されたも相手が男なれば俺は来ぬ。奥様の請出し給ふとあれば女の身で傾城を請出し給ふは、扨ては恋知りであらう。然らば様子を申して、何とぞ其男に逢ふ事もなからうかと思ふて、それを頼みに来た処に、只今の言葉を聞いては頼みもない。矢張り俺を廓へ戻して下され。エエ恋しの我が男や。』
御台 『扨ては左様な心中か。はて頼もしや。気遣ひ給ふな。尋ね出して逢はさう。』
更に、元禄十四年都万太夫座上演の「傾城富士見里」をみると、武家気質を嫌って廓(くるわ)の自由な空気に自らを慰めている若殿があり、彼を連戻そうがために遊女の仕草を真似る姫君がある。そしてそういう姫君なればこそ、若殿も満悦とともに彼女の許(もと)に帰ってゆく気にもなるのだし、そこに一篇のハッピイ・エンドも約束されているのである。
以上二篇によって代表される一連の脚本から私たちの読みとるところは、すべてこれ武士的世界観に対する町人の世界観の勝利の謳歌(おうか)である。すなわち、左様然らば的武家気質の否定、遊里の礼賛、新興町人的人間解放等々。前の例によれば、最も非人間的・封建的桎梏(しっこく)の下にある大名の奥方は、そこでは一介の町女房として再現せられているのであり、後の例についてみても、お姫様は結いつけもせぬ髪を島田に結い、脇詰(わきづめ)の小袖(こそで)を着て、『歩きつけぬ八文字踏む』お姫様なのであり、それも、『伊達(だて)なる傾城をお好きなさるる』若殿の『気に入らうばかり』に思いつめた、その結果だとして扱われている。武家の生活を窮屈なもの――非人間的なものとして把(とら)え、またそう把握された限りにおいては、それこそ在るが儘に 彼らの生活を描いてゆきつつも、一方にはまた、現実には在り得べからざる姫君の姿を、姫君らしくない 姫君の姿を描き出しているのである。此処(ここ)に見られるような、らしくなく 再現するといういき方は、けれど「在るが儘に描け」とするその写実精神と矛盾するものではなく、それはまた『正真のごとくならざるやうにすべし』という
かの藤十郎の態度とも異(ことな)るものであって――彼がそういった場合、それは寧(むし)ろらしく写す ことを建前(たてまえ)としての「反」写実であった(前を見よ)――それこそ封建的秩序からの人間解放という町人演劇本来のいき方をいいあらわすに外ならぬものであった。また、そう再現せられてこそ、武家の女性ははじめて人間性を付与され、彼ら新興町人の『なぐさみ』ともなり得たのであった。
ところで、歌舞伎にあっては、直接町人自身の生活を主題とした純世話物、いわゆる二番目狂言乃至(ないし)切狂言(きりきょうげん)として蔑視され、嚮(さき)に見て来たごときお家騒動などに題材を仮(か)り、その中に世話的要素を織り込んだ狂言が、むしろ本格的なものとして扱われていたのであるが、そのことの意味が次の問題である。このことは、商業資本に蝕(むしば)まれつつも厳として存在していた封建的家族制度・世襲制度の町人の意識への自(おのず)からなる反映によるものであった。つまり、近藤忠義氏も言って居られるように、町人の日常生活は「お家騒動等の武家的紛争とは直接何の交渉もない」にも拘(かかわ)らず「お家騒動を起しうる基礎的条件としての叙上の社会制度は、等しく民衆生活をも制約してゐるのであるから、」「小規模なお家騒動的葛藤は彼ら民衆の日常生活・精神生活の上に何等かの程度に生じうる筈であるから」「かかる一見非町人的戯曲構成法が兎に角にも町人芸術として成り立ち」得たのであった。更にいうなら、「短い純世話物が已(すで)に存在し乍(なが)ら尚(なお)多くの主要な世話狂言が時代的色彩を残存せしめてゐ」たのは、外でもない「当時の興行制度にあてはめて、純粋に彼等町人自らの生活のみに取材して一日の狂言に脚色する事が出来る程に、彼等の生活は深まつて」いなかったことの故である。
Z
操り浄瑠璃の領域にあっても、「曽根崎心中」の現れた元禄十六年までは、たとえば曽我物の大磯の場における遊里の描写などの如く、単に時代浄瑠璃の中に自らの生活を表現するに止(とどま)っていた。それのみならず、ひとも知るごとく浄瑠璃がその写実主義の頂点に達したのは、歌舞伎に於けるそれに遅れること十数年、文芸のそれに遅れること実に二十余年である。それはなぜであろう。また、それにも拘らず、歌舞伎の遂になし得なかった純世話物の独立という、純粋な町人リアリズムにまで到達し得たのは一体なぜだろう。この謎を解く鍵は、ひとえに享受者層の歴史社会的性格の分析にかかっている。
すなわち、演劇の享受者の中堅分子は、小説のそれと比べて遙かに歴史的に未熟であり、更に後者の中でも浄瑠璃のそれは一層未熟な段階に止るべく余儀なくされていたことが大きな理由であり、これに加えて操り劇が半ば語り物であることや木偶(でく)を使用するため様々の技術的制約を受けていたことなぞを思えば、この分野におけるリアリズム発展の遅滞はおのずと胸に落ちるものがあろう。同様にして歌舞伎が文芸作品に平行して発展し得なかったことの理由も、主として享受者層の未熟によるものであるが、更に舞台芸術としての性質上、前代演劇の伝統から自由であり得なかったこと――尤(もっと)もこれとて享受者の存在の特異性とは無関係ではないが――からして理解に難(かた)くはあるまい。小説の場合、それの成立の事情をみても、遊女評判記・地誌・名所記など自己の手になる実用を目指した製作品を地盤として、なにらの伝統の束縛もなく創り出されたものであったのだ。
次の問題に進もう。上に述べたように、各々(おのおの)十年内外の隔(へだた)りを保ちつつ町人的リアリズムの頂点を目指して雁行(がんこう)した三つの芸術分野は、抽象的に考えれば同じ年代的差異をもってそれぞれ同じ高さに達すべきであったろうが、実はそうではない。文芸がその頂点を極め得たとき既に、様々の外的圧力並びに内的分裂によって(註二)早くも新興町人的な溌剌(はつらつ)さを喪失しつつあった町人大衆の世界観は漸次(ぜんじ)下降線を辿(たど)りはじめたのであった。したがって、歌舞伎が自らの写実精神を完成し得べき時期にあっては、その享受者は既に要請を放擲(ほうてき)していたのであり、浄瑠璃の場合には更に要求水準を低めていたのであった。その結果、遅れて発達したこの二つの分野におけるリアリズムは、結局未完成の儘におわらざるを得なかったのである。とはいえ、兎も角も浄瑠璃が純世話物を完成し得たのは、一つには歌舞伎が木偶ではなしに現実の人間を要素としてアトラクション的効果を狙(ねら)わなければならなかった関係上、『随分華美にあ』(「賢外集」前出)らねばならず、大名生活におけるような派手な衣裳を纏(まと)うた狂言をも永く捨てかねていたのに反し、浄瑠璃はそうした制限を受けること比較的少かった、ということにもよろう。しかし、より本質的には、その享受者が世界観的下降にも拘らず、次第に身につけて来ていた町人的生活体験の深化にこそ求むべきであろう。(註三)
(註二) 熊谷「本朝町人鑑試論」(立命館文学・昭和十一年四月号)参照。
(註三) 熊谷「西鶴論断章」(国語と国文学・昭和十二年三月号)参照。
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