井伏文学の鑑賞・評価を確かなものとするために | ||
文学教育研究者集団著 熊谷 孝編 | ||
井伏文学手帖 | ||
責任編集者:熊谷 孝(くまがい たかし) 国立音楽大学名誉教授。文芸認識論専攻。著書『芸術とことば』(牧書店)、『文体づくりの国語教育』(三省堂)、『芸術の論理』(三省堂)、『井伏鱒二』(鳩の森書房)、『太宰治』(同)、他。 文学教育研究者集団: 1958年、「文学と教育の会」として発足。1960年、改称成立。1983年、学術会議学・協会協力団体となる。 編集委員: 荒川有史、夏目武子、山下明、佐藤嗣男、高田正夫 |
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1984年7月23日 みずち書房 発行 四六判 223頁 定価 1442円 絶版 |
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序に代えて |
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井伏と深い交友関係にあったような人たちの多くが、井伏と旅、あるいは井伏の旅について語っている。井伏を語る上に旅の話題は欠かせない、ということのようである。太宰治もまた、彼の旅について語っている。「旅は、徒然の姿に似ていながら、人間の決戦場かもしれない。」という言葉に結語を見つけて、井伏の旅を語っている。 それが決戦場だ、というのは、そこのところで文学者としての自己の生死が決まる、したがって自分の文学そのものの生死が、というふうな意味を含んでいるだろう。だから、井伏の場合、旅へ向けて何らか期待がそこにあるとすれば、それは、自己の文学の土壌である精神の風通しがよくなるような旅であってくれることを、という期待に違いない。 それと似たようなことを、今日出海が言っている。「井伏は年をとって気むずかしくなったのではなく、初めから気むずかしかったのだ。だから自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった。気分が鬱屈すると旅に出た。」井伏が旅に期待したものは、やはりこの「片隅」とめぐり会うことであった。「彼の好きな片隅は、人間関係に及んだし、つき合い方にも、酒の飲み方にも彼らしい選択があった。その片隅から一歩出ると気むずかしくなった」しかじか。 ところで、人びとは、なぜこうも井伏の旅を問題視するのだろうかと、ふと思ってみた。が、実は、あらためて思ってみるまでもないことなので、彼の文学をそこに培ったこの作家の精神の土壌、その精神の原風景を、しばしば旅をともにしたことのある井伏その人の旅の生活の中に探り求めて、ということ以外ではないだろう。「一緒に旅をすると、相手の本性がよくわかる。」という意味のことを、井伏は口癖のように言っていたそうだが、太宰の場合などは明らかにそれを逆手に取っての、この旅の道連れに対する鋭い観察である。その場合、作品への評価が先に成り立っていて、評価の裏づけを旅に求めているのである。 たとえば、井伏の旅には「金銭の浪費がないばかりでなく、情熱の浪費もそこにない。」と太宰が言うのは、井伏の作品には情熱の浪費がない、という評価・判断が先在していての、それの一種の確かめだろう。「井伏さんは目立たない旅をする。」という彼の発言なども、作品評価との先後関係は同じことだろう。井伏の作品は、確かに地味で目立たない作品なのである。 私たちの場合は、ところで、作品の鑑賞なり作品の評価を確かなものにするために、作家や、その作家の世代に共軛する精神の原風景を明らかにしたい、と考えている。また、全く同様の目的から、その作家が――この場合、井伏鱒二が自己に受け継ぎ自己に培った文化=教養の系譜、文学的イデオロギーの系譜を明らかにしたい、と考えている。その限り、おそらくは太宰の場合などをも含めて、多くの文壇人とは別個の視点的立場から、ここでの私たちの井伏文学研究も組まれることになるだろう。ちなみに、この小冊子は、昨年十一月刊の『芥川文学手帖』の姉妹編である。 一九八四年六月 |
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熊谷 孝 | ||
◆ 内 容 | ||
序に代えて T 文学史一九二九年(一) 山椒魚 付・幽閉/夜ふけと梅の花 朽助のゐる谷間 炭鉱地帯病院 屋根の上のサワン 資料踏査(一) U 文学史一九二九年(二) 丹下氏邸 川 資料踏査(二) V 『さざなみ軍記』から『多甚古村』へ さざなみ軍記 てい談 多甚古村 W 戦中から戦後へ(一) てい談 『多甚古村』前後 自伝的随想 X 戦中から戦後へ(二) 経筒 侘助(波高島のこと) 追剥の話 当村大字霞ヶ森 橋本屋 山峡風物誌 復員者の話 遙拝隊長 開墾村の与作 かきつばた 厄除け詩集 Y 『かるさん屋敷』『安土セミナリオ』 かるさん屋敷 井伏と児童文学 Z 『黒い雨』の再評価 シンポジウム 黒い雨 井伏文学略年譜 付・井伏作品索引 執筆・記録・研究協力者一覧 |