文学教育よもやま話 11    福田隆義       

 三十年めの「学年会」  【「文学と教育」№202(2005.8刊)掲載】   

はじめに

 前号でおしまいにするつもりだった。もう書くことはなかろうと思っていた。ところが、今日、「働くおばさん」と自称していた二人と、「独身貴族」といわれていた一人の三人が、わが家を訪れた。三十年前の同僚教師たち。同じ学年で、懐かしいメンバーである。現在は、現役が一人、他の二人はすでに定年退職、OG・OBになっている。話に主題があったわけではなく、多岐にわたった。そのなかで、今では考えられないことや学年会で当時は語らなかったことなど、確認できたいくつかを書きとめ続編としたい。


働くおばさん
 彼女たちの自称「働くおばさん」は、小学校二年生の社会科の教科書にあった、単元の名称である。たしか、給食の現場で働くおばさんが取り上げられていた。身近だからだろう。子どもたちと、現場を見学したり、話を伺ったりする活動であった。その 「働くおばさん」を自称にしてしまった。彼女たちにしてみれば、私たちこそ働くおばさんだという自覚と、私たちの生き方が、そのまま教材だという、自負にも似た自信があったのだろう。また、「働くおばさん」と自称することで、自分自身を励ましつづけていた面もあろう。とにかく、かいがいしかった。寸暇を惜しんで働いていた。廊下の歩き方からして違っていた。足音で見当がついた。ぐうたらおじさんの私は、ずいぶん助けられた。学んだことが多かった。
 なかでも、学んだのは、時間の使い方である。時計を見ながら「あと、一〇分しかない」というのは、きまって私だった。「まだ、一〇分もある」といって立ち上がるのは、おばさんたちである。確かに一〇分あればひと仕事できた。実践で証明してみせるから、おじさんは、後についていき、手伝うより仕方がなかった。
 けれども、働くだけではない。勉強もしていた。授業にも熱心だった。子どもたちに、人気もあった。たとえば、民間教育団体の、主張や問題提起にも目くばりをしていた。水道方式とか、仮説実験学習、ドル平泳法などを、取り入れてみようといいだしたのも、彼女たちだった。二年生向けの絵本を読もうという、私の誘いには万障繰り合わせて時間をさいた。この読み合わせの時間は、彼女たちの言葉を借りていうなら「身についた財産」づくりの場になったらしい。話し合ったなかみは、自身の身につくだけでなく、いくら同僚に分け与えても、読みの深まることはあっても、減ることはないというのである。この発言は、彼女たちが、後に、絵本を紹介する側にまわったことを意味しよう。
 勤務時間も厳密だった。時間終了と同時に、子どもを迎えに保育園に走る。展覧会や運動会などで、学年会が長引く時は、連れ合いに連絡する。都合がつかなければ、自分が子どもを連れて学校に引き返し、学年会を続行した。おじさんが子守をしたこともさいさいだった。
 おばさんたちは、当時を振り返って、今日ではとても考えられないという。放課後も仕事に追われ、時間どおり、子どもを迎えにいくことはできない。そして何より、あのバイタリティが、今の人にあるだろうか? と首を傾げる。が、若い人に、バイタリティがないはずはない。それが発揮できない教育界のシステムこそ問題になろう。子どもには「やる気を引き出す」教育をといいながら、教職員の「やる気」は強制や統制で抑え込んでいる。溌刺とした教員に恵まれない子どもが気のどくである。そういう自覚は、教育行政担当者にはまったくないようだ。


学年会
 職員会は毎週、水曜日にあったが、あまり印象にない。学年会も、火曜日が定例だった。その他に、学年会はお茶やケーキを食べるだけの場合もあったが、よく開いた。毎日が、学年会であったようにも思う。総勢、四人の会である。何時でも、何処でも開けた。司会者もいなければ、記録もない。恥をかいても四人だけ。大勢を前にした報告ではない。改まったり、立派なことを話す必要もない。思いつきや聞きかじりなど、それこそなんでも相談するのが学年会だった。時には私事さえ話題にした。
 それが、よかったと、彼女たちはいう。学校の方針にそった職員会議や学年会は、会議というより、上意下達の場になってしまった。言いたいことがいえない。自分の要望を出す場がないらしい。子どもとの接点にいる教師の意見が尊重されずにいる。あの頃の学年会を、今日から振り返ると懐かしい想い出になってしまっている。が、懐かしい「想い出」にしてはならない。自分の意見がいえず、窮屈なことをあたりまえにしてはならない。
 学年会の構成メンバーの強みは、なんといっても、子どもとの接点で活動していることである。子どもからの情報をいちはやくキャッチできる。教頭さんも校長先生も学年会に、口だしはしなかった。子どもにとってよかれと願う、担任の気持ちを尊重していた。「学年会」を信頼していた。信頼できない者が上に立つから困る。自分の考えを絶対視し強制するような、思い上がった上司は、いなかったように思う。あまり専門でもないし、現場を尊重しない人が、上に立って号令するからおかしくなる。
 私は、その頃、校務分掌で研究主任をしていた。その時のことである。ドル平泳法を知りたいという声があがった。その声は学年にとどまらず、全職員の要望だった。学校全体で講習会を開いて欲しいということになった。さいわい、講師については、おばさんが、前任校でいっしょだった方にわたりをつけてくれた。講師への依頼状その他は、校長先生にお願いした。私が主任をしている間に、校長先生に、研修会や研究会のことで相談したり、お願いしたりしたのは、これが始めてで、最後だった。要望がないのにおしつける、今のやり方では、効果があがらない。どころか、反発されるのは、明らかなのに強行する。
 カリキュラムも、学年独自で変更していた。校長先生や教頭さんに報告した記憶もない。例示しよう。


仮説実験学習
 こんなことが懐かしいらしい。学年にこの考え方を提起したのは、働くおばさんたちである。もちろん、〈科学教育研究協議会〉 のメンバーではない。仮説実験学習については、その名まえを聞いたことがある程度の、素人ばかりである。暴論かもしれない。それなのに仮説実験学習を取り入れてみたいという。理由は、簡単。理科の授業が面白くないからだ。低学年の授業は、楽しくなくてはというのが、彼女たちの持論である。手分けして関係図書、何冊かを読んだ。授業書も手に入れた。教科書からカットする教材を決め、時間をあみだした。とりあえず『空気のおもさ』と『足はなんぼん』 の、二つを理科の体系に組み込むことにした。が、まだまだたいへんな仕事が残っていた。
 ご承知のように、仮説実験学習には、教科書とノートを一緒にしたような冊子、「授業書」 が必要である。その印刷に時間がかかり、たいへんな手間である。放課後暇な私は、いつ印刷依頼をされるかわからないと思っていた。ところが、おばさんたちは「私たちでやる」という。朝、子どもを保育園に預けて登校すると、職員朝礼前一〇分に学校に着く。それからの一〇分間が、とかく無駄になりがちというわけだ。一〇分あれば二年生全員分の、印刷ができる。
 私とは違い、ほんとうに時間を有効に使う。以後、毎日一枚ずつ印刷物が増えて、職員室の机の上に積み重なる。しかも、きれいに折ってある。
 授業書ができあがったところで、授業にとりかかる。ここでは、そのときの、エピソードの紹介にとどめる。『足はなんぼん』の導入のときである。虫の代表とした蟻を描く項がある。観念のなかにある蟻の描写である。描かれた絵を見せ合って大笑いしてしまった。月型の眉、ぱっちりした目、鼻もあり、口もある。人間の顔の思い込みである。つまり、戯画化された人形の顔である。かんじんの足は、六本あり、八本あり、一〇本ありでまちまち。頭といわず、胸といわず、腹といわず、どこからでも生えている。なかには、左右対称になっていないものもある。これらの絵はみんなの笑いをさそった。その輪は職員室に広がり、そこにいた教頭さんをまきこんだ。
 郊外の学校である。蟻なら、校庭にいる。子どもたちは、蟻の観察にでかけ、自分の描いた絵を修正していくのが、第一の課題だ。が、これが容易ではない。観念のなかのイメージは、なかなかこわれない。顔に気をとられて、足の修正にまでたどりつくのは容易ではない。教室を三度も四度も出かける子もある。その子たちに混じって、桜の木の下で蟻を探している、教頭さんの姿があった。「木を這い上っている蟻が大きい」教頭さんと一緒にいた子が報告してくれた。こうなれば実質、教頭さんが、二年の副担任の役割をしてくれている。いつもならいいのにと思う。これはしかし、三十年昔の夢のような話である。本当は、こういうことがしたい教頭さんもいるのだろう。だけど、副担任にはなってくれない。もっと偉いようだ。


身についた財産
 「身についた財産」、彼女たちの言葉である。「減らない財産」ともいっていた。教師の財産として、いい得ているように思う。学年会でいちばん時間を割いたのが、絵本の学習会であった。その時、学習したことが、今も減らずに財産として残っている。いくら同僚に分けてやろうが、一向減らないというのである。自分の好きな作品は、分かちたくなる。教えたくなるのも、自然の理。以下、取り上げた絵本を思い出すままにあげてみる。
 『かにむかし』(木下順二 文、清水崑 絵/一九五九年・岩波子どもの本)
 『ひとまねこざる』 (エッチ・エイ・レイ 文絵、光吉夏弥 訳/一九五四年・岩波子どもの本)
 『スーホの白い馬』 (モンゴル民話・馬頭琴物語/大塚勇三 再話、赤羽末吉 画/一九六七年・福音館書店刊)
 『ふしぎなたけのこ』 (松野正子 さく、瀬川康男 え/一九六三年・福音館書店刊)
 『かさじぞう』 (瀬田貞二 再話、赤羽末吉 画/一九六一年・福音館書店刊)
 『マーシャとくま』 (ロシア民話/ブラートフ 再話、ラチョフ 絵、内田莉莎子 訳/一九六三年・福音館書店刊)
 『おじさんのかさ』 (さのようこ おはなし=え/一九七四年・銀河社刊)
 殆どの絵本が、当時も、そして今も、本屋に並んでいる。また、〈文教研〉で、かつてとりあげたことのある絵本ばかりだ。「文学と教育」バックナンバーに、その時のようすが掲載されているので、解説はぬきにする。これらの絵本は、彼女たちのいう「身についた財産」になっており、忘れられない作品らしい。
 話は変わる。学芸会で『浦嶋太郎』を、上演することになった。それがきっかけで、古典「御伽草子」 (日本古典文学大系・岩波書店刊) の『浦嶋太郎』にまで、さかのぼって読んだ。『一寸法師』 はそのついでだった。まったくついでであった。が、おばさんたちは、『一寸法師』で立ち止まってしまった。流布されている一寸法師とは、まるで違う一寸法師である。「御伽草子」の一寸法師像は魅力的なのに、現代語に翻案され流布している一寸法師は、つまらないというのである。
 「御伽草子」の一寸法師も「十二三になるまで育てぬれどもせいも人ならず」化物風情であった。「何方へもやらばやと思ひける」という老夫婦の話を聞き、法師は「親にもかように思はるゝも、口惜しき次第かな」と家出を決意する。このとき刀にする針と、舟にする御器と、箸を請い受けて都に上る。都に着いてからも「こゝやかしこ」と見歩き三條宰相殿に、めぐり会う。今流にいえば就職活動もやったことになる。また、宰相の姫君に一寸法師は恋をする。化物風情でありながら「わが女房にせばやと思い」一計をめぐらす。流布しているように、一寸法師は姫君の愛玩物になったのではない。姫君を女房にした一寸法師は鬼も「おぢをのゝく」活躍ぶりで女房を守る。鬼の忘れた打ち出の小樋も「濫坊し」とあるから、姫君に「大きくなあれ」と振ってもらったのではないようだ。とにかく、町衆が自分の運命を切り開いていく、積極的な面を反映した一寸法師が、おばさんたちには、おもしろいらしい。
 翌日から、流布されている『一寸法師』の、収集が始まった。図書室・学級文庫・家庭・保育絵本、それに、土着した民話にいたるまて、収集してきた。が、どれも彼女たちを、満足させる翻案ではなかった。結局、自分で翻案する以外にないという事になった。気のすむように翻案することを、各自の宿題にした。しかし三十年たった今も、宿題である。宿題だったことは、今も覚えていたが、翻案した者は誰もいない。
 宿題はできなくても『一寸法師』は、身についた財産の一つになったことは確かだと思う。一寸法師像をめぐつて考えたこと、翻案の収集、翻案相互の比較、地域に根づいて民話になった一寸法師、翻案への意欲などの作業や学習は、今も心のどこかで、生きつづけているようだ。


多岐であった話題
 文学教育に直接は関係ないので、小見出し風にまとめ話題だけの紹介にとどめる。
 「時間の蓄積」――仮説実験学習の授業書づくりがそうであったように、半端な時間も仕事にして蓄積する。いろいろ検討の結果、私の仕事は、ガリ版切り。そのころ、新しい技術が導入され、活字がそのまま印刷された。おばさんは、その方法で授業書を作った。が、私は守旧派。ヤスリ板・蝋原紙・鉄筆でガリガリ。何でも屋さんだった。できたものは、おばさんたちが印刷。このなかに民話の『ねずみのお経』や『くらげほねなし』が、ふくまれていた。時間の集積は、私にはむずかしい課題。
 「聴衆一人の音楽会」――寂しいこと限りなし、といいたい。が、予定の人数。その聴衆の一人は、私である。いつも体育館の後ろで聞き役。ステージの上では、苦楽会という名の、四クラス合同授業が始まっている。うすうすは私も感じていた。私のクラスの子どもに気の毒だと思ったのだろう、何回も音楽会を学年会に提案してくれた。それは隣の独身貴族氏である。私が音楽のできないのは、自慢じゃないがちょっと有名。
 「あだ名は『枯木」――二十歳代の終わりころ、ダンスホールに誘われたことがある。「貴方と組んだら木刀と踊ってるようだ」と、こともあろうに、誘った本人がいった。それいらい、ホールには寄りつかぬことに決めた。学校中に知れわたり、少し腹が立った。今度は『枯木』である。腹は立たなかった。運動会の日に、決めたらしい。やっぱりダンスと関係あるのかなあ。三人だけに通じる名まえだったそうだ。時効になってしった。三十年前が『枯木』なら、今は『朽木』ということにしておこう。『木刀』→『枯木』→『朽木』。ちょうどいい間隔だ。



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