文学教育よもやま話 1    福田隆義       

文学教師の条件     【「文学と教育」№191(2001.4刊)掲載】   


はじめに
 困った。もう書かない、書くこともあるまい。そろそろ身辺の整理をしておこうと、記録も資料も処分してしまった。というより、処分できるくらいの記録や資料しか、残っていなかったというべきだろう。一介の小学校教師だったんだからと、自嘲気味に自分をみつめている。
 なにしろ教え子が「今どきの若い者は……」という年になり、小・中学生は孫の年代である。したがって、記憶はきわめてあやふや。そのあやふやをたどりながら、今を見つめてみようと思う。


学力低下の元凶
 子どもの学力低下が、にわかに社会問題になった感がある。それも、たんに分からないというのではなく、テストはできても、数学が嫌い、理科が嫌いというのだから、ことは深刻である。これはしかし、いまに始まったことではない。七十年代の始めころから、「半数の子どもが授業についていけない」と騒がれてきた。たしか「落ちこぼれ」という言葉が流行したのはそのころからだった。
 この現象は、経済審議会の答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」(63年)や、中央教育審議会の答申、たとえば「期待される人間像」(66年)の要請に教育が従属してしまったことから始まる。多様化という名の、差別と選別を教育の場にもちこんでしまったからだ。いうなら、教育の目的が「人格の完成」から、経済発展にとって期待される人間の育成に変わったことに起因する。その結果、名門校から一流企業へのコースに乗ることが、子どもの将来を保証する。生活の安定につながるという風潮をうんだ。それはまた、親の切ない願いでもあって、進学競争をもたらした。識者からは「悲しいまでの進学熱」とささやかれたほどだった。その競争と選別に勝つための勉強になってしまった。そうしたひずみの延長線上に、今日の教育の荒廃や、数学が嫌い、理科が嫌いという、深刻な学力の低下が生じたのだと思う。
 こうした危機的な状況になったいま、どの子にもゆきとどいた教育を、どの子にも基礎学力の保証を、と願わない者はいないだろう。そのために方針の転換や条件整備を、行政に要求するのは国民の権利である。学校教育に限っても、少人数学級の実現、教師の定員増、教育内容を教科の体系に即して精選するなど、急がなければならない問題が山積している。ところが、そうした抗議や要求には耳をかさないようだ。さきごろ出された、森喜朗首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の答申には、少しも反映されていない。改革どころか、従来の方針を補強し徹底するものでしかない、と私は読んだ。これでは、とてもこの危機を克服する展望は開けない。これはまた、たかが私的諮問機関の答申にすぎない、とすますわけにはいかない。森首相は、次期国会の重要課題の一つに「教育改革」を掲げている。さらに「教育基本法」の見直しという名の改悪まで、視野にいれているようだ。ゆくえを注視し国民の名で、執拗に抗議しつづける必要がある。


教師は授業で勝負する
 だが、眼の前には、子どもたちがいる。要求が実現するまで、待つわけにはいかない。日々の教育活動はゆるがせにできない。
 教師は授業で勝負する、これはかつては合い言葉であった。子どもが席に着かないから、授業ができない。私語が多くて授業にならない。まず、道徳教育の徹底をとか、生活指導の強化を、と主張するむきもあった。席に着かせてから、私語をおさえこんでから授業をというのである。生活指導を否定するつもりはない。が、強制は教育になじまない。その考え方こそが、子どもたちに反発されてきたのではないのか。子どもたちが集中する授業、私語を許さない魅力のある授業をこそめざすべきだ。というと、それはそうなんだが、という声が聞こえてくる。教育現場を知らない者の発言だ、現場はもっと厳しいというのである。
 が、今たまたま青森で、全日本教職員組合(全教)主催の教育研究集会が開かれている。その報道記事を、たんねんに読んでいる。また、日本民間教育研究団体連絡会(民教連)主催の研究会で話を聞く機会がある。そこで見、聞きするすぐれた実践は、基礎学力の保証はもちろん、教室の荒れをも克服しているようだ。その献身的な教師の努力には、敬服のほかはない。
 そうした授業には、二つの前提条件があるように思う。その一つは、子どもの生活にむすびついた楽しい授業の工夫。いまひとつは、学び自体のおもしろさを保証する授業の工夫、いうなら、学問への関心や興味をそそる授業である。そうした授業であって、基礎学力も身についたものになる。が、特に後者は、一朝一夕にできることではなかろう。教師その人の、その教科にたいする造詣の深さが試される。授業の質は、その教師の学問水準に比例するとさえ思う。けれども、七教科も担当する、小学校教師には無理な相談である。私にはできなかった。
 身近な事例を紹介させていただく。文学教育の事例でなく、しかも、私事でためらいながらである。私はいま、孫をとおして学校教育をのぞき見する。今年の五月、三年生の子が、ランドセルを背負ったまま、庭の藤の花を観ている。それから、絹鞘エンドウの花を見にゆく。また戻って藤の花を観る。何度も藤とエンドウの花を見くらべていた。植物など関心を示す子ではなかったのにと、不思議に思ったくらいだった。ところが「お爺ちゃん、もしかしてこの木、豆科じゃない」と質問された。花弁の特徴からの判断らしい。が、私は返答に困った。藤に豆がなることは知っていた。しかし、藤をエンドウマメといっしょの、豆科といっていいかどうか、わからなかったのである。
 いま一つは、十月だった。一枚の板切れを抱えて、私の部屋にはいってきた。そして「お爺ちゃん、わかる」というのだ。板切れには、乾電池と豆球、それに配線がしてある。回路の説明をしながら「これが階段の電球、下が一階のスイッチ。一階でつけて、二階で消す。わかった」という。けれども、私は一回ではのみこめずに、もう一度説明をもとめた。これはもう、専門的な知識である。教科書の電気遊びとは質がちがう。
 担任の先生は、私にできなかった授業をしている。授業を参観させていただきたいとしきりに思った。そこで、新しい担任の先生は理科の先生か、と聞いてみた。ところが「ちがうよ、専科の先生だよ」という答えが返ってきて、ホッとした。私にはできなかった授業の秘密がわかったような気がした。教師の学問水準が、授業の質を決定するといった理由である。


教師の主体
 分からないことは、教えられない。誰にでもできる授業という主張がある。が、本当だろうか。私は借物の授業でしかないと思う。教師の主体をとおさない教育は、教育の名にあたいしない。これは、文教研の、一貫した主張である。すぐれた実践は、教師の主体をくぐった、教材の選択であり、授業の工夫であり、展開である。かんたんにまねのできることではない。なかでも全教科を担当する小学校低学年の教師には、無理というより、不可能だと断言できる。と同時に、今の教師の忙しさは、子どもの本当の学力をつけるための忙しさかどうか、見つめなおして、整理する必要がありはしないかと思う。
 ところで、今、学力低下が話題になっているのは、主として数学・理科である。なかでも、結果が数量化できる面にしぼられている。けれども、数量化できない感情や知性の教育のほうが、より深刻ではないのか。感情の抑制ができずに起こす、青少年犯罪の増加が何よりの証拠だ。感情の陶冶には時間がかかる。ゆっくり地道につみ重ねるよりほかはない。人の心を育む仕事だからである。そしてそれこそが文学教育の分担する、だいじな側面であろう。「教育改革国民会議」の答申では、他人を思いやる心を強調する。たぶん、道徳教育でお説教を、というのだろう。その片側では「適当な措置」という名の、厳罰で脅しをかける。それでは教育の名にあたいしない。
 文学教育では数学や理科教育にもまして、教師の主体をとおさない教育は、教育の名にあたいしない、という文教研の主張が重みをもつ。まず、教師その人が、文学を必要としているかどうか。楽しんでいる文学があるかどうかが問われる。これが文学教師の、必要最低限の条件だろう。楽しくもない文学で,おもしろくもない作品で、魅力のある授業ができるはずがない。さらに、教師の文学に対する研究の深さや幅が、授業の質を決定する。誰にでもできるというような、なまやさしいものではない。それでいて、楽しいのである。楽しむのである。それが、文学の授業だと思う。
 自分にはできなかったくせに、また、立派なことを書いてしまった。以下は、私の恥を書かせていただく。


私と『一寸法師』
 新しい社会科の教科書に、神話が復活した年だから、一九七一年だったはず。そのころも、教職員に自由があったわけではない。学園紛争は大学から高校に、やがては中学校に移るのではないかとささやかれていた。前記、中央教育審議会の路線にたいし、日本教職員組合(日教組)の教育制度検討委員会は「日本の教育はどうあるべきか」を提示し「総学習・総抵抗運動」を呼びかけていた。「学力テスト」反対の闘争も激しかったと記憶している。また、日教組の全国教育研究集会では、「教育課程の自主編成」が声高に叫ばれていた。そのころのことである。
 当時、私は、小学校二年生の担任をしていた。年度のはじめの父母会で、国語教科書がおもしろくないと批判し、中教審路線を強く非難した。教育課程の自主編成が許されるなら、もっと楽しい授業ができる、といってしまった。日教組の総学習・総抵抗運動の一環のつもりだった。時流に便乗した、観念的な発言だったと今は思っている。国語教科書批判、中教審路線の批判はともかく、楽しい授業ができるという発言が、その後、私を苦しめつづけた。 というのは、父母のなかから「先生がそうおっしゃるなら、思うとおりにおやりくださっていいのじゃありませんか、漢字ぐらいは家でも教えられます」という発言があったからである。それにつづいて、何故、思った通りにできないのかという質問があったり、楽しい授業をしてくださるのならなにもいうことはない、などの発言がつづき、とうとう最初の発言が、父母会の決議のようになってしまった。自主編成ができる、理想的な状況におかれながら、大変なことになったと慌てた。とことん自分の力量のなさを思いしらされた。せめて、国語科だけはと思った。子どもの本を、いちばん読んだのはそのころである。
 『いっすんぼうし』を例にとろう。当時は定番教材で、一年生の教科書にあった。なぜか一社だけが二年生に採用してある。その教科書を使っていた。まず作品自体が、教科書教材よりおもしろいものを探したかった。そこで市内の本屋をまわって「いっすんぼうし」と名のつくものは、保育絵本から文芸絵本まで、十二冊を買いこんで読みくらべた。が、どれにも不満があった。というのは、古典「御伽草子」の『一寸法師』が、頭にあったからである。そこにつながる教材化がしたかった。
 「御伽草子」の『一寸法師』との出会いは、さらにさかのぼる。一九六五年『文学の教授過程』(熊谷孝監修・文学教育研究者集団著/明治図書刊)の、共同執筆をしたときである。私の直接分担ではなかったが、みんなと読み合った。そのとき、私が子どものころに習った『一寸法師』とのちがいに驚いた。こんなおもしろい物語だったのかという強烈な印象が残っていた。そこで「御伽草子」に一番近い翻案と思われる、同書所収の『いっすんぼうし』で授業をすることに決めた。
 子どもたちも、流布している『いっすんぼうし』とのちがい、たとえば「こんなおかしな子を、いつまでも、家において置くわけにも、いくまい」という親の話を耳にした一寸法師が、自分から家を出ていく場面や、一寸法師の計略「姫の口のまわりに、餅のこなをつけ」て大声で泣いている場面などには、目を向けてくれると思った。それを手がかりに、一寸法師の魅力をというつもりだった。が、子どもたちの反応はちがった。善玉悪玉論議になってしまった。女の子の大方は「一寸法師はずるい」といい、男の子は「幸せにしたのだから、ずるくない」と譲らない。おもしろさの媒介どころか、妙なところでつまづいてしまったと記憶している。楽しいはずの授業は惨たんたるものだった。理由はいろいろあろう。指導技術はもちろん、子どもの精神発達段階の誤算、翻案にも問題があるのかもしれない。ともあれ安易な教材化だったと反省した。
 ところが『いっすんぼうし』は、子どもだけでは終わらなかった。つぎの父母会で、お母さん方は「こんな一寸法師、聞いたことがない」というのである。それには自信をもって古典「御伽草子」に、いちばん近い翻案を選んだと答えた。ところが、その「御伽草子」を、私たちも読んでみようということになってしまった。慌てて準備をはじめた。『文学の教授過程』を基本に、論評や解説を読みあさった。その請け売りでなんとかその場は切り抜けた。お母さん方のなかに「御伽草子」専攻の人がいたら、面目まるつぶれだった。思い出すたびに冷汗がでる。さいわい、お母さん方は、おもしろいといってくれた。けれども、子どもたちに読ませるのはどうか、という表情だった。案外、その表情が子どもの反応にでていたのかもしれない。
 私の『一寸法師』はまだつづく。文教研第46回全国集会(一九九七年)で取り上げて、印象の追跡をした。みんなと読みあい、教材化も考えあった。それでもまだ「御伽草子」の『一寸法師』が、分かったとはいえない。けれども、いまお母さん方と読書会をするなら、文学史の中に位置づけた、古典『一寸法師』の魅力を、よりましなかたちで媒介できるように思う。また、何年生かはともかく、高校や大学で「御伽草子」の学習をするようなときの下地として、矛盾のない教材化ができそうに思う。が、もうまにあわない。万事がこのていたらくだった。
 一教科、一作品でも追跡すればきりがない。七教科も教えることになれば、指導書に頼らざるをえない。教師の主体をとおした教育など不可能である。私は父母会で、つぎのようにいったことがある。「私は敗戦をはさんだ三年間に養成された、粗製乱造教師です。オルガンの教則本さえろくに弾けません。音楽の時間は〈音が苦〉の時間です。私がそうなら、子どもにとっても音が苦の時間にちがいありません」と。この話には、おまけがついた。学年末に分かったことだが、私のクラスにはピアノ教室に通っている子が、他のクラスの倍の六人もいた。正直にいって、少しは吹けるハーモニカで、音楽の時間はごまかしていた。でも、あのころの小学生は、文句をいわなかった。


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