文学教育よもやま話 2    福田隆義       

  まぶしかった新卒先生     【「文学と教育」№192(2001.8刊)掲載】   

はじめに
 新卒先生がまぶしかったことを書こうと思っていた。ところが、今日の朝刊に「教員狭き門 競争率一三倍・新卒採用わずか二六%」(朝日・五月一〇日)の大見出しが躍った。鳥取県にいたっては、新卒の採用はゼロ。教育には経験が必要である。だが、若い人の情熱やエネルギーが学校を活性化する。教員の定員増で、新卒の採用枠を大幅に増やすことは、そうむずかしいことではないはずだ。
 私は、不精者で転勤がおっくうだった。退職までに三校しか転勤していない。はじめは区内の学校に一四年間籍をおいた。つぎは、新設校に赴任して四年間。最後は、五年生が最高学年だった創立二年めの学校。そこに一四年間も居座った。郊外の住宅団地の子どもが学齢期になり、東京の衛星都市では、新設校の建設ラッシュがつづいた時期である。最後の学校は一九七〇年、新卒四人を含め八人で赴任した。次年度からも、新卒教師が四人、五人と赴任してきて、教職員の半数以上が二十代になるほどだった。職員室が若やいできた。新卒の彼や彼女たちのエネルギーが、ほとばしっていた。私には、その若さがまぶしくてたまらなかった。「新卒採用わずか二六%」の今から想うと、嘘のような本当の話である。
 以下、新卒教師四人と一緒に赴任した学校で、同じ学年を組んだ若い人たち三人を紹介したい。はじめの彼女は、文学教育とは直接関係はない。が、私には、印象深い一人である。


剣道三段だった新卒先生
 第一期工事、第二期工事と、継ぎ足し継ぎ足しの本校舎は、まだ二年生以上の教室しか出来ていなかった。一年生六クラスは、校庭のプレハブ教室。担任は、新卒の女性二人、私もふくめ新任が三人、創立以来、といっても二年めの年配者が一人の六人。おまけに、その方は教頭候補で多忙らしかった。夏は暑くて冬は寒いプレハブの教室に、新任が五人である。意地悪をしたのではないかと、邪推もした。が、創立二年めの学校では、新任が一年生に集中するのは当然だろう。
 今から思うと、それがかえってよかった。一年生は午前中で終わる。だが、五人は職員室に戻らなかった。午後は新任ばかりで、プレハブの自称〈離れ島〉にたむろした。大声でしゃべった。世間話も盛りあがった。が、新卒先生の抱負や不安を聞くことが殆どだった。不安そうな新卒先生に、特技のない私は、自分に言い聞かせるつもりで、つぎのようなことを繰り返し話したように記憶する。「得意な教科なり領域で子どもと楽しむことだ。まず自分が楽しくなくちゃ」とか「一時間でいい、これを教えようと楽しみにして登校する。それくらいの準備はしなくちゃ」などなど。身のほどしらずの、先輩風を吹かせたりもした。
 ところが、驚いた。入学式から十日とはたっていなかったと思う。新卒担任の二組の子どもが、二十分休みのチャイムと同時に、「ワアッ」と校庭に駆け出していくではないか。何事かと思ったら、校庭の真中で先生対子どもの剣道を始めている。子どもたちは、かたく丸めた新聞紙を竹刀代わりにして、先生に打ちかかっていく。が、なかなか「お面」がとれない。どうやら「お面」がはいれば先生の負けらしい。けれども、払う、避ける、見事な剣さばきであり身のこなしである。「お面」は容易でないらしい。先生の大声が、校庭にあふれる。やがて横からも、後ろからも子どもたちがたかり始めると、先生は逃げ出す。校庭を二周三周するうちに、遅れていた子が回れ右をして挟みうち。お面をとった子どもの歓声があがる。翌日もチャイムと同時に「ワアッ」と駆け出す。
 私は遠巻きに、担任の三組の子どもたちと見ていた。子どもは「二組はいいなぁ」という視線をおくってくる。私には〈なに、俺にだって〉という自惚れがあった。というのは、旧制中学五年生の時、初段の認定を受けており、剣道にはいくらか自信があった。さっそく、新聞紙とセロテープで、竹刀をこしらえた。二組に負けないくらい景気よく「ワアッ」と駆け出していった。が、いきなり、「お面」を打ち込まれておしまい。逃げては校庭一周で体力ぎれ。五本も六本も、「お面」を打ち込まれる始末。子どもたちは、ものたりないらしく「つまらない」のブーイング。三日めあたりから、そのブーイングは同情にかわった。身のほどを知らぬ真似ごとの、みじめな結末だった。
 なにしろ、彼女は剣道三段、二十四歳の剣士だった。そんなことは、つゆ知らず真似をした。私ごときがかなうわけがない。彼女は今、隣の市で教頭さんになっている。これは後に夫君から聞いたことだが、高校生に負けることを悔しがり、今も道場に通って修練を積んでいるという。子どもにはもちろん、近所の高校生にも人気があるらしい。
 話をもとに戻そう。校庭の剣士たちに、本校舎の窓という窓から、視線があつまる。そのうち、二階からも「ワアッ」と、駆け降りてくるクラスがあらわれた。新卒担任の四年生。こっちは長縄跳び。記録を更新するごとに歓声があがる。それに三年生が加わり、二年生も加わる。狭い校庭は大混雑。職員会議で、職員も校庭に出て危険防止に努めようとか、午前中は一年生を優先しよう、ということなどを申し合わせたと記憶する。
 新卒先生、剣道にあきると、今度は鞠つき。これも新聞紙を丸めてゴムをしかける。ヨーヨーの要領でバサッバサッとつく。その音もさることながら「イチニイ」「イチニイサン」とか、「先生、三回」「先生、…回」という子どもの声が、学校中に響く。とにかく、いろいろな遊びを、次つぎと考案し「ワアッ」をつづける。彼女はクラス枠を越えて、学校中の人気を得たようだった。
 この話は、これで終わらない。もともと狭い校庭に、プレハブ六教室が居座っていた。校庭の混雑を、見かねたのだろう、父母の声がきっかけで校地拡張運動が起こった。この運動は学校・地域ぐるみの運動に発展し、とうとう行政をうごかした。校庭の南一〇メートル、東二〇メートルの大拡張に成功したのである。私はこの運動の起点は、校庭剣士たちだったと思っている。とにかく私には、彼女が輝いてみえた。まぶしかった。


若い仲間の組織者
 一年生で同じ学年を組んだ、もう一人の新卒先生に話を移そう。担任に移動はあったが、なぜか彼女とはずうっと同じ学年だった。四年生を担当していた時のことである。
 私は教室で、熊谷孝先生ご紹介の『太陽は四角』(講談社刊『雲売りおじさん』所収、レオンス=ブールリアゲ作・塚原亮一訳)を読んでいた。何日も読んでいたらしく、「そんなに面白いの」と、彼女に聞かれた。「面白いか、面白くないかわからないから読んでいる」というような、わけのわからぬ返事をして、大笑いされたことを覚えている。一読した彼女は、「面白いじゃないの」と、即座に答えた。私はその言葉を楯に、いくつかまじめに質問した。が、あまり要領をえない答だったので、二人で印象の追跡をすることにした。ところが、翌日には三人になり、さらに、学年の枠を越えて若い仲間を誘い、五人のグループになった。毎日集まって議論した。勤務時間外は会場を喫茶店に移したことが、何度もあった。
 それだけではない。彼女は、その日話し合ったことを、翌日にはガリバン刷りのプリントにしてくる。当時はワープロも、マイコンもなかった。徹夜の作業をしたこともあったのではないかと思う。若いエネルギーには、敬服のほかはなかった。翌日はそのプリントの読み合わせから始める。それを積み重ねているうちに、私たちなりの、小さな作品論になった。授業も見せ合って、話題にした。その一部は、後に荒川有史先生がご著書『文学教育論』(一九七六年・三省堂刊)で紹介してくださった。
 話を前に戻そう。ちょうどそのころ、市の教育委員会が編集する「研究紀要」の原稿を公募していた。まさかと思ったが、応募してみることになった。べつに時間や労力がいるわけではない。彼女のまとめた、ガリバン刷りのプリントをそのまま提出すればよかった。今だったら、教科書にもないフランスの作品なので、門前払いになるのかもしれない。が、何のクレームもつかず採用された。校長先生からは誉められた。おまけに、たんまり報奨金までいただく思わぬ結果になった。とにかく彼女は、地道な組織者だった。なつかしく思い出される一人である。


若さの特権を生かした新人
 この話には、まだつづきがある。私はテレ屋で、教育委員会に出向くこと自体、いやなのである。ましてや、報奨金の授与なんていう、晴れがましいと思われる式場には、似合わないという思い込みがあった。後で聞いてみると、ほかの人もそうらしかった。そこでその役を引き受けてくれた、もう一人の彼女に実名で登場してもらう。「文学と教育」の読者には、ご存知の方も多いと思うからである。旧姓篠崎君子、現嶌田君子さんである。嶌田さんは、今も文教研の会員である。が、子育ての頃から会には出られない状況がつづいている。
 篠崎さんも新卒で赴任してきた。三年生からだったか、四年生になってからだったか、同じ学年を組んでいて、五人のグループの一人だった。失礼ないいかたを許してもらうなら、かわいかった。あどけなかった。いとも簡単にグループの代表を引き受けてくれた。レポートの提出から報奨金の受け取りまで、なんのこだわりもなく教育委員会に出向いてくれた。いちばん若い彼女に、誰もしたくない、いやな役割を押しつけたことになったのかもしれない。
 それはともかく、彼女の本領は、その後に発揮された。篠崎さんは、年配の顔をたてたのだろう、「この報奨金で『ドリトル先生アフリカゆき』を買ってもいい」と、相談にきてくれたことは確かだ。が、私はグループのメンバーに配る五冊ぐらいだろうと思った。ところが、数日後だった。彼女の教室に『ドリトル先生アフリカゆき』(『ドリトル先生物語全集 1』ロフティング・井伏鱒二訳、岩波書店刊)が、山と積んであるではないか。なんと四十二冊。報奨金を全部つぎ込んだという。ひそかに、みんなで鮨でも食べようと思っていた私の夢は消えた。が、彼女にはとてもそんなことは言えなかった。学年外の二人も了承していたらしく、何のクレームもつかなかった。
 それからが大変だった。大げさにいえば、学年全体が彼女の指揮下におかれたとでもいおうか、時間割ができていた。ご自分のクラスで、まず一時間。終わったら隣のクラスにまわす。さらに、隣クラスへと四十二冊が学年をぐるぐる回ることになっていた。遅れるとどこで止まっているか点検、急ぐように催促される。ほかの教科や教科書は眼中にないらしい。ドリトル先生を中心に時間割を組むようにしくまれていた。


巻き込まれて恩恵に
 ここで、私のクラスのことも少し書かせてもらおう。篠崎さんの指示に従って、一章、ないし二章ずつ読みすすめた。子どもは手もとの活字を追いながら、私の読むのを聞く。読み聞かせというらしい。その後、適当な時間をとって、話し合いをしたり、ミニ感想を書かせたり、絵を描いたこともある。それを、毎日こまめに学級通信にして、父母にも知らせた。が、その記録は処分して、今はもうない。けれども、鮮明に覚えていることがある。毎回、一枚ないし二枚の絵を描く男の子がいた。学校で描けないときは、家で描いてくる。どれもそのまま挿絵にしたいくらいだった。中でも「犬は、床を掃くことになりました。アヒルは、はたきをかけ……」と、ドリトル先生の家事を動物たちが分担する場面の絵は、ユーモラスで楽しかった。それを学級通信で紹介したくて、謄写版原紙に写し取るのに苦労したからであろう、今でもはっきり思いだせる。
 ところで、子どもたちは、一章からドリトル先生の世界に引き込まれたようだ。先を読みたくて、本を貸してくれという。が、つぎのクラスに回さなければならないので、貸し出すわけにはいかない。この場合、それがよかった。六章まで読み進めたときだった。お父さんに頼んで都内から買ってきてもらった子があった。それが契機で、またたくまに自分の本がふえた。終章まで進んだときには、半数以上の子が自分の本をもっていた。おそらく自分の本として買ってもらったのは、初めてだったのだろう。扱い方が丁寧で慎重だったことからも推測できた。それだけではない。そのころ、校区には本屋はなかった。たぶんほかのクラスの子も加わってのことだと思う。隣の校区の本屋まで大勢の子が駆けつけたらしい。「ドリトル先生、入荷しました」という貼り紙がでた。が、そのときはもう、この授業は終わっていた。とにかくこの授業で、ドリトル先生のファンが何人もできた。なかには、読み終わったら次を買うようにと注意したのに、『ドリトル先生物語全集』全巻を一括購入した子もあった。最後まで読んだかどうか、今でも気になっている。実は私も一括購入した。が、まだ読み終わってはいない。


惚れた強み
 ところで、四十二冊の行方である。全クラスが終わったところで、学校の図書室に寄贈。後につづく者のあることを信じてであろう。その措置まで、かっこうがよかった。篠崎さんは、図書室の係でもあった。
 ここで話を、篠崎さんに戻したい。文教研では、一九七六年の秋「井伏文学の教材化」をテーマに〈特別公開研究集会〉を開催した。すぐれた翻訳は日本文学であるという前提で、小学校の部では『ドリトル先生アフリカゆき』をとりあげた。篠崎さんは、そのときの報告者の一人だった。記憶がさだかでないが、右の実践はその報告の後だったと思う。とにかく彼女は『ドリトル先生アフリカゆき』が、お気に入りだった。惚れ込んだ作品は、ほかにも薦めたくなる。偶然が重なったとはいえ、彼女は、それを実践したのである。だれもが、この作品を教材化するのが、当然のように振るまった。ところが、結果は上々。
 いまひとつ、つけ加えたい。彼女のつもりとしては、子どもたちとドリトル先生を読みたいという、純粋な気持ちだったと思う。けれども、結果からみると、クラスの子どもはもちろん、学年をまきこみ、父母をまきこみ、地域の本屋までをまきこんだ。これはもう、文学教育運動であったと、私は思っている。が、彼女は謙虚である。今もそうとは思っていないのではなかろうか。自覚していることよりずうっと大きな事を、なんの苦もなく、こだわりもなくやってのけた。若い人の特権だと、私などは少々ひがんだりもした。
 彼女はその後も、何度か『ドリトル先生アフリカゆき』を教材化したにちがいない。その度に鑑賞が深まり、授業にも工夫があったのではなかろうか。いまや彼女の貴重な財産になっていると推測する。お会いしてその後を聞いてみたいと、しきりに思う。


文学教育よもやま話 目次前頁次頁