国立音楽大学日本文芸思潮ゼミナールの記録集『芥川龍之介の文学と私たち』 (1970.4) 所収


  二人の芥川――ゼミの出発にあたって

 長谷川四郎が、ある雑誌に次のようなことを書いていた。賛意をこめて引用しておく。
 ――「書かれる現実のほうが、それを書く書き手よりいつも巨大だ。だから、書き手は、その現実に対応する言葉をさがしさがしして、のろのろと書くことになる」云々。ゼミ記録集『芥川龍之介の文学と私たち』表紙
 ――「頭の中に書きたいことがあって、それを書いているうちに、いつの間にかペンがいうことをきかなくなり、最初に考えたのとは違ったものができてしまう。書き手の無器用のせいではなくて、描かれるべきものが、別のことを命令しているからだ。方法(文学の方法・創作方法)は、そこで対象(現実)自体に内在している、ということになるだろう」云々。
 かさねてお断りしておくが、原文どおりの引用ではない。言文の叙述を部分部分拾って、二十分の一ぐらいの分量に要約したものだ。が、多分、方向と大綱(たいこう)は誤っていないつもりである。
 次の引用は、これは原文どおりである。上記引用の所説の解説の役目をすると思うので、長谷川の同じエッセイから引いておく。
 ――「ほとんど七年間、ほとんど一冊の本も読まないで私は兵営生活を送ったが、夜、眠りに入りながら、あれも書いてみたい、これも書いてみたいと思い、それが架空の読書のようだった。そして兵営生活から解放されて紙とペンと時間が手にはいると、私は書くことにとりかかったが、それが思ったようにいかず、つくづくむずかしいものだと思った。考えたのとは別のもの、とまではいえないが、ずいぶん違ったものとして出てきた。初めからそういうものとしてあったのが、書くことによってはっきりしてきた、といえるだろう」云々。
 引用の終わりのセンテンスのなかの、「初めからそういうものとしてあった」云々……むろん、現実は初めからそういうものとしてあった、という意味だろう。初めからそういうものとしてあった現実の姿を、書くことによってハッキリさせ、読むことによってハッキリさせること、それが文学の創造・鑑賞ということだろう。あるいは、文学(文学体験)とはそういうものだ、ということだろう。
 その場合、前提となるのは、現実のほうが書き手や読み手よりも巨大だ、ということである。つねに 巨大だ、ということである。この前提をしっかりおさえておかないと、文学の読書経験の量の増大が逆に、文学・芸術を「遥かなる台座の上に安置してひざまづく」旧き芸術至上主義への道を用意する結果にもなりかねないのである。次回から出発する私のゼミは、初めから、こうした古風な芸術至上主義の想念から自由なものとしてありたい。芸術論史上とうに批判ずみの問題をむし返して、むだ な観念論議に時間を空費したくないのである。
 ちなみに、「遥かなる台座の上に」云々、J.デューウィの言葉である。この種の想念を彼は、「芸術の現代的孤立」をいいあらわす想念・観念だ、といっている。「生産者と消費者とが、需要と供給とが完全に分離してしまった」現代資本主義社会に固有なカタワな孤立の姿だ、という意味である。

 ところで、現実に存在する文学作品は、作者が自分の文学の方法を「対象(現実)自体」の中にさぐり求めて書いたものとは限らない。長谷川自身、そのことにふれて書いている。「文才でものを書く人がいる。私の兄、林不忘がそうだった。彼は一日に三、四十枚も書き、場合によっては電話で文章を送ることもやったが、私にはそういう芸当はとてもできない」云々。一日に三、四十枚書いたということが問題なのではなくて、「対象自体」の声に耳をかたむけようともしなかった姿勢に問題があるわけだ。
 林不忘?……ご存知のない向きもあるかもしれない。別名、牧逸馬、そら、『丹下左膳』の作者だ。
 丹下左膳氏と同列に扱うつもりはないが、芥川にも「文才」だけで書いたような作品が少なくない。器用で達者な作品だ。それは、いわば「最初に考えたとおりのもの」として結果しているような作品だ。ペンに渋滞はない。書きたいことが、書きたいとおりにスラスラ書けているのである。そこには、そのときどきの芥川の観念が、「対象自体」との抵抗も対立もなしにストレートにマニフェスト(表示)されている。一般には、この種の作品がよく読まれて、「これが芥川文学だ」ということになっている。うまくないな、と思う。このゼミでは、もう一人の芥川――つまり長谷川のいう意味での「巨大な現実」と対決して、その現実のなかに自己の文学の方法をさぐりつづけた、もう一人の芥川の発掘・発見につとめたいのである。それと同時に、この二人の芥川がどこでどうつながり、どう相手を拒否しているのかということを、「巨大な現実」との関係・関連のなかに明らかにしていきたいのである。


  《ゼミ》 『羅生門』   報告・熊谷 孝/文責・原沢さくら

 〈報告内容〉

   A 概説

 芥川の初期の作品は、そのほとんどが歴史小説である。彼は、その素材の多くを『今昔物語集』(平安末期)に求めているが、その扱い方には次のような特徴がみられる。すなわち、「今日の問題状況」から出発して、それを過去の事象にことよせて(舞台を過去に借りて)語っている点である。同じ歴史小説でも、森鴎外の場合は、過去を裁き、そのことによって現在を裁こうとする。つまり、彼の歴史小説で重視されるのは、たんに〈現在〉ではなくて、〈現在に直結する過去の歴史〉なのである。この点で芥川の歴史小説とは姿勢を異にしている、ということができよう。
 もっとも、芥川の場合も、それは、ただ、「直結」していないというだけのことなのであって、やはり、〈現在につながる過去〉ではあったわけだ。古代の終えんを告げ、中世が胎動する王朝末期への取材ということには、やはりそれなりの理由はあったわけだ。たとえばそれが鴎外のように意識的な「歴史」への取材ではなかったにしても、である。
 この、いわゆる王朝物のあとに、いわゆる切支丹物が書かれることになるわけだが、それをこの作家の王朝趣味とか切支丹趣味とだけ考えるのは、少なくとも生産的な思考方法ではないだろう。そういう問題のつかみ方からは、芥川文学ないし大正期の文学の理解にプラスするものは何ひとつ生まれてこないのである。(なるほど、彼は、「テエマを芸術的に最も力強く表現」するために、「異常な事件」を必要として過去に取材した云々、といってはいる。だが、そのことは、取材と舞台の設定がどの時代でもよかった、ということではないのである。)
 『羅生門』・『鼻』に関して、その表現のモティーフは、『あの頃の自分のこと』(未定稿)の中にある程度に語られている。また、彼の友人たちの「証言」にその裏づけを求めることもできそうだ。すなわち、

―― 自分は半年ばかり前から悪くこだわった恋愛問題の影響で独りになると気が沈んだから、その反対になるべく現状からかけはなれた、なるべく愉快な小説が書きたかった、云々。
 そこで書いたのが『羅生門』であり『鼻』であった、という。引用の「恋愛問題」云々――若い日のこの作家は、この「問題」に際して養父たちのどす黒いエゴイズムと、自己内面のそれを、いやというほど感得させられていた、という。そこで、少し飛躍したいい方をすれば、この作品における彼の表現意図は@自他のエゴイズムの凝視ということが底にありながらも、むしろ、A視点をズラして「愉快な小説」を書く、ということだったわけだ。
 しかし、『鼻』の場合は別として、『羅生門』が、そこにいう「愉快な小説」とはなりえていないわけだ。意図と結果は必ずしも一致しない。

   B 『羅生門』について

 一、テーマに関する二つの考え方とそれに対する批判

 岩上順一の場合―
 大正期は、半封建的資本主義時代であり、アナアキズムの段階にあった唯物論思想の潮流、そしてまた(だからこそ)、個の意識が未来を夢想してうずまいていた時代だった。(芥川がこの作品を書いた一九一五年から、わずか四年さかのぼった一九一〇年――明治四十三年――には、大逆事件が起きている。)こういった中で『羅生門』は生まれたわけである。
 岩上順一は、アナアキズムとの関連を重視し、テーマを追った。それは次のとおりである。
 この作品は唯物論批判を課題としたものであって、「芥川は、下人の姿のなかに、当時のアナアキストの思想と行動とを表現」している。「かかるアナルヒスムは、それ自身の論理によって、それみずからを否定せざるを得ないではないか、と芥川は考えた。」この作品の「テエマは明白である。飢えの前にはいかなる悪行も許される、という老婆の論理は、下人の行為によって逆用され復讐された。この下人の行為の中には一つの意味が含まれている。即ち、あらゆる人間は、飢の前には暴力的な行為にかり立てられるものであるということである。芥川は、当時の労働運動の根拠をこの下人の行為において設定したのである。それと同時に、老婆の形象の中には、このような暴力的行為の理論に対する否定が含められている」うんぬん。
 彼――岩上順一の論理を、熊谷先生は次のように批判する。
 作品を受動的なものとしてとらえ、社会の無媒介な機械的反映として片づけてしまっているところに、この素朴実在論的な反映論の誤謬がみられる。作用・反作用の弁証法的反映でなくてはおかしい。作品は現実の社会の反映であることにまちがいはないが、その反映は、主体の媒介によるものとしなくてはならない。現実があり、その中に作者も一個の現実として存在し、そこに実践しつつ、見、感じ、書く作者がいる。そしてその作者を媒体としてそれらすべてを動的に反映するのが作品である。
 その機械論的反映論の誤謬から、さらに次のようなテーマについての押しつけがみられる。それは、受け内容における主題(彼にとってはアナルヒスム批判なのだが)から送り意図における主題をはかるもので(すなわち、芥川がこの思想を作品に表現したとする)、意図したものと実際に表現されたものとを同一視しているのである。
 大正期の、この作品本来の読者にとっては、そこにかさなり合うイメージが自己内心のアナルヒスムや、反アナルヒスムにつながる何かであったかもしれない。自己周辺のアナアキストの思想と行動のことであったかもしれない。つまり、読者の受け内容におけるかさなり合うイメージというかたちで、岩上の指摘しているようなアナルヒスムの問題にもこの作品の表現はつながりを持ってくる。だが、岩上の語るような「寓意」というような脈絡において(いいかえれば作品の送り意図におけるテーマとして)アナルヒスム批判がおこなわれている、ということではたぶんないだろう。受け手において成り立つイメージ、あるいはテーマは、受け手の主体を通っているものであって各人各様である。送り手という媒体をとおしての作品に、受け手の状況と主体とがかさなってくるのであって、受け手のテーマと送り手のテーマとは同次元におくことはできない。

 吉田精一の場合―
 すぐれた実証的・文献的研究家である吉田精一は、芥川の行動を追って次のような解釈をしている。
 人間のエゴイズムをモティーフとした作品であるから、芥川の表現意図は「エゴイズムへののろい」である。これがこの作品の定着したテーマである、云々。
 吉田精一のおかしている誤りを、熊谷先生は次の点に求める。
 意識と行動の対応関係を、行動の面からつかもうとするのが「行動主義」であり、その場合、意識は客観的に把握されていかなければならない。しかし、彼は意識と行動を同次元におき、その把握に客観性を欠き、主観的傾向に陥っている。
 この行動主義における誤謬から、次のようなテーマについての混乱をひき起こしている。
 それは、芥川の意図(意識)がそのまま作品に定着して作品のテーマになっている、と解釈する点である。創作過程において、最初の表現意図は、絶対的なものとして表出されていくのではなく主体は創作しつつも刻々変化するものであり、作品は主体の動揺ををも当然反映してゆくだろう。作品は静止したものではない。したがって、意図したテーマと定着したテーマとを混同することはできないのである。
 私たち読者は、この作品から、芥川が『あの頃の自分のこと』の中でいっているように「愉快な」ものを果して受けとれるだろうか。芥川の意図とはかなり異質のものがあらわれてはいないか。

 二、初出と定本の違いについて
 
 この作品は、初出の雑誌「帝国文学」(一九一五年)から定本となるまでに、数度書き換えられている。最初の単行出版の年(九一七年)には『偸盗』を執筆していたわけである。ここに芥川がいかに自分のイメージをゆたかに追い続けたか、その跡をみることができるし、また作品の虚構性・芥川の虚構精神の確立過程をもみることができるのである。特に最後のセンテンス――「下人の行方は誰も知らない」――は、改められる前――「下人は既に雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」――のいきどまりのイメージから、ひとつの個性(下人はあんなに迷った人間だった。これからだって……)に無限の可能性を与えている。下人はけっして下人以外のものではない。しかも、をの下人は、後にも先にもこの世にひとりしかいない(いなかった)まさに芥川の創造した下人である、ということなのだ。それは、虚構において初めて可能とされたような一個の新しい個性である。普遍に通じ、しかしそれとして特殊な、そのような人間のビルト(像)でありイメージである。読者は、この下人のなかに何らか自分自身を感ぜざるをえない。それと同時に、自己の周囲のだれかれをこの下人、この老婆のなかに見つけるだろう。下人や老婆のそのイメージとかさなり合うイメージにおいて、読者はそのことをイマジネートするだろう、という意味である。

 三、『偸盗』との関係

 『羅生門』を『偸盗』との関連においてとらえることとし、次の二点をおさえておく。
 @下人の行方は、その可能性としてのひとつのケースとして太郎・次郎に託されている。下人の悩みが盗人になるまでのものとするならば、太郎・次郎の悩みは盗人になってからのものということができるだろう。
 A芥川は『侏儒の言葉』の「私の愛する作品」の章で次のようにいっている。

 わたしの愛する作品は――文芸上の作品はひっきょう作家の人間を感ずることのできる作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に具えた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを欠いた片輪である。(もっとも時には偉大なる片輪に敬服することもない訳ではない。)
 『羅生門』にない<官能>がモティーフとなって『偸盗』の沙金という人間の意識と行動の中に、<官能>が分離されずに描写されている。

(以下〈討論――私たちの認識のプロセスを追って〉〈まとめ〉、省略)



  合宿での講義   レク・熊谷 孝/文責・沼田朱実

 私たちは一月の七日・八日の合宿で、一時間二十分という日ごろの時間的圧迫と欲求不満から解放された。これはその時のレクの記録である。話された次の四点は、私たちにとって新しいショックであった。が、これはそれまでのゼミから出た反省と再確認なのであり、いつも心がけねばならない問題だったのである。

  一 発言は論理性をもって

 ゼミは、座談会や読書会とは違う。実感の発表〈何となくこう思う〉ではなく、それを一歩進めた〈なぜこう思うのか〉までを、すなわち実感の根拠をさぐり、その実感を意識化する作業を経た次元での意見が要求されるのである。このゼミは,「自分の感動から出発する」という姿勢を基本としている。したがって、あくまでも「……から出発」するのであって、単なる自己の感情の発散ではいけない。感動を軸にした思考活動(認識活動)が要求されるのである。

  二 場面規定の再確認

 過去の文学を読むとき、場面規定は不可欠の前提である。文学作品・芸術作品は、人間が人間のためにつくったものである以上、その作品のつくられた時代・社会を知ることなしには真の理解は生まれない。その意味から、次の四点が提起される。
 1 どういう社会だったか。
 2 どういう生活をしている人間の作品であるのか。
 3 その社会に人々はどのように生きたのか。
 4 どのような階層に人々か。
 以上のような場面規定を媒介にしてはじめて、過去の作品が正当に――現代人の独断と思いあがりを排して――現代的意味をかちえるのである。

  三 テーマということ

 作品は、概念的に書かれているのではなく形象的に書かれている。私たちが鑑賞過程で作品の内容(=本質)をいかにして把握するか、問題はその把握の仕方にある。そこで、テーマとは何かを知るためにも、また私たち自身への反省的認識のためにも、概念主義的把握・汎言語主義的把握の検討が必要である。
 概念主義的把握は、「一定の作品には客観的な一定の内容が概念として盛りこまれている」という発想から、「要するに作者は何を言おうとしているのか」という把握の仕方になる。したがって、ことば・文章には作者の思想なり感情が内容として封じ込められており、私たちは、ことばで捉えることが最も理性的で客観的な把握であるとされる。そして、ことばによらなければ作品の本質に到達できないという結論を導くわけである。
 概念主義的発想の最も大きな誤謬は、概念とことばとの同一視にある。「このことばにはこの概念が相応する」という概念の一面的把握は、鑑賞者の主体をきり捨てるばかりでなく、作者の主体をもきり捨てている。また、もっともらしい概念をとりだして、「これがこの作品のテーマだ」と決めつけてしまうとき、作品のほかの部分は非本質的だとしてきり捨てられている。したがって、第一に作品は形象的に書かれているという認識がなされていないこと、第二に場面規定の認識がなされていないこと、が判明される(ママ)
 過去の文章・ことばは、そのまま現在もあるが、過去の社会と現在の社会、過去の人間と現在の人間の生活は著しく変化している。「自分の感動から出発する」鑑賞体験であるなら当然、場面の相違は内容の相違をもたらすはずである。読書体験は主体的になされるものであり、テーマは主体とは無関係に、また時代を問わずにあるものではない。さらに」言うならば、自分にテーマ(問題意識)をもっていなくては、作品のテーマは生まれない。作品との対決――それはとりもなおさず、自分自身との対決であり、自己の変革と発展の契機なのである。

  四 虚構について

 虚構とは、未来の先取りによって現在をつかみ直すことを言う。言いかえれば、未知への自覚による現在の自己の既成概念の打破ということである。現実は個人感情を通して見られた世界、いわば自己中心主義的に把握された世界である。私たちは、自分の現在的現実にしがみついている限り実在はつかめない。
 虚構とは、その自己の現在的現実をつかみ直すことを言う。このことから次の図式が成り立つ。
   現実→虚構→つかみ直された現実
 これは同時に次の図式にも言い直すことができる。
   現実→作品(=別個の現実)→つかみ直された現実
 これらのプロセスはイマジネーションのはたらきによって、自分の現在的現実と別個の現実・別個の視点をもつ主体とのぶつかりあいから、現在的現実の意識化・その対象化、すなわち自己の対象化がなされる。ここに、虚構が実現されるのである。
 今、角度を変えて虚構を創造する作品の側から見るなら、虚構とは、自己の対象化(自己凝視)によって、無限の可能性を描くことである。そしてそれは、作品において典型という形で現われる。典型とは、イマジネーションによってもたらされたビルトであり、イメージである。

 (文中、今日の人権感覚に照らして適切でない表現があるが、文章の歴史性を考慮し、そのままとした。)
熊谷孝 人と学問昭和10年代(1935-1944)著作より昭和20年代(1945-1954)著作より1955〜1964(昭和30年代)著作より1965〜1974(昭和40年代)著作より