文学教育と道徳教育

明治図書出版刊「道徳教育」34(1964.2)掲載---
   課題の前提条件

  本誌・31 に、「道徳の年間計画と副読本」と題して、都立教育研究所の相馬孝之氏が、次のような傾聴すべき所論を発表しておられた。

  ――道徳の時間が特設されようとする前後に、賛否両論が大いにたたかわされたが、そのうちに、「無能教師必要論」ともいうべきものがあった。つまり有能な教師は従来の全教育活動を通して道徳指導を行なうという立てまえでじゅうぶん成果をあげられるであろうが、「能力の低い一般教師大衆」にはそれが困難であるから、「集中と強化のために」やはり道徳の時間を特設すべきである、というのである。
 もちろん、道徳の時間の特設が、このような理由だけで決定されたものとは思わないが、無能よばわりはしないまでも、自ら求めずにもっぱら他力本願的な姿勢の教師が多いという事実に根をおいた特設論は、全く便宜的な方法論であり、道徳教育の本来のあり方は別にあるもののような気がしないでもない、うんぬん。

 自分をおさえた、ずいぶんひかえめな発言だと思う。ひかえめに――ではあるが、しかし問題の核心をついて鋭く、かつきめ細かに批判を展開しておられる。こんにちの道徳教育論議は、指導手順をどう組むかといった方法・技術の問題にテーマを求めるまえに、まず、相馬氏がそこに指摘しておられるような点に問題をかえして、原理的・原則的な反省をこころみる必要がありそうに思われる。いいかえれば、「道徳」の時間を特設して道徳教育をおこなう、という発想そのものから検討しなおす必要がありはしないか、ということである。
 氏の整理にしたがっていえば、その発想は、教師一般の能力の低さやその受け身な姿勢にたいする評価に端を発している。それは、いわば、教師大衆蔑視を前提とした、「便宜的な方法論」としての「道徳」の時間特設ということにほかならない。
 もっとも、それは「このような理由だけで決定されたもの」ではない。現状に即し現状打開のために、やむをえずに打った便宜的な措置という格好をとってはいるが、真の理由は他にある。その理由というのは――いや、そこまでのことは、今回はふれないことにしよう。寒川道夫氏流にいえば(『道徳教育と文学教育』――「国語教育」61・所掲)、それは「すでに批判ずみ」のことである。あるいは、「周知のこと」「自明のこと」である。本誌などの執筆者の多くは、故意に意識してそこを素通りしているだけの話である。ではないかと思う。本誌31がいま手もとにあるのだが、それについてみると、教育課程審議会の答申などに対して疑義をいだくような人たちの発言が、ひどくひかえめなものになりがちなのも、多分、そうした身もフタもないみたいなことは口にしないだけのエチケットを心得ておられるからのことに違いない。僕もまた、この席では自分をおさえて、そのようなエチケットにしたがうことにしよう。
 そこで、ともかく、「道徳」の時間の特設が所詮便宜的な措置にすぎない、ということをハッキリおさえた上で、「道徳教育の本来のあり方」をさぐるいとなみが、もうそろそろ始められてもいいころではないか、と思うわけなのだ。というわけは、暫定的な便法・手段であったはずの「道徳」の時間の特設が、いつか特設すること自体が目的であるみたいな格好になりかけている、ということが一方にあるからである。これでは本末転倒だ。問題は、子どもたちの将来と民族の明日のために、デモクラティックでヒューマンな国民的道徳感情をつちかう、という目的にとってどういう手段・方法が適切か、ということだろう。ではないのか?
 「能力の低い」教師がいることも事実だろう。「他力本願的な姿勢」の教師のいることもあるいは否定できないかもしれない。が、すべての教師が無能で自主性を欠いているわけではない。だからして、「道徳」の時間を設けて集中的に指導するというような便法は拒否して、自分は自分の「全教育活動を通して道徳教育を行なう」考えだ、というような積極的な姿勢の教師がいたとしたら、、むしろ肩をたたいて励ましてやるべきだろう。ところが、反対に、「一部ではあるが、道徳の時間を設けていない学校すら残存している。このような状態は、道徳教育の充実に大きな障害となっている」うんぬん(教育課程審議会答申)というような発言も一方ではおこなわれている。
 そこには、どうも、「道徳」の時間を設けないということが、一義的に道徳教育そのものに対して熱意や自信を欠いている結果だとする、性急すぎるというか、やや軽率な判断がはたらいているように思う。

  ――教師のうちには、一般社会における倫理的秩序の動揺に関連して価値観の相違がみられ、また道徳教育についての指導理念を明確に把握していないものが見られる。そこでいわゆる生活指導のみをもって足れりとするなどの道徳教育の本質を理解していない意見もあり、道徳の指導について熱意(、、)に乏しく自信(、、)勇気(、、)を欠いている者も認められる。また一部ではあるが、道徳の時間を設けていない学校すら残存している。このような状態は、道徳教育の充実に大きな障害となっている。(教育課程審議会答申、傍点筆者)

 何だかこれでは号令一下、右を向けといえばすぐ右を向くような、ヘンに飼いならされたサラリー・マン型の教師がほめことば(、、、、、)を頂戴している反面、自主的で意欲的な姿勢の教師は、ぐうたら(、、、、)だ、といって叱られているみたいな感じなのである。僕が知っているかぎりの教師の職場では、しかし「道徳」の時間を設けないかということでは揉みに揉みぬいてきた。そして大方は、なにせオカミの意向はハッキリしていることだし、さからっては(、、、、、、)後の祟りが恐ろしいから、という大勢順応論が勝ちを占めての「道徳」の時間の特設ということのようだ。だからして、僕の実感からすれば、特設することに踏み切った学校やその学校の教師たちのほうが、「道徳に時間を設けていない学校」の教師たちより、道徳教育や教育に対して熱意があるとか自信がある、というふうには思えないのだ。いわんや、「勇気」があるなどとは思えないのである。
 あえていえば、長いものには巻かれろ式の、卑屈なあきらめと忍従の精神状況のもとでおこなわれる道徳教育を、僕は信用しない。それは、相馬氏が指摘しているようないきさつ(、、、、)からすれば、自分達が「他力本願的な姿勢の教師」であり、かつ「能力が低い」ことを認めたも同然なのだ。「自信」も「熱意」も湧いてこないのは当然のことではないか。ことばを重ねるが、そういう精神状況のもとでおこなわれる「道徳」教育を、僕は信用できないのだ。それは教師にとっても、生徒にとっても精神衛生上よろしくないのである。
 ところで、つくられた既成事実は、さらに第二、第三の既成事実を生むようになる。便宜的な手段であったはずの「道徳」の時間の特設は、それが手段から目的に転化することで、さらに次のような事態をひき起している。

  ――今回、こうした道徳の時間に、読物資料の利用が望ましいという答申がなされた。それは、「各学校において、具体的、効果的な指導計画の作成の仕方や適切な教材の選定に種々の困難を感じている者が多い」という現状に即応しての対策であることは論をまたない。ここにいう「指導計画の作成や教材の選定に困難を感じている多くの者」もまた、大衆蔑視的な便宜論の対象となるものであろうか。
 もしそうだとすると、読物資料の利用についての教師用解説書はいうまでもなく、児童生徒用の読物資料(副読本)は全く二重の便宜性しか持たないということになる。
 さて、果してこの論理は正しいであろうか。論理の正誤はともかくとして、このような論理を認めるかどうかが、今日の私たちに課せられていることは認めなければなるまい。(相馬氏・前掲論稿)

  相馬氏がそこに指摘しておられるように、一つの便法(例外)を容認することは、また次の便法(例外)を認めることになるのである。それは、もはや、ただの便宜的な手段としてではなく、恒久的な手段として――いいかえれば、まっとうな論理にもとずくまっとうな手段・措置として、それを容認せざるをえない羽目になるのである。そこで、相馬氏ともども僕もまたいおう。「このような論理を認めるかどうかが、今日の私たちに課せられている」道徳教育論の緊急のテーマである、というふうにである。「道徳」の時間を設けて道徳教育をおこなう、というその発想自体を検討する必要がある、と先刻僕がいったのは、そのことなのである。

   文学教育とモラリティーの形成

 ところで、今僕に与えられている課題は、文学教育と道徳教育との問題について当たりをつける、ということである。この課題にとって、もし「道徳」の時間の特設ということを前提とするならば、初めから課題そのものが成り立ちそうにないのだ。つまり、「道徳の時間の」わく(、、)組みで文学作品を文学作品として扱う(、、、、、、、、、)ことは不可能だし、また、この「道徳」教育に結びつくことを先に予想した文学の指導といったふうなものは、国語教育の場においても全然考えられない、ということなのである。僕がそう考えるというだけでなしに、これは、国語教育や文学教育にたずさわる者の側からの世論のようなものだ、といっていい。
 たとえば、沖山光氏は次のように語っておられる(『とらわれることのない教材研究を』――「国語教育」61)

  ――道徳教育の方便に国語教育が従属することは、論外である。国語教育はあくまでも、言語活動そのものが本質であって、道徳教育に従属することは戦時中のイデオロギー教育にも通ずる危険性をはらんでくる、うんぬん。

 また、たとえば、寒川道夫氏は前掲の論稿のなかで、次のように語っておられる。

  ――文部省検定のワクは最近ますますその傾向を強くし、国語教育の文学教材で特設道徳をやろうと意図しているもののごとくである。
 国語教育が言語の芸術的形象である文学をも教材としてとりあげることは、まさに国語教育の大切な本質であるから当然である。しかし、文学を道徳教育の手段とする、あるいはしもべとするなどとは、とんでもないことである。
 もとより文学は、人間の生き方の正しさ・美しさ・まっとうさを表現したものであるから、そこにはそれなりのモラルがあるのはいうまでもない。
 ことに成長過程にある子どもを対象とした文学作品は、絶対に子どもの自然な成長をゆがめたり、その未来にまちがった色づけをしたりするものであってはならないから、おのずからある限定も必要とする。しかしそれは、あくまでも主体的人間としての未来を築く子どもの立場からしてのモラルでなければならない。特設道徳は、すでに批判すみなように、そういうものとは異質な立場からの要求にもとずくものである。うんぬん。

 つまり、誰一人道徳教育そのものを否定している人はいない。「道徳」の時間を特設して道徳教育をおこなう、という発想の「道徳」教育に対して首をかしげているだけである。教師大衆に対する不信頼に出発し、またそうした教師への不信頼のゆえに、こんどは副読本の使用を勧告しその中に文学作品を盛り込む、というふうな、その発想に対して釈然としないものがあるわけなのだ。
 とりわけ、文学教育の側からすれば、「道徳」の時間のわく(、、)のなかで協力しろと言われても、これは手の施しようもないし、また、それができないなら国語教育や文学教育そのものを、もっと道徳づいた(、、、、、)ものにしろ、といわれれば、沖山氏や寒川氏たちと声をあわせて、「論外である」「とんでもないことだ」というほかないのである。というわけは――少なくともその理由の一つは、今日の「道徳」教育のたてまえそのものが徳目主義だからである。すでに述べたように、長いものに巻かれることが「勇気」のあることだったり、批判ぬきの「自信」や「熱意」であっても自信は自信、熱意は熱意であるといった方式の徳目主義、その通俗的な便宜主義・ご都合主義が、文学や文学教育の精神構造とウラハラなのである。

  ――生まれてはじめて算術の教科書を手にした。小型の、まっくろい表紙。ああ、なかの数字の羅列がどんなに美しく眼にしみたことか。少年は、しばらくそれをいじくっていたが、やがて、巻末のペエジにすべての解答が記されているのを発見した。少年は眉をひそめて呟いたのである。「無礼だなあ。」(太宰治『葉』)

 「無礼だなあ。」――これが、文学精神である。
 教師があらかじめ徳目と見合うような解答(、、)を用意しておいて、あの手この手と策を講じて生徒をそこへ誘いこむ――これは文学教育では、むろんないし、プロパアな意味での道徳教育でもないだろう。こと文学教育に関していえば、それは作品の表現が示しているような、まあたらしい感情、感情体験につながっていけるような感情の素地を、子どもたちの体験のなかにさぐり求めて、それを子どもたち自身に自覚させる作業だ。そのようにして、素地について自覚をもたらすと同時に、そういう感情の素地を一まとまりの感情体験にまで育くむ仕事だ。それは、いわば、素材(事物)とともに与えられた作品のテーマと、その同一事物に対していだく子どもたち自身のテーマとの対決を成り立たせる(媒介する)場である。
 それは、あるいは次のようにもいえようか。作品とむかい合うまでは漠然とした形でしか意識されていなかったようなその事物に対する自己の感情にテーマを与えることで区切りをつける体験である、というふうに――。つまり、そのことで、子どもたちは人生に対するある姿勢を主体的に準備するのである。あるいは、そういう姿勢をととのえる足がかりをつかむのである。
 そういう姿勢は当然、モラーリッシュなものを含んでいる。道徳感情――それは本来、人間の感情(生活感情)をある側面において切り取ったときに呼ばれる呼び名にほかならないのだから。が、ここでハッキリさせておきたいのは、文学教育によるそのようなモラル・モラリティーの形成は、まさに、文学教育プロパアな活動の結果としてのみ生まれ得るものだ、という点である。ある種の徳目に合わせて、それを教えこむ手段として文学作品を「利用」する、というような姿勢からは、かつての修身教育がそこに再現するだけのことである。文学作品を「道徳」教材として「利用」することは許されない。道徳教育プロパアな視点からいって、それは許されないことである。
 ことばを重ねるが、文学作品は、それをあくまで文学作品として扱うのでなければ、モラルの形成も、モラリティーの変革もそこに実現しはしない。文学は、そして究極においてめいめいがめいめいに、自分でわかるほかないものだ。自己の感情の素地が育くまれてくることで、同一の作品の表現する感情も(したがって道徳感情も)前とは違った次元で「わかる」ようになってくるものだ。
 たとえば、アンデルセンの童話だが、それは、おとなにならなくては本当にはつかめないような、ある側面を持ってはいないか。むろん、子どものうちに読んでいなくては話にならないが、それをまた育った心で読み返すことで、「私」の自我は根底から揺さぶりを受ける。これが文学というもの、芸術体験というものだろう。
 文学教育の作業は、だからして子どもたちの感情の素地を育くむものだ。それは、感情をくみかえ、つくりかえる仕事だ。そういういとなみを、文学教育は、作品の文学としての(、、、、、、)読み――じっくりとした読みの指導を媒介としておこなっている。そういう教育活動は、広い意味で、そして真実の意味において道徳教育活動の一環である、といっていい。いや、文学教育を欠いて真実の道徳教育は実現するはずがないのである。
 ぼくのいいたいことは、こうだ。文学作品の主題を強引に徳目化して解釈したり、文学教育の内容や方法や教材をヘンに道徳づいた(、、、、、)ものに改めようとする企ては、逆に道徳教育そのものにとってマイナスである、ということだ。早い話が「道徳」実施要綱が指示しているような、芥川の『蜘蛛の糸』を「利己的な行動を反省して互に助けあう心持」を養う教材に「利用」する、というふうな厚顔無恥というか非常識というか、ああいう強引さは「道徳」教育の信用をおとすだけの話である。(なお、この点については、小稿『文学教育の現状と問題点』――「文学」38年10月号所掲参照。)
 実施要綱がすでにこの通りだからして、「道徳」教育に「熱意」をもった現場は、だいぶひどいことになっているらしい。本誌・31所掲の中西暘子氏の報告にしたがえば、氏が見学されたある学級での「文学教材を扱った授業」の模様は次のようなものだった、という。

  ――作品は芥川竜之介の「みかん」。中学一年生の授業。
 まず指導者は作品のあら筋をたずねた。次に生徒にこの作品を読んでの感想をたずねた。幾人かの生徒が答えたが、同じ内容の答が多く、大体次の三つにまとめられた。 
  (1) 姉妹の愛情に感動した。
  (2) 作者が女の子を見直したことはよいことだ。
  (3) 人間を服装や要望で判断してはいけないと思った。
 指導者はこれらの感想発表の間に、「作者のような経験があるか。」とか、「この作品を読んで、今後周囲の人たちをどういうふうに見ていこうと思うかなどという発問をし、授業の方向づけをした。(つまり、作品から離れた)
 まず、これでは、文学教材を手段にした一種の素材主義の教育にすぎない。……ここには、生徒の主体的な問題意識を大切にする指導もなければ、文学の機能への信頼もない。……また、生徒の述べた感想も、「道徳教育」を意識しての感想である。文学作品を読んでの素直な感想を、無理に押しのけているような不自然さがある、うんぬん。

 中西氏は、さらにことばを継いで次のように語っておられる。もしも国語の時間にこの作品に接したのだったら、「美しい人間感情に触れた感動」が生徒たちの心をとらえたであろう、うんぬん。「無意識の底に人間を信頼する気持、ひいては自分の内の善性を確信する気持……その根本のものを押えることなしに、皮相な判断や教訓めいた結論を生徒から抽き出すことに、何の価値があるのだろうか」うんぬん。
 現場人のこうした切実な声に、謙虚に、正直に応答できるような用意が、果たして当事者の間にあるのだろうか。
<国立音楽大学教授>
熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より