第二信号系理論による授業改造        

明治図書出版刊「教育科学・国語教育」43(1962.7)掲載 -

[与えられたテーマ「指導過程の反省と授業改造」に関して書かれた論文である。]

   第二信号系とは何か

 第二信号系という概念が、それの概念規定において実はそれほど明確であるとは思われません。少なくとも、世上一般のこの概念の用法においてであります。ある人はそれを、「ことば」や「文字」と同義語に考えている。先物買いに忙しい、ジャーナリスティックな教育現場の理論家たちの間では、ケッタイなことに、《第二信号》イコール《語い》というような理解さえ行なわれています。たとえば、「白」とか「白い」という語い を中心に、それの反対語(「黒」「黒い」)や、一連の関係語(「赤」「赤い」「青」「青い」など)がそこに考えられ、また他の語いとの組み合わせによって、「とても白い」とか「白くない」というようなことばが形づくられる。つまり、そこに一まとまりのことば (実は語い )の体系が生まれる。これが第二信号 ということなのであって、「ことば」の指導は、この体系にしたがって行なわれることで、能率的かつ確実なものになるし、また国語教育が概念づくりの教育となり、思考活動を促がす教育になっていく、というような説明の仕方です。
 なんだか水道方式の国語教育版といった感じですが、国語教育の分野におけるこの水道方式(?)は、形象理論の系譜をひく例の読解指導の理論とツーツーであるという点で、大へんユニックな特徴を示しているようです。国語の学習過程は、まず語い指導に始まって、(読解ということでいえば)構文・段落の指導にいたり、叙述、構想と追って主題の把握におよぶ、といった段取りが、どうやらそこに予想されているらしい。現場の人たちが僕に語ってくれたところによればです。そこで、もし、事実がこの人たちの紹介の通りであるとすれば、それはなんのことはない、第二信号系という「ことば」を使って色揚げした、ただの読解指導談義にすぎません。少なくとも、それは、第二信号系理論による指導過程の反省ということとは、まったく別個のこと、別個のものであります。それに、だいいち、第二信号系というのは「文字」や「ことば」のことではありません。「考えことば」――だれやらが与えていた、この概念規定も、実はまったくのナンセンスです。それは、「文字」や「ことば」、あるいは「考えことば」といったもののことではなくて、機能の面からみた「ことば」の基本的な性質、つまり「ことば」の機能的本質をさし示す概念にほかならないからです。つまりまた、(1)「ことば」は、赤信号なら赤信号、ブザーならブザーというサイン(信号)にとって代わった、信号の信号 ――第二信号としてのシステマティックな条件刺激の機能をもつ、ということです。「ブザー」ということば で、実際のブザーの果たす信号の機能を実現する、ということなのです。
 いいかえれば、(2)それは、人間に固有 の第二信号的な、さまざまな条件反射をそこに成り立たせる、第二信号系的条件刺激構成のメディア(媒体)にほかならない、ということなのですが。註記すれば、第二信号系の系ということが、固定的・静止的な意味に理解されてはならない、ということです。それはただたんに、そこに組み立てられた体系ということではなくて、むしろ組織すること――組織活動の体系ということなのであります。つまりは、第二信号系的な条件反射(反応)をそこに成り立たせることをめざして、条件刺激を媒体において組織する活動の体系という意味にほかなりません。上記のような奇妙な第二信号系への理解が行なわれているおりから、この点はとくにハッキリさせておきたい、と思います。


   まず言語観念・文学観念の変革を

 さらにまた、ここでハッキリさせておきたいと思うことの一つは、第二信号系理論は、国語教育にとっての即効薬みたいな理論――方法論ではない、という点についてです。教育の現場にこの理論を持ちこもうとする人たちが、ともすれば、この理論を身につけることで教育実践がうまくゆくようなことを口にしがちです。が、どうも、「ゴホンといえば龍角散」というふうなわけにはいかない、ということなのですが。
 この理論は、理論自体としては大脳生理学ないし条件反射学の体系的一側面にほかなりません。ということは、この理論を学んだからといって、指導効果が直接どうというようなことにはならない、ということです。それは、いってみれば、進化論を勉強したから国語や社会科の指導が上手になる、というわけのものではないのと同じことです。にもかかわらず、進化論の学習に教師が打ちこむ必要があるように、(さらにある意味からすれば、より大きな直接的切実さにおいて)この第二信号系理論の学習に、教師その人が身を入れる必要がありそうに思われます。というわけは、あらゆる教育のいとなみがコトバ体験をささえとし、また直接「ことば」を通路して行なわれる面が大きい以上、教師自身、「ことば」の機能的本質を理解して実践ととりくむ必要があるからです。しかも、その理解を、この理論のしめす論理の筋道への理解にとどめることなく、そうした理解を、それぞれの教科の基礎科学の理論に媒介させることで、それぞれの領域の《教科の論理》について反省する必要があろう、ということなのです。
 直接、国語教育に関していえば、この理論をまず言語学や文芸学などの基礎科学の理論に媒介し組みこむ形で摂取することです。そのことで、国語科の教科の論理そのものを規正し指導過程を反省する、というようなことなのですが。
 本筋からいうと右のようなことになるのですが、しかし、体系を追ったそういう整理は、むしろ、文芸学者や言語学者などとの協力を前提とした国語教育学者その人に仕事だ、ということになりましょう。現場人めいめいの問題処理の仕方としては、だからして自分の言語観念や文学観念を更新していくという姿勢でこの理論を受けとめることなんだ、と思います。そのことが結果として(或いはそのことの当然の結果として)、自己の指導過程への反省と授業改造をみちびくことになるのであります。ことばを重ねますが、観念を固定させたままでの反省では、反省が反省になりません。指導観念への反省を伴なわない、指導過程の「反省」がもたらすものは、教科教師としての妙な職人的な自信であるか、手段を目的ととり違えた、カタワにゆがんだ「国語屋」的な技能一辺倒の態度への救いがたい妄執だけです。(子どもたちの「人間」に訴えかけるもののない、しかしそのかぎり手のこんだ、うまい モデル授業というのを、あなたは、目になさったことはないでしょうか。)
 そこで多分、次のように言っていいかと思います。この第二信号系理論をくぐることの効用は、必ずやそこに自己の指導観念の変革をもたらすに違いない、言語観念と文学観念の更新である、というふうにであります。


   反映論としてのコミュニケイション理論

 先刻来、第二信号系理論を自己に媒介する必要――というようなことを申してまいりましたが、それは、この理論のどういう側面についてであるのか、ということなのです。ひとくちに第二信号系理論云々といっても、さまざまな体系的側面をそれは含みこんでいるわけなのですから。それに、これは僕自身のことなのですが、大脳生理学についてのかなり専門的な知識がこちらにないと、それの実験の成果も、そうした実験成果の理論化によってうちたてられた見とおしや予見も、文芸学や国語教育の理論に組みこめない、というふうなことだと、これは最初から話にも何もならないからです。が、申すまでもありません。国語教育の基礎科学にとって直接 必要なのは、それのコミュニケイション理論の側面にほかなりません。それは、もともと、「ことば」の機能の生理学的基礎をさぐる研究理論なのですから、そういう基礎的な面に対するこちらの知識なり理解が深ければ深いに越したことはありません。しかし、そのこととあわせて、或いはそのこと以上に(国語教師にとって)必要とされるのは、「ことば」の社会的意味としての伝え伝え合い の機能に対する理解であります。
 大事なことは、そこにつかみとった知識を固定化させないようにすることでありましょう。たえず新しい実験の成果、その研究報告に媒介されて、自己のもつ現在の理解――理解の仕方そのものをコントロールし更新していく、という姿勢や構えが、むしろそこに必要とされる当のものなのであります。さらにつけ加えて註記しておきたいと思うのは、条件反射の「反射」ということば(概念)が、「反映」や「反省」というのとシノニムである、という点についてです。むろん、それぞれにニュアンスの違うことばです。しかも、この三つのことばは、reflexion という一つのことばの、それぞれの文脈に応じた三つの訳語にほかなりません。
 ことば遊びみたいなことになりますが、たとえば「反省」というのは、ゆがんだ「反映」を改めて、まともな「反映」を実現させるために、別個の条件刺激をそこに組み立てて、別個の「反射」を成り立たせることだ、というふうに言ってみることも出来そうです。
 で、そのことがハッキリすれば、この第二信号系理論が、構造的理解 としてはすでに信憑性ある仮説として一般化している弁証法的な反映理論・認識理論を、それの機能的理解 の面において検討をくわえ、裏打ちするものであることも明確になってくるかと思います。また、そのことがハッキリすれば、この理論を、反映論そのものと原理的に矛盾するような言語理論や文学理論、教育理論などと折衷させようという企てが、どんなにバカげたものであるかも、しぜん明らかになってくると思うのです。


   コトバ体験を成り立たせる授業を

 「ことば」がもたらすものは、すでに見てきたように、人間に固有の第二信号的条件反射・反映(ときとして反省)にほかなりません。人間に固有の反映体験――それを、つまり、理性的体験といっていいかと思います。《コトバによる理性的体験》であります。それを、ひとくちに言って、《コトバ体験》であります。自分の授業が真実このコトバ体験を成り立たせるような、学習指導の筋道を選びとっていたかどうか、ということが、だからして、おそらく教師その人の反省の着眼点になってくるのだろう、と思います。コトバ体験――それは、「ことば」が「ことば」としての機能において(つまり第二信号的条件刺激として)機能し作用した場合にだけ成り立つわけなのであります。それをコミュニケイションということでいえば、コトバ体験が成り立つのは、表現の受け手において第二信号的条件反射・反映が実現したような場合にかぎられる、ということであります。むろん、それは、送り手が同時に受け手であるような、一人の人間の内側(子どもたちの内部)における伝え、伝え合い(内部コミュニケイション・思考)の場面での受け手への反映、ということを含めての話であります。それを含めて、というより、その点がむしろ軸になるわけですが、内語のはたらきに支えられた、そういう内部コミュニケイション――思考ということが活発にできる子ども、考える子どもに、目の前の子どもたちを育ぐくむような指導過程を実現しつつあるかどうか、ということなのであります。
 考える――それは、感じる ということを含めての考える、思考するという意味であります。いわゆる感受性において感じるということは、感性的というか、たんに運動感覚において感じるというのとは別のことです。それは、この第二信号系理論からすれば、理性的体験としての感情体験を軸とした思考活動、すなわち感情を分かつ という意味の思考活動にぞくしています(本誌・28所掲の拙稿参照)。つまり、どんな刺激に対してもいつも同じ反応をくり返す子どもではなくて、新しい刺激に対しては、それを自分の内側にあたためて考えることで、その刺激と見合うような反応・反射をつくりだすような子どもに、目の前の子どもたちの《人間》を変革していかなければならないわけです。理想をいえば、子どもたち自身の主体内部における《内なる送り手》が、つねに新しい刺激を発信できて、それを片側の《内なる受け手》がまっとうに受信することによって自己変革の道筋をあゆむ、というふうなことになれば一番いいわけです。いや、先へ行ってそういうことが実現するようになるためには、今この時点で指導の道筋をどういうものにしたらいいのか、ということなのであります。


   「ことば」の論理

 与えられた紙幅も、あますところ数枚です。そこで、文学学習の面にしぼって上記のことを考えてみると、次のようなことになるかと思います。いま行なわれている、読解指導としての 文学学習の基本的な誤りは、もともと多義的 な表現性格をもつ文学――文学作品の表現を、例の読解の指導の手順をたどって、それを一義的 に理解させようとしている点に見いだされます。或いは、(まったく同じような考え方を僕はしているものですから、竹内好氏のことばを援用しますが)「いまの教科書や、それから教え方の一般的な通弊は、全部わかるという建て前になっている」点に求められます。そのことが、「文学についての真の理解を妨げ」「逆に文学をわからなくさせる」という結果をつくり出しているわけです。桑原武夫氏にいわせると、それは「わからなくするんじゃなくて、嫌いにする」のだ、というのですが、つまりその双方なのでして、わからなくするし、だから時として嫌いにもしてしまうのです。読解指導方式の文学学習では、文学学習が文学学習にならない、ということが事実としてあるわけです。まず、その点を反省することだ、と思います。
 文学・芸術の多義性というところへ話をもどしますと――それが多義的だというのは、もともと多義的なこの現実を、感情ぐるみまるごと につかんで表現するという点に、芸術プロパアな認識性格・表現性格の特徴がある、ということでもあります。したがって、その表現は(表現性格そのものからして)表現理解の個人差を予想したものですし、また、そこに表現される主題自体が多義的な性格をおびているわけです。この多義的な性格を欠いたとしたら、それは文学でも芸術でもないものになってしまいます。芸術の抽象・反映は、概念による概念への一本道の抽象としての科学のそれとは方向と性質を異にしています。それは、ひとくちに言って、多義性における象徴への反映・抽象であります。象徴ということが、つまり芸術の認識機能の核です。というわけは、この象徴化のはたらきによってだけ、それぞれのジャンルの芸術は、それぞれの媒材・媒体のもつ制約をこえて、事物(世界)をまるごとに――それをつまり芸術としてつかみとることも可能とされるからです。それは、「ことば」の規定性 の面を生かした概念的な意味把握とはディメンションの違った、感情を軸とする意味体験が、この象徴かという手段によって初めて実現されるから、ということでもあります。
 文学だけが、そこで例外であるはずはありません。文学もまた、その媒材である「ことば」の概念的抽象性をこえたところで、芸術としての資格をかちとることが出来るのです。「ことば」の融通性 をくぐりぬける方向での、感情まるごとの事物の象徴化によって、そのことが可能とされるのです。「ことば」の問題にかえしていえば、この規定性と融通性との「ことば」の論理が、読解指導方式のあの考え方には全然欠けている、ということです。僕自身の経験に徴すると、「読解指導」論者に向ってこの論理を口にしてみても、例によって「ことば」ということを単語語い の狭いわく組みでしか理解しようとはしない。うまくないな、という感じです。


   事例を中心に

 先ごろ、『屋根の上のサワン』を教材とした、某中学校の研究授業に立ち会わされたのですが、その教室では、この作品の主題は何かということで討論が行なわれていました。生徒たちの討議はなかなか面白かったのですが、あと二、三分で終業のベルという段になって、先生がいきなりこんなことを言いだしたのには、呆っ気にとられました。「大体意見がまとまってきたようだが、それを、ひとつ二字か三字の短いことばに、まとめてみないか。先生はね、『サワン』の主題は、二字のことばであらわすと一番ぴったりするように思うがね。さあ、だれかどう?……水野さん、きみは、どう思いますか」
 この先生のいう「二字のことば」というのが「愛情」とか「友情」ということばであることを、僕は、水野さんという女生徒の発言とそれに対する先生の反応――目を細めてニッコリとしたその表情で知りましたが、内心ギクリときました。
 こういう授業の仕方が、つまり子どもたちを無感動な人間――感動すべきものに対して感動することを知らない、感情の枯渇した人間にみちびいてしまうのです。いいかえれば、「ことば」が第二信号系として機能しないような、鋳型にはまったものの考え方、感じ方しかできない人間、どんな刺激に対しても、いつもきまりきった反応しか出てこないような人間、それが予測される子どもたちの未来像だ、ということなのですが。このようにして、読解指導方式のわく組みから国語教育を解放することは、子どもたちの現在と未来に対する、教師その人の責任の問題であるように、僕には思われるのです。
 〈国立音楽大学教授〉      
(文中、今日の人権感覚に照らして適切でない表現があるが、文章の歴史性を考慮し、そのままとした。) 
熊谷孝 人と学問熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より