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明治図書出版刊「教育科学・国語教育」35(1961.11)掲載---
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(<特集「教材研究とその批評」>に、【研究】として、福田隆義「おかあさんの手のひら」、川越怜子「屋根の上のサワン」、および【批評】として、熊谷孝「教材化ということ」、滑川道夫「自主的な教材研究の身構え」が掲載された。)福田氏の報告を読んで T 日常的な教室作業のための教材研究 この報告から連想されてくる教室のイメージは、ふだんのままの(というのは、ありのままの)あの教室風景です。一見むしろ、雑然とした感じを与えるに違いない、デイリーな教室の姿であります。 ということは、いいかえれば、福田氏のこの教材研究が、デイリーな教室の作業のため、きわめてデイリーな(また、それゆえにこそ実際的で実践的な)研究にほかならないということなんであります。氏のいっさいの関心は、「目の前の子どもたちと、教材(――作品本来の表現?)とのズレ」を埋めることに向けられている。作品の教材化が、そこでは、つねに子どもたちとの(氏が心にあたためている学級の子どもたちとの)、いきいきとしたダイアローグにおいて進められています。 僕は思うのです。しんそこから、そう思うのです。こういった調子の日常的な教育実践のための教材研究が、もっとどしどし本誌のような教科専門誌などにも掲載されるようにならなくてはウソだ、というふうに――。ということは、裏を返せば、研究授業用・見世物授業用のソツのない、紋切り型の教科研究が今は多すぎる、ということでもあります。 それは、手がこんでいればいるほど、読んでいて息苦しくなってくる。教師の予定した授業の枠組みにピシッとはめこまれて、身動き一つできないでいる子どもたちの姿は、哀れというか痛々しいというか――あれは児童虐待防止法違反です。 U 作品の教材化 この報告者は、ところで作品の表現分析を行なう際に、ただの印象やカンによる判断をつとめて避けようとしている。つまり、資料的に実証し得る範囲のことがらに、その発言を手がたく限定しているのです。ということは、自分の論旨を裏付けるに足るだけの資料の用意がそこにある、ということでもあります。 これはその一例ですが、『暦』のいねと、この作品の『わたしのおかあさん』との、適切な一コマの情景をえらんでの対比などは、綿密な資料研究の裏づけによる作品の教材化のプロセスを通して、みちびかれた整理にほかなりません。 指導の目のつけどころも、だから本当につかんでいる、という感じです。「作品の本質に肉薄する」ために、「子どもたちに、どういうとり組ませ方をすればよい」のか? つまり、どういうとり組ませ方をすることが、この作品を教材として再構成したことになるのか、という点についてですが、福田氏はそれを、 (イ)「とにかく働くことがすきな、おかあさんの手でした。」 (ロ)「おおむかしからきょうまで続いているのです。」 という二つのセンテンスを、表現理解のキイ・ポイントとしておさえて教材化の表現をはかろう、としています。無理のない、適切なおさえ方になっている、と思うのです。というのは、それが子どもたちの鑑賞体験をくぐって探ぐり当てた、表現のヤマになっているからです。 (ハ)「おかあさんは、時々、自分の手をながめて感心していました。」 というセンテンスなども、作品本来の表現からすればキイ・ポイントになるわけだが、しかし今の「わたしの子どもたちには」この表現ではキメ手にならない。だから、こういう個所は流して扱うつもりだ、という意味のことを氏は語っていますが、そういう扱い方をしてこそ、この作品が教材 になるのだと思います。 作品を教材化するというのは、ある意味からすれば、子どもたちの発達と体験のありようにそくして、(しかも、その発達をうながし体験の仕方を変革するために)作品の表現を再構成することなのであります。作品の表現には、現在の子どもの鑑賞体験からしては、つかめないところがあるからです。(そこで、たとえば、「(イ)や(ロ)の文によく注意してもう一ぺん初めから読み返してごらん」というような教師の指示は、それとして作品の再構成であり教材化だ、ということになるでありましょう。誤解を避けていえば、再構成するというのは、文章を書きかえる、というような意味ではありません。) 作品をこんなふうに再構成することが、そしてまた同時に、教師にとっては、指導の手順を考える とか組む、ということにもなるわけです。またその意味では、作品の表現を再構成しつつ、それと見合うかたちで指導の手順を組むことが作品の教材化ということだ、と言ってもいいかもしれません。 V 確認し合いたいこと ところで、氏の文章のいい回しの中に、誤解をまねくおそれのありそうな個所が二三あるようです。その一つは、「わたしの作品理解の線まで一律に子どもたちを引っ張っていこう」とは思っていない、と語っておられるような点です。子どもたちに無理じいはしない、消化不良をおこすようなまね はしない――という趣旨であることは、わかるのです。問題は、その先です。 その線まで引っ張っていければ悩みはないのだが……という含みといっしょに、教師の表現理解(理解の仕方)のほうが、子どもたちのそれよりつねに正しい、といった何かそうした考え方(観念)がそこに感じられなくはないのです。額面どおりに読みとれば――の話であります。 で、子どもたちと話し合う、考え合うということが、教師が予定した理解(結論)の枠組みに、生徒たちの理解を「自主的」にみちびくための、形だけの話し合い、考え合うポーズというのでは、うまくないように思うのです。上記の引用の部分がそういう印象を与えている、というのではありません。報告全体の調子にそういうものを感じさせる何かがあるために、その部分がとくに目につく、ということではないかと思います。 ともかく、教師にも未知のことがらがあるはずだ、ということ。それが何であるかが自分に意識されている場合と、そうでない場合とあるわけですが、そのいずれにせよ、そういう未知を既知に変えていく手がかりを子どもたちとの話し合い(子供たちの発想・発現)に期待するという構えが、教師その人に対して求められるわけなのであります。つまり、また、そういう構えでの作品の再構成――教材化が望ましい、ということなのであります。 また、「おかあさんのやさしかった手……これは(子どもたちが日常経験していることだから)指導も助言も必要はない」といしておられる点ですが、果たしてそうでしょうか? 作品の表現理解への導入(突破口)として、当人たちがわかったつもり になっている表現部分を選ぶ、というのだと了解できるのですが。 これは一例ですが、上記の表現部分は、それの本筋のところでは子どもたちに理解できない、と氏は語っておられます。(ハ)の表現がつかめないということは、ところで(イ)や(ロ)の表現も、やはりまだ本当につかめるようにはなっていない、ということだと思うのです。作品本来の表現のディメンションではつかめない、という意味です。 いいかえれば、(ハ)の表現が、氏の期待されるような次元でこの子どもたちに理解されるようになった時は、(イ)や(ロ)の表現のさし示す意味も、子どもたちにとって、やはり、全然別個のものとして映ってくるようになるか、と思われます。つまり、それと同じことなのです。この「やさしかった手」のさし示す意味も、それは経験があるから無条件にわかる、というようなものではなさそうです。いや、わかる のです。ただ、そのわかり方が問題なのです。 だからして、こういう「わかりきった」表現部分についても、やはり指導や助言が必要になってくるのです。作品本来の表現と見合うような理解の仕方(意味体験)を、そこにみちびく足場をつくるために――であります。子どもたちの明日のために、そういう足場をコトバ体験として用意することが、じつは国語科プロパーな任務にほかならないでありましょう。 「作中のおかあさんを見つめさせる」ことで、自分たちの母親に対する見方を変えさせるということが、この教材を扱う究極の目標であるようないい方を福田氏はしておられますが、だからして少し不用意ないい方になっているのではないか、と思うのです。それが国語の授業である以上、子どもたちを最後にはコトバに帰り着かせなくてはなりません。(1)事物がつかめるようにコトバの訓練を行なう、と同時に、(2)事物がつかめるようになったところでコトバにもどる、という操作が、(3)より高次のディメンションでその事物がつかめるようになる足場を、コトバ体験としてそこに用意することになるのであります。それは、いわば(コトバ)→←(事物)という関係であります。 (コトバ)→←(事物)という、この関係・関連をおさえて、作品の再構成の仕方を考え指導手順の組み方を考えていくならば、この作品の教材化は、氏がこの報告において示されたものとは幾分ニュアンスの違ったものになってくるのではないか、と思われます。たとえば、(イ)(ロ)の文と(ハ)の文との表現(および表現理解)のダイナミックスについて、上記に指摘したようなニュアンスの違いが、そこに生じてくるように思われるのであります。 川越氏の報告を中心に これも、デイリーな教室作業のための実践的な教材研究であります。相手は中学三年生、さすがに福田学級の子どもたちよりは経験の幅は広い。しかし、生活体験や鑑賞体験の仕方そのものが、福田学級の子どもたちが深まりつつある方向に深まっているかどうかは即断しかねる。「持ち合わせの常識だけでたかをくくって」いるようなところがないわけではない。が、指導の仕方では「はっとして」考えなおすような所はあるし、またそうなれば「みんなの中から新しい意見が出てくる」ようなクラスの雰囲気でもあるようです。 川越氏の仕事は、そういう生徒たちの現状を動的につかんで、そういう生徒たちのために、『ジャン・クリストフ』や『道程』その他とのつながりにおいて『屋根の上のサワン』を教材化することです。まず、「手近な指導書をひもとく」。しかし、指導書はほとんど何ものも与えてはくれない。ばかりか、それは「ナンセンスに近い」見解によって満たされている。(氏の指摘されている個所についていえば、この評価に僕も同感です。)そこで、同じ作者による「同時代同系列」の作品である『山椒魚』との対比のなかに、(作者その人の回想談や多くの評論家の考察を参照しつつ)氏ご自身の自主的探求が進められていくことになります。 その作品研究の進め方は、文学史の方法を実践的にこなしきっている人のそれであります。初期のこの二つの作品の共軛点と異質点を明らかにしながら、そこに後期の井伏文学への発展のモメントを探ぐり当てているような点、ひとつの作家論になっています。 もっとも、そこに提出されている個々の見解には、僕としては賛成しかねるような点もないわけではありません。が、それはそれとして、(1)「井伏の頑強な孤独」が、「軽く時流に迎合せぬ自己凝視の誠実さ」をいいあらわすものであり、また、(2)この作品から感じられる「満たされない何か」は、同時にこの実人生そのものの「満たされぬ何か」につながるものであるとする評価は、おそらく動かぬところだろう、と思います。 《作品の展開に沿って》の項に示されている、作品の教材化のプロセスも、またその一コマが光っています。上記、作品分析の透徹した深さが、ここではっきりものを言っている、という感じです。後期の井伏文学についてかちえた見とおしが、この作品の表現の再構成・教材化においても、かなりよく活かされているように思うのです。 が、欲をいえば、――『漂民宇三郎』なら『漂民宇三郎』のストオリーを紹介しながらでも、それのどこか適切な表現の一コマを示して説明を加える、というような指導をそこに用意することで、この作品の理解をいっそう確かなものにすることが出来るように思うのです。僕がここで適切な一コマとして考えているのは、たとえば大塩平八郎の乱を話題とした、ミヒナレと宇三郎との問答の部分などであります。また、soldier を足軽というふうにしか理解しえない、漂民たちの姿 etc.であります。)(ママ) ともあれ、それは、見てきたように手がたい報告なのですが、しかし部分的に教材化が不十分だという印象を与えているような点がないわけではありません。たとえば、この作品の「文学史上の役割」などについては「中三の教室では扱いきれない」といったいい方に終っているような点です。 扱えない と言っているのではなくて、扱いきれない と言っておられるわけなのだから、一おうそれで尽くしていることにはなりましょう。が、しかし、やはり、(1)こういう面はこんなふうな仕方で扱えるが、別のこういう面は扱えないとか、また、(2)不充分にしか扱えないような面については、将来にそなえて、これこれしかじかの手がかりを与えておく――というように手順をつけないと、この作品を充分に教材化したことにはならないのではないか、と思うのです。 ところで、実をいえば、この作品本来の表現をある程度確実につかませることに成功したということは、同時に、中三の生徒の現状と見合う形で、文学史的な扱いがそこに成立した、ということになるのだと思うのですが、どうでしょう? また、「生きていくことの悲しみ」を、苦労しらずのこの少女たちに「わからせることは出来ない」として投げておられる点ですが、氏が期待されるようなディメンションにおける理解を一挙に成り立たせることは不可能であるとしても、この生徒たちの明日のために、なんらかの理解の足場を用意できないものか――と、そう思うのです。 で、もし、そのことさえもが不可能であるとすれば、同時に「サワンのはばたき」やその「強い憧憬」に対する生徒たちの共感(理解)も、ごく底の浅い薄手なものに終らせるほかないように思われます。(前項・V参照)しかし、実をいえばこの作品を中三向けとして教材化することは至難のわざです。教科書編集者の文学観・教材観のコンベンショナリズムが、むしろ、そこに批判されていいように思います。 おわりに、ひとこと――。この教材を扱う目標・目的として川越氏が挙げておられることがらに、上記福田氏の場合と同様の説明不足なものを感じます。それは説明不足であると同時に、自己の実践の意識化・理論化の仕方に問題がありそうな気がします。福田氏の場合を含めての話であります。
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‖熊谷孝 人と学問‖熊谷孝 昭和10年代(1935-1944)著作より‖熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より‖熊谷孝 1955〜1964(昭和30年代)著作より‖ |